世界を救う読書

ビジネス書から文芸書までさまざまな本を通して世界の見方を考えるブログ

読めば分かる日本を覆う"空気"正体。山本七平の名著「空気の研究」

突然ですがみなさん、「名著の条件」って何だと思いますか?

「何万部突破!」といった発行部数で測るという考え方もあるかもしれませんが、 必ずしも「たくさん売れた=名著」とは言えません。ものすごくたくさん売れた訳ではないければ、時代を超えて読みつがれる名著という物もあります。

 

この「名著の条件」について以前評論家の中野剛志氏がこのように仰っていました。

「世間の人々が何となく“こういうことじゃないかな”と思っていることを形にして、読んだ人が“そうそう。これが言いたかったんだよ!”と思うようなこと。名著というのはそういうものだと思うんですよ」と。

 

本とは自分一人では知り得ない価値観や世界の見方を示して、物事を考える道筋を示してくれるもの。

だとすれば、世の中の多くの人がぼんやり感じているけど、言葉にできない。何と言ったら分からないけれど、何か喉につっかえているようなモヤモヤを適切に表してくれるような本があれば、たしかに名著と言えそうです。

 


今回紹介する本は、まさにそのような意味で時代を超えた名著、山本七平 「空気の研究」です。

正直、これめっちゃ難しいです。内容もさることながら、著者の独特な表現や言い回しによってかなり難易度が高い著作になっています。ただ、読むとめちゃくちゃ面白い!

もう50年くらい前に書かれた本なのですが、現代人の多くが悩まされる”空気"。目には見えないけれど、無言の圧力で言動を縛る"空気"。存在しないのに確実に存在する"空気"。これは一体何なのか?

 


その謎に立ち向かい、空気に支配されないためにどすれば良いかという道筋を示してくれる著作です。

書かれたのが随分昔ですので、出てくる具体例こそいささか古いですが、そこで表現されている日本人を支配する空気は現代にも通ずるリアリティを持って描かれています。


空気という"妖怪"に多くの人が悩まされる現代こそ、広く読まれるべき名著。ちょっと長くなってしまいましたが、この本が描く空気の正体と恐ろしさを詳しくご紹介します!

 

著者紹介

著者である山本七平第二次世界大戦の前後に活躍した評論家。1921年生まれ、1992年没。クリスチャンの両親を持ち、その名前「七平(しちへい)」はキリスト教の神の安息日である日曜日に生まれたことから名付けられたとのこと。両親と同じく七平も敬虔なクリスチャンです。

このキリスト教徒であるということが、山本七平の独特の視点に大きな影響を与えており、その著書も「日本人とユダヤ人」「聖書の旅」「日本教徒 (※翻訳)」など、宗教を題材にしたものが多くなっています。

また、第二次世界大戦の際にはルソン島にも出征。のちにマニラの捕虜収容所に移送されるなど、実際に”戦争”を体験したこともまた彼の思想に非常に強い影響を与えています。

クリスチャンであること、そして戦地を経験した。この2点が山本の言説を理解する上で、とても重要なバックグランドになります。

 

山本七平がこの本を書いた理由

この本では文字通り「空気」に関する研究が展開されています。その空気とはもちろん今の私たちが「あいつ空気読めないなー」などという時に使う空気と同じものです。

この「空気」を研究した本としては、本書は当時かなり画期的だったようです。なぜなら当時はまだ今のように「空気を読む」ということが意識されることがなかったから。空気を読むのが当たり前すぎて誰も意識すらしていなかったということですね。

では、なぜ山本はそのような状況でこの空気を研究したのか?

それは先ほども述べたように第二次世界大戦を実際に経験したことが影響しています。

 

軍国主義者でもなくクリスチャンであった山本がなぜ戦地に行かなければならなかったのか。戦後の視点から考えれば無謀だと分かりきっていた戦争になぜ突入してしまったのか。

それについて考え抜いた結果、「この空気という存在が日本を戦争に追い込んだのではないか?」という仮説に辿り着いた。

では、その空気は戦争が終わって消滅してしまったのだろうか? いや、そんなことはない。戦争に国民を駆り立てた空気は消えてしまったが、別の形で空気は存在し続けている。

だとしたら、その空気とは何なのかをしっかりと検証し、空気の支配によって国家や国民が間違った道へ進まないためにはどうすれば良いのかという対策を提示しておかなければならない。

このことについて山本は次のように述べています。

 

