POLA化粧品の新CMに見る「日本人の主体性」について考えてみた。
さて皆さん、化粧品メーカー「POLA」の新しいCMをご覧になりましたでしょうか。
普段テレビをご覧にならない方はご覧になってないかもしれませんね。
その中で次のようなセリフがあるのですが
「この国では二つの仮面が必要だ。
学校では個性が大事と教えられる。
会社では空気を読めと言われる。
私は私の風を吹かせる。」
だそうです。
二つの仮面という言葉からすれば、「個性偏重」も「空気読め」もどちらにも与しないということのように思います。
ですが、最後の「私の風を吹かせる」というのは、「自分らしさを出していく」ということだと思いますので、結局個性偏重主義という結論のように思えて、ちょっとよく分かりません。
その結論はよくわからないのですが、このCMを見た時に
「学校では個性が大事と教えられる。
会社では空気を読めと言われる。」
という点は、なかなか現代の日本人の精神の問題点を突いているなと思いました。
「個性が大事!」は本当か?
そもそも私はこの「個性が大事」というセリフに対して強烈な違和感を感じています。10代の頃からです。
なぜかと言いますと、私は
周りに叩かれて潰れるようなものは、しょせん個性ではない。
と思うからです。
子供の個性を大事に育てようとか、子供の個性を尊重しようとかよく言われますが、そもそも個性というものは、そのような温室でぬくぬくと育つようなものではありません。
個性とは、他者と自分を隔てるその人独自の性質のことですから、個性が強ければ強いほど他者とのぶつかることを避けられません。
それを大事にしようということは、逆に「周りが我慢しろ」ということであり、個性至上主義という価値観の押し付けに過ぎないのです。
それでも制御できずに表れてしまうもの・・・それが個性なのです。
したがって、個性を持つ人間というのは(というか逆に個性がない人なんて本当に存在するとは思えませんが)、自分の性質を周りと共存していくためにどのようにコントロールするか? という技術を身につけていかなければならないのです。
日本が個性偏重主義に陥ったわけ
しかし、実際現代の日本ではこの個性偏重主義が蔓延しています。
なぜそのような事になったのかというと、戦後日本人の中で日本人自身に対する
・日本人は周りに同調するばかりで主体性がない
・自律的な考えを持っていない
というイメージが広まり、その結果欧米のような主体的に判断する個の確率が必要だ!という考えが蔓延したからだと思います。
例えばこんな事を聞いたことありませんか?
「聖徳太子が“和を以て貴しとなす”と言っているように、日本人は昔から周りのことばかり気にしてきた。自分がどう考えるかよりも、周りの意見に合わせようとしてきた民族なんだ。」
と。
ですが、本当にそうでしょうか?
日本人は本当に「周りの目ばかり気にして自分の意見を言えない」民族なのでしょうか?
私はそれは日本人の価値観や主体性について、欧米的な価値観に基づいて考えているから生じる誤解であると思います。
いえ、もっと正確に言えば、誤解というよりも日本人の主体性に対する不勉強のせいだと思います。
英語と日本語の「自己観の違い」が主体性を左右する!?
