世界を救う読書

ビジネス書から文芸書までさまざまな本を通して世界の見方を考えるブログ

先人達の財産を食いつぶすだけの日本人の"おもてなし"は自己満足でしかない。

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東洋経済オンラインで日本の観光業に関するちょっと面白い記事を見つけました。

 

 

この方の主張によると、最近日本国内でやたらと日本を褒めちぎる外国人観光客の反応を取り上げる傾向があるが、実は海外でそこまで「日本凄い!」と思われている訳ではない。

 

日本の良いところを海外にアピールしたいのであれば、外国人観光客をしっかりもてなすような方策を考えるべき。

 

ということです。

 

皆さんはどう思われますか?

「全くその通り!」でしょうか。

それとも「バカ言ってんじゃない。本当に日本は凄いんだよ!」と思われますか?

 

 

私はというと、前半の部分のさらに半分は同感です(笑)。

別に中間を取ったわけではないですよ(;´Д`)

 

 

確かにここ2〜3年間くらいでしょうか。

やたらと外国人観光客が日本を褒めたり、日本で素晴らしいと思った体験を紹介する本やテレビ番組が多いように思います。

 

日本嫌いな日本人が多いこの国において(笑)、こういう日本の良いところを取り上げるのはカウンターパンチ的な意味合いで良いことだと思います。

ですが、それにしてもやらと褒めすぎに偏っている傾向は感じます。

 

私のようなひねくれ者はそういう状況が目に余ると

 

本当に海外の方がどう思っているかを考えるのではなく、「外国人からこんなに日本は良い国なんだ」と、“そう思われたい日本人の欲求”を満たすためのヤラセなんじゃないのか?

 

と思ってしまいます。

ひねくれ者ですね・・・すみません(笑)。

 

そういう意味ではこの方の主張の「前半の半分」には同意します。

 

とはいえ。

後半の「もっと外国人観光客に日本の良さを伝える努力をするべき!」というのには、ちょっと違和感を感じています。

 

実際に安倍政権になってからの日本政府の「観光業」を日本の主力産業にするべき! くらいの勢いで、「観光業振興」が凄まじいです。

しかし、「海外観光客を日本に呼び込む」というのは本当に正しい方策なのでしょうか?

 

国内の観光客を呼び込むならまだしも、外国人観光客を呼び込む観光業というのは、はっきり言って「水物」でしかありません。

外国人観光客の量は、日本国内のサービスの充実の前に外国通貨との為替状況や外国の景気に左右されざるを得ません。

従って、国家の安定した産業として考えるのは難しいのです。

 

また、外国人を呼び込む観光業に頼るということは所詮外需に依存した経済体制を強化するということでしかありませんので、国際政治や貿易において他国との関係性にも影響を及ぼし、時には必要な政策がとれなくなるという危険があるのです。

 

誤解がないように書いておきますが、私は外国人が日本に観光に来ること自体は良いと思うのです。「外国人は来るな」と言っているのではありません。

 

あくまで国民経済を盤石にするのであれば、日本国民に向けた観光サービスが充実し、品質が向上させることが第一優先。

それによって国民の所得をまず確実に、安定的なものするための政策を打つ。

その結果として、外国人を呼び込むことに繋がるという形でなければならないはずです。

 

しかし、現実に日本がやっていることは真逆です。

日本語より英語やフランス語、中国語、韓国語などの言語を優先し、外国人向けにセットアップされた観光マニュアルなど、日本人を蔑ろにした施作ばかりが目立ちます。

むしろ「これぞおもてなし」だとばかりに。

 

その結果、様々な観光地で外国人客ばかりが殺到し、肝心の日本人自体が寄り付かないような状況を生み出しています。

 

結局、今の日本は自分たちの祖先たちが蓄積した文化遺産を“消費”することで外貨を稼ぎ、それを自分たちの国民には還元しないという

 

「カネのために文化を売る」

 

という行いを成長戦略という言葉でごまかしているに過ぎないのです。

 

そのような「外貨取得のための観光事業」が果たしていつまでも外国人を引きつけることができるでしょうか?

 

私はそのような行為が本当に「おもてなし」だと思えません。

外国人観光客を呼び込み外貨を得るために、自国の文化を切り売りするような国が他国の文化を味わいに来ている外国人をおもてなしできるとはとてもおもえない。

 

結局それは「おもてなししてる感」を演出している自分たちの姿に酔っているだけの自己満足ではないかと私には思えてならないのです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

庶民のおばちゃんの方が東京大学名誉教授よりも「災害」という現実を理解している

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さて皆さんご存知の通り、この週末関東〜東北地方に台風13号が接近・上陸する予想です。

先月西日本を襲った台風がもたらした大災害の記憶に新しい中、猛烈な雨風をもたらす可能性のある台風というの上陸に、進行予想コース周囲の住民は戦々恐々としているようです。

 

テレビやネットのニュースを見ると、その話題が一番ホットになっていますが、とあるN◯Kニュースの中でインタビューに応えていた“いわゆる普通のおばちゃん”が

 

「西日本の豪雨とかを見てたら、もう何が起こるか分からん。

今までは想像できなかったとか、そんなのばかりだ。

(身を護るために)やれることは何でもやっておく。」

 

と仰っていました。

 

いや、もう全くもってその通りでございます。

 

以前の投稿にも書いたように、私は先月の西日本豪雨の時に福岡に帰省し、とんでもない目に遭いました (急用ができたのでたまたま帰省したのです。狙って帰ったのではありませんよ(笑))。

 

最近の異常な気温もそうですが、ここ数年の気象状況は今までの経験が通じないほどの出来事が次々に起こっています。

国民の命や地域を守るためには「やれることは何でもやる。」つもりでなくては、この国難は乗り切れません。

 

 

が、しかし。

これに反対の意見を述べる人が世の中にはいるのです。

どういう反論かと言うと

 

「日本は財政赤字だから公共事業なんてやるお金はない。

自然災害を言い訳にして支出を増やしたら、日本は財政破綻してしまうぞ。」

 

だそうです・・・。

 

つまり「日本は財政難なんだから防災に回すお金はない。それで人が死んでも仕方ない。」と言っているのです。

 

この発言をしているのが誰であろう

 

財務省財政制度等審議会会長にして

東京大学名誉教授である吉川洋

 

です。

 

お、恐ろしい・・・。

“国立大学”であり、日本の最高学府でもある東京大学

その名誉教授であり、なおかつ財務省の財政のあり方を審議する会の会長である人が

 

「国民の命よりカネが大事!!! カネ、カネ、カネ!!

