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政治家に人柄など不要!日本人はどこまで馬鹿にされれば気が済むのか?

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ご存じの通り2020年9月17日に菅内閣が発足しました。

これを受けて早速各メディアが世論調査を行い菅内閣の支持率を発表。例えば日経新聞では、支持率74%、発足時歴代3位と報じています。

私はこの報道を耳にした時、愕然としました。

支持率の高さもそうなのですが、その一番の理由が「人柄」だそうです・・・。

人柄とは別の言葉で言えば人格、人間性ということですが、いったい日本国民のうちの何人が人柄を判断できるほど菅総理個人を直接知っているのでしょうか?

家族や友人・・・せめて同じ会社に勤めている人ならまだしも、国民の99%が政治とは無関係の世界で暮らしているにも関わらず、「人柄」で支持をするとは全く意味が不明です。そもそも世論調査でこんな項目を設定していることがおかしい。

 

図らずも15世紀に活躍した政治思想家ニコロ・マキャベッリは、その著書「君主論」の中でこう言っています。

総じて人間は、手にとって触れるよりも、目で見たことだけで判断してしまう。なぜなら、見るのは誰にでもできるが、直に触れるのは少数の人にしか許されないからだ。

(中略)

大衆はつねに、外見だけを見て、また出来事の結果で判断してしまうものだ。しかも、世の中にいるのは大衆ばかりだ。

 まったくその通りで、ぐうの音も出ません。

もちろん私も菅総理の人柄はこれっぽっちも知りません。というか興味もありません。菅総理の人柄などどうでも良いです。私の人生には何の関係もありません。

 

私はそもそも政治家に人柄の良さなどは不要と思っています。

(もちろん、人の人生を貶めるような倫理的許されない行為をすれば駄目に決まっていますが)

どれほどあくどい手段を使ったとしても、そこに「国民のために」という理想があるのであれば仕方ない。残念ながらそれが政治家というもの。再びマキャヴェッリの言葉を借りれば

慈悲深さゆえに臣下に反乱を許し国を混乱させる君主と、残酷さゆえに国の平穏を保つ君主。真に慈悲深いのはどちらかね?

マキャヴェッリ君主論講談社まんが学術文庫 P175

 

国を維持するためには、信義に反したり、慈悲に背いたり、人間味を失ったり、宗教に背く行為をも、たびたびやらねばならないことを、あなたは知っておいてほしい。

マキャヴェリ君主論」中公クラシックス P135

なのです。

では、政治家に人格が求められないなら何でもやって良いのか? ですが、それはYesでもありNoでもあります。

 

判断の基準は

「国民のため」という理念があるかどうか

です。

この場合の国民とは必ずしも今この日本で暮らしている人たちだけを指すものではありません。今の日本ができあがるまでに尽力した過去の人たち、これからの日本を担う将来の人たち、そしてその交点となる現代に生きる私たちのことです。

 

そしてもう一つ重要なのは

 国家元首が誤った時、誤ろうとした時に止める制度が整備されているか

です。

どれほど優れた人物であろうとも必ず人は誤ります。どんな状況でも100点満点の判断を下すことなどできるはずがありません。肝心なのは誤った行動を起こした時、あるいは起こそうとした時に、それを防ぐ制度がちゃんと整備されているかどうかです。

 

では、菅総理はどうなのか?

ここまでの菅総理の発言から考えるに、どちらの点においても非常に危ういとしか考えられません。その理由を2つの点から考えてみたいと思います。

 

菅総理が危うい理由① 経済政策

菅総理は総裁選挙時から中小企業の統合・再編を促す考えを示しており、「足腰を強くしないと立ち行かなくなってしまう」とも発言しています (日経新聞2020年9月15日)。


中小企業の再編とは要するに・・

中小企業の統合や再編というとボヤっとしていますが、要するに「企業体力のない中小企業は潰す、あるいは強いところに吸収させるように促す」ということです。日本には中小企業は約358万社あり、企業全体の99.7%を占めます。そのほとんどを”ふるいにかける”ということです。

中小企業を潰す、あるいは強い企業に吸収させたとして、元の企業に勤めていた人たちは果たしてまともに再就職ができるのでしょうか? これからコロナ恐慌が増す中で、そんなことは実現不可能でしょう。多くの人が確実に露頭に迷うことになります。

 

競争力強化とは価格競争強化である

また「グローバル市場における日本経済の競争力強化に政策の照準を定める。」などと言っていますが、そもそもグローバル市場における競争力とは何でしょうか?

これはズバリ”海外市場でも通用するように価格を下げる”ということです。よく「価格を下げずに付加価値を上げれば良い」などと言いますが、はっきり言って机上の空論に過ぎません。海外では日本以上に値段にはシビアです。

たとえば299ドルを1ドルでも上回ったらそもそも市場で見向きもされないなんて言うのは当たり前です。499ドルで売れる商品を作って、実際は299ドルで売れるなら話は違うかもしれませんが、319ドルくらいの付加価値のものでは299ドルの市場では見向きもされません。

特に昨今のネット通販全盛の世界では、1ドルでもターゲット価格から外れたらそもそも検索にすら引っ掛からないのですから、よほどの高付加価値商品を作らなければ話になりません。

 

競争力強化とはデフレ促進である

ですから、「グローバルで通用する競争力」というのはイコール「値下げしろ」ってことなのです。

そして、値下げをされれば当然労働者の給料は減ります。

商品の値段が下がり、労働者の給料が下がる・・・それをデフレと言うのです。

結局「グローバルで通用する競争力を高めろ」とは「デフレを促進しろ」と言っているのと同じなのです。

 

そんな中で菅総理は「最低賃金を引き上げろ」などという無茶苦茶を言っているのです。完全に支離滅裂。

もし本当に菅総理最低賃金を引き上げつつ、企業の競争力を高めたいというのであれば、その従業員への給与に関して何かしら政府が保障や補填をしなければなりません。そのための税制改革というのであれば有効でしょう。

ただ、緊縮財政を強力に推し進めたアベノミクスを継承すると言っている菅総理が、そんなことをやるとはとても想像できません。

 

したがって、今までの菅総理の発言を見る限り、現在の国民の生活水準を下げ、それに起因する形で発生する将来世代の所得減少は避けられない可能性が非常に高いです。

これの一体どこが「国民のため内閣」なのでしょうか?

悪い冗談としか思えません。

 

菅総理が危うい理由② 縦割り打破という名の権力濫用

そして、政治においてもう一つ重要なのが、先ほど書いた国家元首が誤った時、誤ろうとした時に止める制度が整備されているかです。

ところがこれについても菅総理はかなり危険は発言をしています。

自民党総裁選で優位に立つ菅義偉官房長官は13日のフジテレビ番組で、政府が政策を決めた後も反対する官僚は異動させる方針を示した。「私ども(政治家は)選挙で選ばれている。何をやるという方向を決定したのに、反対するのであれば異動してもらう」と述べた。

 何という横暴でしょうか。

たしかに政治家は国政選挙によって選ばれています。小選挙区制、比例代表制には「本当に国民の意思を代弁していると言える選挙制度か?」という疑念はありますが、まぁ一旦横に置いておきましょう。

 

しかし、政治家が国民から選ばれていると言っても、「だから政治家は間違わない」ということにはなりません。当たり前です。

国民だって間違えるし、いわゆるポピュリスト的な政治家によって扇動された国民が誤った選択をする時だってある。

だとしたら、組織としては当然誤った政策を見直し現実的な方向へ導いていく安全弁が必要になります。それにはさまざまな組織があると思いますが、官僚組織もその一つでしょう。

菅総理のみならず、小泉元総理、安倍元総理も「縦割り行政の打破」などという言葉を使いますが、「縦割り」とはそもそも何なのでしょうか? 「縦割り」と言えば何か悪いものだというイメージだけが先行していますが、この縦割りについて正確に定義している人をあまり見たことがありません。

 

縦割りとは農林水産や工業、福利厚生などさまざまな分野において専門的に扱う官僚組織のことを指しているのだと思われます。それ自体は何も悪いことではありません。ただの組織形態の名称ですから。縦割り組織=悪みたいなイメージが浸透していますが、各分野に精通する組織であるということは、その分野での問題点や今後どうすべかという課題も一番理解している人たちだということです。現在のように多種多様な問題が世界を取り巻く時勢では、そのような専門家の知見をうまく利用することが重要なはずです。

 

たしかに、組織が肥大化すれば、指揮系統が複雑になり、確認事項も増え、物事を進めるスピードが遅くなるのは事実です。それが弊害を生むことがあるのも事実でしょう。しかし、縦割りの官僚制度がうまく回っていないという問題があるとすれば、それは組織そのものの問題というよりも”運用の問題”のはずです。

どのように官僚組織を運用していくのが国民のためになるかを考えるのが政治家であって、「言うことを聞かなければ排除する」というのは、非常に稚拙な考え方であるし、権力の乱用以外の何物でもありません。

 

ましてや、「縦割り110番」などという小学生が思いついたような愚策を、これぞとばかりに喧伝するとは・・・政治家の知性もここまで堕落したかと嘆息せざるを得ません。

 

菅総理が考えていること

事細かく取り上げればきりがありませんが、ここまで見ただけでも十分でしょう。

菅総理は「国民のため」などこれっぽっちも考えていません。百歩譲って好意的に考えたとしても「国民とはだれのことか」を考えていないのでしょう。過去の日本を築いてきた国民のことも、将来日本を築いていく国民のことも考えていない。

だからコロナ恐慌でボロボロになっている現状で「将来的に消費増税もありえる」などということが言えてしまうのです。

 

それにも関わらず菅内閣の支持率74%!歴代三位!

その理由は人柄!

は~~~、何なんでしょうね一体。日本人はどうなってしまったのでしょう。

どれだけ国民を苦しめる政策を行い、権力の乱用を示唆する言葉を述べても

「東北出身で、苦労人らしいから良い人なんだろう。」

その程度で70%以上の人が支持しちゃう・・・・。

 

 

最後に、菅総理大臣やその側近が現在考えていることをズバリ言い当ててみましょう。

それは

 

日本国民はマジでチョロいwwアホばっかww

やっぱりこんなアホどもは俺たち導いてやらないと駄目だわwww

 

ということです。

 

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m

どうしてあなたの話は聞いてもらえないのか 〜論理より大事な◯◯感〜

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「同じ内容を言っているのに、自分が言うより他の人が言った方が周りが納得してくれる。」

みなさんはこんな経験がないでしょうか?

私はしょっちゅうあります(笑)!

 

会議の場で自分が提案した時は誰も反応しなかったのに、別の人が提案すると「なるほどねー。それ良いね。」と言われて、その人が提案したことになってしまう。「さっき私も同じこと言ったんだけどね・・・」とがっかり感半分、怒り半分という気持ちでいっぱいになる。

 

 

そんな私はある時、会社の先輩に相談した時にこう言われました。

「うーん・・・あなたの言い方はカクカクしているんだよね」と。

カクカクしている??

どういうこと??

言い方がキツイということか?? 横文字が多いっていうこと?? 

それ以来、私はずっと心のどこかでこの”カクカクしている”というのが何なのかが分からずモヤモヤが募るばかり・・・。

 

 

ところが。

これがなんと。

ついに!

 

そんな悩みを解消するヒントがいっぱいの素晴らしい本に出会ってしまいました。

これはもう私だけでなく

 

・自分の気持ちや考えをうまく伝えられず悩んでいる

・友達や仲間同士の一体感を高めるにはどうしたら良いか悩んでいる

・他の人との距離を縮めたいけど、どう声をかければ良いか分からない

 

そんな"人とのコミュニケーションの取り方"について悩んでいる人には、きっと役に立つと思います。ぜひご紹介したい!

という訳で、その本がこちらです!

 

 黒川伊保子 著 「ことばのトリセツ」

ことばのトリセツ (インターナショナル新書)

ことばのトリセツ (インターナショナル新書)

 

言葉にまつわる悩みや課題を抱えている人にとっては、一読の価値があるのは間違いありません。この本に書いてあることを知っておくだけで、あなたの言葉遣いがレベルアップするかも??です!

