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天才ドラマー"村上ポンタ秀一"死す。天才が生きられる社会の条件とは?

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今週、音楽業界を揺るがす報せが飛び込んで来た。

日本の音楽シーンの立役者の一人と言っても過言ではないドラマー、村上ポンタ秀一氏が逝去された。

私は音楽業界に身を置く立場だが、基本的にこのブログでは音楽業界のことは書かないことにしている。理由は身バレするのが恐いからだ(笑)。

下手に口が滑って身バレすると仕事ができなくなる可能性がある。

だが、今回は特別だ。

なぜか?

村上ポンタ秀一の訃報に接し、その非凡な存在について考えたことで、「このような”天才”は日本では二度と生まれないのではないか」という危惧を感じたから。

今回は村上氏が人となりを紹介しつつ、「天才」が生きていく社会的条件について考えてみたい。

 

 

ドラマー村上ポンタ秀一 

村上ポンタ秀一。通称ポンタ。

尊敬の念を込めてあえて言おう。

ふざけた名前である(笑)。

恐らく音楽に特に詳しくない一般の方は、村上氏のことなどほとんど知らないだろう。

しかし、日本に住んでいて彼のドラムを聴いたことがない人は恐らく一人もいないはずだ。

 

彼が演奏した曲が、一日のうちに必ず一曲は日本のどこかでかかっていると言っても良いほどとてつもない曲に参加しているからだ。

有名どころだけ挙げても、キャンディーズ山下達郎坂本龍一福山雅治ゴールデンボンバー、あるいは宇宙戦艦ヤマト(宇宙戦艦ヤマトのテーマ)……無理だ。とても書ききれない・・・。

 

彼は昭和〜平成を代表する数多くのアーティストのバックで演奏を務め、その参加曲は1万4千曲を超える。これも数えることができる範囲であるため、恐らく実際には2万を優に超えるだろう。当然音楽業界でもその影響力は絶大だ。

音楽業界で彼のことを知らない人は一人もいないし、特にドラム業界においては神格化された存在だと言っていい。

ドラム界の神。

生きる伝説。

それが村上ポンタ秀一である。

人柄はめちゃくちゃ。音楽は神。

私は一度村上氏に会ったことがある。

20年ほど前の学生時代だ。

とある地方のドラムクリニック (今で言うセミナーみたいなもの) に講師として参加されていたのだが、開口一番

「そもそもこんなクリニックに来てる奴は駄目なんだよ」

という身も蓋もない言葉を言い放ったのが衝撃だった。

今だったら大炎上、クレームの嵐。業界から叩き出されるだろう。

 

正直なところ、人格としては相当無茶苦茶な人物だったことは間違いない。

現在だったら間違いなく業界から追放されていたであろう数々の破天荒な逸話を残している。興味がある人はググって欲しい。いくらでも出てくるだろう。

それらがどこまで本当かは分からないが、見た瞬間に「この人ならやりそうだ・・・」と思わせる凄みがあった。

「確実にカタギの人間じゃない」。

直感的にそう思わせる鋭さがあった。

 

ただ、もっと凄かったのはそのプレイだ。

上手い!のではない。”凄い”のだ。

いや、もっと言えば”凄まじい”プレイだった。

昨今は日本人でも本当に上手いドラマーは数多くいる。しかし、彼のような凄まじいプレイをする人間を私は他に知らない。

テクニックではなく魂でプレイしているような。そして、その魂で聴く人の魂をぶん殴るような圧倒的な存在感があった。

その上、音がとんでもなく美しい。

なぜあんなメチャクチャな人物からこんなに綺麗な、透き通った音が生まれるのか全く理解できないほど、一度聴いたら忘れることができない美しい音を紡ぎ出す人だった。

 

当時、若かった私は

「素晴らしい音楽を作れる人は人格的にも素晴らしい人に違いない」

と無邪気に信じていた。

だから、こんなメチャクチャな人間からなぜこんな素晴らしい音楽が生まれてくるのか全く理解できなかった。

 

今なら少しだけその理由が分かる。

人格が素晴らしいから素晴らしい音楽を作れるのではない。

音楽以外のすべてを切り捨て、すべてを捧げられるほど音楽を愛しているからこそ素晴らしい音楽が生み出せるのである。

そこに人格などというちっぽけな器は全く関係ないのだ。

それは過去の優れた芸術家が体現している。

これは音楽だけではなく、あらゆる芸術に当てはまる。

作品と人間性は正比例しない。むしろほとんどの場合が反比例するのではないか。

 

