移民問題。なぜ欧州が犯した失敗を日本は繰り返そうとするのか。
先週の報道ですが、政府が外国人労働者の受け入れ拡大に向けた新たな在留資格の創設に関し、対象業種に外食・サービスや製造業などを加える考えを示したそうです。
「新たな在留資格制度を創設する」と遠回しなことを言っていますが、要するに
外国人が容易に単純労働に従事できるように制度を変更します
というわけです。
また、在留期間を区切ることなどを挙げ「移民ではない」と説明したそうですが、
馬鹿を言っちゃいけません。
移民とは国連人口部によると
「出生あるいは市民権のある国の外に12カ月以上いる人」
と定義されています。
あるいはOECDによると
「移住先において1年以上滞在している者」
と定義されています。
そんな中日本政府は「技能実習生」とやらに、最大10年の在留資格を与えようとしています。
国際的な定義によれば、これは完全に移民受入拡大政策なのです。
それを日本政府の独自の勝手な解釈によって「これは移民ではない」などと言い張っている訳です。
「どうせ国民は移民の定義なんか知らんだろう。移民じゃないと言っておけば、そのうち黙るわ。ほっとけ。」と馬鹿にされているのですよ。皆さん。
このような状況を黙って見過ごしていてはいけません。
実際、現在のヨーロッパの移民問題もこのような不確かな定義の下で進められた政策によって生まれたのです。ヨーロッパ・・・いえ、当時の西ヨーロッパ諸国は第二次大戦後かなり長期にわたって「我々は移民国家ではない」という建前の下、「数年で帰る一時的出稼ぎ労働者」を大量に受け入れてきました。
その端的な例が西ドイツ。第二次世界大戦後の労働力不足を解消するため、ドイツは1950~60年代にかけて180万人を超える外国人労働者「ガストアルバイター」を「期限付き」という前提でトルコ、イタリア、ユーゴスラヴィア等から受け入れました。
労働契約が切れたら母国に帰る「はず」だったので、ドイツ語教育や社会保障制度の整理などはほぼ全く行われませんでしたが、予想に反して彼らは労働契約が切れても帰らず家族を呼び寄せドイツに定住していったのです。
政府の言葉遊びに基づいた安易な移民受入拡大を許したことによるツケを、今西ヨーロッパ諸国は払わされているのです。
そしてもう一つ重要なことは、政府が「対象業種に外食・サービスや製造業などを加える考えを示した。」という点です。
これはよく考えると
「肉体労働は頭脳労働と違って、人が変わってもすぐ置き換えできる」
と考えているということに他なりません。肉体労働を馬鹿にしているのです。
しかし、現実の労働とはそんな甘い物ではありません。
外食サービスであろうが、建設業や製造業であろうが、その仕事をきっちりこなすためには、それなりの経験と知識、そして訓練が必要です。
他でもないそのような経験と訓練の蓄積こそが、効率化や生産性の向上を生み出すのです。
そんな事は何かしらの現場で働いたことがある人間であれば分かるはずです。
頭脳労働で働く人は汗水垂らして働く肉体労働を下に見る向きがありますが、自分たちの生活がそのような労働による社会基盤の上に成り立っていることを忘れてはなりません。
むしろ、今後の人工知能やロボット技術の発展の可能性を考えれば、頭脳労働こそパソコンに置き換わられ、「人間がやることの意義」を示すのが難しい立場に追い込まれる可能性が高いくらいです。
しかも、そのような肉体労働やサービス業を移民に固定化すれば、「そのような職業は日本人がやるものではない」という意識を植え付けることになるでしょう。
そこで生まれるのは、特定の職業に就く人達への侮辱と偏見です。
侮辱と偏見を「する方」と「される方」が同じ地域に暮らすことになった時に何が起こるか。
それは現在のEUの惨状を見れば明らかです。
それは立場の異なる人々がお互いを排斥し合い、暴力と怨嗟が渦巻く社会です。
政府は「(人手不足に悩む)中小企業から強い要請がきている」という点を移民拡大政策の理由の一つにしているようですが、本来政府はそのような経営者を甘やかすべきではありません。
人手不足に悩むのなら、それを埋めるためには生産性向上を図るのが正道です。
そのために人的投資、設備投資、そして国家は教育環境への投資を行うべきでしょう。
決して安易な移民受入で将来への禍根を残すようなことがあってはならないのです。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
科学の価値を"金勘定"でしか測れない日経新聞に「科学の意義」を語る資格はない。
以前の記事でILC(International Linear Colider/国際リニアコライダー)という科学技術分野の国際的巨大プロジェクトが日本に誘致される可能性が高いことを書きました。
どういうプロジェクトかと言いますと・・・
“国際リニアコライダー(ILC)は、49の国と地域の300以上の大学や研究所の科学者やエンジニア2,400人以上が参加する国際的な取り組み。
全長約20km、絶対零度に近い超低温に保たれた超伝導加速器空洞(トンネル)を岩手県の地下に建設する。
そのトンネルの両端から中心に向けて電子と陽電子を加速させて発射。電子と陽電子のビームが1秒間に約7,000回、250ギガ電子ボルト(GeV)の重心系衝突エネルギーで衝突し、大量の新たな粒子が生成させることで宇宙開闢(かいびゃく)の謎を解き明かすプロジェクト。”
です。
分かりませんよね?