 

著者紹介

著者の黒川伊保子さんは人工知能研究者であり、作家。

黒川さんの「妻のトリセツ」「夫のトリセツ」と言えば、書店で見かけた人も多いのではないでしょうか。私もてっきり本業が作家なのかと思っていましたが、本職は人工知能の研究者でありバリバリの”理系”。

「ことば」という文系の代表とも言える分野をなぜ理系の研究者が? と疑問に思いますが、人工知能に人間らしい会話をさせるというミッションのために言語を研究した結果だとのこと。そして、この本はその研究の集大成だということです。

 

正直この本の紹介を読んだ時は「研究者としての集大成が”新書”ってどうなのよ?」と思いました・・・。新書をバカにしている訳ではないのですが、新書というのは基本的に一般の人に分かりやすく書くもの。それが研究者としての集大成と言われると、ちょっと信じられないし、「売るための手法か?」と勘ぐってしまいました。

ところがどっこい。

なかなか面白い。

っていうかめっちゃ面白い(笑)。読みやすい上に奥が深い。もっと言葉について知りたくなる。そんな魅力が詰まった一冊です。

 

なぜ「でも」「だって」を使ってはいけないか?

ビジネスの世界で半ば禁句と言われるのが

「でも」

「だって」

などの否定語です。

なぜなら、その後に続く言葉が言い訳になるからです。

ビジネスでは結果が全て。どんな結果になろうとも言い訳するのは、建設的な話につながりません。

とは言え人間ですから言い訳したくなる時もあります。実際、避けられない事故だったり、自分も被害者だったりすんわけですから。そんな時に「言い訳をしちゃいけない…」と、"でも"や"だって"を飲み込むのは本当にストレスです。

 

著者もそんな「でも」「だって」は使わないことを推奨しているのですが、その理由が面白い。いわく「Dの接続詞は(中略) 自分のみならず、周囲の人の意欲にもブレーキをかける」のだそうです。

 

「会話はキャッチボールだ」とはよく言われます。

ただ、そう言われる時は「キャッチボールは相手の言いたいことをちゃんと受け止めて、返す時も相手が取りやすいように投げなくちゃいけない。」という意味で使われるのが一般的です。

しかし、”Dの接続詞」を使うと会話が止まる説”に立って考えれば、「でも」「だって」を使うと会話のリズムが悪くなると考えることもできます。どんなに正確なボールを投げても、リズムが悪いとキャチボールはうまく行きません。リズムが悪いとお互いストレスになるだけ。

そう考えると、「でも」「だって」を使わないのは”言い訳をしないため”ではない。お互いリズムよく会話をするために使わない方が良いということになります。リズムが良いと盛り上がるし、前向きな話がしやすくなる。

人間がストレスを感じるのは、自分でコントロールできないことが生じた時 (=我慢しなくてはならない時) だそうです。だったら、「言い訳をしないために”でも”、”だって”を我慢する」よりも「会話リズムよく進めるための言葉選びをする」と考えた方がストレスが少ない気がしませんか?

 

言葉の”音”が持つイメージ

さて、そこで疑問に感じるのは「なぜ”D音はブレーキ”」と言った感覚が生まれるのか? です。

これと関係するのが「音象徴(おんしょうちょう)」と呼ばれる概念です。

音象徴とは、言葉を発する時に生じる音その物が特定のイメージを人間に生じさせるという事象のこと。簡単に言えば、言葉というのは辞書的な意味だけではなくて、音その物にも意味を持っているため、その言葉の音を聞くだけで私たちは何かしらのイメージを感じとることができるということです。

たとえば、グリコはP音 (ぱぴぷぺぽ) を商品名にすると売れるというジンクスがあるそうです。チョコレートの「ポッキー」がP音が含まれますね。ポッキーがこの名前になった理由も、”ポッキン”というポッキーが折れる時の音の響きをモチーフにしたそうです。ポッキンもそうですが、ポッキーも何だか軽やかで、手軽に食べられそうなポップな響きがありますよね。これも音象徴のひとつでしょう。

 

ブーバキキ効果

この音象徴という現象を説明するのによく引き合いに出されるのが、「ブーバキキ効果」と言われるものです。このブーバキキ効果とは何なのでしょうか?

まずは下の写真を見てください。

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これら2つの図形は、一方には「ブーバ」、もう一方には「キキ」という名前が付いています。さて、あなたはどちらが「ブーバ」で、どちらが「キキ」だと思いますか?

 

 

答えはどちらでも良いです。あなたが「ブーバ」「キキ」からどのようなイメージを連想するかをみるための実験なのです。

この実験はドイツの心理学者ケーラーによって紹介されたもので、ほとんどの人は右の図形を「ブーバ」,左を「キキ」と思うようです。日本人だけではなく、世界の多くの国の被験者で同じ反応が見られるとのこと。

つまり、ほとんどの言語において「ブーバ」という言葉は曲線的イメージを連想させ、「キキ」という言葉は尖った鋭角なイメージを連想させるのです。これをブーバキキ効果と言います。

このような現象が起こる原因は、発音する時の口の動きと実際の音情報を処理する部分が一部重なっているからというのが有力な説のようです。著者によるとそれは「小脳」が深く関係しているとのことです。

 

音とイメージをつなぐ脳のはたらき

「小脳」は身体を動かす時の制御する機能、目・耳などから得た知覚情報を統合する機能、そして感情や空間認識力に関係する器官だと言われています。言わば、私たちの意識には上がってこないけれど、無意識下で身体や感情をコントロールする機能を担っていると言えます。
私たちが言葉を発する時は、当然横隔膜によって肺の中の空気を喉や口まで送り出し、口や舌、そして口腔 (口の中)の形をコントロールしています。これらも小脳の働きです。つまり、声を出す時の口腔や舌の形のイメージと、耳や目から得た知覚情報のイメージが同じ小脳の働きによって無意識下でリンクするということです。

したがって、私たちが言葉を聞き取る時は、その辞書的な意味だけではなく、音そのものが持つイメージと合わせた総合的な印象として、その言葉認識することになります。

 

先程「Dの接続詞は自分のみならず、周囲の人の意欲にもブレーキをかける」と書きました。これも著者によると

Dは、舌の歯列いっぱいに舌を膨らませつつ、細かい振動をかけて発音する。どっしりとした感覚が下あごに伝わり、身体全体に広がる。馬を「どうどう」と言って落ち着かせるのは、乗り手の身体がどっしりと落ち着き、ブレーキになるからだ。

(中略)

気がはやって、緊張してしすぎている人を立ち止まらせ、落ち着かせるのに、D音ほど聞く発音体感はない。

※本書P76

ということなのだそうだ。 

 

論理は人には届かない

さて、ここまで言葉とは辞書的な意味だけではなく、音のイメージという情報も伴ったものであるということを書いてきました。

それを受けて考えると、人に何かを伝える時に重要なのは音が与える印象、つまり語感が持つイメージを汲み取って言葉を選ぶということではないでしょうか。

もちろん話す内容の論理性というのも重要だとは思います。しかし、そもそも人間が何かの刺激を認知する時の流れというのは

 

外部からの刺激が目や耳などの感覚器官を通じて認知される

食欲、性欲などの生理的欲求や感情を司る大脳辺縁系に刺激が入る

論理的思考を司る大脳新皮質へ伝わる

 

という流れになっています。

つまり外部からの刺激や情報は、まず感情を司る部分に入り、その後論理的思考を司る部分に伝わるわけです。よく人を納得させるための論理的な話し方を解説するような記事や本がありますが、実は人間の意思決定は基本的には感情で行われており、論理はその感情を追認しているだけとも言われているのです。

もちろん、人間はすべて感情で動くわけではありませんし、論理的に考えることで感情に基づく意思決定が後で覆ることも十分あります。ただ、”逆もまた真なり”でどれだけ論理的な話をしても語感が悪い言葉を羅列すると話している内容が全く相手に届かないということもあり得るわけです。感情を阻害せずスムーズに訴えかける言葉選びをすれば、より緊密なコミュニケーションが取れる可能性がグッと高くなる!というわけですね。

 

人の心を動かす”ことばのトリセツ”

では、どういった言葉選びをすれば良いのか?

それはぜひこちらの黒川伊保子さんの本をお読みください(笑)。

焦らしてるわけでもないのですが、黒川さんの文章が分かりやすくて、読みやすい。なおかつ奥が深いってことで読んでみるのが一番なんですよ。

とは言え、です。

せっかく皆さんここまで読んでくださったので、私が気に入った話をひとつだけご紹介します。

それは相手と親密になりたいのだったら、訓読みの言葉を多用した方が良いという話。訓読みとはいわゆる大和言葉ですね。

同じ感謝の表現でも「感謝いたします」よりも、「ありがとうございます」の方が言葉が柔らかくて親密感が出ます。これは訓読みで多用される母音が持つ効果なのだそうです。

だから、誰かと話をする時に親密感を増したいなら、「あ〜、そうなんだ」「へー、いいねー」など、母音が多い言葉で相づち打つと良いらしいです。

ほ〜、なるほどね!(←こんな感じ(笑))

 

もちろんこれ以外にも、人を労う時の言葉の使い方や異性との距離を縮めたい時の言葉使いなど、様々なシチュエーションで言葉を発する際にとても参考になる話題がてんこ盛りです。

また、そういったハウツー的な内容だけでなく、日本語という言葉がどのように私たちの感情や文化に関わっているかといった言葉の深淵に迫る内容も豊富。それがすべて分かりやすい、平易な書き方で説明されています。

あなたの知らない「ことば」の世界がきっと開けると思います!

 

という訳で今回はこちらの本、 黒川伊保子 著 「ことばのトリセツ」のご紹介でした〜m(__)m

 

 

ことばのトリセツ (インターナショナル新書)

ことばのトリセツ (インターナショナル新書)

 

桜が美しいと思うなら9月入学は止めておけ〜9月入学の危険性〜

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新型コロナウイルスが流行り始めたころ話題になったものに、「9月入学制度への移行」という話があります。

私はこの9月入学制度への移行には懐疑的です。なぜなら4月入学という学制は単なる「教育年度の区切り」ではなく、子供と社会を結ぶつながりや、日本に住む人々の絆や連帯感の根本に関わる話だと思うからです。

タイムスケジュールの都合で2020年に関しては、この9月入学への移行はうやむやになってしまいました。ですが、新型コロナウイルス騒動が落ち着いた頃に、また議論が活発化すると思われます。

そこで今回はこのような議論が再燃する前になぜ拙速に9月入学を採用してはならないのか、そして「入学時期」が私たちの文化や伝統と深い関係性があることについても考えてみたいと思います。

 

なぜ9月入学の議論が起こるのか

今年議論になった9月入学への以降について言えば、事の発端はコロナ禍での非常事態宣言により、子供の学習時間が十分に確保できなくなるという懸念が生まれたことです。

しかし、この9月入学制度への移行という話自体は、それ以前からずっと議論を呼んでいることでした。

この議論の出どころは主に2つあって、一つは経済界からよく出てくる要望。

その理由を端的に言えば、「9月入学がグローバルスタンダードなのだから、それに合わせろ。そうすれば、欧米の学校に日本人の学生が留学しやすくなるし、海外の学生も呼び込みやすくなり、ビジネスチャンスが広がる。」というものです。

また、もうひとつの出どころは教育界。彼らの主張は昨今の日本の教育の質の低下の原因を、この日本の教育制度がグローバルスタンダードから外れているという説に依拠しています。「グローバルな教育に合わせれば、日本の教育の質は上がるんだ」というやつですね。

英語教育の必修化もその流れで、 現場の教育者というよりも教育ビジネス業界からの要望と言った方が良いかもしれませんが。

 

そもそも9月入学はグローバル・スタンダードなのか?

先程も書いたように、9月入学を推進する人たちが声高に叫ぶ根拠は「それがグローバルスタンダードだからだ」というものです。

ですが、そもそも本当に9月入学がグローバル・スタンダードなのでしょうか?

ニッセイ基礎研究所のレポートによると、下記のようにかなりばらつきがあるようです。

 

1月 シンガポール、マレーシア、バングラデシュ南アフリカ
2月 オーストラリア、ニュージーランド、ブラジル
3月 韓国、アフガニスタン、アルゼンチン、ペルー、チリ
4月 日本、インド、パキスタン
5月 タイ
6月 フィリピン、ミャンマー
7月 米国
8月 スイス、スウェーデンデンマークノルウェーフィンランド、台湾、ヨルダン
9月 英国、アイルランド、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、オランダ、ベルギー、ギリシア、ロシア、カナダ、メキシコ、キューバ、中国、インドネシアベトナム、イラン、トルコ、サウジアラビアエチオピア、ナイジェリア
10月 エジプト、カンボジア

出典: https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=61449&pno=2&more=1?site=nli

 

欧州ではたしかに9月入学の国が多いようですが、アメリカでは州によるものの基本的には7月入学が採用されています。

このように見ると欧州では9月入学が多いものの、グローバル・スタンダードといえるものではありません。

 

130年程度では伝統にならない?

