重要なことを「説明しない政府」と「報道しないメディア」
先日、日米首脳会談で発表された「物品貿易協定(TAG)」についての投稿をしました。
この記事では、「物品限定」のように思わせておいて、実は「二国間自由貿易協定」じゃねーか! というツッコミを入れておきました。
日本政府が「TPP以外の貿易協定をアメリカと結ぶことはない! 」と、偉そうに交渉の可能性自体を否定していた貿易協定です。
・・・が、実はこの貿易協定以外の部分で「日米共同声明」の中で気になっているところがあったので、今日はその事について投稿します。
中国との対決姿勢を明文化した日米共同声明
それは共同声明の6項目目に書いてある下記の文言です。
日米両国は,第三国の非市場志向型の政策や慣行から日米両国の 企業と労働者をより良く守るための協力を強化する。したがって我々 は,WTO改革,電子商取引の議論を促進するとともに,知的財産の収奪,強制的技術移転,貿易歪曲的な産業補助金,国有企業によって 創り出される歪曲化及び過剰生産を含む不公正な貿易慣行に対処する ため,日米,また日米欧三極の協力を通じて,緊密に作業していく。
これって簡単に言うと
「“どこの国”とは言わないけど、日本、アメリカ、ヨーロッパ諸国以外の“とある国”が、国家ぐるみで市場経済を無視した強引な手段を使って不公正な行いをしている。それに対抗するために、日本はアメリカに協力しろ。」
っていうことです。
どこの国とは言っていませんが
「日米以外の第三国」
「知的財産の収奪」
「国有企業によって 創り出される歪曲化」
こういうキーワードを拾っていくと該当する国は一つしかありません。
そう中国です。
また、これと符合するように下記のNewsweekの記事ではアメリカの商務長官が、先に締結された新しい北米自由貿易協定に中国との貿易協定締結を阻止する「毒薬条項(ポイズンピル)」が盛り込まれており。日本や欧州連合(EU)などとの貿易協定にも取り入れる可能性がある、と述べています。
敢えてツッコミを入れるとすれば、「“可能性がある”も何も既に共同声明に盛り込まれてるじゃねーかwww」という感じですが・・・。
そのようなツッコミはさておき、この「毒薬条項」が日米共同声明に盛り込まれたということは何を意味するのでしょうか?
それは、アメリカの「中国との貿易戦争に本気出していくから、お前(日本)も協力しろよ。」という脅しに対し、日本政府は「分かりましたーー! アメリカさんに全力でついていきます!!」と宣言したということ。
つまり、国を挙げて中国との貿易戦争に協力する姿勢を明確にした、ということです。
これ、すごくないですか?
いわゆる主要メディアでは今回の日米首脳会談について、物品貿易協定(TAG)の話に終始していますが、下手したらこちらの方が大きなトピックにかもしれません。
「自由」「公正」「民主主義」はアメリカとの共通の価値か?
日本政府・・・特に安倍首相は「共通の価値観」を有する同盟国として、アメリカとの友好関係を重視してきました。そして、その共通の価値観とは、いわゆる「民主主義」「自由」「平等」「公正」というような言葉に代表されるリベラリズム的な価値観です。
そのような価値観に従うのであれば、本来中国がどのような手法で経済を活性化させ、市場を席巻しようが文句を言う筋合いはないはずです。それが自由ということですから。
※それが正しいとか言っているのではなくて、「自由」という言葉をそのまま解釈すれば、そのようになると言うだけです。
ですが、今回の宣言でそのような(アメリカは名指ししていませんが、どう考えても)中国側の「自由」は市場の公平さを歪ませ、貿易の不均衡を生むとし、それに対抗する措置を日米欧で協力して行っていく方針を打ち出したのです。当然中国はこれに対し、自らの経済政策の正当性と、日米の措置が自由貿易の理想に反するものだと批判するでしょう。
私は別にここでどちらの主張が正しいか?などと言いたい訳ではありません。
私が言いたいのは
国家同士の「自由」などというものは所詮その程度のもの。自分たちに都合が良ければ「自由」を認めるし、自分たちに都合が悪ければ「ズルをしている」として文句をつける。
つまり国際政治を勝ち抜くための方便にしか過ぎない「自由」とやらを、「アメリカとの共通の価値観」として金科玉条のように奉る日本の政府がどうかしている
ということです。
そのような自由という共通の価値観の下、アメリカに追従し、いざ中国と事を構えるようなことになったら、日本はその最前線に立たされる訳です。そのような事態になりかねない一手を、日本政府は国民に何の説明もなく既に打ってしまいました。その上、それに対処するための緊密な作業を進めていく、と約束させられてしまった訳です。
日本や米国、そして欧州諸国のグローバリズム的な政策により、多くの企業が中国との関わりを昔より大きくしています。
中国産の商品が世界を席巻しているという面だけではなく、中国の人件費の高騰から今では東南アジア諸国などに工場が移りつつあるものの、多くの民間企業が中国国内に工場を留めたまま。そしてその膨大な人口に裏付けされた巨大な市場に多くの企業が前のめりに進出をしているのが現状です。
そのような中で政府はその方針をグローバリズム的政策から反グローバリズム的な政策へと転換すると明言してしまいました。
民間企業の多くはこれから中国政府と日米欧の新たな方針の狭間で揺れ動くことになるでしょう。
このような重大な方針転換を「外務省HP」において公表はしたものの、国民に説明をしない日本政府。そして、その重要性を知ってか知らずか一切報じない日本のメディア。日本国民の最大の不幸はその狭間で放置された社会構造にあるのかもしれません。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
スシローの150円皿と吉野家のセルフサービス化
今日は久しぶりにスシローに行ってきました。半年ぶりくらい??