大丈夫です。
前にも書いたように、私もほとんど分かってませんから!!!(笑)
細かい仕組みはさておき、この件に関しては下記のことを理解して貰えば充分です。
それは
「宇宙開闢の謎を解き明かすという国際的な超巨大プロジェクトが、日本の岩手県に誘致されようとしている。
これが実現されれば、世界中の最先端の知能を持つ科学者が日本に集まり、新時代の技術や知識が日本から生まれることになる」
ということです。
このILCプロジェクトについて、とある有名新聞社が見解を載せました。
皆さんご存知の日本経済新聞、略して日経です。
この記事の中でILCの建設に対して日経新聞は反対の意を表しています。
ILCは建設・運転の計30年間で日本全国に4・3兆円の経済波及効果、約25万人の雇用創出が見込まれる。地元 への影響も大きく、岩手県の大平尚・首席ILC推進監は「被災地を含む東北再生に向け、人口減や高齢化への歯止め、観光客誘致にも効果が期待できる」と話す。
※ILC公式HPより引用
ラジオ番組「安部礼司」リニューアル不評の原因。日曜の黄昏時に大人が求める物語とは?
皆さん、「NISSAN あ、安部礼司 〜Beyond the Average~」というラジオ番組をご存知でしょうか?
TOKYO FMをはじめ、JFN37局で放送されているラジオ番組です。
内容をざっくり説明すると
この物語は、ごくごく普通であくまで平均的な43歳の安部礼司がトレンドの荒波に揉まれる姿と、それでも前向きに生きる姿を描いた勇気と成長のコメディ。 日曜の黄昏時、若さと渋さの間で揺れる昭和生まれのアナタに贈る『鼻歌みたいな応援歌』を、ツボな選曲とともに送るラジオドラマ
です。
今年で13年目なのですが、ラジオ番組でこれだけ続いているというのは異例。
それだけ人気の高い番組ということでしょう。
が、しかし。
そんな安倍礼司に最近暗雲が垂れ込めています。
原因は2ヶ月ほど前に行われた内容のリニューアル。
主役級のキャラが突然いなくなったり、主人公の奥さんが消息不明になったりしてキャストも変更。
番組の編成も大幅に変わり、第一回放送後にはYahooの急上昇ワードの上位を安倍礼司関連のワードが独占するなど、正に大炎上に発展しました。
私もそうだったのですが、多くのサラリーマンがこの番組を聴いてちょっとほくそ笑んで「明日からまた仕事始まるけど、ま、何とかなるだろ。頑張ろう」という元気をもらう、そんなカンフル剤的な役割を期待していたのです。
そんな良い意味での「お約束」が、このリニューアルによって覆されたことに、多くのファンが怒りを感じたのでしょう。
では、この人気番組がなぜそこまで面白くなくなったのか。
「面白い、面白くない」が主観に過ぎないとすれば、なぜ支持を得られなくなったのか。
その理由ついて考えてみたいと思います。
そもそもなぜ「あ、安倍礼司」という番組が、これほど支持されていたのか?