国民が死んでも知らんわ!! カネがないんだわ!!!」

 

と主張しているのです。

 

 この吉川氏の主張に対しては、下記のサイトにて中野剛志氏が素晴らしい反論を掲載していらっしゃいますので、興味がある方には是非ご覧ください。

 

 

そもそも自国通貨建ての国債を運用している日本政府が破綻することなど、理論的にあり得ません。

それどころかいわゆる“異次元金融緩和”により、政府が返済しなければならない借金は猛烈な勢いで減っています。

日本の借金1,000兆円超えなどと言いますが、その40%以上は日本政府の子会社である日銀が保有しているため返済する必要などありません。

 

そんな中でなぜ国民の生命を危機にさらしてまで、財政を健全化させなければならないのか?

 

さらに言えば、吉田名誉教授は

 

「デフレが収束し経済成長が回復すると、ただちに政府の利払い負担が国税収入を上回る可能性が高い」

 

とまで主張しています。

つまり「日本はデフレを収束させてはならないし、経済成長させてはならない」と言っているのです。

 

何なんでしょう。

 

あまりに頭が良すぎて逆に一般国民には理解できない

 

ということでしょうか?

 

いや、違うでしょうね。確実にwww

勉強部屋と自分の思想にこもってしまい過ぎたため「災害」という現実が見えなくなっているのでしょう。

オンラインゲームにはまっている小中学生と同じレベルなのですよ。結局。

 

経済学者、その中でも主流派と呼ばれる新古典派経済学者は口を開けば

 

「日本は財政破綻する! もう明日にでも破綻する!」

「公共事業反対!!」

 

と主張しますが、財政破綻を避けるために必要な公共事業を削った結果、国民が死んでも構わないということでしょうか。

 

国家の果たすべき役割とは何か?

そして、そもそもお金とは何のためにあるのか?

 

私達国民自身がそのことをもう一度考え直さなければならない時が来ているのではないでしょうか。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

「保護主義 vs 自由主義」という善悪二元論が既に思考停止の状態である

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アメリカにトランプ政権が樹立されて以来、どこのメディアでも

 

保護主義から自由主義を守らなければならない」

保護主義との戦い」

自国第一主義を許すな」

 

などと保護主義自由主義、あるいは保護貿易自由貿易の対立を煽る論調が席巻しています。

そして、その内容はもちろん「自由主義 = 善」「保護主義 = 悪」というお決まりのに軸対立です。

 

しかし、このような「Yes or No」「A or B」という2つの選択肢のどちらかを選ばせるというのは、「他の選択肢がある」という思考を停止させ、自分に都合の良い結論を引き出そうとする時の常套句なのです。

 

実は、そもそも保護主義か、自由主義かというのはどちらが正しいとか、あるいは対立する概念だとか、そういうものではないのです。

これらは経世済民、つまり「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」という本来の意味での国民経済における、方策というか戦略の違いでしかありません。

 

どちらの方が自国にとって有利な立場を築けるのか?

どちらが国力を高め、国民を救うためになるのか?

 

国際状況や国内状況を鑑みながら、その目的を果たすためにどちらが好ましいかを判断がまず先にあり、それに沿った政策として保護主義的な方策と自由主義的な方策、どちらが良いのかを戦略的に判断するのが正しいあり方です。

 

自由主義は自由だから正しい。保護主義は自由を制限するものだから間違っている。」

 

それはただのイデオロギーに過ぎません。

例えば

 

・自由だけどトマス・ホッブズがその著書「リヴァイアサン」で述べたような「万人の万人に対する闘争」という自然状態での闘争が繰り広げられるような混乱した世界

 

・「多少の制限はあるけど、個人生活のレベルで自由が保証されている」。国家権力や国際社会によって秩序立てられた状態で世界

 

 どちらが良いでしょうか?

 

身の危険を感じ、日々の生活が安心して送れないような状態であったとしても“自由というだけで素晴らしい”・・・そこまで自由に命を懸けられますか?

 

そこまでアナーキーな方ももしかしたらいらっしゃるかもしれませんが、そこまで極端な自由至上主義の方はまずいないと思います。

ほとんどの人は、自由をある程度制限することによって実現される秩序だった世界を望みます。

 

であれば、やはり「自由」そのものに価値があるのではなく、あくまでそれによって実現される社会の有り様が目的であり、そのためにどの程度のバランスで自由と制限を実現するか? を考えるのが、真っ当な考えではないでしょうか。

 

 

例えば、WTO(世界貿易機関)という組織をご存知でしょうか?

世界の「自由貿易」を推進するための機関ですが、これが発足する1995年までは「GATT(貿易と関税に関する一般協定)」という協定が世界貿易の核を担っていました。

 

このGATTWTOと決定に違うのは、自由貿易の対象が工業に限定されており、農業関税、サービスや資本移動の自由化には一定の制限が掛けられていたことです。

またGATT には、自由化の例外規定や緊急避難的な措置(セーフガード)が数多く設けられており、各国政府は貿易自由化による国内の急激な変化を避けることが可能でした。

 

日本が戦後から高度成長期の繁栄を享受できたのは、このGATTでの秩序立てられた自由貿易の最中でした。

もちろん、それは日本に限った話ではなくいわゆる欧米の西側諸国でも同じことです。

 

ところがWTOの発足以来、その土台が崩れ始めます。

GATTでは制限されていた農業やサービス産業も自由貿易の交渉の対象となりました。

それに加え、国内制度の各国間の文化に基づく違いも「非関税障壁」という名の下に“排除すべき対象”として交渉のテーブルに載せられ、各国の金融、投資、衛生、政府調達、知的財産権といった国内制度の画一化が進めました。


その結果何が起こったか。

グローバリズムという制度の画一化が浸透し、国内制度をそれぞれの国が自律的に決めることができなくなりました。

これによって、一部のグローバル企業や富裕層はますます富を得ることができるようになった一方、大多数の労働者は不利益を強いられました。

さらに、金融市場は不安定化して危機を頻発させるようになり、格差は拡大し、国民生活が脅かされるようになったのは周知の事実です。

 

トマス・ホッブズのいう“自然状態”という自由競争がより先鋭化したことで、従来の秩序だった自由の中で得ていた国民の生活が著しく脅かされたのです。

 

その事実を考えてもなお「保護主義 = 悪」「自由主義 = 善」という善悪二元論が正しいと思うでしょうか?

