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アインシュタインはなぜバイオリンを弾いたのか?脳と音楽の不思議な関係

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世界中の誰もが知る物理学の天才アルバート・アインシュタイン

だが、彼がヴァイオリンの名手だったことを知る人は意外と少ない。アインシュタインはバッハやモーツァルトなどのいわゆる”クラシック音楽”を非常に好み、ヴァイオリンの演奏もかなりの技術だったという。また彼の妻 (工科大学でアインシュタインと同級生だった) もピアノが堪能で二人で演奏を行うこともあった上、その息子もまた幼少期よりピアノに親しんだという (ちなみにその息子もハーバード大学で工学部の教授を務めた)。

一見するとアインシュタインの物理学的な才能と音楽には何の関係もないように思える。「いかな天才でも趣味の一つくらい持っていても不思議じゃないだろう」。そう一笑にふす向きもあるだろう。

だが、むしろこの音楽に親しんだということこそが、アインシュタインのような天才的な頭脳を作る可能性があるのではないかとする、音楽と脳の関係性について書かれた本がある。

それが今回紹介するこちら

大黒達也 著「音楽する脳」

だ。

 

 

 

音楽を数値化したピュタゴラス

音楽が子供への情操教育、あるいは成人してからの趣味として重用されるのは周知の事実だが、基本的にはその文化的な側面からの評価しかなされないことが多い。
だが、実は音楽とは無縁と思える自然科学分野の歴史を見ると、自ら音楽演奏したり、音楽に造詣が深い人物が数多くいる。特に有名なところでは、高校の数学でも教えられる「三平方の定理」を発見した古代ギリシャ哲学者のピュタゴラスだ。

古代における哲学は現代のような「思想を語る学問」ではなく、科学や数学、音楽などの多岐にわたる”総合学問”だった。そしてそれは宇宙がどのように成り立っているのかを探るためのものであった。

そのような時代にピュタゴラスは当時”リラ”と呼ばれた竪琴において、その弦の長さと音の美しさに法則性があることを見出し、その原理を数学的に証明した (彼が考案した音楽理論は現代の理論にも引き継がれている)。音楽をすることが科学とは未分化であった時代において、その音楽の調和を数学的に明らかにしたことで、彼は「音の調和が数学的に説明できるのであれば、この宇宙の調和をも数学で説明できるはずだ」と信じ、その思想に共感した多くの人達が彼の下に集まったのであった。

いわばピュタゴラスは、音楽という目には見えないが人の心を捉えて離さない”美しいハーモニー”の秘密を数値によって解析することに成功した初めての人物だったのである。

その意味で本書もまた、ピュタゴラスから連綿と引き継がれる科学的アプローチによって音楽を解析するという挑戦に連座するものである。そして、著者が本書で取り扱ったアプローチ、それは本書のタイトルにも表れている「最先端の脳科学」である。

音楽の2つの視点:「脳科学」と「文化」

本書は最先端の脳神経科学の知見に基づき、音楽と脳の関係について解説を行う。たとえば

・音楽を聴くと脳がどのような影響を受けるのか

・音楽を演奏する時、演奏者の脳はどのように活動しているのか

といった内容である。

この記事では、まず音楽を「聴く」「演奏する」という観点での脳と音楽の影響について、本書の仮説を紹介したい。これは音楽の影響を「科学的な側面」から語るものであり、音楽を実際に演奏する私自身にとっても「そう説明されれば確かにそうだな」と合点がいくところも多い。

とは言え、「音楽がどのように脳内で作られ、どのような影響を持つのかを、脳科学で説明できる」と言われても、実際に音楽に携わる私としてはどうも釈然としない。

そこで本書の仮説が脳科学の面から一理あることを認めつつも、音楽に携わる人間の経験から脳科学の理論だけでは説明できない音楽の文化的な側面を語ってみたい。

秘密は脳の「統計学習機能」

まず、一言に脳科学といってもさまざまな分野がある。たとえば人工知能的な分野や、生理学的な分野などだ。本書での著者の視点は脳の学習ネットワークとしてのものであり、人工知能研究的な”いかに人間の知能は発展するのか”という研究の成果が基盤になっている。

