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自由と平等という幻想が社会を狂わせる。ジョン・ロック「市民政府論」

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「国民の信任を得た」

選挙後に多数派となった政党がよくいう言葉の一つだ。

だが、この言葉にもやもやした違和感を感じる人も多いのではないだろうか。

「国民の信任を得た」と言うけれど、投票した人がみなその人に投票したわけではない。むしろ「こいつだけは信任したくなかったのに」と思う人も大勢いるだろう。

本来選挙に勝つことと、信任を得ることは別の話のはずだ。それなのに、なぜわざわざ「信任を得た」と表現するのだろうか?


ここには歴史上のある人物の政治思想が深く関係している。

それが17世紀の政治哲学者ジョン・ロックが提唱した"社会契約"という思想だ。

思想家の丸山真男はロックを評して「17世紀に生き、18世紀を支配した人物」だと言った。しかし、彼の著作に目を通すと、今の私たちの思考の多くがロックが作り上げた土台の上に築き上げられていることに気づく。

その意味では、ロックは「17世紀に生き18世紀を支配した」どころか、「21世紀を支配している人物」だとさえ言える。


今回は彼の主著「市民政府論」を元に、私たちの思想や考え方がいかに17世紀的な価値観に縛られているのか。それが現代社会にどのような影響を与えているのかを考えてみたい。

 

著者紹介

ジョン・ロック。1632年生まれ、1704年没。イギリスの哲学、思想家。

家柄は下級官吏であり名門の家柄ではなかったが、さまざまな人の手助けによって名門校ウェストミンスター・スクールやオックスフォード大学に進学。ギリシャ語や修辞学、医学、物理学を学ぶ。

有力な政治家であったシャフツベリ伯爵と懇意になったことで政治の道へ。一時オランダへ亡命するなど波乱の時期もあったが、帰国後には「権利の章典」の草案に関わるなどイギリス政治の中心に積極的に関わる。主著「市民政府論」「人間知性論」で思想家としての名声を確立した。

 1704年、イングランド東部のエセックス州にて肺疾患により死去。享年72歳。

 

ロックを知る上での基礎的概念

ロックの現代社会への影響を考えるためには、ロックが示したいくつかの概念を知っておいた方が話が理解しやすい。まずはロックの基礎的な概念をサラッと紹介したい。


自然状態

天然自然で人間がどのような状態にあるか? を想定したもの。

この時代の哲学者の多くが独自の自然状態を定義しているのでややこしいが、ロックの言う自然状態とは

個人一人ひとりが完全に自由で、完全に平等な状態。ここでは、自然法の範囲内で自分が正しいと思う範囲で自分を律して行動する。 自分の行動に対して他人の許可は必要ないし、他人の意思に依存することもない。」

ということを意味している。

このように書くと「誰もが好き勝手なことをやって良い」と言っているようだが、そうではない。当時はまだキリスト教の価値観が有効であった。だから、人間が自由であれば自然と神の意思に基づいた理性的な行動を行うため、皆が自分勝手な行動を犯すことはあり得ないという前提に基づいている。 

自然法

これは上記のような自然状態において、人間が従うべき法律のことだ。天然自然の状態なのに従うべき法律があるというのもおかしな話だが、ロックの中では矛盾していないようだ。

これもやはりキリスト教的な考えに基づいており、まずこの世界は神が作ったものであり、人間はその世界で生まれた。だからどんなに自然な状態と言えども、神が示す理性的で、道徳的であるべしという”自然法”には人間は規定される。

いくら自由であると言っても、他人の財産や安全を脅かしたり、傷つけたりすることはあってはならない。これが自然状態であっても従うべき法律、すなわち”自然法”だ。 

所有権

今では当たり前の「所有権」という概念だが、当時はまだそれほど一般的ではなかった。特に「土地」が顕著だが、国王や領主、あるいは神のものであり、個人がそれを所有できるという考えは当時は比較的新しいものだった。

ただ、ロックがオリジナルで考え出したアイデアというわけではない。

時代的には、お金によって土地を所有する、いわゆる”土地持ち”が出現しはじめており、所有権的な考えは広まりつつあった。ロックはあくまでその正当性を理論的に定義づけただけだ。

それが本当に”理論的”であったかどうかは議論の余地があるが、本稿ではそこまで深入りしない。

社会契約

恐らくこの「社会契約」こそが、ロックが示した概念の中でももっとも重要なものだ。

上記で示したように、ロックによれば自然状態において人間は一人ひとり、完全に自由で、平等であり、その精神や所有権は誰にも拘束されることがない。

その個人がなぜ他の人と集まり、共同体や国家を作るのだろうか?

それは個人であればたしかに自由ではあるが、生命や財産の安全性が確保できないからだ。それを守るために個人は、自分の自由の度合いをある程度制限してでも共同体に属することを選択する。そして、共同体は個人の自由を制限する代わりに、その安全を守るための行動を行う。

つまり、個人と共同体はそれぞれの利益のために”同意”に基づいた契約を行うのだ。

これがロックの言う「社会契約」だ。 

  

以上、非常にざっくりとした形だがロックが示した重要な概念をさらってみた。これらはどれも非常に有名な概念であり、現代社会を理解する上でも重要な知識だ。ネットで探れば詳しい解説がいくらでも転がっているので、興味がある方はぜひ探ってみてほしい、

 

17世紀に生きたロックが21世紀を支配する構造

さて、ではこれらのロックの概念が一体どのようにして現代社会にも大きな影響を与えているのだろうか?

