世界を救う読書

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人生を情報に変え、その情報を収益に変換するSNSの恐ろしさ。

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先日友人との会話の中でFacebookの思い出告知機能の話になりました。
正確な名称は分かりませんが、

 

「あなたは三年前にこんな事をやっていました」

 

などと、過去の投稿を引用して「思い出」を教えてくれる、それはそれは有難い機能です(笑)。もちろん皮肉です。

 

 

私は正直この機能を初めて目にした時、恐ろしくなりました。


なぜなら、自分がいつ、どこで、何をして、何を考えたかが全てFacebookのサーバーによって管理され、人工知能の判断によって適切だと考えられたタイミングで、自分の目の前まで持って来られるのです。

 

もしかしたら「日記と同じじゃないか」と仰るかもしれませんが、全然違います。

 


たしかに紙というデバイスに、文字というテクノロジーによって記憶を貯蔵するという意味では同じでしょう。しかし、日記はあくまで自己管理が可能なものです。


いつを読み返すかを選ぶことができる。
自分の意思で捨てることもできる。
誰にも見せない自由があれば、誰かに見せる自由もある。

 

しかし、Facebookを始めとしたSNSにはその自由がありません。
Instagramにはメモリーズという投稿から24時間で消える機能がありますが、それは表示されないというだけで、サーバーには全て記録されています。

そして、それらの情報は全て情報として管理され、時には企業の「マーケティング活動」という利益行為のために活用される。

 

Facebookなどはそれを

 

「適切な情報を、適切なタイミングで、適切な形で、それを必要としている人にピンポイントで届けられることを自分たちのサービスの強みであると主張します。
そして、それは情報発信側と受け取り側の双方をハッピーにする、と。

 

しかし、本当にそうでしょうか?

 

それを適切と判断するために、普段私達は

 

SNSに投稿する内容

Googleで検索したワード

・購買履歴

・どのような画像や動画を見たか

・年齢

・性別

 

などの「人格を構成する要素」によって、細かく分解されます。

そして、それぞれの要素に“AIやアルゴリズムが重要の判断によって与えられた特徴量 (どの程度重要か?)”を数値化され、「このようなライフスタイルを持った人間だ」と仮定されて、一つのバーチャルな人間像として再構成されるのです。

 

そのバーチャルな人間像に「適切だ」と思われる情報が、順次提供されて来るのです。

まるで親鳥が生まれたてのひな鳥の口元にまで餌を運んでくれるように。

そして、私達はそのひな鳥と同じく、そのように情報が提供されることに何の疑いも持たずに、口を開けて待っているのです。

さらに恐ろしいことに、ひな鳥が親鳥が運んでくれた餌を何の疑いを持たずに飲み込むように、私達もそれを心地よいサービスだとしてむしろ歓迎して喜び、楽しんでいるのです。

 

言い換えるとそれは「このような属性の人は、こういう事に興味があって、こういうタイミングでその情報に接することを好む。だからこのような与え方がもっとも反応率が高いはず」と想定された上で与えられた情報に接し、正にその想定に沿った行動をしているということです。

 

たとえそれが「不適切な情報として通知する」という選択肢を選んだとしても、結局それはSNSというプラットフォームの中で与えられた選択肢に過ぎません。

あるいはどのようなリアクションも取らず、瞬時にスクロールして読み飛ばしたとしても、それさえも「具体的なリアクションを取らなかった」「読み飛ばした」というリアクションを、そのプラットフォームに情報として提供されてしまう。

 

つまり、Facebookだろうがなんだろうが、そのようなSNSに参加するという選択をした時点で、私達は

 

「AIやアルゴリズムの判断性能を向上させ、FacebookGoogleなどのプラットフォーマーの収益を強化するために自分の情報を売り、それを企業活動や政治活動に利用されることに合意する」という選択をしてしまっているのです。

 

さらに恐ろしいのは、

 

私達がその選択を脅威に感じないどころか、むしろ「便利になった」として積極的に受け入れていること。

そして、もはやそれが存在しなければ社会生活が成り立たないほど依存した社会構造を作り上げてしまったこと

 

です。

 

FacebookTwitterInstagram、そしてYoutube

世の中にはさまざまなSNSがあるが、そこはバーチャルな繋がりへを求めて日々多くの人で溢れかえっています。

しかし、その会場へ入場するために、人々は自分たちの生き方の基盤となる文化や生活環境など、実に多くの代償を入場料として支払わなければなりません。
少なくとも自分たちが自覚しているよりも、はるかに多くのものを。
 
 
その上さらに、そこでバーチャルな繋がりを得る対価として、人々は自分が何を考え、何を感じるかまで、その管理者たちに管理されることまで許容しなくてはならないのです。
 
 
果たして、自分たちが無自覚に支払っているものが、それによって得るものと対等の価値があるのか。
 
もう一度冷静に考え直す時期にあるのではないかと思います。

 

 

 

 今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

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