基本的にこの番組のターゲットは、いわゆるサラリーマンです。
特に高給取りでもなく、資産家とか金融業で儲けてるとかでもなく、いわゆる「平均的なサラリーマン」(もちろんOLも含みますが、ここでは便宜上サラリーマンとさせて頂きます)。
そのサラリーマンにとって日曜日の17時からという時間帯は、週末の休みから醒めて、翌日からの仕事に備え始めるタイミング。
この平均的なサラリーマンの悲哀と喜びを楽しく描く番組は、丁度そんなサラリーマンの「夕暮れ時の憂い」にぴったりとはまるのでしょう。
しかも、その中で流れる音楽が30代、40代の人たちが青春のほろ苦さを思い出すのにぴったりな選曲であり、彼らの憂いを少しだけ解消し、翌日へのエネルギーを与えてくれるような、絶妙な選曲でした。
そう考えると、この番組が支持されていたのは若さだけでは乗り越えられない悩みや辛さを抱えるサラリーマン。
しかも、30代、40代という誰かに気軽に相談するにはちょっと経験を積みすぎている妙齢のサラリーマンに共感を呼び起こす
・理想と現実の間でもがくサラリーマンの葛藤
・楽しい思い出とほろ苦い思い出
・社会で注目されている用語が取り入られ
・ちょっと泣けるけど最後は笑って終えられる安心感
などを絶妙なバランスで表現した、巧みなシナリオと構成力が肝だったのではないでしょうか。
そのように考えると、リニューアル後の安倍礼司が全く支持されていない理由が見えてきます。
30代、40代にもなってくると、なかなかただ笑える、ただ悲しいという内容だけでは、彼らの共感を得ることはできません。
やはり、
笑いの中にも悲しさが、
逆に悲しさの中にもちょっとした笑いが 、
上司と後輩の間に挟まれるもどかしさ
人の成功への羨望と嫉妬
そのような相反する感情の中でもがくような苦しい心情を描く表現があってこそ人の心は動かされるのです。
特に30代、40代になり、様々な立場や人間関係による自分の志だけで動くことが難しくなってくる世代には尚更です。
当然そのような複雑な感情の動きを描くには、それなりに丁寧な描き方が必要とされます。
しかも、日曜日の黄昏時という時間を考えると、やはり誰もが前向きになれるような楽しさを最後には提示しなければ、エンターテイメントとしては成立しません。
その時々のテーマやシチュエーションの設定もそうですが、登場人物のセリフや性格、他キャラとの掛け合いなど、かなり細かい部分にまで配慮した絶妙なバランス調整が必要となります。
そのような物語を可能にするためには、人間を深く観察する能力と心情の動きを感じ取る鋭敏さ、そしてそれを皆が受け取りやすいように表現する構成力が不可欠です。
ですが、残念ながら今の「あ、安部礼司」の脚本にはそのどれもが決定的に欠けていると言わざるを得ません。
「理由ありげに後輩にきつく当たる先輩と、それに反感を抱く後輩。
実はそこには後輩を育てようとする先輩の隠された意図があった・・・。」
とか
「父親を傷付けるような態度を取る子供たち。
しかし、実はそれは父親の負担を軽くしようと子供なりに考えた結果だった・・・。」
とか。
まぁ、一言で言えば・・・
浅い!
浅すぎる・・・!!
そんな取って付けたような社内の人間関係や親子愛は存在しません!
人間というのはそんな単純にはできていないのです。
様々な人間が、与えられた環境の中で精一杯の努力をし、それでも必ずしも成果が出せるとは限らない。
時には他人に誤解されることもあるし、自分が他人を誤解することもある。
それでも人は一歩ずつ前に進んでいくしかない。その一歩が次の一歩になると信じて。
それこそが人間なのです。
そういう意味では、以前の「あ、安部礼司」は
「後輩の成功を心から喜んでいる自分と、それに比べて自分を卑下する自分がいる。
どちらも本当の自分なのに、その間でもがき、それを誰にも打ち明けられないもどかしさ。」
そういった自己矛盾を巧みなセリフ回しと声優の演技力によって、「単なる言葉」ではなく「感情を乗せる」ことで表現する・・・そのような婉曲表現によってこそ物語に深みがもたらされるのです。
リニューアル前にはそれが実現できていたからこそ、「あ、安部礼司」は13年というラジオとしては異例の長寿番組として生き残れたのではないでしょうか。
ただ一つ脚本家を擁護するとすれば、一話の持ち時間が短くなってしまったことでしょうか。
今まで基本的に1時間で1つの話だったのが、サザエさんのように3本立てになり、それぞれ別の脚本家が担当するようになったようです。
そのため一話ずつの時間が短くなってしまっています。一話当たり15分程度でしょうか。
実際、この時間制限がかなり厳しいと思います。
サラリーマンの苦悩を描くには時間が短すぎるのです。
ですが、やはりそれは言い訳でしかありません。プロであるならば「時間が短い」などという事は正当な理由にはなりません。
与えられた制限の中でどれだけの深い表現ができるのか。
それこそがアマチュアとプロフェッショナルの違いのはず。
昔からのファンから相当叩かれている「あ、安部礼司」ですが、何とかもう一度奮起してプロフェッショナルの力を見せつけて欲しいと思っています。
この苦難の先に「やはり安部礼司は面白い! 色々あったけど今回のリニューアルは成功だった!」とファンが認めてくれるような番組に仕上げてくれることを願っています。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
そして、「あ、安部礼司」をご存知ない方は是非一度このラジオ番組を聴いてみてください。