今回私は通常考えられているのとは逆の、保護主義の良い点、自由主義の悪い点を書きましたが、それはある意味「敢えてのカウンターパンチ」です。

別にだからと言って「いつどんな時も保護主義が正しい」などというつもりはありません。

逆に保護主義によって、国民が不利益を被る場合もあるでしょう。

 

私が言いたいのはあくまで

 

保護主義自由主義かは戦略に応じて使い分けるべきであり、そこに善悪という価値判断を持ち込むべきではない

 

ということです。

 

もっとぶっちゃけて言えば、

 

保護主義だろうが、自由主義だろうが、経世済民が達成されるのであればどっちでも良い

 

ということです。

 

保護主義 vs 自由主義」という誤った対立軸で答えを出そうとすると、本来最も重要である「国家が果たすべき役割」自体を見失ってしまう可能性があるのです。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

 

TPP、EPA、そして一帯一路。すべては”現代版帝国主義”である。

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さて、今日のお題は皆さんご存知(?)中国が推し進める「一帯一路構想」についてです。

 

以前、TPP交渉がアメリカの離脱により難航していた時期、特に企業団体では前のめりに「日本も参加すべきだ! バスに乗り遅れるな!」と一帯一路構想への参加を促す声が強かったと思います。

 

ところが最近TPPが曲がりなりにも締結されたせいか、あるいは「アメリカが中国と貿易戦争に発展しかねないから」なのか分かりませんが、最近では「一帯一路構想は失敗する!」というこの構想を問題視する意見の方が強くなっているように感じます。

 

その理由になっているのは、例えば去年末に報道された下記の出来事。

 

欧州連合(EU)がジュネーブで開かれた国連人権理事会で、中国の人権状況を批判する声明のとりまとめを目指したにもかかわらず、加盟国のギリシャの反対で断念したそうです。

 

これは、中国が主要港への開発投資などを通じてギリシャとの経済関係を強化することで、EUという枠組みによって経済的に追い込まれたギリシャ”が、経済的援助をしてくれる中国の意向を汲み取った結果、このように中国の不利になるような声明に反対したのです。

 

ギリシャと言えば、ソクラテスプラトンアリストテレスなど様々な哲学者、政治学者を生み出した「哲学国家」ですが、彼らの哲学は「お金」の前に膝を屈してしまったようです。

 

ちなみに、ロイターによると、声明にはEU全28加盟国の賛成が必要で、EUが人権理事会で対中批判の声明のとりまとめに失敗したのは初めて。ギリシャ外務省は「特定の国に対する非建設的、ときに恣意(しい)的な批判は人権状況の改善を促すことにならない」と説明。

EUではギリシャのほか、同様に中国との関係強化を進める東欧の一部の国をテコに、中国がEUの外交政策に影響を与えることに懸念を表明しています。

 

 

もちろん、この一件だけではありません。

スリランカでは、対中債務の返済が不可能になった結果として、戦略的に重要な位置にある港湾を中国に99年間貸与することになりました。

 

一帯一路構想に距離を置くべきだという論説は、文字通り“中国のあくどいやり方”に対する批判なのでしょう。

 

私は別に中国のことが好きでも何でもありません。

仕事柄中国人にも知り合いがおり良い人が大勢いることも知っていますが、中国という国家に対しては正直ネガティブな印象を持っています。

 

ですので、一帯一路構想に距離を置こう、むしろ参加などするべきではないという意見が強くなるのは、むしろ良いことだと思っています。

 

・・・・が、気になることが一つ。

 

私はそもそもこの一帯一路構想とは「中国版帝国主義」であり、実はその本質においてアメリカやEU(特にドイツ)が21世紀に入ってから推し進めて来た、「自由貿易という名の帝国主義」(俗に言うグローバリズム)と変わらないと考えています。

(21世紀から進められたのかどうかは議論の余地があると思いますが、大体その辺りからということで)

 

確かにグローバリズムとは「自由貿易」という美辞麗句をお題目に掲げていますので、それを「帝国主義」と呼ぶことには違和感を感じる人もいるかもしれません。

 

しかし、帝国主義の本質とは、自国の圧倒的なストロング・ポイントを背景に、自国に有利な条件を他国と締結し、相手の国内市場を総取りし駆逐することです。

そのストロング・ポイントが時には経済力であり、時には軍事力であるというだけの話であり、それが経済による支配であれば平和的であり、軍事力であれば非平和的であるとかいう話ではありません。

 

実際、17〜18世紀にイギリスがインドに対し綿製品の貿易において、自国に圧倒的有利な条約を結ばせ、インド国内市場を駆逐したことでインドは膨大な数の犠牲者を出し、国土も疲弊しました。

 

経済による支配だろうが、軍事による支配だろうが、自国に有利な条件を他国と締結し、相手の国内市場を総取りし駆逐するという本質は何も変わらないのです。

 

確かに中国の場合、経済的にも軍事的にも周辺国との摩擦を招いているという点でより悪質かもしれません。

それは責められてしかるべきだと思います。

 

しかし、それだけであれば「中国はやり方がマズイ」という批判でしかありません。

そうなると、次は「もっとマイルドな、巧妙なやり方であれば他国市場を荒廃させてもOK!」ということになりかねません。

 

今回の中国のような手法であろうが、欧米の「自由貿易」という手法であろうが、物事の表層の部分にだけ着目し、「自国利益のために他国を駆逐する」ということは許容してしまうような国際社会のあり方。

そして、それを「自由競争」「自己責任」などという言葉で追認しようとする考え方自体を今一度考え直さなければならないのではないでしょうか。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

新聞の役割とは客観性の高い事実の報道。彼らの主張など別に聞きたくない。

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今年の4月に行われた、小学校、中学校の全国学力テストの都道府県別結果が文科省より発表されたようです。

それについて各新聞が報じているのですが、中部圏のとある有力紙に

 

「新聞を読む子 正答率高く」と題し

「新聞を読む頻度の高い方が頻度の低い子供にくらべ、全強化で平均正答率が高かった」

 

とする記事が掲載されていました。

 

うーん・・・何でしょうね。これ。

この情報要りますか?

 

どうも「新聞を読んでいますか?」という質問に「ほぼ毎日」「週に1〜3回」「月に1〜3回程度」などという選択肢を用意して、それぞれを選んだ子どもの平均正答率を比較したそうです。

 

ですが、そもそも

 

「成績が良い子が新聞を読んでいる確率が高い」

 

のと

 

「新聞を読む子が成績が良い」

 

ってイコールでしょうか?

