桜が美しいと思うなら9月入学は止めておけ〜9月入学の危険性〜
新型コロナウイルスが流行り始めたころ話題になったものに、「9月入学制度への移行」という話があります。
私はこの9月入学制度への移行には懐疑的です。なぜなら4月入学という学制は単なる「教育年度の区切り」ではなく、子供と社会を結ぶつながりや、日本に住む人々の絆や連帯感の根本に関わる話だと思うからです。
タイムスケジュールの都合で2020年に関しては、この9月入学への移行はうやむやになってしまいました。ですが、新型コロナウイルス騒動が落ち着いた頃に、また議論が活発化すると思われます。
そこで今回はこのような議論が再燃する前になぜ拙速に9月入学を採用してはならないのか、そして「入学時期」が私たちの文化や伝統と深い関係性があることについても考えてみたいと思います。
- なぜ9月入学の議論が起こるのか
- そもそも9月入学はグローバル・スタンダードなのか?
- 130年程度では伝統にならない?
- 伝統とは「子や孫に引き継ぐ価値のあること」
- 桜にが象徴する4月入学という伝統
- グローバル社会以後に求められるもの
なぜ9月入学の議論が起こるのか
今年議論になった9月入学への以降について言えば、事の発端はコロナ禍での非常事態宣言により、子供の学習時間が十分に確保できなくなるという懸念が生まれたことです。
しかし、この9月入学制度への移行という話自体は、それ以前からずっと議論を呼んでいることでした。
この議論の出どころは主に2つあって、一つは経済界からよく出てくる要望。
その理由を端的に言えば、「9月入学がグローバルスタンダードなのだから、それに合わせろ。そうすれば、欧米の学校に日本人の学生が留学しやすくなるし、海外の学生も呼び込みやすくなり、ビジネスチャンスが広がる。」というものです。
また、もうひとつの出どころは教育界。彼らの主張は昨今の日本の教育の質の低下の原因を、この日本の教育制度がグローバルスタンダードから外れているという説に依拠しています。「グローバルな教育に合わせれば、日本の教育の質は上がるんだ」というやつですね。
英語教育の必修化もその流れで、 現場の教育者というよりも教育ビジネス業界からの要望と言った方が良いかもしれませんが。
そもそも9月入学はグローバル・スタンダードなのか?
先程も書いたように、9月入学を推進する人たちが声高に叫ぶ根拠は「それがグローバルスタンダードだからだ」というものです。
ですが、そもそも本当に9月入学がグローバル・スタンダードなのでしょうか?
ニッセイ基礎研究所のレポートによると、下記のようにかなりばらつきがあるようです。
1月 シンガポール、マレーシア、バングラデシュ、南アフリカ
2月 オーストラリア、ニュージーランド、ブラジル
3月 韓国、アフガニスタン、アルゼンチン、ペルー、チリ
4月 日本、インド、パキスタン
5月 タイ
6月 フィリピン、ミャンマー
7月 米国
8月 スイス、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、台湾、ヨルダン
9月 英国、アイルランド、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、オランダ、ベルギー、ギリシア、ロシア、カナダ、メキシコ、キューバ、中国、インドネシア、ベトナム、イラン、トルコ、サウジアラビア、エチオピア、ナイジェリア
10月 エジプト、カンボジア
出典: https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=61449&pno=2&more=1?site=nli
欧州ではたしかに9月入学の国が多いようですが、アメリカでは州によるものの基本的には7月入学が採用されています。
このように見ると欧州では9月入学が多いものの、グローバル・スタンダードといえるものではありません。
130年程度では伝統にならない?
