世界を救う読書

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よい人生を送るために必要なたった一つの”輪”。ロルフ・ドベリ著「Think Clearly」。

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「よい人生を送るにはどうすれば良いのか?」

「どうすればより幸せになれるのか?」

大昔からあらゆる人間が抱いてきたであろうこの疑問。

これに真っ向から、そしてわかりやすく答える世界的ベストセラーを今回はご紹介。

それがこのロルフ・ドベリ著「Think Clearly」だ。

ビジネス書のベストセラーというだけで”胡散臭さ”を感じる人もいるかもしれないが、この本は違う。

文章はシンプル、論旨は明確。非常に読みやすい。

だが、先を見通しづらい複雑なこの世界を生き抜くために重要な、そしてクリアーな方針を指し示してくれる書籍だ。

 

著者紹介

著者であるロルフ・ドベリは作家であり、実業家。1966年、スイス生まれ。

スイス航空の子会社数社でCEO、CFOを歴任。

科学、芸術、経済における指導的立場にある人々のためのコミュニティー「WORLD.MINDS (ワールド・マインズ)」を創設し、理事を務める。

35歳から執筆活動をはじめ、世界の多数の国での雑誌や新聞に寄稿。著書は40以上の言語に翻訳出版され、累計発行部数は300万部を超えるベストセラー作家。

著書に

「Think Smart 間違った思い込みを避けて、賢く生き抜くための思考法」

「New Diet 情報があふれる世界でよりよく生きる方法」

などがある。

作家であり、実業家でもあるという風変わりな肩書を持つ著者だが、彼の著作の面白い点は人生という困難な道をよりよく生きるための処方箋を、とても簡潔な言葉でわかりやすく表現してくれるところだ。

しかも、そこには恩着せがましい押し付けや高圧的な態度は微塵もない。

微笑みながら対話してくれているかのような”優しさ”を感じる独特の文体が魅力だ。

※ロルフ・ドベリの「New Diet ー情報があふれる世界でよりよく生きる方法ー」については、別記事で取り上げました。これもかなり面白いのでよろしければ、こちらもどうぞ!

この本の最大のコンセプトとは

この本の目次を見てまず思うのは、その章立ての多さだ。なんと全部で52章にも及ぶ。

しかし、安心して欲しい。この数は内容の複雑さを示すものではない。

52章のそれぞれが人生をよりよくするための思考方法をひとつずつ紹介する形になっており、ひとつひとつの内容はとてもシンプル。一章あたり7〜8ページであり、寝る前にでもサラッと読めてしまうものだ。

とは言え、この52の方法をひとつずつ紹介していたら、軽く1万文字は超えてしまうだろう。

そこでここでは、この52の方法すべてに宿るひとつのコンセプトを紹介したい。

そのコンセプトとは

「よい人生を送るためには”判断の基準”を明確にせよ」

ということだ。

人が不安やストレスを感じる状況とは?

人が不安やストレスを感じるのは

「物事をどう判断したら良いか分からないとき」

あるいは

「自分以外の他者に判断が握られているとき」

だ。

逆に言えば、不安やストレスを感じない生き方をするためには

・物事を判断する時の基準を自分の中で明確にしておくこと

・判断の主導権を自分が握る環境を作ること

が大切になるということだ。

 

したがって、よりよい人生を送るためには自分の判断基準を明確にしておくことが重要となる (これには「私にはこれは判断できない。だから別の誰かに判断させる」という判断も含まれる)。

能力の輪を明確にする

では、そのような判断基準をどうすれば明確にできるのだろうか。

そのために重要なキーワードは「能力の輪」だ。

能力の輪とは「”この内側はできる。この外側はできない。”という自分の能力の限界ライン」のことだ。

 

これはウォーレン・バフェットという世界的に有名な投資家が使った言葉で、彼は人生のモットーとして

「自分の”能力の輪”を知り、その中にとどまること。輪の大きさはさほど大事じゃない。大事なのは、輪の境界がどこにあるかをしっかり見極めることだ。」

と述べている。

 

著者は次のように言う。

人間は、自分の「能力の輪」の内側にあるものはとてもよく理解できる。だが「輪の外側」にあるものは理解できない。あるいは理解できたとしてもほんの一部だ。

(中略)

「能力の輪」の境界がわかっていれば、仕事上で何かを承諾したり断ったりしなければならないときでも、そのつど判断しなくてもすむ。

(中略)

自分の「能力の輪」をけっして超えないようにすることが重要だと言える。

(本書P137)

「能力の輪」から出てはならない

これは今年の大河ドラマ”晴天をつけ”の主人公である渋沢栄一が言う「蟹穴主義」に通ずるものがある。

わたしたちがよく知る蟹は、海や川に穴を掘ってその中に棲みつくが、その穴は自分の甲羅の大きさと同じ大きさなのだそうだ。決してそれ以上の大きな穴は掘らない。

渋沢栄一は「論語と算盤」の中で、自分はこの蟹穴主義に基づいて生きてきたという。つまり、自分の能力の輪以上の大きさの物事には関わらないようにしてきたということだ。

 

人はついつい自分の「能力の輪」を超えた物事に関わりたくなるときがある。自分の能力の輪を広げたいという誘惑だ。

だが、この「能力の輪」をむやみに広げようとする誘惑が、のちに自分に大きな不安やストレスを引き起こす。どれほど人の能力が高かろうとも、それはあくまで特定の分野の話。

人間の能力は、ひとつの領域から次の領域へと「転用」がきくわけではない。このことを肝に命じておく必要がある。

 

ただ注意が必要なのは、若い時にはその領域を知ることは難しいということだ。

「これが自分の能力の輪だ」と思って行動しても、実際にはまったくうまくいかない時もあれば、逆に自分の予想をしないところで「能力の輪」を発見することもあるかもしれない。だからこそ若い時には、さまざまな分野の勉強をし、チャレンジをするべきだろう。

しかし、ある程度の年齢になれば自分の能力の輪を認識することができるようになる。「自分がやりたいこと」と「自分にできること」の違いが明確になる時期が訪れるはずである。

その時にようやく「能力の輪」をちゃんと守ることが肝要だということがわかるだろう。

まとめ

今回の投稿では、本書の中でも最重要と思われる「能力の輪」という点にしぼってレビューをお届けした。この「能力の輪」という概念を頭に入れて読み進めるだけでも、かなりわかりやすく読み解くことができるかと思う。

 

もちろん、本書ではこれ以外にも非常に面白く、かつ具体的な”よい人生を送るための秘訣”が数多く紹介されている。

たとえば

・分からないことは「分からない」と答えてよい。自分が考えるべきテーマを見定めよ。意見がないのは知能の低さの現れではなく、知性の現れである。

・信念をつらぬくこと。妥協できない自分の主義を選び出すことは重要だ。だが、それはときに他人を失望させたり、落胆させたりするかもしれない。その覚悟を持つべし。

・達成困難な目標を立てている人は人生に不満を感じるものだ。

・大事なのは、少しでも早くどこかにたどり着くことではない。自分がどこに向かっているかをきちんと把握しておくことだ。

などなど・・・。

シンプルながらも、非常に含蓄のある言葉が並んでいる。

 

私たちが生きる世界は不透明で、なおかつ不確実であり、まさに一寸先は闇である。

この複雑な世界を自分の直感だけに頼って生きることができる人はほとんどいない。しかし、たとえば本書のような先人の知恵を取り入れていくことで、私たちは時代の英知を自分の人生に取り入れながら生きることができる。

それは直感に任せた生き方よりも、はるかに”よりよい人生”を生きる可能性を高めることができるだろう。

 

 

というわけで今回ご紹介した本はこちら。

ロルフ・ドベリ著「Think Clearly」でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m 

 

※ロルフ・ドベリの最新作「New Diet ー情報があふれる世界でよりよく生きる方法ー」については、別記事で取り上げました。これもかなり面白いのでよろしければ、こちらもどうぞ!

人は誰でも悪魔になる。藤井聡著「”凡庸”という悪魔」。

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全体主義

この言葉にどのようなイメージを持つだろうか?

全体主義最高!」「全体主義って恰好良いよね!」・・・こんなイメージを持つ人はほぼいないだろう。

逆にほとんどの人が「なんか恐い・・・」「野蛮」そんなイメージを持っているのではないだろうか。

実際歴史を振り返ると全体主義にはそのような悲劇が伴っている。たとえばユダヤ人の民族浄化を行おうとしたナチス・ドイツ。あるいは、旧ソ連スターリンによる粛清や、中国の文化大革命を思い起こす人もいるかもしれない。

 

誰もが何かしら悪いイメージを持っている全体主義。その一方で、誰もがこうも思っているはずだ。

「昔のことでしょ? 私たちには関係ないでしょ。」

と。

しかし、本当にそうだろうか?