「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一瞬の「超能力」かもしれない。

(空気に支配されてしまうと)統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって(中略)すべてが「空気」に決定されることになるかもしれぬ 。

 

われわれはまず、何よりも先に、この「空気」なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起こるやら、皆目見当がつかないことになる。

これが山本が「空気の研究」を書いた理由です。

空気が良いものなのか悪いものなのかは分からない。

しかし、その判断を下す前に、まずは空気の正体を見極めることから始めよう、ということです。

 

今こそ空気の研究を読むべき理由

この山本の動機は現代の私たちにとってもとても重要な意味があります。その理由のひとつは、ネット社会の発達による情報の氾濫の中に私たちがさらされていることです。

 

ご存知の通り、ここ数年フェイクニュースという言葉が世界で注目を集めています。

フェイクニュースとは虚偽の情報を元に作られた偽情報のことですが、現在の情報過多の社会では一人ひとりの人間が一つ一つの情報のソースまで遡って調べることは不可能です。どうしても

「詳しくは知らないけど、どうもXXXらしい。」

「よく分からないけど、メディアにも書いてあるし、周りの人もそういってるから本当なんだろう」

という伝聞と推測による思い込みが増えてしまいます。

これこそが山本が言う「空気」です。

そしてこれが進むと、その空気に逆らうことが自分の不利益になるため、本当はちょっとおかしいと思っていても空気に同調せざるを得なくなる。こうして空気の支配が完成するわけです。

すわなち現代のような情報過多社会こそ空気の支配が進みやすい時代と言えます。近代化が生んだ情報社会が空気の力を強くする・・・。この矛盾した社会で物事を冷静に判断し、より良い選択肢を選んでいくためにも、この「空気の研究」は改めて読み解かれる意義がある名著です。

 

なぜ空気は生まれるのか

この問いを考えるために、山本は「空気が発生する時の状態を調べ、その基本図式を検証してみるのが最良だ」と考えます。つまり空気が発生する条件を探ろうというわけです。

そして、山本が空気が発生する時の条件として着目するのが

「臨在的把握」

「情況倫理」

という概念です。

うーん、何やら難しい表現ですねぇ。ですが、これらは山本の議論を理解するうえで非常に重要なキーワードとなりますので、ちょっと詳しくみてみます。

 

臨在的把握

臨在的把握①ー臨在的把握とは何かー

言葉は難しいのですが、実は言っていること自体は難しい話ではありません。

「臨」とは「臨む (のぞむ)」という意味。今から試合が始まるぞ!みたいな時に「臨戦態勢」という言葉を使いますよね。あの「臨」です。臨戦とは「戦いに臨む」ということ、つまり「戦う」という行為にすぐそばで向かい合っている状態です。

「在」とは「存在」のこと。「存在感がある」とか言いますよね。あの「在」です。

そして「把握」とは物事の内容を理解することです。

 

したがって、臨在的把握とは「ある存在に向きあっているように、その存在を把握すること」という意味になります。

この臨在的把握の具体例として山本が挙げているのが、実際にあったイスラエルでの発掘調査での出来事です。

 

イスラエルの古代の墓地を日本人調査団が調べていたところ、人骨や髑髏などが出てきました。大量だったので、現地のユダヤ人と日本人の調査団で移動させていたのですが、一週間ほどするとなぜか日本人だけが体調が悪くなってしまった。ユダヤ人は何ともないのに。

そして作業が終わると、調子を崩した日本人もケロリと治ってしまったそうなのです。実はこれが臨在的把握によるものだそう。

ユダヤ人にとっては人骨はただの骨であり、物質であり、そこには何も意味がありません。しかし、日本人はその人骨という物質に何かの意味を感じ取り 、その大量の人骨が生み出す”空気”に飲まれて体調を崩してしまったのです。これは日本人ならほとんどの人が想像がつくのではないでしょうか。

たとえば、日本では墓地の近くの土地にはなかなか民家が建たないようですが、それも「何か気持ち悪い」という感覚があるからでしょう。

 

つまり、人骨という存在に、向きあった(臨んだ)ことで、その背後にある”何か”を感じ取った (把握した)、あるいは人骨の背後に何か物質を超越した存在を感じ取った結果、日本人の調査団は体調を崩してしまったのです。

この臨在的把握、つまりそれ自体は何者でもない物事に対して特別な意味を見出して、まるでその意味が本当に存在しているかのように理解してしまう・・・このことが空気を生みだす端緒となる。今風の言葉で言えば、何かの存在に対して人が勝手に”忖度”をして「こうあるべきだ。」「こういう風にしてほしいに違いない。」という空気を作り出してしまうというところでしょうか。

