世界を救う読書

ビジネス書から文芸書までさまざまな本を通して世界の見方を考えるブログ

“物事の本質”なんて見抜かなくていい。必要なのは断言する勇気。

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突然ですが私には以前から悩みがあります。それは仕事上のやり取りで何かの物事を説明する時に「丁寧でわかりやすいけど、説明が長い」と言われることです・・・。

たまに、ですよ。たまに(笑)。

誤解がないようにちゃんと伝えたいという心意気の表れだという自負もあるのですが、やはり

・簡潔に、的確に説明するのがうまい人

・物事のポイントをパッとつかめて理解が速い人

を目にすると、コンプレックスを感じる時もあるわけでして・・・。

そんなコンプレックスを抱える私がこの度読んだのがこちら!

 

細谷功 著「『具体⇄抽象』トレーニング 〜思考力が飛躍的にアップする29問〜」

 

 

著者略歴

著者は細谷 功 (ほそや いさお) 氏。ビジネスコンサルタントをなさっている方で、問題発見・解決や思考力に関する講演や研修を国内外の大学や企業などに対して実施しているそう。

著書には「地頭力を鍛える」「問題解決のジレンマ」「なぜ、あの人と話しがかみ合わないのか」などがあって、コミュニケーションを円滑にするための思考力アップ方法を提案していらっしゃるようです。

 

こんな人にオススメ

この本の目的は具体⇄抽象トレーニングを通じて思考力を向上させること。それによって人とのコミュニケーションもより円滑にできるようになります。したがって、人と関わる仕事をしている方なら誰でも応用できる内容ですが、特に

・問題解決能力を磨きたい

・アイデアを出す技術を身に着けたい

・本質を見抜く力を身に着けたい

という人にはオススメです。

 

この本を読んだ理由

冒頭で書いた通り、私のコンプレックスは「簡潔に、わかりやすい説明できない」ことです。その私がなぜ一見関係のない「具体⇄抽象トレーニング」なる本を読んだのか?

それは、簡潔で的確な説明をできる人というのは

・物事の外見ではなく本質を捉える力に長けている

・説明する相手の理解力に合わせて、その本質を具体的な事柄に落とし込む力がある

ように感じているからです。

 

「物事の本質」。よく聞くフレーズですよね。

そもそも物事の本質というのは、物事を構成するさまざまな要素の中から抜き出された特に重要なもの。

そしてこの本のタイトルでもある「抽象化」とは「物事から特に重要な要素を抜き出す」という行為です。

したがって、物事を抽象化する力が鍛えられれば本質を見抜く力も身に付けられる(はず)。

 

この本を読んで「抽象化する力」を身に付け、本質が見抜くけるようになれば、それが私の目標である「簡潔に、分かりやすく説明する」ことができるようになる!というわけ。

これが私が本書を手にとった理由です。

はてさて、そんなに上手くいくのでしょうか(笑)。 

 

物事の本質なんて存在しない?

さて、ではこの本を読めば本質を見抜く力を身に付けることができるのでしょうか?

読んでみた結果は

半分YESで、半分NO

です(笑)。

というのは、この本を読んで妙に納得したのですが、そもそも物事の本質などという物が幻想に過ぎないということが分かったから。

 

恐らくこれは日本人の真面目さ故だと思うのですが、どんな時でも、どんな状況でも通じる“大正解”みたいな「本質」があって、それを見抜けることが重要という風に考えがちです。

どうもこれが「抽象化する」「本質を見抜く」ということを考える時の根本的間違い。著者はこれを「本質の罠」と呼んでいます。

 

「物事の本質」というのは物事の根幹となる部分や重要な部分のこと。つまり、本質とは物事を抽象化した結果導きだされた要素のことです。

しかし、よく考えれば当たり前なのですが、そもそも物事の何が重要なのかは状況や人によって異なります。

 

たとえばスマホを選ぶ時を考えてみましょう。

ある人にとってはスマホを選ぶ上で重要な要素、つまりスマホの本質とは「必要な時に必要な情報を得られるツール」かもしれません。その場合、スマホを選ぶのに重要なのは接続の安定性であるので、どの携帯会社を選ぶかが重要で、スマホの機種自体はどうでも良いということになります。

一方、別の人にとってはスマホの本質は「ファッション性」かもしれません。その場合、スマホを選ぶのに重要なのは “見た目の格好良さ”ということになります。スマホの機能や接続の安定性は二の次になるのです。

 

このように同じ物事でも重要視する要素は人や状況によって異なるので、いわゆる世間一般で言われるような「いつ、どこででも通用する物事の本質」などという物は存在しません。

本質というのは“幻想”にしか過ぎないのです。

「本質を見抜く目」なんて物は探しても仕方ないし、そもそもそんな物存在しないってことですね。

 

これがこの本に書かれていることでも一番大事なことで、変な話これだけでも覚えていれば十分だと思います。まぁ、穿った見方をすれば私にとってはこの知見こそが“この本の本質”かもしれません(笑)。

POINT

● 「(いつ、どこででも通用する)物事の本質」などという物は存在しない

 

「本質」を求める人の心理

本質なんてものは幻想である。

それは分かった。

ただ、恐らくこの記事を読んでいる方の多くはそれでは納得して頂けないと思います。

なぜか?

それは現実に物事の要点をつかむのが上手い人がいるからです。

逆に「本質を見抜く目を身につけたい」と思っている人は、「自分はそういうことが上手くできない。そういう能力がパッと身に付けられる“何か”があるはずだ!」と思っているでしょう。

「“本質”が存在しないなら、それでもいい。だったら、それに代わる何かをくれ!」

そう思っているのではないでしょうか。

なぜそう断言できるのか?

何を隠そう、私自身がそう思っているからです!!(笑)

 

「お前のことかいwww」とツッコミをされそうですが、まぁ実際そうですね(笑)。

でも、多かれ少なかれそう思っている人が大多数なのは間違いないでしょう。それでなければ世の中にいわゆる「自己啓発本」が溢れている理由が説明できません。みんなが「俺は本質を見抜く目を持っている!」と思っているのであれば、誰も自己啓発本など買わないでしょう。

POINT

● 本質を見抜く目がほしい人は本質を見抜きたいのではない。簡単に要点がつかめるようになれば良いと思ってるだけ。

 

本質を見抜けない人=自分に自信がない人

ではなぜ多くの人は「本質を見抜く力がほしい」という欲求を持つのでしょうか?

結局のところ、それは「自分に自信がないから」ではないでしょうか。

この本によれば

抽象化というのはある意味で(目的に合わせて)「都合の良いように特定の属性だけを切り取る」こと

を意味しています。(本書P98)

 

都合の良いように切り取るということは、逆に言えば「都合の悪いところは切り捨てる」ということです。この「切り捨てる」という行為はなかなか勇気がいります。

切り捨てること自体は簡単ですが

「切り捨てた部分に何か重要なものが残っているかもしれない」

「切り捨てることで誰かからクレームを付けられるかもしれない」

そんな不安が頭をよぎります。

その不安から逃れられないために、いつまで経っても「本質をつかむ=都合の良いところだけ切り取る」ということができないのです。

 

したがって、物事を抽象化し、本質をつかむのに必要なのは何か? と言えば、自分が必要ないと思うところを思い切って切り捨てる“勇気”であり、その勇気を裏付けるための“自信”なのです。

POINT

● 物事の本質とは、目的に合わせて物事を都合よく切り取ること。

● 本質を掴むためには重要じゃない部分を切り捨てる勇気と自信が必要。

 

 

自信をつけるためにやるべきこと

ここまでで

・本質なんて幻想

・重要なのはいかに自分が大事だと思う要素を都合よく切り取るか (=抽象化するか)

・抽象化するために必要なのは自信

というポイントを引っ張り出して来ました。

 

とは言え、ですよ。

じゃあ、自信を身に付けるにはどうすれば良いのか?という話です。

結論から言うと、これはやはり「研究と検証、そして実践しかない」と思います。

いや、本当に月並みで申し訳ないですm(_ _)m

 

でも、一つだけ補足させてください。

私は専門分野が音楽なので音楽に話を置き換えますが、一般の人たちがテレビやライブで見るアーティストは楽しそうに、そして自信に満ちあふれて演奏しているように見えますよね。

しかし、あれは外から見るとそう見えるだけで、ほとんどの場合は心臓バクバクで演奏をしています (少なくともライブが始まる直前までは間違いないです)。常に失敗と隣合わせですし、今自分がやろうとしていることが正しいのかどうかの葛藤を抱えています。

 

アーティストというと、何か天賦の才能があって“ヒラメキ”で何かを作り出せるような人だと思われていると思います。確かに中にはそういう人もいるかもしれません。しかし、そんな人は10年に1人とかそれレベルの話で、ほとんどのアーティストは違います。

 

私は職業柄そういったアーティストと接することが多いのですが、伸びるアーティスト、長続きするアーティストは常に研究と練習を怠りません。

素晴らしい演奏をするアーティストほど、他のアーティストのプレイをチェックして、新しいテクニックを貪欲に吸収しています。そして、それを自分なりに解釈し、何度もトライ&エラーを繰り返しています(それが一般人の目と耳ではほとんど分からないだけ)。

音楽の世界でも知識や技術は日進月歩で、ギターやドラムのフレーズひとつにも「時代の風」があります。どんなに名フレーズでも必ず「古い」と言われるようになります。ですから、新しさを常に追求し、自分の演奏力の改善のために努力を怠らない人しか残っていけません。これは間違いないです。

そして、そういう人だからこそ新しい局面を迎えた時にも

「どのような解決法 (=フレーズ) が考えられるか?」

「いくつもの選択肢の中で、どれがより多くの人の合意を得られるか? (=みんなが“カッコイイ!”と思ってくれるか)」

を考えて、その場に合わせた演奏を瞬時に繰り出せるのです。それは常日頃からの研究と検証、そして実践があればこそ可能になります。

ちょっと知識や感覚を掴んだくらいでパッと解決できるようになる“コツ”なんて物は存在しません。

POINT

● 日々の研究と検証、そして実践を怠らない人だけが物事の本質をつかめる

 

 

 

まとめ

ちょっと長くなってしまったので、最後に整理しておきます。

まず、物事の本質を見抜く目などという都合の良いものは存在しない。

重要なのは本質をつかむことではなく、「これが物事の本質だ」と断言できる勇気と自信をもつこと。

そして、それを身につけるためには、日頃から周囲の動向に目を配り、知識や技術を研究 & 検証し、それを実践する努力が必要です。逆に言えば、そのような努力を日々行っていれば、本質を見抜く目は誰にでも身に付けられるということ。

そのような努力の一環として考えると、今回ご紹介したこちらの本はとても参考になると思います! 