実は今ほど全体主義に染まる危機が高まっている時代はないと言って良い。

後述するように、全体主義とは何か特別な思想を持つものではない。全体主義とは言わば

"とにかく全体の空気に従えば間違いない"

と、全体の流れに盲目的に従う現象を指す。

したがって、現在ような先を見通しづらい時代や、複雑性の時代にこそ全体主義は力を持ちやすくなる。なぜなら、自分で考え抜き、答えを出していくことが困難なため「皆んなの動きに合わせておけば、とりあえず大丈夫だろう」という安易な選択を行いやすいからだ。

これからますます混迷を極める社会の中で、”全体主義の誘惑”に駆られないためにも、今こそ全体主義への理解が必要になる。

 

全体主義への理解を深めると言えば、20世紀の哲学者ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」は避けることのできない名著だ。ただ、この本は難解でボリューム感もかなり大きい。

そこで今回はアーレントの著書を元に、全体主義の特徴や原因、そして全体主義が今の私たちの生活に与えている影響をわかりやすく解説した、こちらの本を紹介したい。

  

藤井聡 著「凡庸という悪魔」 だ。

<凡庸>という悪魔

<凡庸>という悪魔

 

 

全体主義の恐ろしさ「エルサレムアイヒマン

全体主義ナチス・ドイツ」というようなイメージが定着しているせいで、多くの人はとんでもない悪魔のような人間が人々を騙して、あのような非道なことをやってのけたと思っているのではないだろうか。

しかし、実はそうではない。

むしろ著者や(この本の底本となっている)ハンナ・アーレントは「凡庸な人間こそが悪魔になりうるのだ」と述べている。

 

ハンナ・アーレントは「エルサレムアイヒマン」という著書で一つ例を紹介している。

かつてナチスドイツがユダヤ人の虐殺を実行した時に、強制収容所でのユダヤ人の管理を取り仕切っていたアドルフ・アイヒマンという人物がいた。

ナチスが滅びた時に辛くも逃げ延びたが、その後逮捕され国際軍事法廷で裁かれた。

それだけ聞くと恐らく「よほど凶悪な人間だったのだろう」と思うだろう。しかし、傍聴者の記録によれば、彼はどこにでもいそうな、冴えない、凡庸な人物だった。ただ、組織に入ることを好むタイプであり、出世欲はかなり強かった。

その彼が裁判の際に、つぎのようなことを述べている。

「自分は義務を行った。命令に従っただけでなく、法にも従った。」

「私はユダヤ人であれ、非ユダヤ人であれ、一人も殺していない。」

「ただユダヤ人の絶滅に協力し幇助しただけだ。」

と。

そして、法律には例外があってはならないという”順法精神”に基づいて、彼はユダヤ人虐殺を遂行したのであり、何も”間違ったこと”はしていないと主張したのだ。

 

つまりアイヒマンは「法に従う」という法治国家として当然のことをしただけであって、自分が悪を行ったとはこれっぽっちも思っていなかったのだ。

悪を悪だと思って行動しているのではない。自分は組織に命じられ、世間でもそれが正しいと信じられている。その”全体としての空気”に従って行動しただけなのだ。

ただ真面目で、組織にしたがって行動した結果、悪魔のような所業を平気で行う。なぜなら「それがみんなが (全体が) 望んだことだから」だ。

全体主義の恐ろしさとはここにある。

何か恐ろしい思想を持った悪魔のような人物が社会を悪い方向に導くのではない。全体の空気を読んで行動することに慣れてしまった人間、自分で考えることを放棄した人間が多数者になった時、その社会の構成員がすべて悪魔に変貌するのである。

 

凡庸な人こそ悪魔になる

では、なぜアイヒマンのような人間が生まれるのか。その原因について著者は次のように述べる。

「”思考停止”が”凡庸”な人々を生み出し、巨大な悪魔”全体主義”を生む。」

と。

「凡庸」と言うと「平凡」と混同する人もいるだろう。たしかに字面はよく似ているが意味合いは違う。

たとえば「平凡な暮らし」と言えば、穏やかなで平穏な暮らしが思い浮かべられる。しかし、「凡庸な暮らし」と言えば陳腐で何も良いことのない暮らしといった意味合いになる。

著者がタイトルに込めた「凡庸」とは、自ら考えることを止めた”思考停止状態”の陳腐な人間性のことだ。

 

したがって、先程の「”思考停止”が”凡庸”な人々を生み出し、巨大な悪魔”全体主義”を生む。」という言葉の意味をより詳しく言うと、

「自分で考えることを放棄した凡庸な人々が、”これが正しい”という世論にしたがって行動した結果、巨大な悪行を平気で行うようになる。」

ということだ。

だが、これだけではなぜ凡庸な人間が全体主義を生むのか?というメカニズムはわかりにくいと思う。

この場で「全体主義の全容」を語ることは紙幅の都合でできないので、興味がある人はぜひ本書を手にとって欲しい。

ただ、それを理解する上でひとつ参考になる考え方が、アーレントのいう「全体主義とは運動である」ということだ。

全体主義とは台風である

全体主義とは運動である。」

一見わかりづらい表現だが、「台風」のようなものを考えるとわかりやすい。

台風とはそれ自体が何か目的を持って動いているわけではない。周りの気圧や地形の状況という物理的な条件に合わせて動いているだけだ。そしてその中心 (台風の目) には何も存在しない。ただ、極端に気圧が落ちた空間があり、その周りに雲が集まっているだけである。

実は全体主義もこれと同じ構造なのだ。

 

全体主義に関しても、ナチスドイツにおける「ヒトラー内閣」のような中心部を確認することができる。しかし、そこには何か特別な思想があるわけではない。ただ、権力欲という強力な欲望が渦巻いている。

この欲望は中枢の外部に存在する”大衆”が持つ、経済的不安、将来への不安、格差への怒りといった膨大なエネルギーを吸収し、より大きく、より強大に成長する。

そして、大衆の持つエネルギーを吸収するためには、中心部は活発な運動を展開しなければならない。何も活動していない組織には誰も興味を示さないからだ。

だが、一旦エネルギーの吸収を始めれば、その運動を止めることは難しくなる。台風が雲を取り込んだ分だけ大きくなるように、大衆エネルギーを吸収すれば、それを維持するためにより大きな組織が必要となる。

そして大きな組織はさらに大きなエネルギーを必要とするのだ。

 

権力を欲した中枢が悪いのか。

強力な中枢を欲した大衆が悪いのか。

どちらが先かは分からない。

しかし、ただひとつ言えるのは、台風は強くなればなるほど莫大なエネルギーを必要とし、また吸収される方も台風の強さを求めてエネルギーを提供するのだから、台風の活動が止まってしまったら組織も大衆もどちらもが崩壊してしまうということ。

つまり、全体主義は一度動きだしてしまえば止めることは不可能なのだ。仮に何かの間違いが見つかったとしても、それで動きを止めることはできない。運動をやめることは自己の崩壊に直結する。

 

これこそが全体主義の恐ろしさである。

一旦動き出したら最後。誰にも止めることはできないのだ。

全体主義の台頭を防ぐために

では、このような恐ろしい全体主義運動を防ぐためにはどうすれば良いのか。

その答えは「全体主義とは運動である」というアーレントの分析にヒントがある。

運動は一旦発生すれば止めることが難しい。だから一番大事なのは「運動を発生させない」ことである。

どうすれば運動の発生自体を止められるか?

 

アーレントが重要視したのが「複数性」である。

これはアーレントの言葉だが、「自分とは異なる、さまざまな立場や考え方を持つ他者との関係性を大切にすることで、初めて人は人間らしさを持つ。それは個々人を結びつける絆でもあり、それぞれの適切な距離を保つための知恵でもある」という意味だ。

このような複数性を排除し、一つの単純化された価値観以外の思考をやめること、これこそが陳腐な人間 (藤井氏の言う”凡庸な人間”)を生む。そして、陳腐な人間こそが容易に全体主義へと収斂されていくのである。

 

逆に言えば、私たち一人ひとりが他者の視点を意識しながら、物事をしっかり考え判断することを怠らなければ、全体主義という運動を未然に防ぐことができるということだ。

まとめ

冒頭にも書いたように現在ほど全体主義の危険が高まっている時代は少ないと思う。

なぜなら世界のあらゆる所で政治的な不安定性が増し、経済格差の拡大による社会不安がかつてないほど高まっているからだ。今回のコロナ禍でそれがさらに加速してしまった感が強い。

このような時代では、「他者の視点を考慮しながら、熟慮を重ね、慎重な判断をする」ということが困難になる。

そもそも異なる意見を聞き入れるというのは非常に難しい。インターネットでさまざまな意見を「見る」ことはできるが、実際に聞き入れ、それを自分の考えにも反映させるというのは並大抵の努力ではできない。

ほとんど人が「周りの意見を聞いている」つもりでも、実際には自分と同じような意見、あるいは深く考えなくてもわかったような気になれるわかりやすい意見に飛びつきやすくなってしまう。つまり全体主義に陥る下地は十分出来上がってしまっているのが現状だ。

 

ネットやスマホの普及で「効率」「時間」「スピード」がことさらに重視されるこの時代。

多くの人の立場や視点を考慮し、辛抱強く考え抜き、少しずつ歩んでいくという時代に逆行するアプローチをどれだけの人が可能なのか。

全体主義による悲劇を繰り返さないために、私たちに課された課題はあまりにも大きい。

 

 

