世界を救う読書

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アフリカ化する日本の未来を止められるか?

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「ダイヤモンドは永遠の輝き」

1947年に米国のデビアスダイヤモンド社が考案したキャッチコピーだ。

このキャッチコピーによってダイヤモンドはその価値を不動の物としたため、人類史上最も成功したキャッチコピーだと言われている。1999年には、米国の広告専門誌「アドバタイジング・エイジ」によって「20世紀で最も偉大なスローガン」に選ばれてもいる。

いま私達が思い描く「ダイヤモンド」という宝石の価値は、このキャッチコピーから始まったと言っても過言ではない。

しかし、その一方でここに興味深い数字がある。

アフリカのダイヤモンド原石の年間輸出金額は約76億ドルだが、その内半分以上の36億ドル分が“原産地不明”で取引されていたのだ。

 

日本人のほとんどがこの実態を知らない。アフリカでダイヤモンドが発掘されていることすら知らない人が多いだろう。私たち日本人にとってアフリカと言えば「貧困、紛争、不衛生」というネガティブなイメージが主流であって、実態を知る機会もなければ、アフリカについてもっと知りたいという気すらもゼロに等しい。

なぜだろうか?

 

一つには距離の問題がある。日本からアフリカは直線距離で大体1万キロ以上離れている。たとえばマダガスカルに移動するには、飛行機でまる一日以上かかってしまう。

もう一つは文化的な馴染みのなさだ。「自分の友人にヨーロッパに住んでいる」という人は多いだろうが、「自分の友人がアフリカに住んでいる」という人はほとんどいない。「卒業旅行でアフリカに行った」という人も稀だろう。

私たちはアフリカについてあまりに知らなすぎる。たしかにアフリカのことについて知らないからと言って、今すぐ生活に困るわけではない。しかし、実は日本という国が将来アフリカ諸国と同じレベルの経済生活にまで落ち込むかもしれないと言われたら、どうだろうか?

「そんな馬鹿な」と思う人がほとんどだろう。

だが、一度アフリカの現状について考えれば、あながちあり得ない話でもないことが分かってくる。そんなあり得ない、馬鹿げた日本の未来が垣間見える一冊の本を今回はご紹介しようと思う。それがこの吉田敦 著「アフリカ経済の真実」だ。 

 

 

"希望の大陸アフリカ”の影

先程「日本人はアフリカについてあまりに知らなさすぎる」と書いたが、実はビジネスの世界ではここ数年アフリカは世界的に脚光を浴びている。たとえば英国のエコノミスト誌では「希望に満ちた大陸」として特集が組まれている。

また、海外からの直接投資額も増加しており、2000年には81億ドルだった金額が2016年には600億ドル近くにまで拡大している。

 

したがって、そのような希望の大陸として注目を集めるアフリカ大陸というイメージは、は一面では正しい。しかし、著者である吉田はこの明るいアフリカ像の影にある”アフリカ経済の実態”をこの本で暴いている。いわく

「アフリカが誰にとっての「希望に満ちた大陸」であるのか、ということを問わなければならない」。

 

本書で吉田が暴くアフリカの実態を読み解く上で重要になるキーワードが

「資源」

「開発」

「独立国家」

この3つだ。

それぞれのキーワードに基づいて、この本で取り上げられているアフリカの実態を少し紹介したい。

 

1) 資源国家アフリカ

21世紀に入りアフリカが注目されている理由のひとつが「天然資源」だ。たとえば石油の埋蔵量は、2019年時点でトップ10からは漏れたもののナイジェリアが11位、リビアが12位と肉薄。さらに天然ガスもアフリカ大陸近海で優良な天然ガスが見つかるなど、開発投資が活発になっている。

また、冒頭で取り上げたダイヤモンド以外にも、プラチナ、クロム、銅、コバルトなどの私たちの生活に欠かせない鉱物資源の大多数がアフリカで発掘されている。*1

 

オランダ病とは

ここで誰でも疑問に思うのは「それほど資源がありながら、なぜアフリカでは貧困が続くのか」という問いだ。その問いに答えるのは難しい。しかし、著者が取り上げている要因の一つが「オランダ病」と呼ばれる資源依存体制である。

オランダ病とは、天然ガスや石油などの天然資源に依存した経済成長を行った結果、農業部門や製造業部門が衰退してしまう現象のこと。この名前は、かつてオランダが天然ガス田が発見され開発が行われた際に、そのような現象が起こったことに由来している。

その原因は資源ブームに乗せられて資源開発に労働力や資本が集中してしまうこと。それにより“儲からない”他の産業が衰退してしまうのだ。

 

資源開発に依存した成長が危険なのは、資源価格という国際情勢で変化する不安定な要素に左右されるために、経済発展も不安定化してしまうことだ。本書によると、天然資源への依存度が高いほど、一人当たり経済成長率が低くなる傾向が研究で明らかになっているという(本書p162)。

 

石油や天然ガス、鉱物資源といった天然資源に過度に依存したアフリカは、まさにこのオランダ病の典型といえるだろう。

 

2) 「開発」という言葉に潜む独善

通常我々は「開発」という言葉を良い意味で使う。発展していない国や地域を発展させること。あるいはいまだ見ぬ技術などを新しく生み出すなどという意味で、だ。しかし、この開発という言葉の意味を掘り下げると、必ずしもそうとは言い切れないことが明らかになってくる。

著者はアメリカの政治学ダグラス・ラミスの言葉を引きながら、この「開発」という言葉の持つ意味の再考を読者に促す。

 

ダグラス・ラミスによれば「開発」とは

”国Aは国策として国Bを発展させる (=開発する)、それが国Bの発展である。”

ということだ。

もう少しかみ砕いてみよう。

たとえば国Aを日本、国Bを南アフリカだとする。

南アフリカは資源も豊富なのにまだ十分に開発されていない。だから発展途上から抜け出せない。だから日本が十分な投資をし、開発を行い、資源を有効活用すべく”開発する”。日本はそこから資源を得ることができるし、南アフリカは日本からの投資により発展することができる。いわゆる”ウインウイン”の関係だ。

しかし、ことはそれほど単純ではない。

なぜなら、基本的に開発する側(日本)と開発される側 (南アフリカ)は対等の立場ではないからだ。開発される側は自ら開発する能力や資金力がないから外国による開発を受け入れる。したがって、往々にして開発に関する取り決めは”開発する側”にとって有利な条件になる。

たとえば、税制面での優遇、輸入関税免除、労働環境の規制緩和などが開発する側に有利になるよう参入障壁が下げられる (これを現在では”自由で開かれた貿易”と呼んでいるようだが・・・)。

しかも、参入しやすいように国内規制を変更してまで外国資本の誘致を進めた以上、外国資本の機嫌を損ねるわけにはいかなくなる。外国資本の顔色をうかがうようにして、国内の政治や経済のかじ取りをしなくてはならなくなる。外国資本のために自国民に不平等を強いる政策が打たれていくケースも増えるだろう。まるで現在の日本のようだ。

 

我々は「発展途上国の開発に貢献する」という言葉を聞くと、自然と”善いことを行っている”あるいは”道徳的な行為を行っている”という認識をしてしまいがちだ。しかし、ともすれば「開発」は、その国家の不安定性や脆弱性を高める要因になりえるという側面も認識しておくべきではないだろうか。

3) 国家という秩序

 本書を読み解く上で重要になるもう一つのキーワードは「国家」である。

天然資源が豊富なアフリカ諸国で行われる開発が、必ずしもその国を発展させることにつながらない。本書を読み解いていくと、その原因の根幹に「国家の不在」という問題が潜んでいることが分かる。より詳しく言えば「現在と未来の国民のために、国内を統治できる力を持った政府がいない」ということだ。

 

アフリカと言えば、紛争やテロなどが頻発する危険な地域だという印象が強い。実際、1990年代以降、コンゴルワンダスーダンなど様々な国で100万人単位の犠牲者が出る紛争が幾度となく繰り返されている。なぜそのような紛争が絶えないかと言えば、それはさまざまな勢力を統治する国家権力が不在であるためだ。

我々のイメージでは紛争が起こる背景には、宗教的対立や政治的な権力争いが主な原因だと考えられることが多い。しかし、昨今の研究によると紛争の背景には政治的動機よりも経済的動機が強く働いていることが指摘されている (P48)。アフリカの場合はその経済的動機が天然資源と密接に関係している。

 

通常は安全で安定した地域の方が経済的機会は得やすいと考えられる。しかし、資源国の場合は国家による管理体制が脆弱であった方が武力による略奪が行いやすい側面がある。石油など炭素資源の場合は、運営に巨大な近代的施設が必要となるため小さな武力勢力ではコントロールが難しい。そのため”ビジネスモデル”として成立させにくい。ところが、ダイヤモンドやレアメタルなどの鉱物資源の場合、大規模な施設がなくとも人手を駆り集めさえすれば、人海戦術で”商品”を得ることができる。

したがって、強力な国家権力で安定した運営が行われる体制よりも、不安定で混乱した社会の方が、難民を労働力として使用でき、流通面でも法の目をかいくぐった売買ルーとを確立しやすい。つまり、「国家権力が育たない方が有利」なのだ。

 

もちろん、アフリカ諸国と一言に言っても、その置かれた条件や歴史、そして経済力はバラバラである。「アフリカの国」と十把一絡げで批評するのには留保が必要かもしれない。しかし、このような国家権力の不在による不安定さが、アフリカという地域の発展を妨げているという点は認識しておく必要があるだろう。

 

アフリカの暗部を取り上げることの意義

ここまで見てきたように、アフリカはまれに見る資源集積地でありながらも国家体制の脆弱さのために、いまだ多くの人々が貧困生活を強いられている。

著者である吉田氏は、この本の中で”希望の大陸”の影の部分に光を当てているが、それは決して先進国が発展途上国から利益を搾り取る構造を責め立てることが目的ではない。ましてや、スキャンダラスな”煽り記事”でもない。

 

 

確かにこの本ではアフリカの暗部をえぐり出している。しかし、途方もない社会格差が広がっているとは言え、アフリカ大陸に世界の注目が集まることによって救われている人たちがいることも事実だろう。近年SDGsなどで貧困国に手を差し伸べる運動が活発になっているが、吉田氏の指摘はそれを揶揄するものではない。

世界の歴史が常にそうであるように、アフリカに寄せられている開発投資もまた光の部分と闇の部分があるだけだ。ニュースで表立って取り上げられるのは「有望な投資先としてのアフリカ」だが、そのような一面的な見方ではアフリカの全体を捉えることはできない。それどころか、そのような見方がアフリカの社会格差や政治的・経済的混乱を加速させる可能性があるのだということを、私たちが認識することこそが重要である。

そのためのカウンターパンチとして、この本は非常に貴重な視点を提示してくれるものだ。

 

日本は将来アフリカ諸国並の経済力になる

さて、、この書籍はアフリカ経済の現状とそれを生み出した歴史についての知見を広げてくれる。しかし、事はそれで終わりではない。

この書籍の内容を現在の日本に引き寄せて考えてみると、アフリカの現状は日本の将来像になりえるのではないか?という可能性が見えて来る。当然それは”希望に満ちた将来”ではない。絶望のシナリオだ。

 

「失われた20年」という言葉を知っている人も多いだろう。 日本経済がバブル崩壊以降、縮小の一途をたどっていることは広く知られていることである。

京都大学大学院教授の藤井聡氏が、日本経済がこのまま縮小していくと世界経済におけるシェアがどのようになるのかを試算した記事があるので、簡単に紹介したい。

https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20181126/

 

それによると、過去20年間で日本経済は80%程度にまで縮小。一方で世界は238%まで拡大。結果、過去20年の間に日本の経済力のシェアは約18%から6%以下にまで、実に「三分の一」にまで縮小している。

もしこの状態が継続すると、50年後には日本の世界シェアは0.4%にまで激減する計算になる。ちなみに、その頃の日本のGDPは、名目値で319兆円。今のおおよそ6割くらいの水準。私たちの給料が、50年後には今からおおよそ4割くらい安くなるということを意味する。
しかし、その一方、他の国々はその頃になるともっと成長しているため、相対的にシェアは激減。現在成長が著しい東南アジアの国々、フィリピン、マレーシア、そしてそれに比肩するナイジェリアや南アフリカ程度になる。

 

もちろんそのような将来が確定している訳ではない。

しかし、1997年以来実質賃金が下がり続けている日本の状況を考えれば、50年後に給料が4割下がるという予測は十分にあり得るものだ。あくまでシナリオの一つにしか過ぎないが、そのような可能性があるというだけで空恐ろしい気がしないだろうか。

