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さくらももこ死去に際して考えた。「漫画は文化」思想は漫画の面白さを殺す。

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既にご存知の方が多いと思いますが、ちびまる子ちゃんの作者さくらももこさんがお亡くなりになりました。

 
昔から漫画好きで、ちびまる子ちゃんもアニメ放送前から毎号読んでいた私としては、やはりこの件を外すわけにはいきません。
 
 
ちびまる子ちゃんと言えば、同じ漫画誌に掲載されていた「お父さんは心配性(誰も知らないかな(笑))」と並んで、私が
 
「ニヒルな笑いの漫画」
 
という存在を知るキッカケになった漫画でした。
 
最初はその「ニヒル」という概念が理解できず、何が面白いのかさっぱりでしたが、慣れてくるとその独特なスルメのような噛めば噛むほどに染みる笑いにすっかりハマった
 
 
ただ、そんな私ももう随分長いことちびまる子ちゃんのアニメを観ていません。
なぜでしょうか?
 
働き始めて時間がなくなった、というのもあります。
ですが、それだけではありません。
アニメの方向性が変わってしまったのがきっかけです(私の主観です)。
 
 
具体的にいつからかは覚えてませんが、ちびまる子ちゃんが「国民的アニメ」という位置付けになった頃ではないかと思います。
 
初期のちびまる子ちゃんは、実際に多くの人が子供の頃に味わうような
 
・どんなに頑張ってもどうしようもない「現実の壁」から逃げ出したい衝動
・そこから逃げ出すためにいろいろな策を弄するものの、結局失敗して現実の前に放り出される無情さ
 
そういった現実の世界に“後ろ向きに立ち向かわざるを得ない”子供の苦しさを、決して重苦しい暗い雰囲気ではなく、ニヒルな笑いで表現していたところに面白さがあったように思います。
 
それが「国民的アニメ」のような立ち位置に立たされるようになった頃から、そのようなちびまる子ちゃんの持ち味が失われ、「普通の家族団らんや学校の友だちとの絆を描く物語」になってしまったのです。
 
 
恐らくそのような方針転換は、ビジネス的な理由が主でしょう。
やはり「ニヒル系」では“マス”の支持を得ることはできませんので。
ただ、その背景には昔と違ってアニメや漫画を日本の文化だと持ち上げようとする、アニメや漫画に対する考え方自体の変化があったのではないかと思います。
 
 
私は一漫画ファンとしてこのような考え方には、強烈な違和感を持っています。
 
「漫画が文化になったら終わり」
 
だと私は思っているからです。
 
※「何をもって漫画というか?」という議論になるとややこしいので、その議論は避けます。とりあえずざっくりジャンプとかサンデーとか、普通の人が「漫画」と聞いて思い浮かべる、一般的な漫画雑誌に載っているようなコマ割り、吹き出しのある漫画スタイル、と理解してください。
 
誤解がないように書いておきますが、私は今でも漫画が大好きですし、その内容や価値がくだらない物だと思っている訳ではありません。
むしろ「あなたの人生に最も影響を与えた作品はなんですか?」と聞かれたら、私は速攻で
 
るろうに剣心です!」
 
と答えるくらいです( ̄ー ̄)ニヤリ
 
 ただ、“だからこそ”私は漫画には大人に文化的価値がどうのこうのと論じられるのではなく、子供が大人に隠れてこそこそ読むような、普通の世界とは全然違う禁断の世界を覗き込むようなワクワク感を子供に与え続ける存在であって欲しいのです。
だからこそ、むしろ大人には漫画を読む子供には眉をひそめて欲しいし、「公の場では漫画なんか読んじゃいかん! 」という常識をしっかりと持って欲しい。
そんな真っ当な社会であって欲しいのです(ま、そう言いながら裏では漫画読むんですけどね。「裏」で読むから漫画は面白いのですよ!)。
 
大人に隠れて読む。
大人に見つかったら嫌な顔されるけど、それでも面白いから読みたい!
そんなワクワク感とドキドキ感こそが漫画の面白さをブーストするし、だからこそ世の漫画家たちも子供に夢を見せてあげようと必死で描くのではないでしょうか。
それが「文化」だとまかり通ってしまったら、私には本来の漫画の面白さが失われてしまうような気がしてなりません。
 
 
私はそもそも「表現」というものは、制約が強ければ強いほど深い表現ができると考えています。
万葉集古今和歌集に載っているような和歌がその好例です。
五・七・五・七・七という非常に厳しい制約の中で、何とか今の心情や情景を伝えようと努力するからこそ、そこに想像の翼が広がるのです。
そういう意味においては、漫画のように絵でも文字でも表現できる表現方法は制約があまりありません。アイデア次第で何でも出来てしまうのです。
ですから、「文化」としての立場を漫画に与えて他の表現方法と並べてしまうと、それは逆に漫画の底の浅さを際立たせるだけではないかと危惧してしまうのです。
 
※漫画は底が浅いというのは誤解を生みそうですが、現状漫画を描くハードルがかなり下がってしまっているので、玉石混交の状態になっています。
昔のような一握りのその道を極めた漫画家しか生き残れないような時代よりも、むしろ平均値は下がってしまっているのではないかと私は感じています。
ただ、その中でもすごい漫画を書く人は確実にいますので、「漫画自体が底が浅い」という意味で書いたのではありません。表現が拙くて申し訳ありません。
 
 
ちょっと脱線してしまいましたが、私の「漫画が文化になったら終わり」という主張をざっくばらんに言い換えるなら・・・
 
禁断の世界は“禁断”だから良いんだよ!
それが文化だと世間に認められたら、自己否定以外の何物でもないんだよ!
 
というところでしょうか(笑)。
 

 

文化とは国民の生活や価値観、あるいは道徳観に密接に結びついているものだから、「これを文化にしよう!」と言って作り上げることはできません。

その意味では、何か一つの文化的な特質が文化となるかどうかは歴史の中で定められていくと言えるでしょう。

 

ですが、子供の頃から漫画を読んで育ち、今でも漫画を愛読する私としては、漫画を文化として成立させることは、本来の面白さと読者の楽しみ方を失わせるのではないかと思います。

漫画には世間一般には開かれない、サブカルチャー的な存在でというか、良い意味で

 

「大人に黙って読んでほくそ笑むような、子供が現実から逃れて想像の世界へ飛び込んで行くような子供の宝物」

 

であって欲しい。

そう思うのは私だけでしょうか。

 

 

 

さて、随分長くなってしまいましたので、ここらで締めたいと思います。

私にとって、さくらももこさんの「ちびまる子ちゃん」という作品は、そんな「大人からは目をひそめられるけど、子供には共有できるシニカルな笑い」を提供してくれる貴重な作品の一つでした。

子どもの頃に「俺ってあくどいなぁ、嫌なやつだなぁ。こんなに現実から逃げて誤魔化してばかりじゃいけないんだよなぁ・・・」と思っても、ちびまる子ちゃんを読むと「みんな一緒なんだな。やっぱりそんなもんだよな。」とクスクス笑いながら、自分をちょっと許せるような、何かそういう安心感みたいなものを得ていたような気がします。

 

救われたというほどではないですが、ちょっと肩の荷が降りたような気にさせてくれる。そんな作品だったかな、と。

 

ちょっと硬くなってしまったかもしれませんが、私なりの敬意と感謝を添えて、今回のブログをさくらももこ氏に捧げたいと思います。

長い間本当にご苦労様でしたm(_ _)m

 

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