また、4月入学から9月入学に切り替えるべきと主張する人たちの論拠として、「そもそも4月入学も明治時代に定められたもので、江戸時代の寺子屋制度では特段の決まりはなかった。4月入学は日本の伝統でもなんでもない。」という指摘があります。

実際、日本の4月入学制度が始まったのは明治19年。それ以前の寺子屋制度時代ではむしろ家や地域の状況に合わせて自由に出たり入ったりできるのが普通で、特別な決まりがなかったようです。

 ただ、それをもって「伝統でもなんでもないのだから、海外の基準に合わせてしまっても何も問題ない。」と切り捨ててしまうのは、いささか早計ではないでしょうか。

 

明治19年といえば130年以上前。歴史の浅いアメリカで言えば、130年も続いているといえば紛れもない「伝統」だと思いますが、二千年以上の歴史を持つ日本という国で考えれば「130年程度で何を」という考えなのでしょうか(笑)。

冗談はさておき、恐らくそのように主張は、明治期に国家によって人工的に作られたものだから「伝統」とは呼べないという意味なのでしょう。

 

しかし、そういう主張をする人たちは「伝統」とは何なのかを深く考えたことがないのだと思います。伝統とは何も”古いこと”ではありません。古ければ何でも伝統になるわけではありません。古くて長続きしているだけのものは伝統ではありません。

それは「習慣」「慣習」です。

では、伝統とは何なのでしょうか?

 

伝統とは「子や孫に引き継ぐ価値のあること」

 伝統とは何か?を考える上で、非常に参考になるのが「表現者クライテリオン」という雑誌の2020年5月号にて、柴山桂太京都大学准教授が寄稿している「伝統論再考ー創られた伝統論の意義と限界」です。

表現者クライテリオン 2020年5月号

表現者クライテリオン 2020年5月号

  • 作者:藤井聡
  • 発売日: 2020/04/16
  • メディア: 雑誌
 

 この中で柴山氏は"創られた伝統論”の論評をしています。創られた伝統論とはざっくり言うと「伝統なんてものはよくよく調べてみれば、比較的最近作られたり、どこか別の国から持ってきたりしたもので、ほとんどが近代の創作である」という説です。

確かに私達が伝統だと考えているものも、実はそれほど長い歴史を持ったものではなかったということはよくあります。また、時には国家権力によって意図的に生み出されたものもあるでしょう。

「伝統論にとって重要なのは、伝統が創造されたという事実ではなく、その伝統が定着したという事実の方である」(柴山)。

 

また、柴山氏は同寄稿の中でスコットランドの民族衣装キルトで使われることで有名な「タータンチェック」について取り上げています。

タータンチェックスコットランドの伝統的な柄だと認識されていますが、実はベルギーのフランドル地方からの輸入品などから取り入れたもので、純粋にスコットランド伝統のものではないのだそうです。

物によっては古い歴史を持つものもあるそうですが、タータンチェックにも色々なバージョンがあるようで、地方によっては19世紀や20世紀になって創り出されたものもあるのだとか。

 

いわゆる「創り出された伝統」論では、そのような例を出して伝統の価値を貶めることがあるようです。

柴山氏は次のようなスコットランドの氏族長の言葉を引用しながら、そのような「創り出された伝統論」に反論します。

ちょっと長いですが、伝統の本質をとらえた素晴らしい文章だと思いますので、引用させていただきます。

「私のクランタータン (注:タータンチェック柄のこと)は1950年代にデザインされて以来着られています。いわば五十年もののタータンというわけです。歴史としてはとても浅いですが、父も私も、子供たちも来ています。四代目、五代目へと続いていくことでしょう。」

この氏族長は、一族のタータン柄が浅い歴史しか持たないことを自覚している。それでも、子や孫の世代へと受け継いでいかなければならないと考えているここには伝統について考える上で重要な論点がある。

伝統を次の世代に受け渡さなければならないのは、その伝統が長く続いてきたからという事実によるだけではない。次の世代にとっても価値があると思うからこそ、受け渡すのである。言い換えれば、伝統の真価を決めるのは過去への憧憬である以上に、未来への意思ということだ。

伝統は、過去世代にとってだけでなく未来世代にとっても価値あるものだ。今の世代がその価値を認め、次の世代にも引き継いででほしいと願うものーそのようなものこそが、伝統としての力強さを持つ。

表現者クライテリオン 2020年5月号 P174)

 

 伝統とは「伝統だから大事にしなくてはならない」というような押し付けではない。

伝統とは次の世代にも引き継いでほしいという”願い”である。

私はこの”想い”にこそ伝統を大事にすべき本質があると思いますし、だからこそ闇雲に形だけ守ることが伝統を守ることにはならないのだと思います。

 

桜にが象徴する4月入学という伝統

では、4月入学は伝統足りえるのでしょうか?

それを考えるときに私が重要だと思う”あるモノ”があります。

それは「桜」です。

桜は日本人にとってとても重要な意味を持つ花です。旅立ちや別れ、あるいは新しい仲間との出会い。そんな「寂しさ」と「未来へのわくわく感」を内包した不思議な感覚を桜は持たせてくれます。

桜は世界中にありますが、桜を目にした時にそのような感情を抱くのは日本人だけ。しかも老若男女問わずあらゆる世代に共通した感情です。

 

私は「3月卒業・4月入学」という日本の学制は、この感情に非常に強い影響を与えていると思います。

卒業は多くの友人たちとの別れを伴います。それと同時に自分がこれから向かう世界へのわくわく感と言いしれぬ不安感をも引き起こします。だからこそ、この時期に咲く桜という花は、一言では表現できない複雑な感情を凝縮した存在となっているのです。

だかこそ、日本には昔から桜を主題とした歌が数多くあり、ドラマや映画などでも出会いや別れには桜が非常に多く使われるのです。そして、多くの日本人はこの桜 (が持つイメージ)を子どもや孫の世代に伝えていきたい思っているのではないでしょうか。

 

そして、このような感覚こそ先ほど述べた柴山氏が言う「今の世代がその価値を認め、次の世代にも引き継いでほしいと願うもの」・・・すなわち「伝統」だと思います。

桜という花そのものは伝統にはなりえないかもしれない。しかし、それに象徴される複雑な想いは日本の伝統として残していくべきものだと信じます。

 

もし4月入学という学制が崩されてしまったら、このような感覚を世代間で引き継いでいくことは難しくなるのではないでしょうか。数十年後、自分が孫を持った時に「中学校に入学する時に桜がいっぱい咲いていてね」とか「桜の時期は別れの時期だからね~」とか言っても、孫たちには「は? なんで? 桜なんてただの花じゃん。」としか理解されない。

私たちが感じる桜を見上げた時の言いしれぬ感情が、つぎの世代とは共有できなくなる・・・私はそれはとても辛くて、寂しいことだと思います。

だからこそ、そんな未来を招きかねない選択をありもしない「グローバルスタンダード」に合わせるために行うことは、とても賢明とは思えません。

 

グローバル社会以後に求められるもの

さて、そろそろ結びに入ろうと思います。

ここまで私が述べてきたことは、果たして過去に憧憬を抱く感傷に浸るだけのセンチメンタルな感情でしょうか。そして、そのような感傷はこれから激動を迎える世界で日本が生き残るうえで不要なものでしょうか。

そんなことはありません。むしろこれからの激動の時代で日本が生き残るためにこそ重大な意味をもつと思います。

なぜなら、このような私たちが当たり前すぎて有難みを感じなくなった些細な経験こそが、社会のつながりや国民の絆を強くするからです。理屈ではなく、感情で分かり合える、通じ合える、そんな共感があるからこそ、人々はお互いにちからを合わせることができるのではないでしょうか。

 

 

2008年のリーマンショック、英国のEU離脱、トランプ旋風、そして激化する米中貿易戦争。今の社会は確実に脱グローバル化が進んでいます。さらに新型コロナウィルスの感染拡大により、世界中の国が自国を守ることに必死となり、それを隠そうとしていません。この流れがこれからますます激化することは避けられません。

そのような時代において、世代格差や社会格差が拡大し、皆が皆自分の利益しか考えないような国では絶対に生き残ることができません。経済的、社会的に強固な結びつきがますます重要になってきます。

だからこそ、私たちは日々の何気ない出来事の大切さについて、そして現在の自分たちと子や孫たちの絆を作るものは何なのかについて、改めて考えなおす必要があるのではないかと思います。

 

 というわけで・・・・タイトルに書いた通り

 

桜を美しいと思うなら、9月入学は止めておけ。

 

と私は思うわけなのです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(__)m

 

なぜ自動車の覇権争いを知れば未来がわかるのか

 

突然ですが、日本で環境にやさしい車と言えば、どんな車が思いつきますか?

日本で言えば、まず間違いなくプリウスに代表されるHV(ハイブリッド)車でしょう。日産リーフなど一部で電気自動車もありますが、基本的に日本で環境に優しい車とはすなわちHV。なんと言っても世界のTOYOTA様ですからね!

 

ところが、実は世界は電気自動車 (EV車)への転換がすう勢となっているのをご存知でしょうか?

ある民間調査会社の予測では、2021年にはEV車の販売台数がHV車を上回る見通しです。

「2021年にEVがHVの販売台数を上回る、電動車市場は4000万台に」

https://monoist.atmarkit.co.jp/mn/articles/1908/21/news044.html

むしろHV車全盛の日本は世界では既に取り残されつつあるのかもしれません・・・。 

 

ちなみに、中国に住んでいる私の友人によると、“あの中国でさえ”すでに街中でEV車が普通に走っている状況。テスラのEV車が"日本のカローラ並"にその辺で走っているそうです…。

都心部だけのようですが、それでもちょっとショックが隠しきれません。中国では地方都市でも東京くらいのサイズ感ですからねぇ。

 

このようなEV車への移行が進んでいるという話を聞くと、恐らく多くの人が「地球にやさしい」 「環境への配慮」という意味合いで受け止めるのではないでしょうか。もちろんそういう側面も存在します。しかし、実はその背後には世界の覇権を巡る各国の思惑が見え隠れするのです。

そしてその裏にはここ20年ほどの世界的な流れだった"グローバリズム"以後の新しい世界の潮流がうごめいています。

その政治的な潮流を探るために、自動車産業

・環境覇権

・エネルギー覇権

・情報技術覇権

という3つの側面から見てみます。そして、その新しい潮流の中で日本はどのようにすべきか?という問題についても考えてみたいと思います。

 

ちなみに今回の参考書籍はこちら。川口マーン恵美 著「世界新経済戦争」です。

もし今回の投稿で自動車産業の現状と未来についてもっと知りたいと思った方は、是非こちらをお読みください。

 

環境と自動車

さて、まずは環境問題と自動車の関係から考えてみましょう。

これはまぁ分かりやすい話ですね。

地球温暖化防止のためにCO2の削減が叫ばれ、ハイブリッド自動車や電気自動車が拡大しているのは周知の事実。

ただ、ハイブリッド自動車や電気自動車が本当にエコかどうかは実は怪しい。

例えば電気自動車は走っている時にはCO2を出さないものの、現時点では製造時に非常に多くのCO2を排出します。特に電源となるバッテリーの製造には多くのCO2を排出しますし、主な材料となるリチウムの産出には、大気汚染や土壌汚染といった環境への負荷がかかります。

また、リチウムバッテリーの材料の一つであるコバルトは、世界の供給量の半分がアフリカのコンゴで採掘されています。

しかし、その採掘場では年端もいかない子供達が、コバルトの粉塵が舞う劣悪な環境で働かされていることが国際問題になっています。

2019ねんに日本の吉野彰氏がノーベル賞を取ったことで注目を浴びることになったリチウムイオンバッテリーですが、私達が目の届かないところで多くの犠牲を出しながら生産されているのです。

「走っている間にCO2を出さない=環境にやさしい」というような単純な問題ではないということを我々は理解しておく必要があると思います。

※詳しくは本書第9章「電気自動車は本当に地球にやさしいのか」参照。

 

 

エネルギーと自動車

次に考えるべきはエネルギー問題と自動車の関係。

ご存知の通り自動車のエネルギーはガソリン。そしてガソリンは石油から作られます。

しかし、2019年に国際エネルギー機関が電気自動車への移行に伴って、自動車の石油利用は2020年代末にはピークを迎えると予測しました。そうなると割を食うのは、石油ビジネスが主力である中東諸国です。