これ、全然イコールじゃありませんよね。

 

成績が良い子は確かにいろんな情報に触れようとしているのかもしれません。そういう意味では新聞を読んでいる確率は高いかもしれません。もしかしたら、ですが。

でも、だからと言って「新聞を読めば成績が良くなる」みたいな結論に結びつけるのは流石に強引だと思います。

 

そもそも成績が良いと言っても、毎日読む子と読まない子で正答率が10%くらいしか差がないようですが。

 

ある意味面白いというか、新聞社の哲学の無さを感じるのですが、新聞社などのマスメディアって自分たちの役割を「権力を監視する」とか言いますよね。

これは反権力・・・少なくとも権力からは適切に距離を取ることを意味している訳ですが、

 

そもそも「学力テスト」というのは、その時々の権力が「これからの社会を担う若者には、このような知識が知恵が必要だ」という「権力者の価値観に基づいた判断基準」によって製作されたテスト

 

な訳です。

 

いわば政治権力によって作り上げられた価値観や判断基準に適正に染め上げられているか?を測るものです。

※数学の理論はちょっと違うかもしれません。いわゆる数論は専門分野じゃないのですみません。

 

だとしたら、権力に距離を置いた思考や判断が求められる新聞が「新聞を読むと、権力に認められやすくなりますよ」と喧伝している訳です。

 

自己矛盾も甚だしい。

片腹痛いとは、正にこの事。

 

ただ、私はそもそも「メディアが権力を監視する役割を担う」というのが、正直胡散臭くて仕方ありません。

特に日本では。

 

国家権力を監視するということは、時には国家権力の敵に回るということです。

国家には時として「100年先の国民のために、現在を生きる国民に犠牲を強いる」という究極の選択を求められることがあります。

もしその選択に対して敵に回るとしたら、それは文字通り“命がけの仕事”になります。

 

果たしてそれだけの根性がある人間が日本の「サラリーマン記者」の中にどれだけいるのでしょうか?

10人もいたら凄いことだと思いますが。

 

 

私は正直そんな夢物語の役割をメディアには、これっぽっちも期待していません。

そんな事は土台無理だと思います。

 

私が考えるに、現実的なメディアの存在意義とは

 

1) 国内政治、国際政治、経済など様々な分野の問題を分析し、その存在を国民に提示すること

※当然そのためには「裏付け」という取材が必要

2) 取材に基づいた客観性の高いデータを提示すること

 

ではないでしょうか。

 

そして、(1)と(2)をベースにした上で、自社の意見を"独自の意見だと表明した上で”述べることが許される、その程度ではないかと。

 

しかし、残念ながら近年・・・というか、実は創成期からそうだったのかもしれませんが、メディアはその程度のことすらできなくなって来ています。

 

今回の記事のように自分たちの意見を表明するために、あるいは発行部数を伸ばすために読者が喜びそうな記事を書いていることがかなり多いように思われます。

 

もちろん「自分たちの意見を表明するな。黙って事実だけ書いてろ」などというつもりはありません。

また、どんな事象も「人間の眼」を通して観察し分析する以上、完全に客観的な事実を掲載するということもまた不可能でしょう。

必ずその記者や新聞社の価値観がその報道には含まれるはずです。

 

客観と主観、その狭間でもがきながら少しでも客観性の高い情報を読者に提供する。

それによって社会の意見に多様性をもたらし、より広く深い議論が世間で行われるように促す。

権力を監視するなどと大それたことではなく、それこそがメディアに求められる役割ではないでしょうか。

 

その意味では、今回挙げたような「新聞を読む子が全国模試の正答率が高い」などという

 

新聞を子供に教材として提供するように親に迫り、

子供には幼い頃から新聞を読む習慣を身に着けさせることで将来の発行部数を確保し、

新聞を読む子供は読まない子より賢いという偏見を植え付ける

 

ことを目的とした、本来のメディアの意義からは凡そかけ離れた自分たちの利益のために読者の印象を誘導するような利己的な記事を、「全国学力テストの結果」という純然たる事実を掲載するだけで必要かつ充分な記事に、どさくさに紛れて掲載するようなメディアとしての矜持を失った行為は厳に戒めるべきではないか。

 

私はそのように考える訳です。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

亡くなった人に逢える技術があるとしたらどうするか?

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突然ですが皆さんに質問です。

 

「ある人の精神をサーバーにアップロードしておくことで、その人の死後、遺族などがいつでもホログラフィーによって映像化された故人の姿と対面し、保管してあるデータに基づいて遺族と会話するサービスがある。」

 

としたらどうしますか?

 

「そりゃ、画期的だ! 是非アップロードしよう!!」

 

と思いますか?

 

それとも

 

「馬鹿じゃないの? そんなのただのデータじゃん(笑い)」

 

と馬鹿にしますか?

 

 

これを可能にする(かもしれない)のが「マインド・アップロード」という技術です。

AIやスパコンの技術、あるいはSF映画とかに詳しい方ならご存知かもしれませんね。

 

マインドとは精神。

アップロードとは今で言えばクラウドなどのサーバーに情報を格納すること。

 

つまり、「マインドアップロード」とは人間の精神をクラウドなどにアップロードすること。

より詳しく言えば、人間の「精神」を脳から取り出しクラウドサーバーに保管し、その機能を完全に再現することのできる人工的な処理システムへ移行する技術のことです。

これにより人間が考えることや望むこと、記憶していることをクラウドに永続的に保管することができるため、ある種の不老不死の代用品を手に入れることが可能となる。

そういう技術のことです。

 

ここ数年人工知能の目覚ましい発達が世間を騒がせていますが、そもそもの人工知能の目的の一つが人間の脳や精神をコンピューターによって人工的に再現することです。

したがって、脳の構造や人間の精神が成り立つ仕組みを研究することも人工知能研究の根幹の一つなのです。

 

そして、その人工知能技術の発達とスーパーコンピューターの発達により、このマインドアップロードの実現可能性が少しずつ見え始めています。

まぁ技術的な問題はもとより倫理的な問題もあるでしょうから、「理論的に可能だから、実現される」というほど単純な話ではないでしょうが・・。

 

ちょっと話は逸れるのですが、去年か一昨年のNHKスペシャルでそういった近未来の技術がどこまで実現可能になっているか?を探る番組がありました。

その中で今回の投稿の冒頭に書いたシステム、つまり

 

生きている内にある人間の考え方や価値観、人生経験などをサーバーに保管しておくことで、その人の死後、遺族などがいつでもホログラフィーによって映像化された故人の姿と対面し、保管してあるデータに基づいて「この人ならこういう受け答えをするはずだ」という想定で遺族と会話するシステムを構築することが可能になる

 

というシステムが実現されるかもしれないというトピックがありました。

 

いわゆる本来の「マインドアップロード」によって精神がずっと生き続けるシステムというのとはちょっと違いますが、遺族にとっては“亡くなった人に限りなく近い人工知能と話ができる”という意味で、ある種の不老不死を実現するシステムが可能、という訳です。

 

うーん・・・難しいですが、私はちょっと気持ち悪いというか「恐い」と思ってしまいます。大げさに言うと、人の死の尊厳を冒涜された感じがするというか。

少なくとも自分が遺族だったとしたら「そんな人工知能と話して何が面白いんだ?」と思うのではないでしょうか。

 

