世界を救う読書

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宿命に立ち向かう人間の美しさを描く、NHKドラマ「カムカムエブリバディ」。

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自他ともに認める”三度の飯より読書好き”の私が珍しくNHKの連続テレビドラマを毎日観ている。我ながら驚くべき事実である(笑)。
そのドラマの名は「カムカムエブリバディ」。

今作の特徴は何と言っても主人公が祖母(上白石萌音)、母(深津絵里)、孫(川栄李奈)と3人が交代して、昭和初期〜平成という長く濃密な時代を描くという点にあるだろう。


正直なところ、私は最近までこの作品のテーマは
NHKが自社のラジオ英会話番組を宣伝すること
・日本政府が進める英語教育の援護射撃をすること
だと考えていた。
それが狙いであることは実際間違いないと思っているが、どうもそれ以上に深いテーマが描かれていることに今更ながら気づいた。
私のブログでは99%が書籍のレビューだが、今回は番外編としてこの「カムカムエブリバディ」というドラマが描く”あるテーマ”について語ってみたい。
そのテーマとはズバリ”宿命”である。

「宿命」とは何か

 

そもそも「宿命」とは何だろうか?

 

宿命という言葉はもともと仏教の用語で「生まれる前から決まっている運命」という意味である。「運命」と近い意味合いだが、違うのは「宿命」には何か自分の力では乗り越えられない大きな力が働いているというニュアンスがあるところだ。

 

たとえば「運命を切り開く」とは言われるが、「宿命を切り開く」とは言わない。運命は自分の力で乗り越えることができるが、宿命はもっと神がかり的な力で方向づけがされているという意味合いが強いため、いわば”逃れられない運命”のような言葉であると言って良いだろう。

宿命に生きた三世代の主人公

本番組「カムカム・エブリバディ」は、まさにこの意味において”宿命に生きた人々”を描いた物語である。

 

初代ヒロインの”安子(上白石萌音)”は、第二次世界大戦というまさに一人の人間の力ではどうしようもない時代において、夫を失いながらも、家族や娘への愛を支えに必死に生き抜いた。

二代目ヒロインの”るい(深津絵里)”は、父親を戦争で失くし、母親からは捨てられたという辛い過去を持つ。さらには幼少時に不慮の事故で負った顔の傷によって、人との交流を極度に避けて生きるようになってしまった女性。しかし、そんな自分をありのままに受け入れてくれる大月錠一郎(オダギリジョー)という生涯の伴侶を得たことで、力強く戦後の時代を生き抜く。

三代目ヒロインの”ひなた (川栄李奈)”は、高度経済成長〜バブル後の不景気の時代に生きた女性。時代の中心的メディアとしてテレビが台頭する中で、すでに斜陽産業となりつつあった”時代劇”にほれ込み、その再興のために遮二無二に努力する。

 

生きた時代も環境も全然違うが、如何ともし難い環境の中で自分が信じる道を懸命に貫こうという強い意思を持っていることは彼女たちに共通して特性である。

主人公とともに宿命に立ち向かう脇役たち

如何ともし難い環境に立ち向かうのは、彼女たち三人のヒロインだけではない。

それ以外のキャラクター達もその多くが”自分の力だけではどうしようもない何か”を抱え、それを乗り越えようと必死に生きている。よくある表現を用いて彼らを表すならば「運命に翻弄されながらも必死に生きた人たち」ということになるだろう。だが、決定的に違うのは彼らが決して”翻弄されるだけではない”というところだ。

 

中世イタリアの政治学者ニコロ・マキャヴェッリが「運命」のことを”女神”と表現したように、運命はときに気まぐれに人々の人生を狂わせる。だが、同じくマキャヴェッリが述べたように「運命の女神は、積極果敢な行動をとる人間に味方する」のである。

 

このドラマのキャラクターたちは様々な運命のいたずらに翻弄され右往左往するだけではない。その運命をさまざまな葛藤の末に自ら受け入れ、その時々でできる最大限のことを積極果敢に行動する。そして、まさにそのような運命だったからこそ得ることができるかけがえのないもの (家族や誇りなど) を、手にしていく。

それは”運命に翻弄された人間の悲劇”のではなく、”自らの宿命を受け入れて懸命に生きる人間の美しさ”を表現していると言えるだろう。

心に残った神回

このドラマには本当に良いシーンが多いのだが、中でも深く印象に残っているシーンがある。それは桃山剣之介という時代劇俳優が人生の中でもっとも大きな仕事を終えた直後、三代目ヒロインの“ひなた”と会話するシーンである。

 

この回の前後では、尾上菊之助が演じる時代劇の超人気俳優「桃山剣之介」という人物が、長年抱き続けた苦悩とそれを乗り越えるシーンが描かれる。

この桃山剣之介というのは正確には”二代目”桃山剣之介であり、自分の父親が”初代”であった。彼が抱えていた苦悩とは初代である父親が遺作となる映画で、息子である自分を配役から外したことであった。

世間では、二代目が当時すでに斜陽産業となりつつあった映画を捨て、テレビというメディアに活躍の場を移したことに対する初代の嫌がらせだと噂されていた。二代目は初代と最後に交わした会話から、そんな子供じみた嫌がらせではなく別の意図があったことを感じ取るが、それが明確にならないまま初代はこの世を去ってしまう。

