世界を救う読書

ビジネス書から文芸書までさまざまな本を通して世界の見方を考えるブログ

アニメ「BANANA FISH」で考える。安易なラベル貼りが人間の思考を殺す。

f:id:Kogarasumaru:20180721224310j:plain

 

最近めっきりアニメを観る機会が減った私ですが、久し振りに毎回欠かさず観ているアニメがあります。

その番組とは、フジテレビ系列で木曜日の深夜に放送されている「BANANA FISH (バナナ・フィッシュ)」。

私が学生時代にはまった漫画が今年ようやくアニメ化された番組です!!
 
詳細は省きますが、ざっくり言うと米ソ冷戦時代のニューヨークを舞台に、マフィアと少年不良グループの抗争を描いたハードボイルド・ストーリー。
ただ、単なるアクション漫画ではなく主人公の少年が生死をかけた戦いの中で、生きる意味と、自分の命を使って何をなすべきかを考える、かなり深いテーマが主題です。
 
学生時代からこの漫画のアニメ化を願っていた私としては、本当に毎回楽しみにしているのですが・・・一個だけ不満が・・・。
 
それが今回のテーマです。
 
それは
 
「物事に対する安易なラベル貼りは、人間の思考を死に追いやるのではないか?」
 
です。
 
 

アニメの主題歌に感じる安易なラベル貼り活動

私の拙いアニメ視聴歴では「るろうに剣心」というアニメが違和感を感じた最初だったのですが、今では当たり前のようにアニメの物語とは何の関係もない、あるいは世界観を完全にぶち壊すような突飛な曲が主題歌になっています。
 
1970年代まではもちろん、多分80年代でも「北斗の拳」や「聖闘士星矢」のように、昔はその物語の世界観に沿った主題歌が採用されており、ちゃんと番組のスタートから終了までが一つの物語になっていたと思います。
 
でも、私の記憶では多分「ハイスクール奇面組」の主題歌をおニャン子クラブの「うしろゆびさされ組」(でしたっけ???)が歌い始めた辺りから
 
アニメの曲をアイドルに歌わせることで、アイドルのプロモーション活動に使用する
 
という手法が使われるようになったと思います。
もちろん、それはアニメ側もアイドルを起用することでプロモーション活動にしていた訳ですから、どっちもどっちなのですが。
 
 
結局それは「営業活動」の一環ですし、企業努力でもある訳ですから、必ずしもそれが駄目だという訳ではありません。
 
ただ、私はそういう
 
「物語とはまったくかけ離れた要素を商業目的のために無理やり組み合わせる」
 
という手法に、昔から相当な違和感を感じていました。
 
純粋にその物語が好きな人間にとっては「世界観を壊された」という気がしてなりませんし、作者の意図を「売上」という基準の下に完全に無視して侮辱しているような気がするのです。
 
 

安易なラベル貼りは他の業界でも行われている 

ちなみに、そういった「プロモーション活動という営業目的のために、物語の世界観とかけ離れた素材を組み合わせる」という方法は、何もアニメだけで行われているのではありません。
 
例えば、最近は昔の名著の表紙に漫画家の絵を掲載したり、女性タレントの写真を掲載したりする手法が本屋では見かけられます。
そういった手法の全てが駄目だと頭から否定するつもりはありません。
太宰治の小説「人間失格」の表紙を「DEATH NOTE」の漫画家小畑健氏が描いたことで、今まで太宰の作品に興味がなかった若い人が目を通すようになったということも耳にしたことがあります。
 
しかし、それは小畑健氏の類まれな画力と、人間失格に対する敬意の溢れる緻密な構成能力によるものであり、どちらかと言えば例外的な物だと思います。
確かにそのように「例外的に成功する」例はあるでしょう。
 
 
私が疑問を呈しているのは、そのような個別具体的なミクロの話ではなくて、あくまで
 
「内容とまったく関係がないが、衆目を集めそうな分かりやすいラベル(アイドルや人気芸人)をくっつけることで“売りやすいパッケージ”にする」という手法が発想の貧困化を生むのではないか
 
という点についてです。
 
確かに
 
・人気があるアイドルや芸人
・(よく分からんけど)おしゃれなコピー
・権威のある誰かの「◯◯さんお勧め!」という帯
・雰囲気のある写真
 
・人気アーティストの曲
 
などと言った分かりやすいくっつけておけば、それに関わる人達は楽でしょう。
 
それをそれぞれの立場で考えれば
 
制作側としては・・・
企画を会社に通す時に楽。
テンプレで済む。
 
 
売店としては・・・
人気のあるラベルがあることで売れる安心感があるから発注しやすい。
店頭で露出させる時に苦労しないで良い。
商品自体がテンプレ化されているため、ラベルの人気具合で売上が読める
 
 
そして、私達消費者としては・・・
とりあえずそのラベルが貼ってある物を買っておけば
「周りに置いていかれない」
「自分ではよく分からないけど、人気があると言われている物を買っていれば、みんなと同じ場所にいられる」
という安心感を得られる。
 
つまりそれぞれの内容が本当に自分にとって面白いのかどうかを、一々吟味しなくても“自分のような立場の人間に必要だと思われるもの”を周りが指示してくれる
 
 
というような感じです。
 
 
これは結局すべての物事をテンプレ化されたパッケージで作ることで、「一々それについて考えたり、苦労しなくても済む」ことになるのです。
 
確かにそれは楽でしょう。
 
しかしそれは自分で考え、判断することを放棄することであり、「自分の頭を誰かに預けてしまうこと」に他ならないのではないでしょうか?
 
 
 
私は「人間は楽を覚えたら終わり」だと思っています。
ましてや「その“楽”が「考えなくても済む」という楽」だとしたら、それは人間ではなく「ヒトの形をした単なる動物」でしかないのではないかと。
 
私はそのような「人間から考える機会を奪う」行為には、もっと注意して当たらなければならないのでないかと思います。
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
このサイトについて プライバシーポリシー
Copyright ©2020 Sekadoku (世界を救う読書管理人)