 

ただ、以前参列した葬式の時にお坊さんから

 

「葬儀や法事というのは死んだ人のためではなく、残された遺族・・・つまり生きている人達のためのものなのです。」

 

という話を聞いたことがあります。

 

その時は「なるほど。そういう解釈もあるな。」と思ったのですが、私の中でその話の今回のマインドアップロードの話がかなり共通性があるように思うのです。

 

葬儀や法事が死者のためではなく遺族のためにあるのであれば、“仮初だと分かっていても”マインドアップロードによって再現された死者と話をすることで救われる人もいるのではないかと。

 

よく人が友人などに相談することを「相談する人って実はもう結論出してるんだよね。背中を押して欲しいだけなんだよ。」とか言いますが、それと同じです。

あるいは日本ではあまり馴染みがないですが、西洋の教会の懺悔室で神父に自分の悩みや罪を告白する・・・それと同じではないかと。

 

話かける相手が誰であろうと「誰かに話をした。心の悩みを打ち明けた。」という事実がその人の心を慰撫することもある。

そうであれば、仮にそれが人工知能が生み出した人工的な姿・・・極言すれば単なる“データ”でしかない物に対して気持ちを吐露するというシステムがあっても何がおかしいのか?

 

もし自分が死んだ後、残された人がそれによって少しでも悲しみや悩みを和らげることができるのであれば、自分ならどうするか・・・・。

 

 

そこで皆さんに最初の質問をもう一度お伺いします。

 

ある人の精神をサーバーにアップロードしておくことで、その人の死後、遺族などがいつでもホログラフィーによって映像化された故人の姿と対面し、保管してあるデータに基づいて遺族と会話するサービスがあるとしたらどうしますか?

 

どうでしょうか?

 

考え方は人それぞれですので答えはありません。

それで良いのです。

 

ですが、もしかしたら私は「自分の精神をアップロードしておこう」と思うかもしれません。

少なくとも遺族のために自分の精神をアップロードする人のことを「馬鹿じゃないの? そんなのただのデータじゃん」と笑い飛ばすことはできないと思います。

 

とかく人工知能の研究というとその技術的な側面や経済効果などの話ばかりになりますが、私は人工知能研究の本質とはそこではないと思います。

今回の話のように

人工知能研究の本質とは、このマインドアップロード技術のように「人間とは何か?」「人間の精神を形作っているものは何か?」を考えることだと思うのです。

 

 

このブログを投稿している今日は8月5日。

もうすぐ日本ではお盆の時期がやって参ります。

今では「お盆 = 夏休み」としか考えないような風潮が感じられますが、本来亡くなった先祖をお迎えするための儀式です。

 

「法事は亡くなった人のためのものではなく、生きている人のためのもの」

 

その言葉をちょっと頭に入れて、「人の生死について」そして「人の生死を考えるとはどういう意味があるのか?」について考えてみるのも良いのではないでしょうか。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

日本の財政破綻があり得ない本当の理由

日本がデフレ不況から一向に抜け出せない最大の原因である、「日本は財政破綻する」論が全く嘘っぱちであることが、少しずつ世の中で浸透しはじめました。

 
 
「お金がない。財政破綻する」という妄想に基づいて緊縮財政
 
 
必要な政策が打てない
 
 
デフレ悪化
 
 
財政破綻するという妄想がさらに強化
 
 
という実に馬鹿馬鹿しいループ。
自分で首を締めていながら「首を締めているのは誰だ?」と叫ぶ喜劇。
 
それから逃れるためには良い傾向だと思います。
 
ですが、時々というか、よく日本が財政破綻す?わけがない理由を
 
「国の借金以上に民間に金融資産があるから」
 
と説明する人がいらっしゃいます。
 
財政破綻する!」という妄想よりは遥かにマシなのですが、うーん惜しい!残念!
これは分かりやすい理由ではあるのですが、この理由を元に日本は財政破綻しないと考えると、それはそれでやはりマズイことが起こるのです。
 
そこで今回は、まずこの理由で「日本が財政破綻しない」と考えると何がマズイのか。
そして、日本が財政破綻しない本当の理由について考えてみたいと思います。
 
 
まず、なぜ「民間の金融資産が多いから日本は財政破綻しない」と考えるとマズイのか。
なぜなら結局それは「今は民間資産が多いから大丈夫だけど、将来的に民間の金融資産が減ったら日本は破綻する!」ということになってしまうからです。
 
今は大丈夫だけど、やっぱりいつ破綻するか分からないじゃないか!という話にはなってしまうのです。
実際、そういう理屈で「日本が財政破綻しないと言っている奴は嘘つきだ!」と主張する人達がいます。
 
ですから、「日本が財政破綻するなどあり得ない」という結論は正しくても、その論拠が間違っているとややこしいことになるのです。
 
 
では、日本が財政破綻しない理由とは何なのでしょうか?
 
一つは日本の借金…つまり国債が日本円で発行されているからです。
歴史上、何らかの政治的意図で支払い拒否をした場合以外で、自国通貨で国債をまかなっている国が破綻した例はありません。
 
かつてのソ連やブラジル、ギリシャなどの財政破綻した国は、全て他国の通貨もしくはユーロのように自国に通貨発行権がない通貨で借金をしてしまったため破綻したのです。
自国で発行できる「自国通貨立ての国債」で国家が破綻することはあり得ません。
 
 
実はここまでの事は「民間金融資産が多いから破綻しない」と言っている人の中でも主張する人は多いです。
 
 
では、彼らはどこから間違えているのか?
 
それは「お金に対する根本的な理解がそもそも間違えている」のです。
 
そもそも彼らがなぜ民間の金融資産が多いから財政破綻しないと主張するのかと言えば、
 
「民間金融機関が所有している資産を政府に貸しているから」
 
と考えているからです。
 
分かりやすく言うと、貸す方(銀行や保険会社)の資金が借りる方(日本政府)の借金の金額より多いからということ。
つまり、仮に日本政府が返せなくなっても、金融機関がそれ以上の金額の資産を持っているから破綻することがない、ということです。
 
一見もっともらしいのですが、ここにお金に対する根本的な誤解があります。
 
一般的に、銀行というのは「国民や企業の預金を元手に貸し付けを行うことでお金を稼いでいる」と思われがちなのですが、実はこれは誤解です。
 
実を言うと、銀行がお金を貸しつける時には、単に貸しつける相手の口座に一億円とか、十億円とかって書き込むだけなのです。
それによって実際に貸付相手の口座には「一億円」とか「十億円」という金額が記帳されます。
 
これはどういう事を意味するかというと
 
銀行は預金を元手にお金を貸し付けているのではない。
逆に銀行が貸し付けを行うと預金が生まれる
 
ということです。
 
そうなると元手となる銀行の資金量は、貸し付けることができる金額の制約にはならないということになります。
では、貸し付けられる金額の制限はないのでしょうか?
いくらでも銀行は貸し付けられるのでしょうか?
 