で、いつものようにレーンに流れてくる寿司を取ろうとしたところ…あれ?皿に以前はスペシャルメニュー以外は全て一皿100円でしたが、今は100円、150円、300円になってるんですね…。全然知りませんでした。しかも100円皿も以前は全てニ貫だったのが、一貫のものもありますし。
記事によると
人手不足が深刻さを増す中、従業員の負担軽減につなげようと、大手牛丼チェーンの「吉野家ホールディングス」は、およそ4割の店舗を客が料理を自分で運ぶセルフサービス方式に切り替えることになりました。
だそうです。
この「セルフサービス方式」を導入する動機として吉野家の社長は
「5年、10年先を見据え、おいしい牛丼を提供するだけでなく、ゆったりと食事を楽しんでいただくことで競争に勝ち抜いていきたい」
と述べているようです。
が、暫く前の牛丼安売り競争と同様にこれは短期的な会社の利益しか見ておらず、長期的には全くプラスにならない手法であり、社会的にもデフレの促進政策でしかなくとても認められるものではありません。
本来経営者が会社の利益を増やしていくためには、コストカットではなく同じ労働時間当たりの付加価値を増やしていく方向で行っていかなければなりません。なぜなら全ての会社が付加価値が増えずに利益を増やしていこうとすれば、社会全体の富(GDP)は増えないため、どこかの利益が増えるということはその裏でどこかの利益が削られることになってしまう・・・つまり、富の奪い合いになってしまうためです。
今回のセルフサービス方式の導入というのは、本来店側が持つべき労力というコストを客に転嫁しているだけの話であり、コストカットにより会社の利益は一時的に増えるかもしれませんが、それによって付加価値が増える訳ではありません。結局それは安売り競争の促進、つまり富の奪い合いを促進するだけのことでしかありません。
吉野家の社長の説明では「お客様のため」ということになっています。しかし、同様の美辞麗句を使った牛丼チェーン店の安売り競争の時の精神構造と全く変わらないのです。当時の安売り競争という「底辺への競争」のせいで、飲食業界自体がズタボロになり「ワンオペ」などという言葉に象徴されるような社会問題を引き起こした自分たちの行動を全く反省していない、と判断せざるを得ません。
スシローと吉野家。
デフレ時代の寵児としてもてはやされた2つの会社ですが、「デフレ + 人手不足」という窮状の中でそれぞれの歩む道は全く違ったものになりそうです。どちらが正しい道を行くのかはわかりませんが、少なくとも現状で私が確実に言えるのは唯一つ。
セルフサービス方式の吉野家なんか絶対行かねーわ!!!
ということです(笑)。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
日本政府が頑張って誤魔化しても堂々と本音を言っちゃうアメリカさんが格好良すぎる
さてさて、先週アメリカで行われた日米首脳会談の件です。本当はもっと早くに投稿しようと思っていましたが、中国に出張していたため出遅れてしまいました(´;ω;`)
既に報道されているところですが、日本外務省によると
日米両国の経済的な結びつきをより強固なものとすることが,日米の貿易を安定的に拡大させるとともに,自由で開かれた国際経済の発展につながるとの考えの下,「日米物品貿易協定(TAG(ティーエージー))」について交渉を開始することに合意
したそうです。
このニュースをNHKで聞いた時、私は中国のホテルで晩御飯を食べているところだったのですが、マジで笑ってしまってむせてしまいました。貴重な日本食を返せ! (笑)
いや、笑い事じゃないんですけど、「TAGって何やねん。また新しい言葉作ったのか。」と思ったのですよ。それで暫くニュースを聞いていると、完全にFTAと同じなんですが「物品だけに限定した。サービス産業とか投資とかは別だから物品(=Goods)協定だ!」だそうな。
私は思いましたね
「そんな小学生みたいな屁理屈があるか!」
と。
また、仮にその政府発表を信じるのだとしても、どうせ最初は物品だけと言っておいて、次々に適用範囲が広がるに決っているのです。アメリカの・・・というかビジネスの世界でも普通によくある手法です。「とりあえずこれだけ。例外的に。」と言って一旦実行させてしまえば、次からは「あの時やってくれたんだから、今度も良いだろ。」という流れでゴリ押しで進められてしまうのです。
おまけに、日本は軍事的な安全保障という首根っこをアメリカに握られているのですから、それをカードとしてチラつかされれば、どのような不合理な条件でも飲まざるを得なくなります。
つまり、「交渉を始めた時点で日本の負けは確定」なのであり、「交渉のテーブルにつかない」ことが日本ができる唯一の方法なのです。
物品貿易協定(TAG)と自由貿易協定(FTA)じゃ大違い
という訳で、私はそもそも日本政府の発表やそれを鵜呑みにしたメディア報道の「日米物品貿易協定(TAG) 」とやらを信用しておりませんでしたが、果たして無事日本に帰国後、アメリカの駐日大使館のHPを確認したところ、共同声明にバッチリ書いてありますね。
米国と日本は、必要な国内手続が完了した後、早期に成果が生じる可能性のある物品、またサービスを含むその他重要分野における日米貿易協定の交渉を開始する
「物品、またサービスを含むその他重要分野における日米貿易協定」だそうです。どこにも「物品限定」などと書いてありませんね。
もしかしたら「物品貿易協定だろうが、自由貿易協定だろうが同じなんじゃないの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それらは全然違うものです。「物品」とはいわゆる物理的な物の形をとった商品です。
しかし、今回の共同声明に書いてあるような「サービスを含むその他重要分野」を含む自由貿易協定の場合、サービス業とかだけではなく、法律、金融サービス、社会制度などが海外との貿易に関わる要素はもちろんのこと、貿易の仕組までもが全て含まれますので、交渉の対象となる領域が全く違います。
端的な例として、先日新たにアメリカがカナダやメキシコと結び直した北米自由貿易協定(NAFTA)を見てみましょう。
今回のNAFTAでは「賃金条項」と「為替条項」が導入されました。
賃金条項とは、製品(今回の場合は自動車)の部品の40%以上を時給16ドル以上の地域で生産しなければならないという規定。一見中立の決めごとに見えますが、メキシコの時給は7ドル程度なので、事実上、メキシコ製部品の使用が抑制されることになります。
もう一方の為替条項。
これは、相手国が通貨安誘導をしたと認定された場合、報復関税などの対抗措置を取ることができるというもの。つまり、アメリカの貿易が伸びない時に、事実がどうあれアメリカが「日本政府が円安誘導しているのが原因だ!」と主張すれば、報復関税などの対抗措置を取ることができるということです。
どうでしょうか?