長文を最後までお読み頂きありがとうございました!
 

退屈から逃れる方法はあるか?國分功一郎著「暇と退屈の倫理学」。

こんにちは、みなさん! 突然ですがみなさんSNSやってますか?

SNSと言えば、昔はMixiしかありませんでしたが、今ではTwitter, LINE, Facebook, Instagarm, TikTokなどなど・・・ 膨大な種類のSNSがありますね。

もう数が多すぎるあまり、気になった投稿があってもどれに書いてあったのかさえ思い出せない。友だちに連絡した時にどれで連絡したかも覚えてない。そんなこともしばしばです(笑)。

でも、それぞれのSNSから毎日大量の情報が送られてきますが、どれだけの人が真剣に見ているのでしょう? ぶっちゃけ「特にやることないから退屈しのぎ」で見ている人がほとんどじゃないでしょうか。

しかも退屈しのぎでSNSを見ているのに、ぼーっと見てるだけで「やっぱり退屈」。気晴らしにさえならない。そんな経験、誰しもあるのではないですか?

そんな「何となく退屈」を感じているあなたにオススメなのが、今回ご紹介する「退屈とは何か?」を徹底的に考えた本、國分功一郎 著「暇と退屈の倫理学」です。

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

 

著者略歴

著者は國分功一郎 (こくぶん こういちろう) 氏。東京大学准教授。専門は哲学ですが、政治体制や国家統治論、あるいは経済学などについても造詣が深い。私もいくつか著書を持っていますが、「来たるべき民主主義」「近代政治哲学史」など、哲学的な考察をさまざまな分野の問題に応用して、生きた学問として哲学を研究している学者。そんなイメージです。

  

こんな人にオススメ

「やることは沢山あるけど、なんとなく退屈。」

「仕事は忙しいけど何か充実しない。」

そんな現代人特有の悩みを抱えるあなたにオススメ!

「暇」や「退屈」という現象は一般的に「やることがない人」「ぼんやり、流されるように生きている人」が感じる物だと思われています。しかし、この本を読み進めると、実は「日々忙しく、考えるような余裕もないような人こそが退屈に陥っているのだ」ということことがわかってくるんです。

「忙しいのに退屈」。

一見矛盾しているようですが、しかし多くの現代人が悩まされているこの恐るべき退屈のメカニズムに対して、哲学的な視点から平易な文章に切り込む意欲作となってます。

 

  

暇と退屈は別物?

ところで「暇」と「退屈」はよく混同されて使われますが、実は意味が全然違います。特にこの本では「退屈」の方は人間の持つ活力を弱めるようなネガティブな方向で使われます。一方で、「暇」はむしろ人間の活力をより豊かにする「ゆとりのある時間」のようなポジティブな方向で使われています。

ちょっと軽い言い回しになりますが、「ネガティブな退屈を乗り越えて、暇な (=余裕のある) 人生を踏み出そう」というような意味合いの本だと考えて頂いた方が良いと思います。

したがって、この本を読む時には「暇」と「退屈」を分けて考える必要があります。

その上で「退屈」になぜ倫理学が必要なのか。

退屈の何がマズイのかを考えてみましょう。

POINT

●退屈はNot Good! でも暇はGood!

退屈だと何か問題があるの?

この本の中ではさまざまな哲学者による「退屈論」が紹介されます。

その中で重要なのが20世紀の哲学者バートランド・ラッセルです。著者によるとラッセルは次のように「退屈の原因」を解説します。

人は毎日同じ日々が繰り返されることに耐えられない。そのように想像することにすら耐えられない。だから人は今この瞬間を変えてくれる“何か”が起きてくれることを望んでいる。

それは別に良いことでも、悪いことでも良い。“同じことの繰り返し”にさえならなければ何でも良い。

それは他人の不幸だけに留まらない。場合によっては自分自身の不幸すらも「退屈よりはマシだ」と求める可能性がある。

つまり「退屈している人間がもとめているのは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。興奮できればいい。だから今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、不幸であっても構わないのである。」 (本書P57を要約)。

 

恐ろしいですね。

退屈している人が求めるのは興奮であり、興奮できさえすれば“何でもいい”。ちょっと受け入れがたいかもしれません。でも、会社で横行するパワハラ、なくならない学校でのいじめ・・・人が集まるところでは何かしらこういう問題が起きます。

それもそのはず。要するに退屈だからです。退屈を紛らわすためであれば何でもいい。

よく「なぜいじめがなくならないのか」ということが言われますが、人間が退屈である限りいじめのような社会問題はなくならないということです。

POINT

●退屈を感じている人は非日常的事件を求めている

●非日常的事件ならば自分が不幸になっても良い。それが退屈の恐ろしさ。

なぜ人は退屈するのか?

ではなぜ人は退屈するのでしょう?

これに関して著者はいくつかの原因を紹介するのですが、その中でもめちゃくちゃ面白いのが、人間の脳が歴史の中で高度に発達しすぎたから、という話です。これはメチャクチャ面白いのでぜひ読んでほしいです。

少しだけ紹介すると・・・古代の人間はどこかに定住せずに移動しながら生活をしていました。その中で人間は食料を得たり、危険を回避するために探索する力、物事の動きを予測する力など、さまざまな能力を磨き続けてきた。ところが農業革命などにより定住生活を行うようになると、その高度の発達した探索能力を持て余すようになった。

この「能力の持て余し」が退屈を生み出しているというのです。

だから人間は退屈から逃れることができない。何をしていても「なんとなく退屈だ」という心の声を耳にしてしまう。

本書ではもっと丁寧に詳しく説明してありますが、おおよそこんな流れです。

この説が歴史的に正しいかどうかは分かりません。ただ、実際に能力一杯にフルパワーで活動していれば退屈を感じる隙間などありません。また、どんな人間でも24時間フルパワーで活動することはできません。

そう考えると「退屈」と「能力の持て余し」に関係があるという説はとても面白いと思います。 

POINT

●古代から磨いてきた人間の探索能力は、安定した定住生活によって消化しきれなくなった

●人間が退屈を感じのるのは能力を持て余しているから

退屈を乗り超えることはできないのか?

さて、ここまでの話によると

・退屈から逃れようとする気持ちが自分や他人の不幸をも招く

・退屈は人間の高度な能力の裏返しであり、逃れられない

ということになります。

つまり、人間は退屈から逃れることはできないのに、それから逃れようと様々な不幸を呼び込む罪深い存在だということです。それが人間の性である以上、人間はこれからもずっと退屈を紛らわせるために、これからもずっと不幸を招き続けるのでしょうか?

人間が退屈とそれが招く不幸を乗り越える方法はないのでしょうか?

 

この本ではその問題に対して3つの結論を提示しています。

しかし、具体的その内容についてはここでは取り上げません。

ネタバレになるという理由もあるのですが (笑)、一番の理由は著者がこれらの結論は本書を通読してから読まないと意味がないとはっきり書いているからです。

これは本当にその通りだと思うし、私は著者の意図を尊重したい。だからここでは著者の結論は紹介しません! (笑)

実際、著者が出している結論は取り立てて特別な話ではないのです。

推理小説で先に犯人を知るために最後から読んでしまう人がいますが、その方法で読むのこの本はつまんないです。

逆に、その結論に至るまでの話の展開を理解してから読むと「深い!」と思わせられるものです。ですので、ぜひ本書を読んでその結論の「味」を味わって欲しいと思います。

 

とはいえ。

ここで強制終了ってわけにもいきませんので、著者の結論を踏まえた上で、私なりに著者の考えと私の考えを融合させた「退屈を乗り越える方法」ついて書いてみたいと思います。

「退屈」を超えて「暇」へ至る方法

さて、ここまで「退屈」を主軸にしてこの本の内容を紹介してきました。しかし、タイトルにある「暇」の方はほとんど取り上げていません。

実はこの「暇」という概念が退屈を乗り越える上で重要になってくるのです。

 

最初の方にも書きましたが、この本では「暇」と「退屈」を分けて考えています。退屈はここまで紹介してきたように、どちらかというとネガティブな要因として取り上げています。

一方「暇」の方はかなりポジティブな捉え方。

 

どちらも時間を持て余している状態という意味では似ていますが、

  • 退屈 : もっと時間を有効に使いたいのに、自分の力では何ともならず無為に時間だけが過ぎていく状態。
  • 暇 : 時間に余裕があり、自分の意思次第でその時間をどのようにも使える自由な裁量が与えられている状態。

言い換えると退屈は自分では何もコントロールできない奴隷状態なのに対し、暇は自分でコントロールできる自由人の状態。この2つは似て非なるものなのです。

 

先程もご紹介したように、人間の高度な能力の結果でもある「能力の持て余し」状態自体は避けることができません。でも、それを「退屈」ではなく「暇」に変換することはできる。自分が何かに囚われる隷属状態をできる限り避け、自分が時間をコントロールする「暇」の状態を生みだすこと。

それができれば「退屈が招き寄せる不幸」を克服し、より実りのある生活を実践することができるのではないか? それこそが「暇と退屈の倫理学」というわけです。

では、どのようにすれば退屈から暇へと転換することができるのでしょうか?

