世界を救う読書

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システムを作り上げたアメリカに屈するしかない日本

突然ですが皆さん、1995年1月と言えば何を思い出しますか?

まず私が思い出すのは、ドリームシアターというプログレッシブ音楽のバンドのライブに行ったことです(笑)。当時バリバリのメタルバンドで活動していた私には憧れの存在。
もう一週間くらい前からワクワクしておりました。

 

が、そんな中あの大惨事が起こります。

そう、私のような不謹慎な人間以外のほとんどの方が思い出すのは、あの阪神淡路大震災ではないでしょうか。
死者行方不明者が六千人を超えた、未曾有の大震災でした。

自然の恐ろしさを身をもって味わった悲劇でしたが、実はその一報で、その3年後に建築基準法という建築物の規定に関する法律の大改訂が行われたことはほとんど知られていません。

 

何しろあの大震災の後ですから、普通に考えれば大震災を受けて、"より厳しい建築基準"が定められたと考えるでしょう。しかし、残念ながら事実は全く逆です。
その大改訂の基本方針はなんと「国民の生命、健康、財産の保護のため必要最低限のものとする」というものなのです。

必要最低限?
え?逆じゃないの? 必要最大限の間違いじゃないの?

と普通は思いますよね。あの未曾有の大惨事の後ですから、そう考えるのが当たり前です。

 

なぜそんなことが起こるのか。
その裏に潜む闇を暴いていくのが、今回ご紹介する関岡英之著「拒否できない日本」です。

関岡氏によると、この規定のオリジナルは、アメリカの出先機関とも言えるWTOの規定にほぼそのままの文言が明記されているとのこと。
一体なぜ日本のような世界随一の地震多発国で、地震なんてほとんど起きない海外の緩い仕様に合わせたそのような規定に合わせなければならなかったのか。しかも、阪神淡路大震災という未曾有の大震災が起こったにも関わらずに、です。


実はこの改定を審議した建築審議会といういわゆる"有識者会議"が提出した答申書に

「我が国の建築市場の国際化を踏まえ、国際調和に配慮した規制体系とすることが必要」

との文言があるのです。

つまり、国際化が進む建築市場で、より競争力を高めるためには、世界一厳しい建築基準に合わせていたのでは話にならない。大震災が起ころうが何だろうが、市場での競争に勝つためには規制緩和を推し進めなければならないのだ、という理由で改定したということです。


このような改悪としか思えない改定を通すことは、普通はできないはずです。
それを「阪神淡路大震災という大惨事の後なんだから、当然規定は厳しくなっているはず」という普通の反応を利用することで、ドサクサに紛れて法案を通したということになります。
まぁ、いかに国会議員が仕事をしていないかということが分かりますね。これだけでも十分国民を馬鹿にした話ですが、こんなものはまだ序の口です。

 

私もこの本で知ったのですが、実は毎年「年次改革要望書」という日米がお互いの協力関係を深化させるための要望書のやり取りが行われていました。
そこではこの建築基準法の改定のような内政干渉というレベルの要望が、経済、法律、教育などあらゆる分野に及び記載されています。
「日米がお互いの」と書きましたが、実際にはアメリカからの一方的な要望書であり、しかも毎年その要望がどの程度実現されたか、アメリカの議会でちゃんと精査されていたのです。
学生の通信簿みたいですね。

 

ちなみに私は「やり取りが行われていました」と過去形で書きましたが、年次改革要望書自体は今では廃止されています。
が、しかし。
「もうそんなこと行われていないんだ。あー良かった」とはなりません。手を変え品を変え日米経済調和対話という形で今もなお継続中。

 

自由貿易の名の下に、自国にとって都合の良い要望を相手に飲ませ、それが確実に履行されているかどうかを評価する・・・このような恐ろしい事態がもう何十年も前から日米間で起こり続けているのです。

 

ただ、それ自体はアメリカの国家戦略としてはある意味正しいのです。トランプ大統領就任以来「アメリカ・ファースト」という言葉が流行りましたが、自国の利益を最優先に考え、それを最大化できることを全力でやりきるというのは当たり前のことですから。

 

問題なのは、このようなアメリカに都合の良いシステムを作り上げられてしまった日本の“弱さ”だと思います。その“弱さ”には世間でよく言われるような「自国の存立さえ自分たちで賄うことができない軍事的弱さ」ということもあるでしょうが、私がより深刻だと考えるのは「"自由"貿易」というような「自由」という言葉を提示された時に、それに抗う強さを持っていないという弱さです。

 

かつて明治の時代には、高橋是清が「欧米列強が自由貿易を主張するとき、彼らは原理原則に従ってそれを主張しているのではなく、彼ら自身の利益のために主張している」という述べたそうです。

しかしながら、今の日本の外交には、そのような自由に対して適切な距離感を保てるバランスと、その言葉の向こうにある真意を看破できる洞察力が決定的に欠けています。それどころか、自由という言葉の響きに踊らされて、そのような"自由至上主義"に喜んで乗っかっていくような軽薄さまでが溢れ出ており、そこを欧米や中国にまで良いように利用されている気がしてなりません。

 

“自由”だけに限りませんが、言葉に対する鋭敏さと言葉の裏にある意味を解釈するときの規律。それをもう一度冷静に見つめ直し、しっかりと言語化する。迂遠なように思えますが、その根本を見直さない限り本書に書かれているようなアメリカ流システムに絡め取られた現状から逃れる糸口さえつかめないのではないでしょうか。

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