私は正直これらは「ほぼヤクザの言いがかりと変わらない」と思います。どちらかの側が“あいつらの行動は自由や公平を欠いている”と判断すれば、一方的に報復しても構わない。そういう意味での「自由貿易」なのです。
ちなみに、アメリカはこの新しいNAFTA協定を、今後すべての通商交渉の「ひな形」にすると宣言しています。つまり、日本との貿易交渉においても同じことを盛り込んでくる可能性が非常に高いのです。というか、そうするに決まっています。私がアメリカ側の担当者だったら絶対そうしますよ。
「自由と公正のために必要な貿易協定を結ぶと言ったんだから、まさか嫌だなんて言わないよな〜〜?? あーん??? お前ら自由と公正という絶対正義に楯突こうってつもりか?? (▼皿▼#)ユルサン!!」
ってなもんです。
「NO」と言えないテーブルについた日本の愚かさ
確かに今回の協定でいきなりそこまで進むとは思いません・・・多分(笑)。相手があのトランプ政権なのでいきなり言ってくる可能性もありますね。
ただ、そんな事を言っても時既に遅し。もう既に“交渉のテーブルについてしまった”のです。日本政府はよく「これからアメリカ側と辛抱強く交渉していく」「日本の国益を主張する」とか言いますが、
今までその“交渉”とやらで、アメリカ側が譲歩してくれたことってありましたかね???
「本当は10,000円なんだけど、お客さん上得意だから9,980円にしといてあげるわー」レベルなら譲歩したこともあるかもしれませんがww
それにしても恐ろしいのはアメリカです。
タイトルにも書きましたが、今回のことを「物品貿易協定だ」とか言って誤魔化しているのは日本だけで、当のアメリカ側は自由貿易協定であることをこれっぽっちも隠していません。駐日大使館のHPにはご丁寧に英文、和文両方を堂々と掲載しています。
その上、ハガディ駐日大使に至っては、産経新聞の取材に対し
(産経の質問)ニューヨーク会談で日米物品貿易協定(TAG)の交渉開始で合意した。
(駐日米大使の回答)「われわれはTAGという用語を使っていない。メディア側の造語ではないかと思う。共同声明には物品と同様にサービスを含む主要領域となっている」
と「TAG」という言葉を完璧に否定しています(笑)。
まぁ、彼らにとってみれば自国の利益に適うことを実行している訳ですし、「自由と公正」という正義のためにやっているのですから「なぜ隠す必要がある? むしろ誇るべきことだろ?」というくらいの感覚でしょう。
その反対側で日本政府だけが勝手に「TPP以外の二国間交渉はやらないと宣言したのに、アメリカとの交渉始まっちゃったよ〜。やばいよ〜。何とかして誤魔化さないと!」と焦って、今回のような
「日米物品貿易協定(TAG)」であって、日米貿易協定(FTA)ではない! (`・ω・´)シャキーン
などという戯言を一所懸命言い張っている訳です。ああ、格好悪い。同じ日本人として恥ずかしい!!
それに比べてアメリカさん格好良いこと!!! (笑)
アメリカさんマジさんかっけーーー!!!
そこにシビれる! 憧れるぅーーー!!!
(from ジョジョの○妙な冒険)
はぁ・・・・情けね〜〜〜〜。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
若手研究者の育成をノーベル受賞者の賞金に頼るケチな国家に未来はない。
みなさんとっくにご存知かと思いますが、京都大高等研究院の本庶佑教授がノーベル医学生理学賞を受賞されました。まずはおめでとうございます!!
受賞理由ががん免疫療法につながるたんぱく質の発見ということで、世界でもがん患者の多い日本にとっては二重の意味で喜ばしいことではないでしょうか。
その本庶教授が日本が基礎研究への投資をおろそかにしていることに懸念を示していらっしゃるようです。曰く
「基礎研究を体系的に長期的展望で支援し、若い人が人生をかけて取り組んでよかったと思えるような国になるべきだ」
日本の科学技術政策について「立案段階で依然として昔の発想から抜けていない。今もうかる分野に資金を投じてもしかたがない」と論じた。
とのこと。
2016年同じくノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典・東京工業大栄誉教授も受賞時に同様の指摘をされていました。
国立大の運営費交付金が減り、政府の助成対象として産業や医療への応用研究が重視されている現状について「とても危惧している」と指摘。「技術のためではなく、知的好奇心で研究を進められる大事な芽を大学に残してほしい」と、基礎研究の充実を訴えた。
また、ちょっと話は変わりますが、中部地方在住の方にとっては有名人である“つボイノリオ”さんという方がパーソナリティを務めるラジオ番組「つボイノリオの聞けば聞くほど」という番組があります。
その中でつボイノリオさんが仰っていたのですが、今の大学教授に必要なのは「営業力」なのだそうです。
つボイさんも「馬鹿言うな! 学者なんだからどれだけ学問ができるかだろう!」と仰っていました(ちょっと言い回し違うかも。ごめんなさい)。でもそれが現実のようで、若い研究者をどのように食わせていくか(つまり研究予算を取れるかどうか)が今の教授に最も求められていることなのだそうです。
これは以前の投稿にも書いたのですが、現在大学に国から補助される予算には「一般運営交付金」と「特別教育研究経費」の二つがあります。前者は大学の一般運営費として広く振り分けられるのですが、後者は大学間で獲得に向けて「競争」をさせ、その結果に応じて分配するシステムになっています。いわゆる「競争原理」が持ち込まれている訳です。
そして、その競争の中で各大学の研究者たちが、文部科学省の官僚達やその他の資金管理機関にプレゼンをすることになっており、いかに上手くプレゼンをして予算を獲得できるかに大学関係者はあくせくしているようです。
しかも、「大学」として予算を勝ち取ったあとには、「大学部内での予算の取り合い」が始まるそうで、正しく“競争に次ぐ競争”。そちらのプレゼンや資料、申請書準備に時間を取られるため、本分の研究がおろそかになっているとのことです。
「限られた予算を“より効果の高い分野”に集中的に投資する」という名目の元、大学の研究者に営業努力をさせ、本来研究に使うべき時間と労力を削らせているのです。
そして、そのような競争に勝ち抜く「ビジネスセンス」や「プレゼン能力」というおよそ本来の学術研究とは関係のない部分に多大な労力を割くよう大学に強制する(無言の圧力です)。そのような中でも「目に見える効果」を示しにくい基礎研究部門は、さらにどんどん予算を削られていく・・・・という訳です。
本庶教授がインタビューの中で「自分が研究をしていたタイミングは日本の科学研究費が伸びる時期に合っていた。ずっと研究を支援されてきた」と語っておられるように、今はまだこのような研究に邁進して来られた方が一線で(と言ってもかなりご高齢ですが・・・)で活躍していらっしゃるので、今回のように日本人からノーベル賞受賞者を輩出できています。
しかし、このような方々が一線から退かれたあと、例えば10年後、果たして日本の学術研究はどのような状況になっているのでしょうか?