 

退屈を乗り越えるために必要なこと

それはズバリ、「目の前にある一つ一つのことに真剣に向き合うこと」です。

 

たとえば退屈の気晴らしにSNSで有名になっているカフェに行ったとしましょう。

そのカフェでオススメのコーヒーを飲み、それを写真に撮ってインスタに上げる。

それがいろんな人からシェアされたり、「いいね」をもらって満足して家に帰る。

よくある体験ですね。

もちろん、これはこれで一つの楽しみ方ではあります。

ですが、これだと単なる退屈の気晴らしでしかありません。「素敵なカフェに行ったおしゃれな私」というステッカーを自分に貼るために、時間を消費しただけなのです。

それだと結局、すぐ「なんか退屈だな〜」という気分になるでしょう。退屈の無限ループに突入です。

 

でも、例えばそのカフェに行った時に「なぜ人気なのか?」を考えてみたらどうでしょう。

立地条件? 内装のデザイン? コーヒーを淹れる人が何かの賞を獲った人だから?などなど・・・。

あるいは実際にコーヒーを飲んで美味しいと思ったのなら、なぜそのコーヒーが美味しいのか考えてみたり、実際に店員に聞いてみる。どこで作られたコーヒー豆なのか? どうやって淹れているのか?

もしそのコーヒー豆が手に入るのであれば、それを自分でも淹れてみてみる。もっと美味しくできる方法はないのか考えてみる。

 

そのように物事をただ「消費するだけ」ではなく、一つ一つにちゃんと向き合い、自分で考えてみると、実は世界には自分の知らない新しい何かに満ちていることがわかってきます。

退屈は現代人が持てる能力を持て余していることが原因だと書きました。だったら、能探索能力、予測能力、分析能力などの高度な力を最大限に活用できる場所を探せば良い。そして一つひとつの物事にちゃんと向き合えば、実はその可能性はいくらでも転がっているのです。

そのような世界の可能性を楽しむ時間を持つこと。

自分で自分の時間の使い方や、自分が何に心を動かされるのか、そのようなことに向き合うゆとりを持つこと。

これこそが「退屈」を超える「暇」の極意であるように思います。

POINT

●一つ一つの物事に真剣に取り組もう。それが退屈の無限ループから逃れる方法だ。

●自分を見つめる余裕を持つ = 「暇」。これが退屈を超えるために必要。

まとめ

という訳で、今回ご紹介した「暇と退屈の倫理学」、いかがだったでしょうか?

どんなに仕事が忙しくても退屈を感じる人は多いと思います。

忙しくて大変なんだけどなんか充実しない・・・。そんな「退屈」を持て余している人が。

 

もちろん「退屈だなぁ」とぼやきながら気晴らしに興じるのも良いでしょう。「何かをしないと時間がもったいない」とストレスを感じるよりは余程マシかもしれません。

ただ、どうせ退屈ならその「退屈」という気分がどこからやってくるのか。

なぜ自分は退屈だと感じるのか。

退屈から逃れるためにはどうしたら良いのか。

と、退屈について徹底して考えてみるというのも一興ではないでしょうか。

案外退屈について真剣に向き合ってみることで、今まで見えなかった新しい世界が見えてくるかもしれませんよ。この「暇と退屈の倫理学」という本は、その退屈論の道案内としては絶好の図書になると思います。ぜひご一読を!

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 
長文を最後までお読み頂きありがとうございました!
 

世界は再び全体主義の時代へ進む? 吉成真由美「嘘と孤独とテクノロジー」

グローバリズムによってもたらされた社会の格差拡大によって、世界各地で社会の分断が激しくなっている。上級国民・下級国民という言葉が世間でも聞かれるようになった日本も他人事ではない。

そんな社会の分断に侵食してくるのが全体主義ファシズムだ。全体主義の代表格とも言えるナチスドイツが生まれたのも、第一次世界大戦前後の社会格差が拡大した時代。当時も悪しきポピュリズムナショナリズムが世界中で台頭していた。

実際、その当時の社会情勢と現代の類似性を指摘する声は最近多く聞こえるようになっている。果たして世界はまた全体主義の闇に覆われる時代になるのだろうか。

 

今回ご紹介する本の著者である、吉成真由美氏もそのような不安を抱えている人物の一人です。

吉成真由美 著「嘘と孤独とテクノロジー -知の巨人に聞く-」

吉成氏はマサチューセッツ工科大を卒業したサイエンスライター。今までも「知の逆転」「知の英断」などの著作で、サイエンスと哲学両方の視点から現代社会が抱える問題を取り上げてきた。今回もまたティモシー・スナイダー、スティーブン・ピンカーノーム・チョムスキーといった世界を代表する“知の巨人”との対話の中で、世界は再び全体主義へと染まっていくのか。それを回避する方法があるとすればどうしたら良いのかを考えていく。そのキーワードとなるのが、この本のタイトルでもある

「嘘」

「孤独」

そして「テクノロジー」。

 

民主主義 × テクノロジー

私たちは理性的な判断を下せる個人が集まれば、より正しい解決策を見出だせると思いがちです。だからこそ民主主義が一番良い政治制度だと素朴に考えています。

しかし、歴史的に見るとそうとも言えません。たとえば独裁政権として有名なナチスドイツ。ナチスもあくまで民主的な選挙に政権を獲得したものでした。軍事クーデターによる革命を起こしたわけではなく、民主主義によって国民自身が独裁国家を選んだのです。

そして、そのナチスドイツが政権を取り、独裁体制を強めていく中で最大限に活用したのが「テクノロジー」の力でした。当時の最先端テクノロジーはラジオと映画。それらの「宣伝力」を最大限に活用して、ナチスはその考えをドイツ社会に浸透させて行ったのでした。

私たちはテクノロジーとは人類に反映をもたらしてくれる素晴らしいものだと素朴に信じています。しかし、どれほど進んだテクノロジーであっても、結局は使う人間次第でテクノロジーは「大いなる幸せ」も「大いなる厄災」も、どちらももたらすことになるのです。

POINT

●個人より集団の方が正しい判断を下せるとは限らない

ナチスドイツは民主的選挙から生まれた

 

テクノロジー × 嘘

「真実がまだパンツを履こうとしているころ、嘘の方はすでに世界を一周している」。

これはあくまで冗談ですが、それほど嘘は真実よりも圧倒的に早く世界を駆け巡ります。フェイクニュースやデマが瞬時に拡散され、実際に人々がそれに扇動されるのを目にすることが多いのは皆さんもご存知でしょう。

この本で紹介されているのですが、MITことマサチューセッツ工科大の最新の研究によると、

  • 嘘は真実よりもリツイートされる可能性が70%高い
  • インターネットを通じて、嘘は6倍も速く、広く、深く伝わる

ということが分かっているそうです。なぜでしょうか?

その理由は“嘘の方が真実よりもカラフルでインパクトがあって驚きの度合いが高いから” (本書P297)。往々にして真実というのはつまらないものです。分かってみれば当たり前のことばかりで、誰かに話したくなるような面白みは特にありません。

しかし、嘘の方は違います。

嘘の方はみんなが飛びつきそうな面白さやセンセーショナルな躍動感がある。そしてその場合の嘘は誰にでも分かる100%の嘘ではなく、少しリアリティのある“ありそうで、なさそうな嘘”である必要があります。

 

例えば新型コロナウィルスが流行りだした頃、「マスク生産に紙が使用されるから、トイレットペーパーが無くなるぞ」というデマが日本を駆け巡りました。冷静に考えればそんなことはあり得ません。しかし、昔のガーゼマスクと違い、不織布のマスクが増えたことで「マスクの生産に紙が使われていると言われれば、確かにそんな気も・・・」というほんの少しのリアリティがあったため、多くの人が“我先に”とトイレットペーパーの購入に走ったのです。

 

我々はテクノロジーと言えば、素朴に何か良さそうなものだと信じています。しかし、どのようなテクノロジーも使う人次第。使い方によっては嘘を拡散するツールともなり得ることを改めて認識する必要があります。 

POINT

●ネット上では真実より嘘の方が6倍も速く広く伝わる

●テクノロジーは使い方を誤ると社会を混乱させる

嘘 × 孤独

さらにテクノロジーによって拡散される嘘の本当に恐いところは、社会を分断し人々を孤立させることです。

 

社会に嘘が蔓延すると、嘘と真実がすさまじいスピードで交錯し、人々は何が本当で、何が嘘なのかがわからなくなります。そうすると人々は真実を探ろうとする意欲が削がれ、自分の内に引きこもってしまう。自分の内部にこもり現実への関心をなくした人々は、容易に孤立します。自分と社会をつなぎとめる物がないからです。全体主義はその孤立した人々の隙間に侵食し、人間の心を支配します。

「一人一人が自分の携帯電話を見つめていて、お互いに話しをしない状態が、社会を支配するには最も都合がいいわけです」 (本書P291。言語学者ノーム・チョムスキー)

テクノロジーによってもたらされた嘘の蔓延が孤独を招く。そして人も社会も脆い個人になる。そこに強固なリーダーシップを発揮する存在が現れた時、人々はその強さを盲信し、社会が全体主義化する。実際に、第二次世界大戦前に台頭したファシズムはそのようにして各地で独裁化を進めた。そして恐ろしいことに、多くの国民はその「強いリーダーによる独裁」を心から歓迎したのです。

POINT

●テクノロジーによる嘘の拡散は社会を分断する

●人々が分断された隙間に全体主義は浸透する

全体主義を避けるにはどうすれば良いか?

