世界を救う読書

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なぜ日本ではプライベートで政治的な話をするのがハードルが高いのか

先日東洋経済オンラインでちょっと面白い記事を見つけましたので、その事について今日は書いてみたいと思います。

テーマは「日本人がなぜ政治の話をしないのか?」です(記事を書いているのはフランス人)。

 

 

日々このブログで政治や経済に関する話題を取り上げている私ですが、実は(?)実生活ではこのような話をするのを控えています。誰かに話を振られればがっつり話すこともありますが、自分からそういう話を振ることはまずありません。

 

ぶっちゃけた話、このようにブログで書いているから、実生活でもそんな事ばかり言っていたら疲れてしまうわwwというのもあります(笑)。

ですが一番の理由は、家族以外で接する他人というとどうしても仕事関係の人になる以上、そういう人たちと政治的な話をして対立すると仕事上面倒になるからです。

 

日本人同士の会話ですと、政治的な話は

 

「好景気だとか言って一部の人間だけが儲かっているみたいだけど、うちら庶民には全然実感がないよね〜」

「給料全然上がらんわ〜。政治家連中は儲かってんのに」

 

という愚痴レベルの話にはなるのですが、「じゃあ、どうするべきか?」というような議論にはなりにくいように思います。そういう話をすると「またあの人あんな事言ってるよ。やれやれ。」みたいな“政治の話をするやつは面倒くさいやつ”というレッテル貼りをされるのです。

 

そのような事になる原因の一つは、よく言われるように「日本人は対立するのを嫌がるから」という理由があると思います。あまり議論を戦わせるという行為を日本人はあまり良しとしない空気があるかと。

それはそれで事実の一つだと思うのですが、私がもう一つの理由ではないかと思うのは

 

いわゆる庶民としての日本人は政治的な判断は“お上(おかみ)”に任せてきた。

そしてお上の方も良い意味でのエリートとしての使命感があり、庶民を引っ張ってきた。

 

という歴史があったからではないかと思うのです。

 

別にこれは「お上が絶対的な権力を握って庶民を従わせてきた」とか「庶民は何も考えずにその日暮らしをしてきた馬鹿ばかりだった」とか、そういう事を言いたいのではありません。

他国に比べて、日本という国が海によって外界から距離を置いて発展することができたということもあり、日本人は事さらに自分たちのアイデンティティを確認する作業をすることなく、ほぼ無意識に「自分たちは日本人である」というアイデンティティを持つことが出来ています。

そういう同じ民族であるという意識を基盤とした、お上と庶民の間に共有される信頼感によって、「政(まつりごと)はお上に任せて、庶民は自分たちの生活に専念する。お上の方も庶民がそのように懸命に生活をし、国を発展させてくれるから安心して政に専念できる」。そのような他の国では考えられないような状況が歴史的に育まれてきた。

※長い歴史の中では、必ずしもそのような状況でない時代もありましたが、日本の歴史をおしなべて見てみれば、このように解釈できるのではないかと。

 

そういうような「信頼関係」が国民の間に共有された上での、「政はお上に任せる」という日本独特の価値観が今でもなお国民に染み付いているのではないでしょうか。

だからこそ、庶民が政治的な話をするとちょっと異質な存在に思われるような状況が生み出されているのではないかと思うのです。

 

そのように考えると、引用記事にあるフランスのように誰もが、家族や友人、職場関係でもざっくばらんに政治のことを語り合うという状況を日本でも実践するのはなかなか難しいと思います。特に個人的な感情だけでなく、会社取引なども絡む仕事で関わりの人たちとであれば尚更ではないでしょうか。

 

ただ・・・・です。

戦後の東西冷戦時代のように、資本主義と共産主義のどちらの陣営につくかだけを考えていれば済んだような、思考停止に陥っても何とかなっていた(逆説的な意味での)平和な時代にはそれでも良かったかもしれません。

しかし、現在はそれぞれの国がそれぞれの方針や政策、国としての在り方を長期的な視野で考えていかなければならない時代に突入しています。どの国の味方につくか?が国家戦略になりえない時代です。

しかも、残念なことに日本では本来その指針を示すべきである政治家や官僚が長期的な「国家戦略」を描く能力と、日本を背負っているという使命感が決定的に失われています(個人ではそのような方も存在するのでしょうが、残念ながら組織としては・・・)。

国家の上層部が出す方針に懸命に従うことで、政治的、経済的安定を享受できる時代ではなくなっているのです。

 

そのような状況においては、国民一人ひとりが自らが国という「同じ地域や歴史、価値観を共有する共同体」の一員であることを自覚して、日本という国がどうあるべきかを考える時間を持つこと、そしてできればそれを誰かと語り合う機会を持てるようになること。

それによって国全体としてのレベルを上げていく“ボトムアップ”を図ることが、自分のため、家族のため、そして将来世代まで繋がる平和と安定を実現することにつながるのではないかと思うのです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

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