覇権戦争からは誰も逃れられない。荒れ狂う世界を知る上で必読の書、中野剛志「変異する資本主義」。
経済産業省の現役官僚であり、評論家でもある中野剛志。
この人の放つマジックはいつも私を困らせる。
そのマジックとは、どんな本でも「タイトル」「目次」「まえがき」「あとがき」をチェックしてから買う私だが、”中野剛志”という名前が書いてあれば、自分でも気づかない内に購入させてしまうのである(笑)。
おかしい。
なぜこのような奇怪な現象が起きるのだろうか・・・。
自問自答になるが答えは分かりきっている。
ズバリ、中野氏の著作には100%ハズレがないからである。
人間の目とは対象が大きすぎるとその全貌がつかめないものだ。それどころか眼の前にある存在にすら気づけない。ところが、中野剛志氏の著作はこのような”存在すら気づかない”、もしくは”目の前にあるのに全貌すらつかめない”。そんな壮大なテーマを国内外の最先端の知見を紹介しながら、さまざまな角度から分析を行い、それぞれが持つ奥深さと現実、そしてそれが未来に対してを持つ意味を丁寧に解きほぐしてくれるのである。
今回紹介する著作「変異する資本主義」もまたそのような作品である。
そもそも”資本主義”とは何か?
45万部を超えるベストセラーとなった斉藤幸平の「人新世の資本論」を筆頭に、岸田総理大臣が掲げる「新しい資本主義」など、昨今いろいろな場面で「資本主義」という言葉を目にするようになった。
※人新世の資本論については以前このブログでも取り上げました。
だが、そもそも「資本主義とは何か?」について明確に理解している人は少ない。これは経済学者においても同様で、語る内容や立場、世界観によって微妙に異なってしまうからだ。
通常「資本主義」と言えば、日本が高度経済成長期から現在に至るまで経験したような、ある特定の経済の形態のことだと考える人が少なくない。卑近な表現で言えば「お金儲け主義」「自由競争」、これが資本主義だと。だから、日本経済が長い間衰退し続けているのも、そのような”正しい”資本主義の形が崩れているから・・・つまり「自由な競争が行われてない」あるいは「お金儲けがうまくできないような規制がある」ということが原因であると考えられている。岸田首相が掲げる「新しい資本主義」もまた、そのような何か新しい「資本主義の形」を生み出そうという考えが前提として存在している。
だが、本書にいて著者は次のように言っている。
「資本主義とは経済変化の『過程』であり、時間とともに『変異』していくものである。そして、今、それは劇的な『変異』を遂げつつある」
と。
「新しい資本主義」は新しくない?
この著者の主張はジョセフ・アロイス・シュンペーターという経済学者の見解を元にしている。
シュンペーターは19世紀を代表するオーストリアの経済学者で、今では誰も知っている”イノベーション”という概念を提唱したことで有名である。彼は資本主義の本質を企業などの経済主体が利潤獲得のために、イノベーション (新結合) によって古い物を壊し新しい物を創造していく過程 (創造的破壊) にこそあるとし、資本主義は本来的に発展的・動態的性格を持つと説いた。彼のこの「新結合 (イノベーション)」と「創造的破壊」という言葉は、現代でも資本主義を語る上では欠かせない概念となっている (これらの言葉は本来シュンペーターが伝えたかった内容からひとり歩きしている向きがあるが、ここではそこまで踏み込まない)。
それほど資本主義という概念に影響を与えたシュンペーターだが、その一方で、資本主義と対義語として用いられれる「社会主義」に関しては、「生産過程の運営を何らかの公的機関に委ねる制度」という程度の緩やかな定義しか行っていない。いわゆる社会的平等だとか、民主主義的かどうかといったイデオロギー的な意味合いを排除し、純粋に「国家によって生産が運営される経済システム」という程度の考えにとどまっている。誤解を恐れずに言えば、資本主義の理念を語る上で、その対極に位置する物として社会主義を置いたものだと言えよう。
本書において著者は、そのシュンペーターの定義を元にしながら、現実の社会経済制度はこれら「資本主義」と「社会主義」の間をゆらゆらと動くバリエーションの違いであると捉えている。つまり、現実の世界の経済は、空にかかる虹の色が7色のグラデーションを描くように、資本主義と社会主義の間でゆらゆらと蠢いているものだと考えているのである。
そのように考えれば、最近取り沙汰される”新しい資本主義”とやらも、その言葉とは裏腹に特に革新的だとか、抜本的だとかそういったセンセーショナルな意味をはらんでいないことになる。そもそも資本主義とはそのようにゆらゆらと蠢くのだから、その”ゆらゆら具合”が多少大きいかどうか、その程度の話でしかないということだ。
「変異」が意味すること
注目したいのは、ゆらゆらと動く資本主義の姿を著者が「変異する」という言葉で表現したことである。
コロナ禍以降この「変異」言葉は頻繁に耳にするようになったが、よく似た言葉で「変化」という言葉がある。これらの違いは何だろうか。なぜ著者はこの本のタイトルを「変化する資本主義」ではなく「変異する資本主義」としたのだろうか?