本庶教授の基金設立という行動は本当に素晴らしいと思います。個人の基金だから実現できることというのも確かに存在するでしょう。しかし、日本の将来をどのような方向へ導いていくかは、本来国家が戦略的に計画していかなければなりません。特に日本のような「人こそが資源」というような資源小国ではならおさらです。
このような研究分野への投資は、国家が率先して行わなければなりません。研究者の側から予算不足を指摘される時点でそもそも恥ずかしい状況だということを、日本政府は改めて考え直すべきではないでしょうか。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
真の平等を希求する声に対する「恐れ」と「畏れ」
突然ですが、皆さんこのような事を主張している人がいたら、どう思いますか?
「国民に一人でも不幸な人や貧乏な人がいてはいけない。そのような社会ができるまで徹底した改革を実行しろ。このような素晴らしい理想に反論するやつは死刑だ。」
理想としては素晴らしいと思いますが、さすがにここまで言われるとドン引きですよね・・・。ですが、実際にこれを主張し実行していた人がいます。
それはかの有名なフランス革命の時に主導的な役割をした人物の一人、サン・ジュスト。
私もここまで理想主義だと空恐ろしいくらいの違和感を感じます。
ですが、昨日下記のYahooニュースを見た時に、ちょっとサン・ジュストの肩を持ちたくなる気持ちになりました。
記事によると東京に住む40代男性が家に帰宅した時に、 妻(36)、小学4年生の長女(10)、長男(5)、生後8か月の次女が死亡をしていたのを発見したとのこと。理由は経済的に追い込まれての無理心中だったようです。
人が自殺を選ぶ時、ましてや幼い子どもを道連れにしようとする時、その母親がどこまで追い詰められていたのかは想像を絶するものがあります。しかも、それが経済的に追い込まれてとは・・・。
自他ともに認める先進国であり、落ちたとは言えいまだに世界第三位の経済大国である日本でこのような痛ましい出来事が起こる現実。いかに政府や訳知り顔のエコノミストたちが
「日本経済は順調に推移している」
「いざなぎ景気を超え、戦後二番目に長い景気拡大」
とか言ったところで、このような事件が起こるのが現実の日本の姿なのです。
もちろん、どのような時代であってもこのような事件が起こるのは事実です。この事件の全てが国の政策のせいだとか言うつもりはありません。しかし、実際にほとんどの国民が景気回復とやらを実感していないのは事実ではないでしょうか。
サン・ジュストが冒頭の言葉を述べた時、すなわちフランス革命の前後とは社会格差の拡大と財政危機、そして自然災害による飢饉などがフランスを襲い、様々な社会問題が溢れていた時期でした。その中で犠牲になっていたのは常に末端の国民たちだったのです。
そのような社会状況と、Yahooニュースの事件を考え合わせた上で、もう一度サン・ジュストの言葉を見てみましょう。
「国家の中に一人でも不幸な人や貧しい人がいるのを放置しておいてならない。そういう人が一人もいなくなった時にだけ、初めて諸君は革命をなしとげ、本当の共和国を建設したことになるだろう。」
どうでしょうか?
サン・ジュストのような革命を起こすべきだなどとは、これっぽっちも思いません。実際、当時の革命家が実行した社会の変革、平等を実現するための監視社会、そして“反論するやつは粛清する”という恐怖政治は、フランス革命の後さまざまな問題を引き起こします。
ですが、この言葉に現れているような「貧困で誰かが命を落とすような社会はあってはならない」という強い信念は、今の私達にとっても考えさせられるものがあるのではないでしょうか。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
消費増税論者の新説のバカバカしさをドラクエでたとえてみた。
来年10月に引き上げられることが“予定”されている消費税。
このブログでは何度も書いていますが、私は消費税は上げるべきではないし、そもそも2014年に8%に増税したことが間違いであり、5%に戻すべきだと考えています。
前回増税の影響がいまだ強く残っており、前年度のGDPデフレーター(物価指数)の上昇率はたった0.1%。デフレ脱却からなんて夢の話という状況。その上、例の働き方改革によって5兆円規模の残業代減少、そして東京五輪による特需終了による景気減退が来年度には控えている訳です。
こんな状況で消費税を増税するなんて「どうかしてる」としか思えないのですが、消費増税を支持する人は色々な新しい説を考え出して、何が何でも消費増税を実行したいようです。
その中でも耳を、いや目を疑うような消費増税推進論が毎日新聞に掲載されたようです。
もう、色々意味が分からないのですが・・・。
このエコノミストさんとやらが言いたいことを一言でまとめると
「前回の消費増税の時はインパクトが大きかったから良くなかった。でも今回は教訓を生かして、影響が少なくなるように対策考えてるから、消費増税しても大丈夫!!」
だそうです。
ちょっと意味が分かりません。
意味が分からないので、分かりやすくドラクエ3で例えましょう(笑)。
たとえて言うなら、今の日本の状況はラスボスの“ゾーマ”にレベル25くらいで挑んでるようなものなんですよ(普通にクリアするにはレベル40位必要)。
そのレベルで戦いがいざ始まるといきなり
「ゾーマの攻撃! 痛恨の一撃!! (←これが8%に上がった時の消費増税)
勇者(←日本経済)は150のダメージを受けた!
勇者のHPは残り50。 どうする?」
こういう状態なんですよ。
この時にやるべきことって、常識的に考えてまずHP回復ですよね。ベホマですよ。ベホマ!