という訳で、今回ご紹介したのはこちら

藤井聡著「凡庸という悪魔」でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

<凡庸>という悪魔

<凡庸>という悪魔

 

 

 

 

人生を長く生きる”良い生き方”。セネカ著「生の短さについて」

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人生は短い。

しかし、人が生きた時間的な長さが必ずしも人生の価値を決めるわけではない。もし「人生の長さ=人生の価値」ならば、平均寿命が80歳を超える現代人の人生は過去のどんな優れた人間の人生よりも価値があるものとなる。

人生の価値が時間の長さで決まるものではないことは誰もが分かっていることだ。たとえ短くとも、太く、充実した人生を送ることはできる。

では、どう生きれば価値のある人生が送れるのだろうか。

誰もが抱くこの問いに答えてくれる名著こそが、今回ご紹介するこちらの本

 セネカ著「生の短さについて」

だ。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

 

 人生は短いとはよく言われることだが、セネカによれば“我々が所有する時間が短いのではなく、実はその多くを浪費しているのだ”。

人生は十分に長く、それが有効に使われるのであれば、もっとも偉大なことをなすことが十分可能だ。しかし、それを浪費してしまえば、人生の最期にあたり「今まで消え去っているとは思わなかった人生が、もはや既に過ぎ去ってしまっている」ことに否応なしに気付かされる。気づいた時にはもう遅い。

“我々は授かっている人生が短いのではない。我々がそれを短くしている”のだ。

 

現代人は多忙だというが本当にそうだろうか?

“忙しい”、“時間がない”のは確かにその通りだろう。だがそれが本当に自分が望んだ時間の使い方なのだろうか。

「誰かに言われたから仕方なく。」

「立場上断れない。」

「周りの人たちについていくために必要だから。」

そんな理由で自分の時間を他人に吸い取られている人がいかに多いことか。

セネカはそのような多忙な人は惨めであるという。

“誰彼問わず、およそ多忙の人の状態は惨めであるが、なかんずく最も惨めな者といえば、自分自身の幼児でもないことに苦労したり、他人の眠りに合わせて眠ったり、他人の歩調に合わせて歩き回ったり、何よりも一番自由であるべき愛と憎しみとを命令されて行う者たちである。彼らが自分自身の人生のいかに短いかを知ろうと思うならば、自分だけの生活がいかに小さな部分でしかないかを考えさせるが良い。”

自分が多忙だと思っている人は、「自分の意思で、自分のために使っている時間がどれだけあるのか」について思いを馳せてみよう。

家庭を持っている社会人であれば、1日1時間確保できれば幸せな方ではないだろうか。

そう考えれば、自分に残されている時間があまりにも短いことを誰もが思い至るのではないか。

 

もちろん「人生が短いことが分かっているから、できるだけ多くのことを吸収できるように、自己研鑽に励んでいる」という人も多いだろう。

寸暇を惜しまず勉強したり、セミナーに通ったり、あるいはちょっとした空き時間にYoutubeで検索している人もいる。そのような人たちは自らを“時間を有意義に使っている者であり、浪費などしていない”と信じているに違いない。

だが、セネカによれば、それすらも時間の浪費に過ぎない。

 

セネカは言う。

「ところがその間に、諸君が誰かに、もしくは何かに与えている一日は、諸君の最期の日になるかもしれないのだ。諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。では、お尋ねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画通りにことが運ぶのを一体誰が許してくれるのか。

(中略)

誓って言うが、諸君の人生は、たとえ千年以上続いたとしても、極めて短いものに縮められるであろう。」 

将来という不確定な時間のために、今まさに手元にある時間という財産を使う。それこそが浪費である。

 

たとえば昨今は子供の教育にプログラミングが必要だと言われている。

だが、はっきり言って今頃プログラミングを学んでももう遅い。

プログラミング教育が必要だった時期があるとすれば、いま20代か30代の人間だろう。今の子供が10年後、20年後の社会に出る頃には、AIがプログラミングを行う時代になっている。

たしかに超最先端のプログラミングに関わる人物はいるだろう。しかし、それは世界でもごくごく一部の超エリートだけであり、一般人にプログラミングが必要な時代はとっくに終わっているだろう。

そんな不確実な将来のために、かけがえのない幼少期の時間を無駄に費やそうとしているのがいまの日本という国だ。

 

 

では、いかにすれば人は実り豊かな人生を送ることができるのだろうか?

セネカの答えはシンプルだ。

「古典を読むこと」。

古典に触れ、古代の哲人たちと語り合うこと。

これだけだ。

セネカの意図を理解するためにはセネカが「時」をどのように考えていたのかを整理する必要がある。

 

セネカは時を次の3つに分けている。現在、過去、未来だ。

このうち現在は今まさに目の前を通り過ぎており、つかむことが決してできない。

未来は不確実であり、これもつかむことができない。

よって唯一われわれが確実につかむことができるのは過去のみだ。

この世のあらゆる時の中で過去のみが唯一確実なものなのである。

古典とはこの過去の結晶なのだ。

 

もちろん時代的に古いものがすべて「古典」というわけではない。

長い歴史の中で読みつがれ、評価され、今もなおその価値を失わないもの。

時代を超えて私たちの価値観に影響を与え続けるちからを備えたもの、それが古典だ。

時の流れとともに時代は変わりゆく。しかし、人間の本質や、人間が直面する問題は変わらない。古典とは、過去の天才たちがそれらの問題に徹底的に向き合い、戦ってきた記録なのだ。

実際、歴史に名を残すような人物は、ほぼ間違いなく古典に精通している。2021年の大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公、渋沢栄一論語に精通し「人が生きるために必要なものはすべて論語に収められている」と言っている。

 

人生に悩む人達に向けた自己啓発セミナーは昔からあるが、昨今はネットの発達により、雨後の竹の子のように「自己啓発コンテンツ」が配信されている。

高いお金を払って有料コンテンツを観ても

「今日の講師は悪かった」

「期待していた内容と違った」

「これだったら○○さんの無料動画の方がマシ」

などと言った不満が募ることが非常に多い。

セネカの言葉を借りれば、そんなあやふやな物に費やす時間は無駄である。その時間があるのなら古典を読めば良い。古典の中に答えはあるのだ。

 

ページ数が40ページと文量自体は少ない。特に速読などを会得していない人でも、集中して読めば30分程度で読めてしまう。

だが、その内容は深い。

何度読んでも、その度に新しい発見がある。これぞ古典の魅力だろう。

セネカは短い人生を実りあるものにしたいのならば、古典を読み、古代の英知と語らうことを強く推奨しているが、まさにこの本こそがそのような”古典”のひとつだと言える。

 

 という訳で今回ご紹介したのはこちら。

セネカ著「生の短さについて」でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

 

J.S.ミル著「自由論」が示す”民主主義ゆえの弱さ”

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社会が大きな混乱に陥ると、それまで当たり前と思われていた考え方や価値観が根本から問い直されることがある。

昨今「民主主義」が危機に瀕していると言われるが、これもまさにコロナ禍という社会的混乱によって引き起こされていると言えるだろう。

では、なぜコロナ禍で民主主義が危機に陥るのか?

これを考える上で、歴史上とても参考になる古典がある。

それが今回取り上げるジョン・スチュアート・ミル「自由論」だ。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:ミル
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle
 

 

 

自由論の要点

経済学者であり、哲学者でもあったJ.S.ミルの主著であるこの「自由論」は、1859年に書かれた書だ。個人の自由とは何かを考える上で、歴史上外すことができない重要な古典だと言って良い。

その中心原理は「人間は他人に危害を及ぼさない限り、自分が望むどのような行動をしようとも自由であり、他人 (や政府から) 抑圧されるべきではない」というものだ。 

注意しなければならないのは、このミルの提唱する原理は「人に迷惑をかけなければ何をやっても良いでしょ」というような、自分勝手な自由を許容するものではないということだ。

ミルの求める自由とは「人間とは自由で平等な社会で育つことができれば、より良い社会を築くために努力をすることができる生き物である」という前提に立っている。

したがって、基本的に社会に資する行動をとるべきであるのは当然として、それが独りよがりで他者に迷惑をかけるような行いでなければ、人は自由に考え、行動すべきであるという意味である。

いわば、人は環境に恵まれさえすれば正しい行いをするという”人間への絶対の信頼”が基礎にあるということだ。

時代が要請した自由論

今となっては特に画期的でもないミルの原理だが、書かれた19世紀半ばには非常に大きな意味を持っていた。

それはアメリカという民主主義国家が大国として台頭してきた時代であったからだ。

自由や民主制という理念は17世紀頃から現れはじめ、フランス革命を経てヨーロッパ中に広がっていった。しかし、当時はまだ王権制が強く、市民による民主的な政治体制というのはどこか「そうあったら良いな」「そうあるべきだ」「そういう世界を目指そう」という理想論的な理念でしかなかった。

それが変わったのが、アメリカという民主主義国家の誕生だ。理想論でしかなかった民主政による国家が生まれ、しかも当時の世界列強と肩を並べるほどの国力を持つようになった。