また、4月入学から9月入学に切り替えるべきと主張する人たちの論拠として、「そもそも4月入学も明治時代に定められたもので、江戸時代の寺子屋制度では特段の決まりはなかった。4月入学は日本の伝統でもなんでもない。」という指摘があります。
実際、日本の4月入学制度が始まったのは明治19年。それ以前の寺子屋制度時代ではむしろ家や地域の状況に合わせて自由に出たり入ったりできるのが普通で、特別な決まりがなかったようです。
ただ、それをもって「伝統でもなんでもないのだから、海外の基準に合わせてしまっても何も問題ない。」と切り捨ててしまうのは、いささか早計ではないでしょうか。
明治19年といえば130年以上前。歴史の浅いアメリカで言えば、130年も続いているといえば紛れもない「伝統」だと思いますが、二千年以上の歴史を持つ日本という国で考えれば「130年程度で何を」という考えなのでしょうか(笑)。
冗談はさておき、恐らくそのように主張は、明治期に国家によって人工的に作られたものだから「伝統」とは呼べないという意味なのでしょう。
しかし、そういう主張をする人たちは「伝統」とは何なのかを深く考えたことがないのだと思います。伝統とは何も”古いこと”ではありません。古ければ何でも伝統になるわけではありません。古くて長続きしているだけのものは伝統ではありません。
それは「習慣」「慣習」です。
では、伝統とは何なのでしょうか?
伝統とは「子や孫に引き継ぐ価値のあること」
伝統とは何か?を考える上で、非常に参考になるのが「表現者クライテリオン」という雑誌の2020年5月号にて、柴山桂太京都大学准教授が寄稿している「伝統論再考ー創られた伝統論の意義と限界」です。
この中で柴山氏は"創られた伝統論”の論評をしています。創られた伝統論とはざっくり言うと「伝統なんてものはよくよく調べてみれば、比較的最近作られたり、どこか別の国から持ってきたりしたもので、ほとんどが近代の創作である」という説です。
確かに私達が伝統だと考えているものも、実はそれほど長い歴史を持ったものではなかったということはよくあります。また、時には国家権力によって意図的に生み出されたものもあるでしょう。
「伝統論にとって重要なのは、伝統が創造されたという事実ではなく、その伝統が定着したという事実の方である」(柴山)。
また、柴山氏は同寄稿の中でスコットランドの民族衣装キルトで使われることで有名な「タータンチェック」について取り上げています。
タータンチェックはスコットランドの伝統的な柄だと認識されていますが、実はベルギーのフランドル地方からの輸入品などから取り入れたもので、純粋にスコットランド伝統のものではないのだそうです。
物によっては古い歴史を持つものもあるそうですが、タータンチェックにも色々なバージョンがあるようで、地方によっては19世紀や20世紀になって創り出されたものもあるのだとか。
いわゆる「創り出された伝統」論では、そのような例を出して伝統の価値を貶めることがあるようです。
柴山氏は次のようなスコットランドの氏族長の言葉を引用しながら、そのような「創り出された伝統論」に反論します。
ちょっと長いですが、伝統の本質をとらえた素晴らしい文章だと思いますので、引用させていただきます。
「私のクランタータン (注:タータンチェック柄のこと)は1950年代にデザインされて以来着られています。いわば五十年もののタータンというわけです。歴史としてはとても浅いですが、父も私も、子供たちも来ています。四代目、五代目へと続いていくことでしょう。」
この氏族長は、一族のタータン柄が浅い歴史しか持たないことを自覚している。それでも、子や孫の世代へと受け継いでいかなければならないと考えているここには伝統について考える上で重要な論点がある。
伝統を次の世代に受け渡さなければならないのは、その伝統が長く続いてきたからという事実によるだけではない。次の世代にとっても価値があると思うからこそ、受け渡すのである。言い換えれば、伝統の真価を決めるのは過去への憧憬である以上に、未来への意思ということだ。
伝統は、過去世代にとってだけでなく未来世代にとっても価値あるものだ。今の世代がその価値を認め、次の世代にも引き継いででほしいと願うものーそのようなものこそが、伝統としての力強さを持つ。
(表現者クライテリオン 2020年5月号 P174)
伝統とは「伝統だから大事にしなくてはならない」というような押し付けではない。
伝統とは次の世代にも引き継いでほしいという”願い”である。
私はこの”想い”にこそ伝統を大事にすべき本質があると思いますし、だからこそ闇雲に形だけ守ることが伝統を守ることにはならないのだと思います。
桜にが象徴する4月入学という伝統
では、4月入学は伝統足りえるのでしょうか?