日本で「石油の産出国と言えばどこ?」と聞けば、100人中99人が中東諸国のどこかを挙げると思います。しかし、実は中東諸国が石油の産出国としてメジャーになったのは第二次世界大戦以降のこと。それまでは石油と言えばアメリカ、あるいは東南アジアだったのです。

それが戦後は石油と言えば中東と言われるほどに、圧倒的な産出量を誇っています。

だからこそ、世界各国はやっきになって中東の安全保障のために力を注いで来たのです。その石油がエネルギーの主力としての立場を失うとなれば、当然諸国の中東への関心は薄れます。

ただでさえアメリカは、ここ数年あからさまにイスラエルを優遇しています。その理由の一つも石油問題。シェールガス革命によって独自でエネルギーを賄うことが可能になったため必ずしも中東地域の安定に注力する必要がなくなったためです。

 

電気自動車へのシフトによって石油の立場が下がれば、当然世界中でその動きは加速。中東の不安定化はますます進むことになるのは必至。まさに電気自動車シフトが中東地域の安定を左右するのです。

 

 

情報獲得戦争と自動車

電気自動車はその性質上どうしてもITとの親和性が高くなります。

例えばテスラの電気自動車は、ソフトウェアをオンラインでアップデートすることで、様々な追加機能を将来にわたって利用できるようになっています。

家電やパソコンと同じように、自動車をオンラインでつなぐことによって、運行記録や車に故障がないかなどの総合的な車の情報を管理することが可能。さらに、スマホに記録されている自分の行動履歴などと組み合わせれば、電気自動車に搭載されたAIが自分好みの休日プランを自動車が提供して連れて行ってくれる・・・なんてことまで実現できるようになります。

 

まるで夢のような話ですが、実はここにこそ電気自動車の最大の問題があります。

それは電気自動車での勝者を決めるのは、自動車自体の生産能力ではなく消費者から情報を収集し活用する能力だということ。そして、その情報収集・活用という戦いにおいて、そのルールを作った者が圧倒的優位に立つということです。

それは現在の世界において、GAFAと呼ばれるプラットフォーマーが圧倒的支配力を世界中で行使していることを考えれば、容易に想像がつきます。

実は、これこそが現在進行している米中貿易戦争の背景でもあります。

 

電気自動車の進化が進めば、そう遠くないうちに自動運転自動車に移行していくのは間違いありません。その元となるAIには膨大な量の個人情報、国民の動態、企業活動の情報が含まれることになります。

その時、情報という無形の財産が今よりも遥かに大きな価値を持つことになります。国家戦略的にも、です。

国家としては、そのような貴重な戦略資源を民間企業に管理させておく訳にはいきません。どこから敵国に漏れるか分かりませんし、どのように悪用されるか分からないからです。

現在進行中の米中貿易戦争は、そのような情報資源の獲得を巡る超大国同士の直接対決なのです。

 

今の日本に必要なことは何か?

最近まで自動車は人や物を移動させるため、つまり運送の道具でした。

しかし、ここまで見てきたようにそれが変わりつつあります。というかすでに変わっています。

AIや5GといったIT技術の革新と、それによって引き起こされる電気自動車へのシフトにより、自動車は単なる運送のための道具の枠を超えて、人の動きを支えるサービスの一形態としての変革を遂げつつあります。いわゆる「Maas (モビリティ・アズ・ア・サービス)」で、トヨタが進めているのもその一つでしょう。

生産年齢人口の減少や高齢化、地方の疲弊が叫ばれる日本においては、そのようなサービスの充実も非常に重要です。

 

ただ、残念ながら日本の民間企業はそこまでしかカバーできていません。

というか、民間企業単独ではそこまでしかカバーできません。

日本ではバブル崩壊以降、「民間活力の利用こそが重要」という観点から、多くの規制緩和や自由競争の奨励が行われて来ました。それはもともとイギリスやアメリカ発の新自由主義という思想の下で進められた、「自由だから正しい」という考え方でした。

しかし、すでに時代は変わり始めています。

今回取り上げた自動車産業のように、世界各国はすでに「環境覇権」「エネルギー覇権」「情報技術覇権」の獲得を見据えて国家ぐるみで動く総力戦に突入しています。

 

そのような国家と民間企業による総力戦が繰り広げられる時代において、日本に一体何ができるのか?

本書で著者は「産官学の連携」こそが鍵になるとしています。

確かにそれが重要なのは間違いありません。実際、アメリカや中国などは大学の研究チーム、民間企業の活動を国家が強力にバックアップしています。資金面ではもちろん、法整備などの社会制度や海外進出の際の外交的圧力という意味でも、です。

そういう意味では民間企業、国家、大学などの研究機関がより緊密な連携をとって行くことは必須だと思います。

 

ただ、私として本当にそれで良いのかどうか疑問符がつくと思っています。

 

例えば安倍政権は成長戦略と謳って様々な改革を行いました。そのお陰で株価はバブル崩壊以降最高値を更新しました。

しかし、企業の内部留保が溜まり、投資家の資産が増えた一方実質賃金は低下。国家の生産能力を示すGDPもほぼ横ばい。人口減少も加速するなど、社会の格差拡大が止まりません。

 


「産官学の連携が重要」とはまことにその通りなのですが、今のような状況で連携を呼びかけたとしても、"自分だけの短期的利益になる"分野だけの貧弱な連携しかできないのは目に見えています。

 

自動車産業が国家にとっていかに重要であるかを認識していた、日産自動車の初代社長鮎川義介は、1933年の創業時期にこのように言っています。

「これはいったい政府がやるべきものである。国家経済から見ても、国防関係から見てもそう思う。けれども一向におやりにならぬ。」

そこで、数年にわたる多額の欠損を覚悟で、自動車の大量生産に着手したそうです。

(本書第3章P43)


たとえ民間企業であろうとも、その社会的意義を十分に理解し、将来の国民や国家の発展のために自ら率先して立ち向かっていく。

単なるビジネス利益追求だけではない、ケインズ的な意味でのアニマル・スピリットの醸成こそがいまもっとも重要なのではないでしょうか。


今までは自分たちの欲求を最大化すれば良い時代だった。しかし、そのような時代は既に転換点を迎えています。この新経済戦争の中、国家と企業、そしてそこで生きる私たちは何を考え、何をすべきなのか。

それを考える上で、この本は自動車という窓を通して、非常に多くの示唆を与えてくれる良書だと思います。

 

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございました😆

真の教養を身に付けられるカンタン読書

昨今テレビや書籍、そしてYoutubeなどでもよく題材として取り上げられるのが「教養」です。特に大人向けの教養。

Youtubeで検索すれば「大人が身につけるべき教養」みたいな動画はいくらでも出てきますし、本屋に行けばかならず教養コーナーがあります。

そんな話題の教養ですが、多くの人が勘違いしていることがあります。それは「教養とはたくさん知識を身につけることだ」と思っていることです。

確かに教養と知識は密接に関係があります。しかし、「知識=教養」ではありません。

 

たしかに日々のニュースについてよく知っている人を見ると「すごいなぁ」と思います。あるいは古典文学なんかをよく読んでいる人を見ると「教養がある人って格好いい」と思ったりもするでしょう。

でも、「多くのことを知っている」というだけで教養があるといえるのでしょうか?

ものすごく色んな知識を持っている人でも、事あるごとに「ねぇ、ねぇ、これ知ってる。これって実はね・・・」と知識をひけらかす人を“教養がある人”と呼ぶでしょうか?

逆に「うっとうしいな、コイツ」と思うのではないですか?

 

「知識が多い = 教養人」ではないとしたら、教養がある人というのはどういう人のことを言うのでしょうか?

私が思うに教養がある人というのは、いろいろな物事に対する知識があるというだけでなく

 

“その時々の状況を分析して、過去の歴史や教訓から、その状況にふさわしい知識や考え方を示すことができる人”

 

ではないかと思います。

言い換えると“知識を組み合わせて新しい価値を生みだすことができる人”です。

その知識がほとんどの人が知らない珍しいことだろうと、誰もが知っている常識的なことだろうとそれはどちらでも構いません。重要なのは知識と知識の新しい関係性を見抜けるかどうかなのです。

 

現代社会で「教養」が注目されている理由もそこにあると思います。

ただ単に知識を取り入れたいだけなら、スマホでググってしまえばそれで解決します。誰かに聞くよりウィキペディアで調べた方が圧倒的に速い。

20年前なら「歩く生き字引」的な人にも高い存在価値があったかもしれませんが、これからは知っているだけでは生き残っていけません。既存の知識や考え方を応用して新しい価値を生み出せるかどうか、そこが重要になってきます。

そして、その力の土台になるのが「教養」なのです。

 

では、そのような教養を身につけるためにはどうすれば良いのでしょうか?

私がお勧めしたいのは読書です。まぁ王道ですね(笑。

ただ、普通の読書ではありません。

今回はある本を通して一風変わった「教養を身に付ける読書法」をご紹介したいと思います。

 

 

参考にするのがこちら。

 ピエール・バイヤール著「読んでいない本について堂々と語る方法」です。

 

 

著者紹介

まずはサラッと著者のピエール・バイヤール氏について紹介しましょう。

ピエール・バイヤールは、パリ第8大学教授。専門は精神分析です。

精神分析家でありながら、その知見を文学に応用した独特な文学批評論を展開している。著作に『アクロイドを殺したのはだれか』『シャーロック・ホームズの誤謬』など。

正直なところ私もこの方の方は全然知りません。なんならこの本で初めて知りました(笑)。

ただ、序論やあとがきなどを見ると

 

・仕事上書籍の批評をすることがあるければ、全部読んでるわけじゃない。

・なんなら全く読んだことがない本に対して批評せざるを得ない時すらある。

・カフェなんかで本について議論している人の話を聞くと、その人たちがその本を全然読んでないことがわかる。

・ほとんどの人は本をよく読まずに好き勝手に批判してるんだ。

 

みたいなことがあけすけに書いてあり、大学教授らしからぬ非常に面白そうな人物であることが伺えます。

 

“読まない読書”が重要!

私は先程「ある本を通して誰でも教養を身に付けられる方法をご紹介したい」と書きました。

そうすると恐らくみなさんは私が「この本を読めば教養を身に付けられる」みたいな本を紹介するのだと思うでしょう。

それは半分正解で、半分不正解です。

たしかに私はこれから教養を身につけるのにオススメの本を紹介します。

しかし。

私が紹介する本というのは「本を読まないことのススメ」なのです。

 

「読まないことをオススメする本をオススメする」???

なんかのトンチみたいですね。

 

本を読みすぎることは危険

著者であるピエール・パイヤールはこのように言います。

 

「教養ある人が努めるべきは、個別の知識を知ろうとすることではなく、さまざまな知識の“連絡”や”接続”である。」

「教養があるというのは、自分や該当する事象がどの位置に存在するかが分かっているということ。つまり、知識や物事が形作る全体像を把握し、それぞれがどのような関係性で位置づけられているのかを理解することである。」

 

※本書の中ではもっと詳しく書いてあるのですが、分かりやすいように抜粋・簡略化しました。

 

つまり、知識や事象そのものではなく「その関係性を見抜くことが重要」だと言っているのです。

 

たとえば読書についていうと、真面目で努力家の人ほど、一つの本を隅から隅までしっかり読もうとします。さらに順番もきっちり最初から順を追って最後まで。それが学校で習った「正しい本の読み方」だからです。

ただ、これは案外危険なのです。

ショーペンハウアーという19世紀のドイツの哲学者がいるのですが、彼も「読書について」という著作の中で

 

・本を読むことは他人に物を考えてもらうことである。

・読書ばかりして自分で考えないのは「習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなもの」

 

だと言って、読書の危険性を説いています。

我々は「教養を身につける」と言うとついつい「読書」に走ってしまいます。

しかし、実はこの「教養を身につける = 読書」という考え方はかなり危ういのです。

 

教養を身につけるためのクリエティブな読書

それではここまでを踏まえて、教養を身につけるために効果的な読書をひとつご紹介します。

これはピエール・パイヤールが本書の中で紹介している方法と、齋藤孝さんが「速読塾」という本で学生を指導する時に使う方法を合体させたものです。

誰でも簡単にできるし、お金もかかりません。

 

その方法とは

 

「買った本の"隣にあった本"をなぜ買わなかったのかを考える」

 

ことです。

 

ちなみにこの場合、実際に本を買ったかどうかはどちらでも良いです。「これを買おうとレジまで持って行こうとしたけど、スタバでコーヒー買えなくなるからやめた」でもOKです。

大事なことは自分が選別から落とした本に対して、なぜそれを買わなかったのかを考えることです。

 

書店で本を買うと大体買った本のことで頭が一杯になると思いますが、これはもったいない。

本屋に行けば必ず購入した本の近くに何冊か本が置いてあります。良い書店であるほど「これを探しに来たんじゃないけど、この本もメチャクチャ面白そうだな」という本が必ず陳列されているものです。

 

同じジャンルで、似たような内容の本が他にもあった。

それなのに「なぜあなたは他の本を選ばなかったのか」。

自分が選んだ本が他と何が違うのか。

この本とあの本のアプローチの違いは?