そうではありません。
“貸し付ける相手が返済をできる限り”いくらでも貸し付けが可能なのです。
 つまり貸し付ける相手の資金力が、貸し付ける金額の制限となる訳です。
 
では、日本の財政を考えるために、これを
 
・お金を貸し付ける銀行=日本銀行 (政府は民間銀行の口座を持っていませんので、日銀経由でしかお金は借りられません)
・お金を借りる人=日本政府
 
と置き換えてみるとどうなるか?
 
日本政府がお金を日本銀行から借りる上限には、日本銀行がいくらお金を持っているかは関係ありません。
先程も書いたように「借りる側の資金力」が問題なのです。
では、日本政府の資金力とはどうなのでしょうか?
 
ご存知の通り日本政府には日本円を発効する権限、すなわち「通貨発行権」があります。
 
そうです。
お金を貸し付けるに当り日本銀行の資金力は関係ない。
さらに一方で、日本政府に通貨発行権がある以上、貸し付け上限になる“借り手の資金力”も制限がありません。
 
貸す方にも、借りる方にも、制限がない。
だから、日本が財政破綻することなどあり得ない。
 
これが日本が財政破綻しない理由です。
 
 
ちなみに、これは別に私が思いついた話でも何でもありません。
実は、近代的な通貨システムが誕生した時の歴史的事実が、実際にそのようになっているのです。
 
ウルリケ・ヘルマンというドイツの経済ジャーナリストによる著書「資本の世界史」に詳しいので、機会があれば読んで頂けると良いのですが、元々近代貨幣が誕生したのは1694年にイギリスでイングランドが創設された時のことです。
 
当時イギリスはフランスとの度重なる戦争で多大な戦費の調達が必要でした。
 
そこで、イングランド銀行が120万ポンドを8%の利子で政府に貸し出したのです。その代わりに、その資本金の範囲内で銀行券を発効する権限を議会から取り付けました。
イングランド王が120万ポンド+利子を必ず支払う」という、いわば架空の約束によって、その銀行券はたちまち証券として流通するようになりました。
 
その際に「実際に王が払うかどうか」は関係ありませんでした。
「王が払うと言っていると皆が信じている」ということが重要だったのです。
実際、その銀行券が税金の支払いにも使用することが可能になったため、正に「通貨」として通用するようになったのです。
 
つまり、何もなかったところにイングランド銀行が「王が支払う」という約束の元に資金を貸し付けた。
その貸し付け証明書として「イングランド銀行券」というお金が誕生したのです。
 
「そんな狐につままれたような話が信じられるか」と思われるかもしれませんが、歴史的事実がそうなんですからどうしようもありません。
正に「事実は小説より奇なり」なのです。
 
 今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

「分ければ、分かる」。超我流 “追い込まれた時の問題解決法”

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みなさん自動車の運転免許持ってますか?

運転免許を取るために教習所へ行ったことがある人なら分かると思いますが、大体通い始めた最初の頃に、自動車を運転するための適性検査みたいな物があります。

そこで言われたことが今だにトラウマのように私の記憶にこびりついています。

 

それは

 

「あなたはパニックになりやすい」

 

です。

なんかその後「だから運転する時は慎重に」みたいな注意事項をいくつか言われましたが、「パニックになりやすい」と断定されたショックが大きすぎて全然覚えてません(笑)。

 

その時は「馬鹿野郎! ふざけんな! “The 冷静な男”の俺になんてことを・・・!」と思いました。

 

・・・が、今にして思うと結構当たってます・・・(-_-;)

パニックという程ではないのですが、次々にいろんなことがやってくるとバタバタと慌ててしまいます。

 

サラリーマンとしては、それは弱点に近いポイントになりますので、私なりに色んな方法を試しました。

 

で、その中で一番自分のためになっているなと思うのが、今回のタイトルの言葉。

 

「分かるとは、分けるということ」

 

です。

 

うーん、多分これだけだと良く分からないですよね。

 

今回は私のように追い込まれた時に慌てやすい人に向けて、この言葉を元に私が実践している“追い込まれた時の対処法”みたいなものを書いてみようかと思います。

 

まず、私が何かトラブルに巻き込まれ、追い込まれた時の対処法の一つは以前書いた「まず笑う」ということ。

 

 

 

最初にやるのがこれです。

しかし、冷静になるのは問題解決の第一歩。

その次に必要になるのは「いかに対処するか?」です。

 

こういう時によく言われるのは「優先順位をつけろ」とか「状況を分析しろ」というものです。

 

が、私はいつも思うのです。

 

「どうやって優先順位をつけたら良いか分からないから困ってるんだわ」

 

と(笑)。

優先順位がつけられる人はそもそも慌てないんですよ、という(笑)。

 

そこで私がやっているのが、

 

「今の目の前にある物事を要素ごとに切り分ける」

 

ということです。


複雑な問題をそのまま解決しようとしても、「どうしよう〜」と慌てるだけで解決の糸口が見えません。

なので、自分が理解できるレベルまで細かく分けていく、ということです。

 

ただ、「切り分けろと言っても、具体的にどう分ければ良いのか分からんのだわ」という方もいらっしゃると思います。

 正直な話、その分け方は人によって異なります。社会的立場も、価値観も違いますので、その人なりの分け方というのがあるのです。

 

ですので、あくまで参考ということで私がどのように物事を切り分けているかを書いてみたいと思います。

 

まず最初に私がやる切り分け方。

これほぼ固定なんですが、それは

 

「このトラブルや選択ミスで誰か死ぬか? Yes or No?」

 

です。

 

仕事によってはYesの方もいらっしゃるかもしれませんが、恐らく世の中の99%はNoだと思います。犯罪とかは別ですよ・・・。

 

これが「NO」だとすれば、大体のことは仮に失敗したとしても自分が死ぬ気で謝れば最終なんとかなります。

命まで取られることはありません。

自分の選択で失敗しようが、誰も死なないなら世の中全体でみれば大したことないんですよ。

「だって、誰も死なないじゃん。」

そこまでぶっちゃけちゃいましょう。

 

それだけ割り切ってしまえば、実はあとは大したことありません。

私がやっている切り分け方で言えば、例えば


 

・問題の出処はどこか? 誰が言っているのか?

