「全体主義」
この言葉にどのようなイメージを持つだろうか?
「全体主義最高!」「全体主義って恰好良いよね!」・・・こんなイメージを持つ人はほぼいないだろう。
逆にほとんどの人が「なんか恐い・・・」「野蛮」そんなイメージを持っているのではないだろうか。
実際歴史を振り返ると全体主義にはそのような悲劇が伴っている。たとえばユダヤ人の民族浄化を行おうとしたナチス・ドイツ。あるいは、旧ソ連のスターリンによる粛清や、中国の文化大革命を思い起こす人もいるかもしれない。
誰もが何かしら悪いイメージを持っている全体主義。その一方で、誰もがこうも思っているはずだ。
「昔のことでしょ? 私たちには関係ないでしょ。」
と。
しかし、本当にそうだろうか?
実は今ほど全体主義に染まる危機が高まっている時代はないと言って良い。
後述するように、全体主義とは何か特別な思想を持つものではない。全体主義とは言わば
"とにかく全体の空気に従えば間違いない"
と、全体の流れに盲目的に従う現象を指す。
したがって、現在ような先を見通しづらい時代や、複雑性の時代にこそ全体主義は力を持ちやすくなる。なぜなら、自分で考え抜き、答えを出していくことが困難なため「皆んなの動きに合わせておけば、とりあえず大丈夫だろう」という安易な選択を行いやすいからだ。
これからますます混迷を極める社会の中で、”全体主義の誘惑”に駆られないためにも、今こそ全体主義への理解が必要になる。
全体主義への理解を深めると言えば、20世紀の哲学者ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」は避けることのできない名著だ。ただ、この本は難解でボリューム感もかなり大きい。
そこで今回はアーレントの著書を元に、全体主義の特徴や原因、そして全体主義が今の私たちの生活に与えている影響をわかりやすく解説した、こちらの本を紹介したい。
藤井聡 著「凡庸という悪魔」 だ。
全体主義の恐ろしさ「エルサレムのアイヒマン」
「全体主義=ナチス・ドイツ」というようなイメージが定着しているせいで、多くの人はとんでもない悪魔のような人間が人々を騙して、あのような非道なことをやってのけたと思っているのではないだろうか。
しかし、実はそうではない。
むしろ著者や(この本の底本となっている)ハンナ・アーレントは「凡庸な人間こそが悪魔になりうるのだ」と述べている。
ハンナ・アーレントは「エルサレムのアイヒマン」という著書で一つ例を紹介している。
かつてナチスドイツがユダヤ人の虐殺を実行した時に、強制収容所でのユダヤ人の管理を取り仕切っていたアドルフ・アイヒマンという人物がいた。
ナチスが滅びた時に辛くも逃げ延びたが、その後逮捕され国際軍事法廷で裁かれた。
それだけ聞くと恐らく「よほど凶悪な人間だったのだろう」と思うだろう。しかし、傍聴者の記録によれば、彼はどこにでもいそうな、冴えない、凡庸な人物だった。ただ、組織に入ることを好むタイプであり、出世欲はかなり強かった。
その彼が裁判の際に、つぎのようなことを述べている。
「自分は義務を行った。命令に従っただけでなく、法にも従った。」
「私はユダヤ人であれ、非ユダヤ人であれ、一人も殺していない。」
「ただユダヤ人の絶滅に協力し幇助しただけだ。」
と。
そして、法律には例外があってはならないという”順法精神”に基づいて、彼はユダヤ人虐殺を遂行したのであり、何も”間違ったこと”はしていないと主張したのだ。
つまりアイヒマンは「法に従う」という法治国家として当然のことをしただけであって、自分が悪を行ったとはこれっぽっちも思っていなかったのだ。
悪を悪だと思って行動しているのではない。自分は組織に命じられ、世間でもそれが正しいと信じられている。その”全体としての空気”に従って行動しただけなのだ。
ただ真面目で、組織にしたがって行動した結果、悪魔のような所業を平気で行う。なぜなら「それがみんなが (全体が) 望んだことだから」だ。
全体主義の恐ろしさとはここにある。
何か恐ろしい思想を持った悪魔のような人物が社会を悪い方向に導くのではない。全体の空気を読んで行動することに慣れてしまった人間、自分で考えることを放棄した人間が多数者になった時、その社会の構成員がすべて悪魔に変貌するのである。
凡庸な人こそ悪魔になる
では、なぜアイヒマンのような人間が生まれるのか。その原因について著者は次のように述べる。
「”思考停止”が”凡庸”な人々を生み出し、巨大な悪魔”全体主義”を生む。」
と。
「凡庸」と言うと「平凡」と混同する人もいるだろう。たしかに字面はよく似ているが意味合いは違う。
たとえば「平凡な暮らし」と言えば、穏やかなで平穏な暮らしが思い浮かべられる。しかし、「凡庸な暮らし」と言えば陳腐で何も良いことのない暮らしといった意味合いになる。
著者がタイトルに込めた「凡庸」とは、自ら考えることを止めた”思考停止状態”の陳腐な人間性のことだ。
したがって、先程の「”思考停止”が”凡庸”な人々を生み出し、巨大な悪魔”全体主義”を生む。」という言葉の意味をより詳しく言うと、