でも、このエコノミストさんが言っているのは
「いや、さっきの攻撃はたまたま運が悪くて痛恨の一撃を食らったからいけなかった。でも2回も連続で痛恨の一撃が出る可能性は低い。それにさっきスクルト(防御力アップの呪文)使ったから大丈夫!! たたかう!」
ということなんです。
いや、そういう問題じゃないだろww
レベル上げて(=GDPを成長路線に乗せて)から戦えよww
せめて先にHP回復させろ(=増税の影響を終わらせる対策とれ)ww
そんなんじゃ、何回やってもゾーマには勝てませんよ! やられる度にお金が半分になりますよ! (ドラクエでも全滅すると持ち金が半分になるペナルティがあるんです)
※ごめんなさい。このたとえに深い意味はないのですが、何かあまりにバカバカしい記事だったんでこっちもバカバカしくしようかと(笑)。
本当バカバカしい限りで開いた口が塞がらないのですが、こんな事を真面目に考えて、毎日新聞が取り上げているのです。
記事の中で「私たちが考えるべきは、14年になぜインパクトが大きくなったかという点である。」とか言っていますが、完全に論点を間違えています。というか、むしろわざと論点をずらそうとしています。
私達がもう一度考えるべきは
「そもそもこんな状況で本当に消費税を上げなければならないのか?」
です。
そして、その背後にある「日本の財政は破綻する説」が本当に正しいのかをもう一度しっかりと考え直すことです。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
貴乃花親方引退劇に観る「伝統」のあるべき姿 ー権威にふんぞり返っていても伝統は守れないー
昨日の投稿でも書きましたように私は先週一週間まるっと中国へと出張しておりました。
中国のホテルのテレビはNHKの放送だけは観ることができますので、時間がある時にはNHKを観て日本の情報を得ていたのですが、私の最重要関心事は「台風の進路」です(笑)。
いや、笑い事じゃないんですよww
進路とスピード次第では日本に帰るのが遅くなりますし、飛行機に乗るのが死ぬほど恐い私にとっては、台風の影響で飛行機が揺れるのがめっちゃ恐いのです!! (TOT)
ですが、そんな私の心配をあざ笑うかのように日本では「貴乃花親方の電撃引退」で大騒ぎになっていたようですね。
ぶっちゃけた話、私は大相撲そのものにはそれほど興味がありません・・・むしろあまりポジティブなイメージがないと言った方が良いかも・・・(^_^;)。
私の世代では横綱・千代の富士が生きる伝説とも言える力士で、千代の富士の最盛期はよく観ていたのですが、千代の富士が貴乃花親方(当時は貴花田)に負けた後に、いわゆる“若貴ブーム”が到来した時は、何かその浮ついた空気にむしろイライラしていたのを覚えています。
唯一の大相撲の思い出
そんな私ですが、実は一度だけ大相撲の取り組みを観に行ったことがあります。
その時の一番の思い出は、先代・貴乃花親方とトイレで横に並んだことです(* ̄^ ̄*)エッヘン!
男性用の小便器で立っていたら、急に暗い影がのそっと現れまして「何だ??」と思ったら横に親方が立っていました。もうデカイのなんのって・・・。正直「同じ人間か?」と思うほどその巨体に圧倒されました。
その先代・貴乃花親方の息子である貴花田(当時)は、実際に眼の前で観ると取り組みのスピードとパワー、そしてその迫力に圧倒されたのを覚えています。ぶっちゃけ、貴花田を舐めてましたね・・・心の中で「ごめんなさい」と謝りました(笑)。
そんな思い出のある貴花田こと、現在の貴乃花親方が引退したということでちょっと驚きました。
と同時に、いつものようにマスコミが貴乃花親方と相撲協会を対立させて、どちらが正しかっただの、間違っていただのと騒いでいる姿を観て、その論点のズレ具合に中国の地から違和感を覚えました。
日本に帰ったら、この事を是非ブログに投稿したいと思っていましたので、今日はその話を。
考えるべきはどちらが正しいか?ではない
さて、中国にいたからということもありますが、大相撲についてその程度しか知識のない私には貴乃花親方と相撲協会のどちらが正しいのかとか、間違っているのかとかは分かりません。恐らくどちらの言い分にも、それぞれの立場での妥当性があるのでしょう。
そもそも私はこの騒動においてどちらが正しく、どちらが間違っているのかを考えることはあまり重要ではないと思っています。
私が重要だと思うのは、様々な意見はあるかと思いますが一応現在でも国技としての立場を失っていない大相撲という日本の伝統を象徴する神事において、相撲協会という唯一の権威に対し貴乃花親方が「相撲の未来とはどうあるべきか?」を問うたことそのものの意義です。
そして、それが「伝統」というものに対してどのような意味を持つのかを考える重要な契機になると思っています。
そもそも権威とは、本当に権威としての立場を失っていなければ、それに対して疑義が述べられることはありません。今回の貴ノ岩関への暴力事件に端を発す一連の騒動において、貴乃花親方が相撲協会に疑義を示したこと、それ自体がすでに相撲協会の権威の失墜を物語っています。
そして、権威なき者に伝統を守ることはできません。
なぜなら伝統を守るためには何世代にも渡る経験の中で培われた、様々な立場や考え方の人を守るための知恵と制度、そして短期的な利益や自由を求める空気に左右されることなく、むしろ長期的な視野でそのような勢力を正しい方向に導くようなバランス感覚がなければなりません。
しかし、人間は・・・特に若い内は、そのようなある種“保守的な考え方”に反発を抱くのが世の常です。「あいつらの考え方は古い。」「もうそんな時代じゃない。」という感じですね。
そのような若い世代も含めた幅広い人々に「時代の流れに惑わされずに守るべき物が何なのか」をしっかりと届けるには、「あの人たちの言うことは聞いておくべきだ」と直感させる権威がどうしても必要になるのです。
しかし、その権威というものは「権威の内にある人」と「権威の外にある人」の間に信頼感がなければ成立しません。お互いが「結局あいつらは自分のことしか考えていないのではないか?」という不信を抱いてしまえば、権威は立場が上の者が下の者を黙らせるための不当な権力にしかなり得ないのです。
その意味において、今回の騒動は貴乃花親方が相撲協会に疑義を申し立てた時点で、すでに相撲協会の権威を揺るがすものだったのです。その貴乃花親方のやり方が正しかったかどうかは分かりません。
ですが、そのような事が起こった時点で、すでに権威はほとんど崩れ去ってしまっていたのです。その時に本来相撲協会がなすべきは貴乃花親方と正面から向き合うことだということだったはずです。
しかし、相撲協会が実際に行ったのは権力によって貴乃花親方を黙らせようとすること、あるいはその存在そのものを無視する行為でした。
残念ながら相撲協会は自分たちの権威が何によって成立しているのか、そしてその権威が失墜することの重要性に全く気付かなかった。あるいは気付いていながらもだんまりを決め込んだのか。いずれにせよ、その事の重要性を理解できる分別と、それに堂々と立ち向かう責任感を持った人物がいなかったということでしょう。
伝統とはただ古いものを守ることではない。
先に書いたように、私は貴乃花親方が正しかったとか、相撲協会が悪かったとか、どちらかの善悪を決めるつもりはありません(相撲協会の“対応”が悪手だったことは間違いないと思いますが)。
