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読後ノートその1「大衆の反逆」オルテガ・イ・ガセット

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記念すべき初投稿で、いきなりこんな難しい本に挑戦(;´∀`)

至らぬところがあったらすみません。徐々に慣れて行きます!

 

さてさて。

第一次世界大戦第二次世界大戦戦間期である1930年に書かれた名著、それがこの「大衆の反逆」。

アメリカの台頭が著しい一方で、"没落している"と悲観的な見方が募っていたヨーロッパにおいて、その没落の真相とそれを引き起こした大衆の台頭、そしてそれを乗り越えるために、あるべき新しいヨーロッパのを提示する書物です。

 

ここで描かれるヨーロッパの没落は現在の日本と重なる部分が多く、今の日本とそこで暮らす私達の姿を見つめ直すのにも非常に参考になります。

 

本の内容は第一部、第二部と大きく分かれていますが、それぞれ別の本かと思うくらいに違うトピックを扱っていて、最初自分の中で落ち着けるのが手間取りました。

ざっくりと構成を言うと

 

<第一部>

オルテガによる大衆の定義、それが生まれた経緯、そしてその大衆が政治において大きな立ち位置を占めるようになったことでどんな問題があるかということ。

 

<第二部>

ヨーロッパの没落が叫ばれ、しかも第一部で述べたように大衆が世界の大勢を占めるようになった1930年当時、ファシズムなどの国家主義が跋扈する状況を乗り越えるにはどのような国家体制であるべきか?という国家論

 

というような形になっています。

 

では、その中身をちょっと詳しく見てみましょう。

 

まず第一部の「大衆」に関してですが、簡単に言えば「大衆は付和雷同して、自分の発言や意見に責任を持たない。彼らこそがヨーロッパの没落を引き起こしている。」ということです。

もちろんこれは物凄くざっくりとした表現で、「大衆とはなんぞや?」という詳しい分析については本書をご覧いただくのが良いのですが、2つほど取り上げると

 

「技術的、社会的にこれほど完全な世界に生きているので、それを自然が作ったのだと信じており、それを創造できたのは卓越した人々が努力してくれたお陰だということを考えない。彼らは生の完全な自由を、何ら特別な原因によるのではなく、確立された生得の状態だと見ている。」

「自らを特別な理由によって良いとも悪いとも評価しようとせず、自分が皆と同じだと感ずることに一向に苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じて、かえって良い気持ちになる。そのような人々全てである。」

 

こういった人のこと全てをオルテガは大衆と呼びます。

一方、それと反対の人間モデルとして「高貴なる人(訳本によってはエリートとか貴族)」を提示しますが、その特徴とは

 

「自分よりも優れた、自分の彼方にある規範に自ら訴えることが必要だと、心底から感ずる性格を持っていて、その規範のために易々として見を捧げる。高貴さは権利によってではなく、自己への要求と義務によって定義されるものである。」

 

という点を挙げます。

つまり、いわゆる階級社会の区分として貴族とか大衆だと言うのではなく、その人個人の精神の在り様をもって定義しているのです。

 

ただ、オルテガはこれらの2種類の人間がいると言っていますが、よくよく考えるとほとんどの場合は同じ人間の二面性で、そのバランスとしてどちらの傾向が強いか?という話のようにも思います。

「だって人間だもの。」ではないですが、どんな人間でもどこか一瞬の気の緩みであっという間に堕落してしまうことはあります。

そうならないように気を張っていることは強靭な気概がなければできませんし、あるいはどこかで息抜きができる場がないと気が狂ってしまうでしょう。

 

しかし、それはそうなんだけど自分の軸足をどちらに置くのか?ということを心に留めておけるかどうかで、大衆になるのか、高貴なる人になるのかが変わってくるのではないか。

そういうことではないかなと私は解釈しました。

尚、オルテガの「大衆の分析」については、非常に精密で多岐にわたっていますので、どんな人が読んでも自分の身がつまされるような読後感が得られると思います。


また、この第一部で私が強く興味を持ったのは、オルテガが「大衆が生まれた経緯」を分析する際に、「民主主義と科学技術が大衆を生み出した」という書いている点です。

これはとても面白い。

個人的には「近代的資本主義」もそれに付け加えることで、より民主主義と科学技術の関係性が分かりやすくなるのではないかと思います。

 

そして続く第二部。

最初に書いたように第一部と大分趣が異なります。

第一部が大衆の分析という社会学的な話題だったのに対し、この第二部は国家形態の話になります。

第二部になると唐突に国家を支配するとはどういうことか?みたいな話でスタートするので、「え?大衆の話はどこに行ったの?」という感じで面を喰らいます。

が、よくよく読み進めると、本来この本で言いたかったのはこちらの話で、その前段階として「現在の国家を支配(というか大勢を占めている)大衆とは何なのか」の分析を第一部で取り上げた、という形です。

 

この第二部の概要を誤解を恐れずにざっくり言うと

 

