羽生結弦「超人」論。ニヒリズムを超えるのは羽生結弦という生き方である。
新ルールが適用された初めての大会ということで注目されていたフィギュアスケートのグランプリシリーズが行われましたね。皆さんの心配をよそに羽生結弦選手が世界最高得点を叩き出して、圧倒的な勝利を収めました。
今日はこのニュースについての投稿をしたいと思うのですが・・・・その前に皆さんにお詫びしなければならないことがあります。それは・・・
こんな記事を取り上げるくせに、私は普段フィギュアスケートには特別の興味もなく、何の知識もないということです!!! o(`・ω´・+o) ドヤ
※大きな大会でニュースになると観ます。
なので、技術的な部分で羽生選手がどれくらい凄いのかは、正直私には分かりません。ファンの方には申し訳ないです。本当に。
そんな私がなぜ羽生選手を取り上げるのか。
それは・・・羽生選手こそが“スーパーマン”ではないかと思うからです!!
o(`・ω´・+o) ドヤ
あ、ちょ、ちょっと!!
そこのあなた、今ブログ閉じようとしたでしょ???(笑)
別に怪しい話をしようというわけじゃありませんので、もう少しお付き合いくださいm(_ _)m
スーパーマンと言っても、アメリカ映画のスーパーマンではないですよ。
20世紀初頭の哲学者フリードリッヒ・ニーチェがニヒリズム(虚無主義)を超える、新しい人間像として提案した「超人」のことです。
「超人」というと何かこう超サイヤ人的な、筋肉ムキムキの超人的な強さを持った人のことを表すような印象がありますよね。それこそ「オラ、わくわくするぞ」的な(・∀・)
もちろん、そうではありません。
※とは言え、この「超人」の英訳がスーパーマンであり、映画のスーパーマンはこの言葉が元になっているようです。豆知識ね (o≧▽゚)o
そもそも「神」とは人間が創り出したものである。
ニーチェが「超人」という言葉を出したのは、彼の主著とも言える「ツァラトゥストラはかく語りき」。
この中でニーチェは
「神は死んだ」のだから、もはや人間に進むべき道を教えてくれる存在はいない。その中で人間が生きていくためには自ら自分が生きていく価値を生み出していくような新たな人間、すなわち「超人」として生きていかなければならない
というような主旨のことを書いています。
「神は死んだ」というのがちょっと分かりにくいと思いますので、補足説明をします。
そもそもニーチェは神というのが物理的に存在しているものとは考えていませんでした。ニーチェによると神とはそういう存在ではなくて
(具体的にはユダヤ人ですが)人類が長い間さまざまな民族から迫害され、人生に絶望する中で「いつか自分たちを救って、自分たちを迫害する人たちを懲らしめてくれる存在が現れるはずだ。その時私達はその存在によって必ず救われるはず」と信じることで、ギリギリのところで精神的安定を保ってきた。
そのための存在こそが「神」である。
すなわち「神とは絶望の底に叩き込まれた人々が、苦しい人生を歩み続けるために、自分たちの心を守るために“創り上げた”ものだ」
ということです。
神が死んだ後の世界に新たな規範を想像する存在、それが超人
そのような文脈から、将来その神に救われたいと思うなら「こういうことをしなければならない。」「こういうことをしてはいけない。」という規範が生み出されます。人を殺すな、人の物を盗むな、とかですね。
そういう規範や道徳観、そして価値基準は神という存在から生まれて来ていた訳ですが、科学の進歩、産業革命、それらがもたらす経済的発展などにより「神がこの世界を創った」という世界観は大きく揺らぎました。
ニーチェの「神は死んだ」という言葉は、神様が物理的に死んだかどうかという話ではなくて、そのような「神中心」の世界観が崩れ、神が人間が生きていく上で参照にすべき価値観を示してくれるような世界ではなくなったということを表現したものです。
神という規範の根本がなくなった世界において、人間は自分を律するための規範が失われていく。そして、人間は自分の生活の保証や安定、快適さ、安楽という一私人としての生活に埋没しし、自堕落な、安穏とした生活を暮らしていくようになる。
「神が死んだ」後、世界がそのような社会に陥って行くのが避けられないと予測したニーチェは、神に変わって自ら新しい価値を創造し成長していける新たな人間像として「超人」なるものを提案します。
超人とはいかなる存在か?
ニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」という書の中で描く“超人”とはどのようなものか?