問題の解決方法はその出処によって変わります。

相手によっては「無視する」という選択肢もあり得ます。

 

・時間制限はいつまでか?

当然時間に余裕があるほど、対処法の選択肢も増えます。

時間がないときには、やれることの内で最も早くやれる方策を選ぶ。

70点でも良い。60点でも良い。10点でも良いんです。

マイナスになりさえしなければ、やらないよりは一つでもアクションを起こした方が良いです。

 

・問題の案件について自分ができる事が何かあるのか?

できる事があるなら、片っ端から書き出す。

優先順位なんて後で良いんです。とりあえず目に見える形で書き出しましょう。


・問題を担当するのに一番適切なのは誰か?

自分がやれるならそれで良いです。

もっと上手くやれる人がいれば、頭を下げて頼み込んででもその人にやってもらいましょう。

そういう頭の切り替えをすることも大事です。


 

・最終目的は何か?

これは「自分にとっての最終目的」です。

例えばトラブルなら相手の怒りを鎮めることが目的ことが多いと思いますが、もしかしたら「それを“◯◯さんが怒ってる”ことを利用して、社内での滞りがちな改革案を強行する」とかいうこともあり得るでしょう。

 

などなど、挙げらればキリがありませんが、いずれにせよ

 

眼の前にある物事を細かく切り分けることで、全体像を見渡せるようにする

 

ということです。

 

複雑なものを複雑なまま対処でこる人はほとんどいません。

ですが、一旦切り分けてさえしまえば、どうすれば良いのかは誰でも自然と分かってきます。

少なくとも「この選択肢はあり得ないな」ということはわかります。

 

「分ければ、分かる」

 

単純なことですが、案外便利でいろんなシチュエーションで応用が効く方法です。

もし、私のようにトラブルに遭遇するとパニックになりやすいとか、優先順位の付け方が分からないとか、そういうことで悩んでいる方がいれば一度試してみてはいかがでしょうか?

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

 

 

 

 

 

「政局」という政治ショーが無ければ、国民は政治に関心を持ち続けられない。

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昨日石破茂氏の書籍のタイトルに書かれていた「政策至上主義」という考え方について、異論を述べる記事を投稿しました。

 

 

長くなりすぎるので止めておいたのですが、実はその時に盛り込もうとしたもう一つの論点があります。
今日は話を投稿してみようかと。
 
それは、政策の重要性を説く際に必ずといって良い程セットで話されるこれです。
 
「政局にこだわってる場合ではない」
 
というやつです。
 
自民党 vs 野党。
自民党内の派閥争い。
などなど。
 
確かに政治家同士が権力を巡って相手のことを罵ったり、小さなミスを重箱の隅をつつくように糾弾するのは見ていて気持ちの良いものではありません。
特に現在のように政治家が一体となって国難に当たらなければならない時代においては、国民としては言いたくもなります。
 
「権力争いしてる暇があったら、具体的な政策を議論しろ!!」
 
と。
 
わかります。
わかりますよ。
私もしょっちゅうそう思います。
 
でも。
でも、です。
それを分かっていながら、やっぱり敢えて言いたいこと。
自戒の念も込めて言いたいことは
 
 
「実はその政局を求めているのは、むしろ国民である。」
 
と。
 
私がこう思う理由は2つあります。
 
1つは本当に国民みんなが「政局」という名の権力争いを求めていない、むしろ嫌がっているのであれば、政治家はそういった争いをやる訳がないのです。
 
もう少し正確にいうと、権力争い自体はやるでしょう。
ただ、表立ってやらず、裏から手を回したり、外堀を埋めるなどしてバレないようにやる、ということです。
 
本当に国民に嫌われたら選挙で勝てませんからね。
政治家は何よりそれを恐れます。
 
しかし、現実には「政局ショー」が日々繰り広げられています。
結局それはそういった政治ショーを望んでいる国民がいるからです。
 
「政局」という政治ショーを望む国民がいるから政治家もそれに応える。
マスコミもそれで視聴率が稼げるからそれに応える。
そして、それを「そんな事ばかりやりやがって!!!」と怒ることで、“政治のことだけでない日々の生活での溜飲”を下げようとしている国民がいるのです。
 
実は「政局」とは、ローマ時代の“パンとサーカス”よろしく国民の鬱憤を晴らすためのエンターテイメントに過ぎないのです。
 
もちろん日本国民全員がそうだと極端な話をしている訳ではありません。
本当に義憤に駆られている方も数多くいることは間違いありません。
ただ、実際に政治家に票を集める数多くの取り巻きがおり、彼らは自身が支持する政治家がそのような政治ショーで活躍して喜んでいる。
それもまた事実なのです。
 
 
 
そして、私が「国民こそが政局を求めている」というもう一つの理由。
それは、ある意味逆説的な表現なのですが、
 
「仮に政局という政治ショーがなかった場合、どれくらいの国民が政治に本当に興味を抱けるのか?」
 
と思うからです。
 
どうでしょうか?
仮に政治の場というのが本当に、それぞれの政治家がお互いの国家理念を語り、それに基づいた政策のあり方を議論するという形。
しかも、それが国民が相当程度政治や経済、国際社会について知識を持った上でしか理解できないような内容だった場合。
 
果たして自信を持って
 
「毎回国会中継をチェックし、それぞれの国会議員の意見を聞き、各党や各省庁から提出される法案を時間が許す限り最大限チェックする!」
 
と言い切れる国民がどれだけいるでしょうか?
 
率直に言わせていただくと、私はほとんどいないと思います。
 

考えてもみてください。

TVなどのコメンテーターでさえ、それぞれの政策や法案について各条文を吟味して解説できるような人はいません。

ましてや、町中で普段実生活で忙しいサラリーマンがそのような議論をしている姿を想像できるでしょうか?

 

そんな多くの国民にとって、「政局」という政治ショーがあることでギリギリ国民の感心を政治に縛り付けておける・・・そんな側面もあるのではないでしょうか?