理想論を振りかざしていれば良かった理論家たちは「実際に民主主義という国が誕生すれば、どのような問題が発生するか。それにどのように対処していけば良いのか。」という現実的な問題にいきなり直面することになったのだ。

天才トクヴィルが見抜いた民主主義の問題点

J.S.ミルの盟友にアレクシス・トクヴィルという政治思想家がいる。

彼は25歳の時に外交官としてアメリカに5ヶ月ほど外遊し、その体験を元に主著「アメリカのデモクラシー」を著した。この書は200年近くたった今も最も優れたアメリカ政治論として絶大な評価を受けている。

この中でトクヴィルは、アメリカという国家が将来直面するであろう問題を推察している。

それがすなわち「多数者の専制」だ。

そしてこれはアメリカだけでなく、これから民主化が進むすべてのヨーロッパ諸国が直面するであろう問題でもあった。

 

「多数派の専制」を簡単にいえば、民主主義においては多数派の意見が強くなるために、少数派の意見が封じられ、世論が多数派の一方的な意見によって牛耳られてしまうことを言う。

それまでは専制と言えば、王侯貴族や独裁者など一握りの権力者が多数者を弾圧することを指していた。民主主義国家においては主権者が市民となり、一人ひとりの市民が平等となるため、そのような「専制」は生まれないものだと考えられていた。

しかし、実際には平等な市民はその時の空気や専門家の影響を強く受けるために、一つの意見に流されやすくなる。そうするとその意見に異を唱えることは、個人という小さな力では困難になってしまう。

非常にざっくりだが、このようにして多数派の意見 (世論) がその国のすべての意見のようになり、少数派の意見が封殺される「多数派の専制」が生まれてしまうのだ。

「多数派の専制」を防ぐために必要なもの

ミルはトクヴィルの著書に非常な影響を受けており、文通仲間にもなった。当然ミルの「自由論」にも、このトクヴィルの影響は大きい。実際ミルはこの書の中でアメリカという国の誕生によって、自由についてなすべき議論が変わったと言っている。

ミルにとってはこの自由論は、トクヴィルが示した「多数派の専制」を防ぐために何をするべきかと問うた書物だと言っても過言ではない。

そして、ミルがそのために必要だと主張したのが、まさに「自由」だったのだ。

 

この「自由論」を読むと、ミルがどれほど”人間”を信じていたかが分かる。ミルの考え方の根本にあるのは「人間は適切な環境条件の下ならば必ず成長する」という人間への絶対的な信頼である。

すなわち”すべての人に自由と平等という環境を整えられれば、教養、道徳、そして高い感受性を持った豊かな人格を必ず育むことができるはず”。ミルはこのように考えていたようだ。

そして、この自由と平等という環境を整えるために、民主主義という政治制度が必要だとミルは考えていた。なぜなら、民主主義であれば特定の権力に抑圧されることはない。自由で闊達な議論を行うことができ、人は必ず進歩していくことができるからだ。

だからこそ多数派の専制はあってはならない。

民主主義とは、徹底した討論を行う制度と、少数派の意見にもちゃんと耳を傾ける人々の覚悟を持ってこそ機能する。それなくしては、民主主義はその機能を果たすことができないのだ。

「自由ゆえの弱さ」と「不自由ゆえの強さ」

さて、ミルが自由論を著してから200年近くが経つ現在、果たして民主主義によって人は自由になり、豊かな人生を享受しているだろうか?

残念ながら現実は真逆だ。

民主主義的な"自由な"競争に勝利した一部の富裕層や政治家によって、社会の富は独占され、貧困層が拡大。先進国の経済格差はかつてないほどに開いている。

その一方、非民主主義国家である中国がアメリカに対抗するほどの力を備え始め、国民も膨大な富を享受している。

皮肉なことに、自由によって人々の生活を豊かにするはずだった民主主義よりも、人々を抑圧する政治体制の方が世界手中に収めんとするほどの力を蓄えているのが現実だ。

一体なぜだろうか?

 

その理由こそが他でもない民主主義を成り立たせる基盤にある。

ミルが指摘したように、民主主義が正しく機能するためには次の二つの要素が必要となる。

一つは少数派の意見を吸い上げること。

もう一つが個々人が自由な意見述べることができることだ。

民主主義にはこれらが不可欠であると共に、これらが保証されているからこそ、人間は議論を重ね進歩することができる。

ところが、この自由な議論による合意形成は非常に多くの手続きや時間が必要となる。時には一度出た方針が覆り、一から議論をやり直さなければならない時すらあるだろう。

このような合意形成は、コロナ禍のような混乱の最中では大きなビハインドになりかねない。目まぐるしく変わる状況に応じた、迅速な対応が難しくなるからだ。 

逆に中国のような専制体制の方が機動的な対応が可能となる。

自由な意見も、少数派の意見も聞く必要がなく、トップダウンで対策を進められるからだ。もちろん前言撤回しても責任問われないため、大胆な対策を即座に実行に移すことができる。

つまり、民主主義はその自由さゆえに危機に脆く、専制主義はその不自由さゆえに危機に強いのだ。 

 

このコロナ禍は人知れず潜んでいたさまざまな問題を露わにした。この民主主義国家の混乱と中国の躍進という対照的な姿もそのひとつだと言えるだろう。

このまま民主主義国家が凋落し、中国の躍進が加速するのかは分からない。

しかし、この混乱に際し改めて民主主義について考えることで、この制度がさまざまな前提条件の元に何とか存立しているのだということが見えてくる。

そして、その前提条件は実はいつ崩れてもおかしくないほど脆いものだということが露呈した。

私たちが素朴に正しいと信じてきた民主主義だが、決して万能では政治制度ではない。むしろさまざまな問題点をはらんでいることを、改めて見つめ直す必要があるのではないだろうか。

ミルの自由論はそのために必要な、数多くの示唆を与えてくれる名著だと思う。

 

という訳で、今回ご紹介した本はこちらの本。

ジョン・スチュアート・ミル「自由論」でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:ミル
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle
 

天才ドラマー"村上ポンタ秀一"死す。天才が生きられる社会の条件とは?

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今週、音楽業界を揺るがす報せが飛び込んで来た。

日本の音楽シーンの立役者の一人と言っても過言ではないドラマー、村上ポンタ秀一氏が逝去された。

私は音楽業界に身を置く立場だが、基本的にこのブログでは音楽業界のことは書かないことにしている。理由は身バレするのが恐いからだ(笑)。

下手に口が滑って身バレすると仕事ができなくなる可能性がある。

だが、今回は特別だ。

なぜか?

村上ポンタ秀一の訃報に接し、その非凡な存在について考えたことで、「このような”天才”は日本では二度と生まれないのではないか」という危惧を感じたから。

今回は村上氏が人となりを紹介しつつ、「天才」が生きていく社会的条件について考えてみたい。

 

 

ドラマー村上ポンタ秀一 

村上ポンタ秀一。通称ポンタ。

尊敬の念を込めてあえて言おう。

ふざけた名前である(笑)。

恐らく音楽に特に詳しくない一般の方は、村上氏のことなどほとんど知らないだろう。

しかし、日本に住んでいて彼のドラムを聴いたことがない人は恐らく一人もいないはずだ。

 

彼が演奏した曲が、一日のうちに必ず一曲は日本のどこかでかかっていると言っても良いほどとてつもない曲に参加しているからだ。

有名どころだけ挙げても、キャンディーズ山下達郎坂本龍一福山雅治ゴールデンボンバー、あるいは宇宙戦艦ヤマト(宇宙戦艦ヤマトのテーマ)……無理だ。とても書ききれない・・・。

 

彼は昭和〜平成を代表する数多くのアーティストのバックで演奏を務め、その参加曲は1万4千曲を超える。これも数えることができる範囲であるため、恐らく実際には2万を優に超えるだろう。当然音楽業界でもその影響力は絶大だ。

音楽業界で彼のことを知らない人は一人もいないし、特にドラム業界においては神格化された存在だと言っていい。

ドラム界の神。

生きる伝説。

それが村上ポンタ秀一である。

人柄はめちゃくちゃ。音楽は神。

私は一度村上氏に会ったことがある。

20年ほど前の学生時代だ。

とある地方のドラムクリニック (今で言うセミナーみたいなもの) に講師として参加されていたのだが、開口一番

「そもそもこんなクリニックに来てる奴は駄目なんだよ」

という身も蓋もない言葉を言い放ったのが衝撃だった。

今だったら大炎上、クレームの嵐。業界から叩き出されるだろう。

 

正直なところ、人格としては相当無茶苦茶な人物だったことは間違いない。

現在だったら間違いなく業界から追放されていたであろう数々の破天荒な逸話を残している。興味がある人はググって欲しい。いくらでも出てくるだろう。

それらがどこまで本当かは分からないが、見た瞬間に「この人ならやりそうだ・・・」と思わせる凄みがあった。

「確実にカタギの人間じゃない」。

直感的にそう思わせる鋭さがあった。

 

