世界を救う読書

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日本の英語教育が駄目なのは政治家は言葉の力を舐めているからだ。

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昨年末から政治家のドタバタ劇のせいで揉めている大学入試共通テスト問題。その中でも一番問題になっているのが英語の4技能試験です。この言葉だけは何かニュースでもよく出るので、「何か聞いたことあるな〜」っていう人は多いのではないでしょうか。

英語4技能というのは

「聞く」「話す」「読む」「書く」

という4つの技能のことを指しています。昨年末に大揉めに揉めて撤回することになった民間試験の導入というのも、大学入試でもこの4つの技能の高さを測る試験が必要だということで検討されたものでした。

 

先日1月15日に、文部科学省が設置した「大学入試のあり方を議論する検討会議」の初会合が開かれたのですが、その中で萩生田光一文科相が

「次代を担う若者が英語によるコミュニケーション能力を身につけ、大学入試で4技能を適切に評価する重要性に変わりはない」

 と述べたとのこと。政府としてもこの4技能をいかに評価するかが重要だと認識している、ということですね。

 

が。

ですが。

この大学入試で英語の4技能を評価するってそんなに大事ですかね?(笑)

いきなり身も蓋もないことを言ってしまうと

 

「どうせAI (人工知能)技術を使って、数年で自動翻訳機が開発されるんだから、今さら英語勉強しても無駄。」

 

だとは思います(笑)。

とは言え、これで終わってしまってはこの問題の本質が見えませんので、もう少しこの英語教育のあり方について掘り下げてみたいと思います。

ちなみに、今回は自分の子にどのような英語教育を施すべきか悩んでいる人、あるいは学生時代に受けてきた英語教育に疑問を感じている人たちに向けて、外国語教育において何が重要なのかを書いてみたいと思います。少しでも子供の外国語教育の参考になれば、あるいは今まで「自分が受けて来た英語教育って意味があったのかな?」と感じている人の“もやもや”の解消になれば幸いです。

 

[目次] 

 

 

グローバル化 = 英語化?

英語教育の問題点は技術的な面や現場レベルでの問題点はいくつもあると思います。ただ、それらの問題の根幹となるのは私は一点に絞られると思っています。それは「そもそも言語とは何かという点が全く理解されていない」ということです。

 下記の日経新聞の記事にある日本私立中学高等学校連合会会長(役職名長すぎwww)の言葉に顕著にあらわれているのですが

論点の一つは英語4技能の評価方法だ。日本私立中学高等学校連合会会長の吉田晋委員は「英語4技能はグローバル社会で活躍するために必要なツールで、入試で測る必要がある」とする。国が民間試験の受験料を支援するなどし、各大学の4技能評価を後押しするといった方法を提案する。 

 

「英語4技能はグローバル社会で活躍するために必要なツールで、入試で測る必要がある」

 出ましたよ。「グローバル社会」と「ツール」。

はっきり言ってこの言葉を使う時点でもう既に教育を語る資格がありません。

 

グローバル化は既に時代遅れ

グローバル社会などと言いますが、もう既に世界はフランスの人類学者エマニュエル・トッドの言う「グローバル疲れ」によって、グローバル化の流れから反転しています。

そもそもグローバリゼーションというのはアメリカのような強国が「自由」「平等」という美辞麗句の下、自分の強さが最大限に発揮できるルールを作って、それを世界中に押し付けてきた流れでした。いわば「アメリカ圧倒的優位ルールの下での弱肉強食の世界」であり、強い者はますます強く、弱い者はますます弱くなるシステムだったのです。だからこそ政治的、金融的な強者から強烈に支持されてグローバル化が一気に進められました。

 

しかし、その一方で弱肉強食の世界によって収奪される側の弱者はますます弱くなった上、強者と結びついた政治からは完全に置き去りにされました。その自国政治に見放された人々の怒りが生み出したのがトランプ旋風であり、英国のEU離脱であり、ドイツの政治混乱、フランスの黄色いベスト運動だったのです。このようにそもそも行き過ぎたグローバル化がそういった混乱を引き起こしたことを考えれば、脱グローバル流れが生まれてくることは当たり前の話です。

つまり、日本以外の先進国はグローバル化の進展によって生まれた軋轢が国家的混乱を生むことが明らかになったため、そのグローバル化から舵を切ったのです。したがって、「グローバル化はもう時代遅れ」であるにも関わらず日本は愚かにも周回遅れで追いかけている。それが現実です。

将来どころか今現実に起こっていることすら理解できず、あいも変わらず「グローバル化社会で云々かんぬん」などと言っている人間たちに、将来世代の教育を語る資格など全くないのです。

 