それぞれの著者の主張や根拠はどのように違うのか?

そもそもこの本はどういう社会的需要に応えようとして書かれたのか?

 

などなど、考えるべきことは山ほどあります。

しかもこういう思考をするために必要な手間は驚くほど簡単です。

せいぜい本の目次や序章を見れば十分ですし、下手すれば本のタイトルを覚えておくだけでも可能です。

しかもお金は一切かかりません!

しかし、このような本と本の関係性を考える思考こそが、情報を分析し、物事の関係性を見抜き、さまざまな状況に適した答えを導き出す真の教養を磨くことになるのです。

 

必要なのはあなたのやる気だけ。

それだけで単に本を読むだけ以上の教養が身に付けられること間違いなしです。

是非トライしてみてください!

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😊

今回の記事が気に入って頂けたら「イイネ!」してくれると嬉しいです😃

 

自動車から見る世界の覇権競争。川口マーン恵美著「新経済戦争」。

昨今のニュースを見てつくづく思うことは「競争」「争い」「戦争」といったワードが使われることが非常に多いという環境問題、米中貿易戦争、IT関連の開発競争。

昨今のニュースを見るとこういった「争い」的なワードを必ずと言って良いほど目にします。

争いが多すぎてもはや、どことどこが争っているのかさえ分からなくなりますが、世界の各国がある方向性に向かって進んでいるということを理解しておくと、かなり物事が見やすくなります。

その方向性とは「これからは国家主導型産業が主導権を握る世界が始まる」ということです。

もちろんそれは「国家が一から十まで設計した産業」とか「国家が出資する産業」とかいう前時代的な体制ではありません。

そうではなく「国家規模の取り組みがなければ打ち勝つことができない、激烈かつ大規模な競争世界になっていく」という意味です。

 

それは今までのような民間企業を自由に競争させれば、より強い企業が育ち、ビジネスの世界で勝ち抜いていけるというような生ぬるい戦いではありません。文字通り国家を巻き込んだ死にものぐるいの戦いが始まります。

 

そのような国家主導型産業の競争を自動車という産業から考察した本があります。

それが、川口マーン恵美 著「世界新経済戦争」。

 

 
概略紹介

この本では自動車という「乗り物」がドイツで誕生し、アメリカ、日本などでどのように発展したかの歴史的経緯を最初に取り上げます。

次に、1990年代頃から自動車が迫られてきた、CO2削減などの環境問題に自動車メーカーがどのように取り組んできたのかを検証。

そして、最後にAIや5Gと言った情報技術の発展と自動車の関係性を紹介。より「乗り物」から「情報管理ツール」の一つとして存在意義がシフトした自動車に対して、各国がどのようにしのぎを削っているのかを紹介。

自動車産業に対して、日本がどのような方策をとるべきかを考察しています。

 

 巨大過ぎるゆえの自動車産業のジレンマ

この本を読んで強く認識させられるのは、歴史的に見て、自動車という産業を振興するに当たっていかに国家が強く関与してきたかということです。

もともと自動車が開発されたのはあくまで個人の発明家の技術者としての発案でした。

その自動車とそれを動かすための内燃機関が持つポテンシャルに国家が目をつけた。

そして、国家は他国との競争に勝ち抜くために、その産業を強く後押ししたし、産業界もそれを強く望んだ。だからこそ自動車はここまで発展したのだし、産業としても非常な成功を収めることができたのです。

ただ、巨大な産業になり過ぎたが故に、単なる「乗り物」の器として以上に、多方面に影響を与える産業になってしまいました。それは例えばCO2削減目標の達成といった環境問題、脱化石燃料エネルギー問題です。

 

そして昨今もっとも話題となっている問題と言えば「自動運転技術」です。

 

自動運転は国家覇権問題

どうも世間の報じられ方を見ると「自動車技術の一環」か、せいぜいMaaSのような新サービスの一環としてしか報じられていません。しかし、これはそんな底の浅い問題ではありません。例えば自動運転をAIで行うためには、

 

・凄まじく速い処理能力を誇るコンピュータ開発

・瞬時に変わる運転状況を把握するための通信技術

・事故が発生した場合の責任を誰がとるかなどの法体制の整備

 

など様々な技術や法律・社会システムの整備が必要になります。

これらが一企業で網羅できることでないことは当たり前です。しかし、もっと大きな問題はこれらに対応する技術や社会システムをどこかの国が整備すれば、他の国もそのシステムに則ったシステムを採用せざるを得ないということです。

iPhoneが世界を席巻した結果、それを前提としたモデルづくりを行わなければならなくなったのと同じことです。

 

つまりそのような「規格」を実現した国が、その後の世界において圧倒的に有利になるということです。単に自動車という商品がどのような規格になるかという話だけであれば、事はそれほど大きな話ではないかもしれません。

しかし、先程も書いたように既に自動車産業は環境問題、エネルギー問題、そして情報通信技術などあらゆる産業と密接に関わった産業に成長してしまっています。特に情報通信技術とのかかわり合いは今後の自動車産業とは切っても切り離せません。

 

それは情報通信技術から見た時も同じであり、自動車産業の規格策定で主導権を握れるかどうかは、情報通信技術での覇権を握れるかどうかにも関わってきます。それは世界の覇権を誰が握るのかと言う問題に直結しており、「自動車メーカー」に担えるような次元の話ではなくなって来ています。

 

現代は情報通信技術の発展により、良い意味でも悪い意味でも多くの産業がつながってしまっている状況です。産業が非常に複雑化しているのです。

そのような状況ではたった一箇所で主導権を握られることが、すべての自国産業の首を締めることになりかねません。

グローバリゼーションが時代の必然だと言われた時代では、国家の役割を減らし、民間に自由に競争させることが正義だと信じられて来ました。ですが、そのような幻想の時代はもう終わりを迎えようとしています。

下手をしたら、一つの産業の成否が国民生活全体に影響を及ぼすような事態になりかねない。グローバルにつながったからこそ訪れた社会によって、新たな危機を引き起こしかねない状況を生み出したのです。

 

もちろん、国家がすべてを設計すれば上手くいくというほど単純な話ではないでしょう。ただ、民間に任せればすべて上手く行くというほど単純でもない。

民間の研究開発力や事業の展開能力は維持しながらも、今まで以上に国家が制度設計段階から関わっていかなくては、たった一度の負けですべてを他国に奪われてしまうような事態になりかねない。

そんな危険な状況にすでに世界は進んでいるのだということを知る上で、非常に示唆に富んだ本だと思います。

  

 

騙されて気分爽快!全国民が見るべき「映画コンフィデンスマンJP」

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かつては隆盛を誇りながら、すっかり勢いがなくなってしまった日本の映画産業。ここ数年話題になる物と言えばアニメ映画ばかりです。

しかし、状況でも数少ないながら名作というものは生まれています。

そのひとつが今回レビューをお届けするこちらの映画「コンフィデンスマンJP〜プリンセス編〜」。

出演者である三浦春馬の自殺など、色々な事情で内容以外のところで話題になっている今作ですが、内容は近年まれに見る良作です。

これを知らないなんて、確実に人生を損しますよ!(笑

※ネタバレを含む内容がありますので、閲覧注意でお願いします!

 

 

コンフィデンスマンJPとはどんなドラマ?

ご存知の方も多いと思いますが、コンフィデンスマンJPとはフジテレビ制作のテレビドラマです。2018年にテレビで放映されて、2019年に映画初作品「コンフィデンスマンJP〜ロマンス編〜」が上映されて大ヒット。今回はその映画二作目となります。

長澤まさみが演じる「ダー子」という天才詐欺師が、仲間詐欺師の「ボクちゃん (東出昌大)」「リチャード (小日向文世)」とチームを組んで、暴力団や美術品詐欺師、スポーツ興行詐欺師などとコンゲーム (騙し合い) を行い、悪者からお金を搾り取って懲らしめるドラマ。

 

最大の観物は悪役との間で繰り広げられる騙し合いバトルですが、実はそれを観ている内に視聴者も天才詐欺師ダー子に騙されてしまう“仕掛け”も観物。最後に「実は視聴者も最初からダー子に騙されていた」と判明する、緻密で大胆な騙し術が“騙されてもなお面白い”という爽快感を演出します。

 

テレビドラマでは国内での撮影でしたが、映画では舞台は日本を飛び出し海外へ。今回は南国マレーシアのランカウイ島。

北大路欣也が演じる大財閥の当主レイモンド・フウが亡くなり、莫大な遺産を巡る壮絶な争いが勃発。ダー子、ボクちゃん、リチャード、そして新しく仲間になった「コックリ」の4人が、その遺産を奪い取るためにランカウイ島に乗り込みます。

ところが、そこには今までダー子たちと騙し合いを演じた多くの一流詐欺師たちが集結。誰が敵で、誰が味方か分からない、命を賭けたかつてない規模の騙し合いバトルが勃発する!

 

こんな感じのストーリーになっております。

 

なぜコンフィデンスマンJPを好きになったの?

私がこの映画を観たのはテレビドラマ時代からのファンだったからですが、そもそもなぜファンになったのか?

理由はいろいろありますが、最大の理由は物語の最後の種明かしの時にわかる

 

「そこから騙されていたのか〜!」

 

という“騙された爽快感”です。

人間って不思議なもので、みんな心のどこかで「騙されたい」という気持ちがあると思います。

もちろん、詐欺とか実生活に被害が及ぶようなものは駄目に決まっています。

しかし、たとえば手品なんかも騙されるのが嫌な人ばかりなら、エンターテインメントとして成立しません。しかし、騙される分かっていながらも観てみたいと思うから、昔からエンターテインメントとして続いている訳です。

 

人間はちょこっと騙されるとイラッとしますが、根本から、壮絶に騙されると、逆にスカッとするんですよね。その壮絶な騙しが非常に面白い。

 

こんな人にオススメ

すでにファンの人にオススメなのは当たり前ですが、コンフィデンスマンJPのことを知らない人でも、こんな人にはオススメです。

 

  • 推理モノ好き
  • 人間成長ドラマ好き
  • オーシャンズ11とか、007シリーズとか、ちょっと大人向けのエンターテインメント好き

 

今作品で響いた言葉

  • 人はなりたいと思ったものには何にでもなれる
  • 私達は所詮偽物だから
  • 他人より優れていることが高貴なのではない。本当の高貴とは過去の自分自身より優れていることにある

※映画の中でのセリフなのでうろ覚えのため詳細は違うかも(笑)

 

プリンセス編は過去作よりドラマ性が高い

今回のプリンセス編を観て感じたのは、過去作に比べて人間ドラマ的な要素が強くなっていることです。

 

このドラマの紹介でも書いたように、コンフィデンスマンJPという作品は「人を騙す」というある意味ダークサイドの人間を主人公にしています。基本はエンターテインメント作品ではありますが、その主人公の特殊性によって人間の持つ闇の部分と光の部分というものをより深くあぶり出しているのが特徴です。

それによって単純な「悪者からお金を絞りとる」という勧善懲悪なドラマにならず、かといって「どんな悪者にも良い部分がある」みたいなエセ人情ドラマにもならない、深さがあります。

 

もともとそういうドラマ的な要素はありましたが、今回はとある理由で主人公と同じダークサイドに堕ちたひとりの少女を育て上げ、ダークサイドから表の世界へ送り出すというストーリになっており、よりドラマ的な要素が強くなっています。

ところどころで、主人公ダー子が今まで見せなかった人情味あふれるセリフを言ったり、ひとりの少女が少しずつ自分の努力で強く成長していくシーンがあったりして、思わず涙をそそるところがあります。

 

今回のプリンセス編はそういうドラマ性も含めて大変面白かったのですが、このドラマ性の高さが「良かった点」と「(敢えて…)イマイチだった点」につながっているのが複雑なところです。

次はその点について解説してみます。

 

プリンセス編の良かった点

ではまずドラマ性の高さ故の良かったです。

実は今までの作品では、出演者…特に主人公である天才詐欺師ダー子の心情を表現するようなシーンはあまりありませんでした。

それはこの作品の根幹であるエンターテインメント性を高めるために必要だったものだと思います。あまり人間性を出しすぎると“爽快に騙されて、笑える”という良さが失われてしまうため。

 

ところが今回はとある事情でダー子が拾った「コックリ」という女の子を育て上げる“母親役”をダー子が担ったせいもあり、親が子にかけるような愛情の片鱗が見えます。

ダー子が劇中で発した

 

「本物も偽物もない。あなたが信じればそれが真実よ。」

「あなたのいるべき所はここじゃない。あなたにしかできないことがあるのよ。」

 「私たち(詐欺師)は何にでもなれる。でも所詮偽物でしかない。」

 

といった言葉の数々には、

「人を騙すためにシチュエーションに応じて何者にでもなれる。でも、所詮自分たちは偽物でしかない。しかし、だからこそ“自分が信じたものこそ真実なんだ”と信じたいんだ。」

そんな一流の詐欺師(コンフィデンスマン)だからこそ感じる、哀しさや諦観が感じられました。

 

その寂しさを埋めるために何億、何十億というお金を稼ぐ。でも、結局お金ではその心の穴を埋めることはできない。

でも、それでも自分たちにはそれしかできることがない。

だったら、それで精一杯生きるしかないんだ。

そんな悲壮な決意が垣間見えるような気が・・・。

 

普通の人はそんな騙し合いのような人生を歩むことはありません。でも、ダー子がこの時思ったような悲壮な決意をしなければならない局面は、誰の人生にもあります。

自分だって望んだわけじゃない。けれど、これしか道がなかったんだ。だったら、徹底的に、そして楽しく歩んでやろうじゃないか!

