世界を救う読書

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亡くなった人に逢える技術があるとしたらどうするか?

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突然ですが皆さんに質問です。

 

「ある人の精神をサーバーにアップロードしておくことで、その人の死後、遺族などがいつでもホログラフィーによって映像化された故人の姿と対面し、保管してあるデータに基づいて遺族と会話するサービスがある。」

 

としたらどうしますか?

 

「そりゃ、画期的だ! 是非アップロードしよう!!」

 

と思いますか?

 

それとも

 

「馬鹿じゃないの? そんなのただのデータじゃん(笑い)」

 

と馬鹿にしますか?

 

 

これを可能にする(かもしれない)のが「マインド・アップロード」という技術です。

AIやスパコンの技術、あるいはSF映画とかに詳しい方ならご存知かもしれませんね。

 

マインドとは精神。

アップロードとは今で言えばクラウドなどのサーバーに情報を格納すること。

 

つまり、「マインドアップロード」とは人間の精神をクラウドなどにアップロードすること。

より詳しく言えば、人間の「精神」を脳から取り出しクラウドサーバーに保管し、その機能を完全に再現することのできる人工的な処理システムへ移行する技術のことです。

これにより人間が考えることや望むこと、記憶していることをクラウドに永続的に保管することができるため、ある種の不老不死の代用品を手に入れることが可能となる。

そういう技術のことです。

 

ここ数年人工知能の目覚ましい発達が世間を騒がせていますが、そもそもの人工知能の目的の一つが人間の脳や精神をコンピューターによって人工的に再現することです。

したがって、脳の構造や人間の精神が成り立つ仕組みを研究することも人工知能研究の根幹の一つなのです。

 

そして、その人工知能技術の発達とスーパーコンピューターの発達により、このマインドアップロードの実現可能性が少しずつ見え始めています。

まぁ技術的な問題はもとより倫理的な問題もあるでしょうから、「理論的に可能だから、実現される」というほど単純な話ではないでしょうが・・。

 

ちょっと話は逸れるのですが、去年か一昨年のNHKスペシャルでそういった近未来の技術がどこまで実現可能になっているか?を探る番組がありました。

その中で今回の投稿の冒頭に書いたシステム、つまり

 

生きている内にある人間の考え方や価値観、人生経験などをサーバーに保管しておくことで、その人の死後、遺族などがいつでもホログラフィーによって映像化された故人の姿と対面し、保管してあるデータに基づいて「この人ならこういう受け答えをするはずだ」という想定で遺族と会話するシステムを構築することが可能になる

 

というシステムが実現されるかもしれないというトピックがありました。

 

いわゆる本来の「マインドアップロード」によって精神がずっと生き続けるシステムというのとはちょっと違いますが、遺族にとっては“亡くなった人に限りなく近い人工知能と話ができる”という意味で、ある種の不老不死を実現するシステムが可能、という訳です。

 

うーん・・・難しいですが、私はちょっと気持ち悪いというか「恐い」と思ってしまいます。大げさに言うと、人の死の尊厳を冒涜された感じがするというか。

少なくとも自分が遺族だったとしたら「そんな人工知能と話して何が面白いんだ?」と思うのではないでしょうか。

 

 

ただ、以前参列した葬式の時にお坊さんから

 

「葬儀や法事というのは死んだ人のためではなく、残された遺族・・・つまり生きている人達のためのものなのです。」

 

という話を聞いたことがあります。

 

その時は「なるほど。そういう解釈もあるな。」と思ったのですが、私の中でその話の今回のマインドアップロードの話がかなり共通性があるように思うのです。

 

葬儀や法事が死者のためではなく遺族のためにあるのであれば、“仮初だと分かっていても”マインドアップロードによって再現された死者と話をすることで救われる人もいるのではないかと。

 

よく人が友人などに相談することを「相談する人って実はもう結論出してるんだよね。背中を押して欲しいだけなんだよ。」とか言いますが、それと同じです。

あるいは日本ではあまり馴染みがないですが、西洋の教会の懺悔室で神父に自分の悩みや罪を告白する・・・それと同じではないかと。

 

話かける相手が誰であろうと「誰かに話をした。心の悩みを打ち明けた。」という事実がその人の心を慰撫することもある。

そうであれば、仮にそれが人工知能が生み出した人工的な姿・・・極言すれば単なる“データ”でしかない物に対して気持ちを吐露するというシステムがあっても何がおかしいのか?

 

もし自分が死んだ後、残された人がそれによって少しでも悲しみや悩みを和らげることができるのであれば、自分ならどうするか・・・・。

 

 

そこで皆さんに最初の質問をもう一度お伺いします。

 

ある人の精神をサーバーにアップロードしておくことで、その人の死後、遺族などがいつでもホログラフィーによって映像化された故人の姿と対面し、保管してあるデータに基づいて遺族と会話するサービスがあるとしたらどうしますか?

 

どうでしょうか?

 

考え方は人それぞれですので答えはありません。

それで良いのです。

 

ですが、もしかしたら私は「自分の精神をアップロードしておこう」と思うかもしれません。

少なくとも遺族のために自分の精神をアップロードする人のことを「馬鹿じゃないの? そんなのただのデータじゃん」と笑い飛ばすことはできないと思います。

 

とかく人工知能の研究というとその技術的な側面や経済効果などの話ばかりになりますが、私は人工知能研究の本質とはそこではないと思います。

今回の話のように

人工知能研究の本質とは、このマインドアップロード技術のように「人間とは何か?」「人間の精神を形作っているものは何か?」を考えることだと思うのです。

 

 

このブログを投稿している今日は8月5日。

もうすぐ日本ではお盆の時期がやって参ります。

今では「お盆 = 夏休み」としか考えないような風潮が感じられますが、本来亡くなった先祖をお迎えするための儀式です。

 

「法事は亡くなった人のためのものではなく、生きている人のためのもの」

 

その言葉をちょっと頭に入れて、「人の生死について」そして「人の生死を考えるとはどういう意味があるのか?」について考えてみるのも良いのではないでしょうか。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

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