言語はツールではない。

そして彼らが犯しているもう一つの重大な誤り。それは「英語はツール」だと思っていることです。英語に限らず「言語=ツール」だと考えている人は、恐らく言語とは人と人がコミュニケーションを取る上で生み出された道具だと思っているのでしょう。しかし、このような理解は言語の力をあまりにも低く見積もり過ぎています。

評論家の中野剛志さんの著書「富国と強兵」の中でジョン・サールという言語学者の言語行為理論が紹介されているのですが、そこでは

言葉というものには、物事の記述や報告にとどまらず、人間の行動を規定する規範的な力が宿っている。たとえば、「私は、明日必ず来ます」という約束の言葉は、単なる発話者の意図や信念の表現にとどまらない。その約束の言葉は、約束を表明した発話者に対して、言葉どおりに必ず実行しなければならないという社会的な義務を課すのである。

このように、言語というものには、一定の行為を遂行させる規範的な力がある。

*1

とした上で、社会一般における契約、私有財産権、さらには企業や組合といった組織までも“言語が持つ規範的な力”がその裏付けとなっている。あらゆる制度というものが言語によって創造されたものなのである、と結論づけます。

この場合の「制度」とは、法律のような明文化された規則だけではなく、学校や近所付き合いのようなコミュニティで暗黙に成立しているルールや、道徳や倫理といった社会の秩序を保つためのすべての規範が含まれています。

そうであれば、そのような規範が生きて、秩序のある平和な社会を成り立たせているのが言語である以上、言語こそが社会のあり方を規定するものであり、私達の道徳や行動倫理を言語が規定しているということになります。

 

ちなみに、近代言語学の祖とも言われるフェルディナン・ド・ソシュールも同様の指摘をしています。例えば「川」という言葉は英語では「River」、フランス語では「Rivière」ですが、それがイメージさせる姿かたちは全然別物だというのです。昔の寓話で、日本に来た中国人が「日本には大きな川がないと聞いていたが、立派な川があるじゃないか」と言ったところ、実はそれは“瀬戸内海”だった、と。

つまり、言語が違えば世界の捉え方そのものが違うということなのです。言語はツールどころか、この世界の認識方法そのものを左右する存在なのです。

 

「英語はツール」などと言う人は、そのような言語の持つ根源的な力すら理解していないし、そんなことを考えたこともないのでしょう。つまり、自分が住む社会がどのように成り立っているかも考えずに、まるで自分が自分だけの力でこの社会のあり方を規定しているかのような浅はかな認識能力しかないということです。その程度の人たちにこの日本の未来を担う若者の教育など語る資格はありません。

 

国際社会で生き残るために英語より重要なもの

ここまで見てきたように、英語教育推進を図る人たちのほとんどが言葉では偉そうに日本の未来を考えているように言っておきながら、 実は国際社会のことも、言語のことも全く理解せずに念仏のように「グローバル化が〜」「英語教育が〜」と唱えているだけに過ぎません。結局彼らの頭の中は

 

「何か知らんけど、英語をペラペラ喋れるようになりゃ、外国からお金稼げるグローバルな戦士に育つんだろ。知らんけどww」

 

その程度のコンセプトしかないわけです。

しかし、はっきり言って本当にビジネスレベルで外国の人たちと渡り合っていくだけなら、社会人になってからの勉強で十分です。私も仕事上海外の人たちと英語を使ってコミュニケーションを取っていますが、彼らも仕事という共通の利益のために話をしているのですから、“話す内容さえしっかりしていれば”ちゃんとコミュニケーションは取れます。そのための必要最低限の英語力は社会人になってからでも十分身につきます。本人のやる気次第です。

逆に言えば、やる気がなければどんなに詰め込んでも無駄です。大学入試用に勉強したとしても、数年できれいさっぱり忘れてしまうでしょう。

 

むしろ重要で、なおかつ難しいのは

 

・「英語は下手だけど、こいつはコミュニケーションを取るべきやつだ」と思われる人間力

・会話を聞くに値する内容にできるかどうかの分析力、洞察力、判断力

 

の方でしょう。こればかりは付け焼き刃の試験勉強で意図的に育て上げることは相当難しい。一つの物事を注意深く見つめ、分析し、考え、仮設を立てて検証していく・・・そのような地味な努力が欠かせません。これこそ子供の時からの長い時間をかけた教育が必要であり、もっと政府が国を挙げて取り組んでいくべき教育でしょう。そして、このような教育においては、下手に中途半端に英語を学ばせるよりも母国語である日本語を徹底的に磨かせた方が、より深い理解力と創造性を身につけられる可能性すらあるのです。

繰り返しますが「何か知らんけど英語をペラペラ喋れるようになりゃ、金稼げんだろ。」程度の浅はかな考えで、安易に子供の教育方針を転換してはならないのです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

*1:中野剛志著「富国と強兵」 P395より引用

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