ただ、もっと凄かったのはそのプレイだ。

上手い!のではない。”凄い”のだ。

いや、もっと言えば”凄まじい”プレイだった。

昨今は日本人でも本当に上手いドラマーは数多くいる。しかし、彼のような凄まじいプレイをする人間を私は他に知らない。

テクニックではなく魂でプレイしているような。そして、その魂で聴く人の魂をぶん殴るような圧倒的な存在感があった。

その上、音がとんでもなく美しい。

なぜあんなメチャクチャな人物からこんなに綺麗な、透き通った音が生まれるのか全く理解できないほど、一度聴いたら忘れることができない美しい音を紡ぎ出す人だった。

 

当時、若かった私は

「素晴らしい音楽を作れる人は人格的にも素晴らしい人に違いない」

と無邪気に信じていた。

だから、こんなメチャクチャな人間からなぜこんな素晴らしい音楽が生まれてくるのか全く理解できなかった。

 

今なら少しだけその理由が分かる。

人格が素晴らしいから素晴らしい音楽を作れるのではない。

音楽以外のすべてを切り捨て、すべてを捧げられるほど音楽を愛しているからこそ素晴らしい音楽が生み出せるのである。

そこに人格などというちっぽけな器は全く関係ないのだ。

それは過去の優れた芸術家が体現している。

これは音楽だけではなく、あらゆる芸術に当てはまる。

作品と人間性は正比例しない。むしろほとんどの場合が反比例するのではないか。

 

そして、これこそが私が「これからの日本に、このような天才は二度と現れないのではないか」と危惧している理由だ。

いわゆる”多様性”への疑問 

昨今は「個性が大事だ」「多様性が重要」「ダイバーシティが・・・」などというのが当たり前になっている。少なくとも”それが正しい”ことだと言われている。

しかし、正直に言えば私はかなり胡散臭いものを感じている。

なぜならそういうことを言う人間に限って「多様性なんか認めない。多様性なんかクソ喰らえ!」という多様性は認めないからである。

 

多様な価値観や生き方を受け入れることは大事だ。そんなことは当たり前である。

しかし、それを「多様性を受け入れることは、人類普遍の真理なのだから従え。従わないやつは人間のクズだ。」と押し付けるのは間違っていると思う。

本当に多様性を認めるならば、「多様性を認めない」という考え方にさえも正面から向き合い、議論を重ねなければいけないはずだ。

 

翻って現在の日本はどうだろうか。

表では誰もが多様性が大事だと言う。個性が大事だ、自由が大事だ、と。

しかし、その一方で現下のコロナ禍では”マスクをしない自由”は認められない。

それどころか

”マスクが本当に効果があるのか?”

”緊急事態宣言は本当に効果があるのか?”

と言った疑問を呈することすら憚られる空気が確実に存在するではないか。

 

もし、今の日本に村上ポンタ秀一が生まれ落ちたらどうなるだろう。

マスクをして、社会的距離を保って、ルールを守る。それができなければ業界から爪弾きにされる。

そんな息の詰まる環境から"あの美しいポンタのサウンド"が果たして生まれるだろうか?

天才は迷惑だ

昨今は天才のことを有り難がる風潮が強い。

赤ん坊は生まれた時から誰もが天才、などという輩がいる始末だ。

しかし、実際には天才ほどはた迷惑な存在はいない。

普通私たちが天才というとき、それは芸術や技術の分野で優れた才能を発揮する人のことを指す。

しかし、真の天才とは私たちが生きる社会のパラダイムを根底から揺るがすような、地殻変動を起こすほどの独創性を持つ才能のことだ。

 

たとえば日本が産んだ天才芸術家である岡本太郎

彼もその功績が世界で認められたからこそ後年社会で受け入れられた。

しかし、あの人が自分の身内だったらこれ以上迷惑なことはないだろう。

だがその岡本太郎にしか表現できない何かがあり、それが世界を変えた。そして彼の作品や言葉は今でも多くの影響を与え続けている。

これが天才がなのだ。「天が与えた才能=天才」なのである。

凡人にとって天才ほど迷惑な存在はいない。

だが、そのような天才がいるからこそ、世界は実り豊かなものになり美しく輝くのだ。

 J.S.ミルの「天才を生む社会条件」

19世紀イギリスで活躍したジョン・スチュアート・ミルという哲学者、経済学者がいる。

「最大多数の最大幸福」という言葉で知られる功利主義者として記憶にある人もいるだろう。

かれがその著書「自由論」の中で”天才”について語っている箇所がある。

「天才はごく少数しかおらず、そして、常に少数のままだろう。しかし、天才が現れるためには、天才が育つ土壌を保持しておかなければならない。天才は、自由という雰囲気の中でしか自由に呼吸できないのだ。」

天才は天才として生まれる。

しかし、天才が天才として生きていくらためには、それを受け入れる懐の深い社会が必要だ。

どれだけ巨大な才能が生まれたとしても、社会がそれを受け入れることができなければまともに生きていくことはできない。

現代の日本は果たしてその懐の深さを持っているだろうか・・・。

 

私は村上ポンタ秀一氏自体は、はっきり言って嫌いだった。インタビューなどを見ても気に食わない発言ばかりだ。

だがその音楽は本当に素晴らしかった。

彼がいたからこそ生まれた音楽や感動が数多くあるのは間違いない。

彼の偉大な功績を偲ぶとともに安らかな眠りを祈りたい。

 

今回も最後まで長文をお読み頂きありがとうございます😊

"人は成長する"という物語を捨て去ることができますか?斎藤幸平著「人新生の資本論」

 私は基本的に流行り物に飛びつかないようにしています。本でも同じです。

流行っている物がすなわち良い物とは限らないと思いますし、「流行ってるから読んでみようって恥ずかしくない?」という、ある意味”中二病”的な心理も働いていることは否定できません(笑)。

そんな私が流行りに乗っかって読んだ本がこちらです。

斎藤幸平 著「人新生の資本論」。

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

 

・・・遅っっっ!

遅いよ!

今頃読んでるの??

という鋭いツッコミが聞こえてきそうです。

書店でもベストセラーとして並べられ、メディアでもかなり取り上げられており、ご存知の方は多い本書。そのせいかネット上でも多くの書評が展開されているのが散見されます。

ただ、率直に言ってどれも似たような書評ばかりで、本書の最大の魅力に迫っているものがほとんどないと感じています。

私はこの本は本当に面白いし、読む価値が高いと思います。だからこそ、よくある要約文を一読して分かった気になっているのは非常にもったいない。

本書がこれから先も社会において重要な位置を占めるであろう魅力をご紹介したいと思います。

この本の”表のテーマ”と”裏のテーマ”

この本のテーマは二つある。

ひとつは「気候変動が激しさを増す中、私たち人類はどのような社会を目指すべきか」。

そしてもう一つは「悪名高いマルクス主義に新たな意義を与えること」。

この2点だ。

この本の書評を見ると、ほとんどが一つめの気候変動への対策に関してについてのみ語られている。

しかし、私は実は二つめのマルクス主義の問い直しこそが著者がもっとも表現したかったことではないかと思う。

気候変動の原因は資本主義にある

ではまずは、”表のテーマ”である気候変動と私たちの社会に関する部分から見ていこう。

この点に関する本書の論旨は明快だ。

それは「現在の資本主義システムのもとでは、どのような努力をしようとも気候変動を食い止めることはできない。気候変動から私たちの未来を守るためには、”成長”を基盤とした資本主義を乗り越え、脱成長型の新しい社会モデルを作り上げなければならない」というものだ。

 

たとえば昨今話題となっている

「SDGs(持続可能な開発目標)」

グリーン・ニューディール(技術革新による環境保護と経済成長の両立)」

という言葉を聞いたことがある人も多いだろう。

だが、そのどれもが経済成長を前提とした資本主義的発想に基づくものである。

資本主義とは、あらゆる物を商品として取り込み、利益を最大化する活動のことだ。そこでは、人が生産したモノだけではなく、社会インフラ、水や食料、さらに生活の安全を守る活動まで、すべてが「商品」となる。

だからこそ、資本主義は歴史的に自然の略奪、人間の搾取、巨大な不平等と欠乏を生み出してきた。

地球温暖化問題とはその当然の帰結である。

だからこそ地球温暖化という未曽有の気候変動から生き残るためには、その資本主義を乗り越えなければ根本的解決にならない。

では、どのように資本主義を乗り越えるのか?

その先にあるパラダイムとは何か?

そのヒントとなるのが資本論の著者として有名なカール・マルクスの思想にあるという。

そして、ここからマルクスの研究者として名を馳せる著者の本領が発揮される。

”いわゆるマルクス思想”の限界

マルクスといえば、一般的に共産主義という思想を編み出した思想家として知られる。

共産主義をものすごくザックリ説明すると、次のようになる。

すなわち、資本主義社会では一部の金持ちが富を独占する。そこでは労働者は虐げられ、経済的、社会的にあらゆる格差が拡大する。

それを打破するためには、労働者が団結し、資本家に対して革命を起こさなければならない。

それによって労働者自身が治める平等な社会を作り上げられる。

このように社会が進歩していくのが歴史の必然であるのだ!