これが山本の分析です。

 

臨在的把握②ー西洋では空気が発生しない理由ー

ただ、この「臨在的把握が空気を作り出す」という話には一つ問題があります。

それは「だったら、なぜ日本人しか空気を作り出さないのか? (と思われているか?)」ということです。

たとえばキリスト教で十字架や聖書が神聖視されるように、日本以外の文化でも何かの物に神秘性を感じるという感覚自体はあります。空気自体が発生しないわけではない。しかし、日本の”空気”のようにその”神秘性を感じさせる何か”を絶対視するほど強力な拘束力を持つことはありません。日本のように「暗黙のルールに逆らったら村八分になる」みたいなことはない訳です。

だとしたら日本人と西洋で何が違うのでしょうか? 

 

ここで山本は面白い考え方を提示します。

それは一神教多神教の違いによるものだ、という考えです。

 

臨在的把握③ー多神教という要因ー

西洋社会で主流な宗教と言えばキリスト教であり、キリスト教は唯一絶対の神がいる一神教です。

一方日本は多神教の国。「自分は無宗教だ」という人も多いでしょうが、正月には神社に初詣をし、神社にいくつもある社や岩に紙が宿っていると言われれば手を合わせ、果てはトイレにも神様がいると公言する日本人は圧倒的に多神教の国であると言って差し支えないでしょう。

この一神教多神教の違いが、日本に特異な空気の支配を生む原因だと山本は言います。なぜでしょうか?

 

キリスト教イスラム教のような一神教では唯一絶対の存在は「神」のみです。神以外の存在は絶対ではありません。したがって、仮に空気が発生したとしても、それが神ではない以上、日本のように絶対視されることはない。必ず相対的な物としてみなされるのです。

相対的なものとしてみなされるとは、「お前はそうやって言うけど、お前は神じゃないのだから絶対ではない。それはお前の考えだろ?」となるという意味です。

つまり一神教では神以外のすべてが相対化されて捉えられるために、日本のような空気絶対主義にはならない。これが山本の主張です。

 

情況倫理 

情況倫理①ー情況倫理とは何か ー

さて、次のキーワードは「情況倫理」です。

何だかこれも難しそうな用語ですが、実はこれもそんなにややこしい話ではありません。これを理解するポイントは”状況”ではなく”情況”という言葉を使うところ。

よく言われる「状況」とは、その時々の場の有り様を指す言葉です。しかし、「情況」となると同じ”場の有り様”を示す言葉でも、そこに関わる人たちの思いや価値観を含めたものになります。

*1

 

情況倫理②ー日本型情況倫理と西洋型固定倫理

さて、普通「倫理」と言えば、どのような状況であっても変わらない”人としてあるべき道”であると考えられるのが一般的です。山本はこれを固定倫理と言っており、主に西洋的な倫理だと考えられています。しかし、日本の場合その倫理が「その場その場の情況に応じて変わる」のです。

たとえば同じ盗みを働いたとしても、「遊ぶ金欲しさ」だったら厳しく罰せられるし世間の目も厳しくなります。しかし、「親から捨てられて、その日食うお金もなかった」という理由だったら、世間からも情状酌量されます。同じ”盗み”という罪であっても、犯罪を犯した”情況”によって評価が変わる。だから”情況”倫理という訳です。

 

情況倫理③ー言語に表れる日本の独自性ー

このような日本型の情況倫理が生まれる原因として、言語に現れる一神教多神教の違いを紹介しておきたいと思います。これは山本の主張ではないのですが、日本で情況倫理が生まれる理由を考える上で意義があると思います。

 

一神教と言えばキリスト教

キリスト教と言えば西洋。

西洋と言えば英語。

という訳で、かなり強引ですが(笑)、分かりやすいので英語を例にとって考えます (本当はラテン語で考えるのが正しいのでしょうが、ラテン語の知識が乏しいので・・・)。

 

英語の場合、一人称は必ず「I (アイ)」になります。誰と話をする時でも「I」。これはドイツ語、フランス語、イタリア語など他のヨーロッパ系言語は同じです。

しかし、日本語の場合は相手との関係性や情況によって一人称が変化します。「わたし」「俺」「僕」もそうですが、子供に話しかける時は「パパはね」「ママは」とも言いますし、公式な場では「当方」「わたくし」「自分」などにも変化します。

ここには、日本語とは相手と自分がどのような関係性にあるかによって、自分が何者であるかの定義が変わるのであり、一神教のような「いついかなる時も変わらない自分」というものは存在しないという世界観が表れています。

つまり、私たち日本人はあらゆる状況において瞬時にその場の空気を読み取り、自分自身の存在を規定するという感覚が無意識の奥にまで染み付いているのです。

 

この日本語の特性については、こちらの本を参考にさせて頂きました。これもとても読みやすく、面白いのでよろしければ是非。

本当に日本人は流されやすいのか (角川新書)
 

 

 

「臨在的把握+情況倫理」のコンボがやばい。

このように日本においては、何かの物事を判断する時に常に情況が汲み取られることになります。そして、その情況に応じてさまざまな物事が判断される。この情況というのは、単なる物事の流れという以上に、そこに関わった人たちの感情や思いを重視したものです。したがって、情況を汲み取るということは必然的にその対象に感情移入することになります。

この「情況倫理」と先程述べた「臨在的把握」と合体すると、どうなるでしょうか?

何かについて考える時に、それが置かれた情況を汲み取った結果、特定の対象物の背後に特別な意味を勝手に読み取り、そこに感情移入をしてしまう。一旦感情移入してしまうと、科学的な分析や論証をいくら示されても冷静な判断ができず、自分の感情が信じた結論から離れられなくなってしまう。

つまり、特定の対象物が生み出した空気 (これも自分が勝手に忖度したものですが)に囚われ、思考を拘束されてしまうのです。

 

この「対象物を論理や科学的分析ではなく感情で判断してしまう」というのは非常にややこしい問題を引き起こします。

男女の恋愛感情のもつれを考えると分かりやすいのですが、いさかいが感情レベルの物になってしまうと、どれだけ「自分が正しく、あなたが間違っている」と”論証”したところで、相手は聞く耳を持ってくれませんよね。むしろ論破した方が逆に怒りを倍増させることになることは、多くの人が経験していることでしょう。

 

このように情況倫理と臨在的把握がドッキングして思考が囚われると、外部からの科学的な力で説き伏せることはほぼ不可能なのです。これが「空気の支配」が危険な理由です。

 

空気の支配を防ぐ知恵

このように非常に危険な状態を招く空気ですが、無意識の内に自分と相手の関係性を規定し言葉を選んでしまう日本人にとっては、これから逃れるのは非常に困難です。では、日本人にはもう何ともしようがないのか? 空気の支配は日本社会では必然なのか? と言えば、そんなことはありません。

この空気という”妖怪”から自分たちを守るために、日本人は偉大な知恵を発明していました。それが「水を差す」という対処法です。山本はこの「水を差す」という行為を行えるような情況を常に作っておくことが大事だと言います。

 

日本人が空気を読んでしまうのはもう無意識のレベルに染み付いた習性のようなもので、これを事前に防ぐのは不可能です。しかし、それが誰も逆らえない”支配”のレベルに及ぶ前にストップをかけることは可能です。それが水を差すという行為なのです。

※ここまで書くタイミングがありませんでしたが、山本は「空気の発生それ自体が悪いことだ」と言っている訳ではありません。空気を読むことで円滑にコミュニケーションが取れることもあり、だからこそ一々指図をせずとも皆がスムーズに動けるということもある。あくまで空気による”支配”が起こると危険だという話です。

 

「水を差す」とは何か?

改めて「水を差す」とはどういうことでしょうか?

それを説明するために山本は次のような例を挙げます。

 

山本は山本書店という書店を経営していたので、周りには出版に関わる人が大勢いたようです。そういう人が集まると、みんな独立して自分が出したい本を出版したいという話になるのだそう。

そんな話をしている内にみんなヒートアップして、「いつまでもサラリーマンじゃつまらない、独立して共同で始めるか」ということになり、話がエスカレートしていく。けれど、話が具体的になってくると誰かがこういうのだそうです。

「先立つものが無いなぁ」と。

 

山本はこう言います。

一瞬でその場の「空気」は崩壊する。これが一種の「水」であり、そして「水」は、原則的にいえば、すべてこれなのである。(中略)その一言で、人は再び、各人の日々、すなわち自己の「通常性」に帰っていく。

通常性とは現実、あるいは現実とのつながりに立った考え方をするということ。つまり「水を差す」には現実に立脚した視点が欠かせません。もしこの現実とのつながりを忘れてしまえば、この水が差せなくなる。すなわち空気がすべての人の思考を拘束してしまい、空気が全てを決定してしまう。したがって、空気の支配を防ぐには常にこの「通常性」「現実とのつながり」を確保しておくことが非常に重要になるのです。

