学校教育はIT化よりも相撲部屋化を目指せ!
みなさん「エドテック (EdTech)」という言葉をご存じでしょうか?
「江戸 (Edo)」の文化を「テクノロジー (Technology)」で蘇らせる・・・とかじゃないですよww
まぁ、ある意味惜しいのですが、「教育 (Education)」と「科学技術 (Technology)」を組み合わせた造語で、その名の通り教育分野にAIやITなどのテクノロジーを導入しようとする取り組みのことです。
海外の状況
記事の中では
ITで知られる中東、イスラエルではエドテックの活用が広がっています。
イスラエルの小学校を訪れると、子どもたちがゲームを楽しむようにプログラミングを学んでいました。
中国も2015年に李克強首相がエドテックの推進を打ち出し、日本円で年4兆円規模の予算を投じて教育現場のWiFi整備を進めています。
中国が特に力を入れているのがAI=人工知能に関する学習で、ことし9月から全国の高校でAIの基礎を学ぶカリキュラムが導入される予定です。
という形でイスラエルや中国などの取り組みを取り上げて、EdTechが世界の最先端の取り組みであり、日本もそれに追随するべきだ。そのためのインフラ整備を急げ!という趣旨で書かれています。
日本は島国であるという物理的な制約のせいか、海外で進められているものや海外から入ってくるものは無条件に良いものだと受け入れようとする傾向があります。TPPという自由貿易協定の話が上がった時も「バスに乗り遅れるな!」とばかりに、前のめりに海外の波に乗っかろうとする傾向が強いように思います。
私は心から日本という国が好きです(ま、日本人ですしねww)。
ですが、こういう「熱に浮かされやすい」傾向については、何とかならないのかなと思うことひとしきりです。
ちょっと一旦落ち着こうよ、と思うのです。
EdTechのメリットとデメリット
またこの中ではEdTechのメリットとデメリットが取り上げられています。
<メリット>
子どもが自分のペースで学習できる。
移動時間などの隙間を有効活用できる
教師は子どもの学習の進捗を管理できる
子どもの得意不得意などをデータ化することで細やかな対応が可能
<デメリット(というか懸念事項?)>
Wi-Fi環境を整える必要がある
パソコン学習による心身への影響
個人情報の保護
正直「一番最初に挙げるデメリットがWi-Fi環境かよwww」という、全力でツッコミを入れたくなるところですが(笑)。
そもそも私は教育においてこのようなメリットとデメリットを比較すること自体がおかしな話だと思うのです。
知識と技術を詰め込むことが教育か?
そもそも教育とは、特に学校における教育の目的とは何でしょうか?
知識を与えたり、ITを操作するテクニックを教えたり、討論で相手を打ち負かすための技術を教えることでしょうか?
そういう考え方もあるでしょうし、確かにそれが正解ならばこのEdTechは非常に有用なアプローチだと思います。というか、じきに「人間の教師すら不要! AIに任せて自宅で学習させた方が効率的! さらに家族との触れ合いの時間も増えて良い!」という時代になるでしょう。
ですが、本当にそうでしょうか?
かつて人間が食料、住居、衣服などを生産することを手作業に頼っていた時代は、「人間の数」が生産力の上限でした。それが産業革命によって機械が登場し、その機械の進歩によって人間の力を圧倒的に上回る生産性を達成することができるようになりました。
それと共に、機械を操作できる知識と技術がある人間を大量に"生産"することが、国力に非常に大きな影響を持つようになりました。現代のような「知識と技術を教え込む」ことが教育であると考えられるようになったのは、その延長線上にあるのです。
つまり知識や技術を教え込むという意味での教育というのは、ある種近代的な価値観の産物でしかないのです。
教えることの意味
最初に書いたようにEdTechとは「Education」と「Technology」の造語です。Educationという言葉はラテン語の「引き出す、導く」という意味の「Educare」という言葉が語源になってるそうです(本当は綴りが違うのですが、このパソコンだと打てないので、実際のラテン語と違います。すみません)。
このような事から、最近では「人間には誰もがさまざまな力や可能性があり、それを最大限引き出すことが教育なのだ」というような主張をする人たちもいます。
また、子供は生まれた時は天才だとか、子供には無限の可能性があるとか言いますね。
ですが、はっきり言って私はそんなものは単なる妄想でしかないと思います。
仮に、本当にそのような無限の可能性があったとしても、子供が生まれ落ちたこの世界は有限であり、不条理と不合理に満ちたいびつな世界なのです。
たしかに美しい世界ではないかもしれませんが、それが私たちが生きている現実の世界なのです。
だからこそ教育に求められるのは、そのような不合理で不条理な社会の中で生き抜く術と力を伝えることです。
そして、このような生きる術とは決して意図して教えられるものではありません。なぜならどのような術がその人間にとって重要となるかは、誰にも予測し得ないからです。
したがって、極限してしまえば教育者にできることというのは、自分の行動によってその範を示すことしかないのです。人の模範となるような行動とは何かを考え、時には悩み苦しみ、自分なりの答えを導き出していく…そのような姿を見せることによって、教えられる側は自分にとって必要な術を身に付けていくのです。
すなわち、これからの教育においてより重要となるのは、学問的な知識やITを扱う技術を教えられる教師でも、ITを活用して子どもの学習を管理指導するような技術者でもなく、むしろ子供たちにとっての範を示せるような人間力の方なのではないでしょうか。
教育制度のあるべき姿は相撲部屋にあり!
そのような「教え子に範を示す」という教育のあり方について参考になるのが、大相撲の元大関"琴欧洲"こと鳴門親方の「徒弟制度」についての説明です。
2017年に発売された週刊文春で、阿川佐和子さんとの対談の中で鳴門親方は徒弟制度についてこのように語っています。
鳴門親方: 稽古すれば強くはなります。それよりは素直で気配りができるかどうか。関取が出れば付け人が必要になるわけで、食事のときに水がなかったりするとパッと持ってくることができるとかの気配りが必要。
阿川氏: いま何が必要なのか瞬時に気づく能力ですか?
鳴門親方: ええ。その力があれば稽古場で私が教えていても、さらにそれ以上に自分で何が必要なのか分かって稽古することができます。そういう子はどんどん伸びていきますよ。
何かを教えられて、それをその通り吸収すればそれなりのところまで能力を高めることは出来る。でも、それ以上のレベルに達するためには単に教えられるだけでは駄目で、人の姿をよく観察することでその人の学ぶことに対する姿勢や考え方を学ぶこと。そして、それを自分に投影して客観視することで、自分がなすべきことを考える能力を磨くこと。それこそがいわゆる「学問的な指導」や「効率的な学習方法」では教えることのできない、しかし人間がこの社会で生きていく上で最も重要な"生きる術"を身に着けることが可能になるのではないでしょうか?
このような人間力を備えた「先生」が学問を教えることを通して、「生き方」を教える。あるいは、一人ひとり生徒が考えるきっかけを作る。それこそが本来の学校における教育のあり方ではないかと思うのです。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