池上彰著「世界史で読み解く現代ニュース」に潜む近代合理主義的歴史観
さて、今日はある本の読書レビューをお届けします。
その本は
池上彰 & 増田ユリヤ 共著「世界史で読み解く現代ニュース」。
池上彰さんはご存知の方が多いと思いますが、私は全然存じ上げませんでした(笑)。
元々高校で歴史を教えていた先生だったようですが、今は教壇を離れて教育問題の現場を取材している方だそうです。
さてこの二人による共著である本書ですが、現代のニュースへの理解をぐっと深めるために、現代につながる世界史をそれぞれの視点で深掘りするという内容になっています。
内容はタイトルの通り現代のニュースを読み解く上で重要となる世界史のトピック、例えば
「オスマン帝国の勃興」
「フランス革命が世界に与えた衝撃」
「イギリスで発生した産業革命の影響」
などの解説となります。
という訳で、この本のレビュー開始!
・・・と行きたいところですが・・・・途中まで書きかけて、はたと筆が止まりました。
というのも、ぶっちゃけた話この本ではいわゆる歴史的な事実をご紹介しているだけなので、何かそれを一々取り上げても結局この本の内容を繰り返すだけではないのか? と思ったのです。つまり
「この本は面白いので読んでください」で終了じゃない??と(笑)
そんな事をわざわざブログに書いても面白くも何ともありません。
という訳で、読書レビューというよりも「私がこの本を最初に読んだ時にふと感じた違和感」ついて書いてみようかと思います。
まず池上さん。
「世界史を知っていれば、現代のニュースが理解できる。現代のニュースからさかのぼれば、世界史が興味深く学べる。そんな視点から、この本を書くことになりました。」
そして増田さんの方はちょっと長くなるのですが、増田さんが北欧に取材に行った際に、とある学校で世界史と日本史を教えているという話をした時に
「課目を二つに分けて教えてるなんて、何か特別な意味があるのか。もう一つは、地球上の歴史は一つではないのか、日本だって世界の国の一つだし、さまざまな国とのつながりの中で歴史を積み重ねてきたのではないか、というようなことを先生から言われた。
その時は『古い時代は、日本とヨーロッパとの関わりはほとんどないし、日本史でも他国との関わりを教えている』と答えるのが精一杯だった。何を伝えたくて授業をしてきたのかを考えさせられた。」
というエピソードです。
私はこれらのエピソードの中に、世界史というものをプロフェッショナルとして扱うこの人たちでさえも
「世界の歴史は一つである。」
「世界とは同じ時間軸の中で流れていって一つ歴史を刻むものである」
「世界の歴史は理性によって理解が可能である」
という、西洋的な歴史観の潜在意識レベルでの刷り込みが潜んでいると感じました。
どのような時代であれ、その時に起こった出来事全てを把握することは人間にはできません。
ましてやその時に起こった出来事の関連性を理解するなどということは不可能です。
であれば、結局人間が歴史と呼んでいるものは、ある特定のタイミングで、特定の場所で発生した出来事から関連がありそうなものを人間が取り出したものでしかありません。
そう考えると、歴史とはそれらの事象に人間の誰かが主観に基づいて紐付けした、一つの解釈でしかありませんし、その人間の主観とはその人が生きた社会に根差した価値観から逃れることはできません。
だとすれば、世界史というものは、それぞれの社会に生きる人たちに共有される価値観が違えば、その分だけ無限に解釈があり得ることになります。
したがって、「歴史はひとつだ」という考え方自体が、ある特定の価値観が正しいという認識に基づいた独善的なものではないかと思うのです。
たしかに池上さんが言うように、歴史的な流れを知っていれば現代のニュースを見る目も変わってくると思います。
それ自体が間違っているとは思いません。
ただ、歴史がそれぞれの時代の社会の価値観に根差した解釈の仕方であるとするならば、今の、しかも西洋的価値観に染まった日本人の価値観で見た歴史でニュースを解釈できると考えるのは傲慢ではないでしょうか。
あくまで「ニュースを解釈する一つの手法を身に着けられる」。
その程度の話ではないかと。