そんな儚くもたくましい心の叫びに共感できる人は多いのではないでしょうか。

 

プリンセス編のイマイチだった点

では、次にプリンセス編のイマイチだった所について。

基本的にすごく面白かったのですが、敢えて言えば・・・というレベルです。

 

それはドラマ的要素が強くなった分、

 

少し表現がストレートになっていて、流れが先読みできるシーンがちょっと多かった

 

という点です。

例えば・・・・著しくネタバレなので文字色反転させますね。

<ここから>

コックリという新キャラが周りが敵だらけという状況の中で、少しずつ成長していく過程が描かれていくのですが、そのコックリの優しさに敵だった人達が徐々にほだされていきます。そして、その優しさの深さと強さに惹かれて、結局ひとりの人間として認めざるを得なくなるという流れなのですが、「ダー子のことだから何か裏があるに違いない」と思っていたら、実は何も裏がなかったという・・・。

もう一捻りあっても良かったんじゃないかと思いますが、あまり複雑にしすぎると“騙し合いバトル”という本筋に影響があったせいなのか、ちょっと単純な流れだったなという気がします。

<ここまで>

その分「騙された〜〜!」という爽快感は若干前回に及ばなかったかなぁと。

まぁ、それでも十分騙されたんですけどね(笑)。

実は最初から最後まで”とある人物”による壮絶な騙しだったのですが、それは映画を最後まで観た人だけが分かるお楽しみということで。

「そういうこと???そこまでは読めんかったわww」と思うこと請け合いです!(笑)

まとめ

という訳で、映画コンフィデンスマンJP〜プリンセス編〜をご紹介してきました。

イマイチだった点も書きましたが、元々がかなり面白い上で“敢えて苦言を述べるなら・・・”程度の話ですので、面白いのは間違いないです。映画館で観ても絶対損はないです。本当にオススメ。多分ね!

 

それと最後に一つだけ。

蛇足かもしれませんが、これだけは書いておかないといけないことが。

それはこの映画に出演した三浦春馬君が上映直前に自殺を遂げたことについてです。

私はブラディマンディーというドラマで初めて彼の演技を観たのですが、その時は正直言って「何だこいつは。なんでこんなやつにやらせるんだ。」と思いました (漫画の原作が大好きだったのでギャップが・・・)。

でも、その後、「陽はまた昇る」という別のドラマを観た時の上達ぶりに驚いたものです。その後もいわゆる代表作みたいなものはないものの、数々のドラマで演技を見るにつけ、彼の魅力に引き込まれていきました。

 

そんな三浦春馬君がコンフィデンスマンJPの世界にやってきたのは前作のロマンス編。

どんな女でも口説き落とすという恋愛詐欺師「ジェシー」という役でした。

イケメンだけど、頭が良く、上品な立ち振舞いはもうまさに「三浦春馬のための役」と言っても過言ではないほど、はまり役だったと思います。今回もジェシーが出るのをとても楽しみにしていました。

その三浦春馬君がまさかこのタイミングで命を落とすことになるとは夢にも思いませんでした。

若く、イケメンで、演技が上手で、歌も上手い。

何も不自由のない華やかな人物のように見えますが、心の中にとても大きな悩みがあったのでしょう。

間違いなくこれからもっと伸びる人物だっただけに、もうただただ残念です。映画の中で彼が出てくるたびに涙が出そうになりました。

今回は前作と違いメインキャストではありませんが、それでも彼の魅力が十分伝わる演技だったのは間違いないと思います。もし、このレビューを読んでこの映画を見る人がいてくださるなら、彼が演じた「ジェシー」の笑顔を記憶に焼き付けて頂きたいです。

三浦春馬君のご冥福を心からお祈りします。

 

 

という訳で、最後がしんみりしてしまいましたが、今回ご紹介した映画はこちら「コンフィデンスマンJP〜プリンセス編〜」でした!

 

読書スピードが遅いあなたへ。堂々とゆっくり読んだ方が良いという話

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本の読む人には2つのタイプがいる。それは

「速く読むやつか、ゆっくり読むやつか」だ!

 

・・・と偉そうに始めましたが(笑)、私はがっつり「読むのが遅い人」です。

しかしながら、ご存知の通り現代は「速読こそ絶対正義!」的な風潮。

実際、書店やAmazonを覗けば「速読法」を紹介した本がわんさかあります。逆に「本をゆっくり読む方法」について書かれた本はほとんどありません。それこそ「本を読むのが遅いやつに人権なんかない!」とばかりに。

でも、皆さんの周りはどうですか? そんなに本を読むのが速い人っていますか?

実際は本を読むのが遅い人がほとんどなのではないでしょうか? いや、ほとんどのはず(希望的観測!)

 

しかし、現実には速読は良いこと、遅読は悪いことという風潮がかなり強く、遅読の人は肩身が狭い思いをしている人がほとんど。それどころか、読むのが遅い人は遅読であることに少なからずコンプレックスを抱いているケースがほとんどではないでしょうか。

 

そこで今回は私のような本を読むのが遅い人に堂々と、ゆっくりと本を読むことを推奨する、「スローリーディング」について書かれた本を紹介します。

それがこちらです。

平野啓一郎著「本の読み方」

本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP文庫)
 

 

  

著者紹介

今回ご紹介する「本の読み方」の著者 平野啓一郎氏は、福山雅治石田ゆり子が主演を務めた映画「マチネの終わりに」の原作小説を書いた作家。

私はこの作品はそれしか知りませんでしたが、実は大学在学中に書いた小説「日蝕」で芥川賞を受賞しており、随分長いこと活躍しているようです。海外向けにも翻訳されて、広く海外でもその作品が紹介されている模様。

また、小説以外にもさまざまなエッセイを執筆するなど、作家業を中心に幅広く活躍していらっしゃいます。

 

こんな人にオススメ

・本を読むのが遅い人

・速読法にチャレンジしたことがある人

・本を読むのが速い人

 

響いた言葉

あくまで主観ですが、この本の中で私に響いた言葉を抜粋してみました。

・速読は明日のための読書。遅読は5年後、10年後のための読書。

・主体的に考える力を伸ばすこと。これこそが、読書の本来の目的である。

 

本書の構成

まず、この本では現代の絶対正義とも言える「 速読」の悪い点を挙げます。

次に、本を遅くよむ「スローリーディング」の良い点を挙げます。

ただ、スローリーディングとは言っても、単純にゆっくり読めば良いという訳ではありません。ゆっくり読みながら、ちゃんと中身を理解する方法が紹介されています。

そして、最後にカフカの「変身」、夏目漱石の「こころ」など、世界的な名著を練習問題にしながら実践的な本の読み方を解説する。

こんな構成になっています。

 

 

なぜスローリーディングを推奨するのか。 

平野氏が推奨するのがスローリーディングこと、「ゆっくり読む本の読み方」です。

速読全盛の現代でわざわざスローリーディングを提唱するのは、「一年間に何冊読んだ、といった類の大食い競争のような読書量の誇示にも辟易して」いたこと。また、それによって読書本来の目的である「主体的に考える力を伸ばす」ことが軽視されていることに警鐘を鳴らすためです。

したがって、本書では特に前半は「アンチ速読」的な表現が目立ちます。例えば

「速読で得た知識は脂肪みたいなものだ」

 

「(文章を読むのではなくページを写真のように読み取るという速読法に対して)こういう突拍子もない話は、一般人の心理学や脳科学に対する無知につけこんだ怪しげな理論」

 

「私達の中には、速い仕事にはどこか信用できないという思いが強く存在している。(中略)つまり、速読の技術をいくらみにつけてみたところで、重要な書類は怖くて任せられないかあ、結局、速読で処理すればいい程度の書類ばかりが回ってくるというハメになるのである。」

 

など。

著者と同じく「速読絶対正義」という風潮に嫌気がさしている人にとっては、溜飲が下がる思いではないでしょうか。

 

「速読 vs 遅読」の対立を煽ってもしょうがない。

この本では特に序盤で、速読と遅読どちらが役に立つかどうかという軸で話を展開しています。極端に言えば、速読で得られる知識は浅薄だが、遅読の方は深く知識を得られるから、遅読の方が役に立つんだという感じです。

著者は頻繁に「遅読の方が役に立つ」という言い方をします。

しかし、実は「役に立つか、役に立たないか」という価値判定の軸がすでに主観ではないでしょうか。

例えばビジネスマンが業務に役立つ知識を得たいのであれば、速く、大量に読める方が役に立つことになり、遅読は役に立たないことになる。だから著者の「遅読の方が役に立つ」という話の展開は、速読派と水掛け論になるだけなので、あまり有意義な議論ではないのではないだろうかと思うのです。

 

この本の価値は「速読 vs 遅読」を超えたところにある

 

この本が速読へのアンチテーゼとして推奨するスローリーディングという方法は、「読書スピード自体を目的化しない」という意味ではたしかに「遅読のススメ」ではあります。何度も書いているように、著者は「速読なんか駄目。スローリーディングの方が優れている!」と主張しています。

しかし、よくよく読み込むと実は著者が推奨しているのは、「速読 vs 遅読」のようなスピード対決ではなく、もっと深い本の読み方であることが分かります。

 

著者は遅読を推奨していますが、「ただゆっくり読めば良いというわけじゃない」とも言っています。ゆっくり読めば何でも良いというわけではなく、

 

・著者の主張を受動的に受け入れるだけでなく、常に「なぜ?」という疑問を持ちながら読む。

・著者の意図を理解する

・何度も読み返す

・全体の構造を理解しながら読む

 

という取り組み方が重要だ、と説いています。

 

ところが、これって実は多くの速読術でも似たようなことを説明しているんですよね。

 

確かに速読術にもいろんなやり方があるので一概には言えません。

中には「文字を読むんじゃなくて、写真を脳に焼き付けるようにしてイメージで叩き込む」みたいな方法もあります。

一昔前は速読と言えばそういう特殊な方法でしたが、昨今はどちらからと言えばそういうアプローチは”キワモノ”です。最近の主流な速読術は「ポイントを押さえて、ちゃんと内容を理解して読む」というアプローチです。

 

スポーツでも何でも同じだと思いますが、やり方は同じでも人によって進行のスピードは違ってきます。いわゆる昨今の主流な「速読法」と平野氏の「スローリーディング」は”その程度の違い”しかないように思います。

だから、むしろ速く読みたいと思っている人にこそ、この”あえて遅く、じっくりと読み込む”というアプローチを知って欲しい。

速読か?

遅読か?