ここに「私達の”信任”の下に政府は国家を統治している」という、冒頭で述べた信任の問題が浮かび上がってくる。

ロックによれば、私たちは独立した個人としてこの世界に存在している。現代の私たちもそのように教えられて来たし、そう信じている人がほとんどだろう。では、なぜ独立した個人として存在するはずの私たちが、政府の統治下に服さなければならないのだろうか?

その理由を、ロックは巧妙に説明した。

「人間はみな、本来的に自由で平等である。そして独立している。同意してもいないのにこの状態を追われるとか、他社の政治的権力に服従させられるとかいったことは、あり得ない。

(中略)

共同体を結成する目的は、自分の所有物 (生命・自由・財産) をしっかりと享有し、外敵に襲われないよう安全性を高めるなど、お互いに快適で安全で平和な生活を営むことにある。」

本書P138

もっと噛み砕いてみるとこうなる。

 

私達は本来、平等で自由な独立した個人として存在している。だが、自分の安全や財産を守るためには一人でいるよりも集団 (共同体) に属した方が良い。そのために私達は所有権や財産権などを部分的に放棄して、その共同体に属することを選択している。それが私達が社会と取り決めたことなのだ。

これが国民と社会との契約、すなわち「社会契約」である。

 

その上で、ロックはこの契約が成立するためには、私達国民が統治者が正しい行いをするという信頼・・・すなわち「信託」が必要だ述べている。つまり、私たちが本来持っている自由や財産を統治者(国家)に移譲するのは、統治者が私たちのために正しいことを行ってくれるはずだという信頼が基礎になければ成立しないということだ。

この社会契約論はロックやその後のルソーなどによってバージョンアップされているものの、基本的には現代の私達の社会、政治体制の基礎になっている。

 

冒頭で私がロックのことを「17世紀に生き21世紀を支配している人物」と書いた理由はここにある。21世紀に生きる私達は今もなお17世紀の哲学者ジョン・ロックが敷いた「社会契約論」から続くレールの上で生きているのだ。

 

誰も信頼していないのに「信任」されるという矛盾

ここまで読みといて来ると、政治家が選挙の時に「国民の信任」ということをしつこく繰り返す理由がわかって頂けると思う。

率直に言って多くの国民はの政治家のことを信じてもいない。選挙で投票する時も「まぁ、こいつなら少しはマシだろう」という程度でしか選んでいないことがほとんどだ。そんなことは分別のある政治家なら本人も分かっているだろう(本当に「信任された」と思っている人もいるだろうが・・・)。

だが現代社会が「政治家が国民のために正しい行いをしてくれると信頼して、政治権力を譲渡している」という社会契約論の延長線上にある以上、たとえ形式上のことであってもそう言わざるを得ないし、その形式によって現実の政治が曲がりなりにも機能しているのが実情なのだ。国民の信頼を得た・・・すなわち「信任された」という物語の上に現在の社会は成り立っているのだ。

だが、残念ながらこの内実を伴わない”形式上の信任”、”信任という物語”によって、たびたび私達の生活は混乱をきたすことがある。

 

信任してないのに統治される?

たとえば昨年からのコロナ騒動による政府の場当たり的な政策はその最たるものだろう。

日本は一応国民が主権を担う国民主権の国だ。だが実際にいまの菅政権は私たちが選挙で選んだ訳ではない。安倍前政権が突如として崩壊したため、その急ごしらえ的に生まれた政権。それが菅政権だ。言うなれば、誰も信任していない政府だ。

実際、毎日新聞が4月17日に報じた世論調査では、国民の菅政権に対する不支持率は62%を超え、戦後最悪を記録した。それにも関わらず菅政権は今もなお国民を導く立場にある。

菅内閣の支持率30%、発足以来最低 毎日新聞世論調査 | 毎日新聞

それにも関わらず国民はこの政府に従わなければならない。繰り返すが「国民主権の国」であるにも関わらずに、だ。

このような矛盾に満ちた社会が私たちが生きる現実だ。

 

社会契約論の欠陥

この矛盾の根幹はどこにあるのだろう。

実はそれもまたロックが述べる社会契約論という思想の中にある。

先にも書いたように、社会契約論は平等で自由な個人が、自分の財産を守るという目的のために統治者と同意の上で社会契約を結んでいる、ということになっている。

では、その同意は一体いつ行われ、いつ国民と国家は社会契約を結んだのだろうか?

その問いに対してロックは次のように答えている。

「ある国の領土のいずれかの部分を所有ないし利用している者はだれでも、そうすることによって暗黙の同意を与えているのであって、土地を利用している間はずっと、その国の方に服従する義務を負うのである。・・・土地の利用には・・・さまざまな形態がある。わずか一週間の滞在であっても、あるいは単に街道を自由に往来するだけであっても、土地を利用していることになる。」

(本書P171)

つまり、ある国の土地を一瞬でも利用したなら、その瞬間にその人は国家が統治することに同意し、社会契約を結んだことになるというわけだ。

 

だが、このような一方的な契約をはたして「個人の同意を得られた」とみなしても良いのだろうか? 