 

という思想だ。

これが20世紀に世界中で支持され、資本主義を打ち倒す共産主義革命を引き起こした。

 

しかし、このようなマルクス思想は現在多くの研究者によって否定されつつあるという。

著者によれば、確かにマルクスは若い頃この”いわゆるマルクス思想”に深く傾倒していた。しかし、主著「資本論」以降、このような「労働者革命による平等社会の構築」という物語に限界を感じていた。

仮に一時的に労働者が資本家を打倒し、社会の資産を平等に分け合ったとしよう。

だが、「投資によって物の生産と利潤の拡大を行う」という現在の経済モデルのままでは、結局労働者が新たな資本家になるだけで世界は変わらない。

つまり、今の支配者が新しい支配者に変わるだけだというのだ。

その問題の本質を晩年のマルクスははっきりと認識していた。

晩年のマルクスが志向した”協同体社会”という思想

では、晩年のマルクスはどのような社会構想を描いていたのか?

 

それが自然環境やエネルギー、食糧など生活に不可欠な資産を市民が自分たちで共同管理する”協同体社会”だ。

もともと資本主義社会が利潤を生み出すことができるのは、自然環境やエネルギーなどの人類共通の資産を資本家が独占し、希少価値を高めることに由来している。

 

たとえば「水」という商品を考えてみよう。

水が商品として成立するには、その水が希少価値を持っていなければならない。

誰もが自由に、好きな時に、きれいな水を飲むことができるのであれば商売は成り立たない。

逆に言えば、「水にアクセスできる権利」が制限され、一部の人間が独占できるからこそ、その水に商品価値が生まれるのである。

そして、商品価値が生まれれば、必ずその価値を高めようとする活動が生じる。それが資本主義だ。

そうであれば資本主義を乗り越えるには、この水へのアクセス権を広くみんなで共有すれば良い。共有資産である水を市民で管理・運営し、誰でも使用できるようにする。これがマルクスが志向した「協同体社会」である。

”独占による利益の発生”を防ぐことで、資本主義による社会の不平等を乗り越えることができる。

脱成長という新たなパラダイムに向けた課題

ただ、一つ問題がある。

それはこの協同体社会では基本的に”経済成長が見込めない”という点だ。

経済が成長するためには投資が必要である。投資によって生産効率を上げることで利潤を増やすのだから当然だ。

しかし、共同管理によって利潤の増加を求めないのであれば、利潤を増やすための投資は極めて小規模になるだろう。

社会インフラや自然環境の整備など、必要最低限の投資に留まることになる。

そうすれば”経済成長がゼロ”とまではいかないまでも、現在のような経済成長は見込めなくなってしまう

しかし、この事実を受け入れなければ、この協同体社会による資本主義の超克は不可能だ。

著者はこの問題点を指摘した上で、「だが、やらなければならない」と言う。そうでなければ気候変動によって人類が滅びてしまうからだ。

これは経済成長を否定しようというのではない。

経済成長を追い求めるという現在の枠組みを超えて、”脱成長”という次の新しいパラダイムを構築しなければ人類に未来はない。

これが著者の結論である。 

本書が投げかける重要な問題

我々は確かに資本主義的経済モデルのもたらす大きな問題に直面している。

この本のテーマでもある地球温暖化問題もその一つだろう。

それを脱成長コミュニズムという新しいモデルによって乗り越えようとする著者の提案は興味深い。

しかし、残念ながら私はここに大きな違和感を感じている。

それは「脱成長によって資本主義を乗り越える」という考え方自体がすでに資本主義と同じ価値観に基づいているという点だ。

資本主義といえばお金儲けのことだと思っている人も多いかもしれない。

そうではない。

資本主義とは「資本(お金や労力や技術)を投資して、より大きな利潤を生み出そうとする活動」のことだ。

その根幹には「人は成長していく」という進歩主義的価値観がある。

これは当然だ。どれだけ投資しても生産効率が上がらないのであれば、投資の意味がない。

それは経済活動に限った話ではない。私たち自身もまた成長できると信じているから、自己投資を行うのである。

つまり、現代社会はすべて”人は困難を乗り越え、成長し、進歩する”という進歩主義を前提としているということだ。

 

さらに皮肉なことに、困難は乗り越えることができるのならば、”より早く”、”より効率的に”困難を乗り越える道を探すのが人間の性だ。

「この困難な状況をもっと深く、ゆっくり味わいたい。もっとつらい思いをしたい。」という人はまれだろう。

資本主義がここまで発展してきた原因もここにある。

その根幹にある「コストを最小化し、効率的に、早く、利益を最大化する」という考え方は、私たち自身の進歩主義的信念に合致しているのだ。

これこそが資本主義の超克を阻む最大の壁である。

この点を著者は見落としているのではないか。

 

著者が言うように、資本主義は”成長”を前提とした社会パラダイムである。

そうであるなら、我々が真に資本主義を超克するためには「困難は乗り越えることができない。」「人は成長しない。」という事実を受け入れる強さを持つしかないのではないか。

それは生き方や哲学としては非常に潔く、美しい。東洋的な悟りの境地とも言える。

果たしてそのような生き方や社会を現代人が受け入れることができるだろうか。

 

私は本書はある意味で非常に大きなテーマを投げかけていると思う。

それは「"人は成長するという物語"から逃れられるのか」というテーマだ。

これは私たちの生き方や世界の捉え方すら揺るがしかねない、とてつもなく大きな問題である。

人が成長するという物語が成立するためには、未来という概念が存在しなければならない。

未来がなければ成長などないのだから当然だ。

しかし、実は歴史上の大部分で人類は現在のような「未来」という概念を持っていなかった。近代社会以前は時代の流れが非常に緩やかだったため、"未だ来ない時間"を思う必要などなかったのだ。

現代人は、過去の近代以前の人々が考えもしなかった、過去から現在へ流れ、未来へ繋がっていくという時間の流れを前提とした世界に生きている。

現在は未来へつながっていく一本の道でつながっているという神話の中で私達は生きている。

その神話を信じているからこそ、現代の私たちは今直面している苦しみを耐えることができるのである。

著者の言うような脱成長型社会とは、そのような神話を根本から揺るがそうという試みに他ならないのだが、著者はそこまで理解した上で主張しているのだろうか?

 

これが現実的に可能なことかどうかは、ここで述べるつもりはない。あまりにも巨大過ぎるテーマであり、結論が出せるような人間は誰一人いないだろう。

しかし、これこそ我々が正面から向き合うべき課題ではないかと思う。

現代人は”日々成長しなければならない”という無言の圧力に苦しめられている。

その原因のひとつが我々を支配する成長神話だ。

この成長神話が本当に私たちを幸せにする神話なのか。

それとも資本主義が私達から利潤を搾り取ろうとするために作られた都合のよい物語なのか。

それを考える上でも非常に参考になる書籍であるのは間違いないだろう。

 

というわけで今回はこちらの本のご紹介でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m 

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

 

"ニュースを絶つ力"が人生を豊かにする。ロルフ・ドベリ著「News Diet」

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今回ご紹介するのは「Think Clearly」「Think Smart」などの著作でベストセラーとなったロフル・ドベリ著「News Diet」(ニュース・ダイエット) 。

シリーズ36万部突破の最新作ということで、すでに世間で話題になっている著書。スイスの知の巨人が提言する「ニュースフリー生活」のススメである。

ちなみにタイトルは「ニュース・ダイエット」。ダイエットの方法を解説する「ダイエット・ニュース」ではないので、そこはご注意を(笑)。

News Diet

News Diet

 

 

著者紹介

著者であるロルフ・ドベリは作家であり、実業家。1966年、スイス生まれ。

スイス航空の子会社数社でCEO、CFOを歴任。

科学、芸術、経済における指導的立場にある人々のためのコミュニティー「WORLD.MINDS (ワールド・マインズ)」を創設し、理事を務める。

35歳から執筆活動をはじめ、世界の多数の国での雑誌や新聞に寄稿。著書は40以上の言語に翻訳出版され、累計発行部数は300万部を超えるベストセラー作家。

著書に

「Think Clearly 最新学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考方法」

「Think Smart 間違った思い込みを避けて、賢く生き抜くための思考法」

などがある。

作家であり、実業家でもあるという風変わりな肩書を持つ著者だが、彼の著作の面白い点は人生という困難な道をよりよく生きるための処方箋を、とても簡潔な言葉でわかりやすく表現してくれるところだ。

しかも、そこには恩着せがましい押し付けや高圧的な態度は微塵もない。

まるで著者と会話する私たち読者との間に”コロンッ”と石ころでも転がすように気軽に指し示してくれる。

「僕は君の人生をよくするアイデアを提示した。それをどう扱おうが君の自由だよ。」と言って、微笑みかけているかのような優しさを感じる独特の文体が魅力だ。

News Dietとはどんな本か?

