世界を救う読書

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日本の新聞に本当ことを伝える「ジャーナリズム」は実現不可能である

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さてインターネット全盛期である昨今、みなさん普段新聞を読んでいますか?

昨年私の会社に入った新入社員はサラッと「ネット見れば良いんで、わざわざ買う意味ないですもんね。ネットの方が早いし。」と言ってのけました。

 

ちなみに、その子は学がない訳ではありません。

某有名国立大学の出身で、実際頭は相当切れる子です。

 

まぁ、正直そうですよね。

情報の速さでは新聞は絶対にネットニュースに勝てませんし(元ネタが新聞だというのはとりあえず置いておいて、「世に出るタイミングの速さ」では)。

何よりデフレ全盛期に育った人間にしてみれば、「なんでわざわざお金を払って・・・」というのが率直な感想なのでしょう。

 

とは言うものの・・・実は私自身も昔から新聞という存在には懐疑的でございました。

少なくとも新聞記事を「事実」だとして受け入れたことはほとんどなかったのです。

今のようなインターネットなどが影も形もなかった頃から「新聞記事」には、ある種の怪しさを感じていました。

 

別に「私は子供の頃からメディア・リテラシーが高かったんです!」などと偉そうな話ではありません。

 

単純に本を読むのが昔から好きだった分、学校で宿題のような新聞を読むことを半ば強制されたりするのが嫌だったこと。

それと中学生くらいまでは「物語」を読むことは好きで小説を読み漁っていた一方、政治や経済的な「事実」にはあまり興味がなかったからです(笑)。

 

 

また、そのような斜に構えた考え方の私からすると、何より日本のメディアのあり方には以前から疑問を感じていたのも事実です。

とかく政治的なスキャンダルが発生すると、どの新聞も同じ様な論調でその点をあげつらって袋叩きにすることがそもそも「報道」だとは思えませんでした。

その上、社説では神の視座から見ているような抽象論をぶち上げて悦に入っているような小論文を載せているようにしか見えない。

「小論文の書き方の参考になるから」と社説を読むことを学校の先生に勧められても、「テストで点数を取れるようになるために、読みたくもない新聞の主張を読ませられている」という気分にしかなれず、苦痛以外の何物でもありませんでした。

 

そういう意味では私はもう何十年も日本の新聞の権威を距離を置いてきたのですが、それを支援してくれるかのような本を見つけました。

 

それが今回のお題でもある

 

ニューヨーク・タイムズ東京支局長 マーティン・ファクラー(※)著

 

「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」

 

です。

相変わらず前置きが長くてすみませんwww

 

(※ Wikipediaによると2015年にニューヨーク・タイムズは退職されたようです)

 

この本のポイントは

 

「現在の日本の報道のあり方では、構造的に真のジャーナリズムを養い、国民に必要な情報を届けることはできない」

 

という所だと思います。

 

その根拠となっているのが

 

記者クラブ

「サラリーマン記者」

 

の存在です。

 

前者の記者クラブは様々な所でその弊害が謳われていますので、その存在をご存知の方も多いかと思います。

一応Wikipediaの説明を記載しておきますと

 

記者クラブ(きしゃクラブ)は、公的機関業界団体などの各組織の継続取材を目的とするために大手メディアが中心となって構成されている任意組織。

 

です。

この記者クラブは英語でも「kisha kurabu」と表現される通り、海外にはそれに該当する機関がない日本独特の組織です(Samurai、Fujiyama、Geisya、みたいな感じですね)。

 

著者のマーティン・ファクラー氏も「日本で取材をするようになって最も驚いたのは、記者クラブの存在だ」と書いています。

 

日本ではいわゆる報道機関は元より、ほとんど全ての記者がこの記者クラブに所属しており、ここに所属していなければ内閣だけでなく官公庁全般の記者会見に立席することができません。

 

この本の中で著者が経験したこととして、例えばウォール・ストリート・ジャーナルの記者として2004年頃の日銀総裁の記者会見に参加しようとした時のことが書いてあります。

それによると

 

「会見に出るためには記者クラブの幹事社に毎回許可を求めなければならない。会見出席の許可が下りたとしても、質問をすることができないオブザーバーという資格で中に入るしかなかった。

黙って会見を聞くだけならOKのだが、疑問に思ったことを聞く権利はないのだ。

(中略)

記者会見に出られず、質問をする権利すら最初から奪われている。

こんな村八分のような取材帰省を、ジャーナリスト自らがスクラムを組んでいるのはどう考えてもおかしい。」

 

これは以前池上彰さんも仰っていたように記憶していますが、このような環境があるため日本の報道各社は

 