このブログでは何度か書いているのですが、英語などのインド・ヨーロッパ語族では「私」を意味する言葉は常に「I」などの不変のものです。
どんな状況であっても、話す相手が誰であっても一人称代名詞は無関係であり、普遍的なものです。これはいついかなる事情においても「不変の存在」として自分があり続けるということを意味しています。
しかし、日本語ではそれが異なります。
普段の生活を思い起こせばお分かりでしょうが、この一人称代名詞が
「私は〜」
「俺は〜」
「お父さんは〜」
「ママは〜」
などと、周りの状況や話す相手次第で変化していきます。
つまり、そもそも自分が何者なのかを考える「自己観」が英語などのインド・ヨーロッパ語族と日本人では違うということなのです。
施光恒氏の「本当に日本人は流されやすいのか」によると、このような自己観を社会心理学的には
英語などの欧米言語で見られる自己観を「相互独立的自己観」
日本語に見られる自己観を「相互協調的自己観」
と呼ぶそうですが、それが実は「自分が何者か」という自己観だけでなく、道徳的な価値観にも密接に関係しているとのことです。
施光恒氏の著書から引用すると
「(欧米で主流な相互独立的自己観では)道徳的責任は、その人の埋め込まれている人間関係や社会的役割からは区別され、状況超越的な原理・原則にそうべきものだと捉えられる。」
「一方、(日本的な相互協調的自己観では)状況超越的な原理・原則ではなく、具体的人間関係や他者の気持ち、自分の社会的役割などの状況における具体的事柄を道徳的思考の際に重視する道徳観」
であると言います。
つまり、言語の一人称代名詞と同じく、どんな時でも確固たる自分と自分が正しいと信ずる原理・原則に則って主張する欧米に対し、日本人は自分が置かれた具体的な状況に対して適切な行動を行うことが道徳的に正しいと考える考え方が強いということです。
「主体性がない」と「状況に応じた行動」は別物
ここで注意しなければならないのは、「状況に対して適切な行動を行う」ということを安易に「だから日本は周囲に同調してばかりなんだ」と解釈してはいけない、ということです。
どれだけ周りに合わせて行動したとしても、それが適切な行動とは限らない。
それは仕事でもそうでしょうし、スポーツなどの趣味の世界でも実感したことがある方は多いのではないでしょうか。
例えば私は音楽をやっていますが、音楽の場でも同じことが言えます。
自分がやりたいプレイがあるからと言って、音楽の流れやメンバーの動きを見ずに全く無関係なプレイをしてしまっては、その音楽自体を壊してしまうことになります。たとえそれがどれ程テクニカルなスーパープレイであったとしても。
逆に周りの音に気を取られすぎてそれに合わせてばかりでは、自分が何をしたいのかが周りの人に伝わらず、結局何も生み出せないただの音の羅列になってしまいます。
自分が何をしたいか、周りが何をしようとしているか、今演奏している音楽はどこに向かっているのか。
それを冷静に見つめ分析する達観した視野があってはじめて、音楽という音の調和の芸術を奏でることができるのです。
※ちなみに欧米人のプレイは、正に個性と個性のぶつかり合いです。人によるとは思いますが、全体の調和を考えた音楽的プレイというのはある種日本的な音楽的価値観だと思います。
何が言いたいかというと「状況に合わせた適切な行動を行う」というのは、必ずしも周りの人間に同調するだけの主体性のない行動とは似ても似つかないということです。
むしろ、どのような状況であっても原理・原則に従って行動するよりも、相当に難しい行動様式なのではないかとさえ思えるのです。
自分の考えや能力、周りの人間の考えや能力、そしてそれらを取り巻く環境を冷静に分析し、先のことまで計算した上でなければ本当の意味での「状況に合わせた適切な行動を行う」ことはできない、ということだからです。
日本人の主体性は“いぶし銀”だ
確かに
・自分の主義や考えを主張する
・周りに流されない
・自分の個性を強く持つ
というのは、肩で風を切るような潔さや格好良さがあるように見えます。
一方、日本人的な「周囲の状況に合わせて判断を変えていく」というのは、“いぶし銀”と言いますか一見して分かりにくい地味な考え方のように見えます。
しかし、それは自分という“我”にとらわれず、かと言って周囲の意見を唯々諾々と聞き入れる訳でもない、全体の調和を図りながら適切な行動を取っていくという成熟した大人の態度とも言えるものです。
状況に応じて“自己”を表す一人称代名詞が変化するように、無意識レベルで状況に合わせた柔軟な変化を旨とする日本人にとっては、むしろそのような全体の調和を考えた行動ができる懐の深さこそがぴったり合うのではないかと思うのです。
うーん・・なんか今日はちょっと言いたい事がバラバラしちゃったかな?
すみません。
ただ、
日本人には日本人なりの主体性があり、それは欧米的な主体性にも勝るとも劣らないものだという事に自信を持って欲しい!
そんな願いが伝わると良いな、と思って今日の投稿を書かせて頂きましたm(_ _)m
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