・・・今はあまりおもしろくないかもしれませんが、きっと面白くなることを信じて!(笑)
お通じ改善ヨーグルト"毎朝爽快"が20年以上の苦しみから救ってくれた!(かも)
分解・吸収されずに大腸まで届き、大腸にいるビフィズス菌と出会うことで
ビフィズス菌の増殖をサポート。腸内のビフィズス菌を適正に増やし、
お腹の調子を良好に保つ効果があるそうです。
人生を情報に変え、その情報を収益に変換するSNSの恐ろしさ。
先日友人との会話の中でFacebookの思い出告知機能の話になりました。
正確な名称は分かりませんが、
「あなたは三年前にこんな事をやっていました」
などと、過去の投稿を引用して「思い出」を教えてくれる、それはそれは有難い機能です(笑)。もちろん皮肉です。
私は正直この機能を初めて目にした時、恐ろしくなりました。
なぜなら、自分がいつ、どこで、何をして、何を考えたかが全てFacebookのサーバーによって管理され、人工知能の判断によって適切だと考えられたタイミングで、自分の目の前まで持って来られるのです。
もしかしたら「日記と同じじゃないか」と仰るかもしれませんが、全然違います。
たしかに紙というデバイスに、文字というテクノロジーによって記憶を貯蔵するという意味では同じでしょう。しかし、日記はあくまで自己管理が可能なものです。
いつを読み返すかを選ぶことができる。
自分の意思で捨てることもできる。
誰にも見せない自由があれば、誰かに見せる自由もある。
しかし、Facebookを始めとしたSNSにはその自由がありません。
Instagramにはメモリーズという投稿から24時間で消える機能がありますが、それは表示されないというだけで、サーバーには全て記録されています。
そして、それらの情報は全て情報として管理され、時には企業の「マーケティング活動」という利益行為のために活用される。
Facebookなどはそれを
「適切な情報を、適切なタイミングで、適切な形で、それを必要としている人にピンポイントで届けられることを自分たちのサービスの強みであると主張します。
そして、それは情報発信側と受け取り側の双方をハッピーにする、と。
しかし、本当にそうでしょうか?
それを適切と判断するために、普段私達は
・SNSに投稿する内容
・Googleで検索したワード
・購買履歴
・どのような画像や動画を見たか
・年齢
・性別
などの「人格を構成する要素」によって、細かく分解されます。
そして、それぞれの要素に“AIやアルゴリズムが重要の判断によって与えられた特徴量 (どの程度重要か?)”を数値化され、「このようなライフスタイルを持った人間だ」と仮定されて、一つのバーチャルな人間像として再構成されるのです。
そのバーチャルな人間像に「適切だ」と思われる情報が、順次提供されて来るのです。
まるで親鳥が生まれたてのひな鳥の口元にまで餌を運んでくれるように。
そして、私達はそのひな鳥と同じく、そのように情報が提供されることに何の疑いも持たずに、口を開けて待っているのです。
さらに恐ろしいことに、ひな鳥が親鳥が運んでくれた餌を何の疑いを持たずに飲み込むように、私達もそれを心地よいサービスだとしてむしろ歓迎して喜び、楽しんでいるのです。
言い換えるとそれは「このような属性の人は、こういう事に興味があって、こういうタイミングでその情報に接することを好む。だからこのような与え方がもっとも反応率が高いはず」と想定された上で与えられた情報に接し、正にその想定に沿った行動をしているということです。
たとえそれが「不適切な情報として通知する」という選択肢を選んだとしても、結局それはSNSというプラットフォームの中で与えられた選択肢に過ぎません。
あるいはどのようなリアクションも取らず、瞬時にスクロールして読み飛ばしたとしても、それさえも「具体的なリアクションを取らなかった」「読み飛ばした」というリアクションを、そのプラットフォームに情報として提供されてしまう。
つまり、Facebookだろうがなんだろうが、そのようなSNSに参加するという選択をした時点で、私達は
「AIやアルゴリズムの判断性能を向上させ、FacebookやGoogleなどのプラットフォーマーの収益を強化するために自分の情報を売り、それを企業活動や政治活動に利用されることに合意する」という選択をしてしまっているのです。
さらに恐ろしいのは、
私達がその選択を脅威に感じないどころか、むしろ「便利になった」として積極的に受け入れていること。
そして、もはやそれが存在しなければ社会生活が成り立たないほど依存した社会構造を作り上げてしまったこと
です。
Facebook、Twitter、Instagram、そしてYoutube。
世の中にはさまざまなSNSがあるが、そこはバーチャルな繋がりへを求めて日々多くの人で溢れかえっています。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
同じ仕事量を抱えていても「充実している人」と「疲れ果てている人」の違いを考えてみる。
つい先日隣の家に住む六歳くらいの男の子が母親と会話しているのをたまたま聞いたのですが、その時にその子が
「最近僕も忙しいんだよね」
と言っていました。
「その歳で忙しいって(笑)」と思わず吹き出しそうになりましたが、その子はその子で色々な事情があるのでしょう。同級生の付き合いとか。
まぁ、まだ微笑ましいなと思います。
ですが、大学生や社会人になると結構周りに「俺は忙しいんだ」アピールをする方がいらっしゃいませんか?