ただ、相撲協会の中にちゃんと貴乃花親方に向き合える人物。もし仮に彼が間違っているのなら、それをちゃんと諭すことができる能力と器量のある人物がいなかったことが残念でなりません。
私は本来の伝統の力とは、ただ長い間組織を存続させること、古い価値観を守るということではないと考えています。そのような悪い意味での保守は伝統でも何でもありません。ただ過去にこだわっているだけです。
そうではなく、純粋な意味での“一個人の能力”を超えて、「守るべき価値観を守るために組織に新陳代謝を促し、時代の流れに柔軟に対応できるような活動を先導していくような能力」を持つ人物を育て上げていくこと・・・・それこそが伝統のなせる業、いえ伝統が成すべきことだと考えています。
その意味では大相撲の中には、もう既に日本の国技として相応しい「伝統」が備わっていないのかもしれません。私自身は特に大相撲に強い思い入れがある訳ではありませんが、既にそのような伝統が失われ、“スポーツ”としての形だけの相撲が残っているに過ぎないのだとしたら、一日本人としては残念でなりません。
せめて今回の騒動によって、日本の中に今一度「伝統のあるべき姿とは何か?」という問題意識が立ち上がるのであれば、日本の国技としての大相撲に少しでも餞になるのかもしれません。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
中国で食べたマンゴーの味が教えてくれたグローバリズムの誤り
実は先週一週間、中国の南方へ出張しておりました。
もしかしたらとは思いましたが、やはり中国からは「はてなブログ」の記事投稿はできませんでした。正確に言えば入ることはできたのですが、とんでもなく遅くて諦めました(笑)。
まぁ、やはりかの国から日本にアクセスするのは大変ですね。
Yahooは比較的接続が良いのですが、その他のニュースサイトとかはすっごい遅いです。その理由は“言わずもがな”ですね。ネット環境が悪い、とかいう話ではないことだけは言っておきましょう。
ちなみに、そういう事態を想定して、実は先週の投稿は出張前に仕込んでおいた物だったのです(* ̄^ ̄)エッヘン!
という訳で、折角なので今回は中国出張レポート(?)みたいなものをお届けしたいと思います。
実は今回の中国出張において一番の思い出。
人生初の思い出ができました。
それは・・・・
マンゴーを食べたことです!!!
ドーン!!! m9( ゚Д゚)
いや、半分冗談なんですけど半分本気なんですよww
マンゴーを全く食べたことがない訳ではないのですが、昔からあの甘ったるい感じが嫌いでちょっと受け付けられなかったのです。今回出張中に中華料理を食べに行った時にデザートとしてマンゴーが出てきまして・・・。
最初は嫌がっていたのですが、色々あってちょっとだけ食べることに・・・・。そうしましたら、これがなかなか美味い! 日本で食べるマンゴーよりもさっぱりしていて、すっきりとした甘さで日本で食べる物とは全然違いました。
今回行ったのは中国でも南方の方なのですが、ヤシの木が生えているような熱帯に近い場所なので、やはりマンゴーは“土地の物”のようで新鮮なんですね〜。多分日本で食べてもあの味は味わえないでしょうから、これからもマンゴーを食べるかどうかは不明ですが(笑)。
そんな私の「人生初体験マンゴー」ですが、この美味しさを味わった時に私の頭に浮かんだのは
「やっぱりグローバリズムは間違ってるな」
ということでした。
いきなり話が飛び過ぎだろwwwって思われますか?
思いますよね〜〜(笑)
すみません!
でもね、本当にそう思ったんですよ(^_^;)
グローバリズムの経済面における理論的支柱は「新古典派経済学」という経済学派なのですが、この学派の古典として崇め奉られているのが18世紀にデイビッド・リカードという経済学者が提唱した比較生産費説。
Wikipediaの説明では
これは、自由貿易において各経済主体が(複数あり得る自身の優位分野の中から)自身の最も優位な分野(より機会費用の少ない、自身の利益・収益性を最大化できる財の生産)に特化・集中することで、それぞれの労働生産性が増大され、互いにより高品質の財やサービスと高い利益・収益を享受・獲得できるようになることを説明する概念である。
ということになっています。
比較優位説とかって言われたりもします。
すっごく簡単に言うと「いくつかの国の貿易において、それぞれの国が自分の得意な物の生産に特化し、お互いの国がそれを交換し合えば、世界的に見ると一番効率的な生産ができるよね」ということになります。
それが実現されるためには、それぞれの国が保護関税を掛けたりすると効率的な交換ができませんが、「自由貿易」であれば効率的な交換ができる。ここから「自由貿易によって、世界全体でもっとも効率的な生産ができるのだーーー!」という自由貿易至上主義やグローバリズム至上主義が生まれます。
ただ、中国でマンゴーを食べた時に思ったんですよ。
「そんなのは机上の空論だな」と。
確かに中国で作っても、アメリカで作っても、日本で作ってもマンゴーはマンゴーです。でも、同じマンゴーでも私にとっては日本で作ったマンゴーはあまり美味しくなく、中国で食べたマンゴーは美味しかったのです。
※マンゴーの味については主観なので、マンゴー農家の方が気分を悪くされたら全力で土下座しますm(_ _)m
別にこれはマンゴーのような食べ物に限った話ではありません。
別の例を挙げると、MacとWindowという二大OSの違いもそうです。
ネットサーフィンをするだけならそれほど違いはないかもしれません。ですが、デザイナーの人に言わせれば、デザインをする時に1ピクセルとか2ピクセルとかの非常に微妙な調整をするには、Windowsの動きでは上手く操作することが難しいそうです。
パソコンのソフトのような、どこで作っても同じと思われがちな、いわゆる“機械的な生産”が可能な物でもそのような微妙な違いがあるのです。
同じ物を作っても、その生産地やそれに関わる人が違えば同じ物にはならない。見た目はどんなに似せられても、違うものは違うのです。そして、人間はその微妙な違いを感じ取るし、その違いを許容できる人もいれば許容できない人もいる。それが社会や文化の違いであるし、その人が生きてきた歴史の違いでもあります。
確かにリカードの比較優位説は理論としては面白いとは思います。
ですが、やはり現実に生きる人間はそのような微妙な差異性を無視した“グローバルな世界”に生きることはできない。そのようなある種の非現実的な前提を置いた上に築き上げられている“経済学”は、参考にすべき点はあるものの必ずしも科学のような正確性を持つことはできないのです。
経済学というとすごい難しい数式や理論によって構成されているように思われがちですが、実はそのような「砂上の楼閣」という側面もあるのだということ。理論はあくまで理論であり、それを盲信してはならないということ。
そして、私達は理論の世界ではなく、様々な価値観や文化を持った人々が生きる多様な世界に生きているということを今一度思い起こすべきではないか。
中国で生まれて初めて「美味しいマンゴー」を口にした時、そのようなことを考えてしまいました。
という訳でもう一度。
そんな事を考えさせられるくらい中国のマンゴーは美味かったぜ!!!
