世界を救う読書

ビジネス書から文芸書までさまざまな本を通して世界の見方を考えるブログ

義務と責任が伴わない個性の追求はただのワガママである。

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いきなりぶっ込みますが、私は「個性を伸ばす」という言葉があまり好きではありません(笑)。

とは言っても、個性を否定しているわけではありません。「個性なんて伸ばそうと思って伸びるもんじゃない。黙っていても、いやむしろ押さえつけられても伸びるのが個性だ。」と思っているからです。

 

私は個性というのはみんな誰にでもあると思っています。むしろ全く同じな人間なんている訳がない。ただその”アクの強さ”に違いがあるだけです。「個性を伸ばす教育」とか言っている人は、余程自分に自信がないか、人間の能力を人工的に改変することができると思っているかのどちらかでしょう。

 

個性を伸ばしたいなら放っておけ。あるいは余程人の感情を操作するのが上手い人であれば、”適度なストレス”を感じるくらいのレベルで「個性を押さえつけろ」の方が正しいと思います。

 

ただ、そういう「個性」の話になるといつも思うのですが、

 

「自分らしさ」や「個性」が大事。

「誰のためでもなく自分のために」。

「ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」。

「あなたはあなたのままで良い」。

 

というように個性を発揮する自由を強調する話はよく聞くのですが、その一方でその自由を享受する権利には責任と義務が伴う”という話はほとんど聞きません。

人間とは「人と人との”間”で育まれる」からこそ”人間”であり、誰かとの関係性の中で生きることを拒絶してしまえば、それは単なる”ヒト”という動物でしかありません。

そして、誰かとの関係性というのは社会のことです。つまり社会という関係性の中で生きるからこそ、ヒトは”人間”として生きていくことができるのです。そうであれば、自分の自由を行使するためには、必ずその社会の関係性を維持するために守らなければならない義務と責任が発生するはずなのです。

 

そのような個性を発揮するための自由という権利と、それに伴う義務と責任。その関係性を考える時にとても参考になる本を見付けましたので、今日はそれをご紹介します。

 

 君塚直隆著「ヨーロッパ近代史」です。

ヨーロッパ近代史 (ちくま新書)

ヨーロッパ近代史 (ちくま新書)

 

内容をギュッと要約すると

この本が面白いのは単にヨーロッパの近代史を年代順に追っかけているわけではないところです。

まずそもそもの切り口としては「はじめに」の中で書かれているように、”宗教と科学”というキーワードでヨーロッパ近代がどのように成立してきたのかを解き明かそうとしています。その言葉通り本書においては、宗教とくにキリスト教と科学がどのようにお互いに影響を与えあって、ヨーロッパの近代的価値観を作り上げていったかが詳しく記されています。

 

君塚氏の話をギュッとまとめると・・・・

 

ルネサンスの時代より前は宗教が世界の価値観の源泉になっていて、「神」という存在が全ての物事の価値を決めていた。しかし、科学の発達により「神」という存在だけでは説明がつかないことが世界にはたくさんあることが分かってきた。また、「人間の理性」によって説明できることが数多く出てきた。

 

丁度その頃、神の存在を持ち出せば何でも許されると横暴な振る舞いをしていた一部のキリスト教会のお偉いさん方に、反発をする人たちが出てきて宗教改革が行われた。そこで生まれたプロテスタント系の人たちは、人間は神と直接一人ひとりが繋がっているのであり、「教会」という存在は必ずしも必要ではないと主張します。

ここで「個人の人間」という考え方が生まれてくる。

 

その「個人」という考え方も一部の貴族たちにしか出回っていなかったが、徐々に知識人、市民、そして一般大衆にも広がっていくようになっていく・・・そのようにして社会の有り様は「個人」が作り上げていくものだという価値観が世界を支配するようになった。

 

ざっくり説明するとこのような流れです。

 

個人が社会を作るのであれば、社会を作る責任が生じる

このようにヨーロッパの近代化の流れを見てくると、社会を形作る価値観の源泉が「神 > 人間 > 個人」という風に移り変わっていき、さらにこの「個人」というものも「貴族 > 市民 > 一般大衆」と移り変わってきたことが分かります。

ただ、問題なのは、このように価値観の源泉が山から海まで水が流れていくように、一般大衆にまで流れていく過程の中で、その「価値観の源泉を担うという責任」も一般大衆に広がっていったとは必ずしも言えないのではないかということです。

 

価値観の源泉を担うということは、自分たちが生きる社会の行く末に対して自分たちが決める権利を持つということです。それが民主主義でもあります。

ただ、権利とは義務と責任の裏返しです。

民間企業でも会社の中での立場が上がり、行使できる権利が強くなるほど、その反面背負わなければならない義務と責任が増えます。それと同じことです。

 

つまり、社会の行く末を決める権利があるということは、同時に現在生きる自分たちだけではなく、将来この国に生まれてくる人たちに対しても、そして今の国がある形を作り上げた人たちに対しても責任を持つということでもあります。それはある意味、一人の人間の範疇を超えた責任でもありますが、その責任があるからこそ行使できる権利があるのです。

 

「自分らしさ」や「個性」が大事。

「誰のためでもなく自分のために」。

「ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」。

「あなたはあなたのままで良い」。

それを否定するわけではありません。

しかし、そのような「自分を押し通す権利」があるということは、同時にそれを可能にしている社会に対しての義務と責任が伴います。自由を行使する権利を喧伝するのであれば、それに伴う義務と権利についても言及しなければならない。

自由と権利は素晴らしいものかもしれませんが、ただ生きているだけで当たり前のように手に入る物ではないということを考え直す上で、ヨーロッパにおいて近代化がどのように進んできたのかを知ることは、とても重要なのではないか。

そのように考えさせてくれる一冊でした。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

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