ロックは、その土地を少しでも利用したならというが、それならばこの世に生を受けた瞬間・・・あるいは母親の胎内に生命を宿した瞬間から、その個人は国家と契約を結んだことになる。そこに「同意しない。」「契約を結ばない。」という自由はない。

そんな契約が果たして契約と認められるのだろうか?

 

ロックが”証拠なし”でも社会契約論を生み出さなければならなかった理由

実はこの点に関して、ロックは論理的な証明をしていない。

それどころか「個人の同意に基づく契約が行われ、それが共同体が発生することになったことを裏付ける歴史的実例がない」といい、自分の理論に裏付けがないことをロック本人も認めている(本書P143)。

それにも関わらずロックは「記録というものは共同体が創設された後につけられるものだから、共同体が創設される前の記録がないのは全く不思議ではない。記録がないからといって、そのような事実がなかったということはできない。」というかなり滅茶苦茶な理屈で、個人と国家の同意により社会契約が結ばれ、共同体が創設されたという持論を主張している。

 

普通に考えればこのような理論は誰からも受け入れないはずだ。

少なくともこのような滅茶苦茶な理論では、小論文のテストなら赤点必死だろう。

一体なぜロックはこのような無茶苦茶な理屈を採用したのだろうか?

さまざまな理由が考えられるが、一つ挙げるとすればそれは個人には完全なる自由と平等が生まれつき与えられているという価値観をロックが絶対的な命題として掲げたからだろう。

ロックが、個人は完全なる自由と平等を持つと信じている以上、あえてそれを放棄して共同体を形成するためには、それに足る目的を何とかひねり出さなくてはならなかった。その苦肉の策として考案されたのが「自らの安全と財産を守るために、個人の同意に基づく社会契約が行われ、共同体(国家)は形成された」という理屈だったのだ。

 

結論ありきで考え出されたようなめちゃくちゃな話だが、歴史を見ればこの理論は大成功だった。

ロックに続く数多くの思想家がこの考えから大きな影響を受けた。

21世紀に生きる私たちでさえも「自由で平等な個人が自分の安全を守るために国家に権利を委譲することに同意している」という社会契約論の基本理念を受け継いでいる。

 

今こそロックを乗り越えなければならない。

このロックの「同意に基づく社会契約」という理論は大きな問題を引き起こす。

それは国家の形成は「個人」の力と「同意」の力を現実よりも大きく見せてしまうことだ。これが正しいのならば、国民の同意が得られなければ国家は崩壊することになってしまう。

だが、現実にはそのようなことは起こらない。

私たちが日々感じているように、たとえ個人が同意せずとも国家や共同体の方針は決まっていく。むしろ「同意しない」という消極的な否定だけでなく、「そういう方針には反対する」と積極的な否定の態度を示したとしても、実際には個人の主張は無視されて物事は進んでいく。

それが現実であり、そのような現実の中で人間は必死にもがいて日々生きているのだ。

 

しかし、ロックの「同意に基づく社会契約」という理論は、そのような現実の矛盾を覆い隠してしまう。

今回のコロナ騒動の政府の場当たり的な対応がその典型だろう。

政府は「選挙によって選ばれた」こと、すなわち自分たちが統治することに同意を得たという形式を免罪符にして、国民に一方的な負担を強いる政策を次々と実行に移している。しかもそのどれもが実効性に欠けている。

それにも関わらず次の総選挙まで「国民の同意を得た」という形式になっている。

 

ロックは個人の同意に基づく社会契約によって共同体が形成されると言った。

しかし、現実には国家の方針は一般大衆の個人が全くあずかり知らぬところで決定され、それに同意を求められることすらない。たとえ政府の決定に疑問があったとしても、その命令には絶対に逆らうことはできないのだ。

 

私はロックが示したこの虚構の理論を乗り越えることが、いま非常に重要なのではないかと思う。

ロックの「個人の同意に基づく社会契約によって共同体が形成される」という虚構に縛られているからこそ、政治家は「選挙に勝てば(=形式的に同意を得られれば)やり放題」になるし、国民は「同意しようがしまいが、結局政治家様がやりたいようにやるんだから選挙なんか意味ない」という無力感にさいなまれることになる。

国家が個人との契約によって形成されているという虚構のシステムから解放されることで初めて、国民は「国家とは何なのか」「国家がまとまるには何が必要なのか」「何が国家を破壊するのか」「国家を存続させていくためには何が必要なのか」という政治家も国民が対等に、そして同じ目線で国の行く末に関わることができるのではないだろうか。

 

17世紀に生まれ21世紀にも影響を与え続けるロックの理論。

今こそその原点に改めて迫るべきではないだろうか。

 

 

 

というわけで、今回ご紹介したのはこちら

ジョン・ロック「市民政府論」でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m 

 

 

 

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