さて、そんな著者が今回著した「News Diet」とはどんな本なのか。その内容はこの本の副題に凝縮されている。

「Stop Reading the News. A Manifesto for a Happier, Calmer and Wiser Life.」だ。

日本語で言えば「ニュースを読むのはもう止めよう。より幸せで、穏やかで、そして賢い人生を送るための提案」といったところだろうか。

そう、この本はニュースの過剰摂取をやめることで、より良い人生を送るためのアイデアを提案する内容なのだ。

ニュースはあなたの人生にとって重要ではない

私たちの生活はニュースと共に始まり、ニュースと共に終わると言っても過言ではない。

特にスマホ生活が当たり前となった現代ではなおさらだ。

朝起きて朝食を食べながらスマホでニュースをチェックし、夜寝る前も今日の出来事をスマホでチェックする。そんな生活を送っている人がいかに多いだろうか。

ニュースは確かに世界で起こったさまざまな出来事を教えてくれる。一つでも多くのニュースを知っている人は、知らない人よりも優れた人のように見える。

ビジネスマンであればニュースを一つでも多く知っていることが、成功につながるとさえ思うだろう。

だが、本当にそうだろうか?

 

著者は言う。

「もしニュースを消費することが本当に出世につながるなら、所得ピラミッドのトップはニュースジャーナリストたちで占められているはずだ。だが現実はそうではない。その逆だ。」

と。

ニュースを多く知っていることは必ずしも成功に必要だとは限らない。ましてや人を幸せにすることはないのだ。むしろニュースを追いかけることは私たちの生活に悪い影響を与えると著者は言っている。

制限するべきニュースの”消費”

ニュースが与える悪影響を紹介する前に、この本でたびたび出てくる「ニュースを消費する」という言葉の意味について少し説明しておきたい。

これはとても重要なキーワードだ。

 

著者は大量のニュースを消費することの弊害を紹介しているが、この”消費”とはニュースを知るためにニュースを追いかけるような行為のことを指している。

つまり、アルコール中毒者が瓶が空になっただけで不安になり、飲みたいわけでもないのに空になった瓶にアルコールを注ぐような行為を指している。

アルコールを飲むこと自体が悪いのではない。アルコールを過剰に摂取すること、そしてアルコールが無いということ自体にすら不安を覚えることが問題なのだ。

 

実際、著者も「全くニュースに接するな」とまでは主張していない。

世界で起きている出来事に関心を払い、思考を巡らせ、現実的な行動をとることは、むしろ積極的に行うべきである。

著者が薦めるニュースのダイエットとは、アルコール中毒者がアルコールを浴びるような”ニュースの過剰消費”からの決別のことだ。

ニュースが与える悪影響

この本ではニュースを大量に”消費”することの悪影響がいくつも紹介されている。

その中でも面白いのが

・集中力の低下

・偏向性の強化

という点だ。

 

ニュースが与える悪影響① 集中力の低下

物事を考えるには集中力が必要であることは言うまでもない。

しかし、ニュースの消費はこの集中力を低下させる。

なぜなら、集中するためには誰にも邪魔されない時間が必要だからだ。

これについてはアンデシュ・ハンセンの著作「スマホ脳」にも同様の指摘がある。

基本的に人間は一つのことしか集中して作業ができない。複数の作業を同時にこなしているように見えても実際には作業の間を行ったり来たりしているだけなのだ。

集中する対象を変えるだけなら、確かにコンマ一秒程度しかかからない。だが問題は、能がさっきまでの作業の方に残っていることだ。

脳には切り替え時間が必要で、さっきまでやっていた作業に残っている状態を専門用語で注意残余と呼ぶ。ほんの数秒メールに費やしただけでも、犠牲になるのは数秒以上だ。

集中する先を切り替えた後、再び元の作業に100%集中できるまでには何分も時間がかかるという。

(スマホ脳。P89) 

スマホ脳(新潮新書)

スマホ脳(新潮新書)

 

 したがって、ニュースにふれると集中力は必然的に情報の波に押し流されて消え失せてしまう。その結果、ニュースによって集中力が衰え、思考力が低下するのである。

 

ニュースが与える悪影響② 偏向性の強化

もうひとつの悪影響の一つが、思考の偏向性・・・つまり思い込みが強まることである。

一般的にはニュースを知れば多くの情報を得ることができるため、多面的な視野で物事が見られるようになると思われている。しかし、実際はその逆である。

本書では、オレゴン大学でポール・スロヴィックが行った「競馬予想」に関する面白い実験が紹介されている。

この実験は競馬予想者に与える馬についての情報を少しずつ増やしていき、それが自分の予想への”自信の強さ”にどう影響を与えるのかを調べたものだ。

実際にはその情報は”予想の的中率”にはなんの影響も与えなかったのだが、参加者の「自信」には大きな影響を与えた。

与えられた情報が多いほど、参加者たちの自信は強くなっていったのだ。

普通、何かを予想するには用心深さや疑いが必要だ。しかし、情報を得るごとに被験者は情報の洪水に洗い流され、「慎重な判断」が「絶対的な確信」に変異してしまった。

つまり、人は得られた情報が多いほど謙虚さや用心深さをなくし、自信過剰になっていくのである。

自信過剰は自分の意見への絶対信仰を生み、他者の意見への偏狭さを生む。そして、この他者への偏狭さは多面的な物事の見かたを衰えさせ、決断の質への低下につながるのである。

ニュースを見るよりもやるべきこと

では、ニュースを全て絶てば物事はすべてうまく行き、よりよい生活が約束されるのだろうか?

残念ながらそれも違う。

人は社会的な生き物であり、社会と分離して生きていくことはできない。

しかし、ニュースから距離を置くことと、社会と隔絶することは二者択一ではない。

社会の動きに関心を持つことは、社会に生きる私たちにとって重要であることは間違いない。

ただ、関心を持つというのはニュースを消費することではなく、本来「行動を起こすこと」である、と著者は言う。

「メディアの消費を通して世界の出来事に関心を持つ」など、これ以上の自己欺瞞があるだろうか?

「関心を持つ」というのは、本来、何らかの行動を起こすことを意味するものだ。瓦礫の下からはいでてくる地震の被災者の様子を夜のニュースで眺めながら憐れみに浸る行為は、なんの助けにもならないだけでなく、嫌悪すら催させる。

地震の被災者や戦争難民や飢えに苦しむ人達の運命が本当に気にかかるなら、お金を寄付しよう。注意を向けたり、労働力を提供したり、祈ったりすることよりも、お金の方がずっと役に立つ。(本書P182)

私は本書の「News Diet」という考え方において最も大事な指摘は、この点にあるのではないかと思う。

 

大切なことは日々飛び込んでくるニュースを消費することではない。

本当に社会に関心を持っているのであれば、ニュースを消費するのではなく行動を起こさなくてはならない。

そして、その具体的な行動とは、個人の能力や資質、あるいは環境によって異なる。

そうであるならば、私たちが社会に関心を持つために本当に必要なのは自分の能力や資質、いわば”自分にできること” (著者はこの範囲を”能力の輪”と呼ぶ) を見極め、何をすべきかを自分自身に深く問い直すことではないだろうか。

 

日々私たちの生活を押し流す数多くのニュース。

ニュースを知ることが社会人としての常識だという程に当たり前になっているニュースの”消費”。

しかし、それは本当に私たちを幸せにし、社会を幸せにするのだろうか。

私たちがよりよく生きるためのニュースとの付き合い方を考え直す上で、非常に参考になる書籍である。

 

という訳で、今回ご紹介した本はこちら。

ロフル・ドベリ著「News Diet」でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m 

News Diet

News Diet

 

 

米中対立の狭間で日本に何ができるのかを問う。橋爪大三郎著「中国vs米国」。

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昨年末に飛び込んで来たとあるニュースが世界を騒がせた。

中国のGDP国内総生産の規模が2028年にはアメリカを上回って世界1位になるという予測をイギリスの民間の調査機関を発表したのだ。

もともと同機関は中国が米国を上回る時期を2023年と予測していたが、新型コロナの騒動により5年早まる計算だ。

さらに、別の機関の調査では2050年には中国のGDPは米国の2.7倍になると試算している。

これらは民間の調査機関のものだが、当然米国自身も同様のシミュレーションをしていることは想像に難くない。

トランプ元大統領以来、米中対立が先鋭化してきたのは周知の事実だ。

しかし、トランプ氏個人の資質によるものではなく、覇権国の地位を守ろうとする米国という国家戦略に基づくものであり、実際バイデン新大統領になってからも対中国政策は厳しさを増している。

 

地理的に米国と中国の間に立たされている日本も、当然この状況とは無関係ではいられない。

双方ともに私たちの生活レベルにまで非常に強い影響力を持っており、まさにこの二国の対立は国民生活に直結する問題だ。

では、私たちはその2大国に動向に対してどれだけの関心と知識を持っているだろうか?

そもそも中国共産党とは何か?

中国は資本主義なのか?

なぜ中国がここまで巨大な国になったのか?

米国と中国はなぜ対立するのか?