「今まで世界をヨーロッパが治めて来たのに、現在はその力が世界に及ばなくなっており、世間では"ヨーロッパの没落"が騒がれている(その中心が大衆)。しかし、本当はそんなことはなく、自分達の力が社会制度でも、科学技術でも今までにないレベルに達したのに、その力を持て余しており、自分で今後どうしたら良いのか分からなくなっているだけだ(何の思想もない大衆が社会を支配しているから)。世界を治めることができるのはヨーロッパしかいない。今の国家体制に縛られない新たなヨーロッパの姿を模索するべき時が来たのだ。」

 

という感じです。

長い歴史の中で少しずつ成長し文明の度合いを増してきた"ヨーロッパ人としての気概と誇り"というのを、彼の文面からは強く感じます。だからこそ、第一部で大衆に対してあれほどの怒りを表明したのでしょう。

 

そして、新たなヨーロッパの姿ということで、彼は国境を超えた新たなヨーロッパ共和国の樹立を提示します。これこそが我々が進むべき道だ、と。

その論拠の一つとして彼が取り上げるのが、当時国際政治の中で台頭してきたアメリカの存在です。

 

そこで彼はアメリカが台頭してきた理由の一つを、アメリカの経済力に見て、その土台はアメリカの市場規模の大きさにある、といいます。

だから、ヨーロッパを一つにまとめることで、アメリカと同等の市場規模を持つ一大経済圏を作り上げることができ、再び世界を治める実力を示すことができるようになる・・・そんな風に話が進みます。

 

話の筋としては分かります。

分かりますが・・・本当にそうかなぁというのが私の意見です。

まぁ、確かにそれが出来れば良いのかもしれません。

確かに、第二次世界大戦後、EUの前進となる欧州経済共同体が設立された理由の一つがそれです。その時にもヨーロッパの没落が叫ばれており、それに対抗する手段の一つとして、欧州経済共同体が設立されました。

しかし、その統合が進みEUとなった現在の状況を我々は知っています。

とても諸手を挙げて「そうだ!そうだ!」と言えるような状況ではありません。

 

しかし、それよりも前にそもそもアメリカが一つの経済圏として成立できたのは、産業革命後の科学技術の下地があった上で、元々いたインディオを虐殺して広大な土地を所有できたこと。
19世紀半ばには大陸横断鉄道が完成し、19世紀末には鉄道網による広大な市場形成が可能だったこと。

第2次産業革命によって生まれた産業用機械、化学製品の製造などの資本集約型産業は、「規模の経済」「範囲の経済」による生産力の増強の影響が大きく、広大な土地を持つアメリカに有利に働くシステムだったこと。

・・・など、技術の進歩や時代状況も合わせた社会環境による要因が大きく、ヨーロッパとは全く事情が違います。

 

それに、オルテガは「現在の国家の形を脱却してヨーロッパを一つに」という主張をしていますが、アメリカが19世紀末から力をつけることができたのは、

 

・ヨーロッパ諸国に比べて相当に高い関税を掛けて国内産業を保護したこと

・広大な土地を収用しそれを取引対象としたことで資本集約型産業に必要な莫大な資本を形成することを可能にしたこと

・広範な鉄道網の整備など国家が主体となって様々な生産諸力を集約し活用したということ

 

などなど、国民国家というそれだけの膨大な力を集約する体制があったからこそ実現された訳です。

にも関わらず、ヨーロッパは国家の枠を超えた姿を模索するというのは、ちょっと話が飛躍しすぎているように思えてなりません。

 現実的にはそれぞれの国の存在を尊重しながら協力しあう、インターナショナルな結びつきという形がベストなのではないでしょうか。

 

ただ、この本の所々では「そういう意味でのヨーロッパ合衆国」を描いているようにも取れますが、オルテガさんが結構思いつくままに勢いよく書いてらっしゃるので、話がぼやけ気味です。これに続く本を読めばもうちょっと分かるのかも。

 

 

ちなみに、そのせいで色んな解釈が成り立つからなのか、他の色んなレビューを読んでも第一部の「大衆とエリート(貴族)」については色々な意見が見られるものの、第二部に関してまで踏み込んで書いてあるレビューはあまりないように思います。

「国家論」の話になるとそれぞれの思想やアイデンティティによって意見が対立しがちになるので、それこそオルテガの言う大衆はそのような議論を避けて、何となく皆が同意できるような話で落ち着けておくか、という無意識の意識なのか?というのは私の穿った見方でしょうか(笑)。

 

それはさておき、この本に関しては第一部の「大衆」に関する考察にばかり注目が集まりがちなのは事実だと思います。

とある読書会で「第一部の方は社会学的な話だったので自分に引き寄せて考えやすかったけど、第二部の方は自分とは大分距離があるように思えてよく分からなかった」と仰っている方がいらっしゃいましたが、「なるほどな。そういうものか。」と思いました。

しかし、あくまで第一部は第二部を語るための議論の下敷きですので(それにしては深すぎますが・・・)、そこで理解を留めてしまうのは勿体ないですね。

 

できれば第一部、第二部両方を読んで自分自身、そしてちょっとだけ日本という国の形についても考えてみるのに良い契機となる本ではないかと思います。

 

長文、乱文失礼しました。

最後まで読んでくださった方有難うございますm(_ _)m