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”自由意志”という呪縛が本当の自由を奪う。國分功一郎「はじめてのスピノザ」

皆さん、新年あけましておめでとうございます。

遅筆のためなかなかブログの更新頻度が上がりませんが、今年こそは週一更新を目指して、皆さんのためになる情報をお届けしていきたいと思っております。

今年もよろしくお願い申し上げます。

 

さて。

という訳で、早速2021年の一本目にいきたいと思います。

お題は、國分功一郎著「はじめてのスピノザ」です。

 

著者紹介

みなさんは本を買う時、どんな風に買う本を選びますか?

気になった本をとりあえず買ってしまう人もいれば、ECサイトでのレビューをチェックしてから読む人など様々でしょう。

私も基本的には中身を吟味してから購入するタイプなのですが、たまに「著者買い」をする人がいます。”この人が書いた本なら即買ってしまう”という感じです。

その一人が今回レビューする本の著者、國分功一郎氏です。

 

國分氏は東京大学教養学部の准教授。専門は哲学、現代思想。哲学者あるいは哲学研究者ですね。私もいくつか國分氏の著作は読んでいますが、難解な哲学的概念を分かりやすく、たとえ話を交えながらかみ砕いて説明するのがとても上手い方です。

そんな著者が今回取り上げたのが、17世紀のオランダの哲学者として有名なスピノザ。そして彼の代表作である「エチカ」。日本語では「倫理学」と訳されています。

いかにも”哲学書”っぽいタイトルの本で、それだけで敬遠する人もいるかもしれません。

しかも17世紀に書かれた本だとなると、哲学好きな人にウケそうな「難解な哲学解説書」を想像してしまうかもしれませんね。

ところが、この國分氏の手にかかると、これが不思議なことに「現代のわれわれが読むべき名著」に早変わりしてしまうので驚きです。

説明がうまい学者=優れた学者とは限りませんが、複雑で難解な概念を専門知識がない人にもわかりやすいようにかみ砕いて解説できるというのは、やはり力量に秀でた学者であると思います。

 

なぜ今スピノザを読むべきか

さて、國分氏が今回取り上げるスピノザの「エチカ」は、17世紀に書かれた著作。そんな大昔に書かれた哲学書をなぜ今読むべきなのでしょうか?

この本の中で國分氏はスピノザの「自由」という概念を取り上げます。

普段私たちがよく使う「自由」という単語ですね。

しかし、この本を読んでスピノザの考え方を知ると、実は私たちが知っている「自由」というものが決して当たり前ではないこと。私たちの知らない「自由」の在り方や考え方があり得るのだということが分かってきます。

これが実に爽快でとても面白い。

 

そして、このスピノザ的な自由を知ると、この自由こそが現代を生きる私たちにとって非常に重要な意味があることが分かります。

 

自由とは何か?

私たちが普段「自由」という言葉を使う時は、「自由意志」という言葉が使われるように、「何かの制約を受けずに、自分の意思で言葉を発したり、行動したりできること」という意味で使います。

ところがスピノザによると、このような「自由意志」は存在しません。幻想、あるいは思い込みに過ぎないのです。

自由な意思など存在しない???

どういうことでしょうか?

 

分かりやすい例が人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」に出てくるワンシーンです。

このドラマは新垣結衣が演じる「森山みくり」が働き口がなく困っていたところ、ひょんなことから津崎(星野源)という独身男性の家で家政婦として働くことになります。その上、働き口が欲しいみくりと、仕事で家事をする暇がない津崎は”利害”が一致して偽装結婚を行い、戸籍上は夫婦でも何でもない「契約結婚生活」を始めることに。

しかし、そんな二人が徐々に惹かれ合うようになり、その関係が少しずつ変わっていくというストーリーです。

そんな「逃げ恥」にこんなシーンがありました。

 

「あなたの自由意志です」by 星野源

ある時お金に困ったみくり(新垣結衣)が、津崎(星野源)と同じ職場で働くイケメン独身男性から「うちでも家政婦をやってくれないか」と誘われます。みくりは”雇い主”である津崎にどうすべきか相談を持ち掛けるのですが、すでにみくりに恋心を抱きながらそれをうまく表現できない津崎は、嫉妬心満々で「彼のところでも働けば良いじゃないですか。どうするかはみくりさんの自由意志です。」と言い放ちます。

止めてくれると思っていた津崎に心ない一言を告げられたみくりは、怒って「じゃあ、働きます!」と豪語する羽目に・・・。

 

という感じ。

(実際のセリフとかはちょっとアレンジしてます。ちゃんと知りたい方はDVDで(笑))。

 

問題はこの津崎が言った「どうするかは自由意志です」という言葉です。

確かにただの「雇い主」でしかない津崎に「ほかの場所で働くな」とは言えません。しかし、契約結婚とは言え世間的には一応「夫婦」。しかも、お互い少しずつ恋心を抱いているのですから、本当であれば「行くな」と言って引き留めるのが”格好良い男”でしょう。

ただ、女性経験がなく、自尊感情の低い津崎にはそんなことは言えず「あなたの自由意志です」という言葉で逃げたのです。

 

その言葉を受けてみくりは「自由意志で」男性の下で働くことにする訳ですが、これは本当に「自由意志」なのでしょうか?

確かにみくりは「彼の下では働きたくない。あなたの所にいます。」という選択もできたでしょう。しかし、上記のような話の流れでそんなことが言えるでしょうか?