 

20世紀初頭にアメリカで活躍したジャーナリスト、ウォルター・リップマンは「世論」という著書の中で次のように語っています。

ちょっと長いですが、興味深い分析なので引用します。

 

「政治は、そこで闘争が行われているとき、つまり争点があるときに面白くなる。

そして人の興味を集めるためには、実際のところ何ら問題がなくとも、争点というものを見つけ出さなくてはならない。

ここで問題がないというのは、判断や原則や事実相違はあっても、それが闘争心を掻き立てるには至らないということである。

 

しかし、直接政治に参加していない我々にとって、闘争心がかき立てられないところで関心を持ち続けることは難しい。

(中略)ある問題の全てが自分の外側の遠いところにあるような人達の場合、この種の(競争心や創造力といった)心的作用が簡単に活動を開始することはない。

その事柄についてのおぼろげなイメージが彼らにとって何らかの意味をもつように仕向けるためには、闘争、緊張、勝利に対する執着心を起こさせるようにしてやらなければならない。」

 

 

簡単にいうと、

 

直接政治に参加していない人間に政治に関心をもたせ続けることは難しい。

関心をもたせ続けるためには、誰かと誰かが闘っているという分かりやすい構図とイメージを設定してあげる必要がある

 

というような感じでしょうか。

 

正に「政局があることで、国民を政治に関心を持たせることができる」ということです。

 

確かに政局にかかずらっている政治家達を見ると違和感を感じるのは事実です。

ですが、その政局が国民を政治に惹きつけるのだとしたら、政局もまた政治の重要な側面であるに違いありません。

 

「政局よりも政策を」

 

と言えば聴こえは良いのですが、そのような「政局の重要な側面」と昨日投稿した「政策よりも政治理念の方が遥かに大事である」ということを考え合わせて頂ければ、普段流れる「政治ショー」も今までと違った見方ができるのではないでしょうか。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆 

石破茂氏の「政策至上主義」は正しいのか? 「政策通」の政治家は必要なのか。

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今日、たまたま本屋に立ち寄った時に、石破茂氏の新書を見つけました。

時間が無かったので内容までは読んでいないのですが(笑)、その新書のタイトルが気になりました。
もちろん悪い意味で(笑)。
 
そのタイトルとは
 
「政策至上主義」
 
だそうです。
 
まぁ、タイトルなんかは編集者の人が考えることも多いそうですので、石破氏が言っているとは限りません。
実際、著者自身が「いや、別にそんなつもりで(本を)書いたんじゃないんだけど…」というパターンも多いようですし。
 
ただ、事の経緯がどうあれ、編集者がこう書けば売れると判断したのは間違いありません。
 
このような「政局に拘ってる場合じゃない。具体的な政策こそが必要なんだ」という認識が、世間一般に受け入れられる素地がなければ、このタイトルでは売れませんから。
 
実際このような話はテレビや新聞などでも、よく聞きますね。
 
 
ですが、ちょっと待ってください。
政策が一番重要って本当でしょうか?
 
私はそうではないのではないかと思います。
むしろこのように思うのです。
 
「政治家に政策なんて必要ない。必要なのは政治理念である。」
 
と。
 
うーん、我ながら爆弾をぶち込みましたね…(笑)。
でも、私がなぜそう思うのかについて説明しますので、少しの間お付き合い頂けますでしょうか?m(._.)m
 
 
そもそも、以前「ブレない◯◯」とかいう言葉が流行った時がありました。多分民主党政権が誕生するちょっと前の頃だと思います。
たしか麻生政権とかが「ブレてる」などと批判されていた時期かな?
 
この頃から思っていたのですが、
 
私はぶっちゃけ政策なんてブレてしまっても良いと思っています。
 
「ブレる」という言葉自体に既に印象操作が入っている気がしますね。
もっと前向きな言葉・・・「状況に応じて政策を柔軟に調整していく」と言い換えれば、印象がだいぶ違うのではないでしょうか?
 
民間事業と国家の政治を同列に並べるには注意が必要ですが、民間でも一度「こうだ!」と決めたとしても、状況が変われば変更を余儀なくせざるを得ない時はあります。
それは臨機応変というやつでしょう。
 
逆に「一回決めたから変更しません!」という硬直した態度では、目まぐるしく変わる情勢に対応できません。
 
結局、臨機応変に対応しても
 
成功すれば英断と言われ
失敗すればブレたと言われる
 
だけの話です。
結果論にしか過ぎません。
 
したがって、大切なのは「政策」という表面的なものではなく、
 
その政策の根底にある政治理念とは何か?
 
だと思うのです。
政策を臨機応変に調整することは構いません。
ですが、この政治理念がブレるのは駄目なのです。
 
そして、そこにこそ「政治家」が存在する意義があるのではないでしょうか。
 
時々「政策通」を自認する政治家がいますが、私に言わせればそんな政治家は百害あって一利なしです。
誤解がないように言っておきますが、「政策に精通していることが悪い」と言う意味ではありません。
知っていることは大事なことですが、それは政治家が自らアピールするようなことではない、という意味です。
 
さらに言うなら、そんなことをアピールするような政治家を国民は高く評価するべきではない、ということです。
 
 
確かに政策に精通していることで気付けることもあるでしょう。
しかし、どんなに精通していたとしても、それを専門に日夜努力している官僚には勝てません。
彼らは具体的な政策立案のスペシャリストなのです。
 
むしろ、そんな彼らの土俵にわざわざ上がって、真っ正面からやり合おうなどと言うのは、戦術的にも愚の骨頂です。
数字と資料を準備して説明すれば分かる、というのは、実は相手としては楽なのです。
官僚はそういう事前資料の作成は得意中の得意ですから。
むしろ交渉相手として面倒くさいのは「説明しても分からない奴」あるいは「分からない振りをして、強引に方針を押し付けてくる奴」なのです。
そう、丁度あのトランプ大統領のように。
 
トランプ大統領は確かにアメリカ大統領という強大な権力を持っているから許されるような、強引でメチャクチャな手段を採ることが多々あります。
しかし、倫理的な問題はさておき、彼のやり方はある意味間違ってはいません。
トランプ大統領は「横綱の相撲の取り方」を知っているのです。
 
 
それと同じくらい国民に選ばれた政治家は強力な権限を持っています。
だからそれに相応しいやり方をすれば良いのです。
敢えて言いますが、“勉強だけを頑張ってきて試験に合格しただけの一般国民にしか過ぎない”官僚と同じ土俵で闘う必要はありません。
 
 
自分が信じる政治理念に照らして、国家の政治をどのように導いていくべきか?
それさえブレなければ、政策なんていくらでも変えて良いのです。
もちろん、それによる国民生活への影響は最小限に留めなければなりません。
 
メチャクチャ言ってるなコイツ、と思われますか?
そうかもしれません。
 
でも良いんですよ。それで。
その後始末をするために、理想と現実のバランスを実際の政策で取っていくために、官僚がいるのです。
そのためには、いくらでも馬車馬のように働かせれば良いのです。
 
ただ、それに見合った報酬は必要だとは思います。
政治家とは違って、影役である官僚には名誉という報酬はありませんから、目に見える形での十分な報酬は必要です。
 
その点だけは国民はもう少し官僚への考え方を修正すべきかとは思います。
その代わり、ボロ雑巾になるまで使い切ってやるからな!覚悟しとけよ!という感じですが(笑)。
 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

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