世界を救う読書

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“道徳の授業”では真の道徳は育てられない。

今日は時間の都合で(笑)いきなりぶっ込んで行きますが、私は昔から
 
「道徳の授業」が嫌いでした(笑)。
 
私は元来天の邪鬼な性格なものでして、「人の道はこうだ」「こうしなければならない」「こういう事をしてはいけない」と強制されるのが嫌だったのです。
もちろん「道徳心」は人として非常に重要です。ただ、それは家族や地域、友人関係といった自分の身の回りのコミュニティの中で磨かれるべきものであり、「教科書」的に授業で教えられるものではない、と思っていましたし、今でもそう思います。
 
 
なぜこんな事を突然言いだしたかと言いますと、先日東京に出張した際の出来事でそのことを彷彿とさせる出来事があったからです。
 
その出張の際に、後輩の一人と一緒に、とある家族市場っぽい全国チェーンのコンビニに行ったのですが(笑)、その時になぜか外国人の高校生らしきお客さんが沢山コンビニに詰めかけておりました。高校生だからなのか国民性なのか分かりませんが、コンビニの中で大声で話す、奇声を発する、レジの列には並ばない、でコンビニがえらい騒ぎになっておりました。
 
その有様に一緒に買物をしていた後輩が切れまくって、その外国人に悪態をついていて、それをなだめるのに苦労してしまいました。
もちろん、罵声を浴びせたりした訳ではなく、小声で(日本語で)文句を言っていた程度だったのですが、やはり同じ日本人が外国人の文句を目の前で言っているのは正直あまり良い気がしませんね。
 
 
ただ、事件は私がそれを諌めている時に起こったのです。
彼はなんと「どうせ日本語分からないから良いんですよ。」という放ちました。
 
たしかに彼が言うように、本人が分からないのであれば言おうが言うまいが、言われた本人にとっては同じだとは思います。分からないのですから。私はこのような発想が起きるのは、正に「道徳の授業」の弊害だと思うのです。
授業で「あれをやるな。これをやるな。」という減点方によって道徳心を教えられた結果、それに当てはまらないことはやっても良い。あるいは“バレなければ”何をやっても構わないという発想を生むのではないかと思うのです。
そして、バレなければ良いという発想は結局「ばれないように上手くやれば良い」ということになり、より狡猾な生き方を育てていくだけなのではないかと。
 
私は道徳心というのはそのような「減点方式」で育てられるものではないと思います。「自分がどうあるべきだと考えるか?」という“美学”、あるいは「自分が自分自身を許せるかどうか?」というプライドを自分の中に創り上げること。その上で、自分の行いをそれらと照らし合わせることで、自分が行うべき選択を行っていく中・・・その繰り返しの中で道徳心とは育まれるのではないかと思うのです。
 
そして、その「こうあるべき」という美学やプライドを自分の中に育て上げるためには、やはりそれを体現する誰かが存在することが重要です。昔はその役割を一家の主である父親だったり、威厳のある上司だったりといった「成熟した大人」が担っていたのだと思います。
ですが、今はそのような成熟した大人よりも、若者にすり寄るのが上手いだけの成熟しきれない大人が増えすぎてしまったように思います。
 
ですから今回私が経験したような後輩の“不道徳な”発言を耳にすると、人生の先輩としてしっかり叱ってやらなければならないと思う反面、若者にとって自分たちから上の世代がそういった「人生の美学」を感じさせるような魅力溢れる人間に育っていないことが、その後輩のような考え方を生むことになるのではないかと、自分を反省したのでありました。
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
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