という二者択一ではなく、本を読むという行為をさまざまな方向から見つめることで、「読書の目的を改めて確認する」ことができるのではないかと思うのです。

 

本の読み方を考えることで新しい世界を発見できる

元々「本をどのように読むか」は自由です。

「読みたいように読めば良い」が正しいと思います。

たとえば幕末の志士の坂本龍馬は少年時代に塾に通っていた際、教科書を逆さまに持って読んでいたが内容をしっかり理解しており、先生を驚かせたという話があります。

それが嘘か本当かは分かりません。

ただ、極端な話、そのような読み方でも、ちゃんと本の内容を理解して、それを現実世界に応用できるのであれば、何も問題ないと思います。

 

しかし、本をあまり読まない人はもちろん、本を読むのが日課だという人でも、さまざまな本の読み方を知るということはとても有意義なことではないでしょうか。

「その程度のことか。つまらないな。」と思うかもしれませんが、もしかしたら「そんな読み方があるのだったら、もっと早く知っておきたかった!」という発見もあるかもしれません。

どちらにしても自分の読み方という世界から一歩踏み出してこそ、考えもしなかった新たな発見があるかもしれないのです。

 

この本は新書タイプで、表現もとても簡単で非常に読みやすい内容になっています。

本を読むのが遅いというコンプレックスを持っている人には、そのコンプレックスの解消に。

逆に、本は速く読んでなんぼ!という人には、今一度自分の読書法を別の視点から考えてみるのにとても良い機会になるのではないかと思います。

・・・・つまり、本を読むのが速かろうが遅かろうが、本を読むのが好きなら一読の価値あり!ってことです(笑)。

 

という訳で、今回ご紹介したのはこちらの本でした。

本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP文庫)
 

 

ちなみに、以前のこちらの投稿では速く読むための技術について書かれた本をご紹介しました。

よろしければこちらもご一読ください。

 

 

 

速読術を誰でもマスター可能? 「齋藤孝の速読術」が面白い

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本を早く読めるようになりたい!

誰もが一度はそう思ったことがあるはず。「速読法をマスターすれば一冊5分で読めるようになる!」なんて話を聞くと、チャレンジしてみたくなる人も多いのではないでしょうか。

 

でも、実際に速読法をマスターしたなんて人は何人いるのでしょう?

少なくとも私の周りには一人もいません。私も何度かチャレンジしたことはありますが、一度も上手くいったことがないです(笑)。

読み始めるとついつい細部まで読み込んで、ダラダラと読んでしまいがちに・・・。

 

しかし、今回はそんな私でも速く本を読めるようになった、ある秘策をお伝えしようと思います。それがこちら!

齋藤孝 著 「齋藤孝の速読塾」

 

「って、他人の本かよ!!」

「自分の技術じゃないんかい!!」

というツッコミはご勘弁ください(笑)。でも、これを使えば一冊にかける時間はかなり少なくなると思いますよ。

 

という訳で、早速レビューに行ってみましょう!

 

 

 

著者紹介

著者の齋藤孝さんは「世界一受けたい授業」などのテレビでもよく出ている人ですので、ご存知の方も多いかと思います。

教育学が専門で現在は明治大学文学部教授。あらゆる分野に精通していて博学、説明も分かりやすくコメンテーターとしても活躍中。1年に1冊くらいのペースで本を出していて、書店に行けば必ず齋藤孝さんの本が置いてあるほど。

 

 

こんな人にオススメ

  • もっと速く本を読みたい!
  • 全然本を読まないけど「速く読めれば読むのに!」
  • 本を読んだ後に「何が書いてあったのか」はっきり思い出せない!

こんな悩みを持つ人にオススメです。

 

 

本を読むことの目的

まず明確にしておきたいのは、この本では「本を読む目的」として次の2つを重視しています。それは

「知識の獲得」

「概念の獲得」

この2つです。

知識とは本から得られる情報のこと。一方、概念は著者の考え方や世界の見方のことです。

したがって、この本ではこれら2つの目的を素早く効率的に行うための方法が紹介されています。これが結構重要。

 

また、著者は知識の獲得よりも概念の獲得の方が重要だと考えています。なぜなら知識そのものであれば、何とでも調べられるからです。ぶっちゃけ“ググった”方が速い。それよりも著者独自の概念を理解し、それを現実の世界で応用できるようになることの方がよほど重要なのです。

 

 

速く読めるけど速読術ではない??

実は、この本は速読術の本ではあるけれど、いわゆる「本を速く読む」ための速読術の本ではありません。

斎藤氏の速読術は「本の要点を素早く的確につかむことで、効率的に本のエッセンスを吸収する方法」。結果的に本が速く読めるということです。

逆の表現で言えば、不要な点はガンガン切り捨てる方式なので、「たった5分で本が丸々一冊頭に入る!」みたいな方法ではありません。

 

ちょっとガッカリした人もいるかもしれませんね。「速読じゃねーのかよ」って。

でもちょっと考えてみてください。

仮に本の全てのページを熟読したとして、それを次の日まで覚えていられる人がいるでしょか? もしかしたら1日くらいは覚えていられるかもしれませが、二日後は? 一週間後はどうでしょう?

人間は必ず忘れます。

だったら、その本の中で絶対に覚えておくべき知識と概念さえ集中して覚えれば良いという考え方もあるのではないでしょうか?

 

 

知識を素早く得るため方法

いわゆる「速読」的な速く読むことを実現するために、この本ではいくつかの具体的な特訓方法が書かれています。

たとえば「左手めくり」という方法。

これは本を左手で持って親指をずらしてパラパラとページをめくって行く方法。右手にはボールペンを持って、重要なところにチェックを入れる。

右手でいちいちページをめくる時間さえ惜しんで、さっさとページをめくっていきます。ページをめくり過ぎても気にしない!後戻りせずとにかくガンガン進むのみ!

 

この他にも

・右側のページだけ読む「右ページ読書法」

・視線をページ右上から左下に動かして読む方法

・一度に読める文字数を増やす視野拡大法

・速く読むために適した呼吸法

など速く読むための方法が指南してあります。

 

ただ、そのどれもある一つのことを前提にしています。それは「全部を読もうとしない」ということです。

 

著者は「二割読書法」という方法を推奨しているのですが、これは読む本の内の二割が読めれば良いという考え方です。全部読んで、その内の二割理解できれば良いという訳ではありません。最初から二割しか読まないということです。

どうせ全部を精読しても全部は覚えていられません。

だったら、最初から二割しか読まないと割り切る。しかし、「どの二割が重要か?」はしっかり考えることが大事。

そして、その“重要な二割”を判断するためには、

 

1) とにかく一度全部目を通す

2) 本の全体像を把握する

3) キーワードを探す (3つほど)

 

という手段が大事になります。

これらを手がかりにして、著者が言いたいことを推測しながら読み進めていく。こうすることで全体の二割しか読まずとも、重要なポイントを把握することができる。

これが齋藤孝流の速読術の極意と言って良いでしょう。

 

 

最終目標「著者の概念を獲得する」法

最初の方にも書きましたが、齋藤孝流読書法において重要なのは“速く読むこと”ではありません。あくまで最終目標は「著者の概念や物事の見方を獲得すること」。それを獲得することで、物事を多角的に分析したり、知り得た知識をさまざまな形に応用したりできる力が身に付くのです。

ただ、この概念という物は、単純に速く本を読んでも獲得することはできません。書いてあることを受動的に理解するだけでは十分ではないのです。

では、どのように読めば概念を獲得できるのか?

 

実はここに齋藤孝流読書法の妙味があります。

先程紹介した左手めくり法もそうですし、二割読書法もそうなのですが、こういった方法の形だけ追っても本の内容はつかめません。

そこ得られた断片的な情報を元に、著者の主張を推測しながら読む。

自分の考えと著者が考えを比較分析する。

もし自分の解釈と著者の書いていることが違っていれば、なぜ自分の解釈が間違ったのかを吟味する。

そのような著者の用いている概念や見方に対して、自分から主体的に取り組むように考えながら読む。

このような読み方をすることで初めて、著者の概念を獲得することができるのです。

 

齋藤孝流の読書法では正直断片的な情報しか得ることができません。しかし、だからこそ“考える力”が生まれる余地があるということなのです。

 

 

「読まない本」について考えることが重要

この著者の概念を獲得するという意味で、もう一つお伝えしておきたいのは「読まなかった本」の存在です。

一冊の本を読むと決めて購入するということは、逆に「これは読まなくて良い。買わなくて良い。」という選択をした本があるということです。

これはフランスの哲学者ピエール・バイヤールという人も言っていたのですが、「隣にある本こそが重要」という考え方です。

 

ある概念を理解するには、一人の人が言っていることだけを聞いていても駄目です。同じことに対して他の人が何と言っているのかを知ることも大事。いろんな人の意見を比較考量して、自分なりの見解を持つということこそが大事になってきます。

そのために重要なのが「自分が買わなかった、“隣にある本”」の存在です。

なぜ自分はこの本を買ったのか。

なぜ隣にある本を買わなかったのか。

それをきちんと考えることで、自分が選んだ本の意義、自分が求めている物が何かが理解できるようになります。

 

齋藤孝さんも自分の生徒が本を買う時には、選ばなかった本について「なぜ選ばなかったのか」を説明させるそうです。そのように自分が選んだ本について、多角的に考えることが概念を獲得する上で非常に重要になるというわけです。

 

まとめ

という訳で、齋藤孝流速読術についてご紹介してきました。

最初に書いたようにこれはいわゆる「本を速く読める方法」というのとはちょっと違います。しかし、本の要点を素早く押さえ、著者の概念や物事の見方を獲得する。そして、それを活用できるようになるという読書の目的から考えれば、非常に理にかなっていると思います。

 

これからの時代は単純に大量の知識を蓄えるだけでは生きるのが難しくなっています。これから重要なのは獲得した知識や概念を自在に扱えるようになる能力です。

そして、それは特別な能力ではなく努力すれば誰にでも身に付けられる力であるということが本書を読むと分かります。ぜひオススメしたい一冊です。

 

ちなみに、この齋藤孝流速読術は実に優れていると思いますが、問題点もあります。

それは

・本を読む量が増えるのでお金がかかる

・本を読むとメチャクチャ疲れるようになる

ということです。

そこは自己責任でお試し頂けるようお願いします!(笑)

 

改めて考える「働くことの意義」。人工知能に取って代わられる労働とは?

GoogleGoogle Homeスマートスピーカー、AIで人の動きを検知して自動制御するエアコンなど、私たちの日常生活にまずます浸透してきているAI(人工知能)技術。

私達の生活はどんどん便利になっていきますが、その一方で「AIが人の仕事を奪う」というAI脅威論もよく話題に上がります。たとえば書店に行けば、必ずと言って良いほど「AIによって仕事が奪われる!」「AIに奪われない仕事はこれだ!」という言葉が踊っています。

日々一所懸命働くサラリーマンには、そんな言葉に漠然として不安を感じている人も多いのではないでしょうか。 

ただ、そのような不安を感じる原因は、AI技術に何ができて、何ができないのかが分かっていないから。

そこでご紹介したい本が今回の本、井上智洋 著「人工知能と経済の未来 -2030年雇用大崩壊ー」です。

「AIって何?美味しいの?」というAI初心者にも分かりやすい解説に加え、AIが労働や社会経済に与える影響までディープに考察。今後AIが労働に与える影響を考える上で、必読の書と言っても過言ではありません。

 

 


概略紹介

まずはざっくりと本の内容をご紹介。

この本は最初にAI技術の簡単な歴史とそのコンセプトを解説します。現在発展段階にある「特化型AI」という技術に出来ること、出来ないことを紹介。そして、次のAIの段階「汎用型AI」技術が登場した時にどのようなことが起きるのかを予測。それが雇用と日本経済に影響を与えるのかを論じます。

 

先回りして結論を言ってしまえば、既存の職業のほとんどがAIあるいはそれを応用したロボット技術によって奪われるのですが、その時の社会において必要な社会保障制度がどのような形であるべきかを論じています。そして、その考察の中でそもそもの「働く」ということの意義にまで踏み込んでいきます。

新書ということで読みやすい形式になっていますが、単純な「AI脅威論」ではなく、AI技術の今後の展望とそれが社会に与える影響。人間にとっての働くことの意義まで平易な文章で問い直す意欲的な本で、何度も読み返したくなる内容になっています。

 

著者紹介

まずは著者である井上智洋氏の略歴をご紹介。

井上氏は駒澤大学経済学部准教授。経済学者の中でも珍しく人工知能と経済学の関係を研究するパイオニアとして、執筆活動、Youtubeでの解説など幅広く活動しています。

 

 

こんな人におススメ

「働くこと」

「AI (人工知能)」

に興味がある人なら誰にでもオススメ!特に会社員の方であれば是非ご一読を。

AI技術と雇用という問題だけでなく、働くということの意義をもう一度考え直すという意味でも読む価値があります。

 