仕事が忙しいということは基本的には良いことのように思います。
少なくとも「暇でやることがない・・・今月の売上が・・・」と悩んでいるよりは遥かにマシです。
ですが、忙しい日々を送っていることが充実している日々と必ずしもイコールとは限りません。
もちろん、それがイコールな方も大勢いらっしゃいます。それは素晴らしいことですが、もしそうでない場合、それでも仕事に自分の人生を費やさなければならないとしたら、どうでしょうか?
ウォルター・リップマンという20世紀初頭に活躍した政治ジャーナリストが、次のように言っています。
「非常に多くの仕事が終わりのない繰り返しであるかぎり、しかも労働者にとっては目的のない繰り返しであり、一組の筋肉を一つの単調な型にはめる一種の自動作業であるかぎり、
彼の全人生はその何をとっても他のものと特に区別されることのない自動作業になってしまうだろう。」
“一組の組の筋肉を一つの単調な型にはめる一種の自動作業”という部分がちょっとわかりにくいかもしれません。
「筋肉」という言葉で肉体労働をイメージされるかもしれませんが、私は「自分の頭で思考することなく機械のようにパターンにはまった作業をする」というような意味ではないかと考えています。
つまり、単純な入力作業とかだけではなく、たとえデザインとか映像に関わるようないわゆるクリエイティブな仕事であったとしても、“そこに自分の思考や創造性が加味されず、機械的にこなす仕事”であれば、自動作業の一つに陥ってしまうと。
そして、リップマンの言葉を借りれば
そのような人にとっては、彼の全人生そのものが何をとっても他のものと特に区別されることのない自動作業になってしまう
のです。
他のものと区別されることのない自動作業…まさに「マシーン(機械)」という言葉が相応しい状態ではないでしょうか?
さて、実はこの状態のことをうまく表現している言葉が日本語にはあります。
それは
忙しい
という字です。
この「忙」という文字は、「心」という意味のりっしんべんと、「亡くす」という意味の「亡」という造りからできています。
そう。
心を亡くすと書いて「忙しい」なのです。
言い得て妙というか、この文字を考えた人は天才じゃないかと思います。
世の中には、どれほど仕事を抱えていても充実している人もいれば、逆にバタバタして疲労困憊の人もいます。
それも「忙しいとは心を亡くした状態である」と考えれば納得できませんか?
つまり、結局充実している人はどれほど仕事を抱えても心が活きている人であるし、疲労困憊の人は心を亡くしているということになるのです。
だからこそ、人によって、心の持ちようによって「忙しさ」とは変わるのです。
世間には忙しい人に時間の使い方とかを指南する本やネット記事が溢れています。
しかし、個人の性格や置かれた環境は人により、タイミングにより全然違いますので、「誰にでも、どこでも当てはまる対処法や仕事の仕方」なんて世の中には無いのはないでしょうか。
私はそんな本を何冊も読むよりも、この
「忙しい」とは「心を亡くした状態」のこと
ということを心に留めておくことの方が余程助けになるのではないかと思います。
心が亡くなってしまえば、幸せにはなれませんからね!
あれ? 私ちょっと良いこと言った??? (・∀・)
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
TOEICも英検も受けたことのない私が、3日間外国人客と接して思ったこと。
自慢でも何でもありませんが、私は英検もTOEICも受けたことがありません。
ましてや英会話も習ったことがありません(* ̄^ ̄)エッヘン!
手持ちの武器は中学、高校で習った単語力・文法力、あとはNHKのビジネス英会話を“年に数回”聞いているリスニング能力のみ!