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
なぜ日本ではプライベートで政治的な話をするのがハードルが高いのか
先日東洋経済オンラインでちょっと面白い記事を見つけましたので、その事について今日は書いてみたいと思います。
テーマは「日本人がなぜ政治の話をしないのか?」です(記事を書いているのはフランス人)。
日々このブログで政治や経済に関する話題を取り上げている私ですが、実は(?)実生活ではこのような話をするのを控えています。誰かに話を振られればがっつり話すこともありますが、自分からそういう話を振ることはまずありません。
ぶっちゃけた話、このようにブログで書いているから、実生活でもそんな事ばかり言っていたら疲れてしまうわwwというのもあります(笑)。
ですが一番の理由は、家族以外で接する他人というとどうしても仕事関係の人になる以上、そういう人たちと政治的な話をして対立すると仕事上面倒になるからです。
日本人同士の会話ですと、政治的な話は
「好景気だとか言って一部の人間だけが儲かっているみたいだけど、うちら庶民には全然実感がないよね〜」
「給料全然上がらんわ〜。政治家連中は儲かってんのに」
という愚痴レベルの話にはなるのですが、「じゃあ、どうするべきか?」というような議論にはなりにくいように思います。そういう話をすると「またあの人あんな事言ってるよ。やれやれ。」みたいな“政治の話をするやつは面倒くさいやつ”というレッテル貼りをされるのです。
そのような事になる原因の一つは、よく言われるように「日本人は対立するのを嫌がるから」という理由があると思います。あまり議論を戦わせるという行為を日本人はあまり良しとしない空気があるかと。
それはそれで事実の一つだと思うのですが、私がもう一つの理由ではないかと思うのは
いわゆる庶民としての日本人は政治的な判断は“お上(おかみ)”に任せてきた。
そしてお上の方も良い意味でのエリートとしての使命感があり、庶民を引っ張ってきた。
という歴史があったからではないかと思うのです。
別にこれは「お上が絶対的な権力を握って庶民を従わせてきた」とか「庶民は何も考えずにその日暮らしをしてきた馬鹿ばかりだった」とか、そういう事を言いたいのではありません。
他国に比べて、日本という国が海によって外界から距離を置いて発展することができたということもあり、日本人は事さらに自分たちのアイデンティティを確認する作業をすることなく、ほぼ無意識に「自分たちは日本人である」というアイデンティティを持つことが出来ています。
そういう同じ民族であるという意識を基盤とした、お上と庶民の間に共有される信頼感によって、「政(まつりごと)はお上に任せて、庶民は自分たちの生活に専念する。お上の方も庶民がそのように懸命に生活をし、国を発展させてくれるから安心して政に専念できる」。そのような他の国では考えられないような状況が歴史的に育まれてきた。
※長い歴史の中では、必ずしもそのような状況でない時代もありましたが、日本の歴史をおしなべて見てみれば、このように解釈できるのではないかと。
そういうような「信頼関係」が国民の間に共有された上での、「政はお上に任せる」という日本独特の価値観が今でもなお国民に染み付いているのではないでしょうか。
だからこそ、庶民が政治的な話をするとちょっと異質な存在に思われるような状況が生み出されているのではないかと思うのです。
そのように考えると、引用記事にあるフランスのように誰もが、家族や友人、職場関係でもざっくばらんに政治のことを語り合うという状況を日本でも実践するのはなかなか難しいと思います。特に個人的な感情だけでなく、会社取引なども絡む仕事で関わりの人たちとであれば尚更ではないでしょうか。
ただ・・・・です。
戦後の東西冷戦時代のように、資本主義と共産主義のどちらの陣営につくかだけを考えていれば済んだような、思考停止に陥っても何とかなっていた(逆説的な意味での)平和な時代にはそれでも良かったかもしれません。
しかし、現在はそれぞれの国がそれぞれの方針や政策、国としての在り方を長期的な視野で考えていかなければならない時代に突入しています。どの国の味方につくか?が国家戦略になりえない時代です。
しかも、残念なことに日本では本来その指針を示すべきである政治家や官僚が長期的な「国家戦略」を描く能力と、日本を背負っているという使命感が決定的に失われています(個人ではそのような方も存在するのでしょうが、残念ながら組織としては・・・)。
国家の上層部が出す方針に懸命に従うことで、政治的、経済的安定を享受できる時代ではなくなっているのです。
そのような状況においては、国民一人ひとりが自らが国という「同じ地域や歴史、価値観を共有する共同体」の一員であることを自覚して、日本という国がどうあるべきかを考える時間を持つこと、そしてできればそれを誰かと語り合う機会を持てるようになること。
それによって国全体としてのレベルを上げていく“ボトムアップ”を図ることが、自分のため、家族のため、そして将来世代まで繋がる平和と安定を実現することにつながるのではないかと思うのです。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
SNS離れが進む潮流。私がSNSを辞めた理由と辞めて良かった点を挙げる。
さて、今日は皆さんから「ブログやってるお前が言うなwww」と怒られそうな、この話題を取り上げてみたいと思います。
それはズバリ「SNS疲れ」についてです!