まぁ、言えなくもないでしょうが、「空気」としては非常にいいづらいと思います。

スピノザが「自由意志など存在しない」というのも、まさにこれと同じなのです。

 

私たちの行動は社会との関係で決まる

自分の自由な意思で決めたと言っても、実際にはその人の過去や立場、あるいは周りの人との関係性によって、決断しなければならないことがほとんどです。

それは何も人生の大きな決断だけではありません。学校や職場から家に帰る時に何かおやつを買って帰ろうと思っても、家で誰かがご飯を作ってくれていればそのご飯のおかずに配慮することもあるでしょう。あるいは、健康診断で医者に止められた物は食べないようにしようとか気を遣うこともあるでしょう。

私たちの日々の生活の中において、本当に何の制約もなしに自由意志で決められることなどほとんどありません。すべてのことが自分の過去の経験や未来への予測に基づいた何かしらの条件のもとに、比較的納得のできる選択肢を選んでいるに過ぎないのです。

 

國分氏によると、スピノザは世間一般で言われるような「自由な意思」という存在を認めていません。とは言え、「意思の存在」そのものを否定している訳ではありません。意思は確かに存在している。その意味で私たちはロボットではありません。ただ、その意思とは何ものにも制約を受けないような自由なものでもない。

私たちの意思は常に何かの原因に影響を受けて、左右されている。つまり、私たちの意思の自由とは私たちの周りの環境、社会との関係性によって決まっていくものであり、「何ものにも縛られない自由」「自分の意思で行動を決めることができる自由意志」などという物は、端から存在しないというのです。

重要なのは、そのような制約の中でどの程度自分の能動的な意思を表現できるのか。その自由の度合いを高めていくことなのです。

 

「自己責任論」からの脱却

ではこのようなスピノザの自由に対する考え方は、現代の私たちにどういう意味を持つのでしょうか? 

単に哲学的な問いかけを禅問答のように繰り広げるだけなのでしょうか?

そうではありません。

このスピノザの自由に対する考え方は、私たちに非常に大きな意味を持ちます。

 

現代の私たちにとって「自由」とは、人として生まれた時から当然与えられているものであり、それが阻害されているのであればそのような社会環境が間違っている考えられています。しかし、これはある問題を引き起こします。それが「自己責任論」です。

私たちは社会的に高度な自由が認められているのだから、その中で”失敗”や”脱落”をしたのならば、それは

「あなたが自由意志で選んだ結果だ。」あるいは「そのような結果しか出せなかったあなたの努力不足だ。」

という自己責任論を導き出します。

先ほどの逃げ恥で言う「あなたの自由意志です」というやつですね。

 

しかし、自分の決定は必ずしも自由意志で行われるものではない。社会との関係性の中で”事実上選択肢がなかった”ということになれば、誰か個人の失敗も社会の関係性の中で導き出された必然だということになります。

つまり、そもそも自由意志が存在しないのだから、自己責任論で片づけることも誤りだということになるのです。

 

「自由」が責任回避を肯定する?

もちろん私も何でもかんでも「他人のせい」「社会のせい」「自分は悪くない」という無責任論者は嫌いです。しかし、世の中には自分の意思だけでは何ともならないことが存在するのも事実です。

どんなに必死に努力しても、ちょっとしたタイミングや人との相性などの「運」や「社会環境」よって、その努力が恵まれないこともある。夢が実現するには運が絶対に必要。残念ですがそれが現実です。

人の成功や失敗は、その人個人にも、社会にもそれぞれ責任がある。

それを「自己責任」「自由意志の結果」で片づけることは楽ではあります。自分が生き残るのに精いっぱいなのに、他人の人生になんか構っていられるか!というのも切実な思いでしょう。

しかし、やはりそれは社会的責任を背負うという義務から逃れるための言い訳に過ぎない。さらに言えば、他人の人生に対して何ら責任を取らない欺瞞から目を背けるための都合の良いレトリックなのではないでしょうか。そのための根拠として「自由」という言葉が使われているのだとしたら、世間一般で用いられている「自由」という言葉は、なんと”自分勝手な自由”なのでしょうか。

 

まとめ

私たちは日頃、無自覚に、無条件に「自由とは良いものだ」と信じています。

しかし、今回ご紹介したようなスピノザの議論をもとに考えると、実は私「自由」とは必ずしも素晴らしいものとは限らないのではないか・・・という疑問が沸き起こってきます。

もちろん、それでも改めて「やっぱり自由は良いものだ」と再確認することもあるでしょう。それはそれで一つの考え方です。

ただ、自分が無自覚に当たり前として受け入れているものが、実は当たり前でも何でもないかもしれないという前提で改めて考えなおすことは決して無駄ではないと思います。

 

私は哲学書の類は時々読む程度ですが、このような「当たり前と思っていることの意義をもう一度問い直す」という時に、哲学というのはとても参考になると思っています。ましてや、17世紀から今に至るまで長年の間読み継がれてきた本であるなら、そこには私たち個人では思いつきもしないような深い洞察が込められているに違いありません。

スピノザの「エチカ」は哲学書の中でも非常に難しい書物だと思います。

ただ、やっぱり難しいからという理由だけで手をつけないのはもったいない。

その意味でも國分功一郎氏のような非常に説明力に長けた人物が、新書という読みやすい形でこのような解説書を出してくださったことは、とても意義深いものだと思います。

ぜひ一人でも多くの人にこの本に触れていただきたいと思います。

 

という訳で今回ご紹介したのは、國分功一郎著「はじめてのスピノザ」でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m

 

 

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