中でも著者が注目しているのは「統計学習」という脳の機能である。この「統計学習」について著者は次のように説明している。

人間の脳には『統計学習』という、情報の統計値を無意識に計算して記憶するメカニズムがあり、特に、情報の統計的な「複雑さ (不確実性)」を計測するメカニズムがあると言われています。(P51)

昨今流行りのAI(人工知能)関連での脳科学の研究では、脳の存在意義を「未来を予測するため」だと考えられており、この脳の機能自体は以前から知られているものである。

著者の統計学習は人間が意識していない無意識の領域に置いて、不確実性の高い要素を計測するメカニズムが脳に組み込まれており、それが人間が音楽を創造したり、理解するために重要な意味を持っているというのである。

 

不確実性とは将来の予測が難しい性質のこと。たとえばサイコロの目を予測するのも、サイコロの面が多くなればなるほど予測が難しくなる・・・つまり不確実性が高まるということだ。

よくよく考えてみれば、私たちが生きる現実社会は不確実性で溢れている。一寸先は闇と言うが、その言葉通り私たちは数分先の未来を予測することさえ難しい。そのような環境変化に対していちいち意識的に思考していれば、脳の予測が間に合わない。事態の切迫度によってはその逡巡の間に死んでしまうかもしれない。そのため「私たちの身のまわりで起こるさまざまな現象・事柄の『確率』を自動的に計算し、整理する」(P83)機能が備わっている。それがこの統計学習である。

著者によれば、音楽の発達はこの統計学習による脳の発達とが深く関係しているという。

「脳」と「音楽を聴く」ことの関係

統計学習は近い将来に起こる事象の確率を計算する機能であるが、その精度を高めるためにはより多くの情報、より新しい情報が必要となる。つまり「脳は新しいもの」を欲するようにできているのである。その意味で音楽は脳の欲求を満たすのに適した素材だと言えよう。なぜなら人は音楽にも「新しさ」求める傾向が強いからだ。

もちろん、いわゆる”懐メロ”と呼ばれる曲のように、次の展開が予測でき、その通りの展開が来るからこそ興奮が増す (俗に言う”テンションが上がる”状態) こともある。だが、特定の音楽にしか接していると、不意に訪れる”飽き”を感じたことは誰しもあるだろう。その場合誰もが新しい音楽との出会いを求めるのだが、とは言えこれまで全く接したことのないような極端なジャンルへ転換も難しい。そこでほとんど人が経験するのは、「同じアーティストの別の曲」あるいは「同じジャンルや系統のアーティストの曲」を聴いてみるという方法だ。

この「全く同じではないが、少し違う」という”半歩ずらし”こそが、実は脳の統計学習機能にとって非常に効果的なのである。

今までの経験から全く類推できないような事象は、脳にとって単なるノイズでしかないか、あるいは興味の範疇にすら入らない。だが、ある程度親しみがあるが今までとは少し違う展開が見られる場合、すなわち完全に予測することができず”少し不確実性が高まった刺激”である場合、それは統計学習機能が発達する絶好の栄養素となるのだ。

このような統計学習という脳が持つ機能に対応する形で音楽は発展してきたし、脳もまた音楽の発展に同調する形でより深い思考ができるようになったと言えよう。

これが”音楽を聴く”という観点で見た脳との関係である。

脳と”楽器を演奏すること”の関係

では、冒頭で紹介したアインシュタインのように「音楽を演奏すること」と「脳」との関係はどうなのだろうか。この点においても、著者はやはり脳の統計学習という機能が重要な役割を果たしているという。

楽器を全く演奏したことのない人にとって、楽器を弾ける人が指や手足をバラバラに、しかも物凄いスピードで動かすことに驚嘆し、「自分には絶対にできない。演奏家には特別な才能があるに違いない。」と思うだろう。

だが、実はそんなことは全くない。

実際、私は高校生の時にドラムを始めるまでほとんど音楽に興味がなく、音楽の授業も大嫌いだった人間である。当時ドラムの教えを乞うていた先生にさえ「君には全くセンスがないから、止めた方が良い」と宣告された苦い思い出があるほどだ。そんな私ですら4〜5年みっちり鍛錬を積んだ成果で、プロのミュージシャンと共演することができる程度のレベルに達することができた。