 

絶望の未来を回避するために何が必要か

失われた20年が”失われた30年”になりそうな現在の日本。

社会格差が拡大し、将来に希望を持てる人の方が少数派といっても過言ではない日本という国家の現状。

このまま日本は衰退し、アフリカ諸国並の経済小国に陥るシナリオは避けられないのだろうか。

私は違うと思う。

そのような絶望の未来を避けるシナリオはあるはずだ。そのためにできることも、奇しくもこの書籍で紹介されたアフリカ諸国が示してくれている。

 

そもそもアフリカ諸国が”発展途上”から抜け出せないのかを改めて考えてみよう。

それは石油や天然ガス、プラチナやコバルトなどの”資源に依存した”経済モデル (いわゆるモノカルチャー経済)を採用しているからだ。本来であれば、その資源によって得た経済的利益を用いて、国内の生産能力、供給能力を高め、資源依存から脱する経済モデルに作り変えていくべきである。

産出される資源に頼っているからその資源価格の情勢に国内経済が左右される。資源を加工して付加価値を生み出すことができないから、いつまでも高付加価値の商品を先進国から売りつけられることになるのである。簡単なことだ。

 

では、なぜその簡単なことができないのだろうか。

それは「国家体制が脆弱だから」だ。それに尽きる。

国家の役割はいくつもあるが重要な役割は、国民が持つ富や生産能力を集めて、それを投じる先をコントロールすることにある。

近代経済学の父と言われたアダム・スミスは、国の生産能力を高めるためには「分業」が重要であると説いた。さまざまな産業で分業体制をとることによって、国民の生産能力が高まり経済は豊かになっていくと。しかし、19世紀の経済学者フリードリヒ・リストが強調したように、分業を行うのと同じくそれを「統合」することもまた非常に重要だ。

国民がそれぞれの能力を生かした分業を行い、それを統合し、一つの方向性を持った総合力へと昇華させる。その時にはじめて国家全体としての生産能力が向上し、国民が豊かになれる。それを実現できるのは、現在のシステムでは国民国家しかありえない。

 

日本人は「国家」という言葉に強い忌避感を持っている人が多いが、何も国家とは特定の権力者が国民を抑え込む独裁体制のことを言うのではない。むしろ、 国家とは強い共同体意識を持った国民が基盤にあってこそ、安定した運営を行うことができるものだ。したがって、私たちに安定した生活を保障する国家というものは、私たちの中に強固な共同体意識があって初めて成立するものである。繰り返しになるが、残念ながらアフリカ諸国ではこの共同体意識が希薄なのである。

 

しかし、昨今はその共同体意識を奪う空気が日本を覆っている。

たとえば、このコロナ禍で多くの企業が休業あるいは廃業を余儀なくされている。

コロナで企業の休廃業が増加 事業続ける意欲失う経営者も | 新型コロナ 経済影響 | NHKニュース

そのような状況において

「こういうときに備えておかなかった企業や経営者の自己責任」
「むしろ、これで企業の新陳代謝が進む。ゾンビ企業は淘汰されるだからちょうどいい」

などという言説が飛び交うのが現在の日本だ。

経営者には企業運営の責任があることは事実である。しかし、その企業もまた誰かの”顧客”であり、顧客が消えるということは回りまわって自分の首を絞めることになる。国民の生活や経済というものはお互いにつながって出来ているものだが、そのような意識、つまり共同体意識がますます失ってしまっているのが日本の現状である。

共同体意識が失われ、だれかの成功を妬み、成功者の足を引っ張るような社会。あるいは、個人の努力では何ともならない要因によって恵まれない状況に陥った人たちを、自己責任として切り捨てる社会。このような社会では国家システムはいずれ崩壊する。

そして、国家システムが崩壊した社会に個人が放り出された時、私たちは絶望の未来に立った一人で立ち向かわなくてはならなくなるだろう。

 

私はそのような社会を将来の世代に放り込むようなことは決してあってはならないとお思う。その決意を新たにするためにも、”日本の未来としてあり得るアフリカの実情”を知っておくことは決して無駄にならないはずだ。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

 

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