「嘘 × 孤独 × テクノロジー」で満たされた社会は、容易に全体主義ファシズムに変容しやすい。では、それらの到来を避けるにはどうすれば良いのか?

 

そもそも全体主義が社会に侵食するのは、社会に一人のちからではどうしようもない不安や不満、そして怨嗟が満ちている時です。たとえば日本のバブル期のように、人々が“イケイケドンドン”の時に全体主義に傾くことなどあり得ません。経済の停滞や所得の減少、将来への不安、社会の分断などが起こっている時こそ全体主義が登場します。

つまり全体主義は“人々の悩みや苦しみを解決するために”登場するわけです。実際、第二次世界大戦前のファシズムも「富の再配分」「社会格差の是正」を理念に社会に浸透していきました。

そして、その“格差や富の集中で不正に得をしているやつら”を敵として作り出します。そして「やつらを排除すれば、我々の生活は改善するのだ」という“物語”を提供するのです。その物語を信じた人々が「不遇な我々 VS 不正なやつら」という対立構造を一気に解消するために、(異論を排除して全体が一つになることを強要する)全体主義が権力を握るのです。

 

この本で示される全体主義を回避するのに有効な方法は、一人ひとりが孤独にならず社会とのつながりを持ち続けること。すなわち、そのために人と人がちゃんと向き合って対話することです。

自分以外の誰かを抽象的な存在として考えてしまうことは、容易に「我々と誰か」という対立構造を生み出します。しかし、他者をちゃんと自分との関わりで認識できれば、簡単に対立構造には結びつきません。

 

私たち一人ひとりが社会と真剣に向き合うこと。それを心がけていれば全体主義が入り込む「単純な対立構造」を生むこともなくなります。また、一人ひとりがちゃんと社会と繋がり、社会の複雑さを理解していれば、「不正に利益を得ているやつらを排除すれば解決する」などといった一発逆転シナリオに騙されることもなくなるのです。

POINT

全体主義の支配を回避するには人々が社会とのつながりを持つことが大事

●「自分達VS誰か」という敵対構造が全体主義による支配をもたらす

まとめ

この本は5人と巨大な知識人へのインタビューという形式で構成されています。それぞれのテーマが人類全体に関わるほど大きく、深い。したがって、5人へのインタビュー記事がまとめられた本として読んでも楽しめます。しかし、それだけではもったいないと思います。

ここまで見てきたように、著者はもちろんインタビューを受ける5人の考えの底には、全体主義への危機感が音楽のベース音のようにずっしりと横たわっています。その危機感を持った5人の巨人にインタビューすることで、世界がどうあるべきかを模索している。まるで修行僧が住職に世を救うための方法を問うているかのようなイメージです。

話題はこれからの社会を考える上で非常に重要で深いものですが、それを「知識人が教える」のではなく、“世界のあるべき道を一緒に考えていく”対話の席に同席しているような非常に貴重な体験を提供してくれる本だと思います。

オススメです!

「緊急事態宣言」という愚策と「事業規模」というごまかし

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とうとう緊急事態宣言が出される事態になってしまいました。 

世の中の空気とは敢えて全く逆のことを言いますが、はっきり言ってこんな馬鹿げた話はありません。なぜならこの宣言によって日本の経済恐慌の被害が激化する可能性が非常に高いからです。

今回はこの時点で緊急事態宣言を出すことの負の側面についてご説明いたします。

ちなみに最初に書いておきますが、私は「どんな状況でも緊急事態宣言を出すな」と主張している訳ではありません。出すタイミングと出し方によるが、今の出し方だと絶対にマズイと述べているだけですので、その点はご理解ください。

 

テレビや新聞、あるいはネットでの反応を見る限り、どうも多くの人がこの「緊急事態宣言」という言葉にばかり注目が行って、その中身のことを考えていないようです。

たとえば

「海外ではとっくに緊急事態宣言が出されているのに日本はのんびりしている。」

「政府は危機感が足りない。国民の緊張感を高めるためにも一刻も早く出すべきだ。」

「今回宣言が出される7都市以外の地域も安全という訳ではない。どの地域も緊急事態宣言を出されたと思って動くべきだ。」

とか言った意見が散見されます。

こういう意見から考えるに、どうも

国民の緊張感を高めるために緊急事態宣言を出すべき」

「(政府がのんびりしているようだから) 真剣に取り組みますという意思表示のために出すべき」

だと考えている人が多いようです。しかし、これは完全に間違っています。

 

 

すでに広く言われているところですが、そもそも緊急事態宣言を出したところで外出の禁止はできません。またイベントを自粛を強く要請することができますが禁止することはできません。したがって緊急事態宣言を出したからといって拡散がすぐに止むわけではないのです。

確かに政府が緊急事態宣言を出すと言う事の心理的インパクトがあるかもしれません。しかしそれによって失われる経済効果というのは非常に甚大なもので、これはどれだけ多く見積もっても見積もりすぎることはありません。むしろ緊急事態宣言を出したことによって、緊急事態宣言倒産に陥る企業や、緊急事態宣言失業者が出る可能性が非常に高いのです。

 

というのは、緊急事態宣言が出ていない状況であれば、企業がそれぞれの裁量に基づいて社員の出勤を止めさせることができます。その際の休業補償は政府が行います (安倍政権は全力で回避してますが…)。なぜならあくまで政府が要請をしてそれに企業がしたがっている形だからです。しかし緊急事態宣言を出してしまうと、その補填は政府が行う必要はなくなります。なぜなら「緊急事態」だからです。「国家的緊急事態なのだから、全国民を挙げて政府に協力すべし!」ということになり、政府は補填を行う必要なくなるのです。そうなるとどうなるでしょうか?

緊急事態宣言によって発生する経済的損失は、個人や企業が負担しなければならなくなるということです。大企業であればある程度の期間社員を雇い続けることができるかもしれません。しかし、そのような体力がある企業はどれだけ日本にあるでしょうか? 大半は会社が存続するために社員を切り捨てざるを得ないか、大幅に給料をカットするしかなくなるでしょう。

つまり緊急事態宣言を出すことによって、その経済的負担は逆に会社員や個人事業主に押し付けられ、むしろその経済的損害が果てしなく大きくなるのです。おそらく「緊急事態宣言を早く出せ」と言っている人たちのほとんどはそんなことは考えていません。

 

しかし、緊急事態宣言による経済的損失に対応する経済対策には、莫大な額の財政支出が必要になります。しかし、緊縮財政一本槍の財務省が天下である現在では、その額を引き出すことは不可能でしょう。それを実現するには総理大臣が財務官僚と全面対決するくらいの覚悟がなければならないのですが、これまでさまざまな政策を考えるに安倍政権にその気概はありません。消費増税によって実質GDPが年率で7%以上も下落するというとんでもない経済危機を引き起こしたにも関わらず、未だにろくな経済対策を打てていないのですから。それどころか、「この不況は消費増税のせいではない!コロナウィルスのせいだ!」と自分たちの失政をコロナウィルスのせいにしている始末です。こんな政府にまともな経済対策を打ち出せるわけがありません。

メディアでは「事業規模108兆円。かつてない経済対策!」とか言われていますが、はっきり言って無価値!!

「経済規模」なんてどうでも良い!!!真水で・・・つまり国債発行によって実際にいくらお金を注入するのかが重要なのです。

今日予定通り緊急事態宣言が出されるのであれば、それと同時に経済対策が打ち出されるはずですので、みなさんも必ずそれを確認してください。これが事業規模ではなく「国債発行額」で見てください。それが50兆円 (GDPの約1ヶ月分)を下回るようだったら、それは「政府は完全に国民を見捨てた」ということを意味します!

 

 

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございました。

 

コロナウィルス経済対策は「事業規模30兆円」じゃ全然足りない

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新型コロナウィルスの国内経済への悪影響のために政府が超大型経済対策を打ち出そうとしています。 ただ、その経済対策の中身についてはどうも“前例に囚われない”とか“超大型”とかいう言葉だけで、中身が全く伴ってないスカスカの経済対策”になりそうな様子です。

これをこのまま実行されて「経済対策してやったぜ!」と威張られると大問題ですので、現在上がっているプランがいかにダメダメなのか。そしてなぜ駄目なのか?

細かいことを説明し始めるとキリがないので、今回は

 

・事業規模30兆円超えの経済対策

・一律現金給付見送り

・商品券配布

 

この3点に絞って説明したいと思います。

 

[目次]

  

「事業規模30兆円超」の“事業規模”とは

恐らく多くの人が「30兆円を超える経済対策」と言われると、その金額だけで大規模な対策が講じられるように感じるでしょう。しかし、残念ながら騙されていますよ! (笑)

くせものは「事業規模」という言葉です。事業規模30兆円超えと言われるとまるで全て政府が負担して30兆円以上の支出を行うように思われますが、実は事業規模というのには

 

・国の財政支出

地方自治体の財政支出

・民間金融機関から民間企業への融資

・政府事業に関係する民間企業の資金

 

などが含まれます。

分かりやすく単純化して言うと、民間金融機関に政府/日銀が働きかけて1%で民間企業に1億円融資させたとしましょう。その場合1億円に対して1%の利子分 (100万円) を政府が負担し、銀行が1億円貸し出すことになります。この場合でも政府の経済対策としては「事業規模1億円」になるのです!

いやいやいや、政府は100万円しか払わないじゃないか! と思われると思います。というか、そもそも1億円も民間金融機関が企業に貸し出したのであって、政府が貸し出している訳ではありません。

それにも関わらず“政府が関わった事業の規模”は1億円ということになるのです!!

 

事業規模マジックは政府の常套手段

恐らくほとんどの人が信じられないと思いますが、これは今回に限った話ではなく、よくある「普通の話」なのです。例えば昨年消費増税が行われた時にも「政府は事業規模26兆円の経済対策を発表」などと報道されましたが、これも中身を見てみると実際に政府が行う支出は

 

1) 災害からの復旧・復興と安全・安心の確保 5.8兆円
2) 経済の下振れリスクを乗り越えようとする 者への重点支援  3.1兆円
3) 未来への投資と東京オリンピック・パラリ ンピック後も見据えた経済活力の維持・向上 4.3兆円

 

と13.2兆円くらい。あとは全て民間の支出です。それにも関わらず「事業規模26兆円」!!と報道されるのです。

 

リーマンショック時を超える経済対策?

さて、ここまで事業規模という言葉がいかに一般常識からかけ離れた概念であるかを説明してきました。これを元に下記の時事通信の報道を見ると本当に気持ちが萎えてきます。  

経済対策は事業規模30兆円超とされ昨年末に策定した経済対策(26兆円)と合わせると、リーマン・ショック時の経済対策(56・8兆円)を超える見込み。

と書いてありますが、リーマン・ショックの時の経済対策56.8兆円というのも実際に政府が支出したのは13.9兆円。あとは民間支出だった訳です。そもそもコロナショックが起こる前に消費増税対策として行われた経済対策の事業規模と、今回のコロナショック対策の事業規模を足し算して何になるんだ??という感じです。全く無意味。

結局「リーマンショック時を超える経済対策」という言葉を使いたいから、都合が良い数字を足し算しただけでしょう。

繰り返しますが「事業規模30兆円」という言葉に騙されてはいけません。

政府が新たに国債で“最低でも30兆円以上”を支出して初めてまともな経済対策になる。

このことをくれぐれもお忘れないように。 

 

一律現金給付を見送るという愚の骨頂

これは多分森永卓郎氏が最初に提案した内容だと思うのですが、国民への一律現金給付案です。

現時点でまだ確定はしていませんが、どうもこれも見送られる可能性が高いようです。上記の時事通信の報道によると

新型コロナ拡大で休業などを強いられるケースが増えており、政府関係者は「本当に困っている人に厚めに現金が行き渡るようにすべきだ」として、一律給付は見送った上で、早ければ5月にも始めたい考えだ。

 

 とのこと。

まぁ、正直「アホかwww」の一言で片付けたいのですが・・・(笑)。

そもそもこういう事は一度「検討している」ということが漏れてしまえば、取り下げた途端国民の士気が下がります。本気で検討するのであれば外に漏らしてはいけませんし、外に漏れた以上やるしかないのです。その辺りの政治的機微が分からない時点で、安倍政権に相当政治的センスがないのがわかります。

 

それは置いておいたとしても、「本当に困っている人に厚めに現金が行き渡るようにすべきだ」という言葉に現状と先行きについての認識が根本的に間違っていることが現れています。今回のコロナショックのような恐慌というのは、遅れれば遅れるほど本当に困っている人はねずみ算式に増えていくのです。

“今”困っている人を助けている間に、次の瞬間には別の人がもっと困っているのです。その都度困っている人を救済するような対処療法的な対策では間に合いません。戦力の逐次投入は最も愚かな行為であり、最初に全精力を注ぎ込んで叩き潰さなければならないのは兵法の基本です。 

 

特化型商品券の愚かさ

私個人の意見としては商品券の配布自体は意味がある対策だと思います。

ただ、それは当然他の経済対策へのプラスαとしてであり、むしろ「最低でも消費税をゼロにしろ」が基本です。今回はそこまで踏み込みませんが。

 

したがって政府が商品券の配布を検討していること自体は別に否定するつもりはありません。問題はこれです。

五輪延期を補うための景気刺激策として、政府・与党は観光やイベント向けに特化した期限付きの商品券発行などを検討する。新型コロナの影響が収束した後に、国内観光を盛り上げてインバウンドの減少をカバーしたい考えだ。

国内観光を盛り上げることは確かに大事なことです。それに観光地に限らずとも、地域密着型の商店街なども大打撃でしょう。政府の自粛要請により人の移動が制限されたことで、どこの業界でも壊滅的な損害を受けている事業者は大勢います。

商品券発行による救済を企図するのであれば、当然どのような消費活動にでも使える商品券にするべきです。分野や給付対象を絞るべきではありません。結局そのような分野特定型の商品券は国会議員が自分に有利な分野への消費を促したいための利権奪取の活動でしかないと思います。

という文章を書いていたらこんなニュースが・・・。

新型コロナウイルスの感染拡大を受けて政府が4月にまとめる緊急経済対策をめぐり、国産牛肉を購入できる「お肉券」や、魚介類を対象とした商品券を配る案が自民党内で相次いで浮上している。高級食材を中心に減った需要を下支えする狙いだが、幅広い分野で需要が減っている中で対象を絞った商品券が実現するかは不透明だ。 

 やっぱりそういう利権絡みの話になりますよね。もう本当にこの国いやだ・・・・(泣

 

 今の経済対策案の何が一番まずいか? 

さて、ここまでボロボロに批判してきた政府の経済対策ですが、変な話「中身もボロボロだが言葉も中身と同じくボロボロ」ならそれはそれで良いのです (当然経済対策としては駄目なんですが)。問題は「言葉は勇ましく、いかにも大規模な対策を打っている感を出しているけど、実は中身がボロボロ」という場合。そしてそれが広く浸透してしまう場合で

この場合にまずいのは、たとえ全然効果が得られず日本経済がガタガタになっても「安倍政権はやれることは全てやった。今回のことは前例のないことなのだから、誰がやっても完全な対策はできなかった。安倍政権だからここまでやれたんだ。」という空気が出来上がってしまうこと。

これは非常に厄介です。

 

そうではなくて「安倍政権のやとうとしていることは最初から規模もしょぼく、内容も的外れで、まともな経済対策とは思えないとんでもない代物だった」ということが共通理解にならなければなりません。そして、まともな経済対策がスピーディに行われるように世論を盛り上げなくてはならないのです。そうしなければ、この1年の間に大量の失業者や経済破綻した人たちが生まれ、バブル崩壊後を超える大量の自殺者を引き起こし、下手したらアメリカのように国民が自分たちの身を守るために武装しなければならないような社会的混乱を招きかねません。これは大げさでも何でもなく、本当に私たちはそのような歴史の転換点にいるのだということを一人でも多くの人が考えてくれることを願っています。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

あなたの食卓が危険で一杯になる日。日本の食料安全神話崩壊 その2

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早速ですが今回は前回の記事に続き、種子法が廃案になったことによって私たちの食生活にどのような影響が出るかについてです。

 

 

 

 [目次]

 

種子法廃止後、誰が種を作るのか?

さて、前回の投稿でもご説明したように日本の食料の基盤となる「食物の種子」を守るために、採取農家 (種子の生産を主にする農家) の方々が「採算度外視」とも言えるほどの努力を行っています。ただ農家の方々も生活しなければなりませんので、その支援を国や地方自治体が行っています。その予算の根拠となるのが種子法だった訳です。

その種子法が廃止されたことにより、採取農家の方々への支援が途絶えることになります。

そうするとどういう事になるでしょうか?

 

地方自治体からの支援がなくなると当然農家は今までのような価格や形態での販売ができなくなります。そうなると採取農家の廃業が相次ぐことになり、逆に資金力のある大手民間企業が参入してくることになるでしょう。

もちろん民間企業が参入してくること自体は別に問題ではありません。

ただ、民間企業が参入して来ても種子法の下で採取農家が行っていたような厳格な管理の種子生産を行うことはできません。同じ金額では。

なぜなら民間企業であれば(当たり前ですが)利益を取らなければいけないからです。そうしなければ企業は倒産します。しかし、現在採取農家が行っているような厳格な管理での生産は非常にコストが高くなりますので、同じ金額、同じ品質での販売は不可能です。ではどうするか?

 

A. 十分な利益が取れるくらいの高額設定にする

B. 現在の価格でも元が取れるように品質を落とす

 

このどちらかになります。

 

 

民間企業が担う種子の問題点1

まずAの「十分な利益が取れるくらいの高額設定にする」の場合ですが、これはもう小学生でもわかるように、当然増加した金額は私たちの食費に跳ね返ってきます。仮に現在の状況と同じレベルの品質が維持されたとしても、私たちが支払う食費は下手すれば数倍に跳ね上がるでしょう。

後でも詳しく書きますが、民間企業が開発する種子の代表的な種類にF1品種というものがあります。これは病害に強いとか、型崩れがしないとかいろいろなメリットがあるのですが、かなりコスト高の種類なのです。このF1品種が蔓延したことで、たとえばアメリカでは種子の価格がこの20年で数倍に跳ね上がっているという研究があるほどです。

 

F1品種とは?

恐らくほとんどの人は「F1品種」という名前をご存知ないでしょう。

 

F1品種・・・聞き慣れない言葉ですね。F1って何??って感じですよね。

これは「Final 1 Hybrid」の略で、日本語だと「一代品種」です。

普通遺伝子情報というのは親から子へと代々引き継がれますが、F1品種は遺伝子操作によって特定の一代には優れた性質が備わるものの、次の世代以降には引き継がれません。ですので一代品種 (F1品種) という訳です。成長が早く、形が整うということで大量生産/大量消費にはもってこいということになります。「そんな良い物があるなら最高じゃないか」と思われるかもしれませんが、F1品種には大きな問題があります。

 

その問題は

 

・この特性が一代限りである

・食物の花粉による伝播を防ぐのは非常に難しい

 

ということです。

 

F1品種訴訟 

まず「特性が一代限りである」ことの問題点。

特性が一代限りであるということは、この種子を購入するとこれを継続して取り扱うならば、毎年種子を購入し続けなければならないということです。種子メーカーが善意のある会社であれば問題ないのでしょうが、利益最優先の会社の場合、農家はそのメーカーに一方的に有利な契約を更新し続けなければならない可能性があります。

たとえば、世界中で農業事業を手掛ける超大手企業モンサント社では、農家に対して種子は毎年購入するよう契約をさせ、研究や品種改良の目的でも複製することは一切禁止。もし違反した場合は巨額の賠償金を請求することになっています。

 

「企業の商品なんだから複製なんかしちゃ駄目だろ」と思われるかもしれません。

確かにそれはそうなのですが、問題は「花粉の飛散がコントロールできない」ということです。

この時期花粉症で苦しんでいる人が多いと思いますが、マスクをしていてもそれほど細かい粒子です。これは食物でも同じことで、花粉の飛散を防止することは非常に難しいです。たとえばある農家Aさんがモンサントの品種を購入したとしましょう。Aさんには当然モンサントの品種を複製しない義務があります。しかし、Aさんの畑から少し離れたところにあるBさんの畑に花粉が飛んでいった場合にはどうなるでしょうか?

BさんはモンサントからF1品種を導入していませんし、そのつもりもありません。しかし、F1品種を導入したAさんの田畑からF1品種の花粉が飛んできて、Bさんの田畑でF1品種が発芽する可能性があるのです。この場合でもモンサントはBさんに損害賠償を請求することができるのです。Bさんには何の落ち度もないにも関わらず。

「そんな馬鹿な」と思われるかもしれません。しかし、実際にカナダではこのような“難癖”に近い方法で数千に上る農家に対し、モンサントは損害賠償を求める勧告を行い、従わなかった農家550件以上に対し訴訟を行いました。 

 

民間企業が担う種子の問題点2

そしてもうひとつの民間企業が採用する方法はB案の「現在の価格でも元が取れるように品質を落とす」方法です。価格上昇を抑えるのであれば、品質を落とすしかない。これも当たり前ですね。ですが問題は、食料の品質を落とすということは多くの場合安全性を犠牲にするということです。代表的な例は遺伝子組換え作物。

遺伝子組換え作物の危険性はいろいろな所で取り上げられていますが、有名なのはやはりモンサント社が開発した遺伝子組換え大豆「ラウンドアップ・レディ」でしょう。

ここ数年ホームセンターなどで販売されている「ラウンドアップ」という除草剤を目にしたことがある人も多いかと思いますが、実はこれアメリカの大手農薬メーカー「モンサント」社が開発した除草剤。アメリカの開発した除草剤ということで実際かなり強力です。値段も比較的お手頃なため日本でも使用する人が増えてきているようです。

 

ところがこのラウンドアップ実は以前から発ガン性物質「グリホサート」が含まれているということで欧州などではむしろ規制対象になっており、使用できない国が世界で増えています。

先程のラウンドアップ・レディという遺伝子組換え大豆は、このラウンドアップという除草剤でも枯れないという強力な除草剤耐性を人工的に持たせた大豆なのです。つまり、ラウンドアップレディという大豆を畑に撒いてラウンドアップ除草剤を撒くと、あら不思議、雑草はすべて枯れさせられますが、ラウンドアップ・レディという大豆だけは何も影響を受けずに生育するのです。

確かにラウンドアップを撒きさえすれば除草の手間が省ける訳ですから、生産性は向上します。ですが、そんな「発がん性物質を物ともしない遺伝子組換え大豆」を食べたいですか?・・・ちょっと私は遠慮したいですね・・・。

 

「実質的同等性」という恐ろしさ

F1品種にしろ、遺伝子組換え作物にしろ、まだここ20年くらいで開発された技術ですので、人間が長期に食物として摂取して大丈夫かどうかは実証されていません。そんな怪しい物がなぜ市場で出回るかというと「実質的同等性が認められているから」です。

実質的同等性とは何でしょうか?

これは「遺伝子操作を施された植物から作られた食物の構成要素は、一般的な食物の構成要素と同じであるか、あるいは"実質的に同じである"」という考え方です。分かりやすく言ってしまえば「自然の食物とほとんど一緒。ちょっと違いはあるけどほとんど一緒。だから実質的に同じ。」ということです。

「いやいやいや、“ほとんど同じ”と“全く同じ”では意味がぜんぜん違うだろ!!」と即座に突っ込みたいところですが、実際にこのような言葉遊びの類で安全性が確認されていない食物が生産されているのが現状です。

 

すでに遺伝子組換え作物汚染は始まっている

そして、驚くべきことに日本は既に遺伝子組換え作物を年間数千万トン輸入する、世界でも有数の遺伝子組換え作物輸入大国になっています。つまり、我々の食卓はすでに遺伝子組換え作物、あるいはそれを原材料にした食材で侵食されている、というのが実態なのです。

現在のところ日本では遺伝子組換え作物の生産はそれほど進んでいません。その陰には、種子法によって確保されていた安全で安価な種子が日本の食糧生産を支えていたからです。しかし、それが廃案になったことによって徐々に採取農家廃業し、民間企業による非安全もしくは高価な種子が席巻することになるでしょう。そうなった時に私たちの食卓はどうなるのか。

「高価だが安全な自然作物」か「安価だが危険な遺伝子組換え作物」。この二択の中から選択を迫られる恐ろしい未来がやってくる可能性が非常に高いのです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

あなたの食卓が危険で一杯になる日。日本の食料安全神話崩壊 その1

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みなさんは普段スーパーなどで食料品を買うときに、その食料の安全性にどれくらい気を使っていますか?

例えば「この食料は国産か?」「国産でも日本のどこ作られたのか?」「どのように作られたのか?」などなど・・・どれくらい注意を払っていますか?

 

最近は「生産者の顔が分かる商品」というのがもてはやされる風潮があるので、食料品のパッケージには生産者の顔写真が載っていたり、その食料品の流通ルートがわかるQRコードが掲載されていることもあります。

ですが、こだわる人はちゃんとチェックしているかもしれませんが、ほとんどの人は「値段があまり変わらないなら国産にしようかな」くらいしか気にしてないのではないでしょうか。

かく言う私もその程度しか気にしていないので大丈夫です! (笑)。

 ただ、実はこの「国産=安全」という神話がすでに崩壊しつつあるのです。

今回はそんな恐ろしい“日本の食の安全崩壊”について書いてみたいと思います。

 

あ、ちなみに今回の投稿は山田正彦氏の書「売り渡される食の安全」を参考にしながら書かせて頂いております。今回の投稿で日本の農業の現状についてもっと知りたいと思われた方は、是非こちらの本をご覧ください。

売り渡される食の安全 (角川新書)

売り渡される食の安全 (角川新書)

  • 作者:山田 正彦
  • 発売日: 2019/08/10
  • メディア: 新書
 

 

[目次]

 

日本の種を守る法律「種子法」 

皆さん、種子法という法律をご存知でしょうか?