記者クラブから閉め出されること」

「それによって記者会見に参加できず、他社が掴んだ情報を自社で載せられないこと」

 

を何よりも恐れるそうです。

そのような「締め出しを恐れ、割り込んでくる物を排除するような環境」では、結局報道各社は“横並びの大本営発表”を行う機能しかできないのではないか。

 

それが著者が日本の報道機関の問題点の第一です。

 

そして、問題点の二番目。

それは

 

「日本の新聞で書いている記者が、安定的に給料をもらって記事を書く“サラリーマン記者”」

 

であること。

 

例えばアメリカでは記者になりたい人は地方の小さい新聞社や通信社からキャリアをスタートさせて、実力を少しずつ養いながら転職(キャリアアップ)を続け、影響力のある新聞で記事を書くことを目指して努力するそうです。

 

しかし、そんな彼からすると日本のような「新卒で入社すれば何か不祥事でも起こさない限り定年まで一生勤められる“新卒一括採用・終身雇用の記者”」は異様に感じられるようです。

そして、これは記者個人の問題ではなく、そのようなサラリーマン記者でしかいわゆる新聞社で記事を書くことができないという、日本の構造的な問題であり、それを解消しない限り、アメリカのようなジャーナリズムを日本の報道機関が持つのは難しいのではないか。

 

そのように著者は主張しています。

 

ただ、ちょっと私の書き方が悪かったかもしれませんので、誤解しないで頂きたいのですが、著者は「アメリカ流が最善で、日本のやり方は間違っている。アメリカ流にならえ!」とか極端なことを言ってるのではありません。

 

あくまでアメリカ流との対比によって日本の報道のあり方を相対的に判断しているだけであって、そのような悪意に満ちた書き方ではなく、それこそ「ジャーナリストの一人として、日本の報道のあり方について国民が多角的に考えられるような視点を提示するべきではないか?」というジャーナリストとしての矜持を元に書かれている内容になっています。

 

この他にもアメリカと日本の記者の給与体系の違いやそれによる影響など、日米報道機関の両者を経験したからこそ言える事柄が多数書かれています。

普段新聞などの報道にふれる機会が多い方であれば、一読する価値はあるのではないかと思います。

 

 

ちなみに、この著者の意見についてですが、私は半分賛成、半分疑問という感じです。

 

半分賛成というのは、日本のジャーナリズムの不甲斐なさは私も日々感じているところですし、著者が上げたような日本の報道機関における構造的な問題点は、的を射た部分が多数あると思います。

 

一方半分疑問、というのは

 

そもそもアメリカ的な意味でのジャーナリズムが日本に存在するか?

 

という点です。

 

英語のJournalの訳語として「報道」や「記事」が当てられるかと思いますが、私には正直この二つの概念が同じとは思えません。

特にアメリカ人は権力に対する強烈な懐疑心が根幹にありますので、(著者も書いているように)権力を監視するということがジャーナリズムの大きな役目になります。

 

しかし、日本では「報道」は「報せること」ですし、「記事」も「事柄を記すこと」です。

そう考えるとニュースになるような事柄を「伝えること」が報道の役割でしかない。

少なくとも日本ではそのように認識されているのではないかと思えてしまうのです。

 

ニュアンスを伝えるために言いますと「ジャーナリズム」に対する「記者魂」という訳語がありますが、なんかそのまま言うと気恥ずかしくなりませんか?

「記者魂が大事なんだよ」って普通に言えますか?

 

少なくとも私はなんか「持って回った言い方」というか、すごく大上段に構えたような表現に思えてしまいます。

普段の会話で使うには抵抗があるというか。

みなさんも普段の会話で「記者魂」という言葉を使ったことや聞いたことがありますか?

多分報道機関に勤めている人以外はほとんどないと思うんですよ。

 

 

そのように感じるということは、やはり「外から持ってこられた言葉で、日本文化として馴染んだ概念ではない」ということの現れではないかと思うのです。

 

だとするなら、この著者が言うような「ジャーナリズム」というのは、日本人には理解しづらい概念であり、「日本のジャーナリズムのあり方」を考えるということ自体がそもそもナンセンスだということになってしまうのではないかとすら考えてしまうのです。

 

しかしながら、当然報道機関がなければ国民は、日本や海外の情勢を知ることはできませんから、その機関は絶対に必要です。

しかし、そのあり方については「ジャーナリズム」とか言う英語的な概念ではなく、日本の文化の中に根ざした価値観としての報道のあり方とはどうあるべきなのか?

 

とても基礎的な概念の検証になりますが、一度そこに立ち戻る必要があるのではないか?

そんな事をこの本を読んで考えた次第であります。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

 

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