表向きは「超人気俳優」だが、実は亡くなった父親の真意という「永遠に見つからない答え」を探し求めてもがき続ける、それが二代目・桃山剣之介の姿であった。

 

詳しい内容は省略するが、結果として二代目は初代の内にあた「俺の下で学んでいるだけでは俺を超えることは永遠にできない。本当に俺を超えたいのなら、単なる“二代目・桃山剣之介”ではなく、“自分だけの桃山剣之介”を作ってみせろ。」という、“息子の未来を思い、信じているからこそ敢えて配役から外した”のだという真意を悟ることになる。

そのシーンに三代目ヒロインのひなたが深く関わることになるのだが、その時に桃山剣之介がひなたに掛ける言葉が私の心に深く突き刺さった。それは

「人は志さえあれば、何にでもなりたいものになれるのですよ」

という言葉だ。

人は何にでもなれる。だが、貴方は貴方にしかなれない。

私はこの言葉を聞いた時、”批評の神”と言われた小林秀雄という批評家のある言葉を思い出した。それは次のような言葉である。

人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれてくる。彼は科学者にもなれたろう。軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である (小林秀雄「初期文芸論集」P14)

ここで述べられる科学者、軍人、小説家というのは、単なる職業というよりも人が選ぶことのできる”生き甲斐”あるいは”生きる意味”と解釈するべきものだろう。人は本人が心から望むのであれば、そのようなさまざまな”生きる意味”を自分の人生に見出すことができる (これは「職業として成功する」といったような意味ではないことに注意)。
しかし、人がどのような「生きる意味」を選ぼうとも、それを選ぶためにはそもそもそ彼が彼として存在していなければならない。それはまさに「彼は彼以外のものにはなれなかった」という宿命のことである。
これは一見、桃山剣之介のいった「志があれば何にでもなれる」とは逆の意味のように思われる。しかし、それは「何にでもなれる」という言葉を、職業や肩書などの人から認識される際の区別の様式として捉えることから生じる誤解である。

ストーリーを追っていくと分かるのだが、実はヒロインのひなたが子供の頃、桃山剣之介に「私は侍になりたいんです」と告げ、それに桃山剣之介が「志があればきっとなれますよ」と応えるシーンがあった。
この場合、ひなた自身はいわば職業のような意味合いで「侍になる」と言ったのだが当然昭和の時代になって侍になどなれるはずがない。ではなぜ桃山剣之介は「志があればきっとなれる」と言ったのだろうか?
それは「侍」という職業ではなく「志があれば、侍のような生き方はできる」と人生観の言葉として「侍」を語ったのだ。
人は自分以外の何者かになることはできない。そうであれば、自分があるべき姿とは何かを問い続けることで、自分が存在する意義をきっと見出すことができる。小林秀雄も桃山剣之介も発する言葉が裏返しになっているだけで、実はその伝えようとしていることは同じことなのである。

現代ではよく「何歳になっても遅くない。なりたいものになれるんだ。」と言われる。
二代目・桃山剣之介もまた、この世に生を受けた瞬間には、確かに時代劇俳優以外の何者かになる可能性を持っていたはずである。だが、初代・桃山剣之介の下に生まれ、その置かれた環境の中で育つ内に彼は「二代目・桃山剣之介」以外にはなれないことに気づく。
それは決して“職業選択の自由がない”というような薄っぺらい近代的イデオロギーの話ではない。
父親に憧れ、自らも鍛錬を行っていく中で、そうなることが“自然”であることに気づく。そしてその自然と自らの意思を調和させることで、彼は二代目・桃山剣之介という自らの“宿命”を主体的に受け入れる。ここで初めて彼の生きる意義が成立するのである。桃山剣之介の「志があれば何にでもなれる」とはそのような意味で捉えるべきものであろう。

人は裸で生まれてくるのではない。
この「カムカムエブリバディ」に登場する人物たちのように、誰もが生まれた時から人は何かしらの宿命を背負っている。そして、どれだけ強く望もうとも「彼は彼以外にはなれない」という宿命を受け入れ、自らの意思でその人生を歩むのだ。

宿命を受け入れたとき人生は輝く

だが、それは決して絶望するべきことではない。

その宿命を受け入れ、むしろ「自分がその道を選んだのだ」と自覚的に生きる時、その人の人生は燦然と輝き始める。このドラマの中で度々取り上げられる、ルイ・アームストロング作曲のジャズのスタンダード・ナンバー”On the Sunny Side of the Street. (ひなたの道で)”で生きる人生を歩むことができるのだ。

このドラマで描かれるテーマは、まさにそのような人生讃歌である。

 

放映終了まであと1ヶ月程度。本編はすでに数十年に及ぶ登場人物たちの伏線回収の段階に突入している。今から見始めてどこまで楽しめるのか分からないが、それでも宿命に立ち向かう人間の美しさの片鱗を味わうことはできるのではないだろうか。

 

自分の力だけでは何ともならない様々な状況に追い込まれている人が数多くいる現代にこそ、一人でも多くの人に観て欲しい作品である。

 

という訳で、今回ご紹介したのはこちら。

NHKの連続ドラマ「カムカムエブリバディ」でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

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