私は仕事柄どうしてもSNSから逃れることはできないので、完全にアカウントも削除することは現状非常に難しいです。
しかし、「自分で投稿する」「友人の投稿をチェックする」という意味では綺麗さっぱりSNSからは足を洗いました。
※ブログは「交流」を目的としたSNSとは違うと思っていますので、ブログは除きます。
今日はなぜ私がSNSを止めて、ブログを書き始めたのか。
SNSを止めたことで何か良いことがあったのか。
について書いてみたいと思います。
まず私がSNSを止めた理由ですが、ざっくばらんに言いますと
自由になりたかったから
です。
ざっくばらん過ぎるので少し説明を(笑)。
SNSを辞めたくなったのはなぜか?
これはもう皆さん経験されていることだと思いますが、SNSの場合いわゆる普通のWebサイトでの交流と違って、現実社会の交流の延長という側面が強いです。従って、人からどう思われるかを空気を読みながら書く必要があります。
つまり自分の思考が現実の人間関係に縛られてしまう訳です。これが私にはかなりストレスでした。
元々私がSNS・・・というかFacebookを始めた時は、まだまだ日本ではFacebookをやっている人は少数で(LINEは多かったように思いますが)、実際の友人関係とそれほどリンクしていませんでした。
そのため今ブログで書いているような事をて投稿したりしていたのですが、Facebookユーザーが増えるほどに、まぁ実際の人間関係とリンクしていった訳です。そうするとどうしてもそれを無視して投稿することはできなくなります。
「こんな事を書くとあの人が嫌な思いをするかもしれない」とか。
また、SNSは元々長文を読むのには適さないインターフェースでしたが、スマートフォンをベースにした設計の度合いが強くなるにつれて、よりそれが顕著になったため、自分が本来書きたいことを大分省略化、あるいは簡略化して書かなければならないようになっていきました。
そういう意味でも自分が書きたいこと、届けたいことがしっかり書けないという不自由さがストレスになっていったのです。
そういう意味での「自由」を求めたのが理由の一つ。
そしてもう一つは、SNSという現実と仮想空間が入り混じったシステムの中で作られた、「半分は現実の自分」でありながらも、「もう半分はバーチャルに作られた自分」のような二重構造の自分の姿が出来上がったように感じて、自分のアイデンティティが揺らぎ始めたことです。
おそらく普通に社会人として生きていてSNSを活用している人は、いわゆる「リア充を演出することが生きがい!」という方はそんなにいないと思います。
むしろ、SNSで人にどう思われるなんか気にしても仕方ないと思いつつも、隙間の時間で他の人が何を投稿しているのか、自分の投稿がどんな反応をされているのかを確認してしまう・・・。積極的にやりたい訳じゃないけど、かと言って積極的に辞める理由もないし・・・そんな中間地点で右往左往している人の方が多いのではないでしょうか。
これがスマートフォンがない時代だったら、パソコンだと起動するのに時間と場所を選ぶのでSNSへのアクセスが制限されるのですが、スマホだと思った時にすぐ見れてしまうので、逆に依存度が高まってしまうように思います。
そういう意味で、SNSの中というバーチャルな世界での自分が現実の自分を支配するような状況から自由になりたかった。それがもう一つの理由です。
その不自由さに耐えきれなくなった私は思い切ってSNSをズバッと辞めようと思い至った訳です。
正直迷いはありました。
頻繁に使わなくなると仕事上の支障が出るのではないか?
友人関係に問題が生じないか?
(自分が好きなブランドやお店などの)情報源から得られる情報が減るのではないか?
・・・などなど。
SNSを辞めてどうなったか?
そのような後ろ髪を引かれるような思いを断ち切って辞めてみたところ、結果はどうなったのか?
マジで辞めて良かったwww
本当にそう思います(笑)。
まず、上に書いたような迷いの元は全くの杞憂でした。
・友人関係
特に支障ありません。私の周りが寛大なのかもしれませんが、友人がSNSに投稿していた記事を知らなかったからと言って、それでどうこう言われることはありません。むしろ「情報」として知るよりも、直に話した方がより深いところまで話が聞けて面白い。
・情報源としての活用
確かに自動的に、受動的に入手できる情報は減りましたが、逆に自分が動いて得た情報の方がより価値が高く、深くまで内容を知ることができると再確認できました。
・仕事への影響
ある意味一番の懸念だった仕事への影響。確かに各種SNSに関する最新情報を得るのは少し遅くなりましたし、企業アカウントへのファンの反応を知るのも少し遅くなったと思います。
ですが、逆に考えると、それが早かったから何なのか?と思うようになりました。
確かに個人経営の店舗のSNSなら速さが命という所はあると思います。しかし、そのようなケースでない限りは、むしろ物事の瞬間風速に惑わされることなく、もう少し長い目で見た状況の流れを読みやすくなったように感じます。
そして、肝心のSNSを辞めて良かった点は、やはり時間的にも、思考的にも自由度が格段に増したことです。
SNSに縛られることがなくなったので、同じスマホを使うにしても能動的な情報収集に時間を使えるようになりました。
また、SNSを辞めてこのようにブログを始められたことが私にとっては非常に大きな契機になりました。
SNSの場合は次々と大量に情報が流れていくので、長い文章を読んでもらうには不向きでした。ですが、ブログではそれなりに文章が長くてもしっかり内容を読みたい人たちが訪れるので、内容次第ではあるもののしっかりと自分の考えを書くことができます。
勿論、その分SNSに比べてブログは拡散力が落ちます。しかし、元々私は自分が考えていることを拡散したい訳ではなく、届けるべき人に届けたいという考えですので、その点も特に不利になったとは考えていません。
むしろSNSを辞めてブログを始めたことで、SNSの中で大量に渦巻く雑音に紛らわせられることなく、自分が書きたいこと、自分が届けたいことについてより真剣に考える時間が増えたことは自分にとって非常に良いことだと思っています。
という訳で、私にとってSNSを辞めて、こうして皆さんにブログをお届けできるようになったことは非常に良い選択だったと言えます。
Good Job!! 俺!!! (笑)
もちろん、これはあくまで私のケースです。
今SNSをとても楽しんで生きがいを感じている方は、そのまま続ければ良いでしょう。
ただ、もし取り立てて楽しんでいるという訳でもなく、「何となく続けている」「みんなやっているから辞めづらい」と思っているのであれば、勇気を持って一度バシッと辞めてみてはどうでしょうか?
私のように今までとは違う何かに出会えるかもしれませんよ! (・∀・)
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