それを考えるときに私が重要だと思う”あるモノ”があります。
それは「桜」です。
桜は日本人にとってとても重要な意味を持つ花です。旅立ちや別れ、あるいは新しい仲間との出会い。そんな「寂しさ」と「未来へのわくわく感」を内包した不思議な感覚を桜は持たせてくれます。
桜は世界中にありますが、桜を目にした時にそのような感情を抱くのは日本人だけ。しかも老若男女問わずあらゆる世代に共通した感情です。
私は「3月卒業・4月入学」という日本の学制は、この感情に非常に強い影響を与えていると思います。
卒業は多くの友人たちとの別れを伴います。それと同時に自分がこれから向かう世界へのわくわく感と言いしれぬ不安感をも引き起こします。だからこそ、この時期に咲く桜という花は、一言では表現できない複雑な感情を凝縮した存在となっているのです。
だかこそ、日本には昔から桜を主題とした歌が数多くあり、ドラマや映画などでも出会いや別れには桜が非常に多く使われるのです。そして、多くの日本人はこの桜 (が持つイメージ)を子どもや孫の世代に伝えていきたい思っているのではないでしょうか。
そして、このような感覚こそ先ほど述べた柴山氏が言う「今の世代がその価値を認め、次の世代にも引き継いでほしいと願うもの」・・・すなわち「伝統」だと思います。
桜という花そのものは伝統にはなりえないかもしれない。しかし、それに象徴される複雑な想いは日本の伝統として残していくべきものだと信じます。
もし4月入学という学制が崩されてしまったら、このような感覚を世代間で引き継いでいくことは難しくなるのではないでしょうか。数十年後、自分が孫を持った時に「中学校に入学する時に桜がいっぱい咲いていてね」とか「桜の時期は別れの時期だからね~」とか言っても、孫たちには「は? なんで? 桜なんてただの花じゃん。」としか理解されない。
私たちが感じる桜を見上げた時の言いしれぬ感情が、つぎの世代とは共有できなくなる・・・私はそれはとても辛くて、寂しいことだと思います。
だからこそ、そんな未来を招きかねない選択をありもしない「グローバルスタンダード」に合わせるために行うことは、とても賢明とは思えません。
グローバル社会以後に求められるもの
さて、そろそろ結びに入ろうと思います。
ここまで私が述べてきたことは、果たして過去に憧憬を抱く感傷に浸るだけのセンチメンタルな感情でしょうか。そして、そのような感傷はこれから激動を迎える世界で日本が生き残るうえで不要なものでしょうか。
そんなことはありません。むしろこれからの激動の時代で日本が生き残るためにこそ重大な意味をもつと思います。
なぜなら、このような私たちが当たり前すぎて有難みを感じなくなった些細な経験こそが、社会のつながりや国民の絆を強くするからです。理屈ではなく、感情で分かり合える、通じ合える、そんな共感があるからこそ、人々はお互いにちからを合わせることができるのではないでしょうか。
2008年のリーマンショック、英国のEU離脱、トランプ旋風、そして激化する米中貿易戦争。今の社会は確実に脱グローバル化が進んでいます。さらに新型コロナウィルスの感染拡大により、世界中の国が自国を守ることに必死となり、それを隠そうとしていません。この流れがこれからますます激化することは避けられません。
そのような時代において、世代格差や社会格差が拡大し、皆が皆自分の利益しか考えないような国では絶対に生き残ることができません。経済的、社会的に強固な結びつきがますます重要になってきます。
だからこそ、私たちは日々の何気ない出来事の大切さについて、そして現在の自分たちと子や孫たちの絆を作るものは何なのかについて、改めて考えなおす必要があるのではないかと思います。
というわけで・・・・タイトルに書いた通り
桜を美しいと思うなら、9月入学は止めておけ。
と私は思うわけなのです。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(__)m