そして、これこそが私が「これからの日本に、このような天才は二度と現れないのではないか」と危惧している理由だ。

いわゆる”多様性”への疑問 

昨今は「個性が大事だ」「多様性が重要」「ダイバーシティが・・・」などというのが当たり前になっている。少なくとも”それが正しい”ことだと言われている。

しかし、正直に言えば私はかなり胡散臭いものを感じている。

なぜならそういうことを言う人間に限って「多様性なんか認めない。多様性なんかクソ喰らえ!」という多様性は認めないからである。

 

多様な価値観や生き方を受け入れることは大事だ。そんなことは当たり前である。

しかし、それを「多様性を受け入れることは、人類普遍の真理なのだから従え。従わないやつは人間のクズだ。」と押し付けるのは間違っていると思う。

本当に多様性を認めるならば、「多様性を認めない」という考え方にさえも正面から向き合い、議論を重ねなければいけないはずだ。

 

翻って現在の日本はどうだろうか。

表では誰もが多様性が大事だと言う。個性が大事だ、自由が大事だ、と。

しかし、その一方で現下のコロナ禍では”マスクをしない自由”は認められない。

それどころか

”マスクが本当に効果があるのか?”

”緊急事態宣言は本当に効果があるのか?”

と言った疑問を呈することすら憚られる空気が確実に存在するではないか。

 

もし、今の日本に村上ポンタ秀一が生まれ落ちたらどうなるだろう。

マスクをして、社会的距離を保って、ルールを守る。それができなければ業界から爪弾きにされる。

そんな息の詰まる環境から"あの美しいポンタのサウンド"が果たして生まれるだろうか?

天才は迷惑だ

昨今は天才のことを有り難がる風潮が強い。

赤ん坊は生まれた時から誰もが天才、などという輩がいる始末だ。

しかし、実際には天才ほどはた迷惑な存在はいない。

普通私たちが天才というとき、それは芸術や技術の分野で優れた才能を発揮する人のことを指す。

しかし、真の天才とは私たちが生きる社会のパラダイムを根底から揺るがすような、地殻変動を起こすほどの独創性を持つ才能のことだ。

 

たとえば日本が産んだ天才芸術家である岡本太郎

彼もその功績が世界で認められたからこそ後年社会で受け入れられた。

しかし、あの人が自分の身内だったらこれ以上迷惑なことはないだろう。

だがその岡本太郎にしか表現できない何かがあり、それが世界を変えた。そして彼の作品や言葉は今でも多くの影響を与え続けている。

これが天才がなのだ。「天が与えた才能=天才」なのである。

凡人にとって天才ほど迷惑な存在はいない。

だが、そのような天才がいるからこそ、世界は実り豊かなものになり美しく輝くのだ。

 J.S.ミルの「天才を生む社会条件」

19世紀イギリスで活躍したジョン・スチュアート・ミルという哲学者、経済学者がいる。

「最大多数の最大幸福」という言葉で知られる功利主義者として記憶にある人もいるだろう。

かれがその著書「自由論」の中で”天才”について語っている箇所がある。

「天才はごく少数しかおらず、そして、常に少数のままだろう。しかし、天才が現れるためには、天才が育つ土壌を保持しておかなければならない。天才は、自由という雰囲気の中でしか自由に呼吸できないのだ。」

天才は天才として生まれる。

しかし、天才が天才として生きていくらためには、それを受け入れる懐の深い社会が必要だ。

どれだけ巨大な才能が生まれたとしても、社会がそれを受け入れることができなければまともに生きていくことはできない。

現代の日本は果たしてその懐の深さを持っているだろうか・・・。

 

私は村上ポンタ秀一氏自体は、はっきり言って嫌いだった。インタビューなどを見ても気に食わない発言ばかりだ。

だがその音楽は本当に素晴らしかった。

彼がいたからこそ生まれた音楽や感動が数多くあるのは間違いない。

彼の偉大な功績を偲ぶとともに安らかな眠りを祈りたい。

 

今回も最後まで長文をお読み頂きありがとうございます😊

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