 

「水」にも弱点はある

空気の支配を防ぐのに重要な「水」ですが、この水にも弱点はあります。それはこの水もまたすぐに新しい「空気」になってしまうということです。

さっきの出版業界の人たちの例で説明しましょう。

 

最初みんなは「サラリーマンなんてやってても仕方ないぜ!みんなで独立しよう!」「そうだそうだ!」と盛り上がって"独立機運"という空気が充満していました。それが「とは言え、金が無いなー」という現実的な一言で水を差されました。一気に意気消沈したわけですね。

そうなると逆に「結局金がない俺たちに独立なんかできないだよ。あ〜あ…」という"空気"に一瞬で切り替わってしまうのです。

膨れ上がった空気にせっかく水が差されたのに、その水が全く逆の空気を生み出したという訳です。

 

空気の支配を防ぐための水が新たな空気を作る。そしてまた新たな水が差される…この堂々巡りが延々と繰り返されるわけです。

 

空気の支配を防ぐためにやるべきこと

ここまで見てきたように、空気の支配を防ぐためには、現実とのつながりを維持し続ける通常性という「水」が重要です。しかし、その水はすぐに新たな空気を生む。したがって我々は常に空気の支配の危険にさらされて生きている訳です。

では結局、我々はその空気と水の間で漂うことしかできないのでしょうか?

これに対する山本の言葉を引用しましょう。

それから脱却しうる唯一の道は、前述のあらゆる拘束を自らの意思で断ち切った「思考の自由」と、それに基づく模索だけである。まず"空気"から脱却し、通常性的規範から脱し、「自由」になること。この結論は、だれが「思わず笑い出そう」と、それしかない。

(P169)

自分の思考や周りの人々を縛る情況や倫理、思い込みなどあらゆる空気から放たれて自分の頭で考える。「ここまで長々と語ってきて、答えはそんなことかよ(笑)」と笑われようと(=水を差されようと)、我々にできることはそれしかない。

 

そして山本はさらにこう続けます。

そして、それを行いうる前提は、一体全体、自分の精神を拘束しているものが何なのか、それを徹底的に研究することであり、すべてはここに始まる。

 

日本という社会において空気の発生を防ぐことはできない (空気の発生自体は悪いことではなく、それ良い方向に働くこともある)。しかし、空気による支配は防ぐことができる。そのために大切なのは、我々一人一人が空気に縛られない自由な思考を心がけること。そして空気とは何なのかを徹底的に考えることである。

これが山本が出した答えであり、後世の私たちに伝えたいメッセージであると言えるでしょう。

 

締めの一言。

というわけで、非常に長文になってしまってしまいましたが、山本七平著「空気の研究」をご紹介しました。 ここまでお読み頂いた方、本当にありがとうございました。

 

実を言うと、最初はもっと簡潔に「この本面白いですよー」という感じでレビューを書こうと思っていたのです。ただ、他の方のレビューを見ると、山本の主張のほんの上澄みしか触れられていなかったり、全く違うことを書いてあったり、ひどい物になると自分の主張を通すためにかなり捻じ曲げられて書かれている物さえあるように感じました。※個人の感想です。

「なんで山本の本を読んでこういう結論になるのかさっぱり分からない。山本七平はそんなこと書いてないのになぁ。」という感じ。

 

 

だったら、どんなに長文になろうとも私ができる限りで詳しく、分かりやすく、少しでもこの本の魅力が伝わるように書き切ろう!と思って、今回のレビューを書いたのです。また、山本が言っていることについては、私も疑問を感じるところ、反論したいところがあるのですが、できるだけそう言った要素は省いたつもりです。

 

内容自体のレベルの高さもそうですが、山本独特の言い回しや、同じことを別の言い方で何度も書く、みたいな所があって、読み解くのはかなり難易度が高いと思います。しかし、内容としては非常に面白く、なおかつ情報過多の現代においては多くの人に読まれるべき名著であることは間違いありません。

私の今回の投稿を読んでいただいて、少しでも多くの人が本に触れ、少しでも理解しやすくなれば、これ以上の幸せはありません。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございました!

*1:※「情況」と「状況」の違いについては諸説あるようですが、山本は明らかにこのような意味合いで使っています。

このサイトについて プライバシーポリシー
Copyright ©2020 Sekadoku (世界を救う読書管理人)