ちなみに私は知りませんでした(笑)。

 

この種子法というのは正しくは「 主要農作物種子法」という名前の法律で、1952年に制定されました。1952年と言えばまさに第二次世界大戦終了直後ということで、食料の生産や供給網が壊滅していたことで食料が多くの国民に行き渡らなかった時代。このような時代に「国民を飢えさせない」ことを目的として制定されています。

この法律によって日本政府は主要作物 (稲、大麦、はだか麦、小麦) の良質な種子が農家に行き渡るよう、そしてそれらの農家から国民に行き渡るように必要な対策を講ずることが義務付けられていました。

 
考えてみれば当たり前ですね。

食料に限らずどんな植物でも種子から育ちますから、種子がなくなってしまえばその植物は絶滅します。最近はフードロスが問題になっていますが、もし食料の種子がなくなってしまえばフードロスどころか食料がなくなってしまいます。当然国民は飢えてしまいますので、種子を守ることは国の義務とも言えるでしょう。

ですから、この法律が根拠となって国や自治体が食料の種子を守り育てていくために必要な予算を組んでいたのです。

 

種子法廃止の衝撃

ところがなんと、実はこの法律は2018年4月に廃案になってしまったのです。

その理由は

 

1) 多様なニーズに対応するために民間活力の活用が必要。

2) 種子法のために民間企業に比べて都道府県が管理する種子が安すぎる。これは不当競争だ。

3) 種子生産者の技術が向上しているので、生産や供給の品質に対して義務づける必要がなくなった。

 

という3点です。

ですが、これって本当に正しいのでしょうか?

 

まず「1) 多様なニーズに対応するために民間活力の活用が必要」についてですが、食料に関して「多様なニーズ」ってどこまで必要でしょうか?

確かに食を楽しむというレベルであれば多様なニーズというのはあり得ると思います。でも「国民の生活を守る」というレベルで言えば、一番重要なのは例えば大きな災害などが起こった場合などでも、安定して食料を生産し供給できることではないでしょうか。もしもの時に国民に食料を提供できる食料保障と多様なニーズが天秤に載せられること自体がおかしな話です。

 

次に「2) 種子法のために民間企業に比べて都道府県が管理する種子が安すぎる。これは不当競争だ。」という点。

種子が高すぎて国民に届けられる食料までもが高価になりすぎているというのなら分かりますが、安全なものを安く提供できることの何が問題なのでしょうか? そもそも国民の食料保障を民間企業に担わせようということ自体が奇妙だとしか言えません。国民の安全に関わることだからこそ、国や地方自治体が責任を持って管理する。その結果国民も安全な食料を安く購入することができる・・・この事のどこに問題が??

 

 

種子の品質安定は驚くべき農家の努力のお陰

そして最もおかしな理由が3番目の「種子生産者の技術が向上しているので、生産や供給の品質に対して義務づける必要がなくなった。」という点です。

山田氏の書籍に詳しく書いてあるので是非ご覧頂きたいのですが、農家には種子を作るための「採取農家」という人々がおり、彼らが生産した種子が一般の農家へ販売され、そこで育てられた食料が私たちの元へ届くという仕組みになっているそうなのです。この採取農家のお仕事というのがメチャクチャ大変。

そもそも近くに一般農家の田畑があると、そこから別の種の花粉が飛んでくる可能性があるため、人里離れた場所が谷あいなどでしか生産ができない。また、もちろん雑草が入ってくる可能性もあるし、一年前の種子から生えてきた物は別の種類とされてしまうので、そのような「異株」が混じらないように細心の注意を払って育てなくてはならないそうです。なんと収穫までの間に10回もの抜き取り検査が行われるとのことです・・・。

それ以外にも稲が倒れたりしても駄目だとか、病気にかかっても駄目だとか、相当厳格な基準が定められており、それらを全てクリアしないと出荷できないそうです。

 

分野は違いますが、私も従事している仕事がいわゆるモノづくり系の仕事ですので、正直こんな高リスクな生産なんか、私だったらとてもやってられないと思います。費用対効果で考えたら絶対ビジネスとして成り立たない。

しかし、それが成り立っているのは農家の人たちの必死の努力と、ちゃんとそれを経済的にも国と地方自治体が支援しているからです。その経済的支援を行うための根拠がこの種子法という訳です。

それを「品質が安定しているから国や地方自治体が管理義務を負う必要はない」とは・・・一体どういう了見なのでしょうか?

しかし、現実問題としては先程も書いたようにその種子法が廃止されました。それでは今後日本の食料の安全と安定はどうなるのでしょうか?

 

実はこれにより私たちの食卓を揺るがす恐るべき事態が想定されるのですが、ここまでで相当長くなってしまったので(笑)、それに関しては次回の投稿にて。

まずはこの種子法という法律の存在と、それがあったからこそ私たちの食生活は安全/安定を保たれてきたという事実を知っていただけると幸いです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

林修先生の本「いつやるか? 今でしょ!」を今頃読んでみた

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「いつやるか? 今でしょ!」で大ブレイクした東進ハイスクール芸人・・・もといカリスマ講師の林修先生。

 

彼が8年前に書いた本

 

「いつやるか? 今でしょ −今すぐできる45の自己改造術!−」

 

と読みました。

 

今でしょ! と林先生が言っているにも関わらず、この2020年に読むという何とも妙な構図になっております(・∀・)

 

そもそもなぜ今頃になってこの本を読む気になったのか?

実は私もこの本が出た頃に、その存在は知っていました。

でも、あまりにも狙いすぎなタイトルに「どうせ中身はろくでもないんだろう」と敬遠んしていたのです。

 

ところが、先日とある無料動画サイト◯outubeで、この本について林先生が説明をしている動画を見たんです。

その中で御本人がこの本を書いた理由について

 

「編集の方が『いつやるか? 今でしょ!』というタイトルで本を書いてみないかと持ちかけて来たんです。

タイトルがこれであれば中身は何でも良いです・・・って。

とてもフランクな(率直な)編集の方で。」

 

と仰っていました。

うーん・・・身も蓋もない話ですね! (笑)。

 

実際、林先生の弁によると編集の方は「まぁ、中身はなんか適当にビジネスの啓発本的な感じで」という位しか考えていなかったそうです。

林先生も初めての本なので一応その方向で考えてみたそうなんですが、それでは「本」にするのは難しかったらしく、「自分が仕事をする上で実践していることや考え方を紹介するという方向なら書けるから、それじゃ駄目か?」という交渉をしたそうです。

 

それがこの本になった訳ですが、その顛末からも分かる通り中身はほとんど

 

「いつやるか?今でしょ!」は関係ないですwwww

 

一応「はじめ」と「おわり」に「今でしょ」的なことは言っていますが、結構無理やり突っ込んでます。

 

 そういう意味では期待を裏切ってしまっているのです。

そこはさすが林修先生。

非常に良い意味で期待を裏切ってくれております。

 

 

この本は誰かと仕事をしていく上で、そして自分が人生の中で何かを成し遂げる上で、とても示唆に富み、かつ実践的な考え方を紹介してくれていますが、基本的な考え方としては次のようにまとめることができると思います。

 

「何かを成し遂げるためには、自分のこだわりや価値観、感情などから距離を取り、自分の周りにある環境を俯瞰して見つめることがまず重要。

その上で、それらの中を流れる“物事の流れ”を見極めて、自分にとってベストだと思われる結果を得られるタイミングで物事を進めなければならない。

そして、最も重要なのはそのための下準備を怠らないことである。」

 

ということではないかと。

 

林先生はこの本の中でそれを実践するための具体的な方法をたくさん紹介してくれています。

そのどれもが、この適切な距離感・・・上司や友人だけでなく、さらには自分とも一定の距離感を保ち、物事がうまく進むタイミングで、うまく進むような言い方で、うまく進むような鉄壁の布陣を敷いておくことをどんな時でも取り組んでいることが分かる方法になっています。

 

そして、面白いのが、その方法をしっかりと身につけるために

 

とにかく数多く負けろ

 

と言っています。

 

テレビで活躍する林先生の姿と彼の経歴を見ると、その頭脳を生かしてうまいこと人生を歩んできたように見えます。

ですが、実は昔いじめられっ子だったり、銀行員になったもののすぐ辞職して事業を立ち上げたものの失敗して借金を背負ったり・・・はては生来のギャンブル好きのために、それでまた借金を増やしたりと、相当負け続けて来たようです。

 

ですが、その負けを分析し、何がいけなかったのか。

どういうパターンの時に自分が負けるのか。

負けないためにはどこで自分は勝負するべきか。

 

をしっかり学び続けて来た。だからこそ今の林先生の立場があるのだというのが、この本を読むと分かります。

 

この本は目次にもとても気が配られていて、目次を読むだけで自分にとって必要な箇所がどこなのか分かりやすいようになっています。

また、本文でもとても重要なところは太字になっていて、そこだけザッと読むだけでもある程度中身が分かるようになっています。

 

とても読みやすく。集中して読めば30分〜1時間くらいで読めてしまうと思います。

でも、ちゃんと読むと案外奥深く、とても面白いないようになっています。

さすが現代文のカリスマ講師! といったところでしょうか。

 

 

という訳で、学生にしろ、ビジネスマンにしろ、「何かを成し遂げたい」「何者かになりたい」と思っている人には、その考え方を磨く上でとても示唆に富んだ本になっておりオススメです。

 

 

ただ・・・やはりこの本のタイトル「いつやるか? 今でしょ!」は狙いすぎだったかなぁとww

というか、中身の濃さから考えると逆にもったいなかったな、と。

 

確かに衆目を集めるという意味では効果があったとは思いますが、本当にこういう本を必要としている人は、私のように「そんな狙いすぎのタイトルじゃ、どうせ中身薄いんでしょ」と馬鹿にしていたのではないでしょうか。

 

しかし、今や林先生自身もそれほど「今でしょ」を言わなくなりました(まぁ、昔もテレビ側が強要していたのでしょうが)。

「今でしょ」効果が落ち着き、ちゃんと林修という一人の人間のカリスマ講師らしさというか、頭の良さなどの総合力がきちんと評価されるようになった今こそ、改めてこの本を読む価値がある。