確かに成長する速度や(究極的に突き詰めたレベルでの)センスの違いはあるだろう。

だが、私自身がその例であるように、誰でも訓練することによって楽器をある程度演奏することは可能だ。そのように”脳が成長するから”である。

 

例えば、脳の記憶処理の一つに「作業記憶 (ワーキングメモリー)」というものがある。

これは様々な情報を同時に並べ替えたり、組み合わせたりする記憶のことで、黒板に色々な情報を書き並べて作業しているようなもので「心の黒板」とも言われる (本書P154)。最近の研究では音楽を演奏する人はこのワーキングメモリーがより発達していることが分かっている。つまり、黒板の面積がより広くなっているようなもので、同時に複数の物事を考えたり処理したりする能力が、音楽を演奏しない人よりも優れている傾向があるのだ。

また、脳の中でも人間の理性を司る部位と言われる「前頭前野 (ぜんとうぜんや)」には、自分の意思で何かを計画し、それを実行に移し、反省することで今後の計画や行動に活かす”実行機能”という力があると言われている (本書P156)。

音楽は多くの場合、ある程度制限を課せられた状況 (テンポ、曲のイメージ、他の楽器とのハーモニーに合わせた演奏を求められるなど) の中で、自らの判断し、実行することが必要となる。この環境制約に応じた目まぐるしい思考を繰り返すことにより、前頭前野においても音楽を演奏する人の方がより有意な発達が見られるとのことである。

 

このように音楽は”聴く”、”演奏する”、どちらの観点から見ても脳の発達を促す効果を持つことが最近の研究で明らかになっている。著者はこのような音楽と脳の関係性を説明した上で、教育あるいは認知症脳卒中などの脳疾患へも効果がある可能性を示し、音楽をより広い分野で活用することを本書で提言している。

音楽と言えば昔から趣味や娯楽といった、いわゆる”エンターテインメント”の側面のみが強調されることが多い。だが、著者のような脳科学分野での研究によって、音楽の可能性が広がっていく様は、音楽に携わる人間の一人として非常に嬉しく、心が踊らされる。

脳科学」というと何やら難解そうなイメージだが、著者は素人にもわかりやすいように非常に丁寧に説明しており、門外漢にも親しみやすい内容となっている。是非多くの人に手にとって欲しい一冊である。

 

音楽は「脳」から創られるのか?

ここまで本書で紹介されている「脳と音楽の関係」について紹介してきた。

脳と音楽がお互いに影響を与えながら発展してきたという著者の仮説は非常に興味深い。最新の脳科学の研究結果を踏まえれば、実際そのような発展の系統は存在するのであろう。

だが、私は自分が音楽に携わる者として、やはり自分が感じるある違和感を吐露せざるを得ない。率直に言えば「音楽は個人の”脳”という器官が創り出したものではない」ということだ。

 

著者の仮説に従えば、私たちは「脳という器官が身体に指示を出すことによって創り出している」ということになる。これはすなわち音楽が“人の頭の中”で創り出されるているというのと同義である。だが、これが現実を正確に表現したものでないことは明らかだ (「一理ある」とは言えるが)。それは実際の音楽制作の現場を見れば一目瞭然である。

一つの曲を作り上げる時、演奏家たちは“言葉”によって密接なコミュニケーションを取りながら、曲を少しずつ磨き上げている。それは時には罵倒し合うような激しい感情の衝突さえ生むものであり、「作曲家から演奏者へ」というような一方向的なものではない。音楽とは、その場にそこに集う人たちのコミュニケーションによって、少しずつ形作られていくのが実際のである。言うなれば音楽とは「創り上げられるもの」というよりも「生まれてくるもの」なのだ。

このことは音楽の現場を知っている者にとっては当たり前の事実であり、自らも音楽を演奏する著者であれば知らないはずはない。ではなぜそのような現場の実態をスルーして、「脳という器官が音楽を創り出す」という説を著者は提示するのだろうか。