これらの言葉の字義を考えれば
・「変化」とは、性質や状態が違う物に変わること
・「変異」とは、一つの起源の物に別の性質や形の違いが現れること
である。
より噛み砕いて言えば、「変化」とは一つの物が違う性質に変わっていくものである一方、「変異」とは起源は同じでありながら全く異なる性質に切り替わることである。つまり「変化」には(断続的であったとしても)その変わり方に流れがあるのに対し、「変異」は”突然変異”という言葉で使われるように、全く特質を持ったものに置き換わることである。したがって、「変異」の変わりようには別種の物に飛び移るような明確な断絶があると言えるだろう。
資本主義は”変異せざるを得ない”時
そのように考えると、本書のタイトルが意味するところは、資本主義とは従来持っていた性質や形態と断絶するようにして、突然その性質が変異するという資本主義の特性を言い表したものなのではないかと思われる。
では、なぜ資本主義にはそのような変異が起こるのか?
その答えもまた本書のサブタイトルにおいて表されている。
「The Capitalism.
That is rapidly mutating in the hegemonic war.」
日本語で言えば「資本主義。それは覇権戦争によって急激に変異している。」といったところだろう。
覇権戦争とは日本のみならず海外諸国を含んだ地球規模の”覇権”を巡る戦いのことであり、現下の状況を鑑みれば米中対立を中心として欧州、ロシアをも巻き込んだ国家間の争いのことである。この覇権戦争の渦中の中で資本主義は「rapidly mutating (急激に変異)」しているのであり、それは「新しい資本主義の構築を目指す」などという呑気なことを言っている状況ではない。まさに、全ての国を丸ごと巻き込んで吹きすさぶ猛烈な嵐の中で資本主義は”変異せざるを得ない”時代に世界は変わってしまっているのだという徹底したリアリズムに基づく警告。
それこそが本書の意義である。
全ては知ることから始まる
世の中には、「ビジネスがうまく行っていさえすれば、どの国も話し合いで妥協点を見出すことができるはずだ」と信じている人々が多い。それは日本人だけはなく、現代人だけでもない、かのイマニュエル・カントさえも「永遠平和のために」においてそのような社会を夢想した。だが、現実の社会はそのような姿にはなりえないことを、今の我々の多くが目の当たりにしているのではないだろうか。そして、資本主義というシステムもまた、その現実の中で生き残るために自ら変異を起こしている。
著者は本書において、その資本主義の変異を理解するために、経済学に留まらず、政治学、社会学、さらに国際関係論など様々な社会科学的知見を活用し、現在世界で起こっている覇権戦争の様態を多角的に議論している。
その議論の果てに著者はどのような結論を下すのか。
それは是非本書を手にとって目にして頂きたいのだが、一つだけ著者の意図を理解する上で共有しておきたいことがある。
それは著者は「こういう問題があるから、今こそ日本はこのように行動すべきだ」というような安易な処方箋を提示することはしないということだ。本書を読めば現在の日本を取り巻く環境がいかに複雑であり、多義的な問題をはらんでいるのかが嫌というほど骨身に染みるだろう。そのような状況を”一発で打開するような奇跡の薬”は存在しない。これもまた歴然たる事実である。
重要なのは現在の姿を知り、それを理解すること。その上で、今我々にできることは何かを考え、議論することである。古い格言に「知は力なり」という言葉があり、本書もまたこれをモットーとして掲げている。まず何よりも重要なのは「知ること」である。そして、知れば知るほど「知が持つ力の強さ」をも知ることになる。
米中が覇権を争う現在の世界情勢。その嵐の中で日本が歩むべき道を考える上で必読の書だと言えるだろう。
という訳で今回ご紹介したのはこちら。
中野剛志著「変異する資本主義」でした。
今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございました。