世界を救う読書

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新型肺炎というグローバル社会の申し子が世界を平等に襲う

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世界中で猛威を奮っている新型コロナウィルス。

WHOの報告によると、2月2日時点で死者が361人を超え、感染者数も1万7000人を突破。日本でも感染者が20人に達した模様。

 

たまらず日本政府も中国からの入国を制限。すでに8人を入国拒否としたようです (春節で訪れた中国人観光客の数から考えれば少なすぎると思いますが・・・)。

 

ただ、不謹慎を承知であえて言わせて頂くとすると・・・

 

この程度でビビるくらいならグローバル社会なんか歓迎するんじゃない!!

 

です。

 

 

 

グローバル (Global)の意味とは何か?

グローバルという言葉は英語で書くと「Global」。

Globalの元である「Globe」とは「地球」という意味です。この世界を一体化したひとつの存在だとする世界の見方であり、グローバルというのは国の境目を失くして、ひとつにして行こうという考え方なのです。みなさんも何となくグローバルな社会というと「自由で、平等な、開かれた社会」だと考えているのではないでしょうか。

 

さて、およそ1980年代後半頃から世界ではこの「グローバル社会」という考え方が広がりました。そして、実際に国境が下がり、それぞれの国が無防備に繋がりました。

その結果どうなったでしょうか?

国際競争力を強くしなければならない!という号令の下、世界中の労働者が賃金競争にさらされたため、先進国の労働者ほど賃金が低下していきました 。「中国で作った方が安い。」「そうじゃないと売れない」と言われて、企業が中国に拠点を移していった結果、日本人の賃金が中国人の賃金とガチで勝負させられる状況に追い込まれたのは、みなさんご存知の通りです。

自由! 平等! のスローガンの下、すべての国民が“自分以外のすべての人”と競争し合う殺伐とした世の中になりました。

 

グローバル社会が拡大した病原菌が引き起こしたパニック

そして今年、満を持して新型コロナウィルスが国境を越えて、自由に世界を移動しはじめ世界中に拡散しています。どんな人種であろうとも“平等に”襲いかかったわけです。もちろん仮にグローバル社会になっていなかったとしても、このウィルスは広がっていたかもしれません。ですが、ここまで急速で広範囲な拡大にはならなかったはずです。もっと限定された感染に留めることができたでしょう。だからこそ、日本を含めて様々な国が中国からの渡航を禁じるという「国境を高くする政策」へと転換し始めたのです。

私はこの判断は正しいと思います。

自由で開かれた平等な社会 (=グローバル社会) への人類は進歩するんだ! などと口では言っていても、それはあくまで“トラブルのない平和な状況であれば”の話。実際にこのような事件が発生すれば世界の国々は自国民を守るために国境を引き上げるし、民間企業でさえも社員を守るために中国への渡航を禁止する。

また、市民レベルでも横浜から出港して日本各地と東南アジアを巡ったクルーズ船「ダイアモンド・プリンセス号」に新型コロナウィルスの感染者が見付かったら、その乗客3,500人を陸地に下ろすことに猛烈な批判が浴びせられるような状況です。

 

本当にグローバルな社会が望ましいか?

しつこいようですが、本当に自由で平等な開かれた社会を目指すのであれば、感染者が入ってくる自由を妨げてはならないし、すべての人々が平等に新型肺炎にかかり“当事者意識を持って”この病気に立ち向かわなければならないのです。それが本当のグローバルな社会のはずなのです。

 

でも、そんな社会を本当に望みますか?

私は嫌です。絶対に嫌。

海外の国々とのつながりは持つべきだし、社会的にも文化的にも、あるいは科学と言った分野でも、そこから刺激を受けることは多いです。良い影響があるのは間違いありません。とは言え、それぞれの国の考え方は違うし、このような大規模なトラブルが起こったときに、世界中の国々が一致団結して臨むというのは現実的には難しい。どうしても他の国々との協調は図りながらも、結局はそれぞれの国が独自に判断し責任を持って行動するのが一番現実的なのです。 

 

私は何も「鎖国時代に戻せ」とか言っている訳ではありません。

グローバルか?

鎖国か?

という二元論で考えるのはおかしい、他の選択肢もあるはずだと言っているだけです。

 

日本では昔、“国際化”という意味で「International (インターナショナル)」という言葉を使っていました。インターナショナルは「ナショナル (国家)」のつながり (インター)ですので、それぞれの国が自立して存在し責任を持った一国として行動する。そういった国々が様々な分野で、状況に応じたつながりを持って協力し合うという関係ですので、グローバルとは意味が全然違います。

 

グローバルよりもインターナショナル

確かに世界に何もトラブルが起きず、平和で秩序のある状態な何百年と確実に保証されるならグローバル社会を目指しても良いかもしれません。しかし、そんなことは現実にはありえません。誰かが悪意を持って行動しなくても、今回の新型肺炎のように突発的かつ大規模な事象が世界のどこかで発生する可能性は確実に存在するのです。そのような世界の中でグローバル社会という理想論を掲げて世界秩序を変更していくことがどれほど危険な行為であるのか? 今回の新型コロナウィルスの一件で、世界中の人々が痛感したのではないでしょうか。

 

世の中というのは不確実性に満ちあふれています。

今回のような病気もそうですし、自然災害などもそうです。

そのような不確実な社会で、少しでも人々が平和に安定して暮らせるような方策を講じる。それが私は国の責任だと思います。グローバル社会というものは、自由、平等という美辞麗句を材料にして、国家がその責任から逃げるための言い訳でしかありません。それぞれの国が自立して責任を持った行動をし、別の国に依存しすぎることなく状況や相手に応じてつながり方を模索していく。そんな「インターナショナル」な世界のあり方こそが今後重要になってくるのではないでしょうか。

 

 

今回も長文を最後までとお読み頂きありがとうございました😆

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