 

そんな風に思いました。

 

という訳で、

 

「この本をいつ読むの? 今でしょ!(・∀・)」

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

カルロス・ゴーンの誕生日に逃亡先のレバノンが財政破綻

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今日、3月9日は元日産自動車会長のカルロス・ゴーン氏の誕生日だそうです。

そのゴーン氏が逃亡先に選んだ中東の国家レバノン財政破綻しました (笑)。

いや、笑い事じゃないですしゴーン氏の逃亡とも何の関係もないのですが、「カルロス・ゴーン、“持ってる”な・・・。」と思ってしまいました。

中東の小国レバノンのディアブ首相は7日、まもなく償還期限を迎える12億ドル(約1260億円)の外貨建て国債について、支払いを延期すると表明した。経済の低迷や放漫な歳出で長らく財政危機に陥っていた。政府は債務再編による財政再建を目指すが、すでに破綻寸前の経済や政治混乱がさらに悪化する恐れがある。

 

すごい誕生日プレゼントだなと思いますが、問題はそこではありません。

恐らくこのレバノン財政破綻をもって「レバノンは政府債務が国内総生産GDP)比で170%に達して破産した! 200%を超える日本も破産する!!もうすぐにでも破綻する!!」と騒ぎ出す人がいるだろうということです。

 

もしテレビや新聞などでこの手の話をするコメンテーターがいたら気をつけて欲しいのは

 

レバノンの債務は“外貨建て”。日本は“自国通貨建て”」

 

だということです。

 

日経の記事にもあるようにレバノンは1990年まで続いた内戦後、復興のために多額の資金を外国から借り入れました。ざっくばらんに言えば、個人が金融会社からお金を借りるのと同じですから、返済できなければ普通に財政破綻します。当たり前。

しかし、日本の場合は自国通貨である日本円での債務です。そして日本政府は日本円を発行する権限があります。自分が発行できるお金で借金を抱えて破綻するなどということは、どう考えてもあり得ません。

 

という訳で、「レバノンが破綻したから日本も破綻する!詐欺」にご注意を。 

ちなみに日本が財政破綻しない理由については以前こちらでも取り上げました。良かったこちらの記事も合わせて御覧ください m(_ _)m 

  

今回は比較的短くまとめられたかな?

最後までお読み頂きありがとうございました😆

SNS離れが進む潮流。私がSNSを辞めた理由と辞めて良かった点を挙げる。

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さて、今日は皆さんから「ブログやってるお前が言うなwww」と怒られそうな、この話題を取り上げてみたいと思います。 

それはズバリ「SNS疲れ」についてです!

 

私はマーケティングに携わるという仕事上、どうしてもSNSから逃れることはできないので、完全にアカウントも削除することは現状非常に難しいです。

しかし、「自分で投稿する」「友人の投稿をチェックする」という意味では綺麗さっぱりSNSからは足を洗いました。

※ブログは「交流」を目的としたSNSとは違うと思っていますので、ブログは除きます。

 

今日はなぜ私がSNSを止めて、ブログを書き始めたのか。

SNSを止めたことで何か良いことがあったのか。

について書いてみたいと思います。

 

SNSを辞めた理由①

まず私がSNSを止めた理由ですが、ざっくばらんに言いますと

 

自由になりたかったから

 

です。

 

ざっくばらん過ぎるので少し説明を(笑)。

これはもう皆さん経験されていることだと思いますが、SNSの場合いわゆる普通のWebサイトでの交流と違って、現実社会の交流の延長という側面が強いです。従って、人からどう思われるかを空気を読みながら書く必要があります。

つまり自分の思考が現実の人間関係に縛られてしまう訳です。これが私にはかなりストレスでした。

 

元々私がSNS・・・というかFacebookを始めた時は、まだまだ日本ではFacebookをやっている人は少数で(LINEは多かったように思いますが)、実際の友人関係とそれほどリンクしていませんでした。

そのため今ブログで書いているような事を投稿したりしていたのですが、Facebookユーザーが増えるほどに、まぁ実際の人間関係とリンクしていった訳です。そうするとどうしてもそれを無視して投稿することはできなくなります。

「こんな事を書くとあの人が嫌な思いをするかもしれない」とか。

 

また、SNSは元々長文を読むのには適さないインターフェースでしたが、スマートフォンをベースにした設計の度合いが強くなるにつれて、よりそれが顕著になったため、自分が本来書きたいことを大分省略化、あるいは簡略化して書かなければならないようになっていきました。

そういう意味でも自分が書きたいこと、届けたいことがしっかり書けないという不自由さがストレスになっていったのです。

そういう意味での「自由」を求めたのが理由の一つ。

 

SNSを辞めた理由②

そしてもう一つは、SNSという現実と仮想空間が入り混じったシステムの中で作られた、「半分は現実の自分」でありながらも、「もう半分はバーチャルに作られた自分」のような二重構造の自分の姿が出来上がったように感じて、自分のアイデンティティが揺らぎ始めたことです。

 

おそらく普通に社会人として生きていてSNSを活用している人は、いわゆる「リア充を演出することが生きがい!」という方はそんなにいないと思います。

むしろ、SNSで人にどう思われるなんか気にしても仕方ないと思いつつも、隙間の時間で他の人が何を投稿しているのか、自分の投稿がどんな反応をされているのかを確認してしまう・・・。積極的にやりたい訳じゃないけど、かと言って積極的に辞める理由もないし・・・そんな中間地点で右往左往している人の方が多いのではないでしょうか。

 

これがスマートフォンがない時代だったら、パソコンだと起動するのに時間と場所を選ぶのでSNSへのアクセスが制限されるのですが、スマホだと思った時にすぐ見れてしまうので、逆に依存度が高まってしまうように思います。

 そういう意味で、SNSの中というバーチャルな世界での自分が現実の自分を支配するような状況から自由になりたかった。それがもう一つの理由です。

 

その不自由さに耐えきれなくなった私は思い切ってSNSをズバッと辞めようと思い至った訳です。

正直迷いはありました。

頻繁に使わなくなると仕事上の支障が出るのではないか?

友人関係に問題が生じないか?

(自分が好きなブランドやお店などの)情報源から得られる情報が減るのではないか?

・・・などなど。

 

SNSを辞めてどうなったか?

そのような後ろ髪を引かれるような思いを断ち切って辞めてみたところ、結果はどうなったのか?

 

マジで辞めて良かったwww

 

 本当にそう思います(笑)。

 

まず、上に書いたような迷いの元は全くの杞憂でした。

 

・友人関係

特に支障ありません。私の周りが寛大なのかもしれませんが、友人がSNSに投稿していた記事を知らなかったからと言って、それでどうこう言われることはありません。むしろ「情報」として知るよりも、直に話した方がより深いところまで話が聞けて面白い。

 

・情報源としての活用

確かに自動的に、受動的に入手できる情報は減りましたが、逆に自分が動いて得た情報の方がより価値が高く、深くまで内容を知ることができると再確認できました。

 

・仕事への影響

ある意味一番の懸念だった仕事への影響。確かに各種SNSに関する最新情報を得るのは少し遅くなりましたし、企業アカウントへのファンの反応を知るのも少し遅くなったと思います。

ですが、逆に考えると、それが早かったから何なのか?と思うようになりました。

確かに個人経営の店舗のSNSなら速さが命という所はあると思います。しかし、そのようなケースでない限りは、むしろ物事の瞬間風速に惑わされることなく、もう少し長い目で見た状況の流れを読みやすくなったように感じます。

 

SNSを辞めて良かったこと

そして、肝心のSNSを辞めて良かった点は、やはり時間的にも、思考的にも自由度が格段に増したことです。

SNSに縛られることがなくなったので、同じスマホを使うにしても能動的な情報収集に時間を使えるようになりました。

また、SNSを辞めてこのようにブログを始められたことが私にとっては非常に大きな契機になりました。

 

SNSの場合は次々と大量に情報が流れていくので、長い文章を読んでもらうには不向きでした。ですが、ブログではそれなりに文章が長くてもしっかり内容を読みたい人たちが訪れるので、内容次第ではあるもののしっかりと自分の考えを書くことができます。

勿論、その分SNSに比べてブログは拡散力が落ちます。しかし、元々私は自分が考えていることを拡散したい訳ではなく、届けるべき人に届けたいという考えですので、その点も特に不利になったとは考えていません。

 

むしろSNSを辞めてブログを始めたことで、SNSの中で大量に渦巻く雑音に紛らわせられることなく、自分が書きたいこと、自分が届けたいことについてより真剣に考える時間が増えたことは自分にとって非常に良いことだと思っています。

 

という訳で、私にとってSNSを辞めて、こうして皆さんにブログをお届けできるようになったことは非常に良い選択だったと言えます。

Good Job!! 俺!!! (笑)

 

まとめ

もちろん、これはあくまで私のケースです。

SNSをとても楽しんで生きがいを感じている方は、そのまま続ければ良いでしょう。

ただ、もし取り立てて楽しんでいるという訳でもなく、「何となく続けている」「みんなやっているから辞めづらい」と思っているのであれば、勇気を持って一度バシッと辞めてみてはどうでしょうか?

私のように今までとは違う何かに出会えるかもしれませんよ! (・∀・)

  

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

 
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