世界を救う読書

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日本の橋の45%が5年以内に老朽化するという事実の前に何をするべきか。

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昨日テレビのニュースで観て目が点になってしまったのですが、和歌山県橋本市で紀ノ川にかかる橋が傾いて路面に大きな亀裂が入り、橋が通行止めになっているそうです。通行止めになっているのは、橋本市の県道・山内恋野線の紀の川にかかる恋野橋。橋脚が約2メートル傾き、路面が大きくひび割れています。

 

 

恋野橋なんてロマンチックな名前でありながら、大きな亀裂が走っている状況は正にハートブレイク! (表現がおっさんだな・・・)

 

ただ、そんな呑気な冗談を言っている場合ではないようで、記事によると

中学生18人が、対岸域の市立隅田中(生徒数256人)に通学。同校によると普段、生徒たちは徒歩のほか自転車や保護者の車を利用している。通行止めになってからは近くに架かる歩行者専用の橋しか利用できず、保護者や教職員が車で登下校に対応した。
中学生18人が、対岸域の市立隅田中(生徒数256人)に通学。同校によると普段、生徒たちは徒歩のほか自転車や保護者の車を利用している。通行止めになってからは近くに架かる歩行者専用の橋しか利用できず、保護者や教職員が車で登下校に対応した。
中学生18人が、対岸域の市立隅田中(生徒数256人)に通学。同校によると普段、生徒たちは徒歩のほか自転車や保護者の車を利用している。通行止めになってからは近くに架かる歩行者専用の橋しか利用できず、保護者や教職員が車で登下校に対応した。
中学生18人が、対岸域の市立隅田中(生徒数256人)に通学。同校によると普段、生徒たちは徒歩のほか自転車や保護者の車を利用している。通行止めになってからは近くに架かる歩行者専用の橋しか利用できず、保護者や教職員が車で登下校に対応した。
中学生18人が、対岸域の市立隅田中(生徒数256人)に通学。同校によると普段、生徒たちは徒歩のほか自転車や保護者の車を利用している。通行止めになってからは近くに架かる歩行者専用の橋しか利用できず、保護者や教職員が車で登下校に対応した。

中学生18人が、対岸域の市立隅田中(生徒数256人)に通学。同校によると普段、生徒たちは徒歩のほか自転車や保護者の車を利用している。通行止めになってからは近くに架かる歩行者専用の橋しか利用できず、保護者や教職員が車で登下校に対応した。

とのこと。またニュース映像によると地元住民の方々にとってはライフラインとして欠かせない橋であるようですので、地元の方々はかなりの負担を強いられることになりそうです。

 

ただ、この恋野橋の事件(?)は私達日本国民にとって他人事ではありません。

コンクリートは築後40年を経過すると劣化し始めると言われていますが、国土交通省のHPによると後5年後の2023年には全国の橋70万の43%、トンネル1万本の34%が建設後50年を超えることになるそうです。

それとは別に、約30万橋の橋と約350本のトンネルは建設年度不明。直近50年は建設年度が把握されているため、「建設年度不明」ということは少なくとも50年を超える年数が経っていることになります。

 

一般的にコンクリートの耐用年数は60年くらいと言われています。

その年数が正当なものなのかどうかについては、「世界には100年以上も持っているコンクリート建築物がある」というような形で疑問が呈されることもありますが、「世界で何年保っている」というのは、日本の場合は当てはまりません。

何と言っても国土面積が世界の1%にも満たないにも関わらず、世界で起こる災害の15%以上は日本で発生しているほど災害のデパートなのです。特に日本が地震大国であることは周知の事実であり、それをヨーロッパのような巨大地震とは無縁の国と比べて何の意味もありません。

 

確かに東日本大震災クラスの巨大地震がどの程度発生するかは予測できないところではあります(とは言え、東南海大地震はここ30年の間に発生する確率が80%以上と言われていますが)。

ですが、いざ大地震が起こった時に「あれ? 地震来ちゃったね。橋やトンネル壊れちゃったね(・ω<) てへぺろ」という訳にはいきません。こと国家事業においては「起こるかもしれないものは、起こるものだ」という想定の下で動くべきなのです。

 

ところが。

ところが、です。

日本のインフラ整備事業は1995年をピークに、とてつもない勢いで削減されています。2018年度はそれと比べて6割程度にとどまる見通し。それは1997年に制定された財政構造改革法に、公共投資関係費の予算を1998年度以降、毎年削減するということが基本方針になってしまったからです。

 

どんな仕事であったとしてもお金と人数をあてがいさえすれば、すぐにでも100%の供給能力(生産能力)が実現される訳ではありません。供給能力を維持するためには継続して仕事を続け、その技能や設備、そして材料調達や運搬能力などの地元コミュニティとの関係性など、目には見えないが確実に成果に影響を与える様々な要素が代々引き継がれていくことが重要なのです。

インフラ整備やそれに関わる建設業においてもそれは同じ。

一旦供給に関わる技術やノウハウが失われてしまえば、それを取り戻すのは容易ではありません。災害が起こった後に「金は用意するから何とか復旧しろ」と言ったところで何ともならないのです。

 

その意味において、日本のような自然災害大国でここ20年来公共事業に関わる投資を削りまくって来たことは、国家的自殺という他ありません。

 

今回の和歌山の一件を「どうせ人も通らないような田舎だろ。ちょっと遠回りするくらい我慢しろwww」などと他人事だと思っていたら、次に同じ立場になるのはあなたかもしれないのです。

国民が生きていくために必要なのはお金そのものではありません。そのお金によって作り出される供給能力であり、それこそが国民の生活を支えるのだということ。お金という紙切れ、あるいはデジタルデータが何兆円あったとしても実際にそれによって動かせる物がなければ、そんな物には何の価値もないのだということ。

そのことを私達は今一度思い起こさなければならないのではないでしょうか。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

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