それは恐らくその矛盾に整合性を持たせているのが統計学習という”無意識”の脳の機能であろう。

つまりこういうことだ。


「確かに音楽は音楽家のコミュニケーションの中で生まれる。だが、そのコミュニケーションとは ”言葉”を使った意思疎通であり、”言葉”もそもそも人間が創り出した道具である。そして、この道具自体もまた統計学習という人間の無意識の機能によって作られ、磨き上げられてきたものである。
したがって、”言葉”という(無意識の産物である)道具を使って意思疎通を図りながら音楽が生まれるのならば、結果として音楽も無意識によって創り上げていると言っても問題ないではないか」と。

 

著者がこのように音楽や言葉を道具だとみなしていることは、本書の中で次のように述べていることから間違いない。

「(人間は生まれた環境によってさまざまな言語を操るという文脈のなかで) どんなに違う言葉であっても、コミュニケーションのツールとして、自分の気持ちを人に伝え理解してもらうための手段として用いるという目的はみな共通しています。」
「言語はそもそも人間の知恵によって生まれたもの」
(上記とも本書P237)

その上、著者は「心はもっと複雑で、本来完全に言葉で表現することができないものです。その反面、音楽は・・・真の心の中を直接的に表現することができる」と述べている。

だが、本当にそうだろうか?

音楽は心のうちを表現できない?

たとえば、19世紀に活躍した音楽評論家にエデュアルト・ハンスリックという人物がいるが、彼はその著書「音楽美論」の中で音楽は感情の上昇や下降といった動きを瞬間的に模倣することはできるとしながら、それでも音楽自体は「いかなる感情も、いかなる情景も、絶対に表現することはできない」と述べている。
言い換えればこういうことだ。
確かに音楽は音量やスピード、旋律の運びによって”感情の動き”や”情景の美しさ”を「模倣すること」は可能である。だが、それは模倣によって自分以外の他者に何かしらの感情を呼び起こすことができるというだけで、”感情や情景それ自体”を表現しているわけではないのだ。

音楽は共有された世界観から生まれる

音を通じて他者に何かしらの感情を喚起することが音楽であるならば、演奏する者とそれを聴く者の間に、文化や社会的価値観、あるいは時代性といったある一定の世界観が共有されていなければならない (極端に言えば、4000年前の人類に現代の音楽を聞かせても、何の感動も引き起こさないだろう。それは4000年前と現代では世界観が異なるからである)。
音楽とはそのような世界観や時代性といったものが演奏者と聴衆の間に共有されていることを前提として、音を使って行われる何かしらの芸術の形態である。だとすれば、やはりそれは「演奏者の心の内を表現した」といったものではなく、演奏者と聴衆が共有する世界観、あるいは彼らの相互的なやり取りの中で”生まれ出てきたもの”でしかあり得ないだろう。


もちろんこの場合の演奏者と聴衆の相互的なやり取りとは、ライブ会場での演奏のような物理的で直接的なものだけを言うのではない。CDにせよ、ダウンロード用コンテンツにせよ演奏者は自分が想像する”私の演奏を聴いてくれる人”を思い浮かべながら、彼らに届けたいという思いを乗せて演奏するのである。一方の聴衆もまた、そのような演奏者の姿に想像を馳せながら、彼の届ける音楽を耳にするのである。
音楽とは決して「演奏者が自分の心のうちを表現するための道具」ではないのである。

まとめ

著者が本書で紹介する統計学習という脳の無意識の機能によって、音楽が発展してきたという仮説は非常に面白い。実際ある側面においては、そういった分析は正しいのだろう。
また、そういった音楽がもたらす脳への影響を活用することで、脳の機能に障害がある人の力になることができるのであれば、それは社会的にも非常に有意義なものであることは間違いない。
だが、その一方でそれは音楽の機能をすべて解析できるということを意味するわけではないことにも留意すべきである。音楽が他者との関わり合いの中で生まれることを鑑みれば、決して”科学”にすべてを還元することができない神秘性を持つことも心に留めておくことも重要である。
そのような敬虔な態度こそが、私たちが音楽という芸術を心から楽しむためにとても大切なことではないだろうかと思う。

 

 

という訳で今回ご紹介した本はこちら

大黒達也 著「音楽する脳」でした。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

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