威張れることではありませんが、もう一度。
(* ̄^ ̄)エッヘン!どうだ!
そんな私ですが、仕事の都合上海外の方と接する機会が年に数回あります。
そして今週がっつり4人のヨーロッパの某国からのお客さんと仕事をご一緒しました。
朝食からディナーまで丸3日間どっぷりと英語漬けです。
普通のブログでしたらここで
外国人と接する際の英会話のコツ
みたいな内容をアップするのでしょうが・・・・
残念ながら違います!!!
期待裏切ったらすみません!! m(_ _)m
そんなコツがあったら私がむしろ聞きたいくらいです・・・。
では何をテーマにするかと言いますと
「英語で会話することで気付く、概念を言語化することの難しさ。そして面白さ」
です。
英会話のコツは教えられませんが、巷に出回っているのとは全然違う、別言語を学ぶことの意味を知ってもらえるのではないかと思います。
ではでは行ってみましょう〜(*´∀`*)
さて、私がたまにしか外国人と話す機会がないからだと思いますが、英語のネイティヴスピーカーと喋っているといつも気付かされることがあります。
それは彼らは基本的に文章の頭に「I」「You」「He」など主語をしっかり持ってくることです。
私達日本人が日本語で話すときって、その都度「僕は〜」「あなたは〜」とかって言うわけじゃありませんよね。
大体が主語抜きで話が通じてしまいます。
これは文脈の中で「主体となっているのは誰なのか」が話し相手との間で無意識に共有されているから通じるのです。
私が英語が拙いからなおさら感じるのですが、自分のことを言うときは良いのですが、相手のことを「You」と断定するのって、何かすごく自分が偉そうな感じがして抵抗があるんですよね。
ちゃんと意識しないと日本語のくせで「You」とかの主語を抜かしてしまい、相手の方に意味が伝わらないということが度々あります。
それ以外にも例えば飲み会の席とかで、遠くにある醤油を取って欲しい時に、日本人の場合は「すみません。ちょっと・・・」とか言えば、大体雰囲気や視線で「ああ、醤油ね。はいどうぞ」と取ってくれるじゃないですか。
でも、海外の方の場合「Excuse me」だけでは通じません。
「Could you take me the soy sauce there?」と言わないと通じません(余程親しくなれば別かもです)。
これはやはり日本人同士だと無意識の部分で、そういう感覚や場の雰囲気を読む力が共有されているからだと思います。
ですが、外国人には当然それは通じません。当たり前ですね。
そこで外国語で喋るときは、自分が普段「日本人的な感覚の共有」に依存して言語化していない概念を言語化して伝えるという作業が必要になるのです。
私は正直英会話で一番むずかしいのはこのポイントだと思っています。
確かに単語や熟語、文章の作り方は勉強すればある程度身につきます。
でも、それだけではどんなに堪能になったとしても「単に英語が話せるだけ」にしかなりません。
言葉というのは自分以外の人とコミュニケーションを取るということが目的の一つですから、「英語を話せるだけ」では本来の目的を達することはできないのです。
今回の接客でも
「君たちの企業文化がどのように商品政策の意思決定に寄与しているのか?」
「君たちの商品と競合他社の商品を差別化しているものは何だと思うか? その違いを生み出す理念は何だと認識しているのか?」
とか、色々と突っ込んだ話を聞かれました。
何度も何度も
Why???
How do you think?
と。
多分多くの人がそうではないかと思うのですが、日本人同士で仕事をしていると一々「なぜこうするのか?」「君はどう思うんだ?」と聞かれること、あるいは自問自答することって少ないのではないでしょうか?
何となく皆の意見や、社会状況、歴史的経緯から考えて、明文化されている訳じゃないけど「こういう感じ」という理解が共有されている。
たまに「え? そういう意味だったの?」という誤解が生じる時はありますが、基本的には周りの人と著しい理解の相違があることはそんなにないと思います。
(大企業だと「周りの人」が多すぎて、一筋縄ではいかないと思いますが)
ですが、海外の方と接するとどうしてもそういう機会が増えます。
そして、改めて聞かれると「うーん・・・何となく答えはあるけどハッキリと、しかも英語で説明できるほど明確には答えられないなぁ・・・」ということになります。
これを面倒くさいという人もいるでしょうが、私は困りつつも内心ちょっと楽しんでいます(笑)。
当たり前過ぎて特に意識していない概念を自分の中で明確にする。
そのためには、その概念を構成している要素を分析し、背景との関連付けもハッキリさせる必要がある。
さらにその上で、それを拙い英語で説明できるほど簡潔にまとめ、論理を組み立てなければならない。
この作業は中々大変です。
メールだったらじっくり考えられますが、会話ですと目の前に相手がいますからね。
でも、普通に生活していると、中々そういう風に無意識の意識を明文化することってありません。
私も海外の方と話をすることで「ああ、そうか。自分ってそんな風に考えていたんだ。」と気付かされることがよくあります。
最初に書いたように私は本当に英語能力が優れている訳ではありません。
っていうか、あまりしゃべれない方です。
ですから、英会話能力が堪能な人は凄いなと思います。
しかし、“上手く喋れる”というだけでは単なる技術に過ぎません。
そして、技術は技術革新により機械に置き換えられていきます。
実際あと2〜3年もすれば、日常会話程度の話は人工知能がリアルタイムで翻訳してくれるでしょう。
したがって、あくまでこれは個人的な意見ですが、私が海外の方と英語を含む外国語で話そうとする時に重要だと思うのは、
無意識の中にある概念の意味をしっかり考え、分析し、それを論理的に伝えられるようにすること
だと思います。
そのためには、普段から自分の中にある概念を冷静に見つめ、分析する習慣を心がけること。
そして、その分析結果を相手に伝えるのに必要な単語や文法を身につける。
それこそが本来英語・・・だけでなく外国語を身につける上で大切にしなければならないことではないかと思います。
むやみやたらと英会話の勉強をするよりも、そういう「自分と向き合う」という考え方をちょっとだけ頭の片隅に入れておくことで、今までと違う英会話への接し方ができるのではないかと。
なんか偉そうですみません(笑)。
うーん・・・なんか締めが上手くいきませんが(笑)、三日間の英語トークで疲れ果てた結果ということで許してください〜(_ _;)
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
人口減少による生産性&収入アップのシナリオを移民によってわざわざ崩壊させるな
あまり知られていませんが、WEF (World Economic Forum)の調査によると、日本人労働者の質の高さは世界第4位にランクインしています。
堂々たる世界トップレベルです。
しかし、その一方で1人当たり労働生産性はOECDに加盟する35カ国中で20位、先進7カ国の中では最下位となっています。
世界トップレベルの質を誇りながら、生産性はそれに比べるとかなり低いことに矛盾を感じる方も多いかと思います。
ですが、これらは何も矛盾していないのです。
そもそも1人当たり労働生産性とは国で生み出された富の合計であるGDPを、労働者の数で割ったものです。
その点我が国は一億2千万の人口を抱えながら、この20年GDPがほとんど伸びていません。
それどころか「日本の商品は高品質で低価格!」という信念のもと、労働者をひたすら懸命に低価格で働かせ続けで来た訳です。
それは労働への対価という意味では、むしろずっとGDPを押し下げる方向で頑張って来たといっても過言ではありません。
本来、国によるインフラ整備や経営側による設備/人的投資によって生産性を向上させなければならないのですが、サービス残業、ブラック企業などといった形で生産性の向上を図らないという負担を労働者に転嫁してきたのです。
そうではなく、国民の実質所得を高めるためには生産性の向上、つまり同じ仕事量でもより多くの富を得ることができるようにすることで、経済発展を成し遂げていかなければならないのです。
そういう意味では、今巷で騒がれている労働人口の減少は、実は経営側に本来の生産性向上を迫る絶好の機会でもあるのです。
ですが、この苦境を「移民受け入れ」によって凌いでしまっては何の意味もありません。
それどころか労働者は移民の安い賃金とHead to Headでぶつけられるため、実質賃金がますます低下することになりかねません。
確かに生産性向上のための投資が拡大しても、効果が出るまでにはしばらく時間がかかります。
また、抜本的にビジネスモデルに修正を加えることも、多大な労力がかかりますので、経営者達は二の足を踏むでしょう。
そこで日本の経営者の多くは、「それなら賃金の安い外国人労働者で何とか対応しよう」となるに決まっているわけです。
だって、その方が楽ですし、お金もかかりませんから。
経営者の観点から見ると、途上国から安い労働者を多数受け入れ、これまでの経営戦略を維持するのは、短期的には理にかなっているようにも見えます。実際、コンビニなど一部の業界では、すでにその方策が定着しています。
ですが、そもそも日本でのビジネスというのは、先人達が血の滲むような思いで築いてきた、道路や土地、建物などのハードインフラや、社会制度や教育、そして言語といったソフトインフラという基盤の上に成り立っているのです。
そして、私達消費者を含めた日本という市場そのものもまた、それらの上に成り立っているのです。
しかし、移民を雇い入れるということは、そのような基盤の上で得られた富を私達日本人に還元することなく、給与という所得の分配により他の国へ移転させていることに他なりません。
そのような所得移転に精を出しているようでは、生産性の向上は起こりません。
それでは本末転倒なのです。
今まで高品質低価格という誤った考えにより、生産性の向上のために必要な投資を行わなかった経営者に、
「資本主義の基本とは投資をして生産性を上げることである」
という事を改めて認知させ、そうするための政策を国を進めなければ日本国民の貧困化を止めることはできません。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😊
ブラタモリ「関門海峡」特集で知った。「当たり前の物」を作り上げることの難しさ。
さて、突然ですがみなさん「ブラタモリ」というNHKの番組をご存知でしょうか?
私と同郷であるタモリさんが日本全国の街や地域を歩き、その土地の歴史や「なぜその土地が今のような形になっているのか?」を解き明かす旅番組です。
今回は今週、先週と2回にわたって福岡県と山口県の間にある「関門海峡」の特集でした。
関門海峡が「海峡」と言いながら、幅が700mしかないほどの世界有数の狭さでありながら、1日500隻も船が往来するなど世界有数の賑わいを見せる海峡であるなど、福岡出身の私でも知らないようなことが満載でとても面白い内容でした。
それと、実はここは昔は海峡ではなくひと繋がりの山だったのが、土地を構成する地盤が柔らかかったため風雨で削れ、そこに海水が流れ込んで出来たという話はかなり驚きました。
関門海峡に行くと分かるのですが、海岸線の本当にすぐ側に山がいくつもそびえているので、変わってるなぁとは思っていたのですが、まさかそんなカラクリがあったとは・・・。
他にもいくつも面白い部分はあったのですが、私が一番面白かったのは関門海峡を繋ぐトンネル「関門トンネル」を作るのに、どれだけの苦労があって、どれだけの工夫の結果作られた物であるかの解説部分です。
行ったことない方のために補足すると、関門海峡というのは山口県の下関市と福岡県の北九州市の門司という土地の間に広がっています。
なので、関門海峡。(下“関”と“門"司の組み合わせ)
そして、下関と門司は下記のルートで繋がれています
自動車が通る関門橋
新幹線が通る新関門トンネル
そして、もう一つが今回取り上げられた「JRの在来線が通る関門トンネル」。
実はこの関門トンネルは「海底」に穴を掘って作られたトンネル。
しかも、なんと世界で初めて掘られた海底トンネルなのです!!m9( ゚Д゚) ドーン
海底を掘り進める上、地盤が柔らかくすぐ崩れてしまうという、それまで誰も経験したことがない困難な大事業を日本が初めてやってのけた訳です。
しかし、その一大プロジェクトには誰も知らない様々な苦労が・・・・というのが番組の内容。
明日火曜日の深夜に再放送があるようですので、是非ご覧頂きたいと思います(地域によっては放送日が違うと思いますのでご注意を)。
私が今回の番組で勉強になったのは
「身近にあるものほど、その価値を見出すことは難しい。そして、それを人に伝えるのはもっと難しい。」
ということです。
私は一時期北九州市に住んでいましたし、関門海峡にも行ったことがあります。
当然関門トンネルも通りました。
ですが、恥ずかしながら今回の番組のような逸話は全く知りませんでした。
身近なものであればあるほど、当たり前の存在であればあるほど、人はなかなかその真の価値を改めて考え直すことをしません。
今回特集された関門海峡も、私の中では「関門海峡で九州と日本が繋がっているのが当たり前」でしたが、それは当たり前でもなんでもなく、それを実現するために多くの人の知恵と力の結集が必要だったのです。
私達が普段当たり前と思っているものは
当たり前でなかった物を当たり前にした、多くの人達の努力によって生み出されたものなのです。
そして、私達はその人達の努力の上に日々の生活を営んでいるのです。
次から次へと新しいものを生み出すことも大切ですが、私達の周りにある「当たり前のこと」の大切さにもう一度思いを馳せることもまた大切なことではないでしょうか。
ちなみに、全くの余談ですが関門トンネルは人が歩いて海底を抜けるルートがあります。
残念ながらコンクリートに囲まれているので海底が見れる訳ではありませんが(笑)、なかなか出来ない経験だと思いますので、近くを訪れる機会があれば是非通ってみてください😆
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
アニメ「BANANA FISH」で考える。安易なラベル貼りが人間の思考を殺す。
最近めっきりアニメを観る機会が減った私ですが、久し振りに毎回欠かさず観ているアニメがあります。