内容

ではいよいよこの本の中身についてご紹介していきましょう。

まずこの本は大体次のような構成になっています。

  1. AI技術の基礎的な知識と今後の技術的展望
  2. 技術革新が経済・社会に与えてきた影響
  3. AIによって引き起こされる社会変動
  4. 労働者不要時代に必要となるベーシックインカム制度

この内容に沿って読み解いていきましょう。


1.AI技術の基礎的な知識と今後の技術的展望

第一章と第二章に当たるのですが、ここではAI技術の基礎的な知識が紹介されています。AI関連の記事を読むとよく目にする、「シンギュラリティ (技術的特異点)」「ディープラーニング」「ニューラルネットワーク」と言った概念、そしてAI技術の問題点などが分かりやすく説明されています。AIという物がどういう技術なのかが分かりますので、ここを読むだけでも価値があります。

ただ、その中でもこの本を読み進めていく上で非常に重要なってくるのが「特化型AI」と「汎用型AI」という概念です。

世間一般で語られる時にこの区分けというのはほとんど意識されていません。というか、AIについて解説している記事でも、一緒くたにされていることがとても多いです。しかし、この区分けというのはAIの今後の展望を考えるうえで非常に重要です。

 

簡単に説明すると、特化型AIというのは将棋ソフトのAIのように何かの目的に特化された人工知能。そして汎用型AIというのはいわば「ドラえもん」的なAI。つまり特定の目的に特化したものではなく、のび太君が「ねー、ドラえも~ん」と言って泣きついてくるような多様な目的に柔軟に対応できる“人間のような知能をもった人工知能”というわけです。

人間の仕事というのは何か一つのことだけを解決すれば良いわけではなく、実際にはその場の状況に合わせた判断や、人とコミュニケーションを取りながら改善していくような複雑な問題快活が要求されることがほとんどです。

したがって、特定の目的や状況に特化した特化型AIが人間に取って代わるというのはかなり困難です。この状況ではむしろ人間とAIの共存関係が両者にとってより良い発展をもたらす可能性が非常に高い。問題はドラえもんのような汎用型AIが誕生した後の話。AIが人間の仕事にもたらす影響については、この特化型AIと汎用型AIで全然話が変わってきます。

 

POINT

人工知能には特化型AIと汎用型AIの2種類がある

● 現在活発に開発されているのは特化型AI

● 特化型AIが人間に取って代わるのは難しい

 


2.技術革新が経済・社会に与えてきた影響

AIの社会的インパクトについては、特化型AIと汎用型AIを分けて考える必要がありますが、まずは特化型AIが与える影響について、第三章で解説が行われます。

ざっくばらんに言ってしまうと、特化型AIのような技術革新は第一次産業革命、第二次産業革命、第三次産業革命と、今までの歴史の中で人類は何度か経験して来ました。

ちなみに、それぞれの産業革命とは

を指します。

 

これらの産業革命の時代にも機械が人間に取って代わるという危機意識は世間を騒がせました。

たとえば有名なのは、第一次産業革命時代に起こったラッダイト運動。

中学校、高校の教科書で読んだ記憶があるかもしれませんが、蒸気機関の発明は当時需要が高まった綿織物の製造効率を上げるために開発されました。それによって紡績 (糸を紡ぐ作業)が圧倒的に早くなったのですが、織物職人が「自分たちの仕事を奪われてしまう!」と言って機械を打ち壊した事件です。

新しい技術は特定の人々の仕事を奪うことになりました。

しかし、長期的に見ればそのような失業者も別の新しい職種へ移動することで、産業構造全体としては人間を駆逐するということにはなりませんでした。もちろん、その過程では新しい産業になじめず悲劇の道を歩んだ人々は大勢いるのですが、あくまで「人類全体では」ということです。

 

特化型AIはこのような技術革命に当たります。

つまり、今までの産業革命と同じように、AIも圧倒的な生産効率の向上をもたらすことになる技術。それは新しい産業構造への変革は促すことになるものの、人類を駆逐するというところまでは行かない。人間とAIが共存する道を探れるだろうというのが井上氏の見立てです。

 

POINT

● 特化型AIと人間は共存可能

● 特化型AIが人間に取って代わるのは難しい

 

3. AIによって引き起こされる労働者不要という社会変動

しかし、問題は「汎用型AI」が誕生した後です。

将棋ソフトのような特化型AIがどれだけ開発されても人類は不要になりません。しかし、ドラえもんのような汎用型AIが誕生すれば、あらゆる分野の生産活動をAIだけで行えることになります。

 

井上氏は第一次産業革命以降の経済の形態を「機械化経済」と呼んでいます。

それは人間が機械を使うことで生産活動を行い、何かの生産物を作り出す。それが別の商品を生み出すときの生産設備に回って、そこでまた人間がその生産設備を使うことで新しい生産物が生まれる・・・・そういう風に人間と機械が共同して行われる生産活動が、社会全体でぐるぐる回っているわけです。

この経済モデルでは人間が機械を使いますので、機械がどれだけ発達しても人間の能力がボトルネックになります。極端な話1日100台の車を作れる機械が整備された工場があっても、それを扱う人間が一人しかいなければ1日に10台しか作れないかもしれないのです。

 

しかし、ドラえもんのような汎用型AIが誕生すればどうなるでしょうか❓

人間は1日に8時間くらいしか働けませんが、ドラえもんなら24時間活動できます。何ならドラえもん自身がドラえもんを量産していけば、人間がいなくても1日100台作れる工場をフル稼働させることができるようになります。

つまり”純粋に”機械だけで生産活動が成立してしまう社会になるのです。いささか「理想論」的な話ではありますが、このような生産活動が行える体制を井上氏は「純粋機械経済」と呼びます。

 

こうなってしまうと人間は生産活動において、ほぼ不要となります。

極端な話、経営者さえいれば事足りるということになりかねません。そうなった時に不要となった労働者はどのように生計を立てればよいのでしょうか?

生産物がすべて無料になれば、そもそも働く必要がなくなるのでしょう。誰もがタダで食料やサービスなどを利用することができるという訳です。

しかし、生産するためには材料代、機械を管理する費用、土地代などなどコストはかかってしまいます。純粋機械化経済においてもすべてが無料というわけにはいきません。生きていくためには何かしらの収入は必要になります。

ではどうやって私たちは収入を得れば良いのでしょうか?

 

POINT

● 汎用型AIが誕生すれば人間がいなくても経済活動が可能になる

● 汎用型AI後に私たちはどうやって収入を得るのかを検討すべし

 

労働者不要時代に必要となるベーシックインカム制度

このような労働者不要の時代にどうやって私たちは収入を得るのか?

その対策として井上氏が提案するのが「ベーシックインカム制度」です。

ベーシックインカム・・・名前だけは聞いたことがある人は多いかもしれませんね。

 

ベーシックインカムとは、簡単に言えば「生活に必要な最低限の収入を政府が国民に配る (基礎収入)という制度」です。ベーシックインカムについての議論では、一般的に財源をどうするのか?ということが争点になりがちです。これについては井上氏は現代の貨幣制度においては、政府に財政上の制約はないとしています。この点に関しては、経済学的な詳しい説明が必要になるのでここでは割愛しますが、本書で非常に分かりやすく説明がなされているので、興味がある方は是非ご覧ください。

理論的な部分はさておき、労働者がほぼ不要となる汎用型AIの時代においては「働いてお金を得る」というモデルは成り立ちません。汎用型AIによって生まれる利益を、政府が国民に適切に分配する必要があります。そのためのベーシックインカム制度というわけです。

 

なお、この純粋機械経済の前提となる「汎用型AI」の開発は、技術的に非常に難しいのが実情です。AIが人類の知能を超えて発達をし始めるシンギュラリティ(技術的特異点)の到来は2045年頃と言われていますが、汎用型AIの開発にはそれに近いくらいの月日が必要だろうと考えられています。あと数年で、というわけではありませんが、そうは言ってももう四半世紀くらいでしょう。

ベーシックインカムがその解決策のすべてというわけではありませんが、有力な解決策のひとつとして検討されるべきではないでしょうか。

★このセクションのポイント

汎用型AI時代には人間はAIに取って代わられる

汎用型AI時代には「労働して収入を得る」というモデルは成り立たない

汎用型AI時代に向けて、ベーシックインカム制度を議論すべし

 

まとめ

ここまでの議論を簡単にまとめると

AIは特化型AIから汎用型AIへと進化する

特化型AIは人間と共存可能。しかし汎用型AIは人間の雇用を奪う可能性が高い。

汎用型AI時代に向けてベーシックインカム制度を議論が必要

ということになります。

 

以上がこの本の概略になるわけですが、実は私が一番面白いと思ったのは「あとがき」です。これだけ解説しておいて「あとがきが一番面白いのかよ!!」って突っ込まれそうなんですが(笑)、でも本当にそうなんです。

あとがきを読んでからもう一度最初から読むと、全然別の議論が読み取れて非常に面白いのです。

それは何かというと「働くというのはそもそも何なのか?」ということです。

 

人間はお金のためだけに働くのではない

ここまでご紹介してきた通り、井上氏によると汎用型AIが誕生すればAIが人間に取って代わる可能性は非常に高いです。AI研究者の多くが似たような予測をしています。

ただ、そうなった時に人間はみな「じゃあ、働かなくて良いや」となるのでしょうか?ベーシックインカムがベストな選択かどうかは分かりませんが、いずれにせよ収入的な問題がなくなるのであれば、人は誰もが遊んで暮らせる自堕落な生活を選択するのでしょうか?

私はそんなことはないと思うのです。

 

たとえば、現在まさに新型コロナウィルスの蔓延により多くのミュージシャンや、芸能活動に関わる方々が仕事ができなくて困っています。それでもFacebookYoutubeのようなSNSを通じた活動で何とか音楽文化の停滞を防ごうとしています。

「お金を得るために働くんだ」というだけの物であれば、さっさと音楽活動なんて辞めて別の仕事に移ってしまえば良いのです。たとえば私の知り合いのアーティストも音楽活動を辞めて、翻訳家に転職しました。そういう方法だってあるはずです。

もちろん今すぐに新しい職業を始められることは難しいでしょう。しかし、少なくともコロナ騒動が落ち着いた暁には「またこんな事が起きるかもしれないから」と別の職業に転職することはできるはずです。しかし、おそらくほとんどのアーティストは変わらずに音楽活動を続けていくでしょう。

それはやはり単純にお金を稼ぐためだけに働いているわけではないからです。

 

お金に変えられない価値の再発見が必要

多かれ少なかれ音楽であれ、エンタメであれ、あるいは食の世界であれ「文化」を紡いでいこうという意思があるからではないでしょうか。まともに安定した収入を見込むのであれば、会社組織に所属した方が生き残れる可能性は高い。

そうしないのは、やはりお金以上の価値を文化に関わる仕事に見出しているからに違いありません。私たちはそのようなお金に還元できない働くということの価値をもう一度考え直すべき時に来ているのではないでしょうか。

 

「AI」について考えることは、「人間」について考えること

このあとがきの中で井上氏はフランスの思想家ジョルジュ・バタイユが提示した「有用性」という概念を紹介します。

有用性というのは「役に立つこと」。そして、資本主義にとらわれた私たちは、この有用性にとらわれすぎ、役に立つことばかりを重宝しているのではないかというのです。

バタイユは有用性に対応する概念として、至高性という考えを提示します。至高性は役に立つかどうかに関わらず価値があるもの。

私たち近代人は有用性にばかり気を取られ、役に立つかどうかだけですべてを判断している。しかし、役に立つかどうかに関わらず、それだけで価値があるものを再度評価しなおすべきではないかと。

その再評価を行う上で、「AIによって(理論的には)人間の労働は取って代わられる。じゃあ、その時我々人間は何をしたら良いのか?そもそも労働とは人間にとって何なのか?」という問いかけは非常に重要な意味を持つのではないでしょうか。

 

最後にこのあとがきの中で井上氏が書かれている労働と人間の価値に関する言葉を引用させて頂きます。

 

「機械の発達の果てに多くの人間が仕事を失います。役に立つことが人間の価値のすべてであるのならば、ほとんどの人間はいずれ存在価値を失います。したがって、役に立つと否とにかかわらず人間には価値があるとみなすような価値観の転換が必要となってきます。」

 

単純にAIの技術が仕事やビジネスに与える影響だけを考えるっていうのはもったいない。AIについて考えることが、改めて私たち人間の価値がどこにあるのか?について考えるきっかけになるのではないでしょうか。

 

という訳で今回はこちらの本のご紹介でした!

 

 

 

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