ざっくりと説明すると、自分の運命の重荷を自ら背負い、それから逃げることなく立ち向かい、飽くなき探究と努力を重ねる。なおかつその過程を子どもが戯れるかのように楽しむことができる人間、ということができます。超ざっくりですが。
私にはこの「超人」の姿が現在の羽生選手の姿に重なるのです。
確かに彼には生まれついて持った素晴らしい才能があるのでしょう。ですが、どんな才能も本人の必死の努力がなければ花開くことはありません。また、才能があって人並み以上の努力をしたとしても、それが必ず実るとも限りません。
会場のコンディションやプレッシャーによるミスも当然あるでしょう。
ましてや、去年に至っては靭帯損傷で数ヶ月リンクに上がれないような時期もありましたが、そのような大きな怪我はまだしもメディアに出ないような怪我は数多くあったことは想像に難くありません。
そのような状況でありながら日本代表の一人として、オリンピックでの金メダル獲得や今回のような国債耐火での優勝を期待されるプレッシャーは想像を絶するものです。
羽生結弦が超人である理由
フィギュアスケートに限らず最近の選手は、「自分のためにやるんだ」みたいなことをよく言います。確かにそれは一面の真理ではありますし、そのように心の中で思うことは自由だと思いますが、それを言葉に出してしまうのは私はどうかと思います。
なぜなら自分がその立場まで来れたのは別にその人だけの力ではありません。周りを支えてくれた人たちも当然ですが、その選手が最終的に残るまで競い合った選手も敗者という形で現在を作り上げた立役者の一人です。
また、そのスポーツが現代の段階に至るまで、練習する施設を作ったり、使用する道具を作ったり、社会制度を作ったりと世界中で様々な人達が努力を重ねてきた歴史の積み重ねでもあるのです。その人達の思いを背負っているということをもっと自覚しなければならないのではないかと思うのです。
そういう意味において、私は羽生選手が「いや、僕自身のために滑るんです。」みたいな個人主義に逃げなかったこと。国民の期待を背負って滑るという態度を表明したこと。さらにその上で「金メダルを獲る」と言い切ったことは素晴らしいと思います。「素晴らしい」とか言うと上から目線っぽいですが、何というか
「凄い漢(おとこ)だな」
と思いました。
そして宣言通り平昌オリンピックでは見事金メダルを獲得したことは、みなさんご存知の通りです。その上、「けががなかったら、金メダルを取れていなかったかもしれません」とまで言ってのけました。
ニーチェはツァラトゥストラはかく語りきの中で、超人が自分に襲いかかる運命の重荷を
(自分の運命に襲いかかった幸運も不運も)あらゆる『であった』を、『それをわたしは欲したのだ!』に転じること
ができる人間だと言っています。
すなわち、ともすれば自分ができなかったことの言い訳にしてしまう「「怪我をしたから」「タイミングが悪かった」「誰かがあんなことをしなければ」といった不幸な出来事を、むしろ「いや、俺はそれを自ら望んだんだ!」と言って全ての運命を引き受けるという態度です。
正にそれを行動で示したのが羽生選手であるように思います。
その上、今季のフィギュア大会に当たり羽生選手は
「前はどうやって勝てるプログラムを作るかも含めて考えていたんですけれども、これからは自分の気持ちに正直に……自分がやりたいと思う曲、自分が見せたいプログラムを考えながら選曲して、そして振り付けもしていただきたいなというふうに、今は考えています」
と語ったそうですが、「勝ち」にこだわった戦いを経た上で、それへのプレッシャーを背負いながらも、その先に「自分がやりたい」という思いを乗せた演技ができる強さ。そして、実際に勝ち切るという強さ。
オリンピック二連覇を成し遂げ頂点に立った者が、自分自身のやるべき道を自らで作り上げるという姿は、ニーチェが言うまるで神が死んで行くべき道を示してくれる者がいなくなった世界で、自ら世界に規範を示していけるような存在・・・すなわち「超人」の姿と重ねざるを得ません。
もちろん彼はまだ若い。
だからこそ迷いなくそのような道を選べるんだ。
そういう風に考える方もいらっしゃるかもしれません。
確かに未来は誰にも分かりませんので、将来の羽生選手がどのような道を歩くのかは分かりません。
ですが、少なくとも現在の彼の姿には自らの中に沸き立つ創造性によって、自らの道を指し示すことができる「超人」としての強さがあるのは確かではないかと思うのです。
・・・と、フィギュアスケートの「フ」の字も知らない素人が偉そうに語ってしまいましたね。すみませんww
ま、要約すると私が言いたいことはただ一つ。
羽生選手おめでとう!!
あんたは凄い漢(おとこ)だよ!!!
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