「自分で考えることを放棄した凡庸な人々が、”これが正しい”という世論にしたがって行動した結果、巨大な悪行を平気で行うようになる。」
ということだ。
だが、これだけではなぜ凡庸な人間が全体主義を生むのか?というメカニズムはわかりにくいと思う。
この場で「全体主義の全容」を語ることは紙幅の都合でできないので、興味がある人はぜひ本書を手にとって欲しい。
ただ、それを理解する上でひとつ参考になる考え方が、アーレントのいう「全体主義とは運動である」ということだ。
全体主義とは台風である
「全体主義とは運動である。」
一見わかりづらい表現だが、「台風」のようなものを考えるとわかりやすい。
台風とはそれ自体が何か目的を持って動いているわけではない。周りの気圧や地形の状況という物理的な条件に合わせて動いているだけだ。そしてその中心 (台風の目) には何も存在しない。ただ、極端に気圧が落ちた空間があり、その周りに雲が集まっているだけである。
実は全体主義もこれと同じ構造なのだ。
全体主義に関しても、ナチスドイツにおける「ヒトラー内閣」のような中心部を確認することができる。しかし、そこには何か特別な思想があるわけではない。ただ、権力欲という強力な欲望が渦巻いている。
この欲望は中枢の外部に存在する”大衆”が持つ、経済的不安、将来への不安、格差への怒りといった膨大なエネルギーを吸収し、より大きく、より強大に成長する。
そして、大衆の持つエネルギーを吸収するためには、中心部は活発な運動を展開しなければならない。何も活動していない組織には誰も興味を示さないからだ。
だが、一旦エネルギーの吸収を始めれば、その運動を止めることは難しくなる。台風が雲を取り込んだ分だけ大きくなるように、大衆エネルギーを吸収すれば、それを維持するためにより大きな組織が必要となる。
そして大きな組織はさらに大きなエネルギーを必要とするのだ。
権力を欲した中枢が悪いのか。
強力な中枢を欲した大衆が悪いのか。
どちらが先かは分からない。
しかし、ただひとつ言えるのは、台風は強くなればなるほど莫大なエネルギーを必要とし、また吸収される方も台風の強さを求めてエネルギーを提供するのだから、台風の活動が止まってしまったら組織も大衆もどちらもが崩壊してしまうということ。
つまり、全体主義は一度動きだしてしまえば止めることは不可能なのだ。仮に何かの間違いが見つかったとしても、それで動きを止めることはできない。運動をやめることは自己の崩壊に直結する。
これこそが全体主義の恐ろしさである。
一旦動き出したら最後。誰にも止めることはできないのだ。
全体主義の台頭を防ぐために
では、このような恐ろしい全体主義運動を防ぐためにはどうすれば良いのか。
その答えは「全体主義とは運動である」というアーレントの分析にヒントがある。
運動は一旦発生すれば止めることが難しい。だから一番大事なのは「運動を発生させない」ことである。
どうすれば運動の発生自体を止められるか?
アーレントが重要視したのが「複数性」である。
これはアーレントの言葉だが、「自分とは異なる、さまざまな立場や考え方を持つ他者との関係性を大切にすることで、初めて人は人間らしさを持つ。それは個々人を結びつける絆でもあり、それぞれの適切な距離を保つための知恵でもある」という意味だ。
このような複数性を排除し、一つの単純化された価値観以外の思考をやめること、これこそが陳腐な人間 (藤井氏の言う”凡庸な人間”)を生む。そして、陳腐な人間こそが容易に全体主義へと収斂されていくのである。
逆に言えば、私たち一人ひとりが他者の視点を意識しながら、物事をしっかり考え判断することを怠らなければ、全体主義という運動を未然に防ぐことができるということだ。
まとめ
冒頭にも書いたように現在ほど全体主義の危険が高まっている時代は少ないと思う。
なぜなら世界のあらゆる所で政治的な不安定性が増し、経済格差の拡大による社会不安がかつてないほど高まっているからだ。今回のコロナ禍でそれがさらに加速してしまった感が強い。
このような時代では、「他者の視点を考慮しながら、熟慮を重ね、慎重な判断をする」ということが困難になる。
そもそも異なる意見を聞き入れるというのは非常に難しい。インターネットでさまざまな意見を「見る」ことはできるが、実際に聞き入れ、それを自分の考えにも反映させるというのは並大抵の努力ではできない。
ほとんど人が「周りの意見を聞いている」つもりでも、実際には自分と同じような意見、あるいは深く考えなくてもわかったような気になれるわかりやすい意見に飛びつきやすくなってしまう。つまり全体主義に陥る下地は十分出来上がってしまっているのが現状だ。
ネットやスマホの普及で「効率」「時間」「スピード」がことさらに重視されるこの時代。
多くの人の立場や視点を考慮し、辛抱強く考え抜き、少しずつ歩んでいくという時代に逆行するアプローチをどれだけの人が可能なのか。
全体主義による悲劇を繰り返さないために、私たちに課された課題はあまりにも大きい。
という訳で、今回ご紹介したのはこちら
藤井聡著「凡庸という悪魔」でした。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m