「何となくのイメージはある。でも、改めて問われると説明が難しい。」そんな人がほとんどではないだろうか。

だが、”イメージ先行”で物事を見ていては、中国という国を理解することはできない。理解できなければ来たるべき判断を誤ることにもなりかねない。

そこで今回紹介したいのが、橋爪大三郎氏の「中国vsアメリカ −宿命の対決と日本の選択−」だ。

本書では政治や経済の制度といった中国の国の外郭を描きながら、現在の中国という国の成り立ち、そしてそれを支える思想とは何かといった思想的な問題を分析する。

また、米国を支える西欧的価値観の根本を宗教学的な視点から眺め、

「なぜ米国と中国の対立が避けられないのか」

「避けられないのであれば、日本はどうするべきなのか」

という日本の戦略的な課題にまで踏み込んでいく。

 

著者紹介

著者の橋爪大三郎氏は1948年生まれの社会学者。東京工業大学名誉教授を務める。

宗教や哲学、社会学などに関する膨大な知識を元に、米国や欧州、中東、そして中国など様々な国の文化や思想・哲学の分析を得意としている。

「世界がわかる宗教社会学入門」(ちくま文庫)、「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)など、一般向けの著作も多数あるが、どれも思想的な深い話題を分かりやすく丁寧な説明で解説が魅力だ。

さて、本書では米中の軍事衝突のシナリオなどを具体的に展開している部分もあり、米中の対立がよりリアルな形で想像できる内容である。

ただ、一番興味深いのは、中国(あるいは中国共産党)と米国の行動原理を、歴史や文化、思想をもとに分析している点だ。

共産党が中国支配を正当化するロジック

中国とは中国共産党が絶対的な権力を持っていることは広く知られている。

しかし、中国共産党としては「支配」しているのではない。彼らは「人民を代表している」のである。そしてそれは人民のためである。

なぜなら、共産党は世界を通底する真理を理解しているからである。

真理を理解していない人民は、様々な局面で間違いを犯す可能性がある。

だから、真理を理解している共産党が人民を代表し、人民を指導することが人民を幸せにすることに繋がる。

簡単に言えば、これが中国共産党が中国を”代表”しているロジックだ。

 

神を信じる国と信じない国の対立

しかし、これは米国の価値観では理解ができない。

なぜなら米国は「神が支配する国」だからである。

米国は神が支配する国であり、それが正しいと信じている。だから、中国のような「人が人を支配する国」という価値観は全く受け入れがたいのである。

 

米国が「神が支配する国」だという点は説明が必要であろう。

確かに米国を実際に動かしているのは「選挙」で選ばれた人たちである。しかし、著者によればこの選挙というシステムは”神の意志”を具現化するための方策なのだ。

米国の価値観を理解する上で非常に重要なポイントなので、少し長くなるが本書の説明を引用しよう。

政府のポストにつく人間(政府職員)を「選挙」で選ぶ。これがアメリカで始まったやり方だ。

「選挙」で選ばれた人間は、どんなに大きな権力があっても、任期が来たら退任する。

「選挙」が彼(彼女) の統治を正当化する。「人が人を支配する」のだが、その支配の根拠は「選挙」である。「選挙」→「人」(支配) → 「人」、であって、人を支配するのは「選挙」なのだ。

「選挙」は人ではない。人々が集合的に表す「意思」」である。一人ひとりは、人間の思いで投票するかもしれない、けれども、人々が真剣に投票するなら、そこに「神の意思」が現れる。選ばれた人間は、神によってそのポストにつけられた、と考える。聖書にそう、書いてあるわけではない。でも、神がこの世を支配しているのなら、「選挙」も支配しているに違いない。「選挙」に従う民主主義は、神に従う道なのだ。

(本書P314)

 つまり、民主主義とは選挙を通じて神の意思を反映するシステムなのだ (少なくとも米国においては)。

だから、神の意思を反映せず”人が人を支配する”中国のシステムは米国には全く受け入れられないのである。

著者はここにこそ米中対立の根源的問題があるという。すなわち「米中対立とは、神を信じる国と信じない国の対立」なのである。

 

実は米国自身がこの決定的な違いを理解していなかった。だからこそ、WTO (世界貿易機関)などの自由主義システムに中国を受け入れ飼いならそうとした。

資本主義、自由主義の洗礼を受ければ中国も変わるはず。なぜならそれこそ神の意思を反映させた唯一絶対の方法なのだから。米国、そして欧州諸国もまた無邪気にそのように信じていた。

しかし、そうではなかった。

資本主義、自由主義をも巻き込みながら、中国は民主主義ではない別の方針をさらに強化し、米国をも抜き去ろうとしている。

ここに来てようやく米国は自らの認識が甘かったことを理解したのだ。

中国と米国の対立はもはや決定的となっている。大統領がバイデンになろうが、その方針は変わらない。

 

日本に残された選択

では、そのような米中対立が決定的となった状況で日本は何ができるのだろうか。

残念ながら”無い”

著者は言う。

「日本に、米中対決の行方を左右する力はない。むしろ、米中対立のあおりを喰らって、翻弄されることになろう。」と。

中国の軍事費は毎年増加の一途をたどり、2020年には日本の4倍以上に達している。それがもう10年以上続いている。もはやこの差が埋まることは決してない。

さらに、冒頭で述べたように2028年には中国のGDPは米国を追い越す見込みであり、当然軍事費も同様である。

日本が単独で中国と戦争をしても勝つ見込みは全くないし、より強力になった中国に対してアメリカが日本のために戦ってくれる保証はどこにもない。

残念ながら、もうどうしようもない。

こうなることが分かっていて、日本は軍事費の削減を続けてきたのだから後の祭りである。

 

しかし、それは「日本にできることは何もない」ということを意味しない。

日本にできることはある。

それは知ることだ。

米国を知り、中国を知り、来たるべき将来を予測することだ。

 

この話を考えていて私の脳裏に浮かんだのが「Death Note」という漫画のワンシーンだ。

これは「キラ」と呼ばれる大量殺人犯とそれを捕まえる側の壮大な頭脳バトルを描いた作品で、日本のみならず世界でも空前のヒット作となった。

キラを捕まえようとするのは、日本や世界の警察機構、そして「エル」「ニア」と呼ばれる世界を股にかける名探偵である。

この戦いの終盤において事実上キラとエル/ニアの一騎打ちとなり、警察機構は全く役に立たないばかりか、キラにもエル/ニアにも煙たがられる地味な存在となってしまう。

 

物語の終盤で、警察のとある刑事がそれでも何とかキラの尻尾を掴もうと、あの手この手で動き回るシーンが出てくるのだが、その時本来仲間であるはずの「ニア」という探偵から「邪魔をするな」と釘を刺されてしまう。

「キラ、ニア、ともに最終盤に向けて準備を進めている。私たち二人で決着をつけるしかない。あなた方警察はもう蚊帳の外なのです。それを自覚し邪魔だけはしないでください。」と告げられます。

その刑事は愕然とするのですが、その時にニアがこう言うのです。

「私に協力してくれるのなら、キラを見張っておいて欲しい。それは存在意義がないということではない。”あなた達が見ている”ということが意義があるのです。」と。

 

私は今の日本、米国、中国の関係はまさにこれと酷似していると思います。

Death Noteで言えば、

犯人のキラは中国。

探偵のニアは米国。

そして警察は日本です。

中国と米国は対決に向けて着々と準備を進めている。その間に挟まれた日本にできることは何もないのだから、おとなしくしておいて欲しい。

ただ、ちゃんと中国と米国がやっていることを見て、知っておいて欲しい。そして、来たるべき時にはしっかりと正しい判断を下して欲しい。

米国も中国もそう思っているのではないでしょうか。

そしてその判断を下すべき時は、もうすぐそこにまで迫っています。

 

もはや米中対立を日本が”どうこう”なんてことはできるはずもない。

だったら、確実にできる「知る」ということを行うことは、何よりも必要なことではないでしょうか。

本書はそのための基礎を身につけるための重要な本になりえると私は思います。

 

 

という訳で、今回ご紹介したのは橋爪大三郎 著「中国vsアメリカー宿命の対決と日本の選択」でした。

長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m 

 

名探偵コナンが握る日本経済復活の鍵。最新作「緋色の不在証明」。

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人にはそれぞれ他人には決して言えない秘密がありますよね。

私にも秘密はあります。

それは・・・

 

40歳過ぎてもいまだに名探偵コナンの映画を毎年観に行っていることです!!

しかも20年以上!!

ドーン!!

 

言ってしまった・・・ついに・・・。私の恥ずかしい秘密を・・・。

でも「40代のおっさんが名探偵コナンとかww」と思った、そこのアナタ!!

名探偵コナンを馬鹿にしてはいけませんよ。

私はぶっちゃけ名探偵コナンこそが現在の日本を救う」と思っています!もちろん映画の中の世界ではありません。現実世界の日本を、です。

なぜTVアニメのコナンが日本を救うのか?

今回は名探偵コナンの映画のレビューを交えつつ、その核心に迫りたいと思います。 

 

「緋色の不在証明」って面白い?

では、まずは今回私が見てきた名探偵コナンの最新作のレビューから行きましょう。

※コナン作品自体にそれほど興味がない人は、このセクション飛ばしてもらってOKです^^

今回私が観てきた作品はこちら。

劇場版「名探偵コナン 緋色の弾丸」!

・・・というのは嘘です。

すみません!

 

これは2020年に公開されるはずだったのですが、コロナ禍で延期になり今年の4月16日から公開になります。

まだ上映していません!(笑)

今回私が見てきたのは、その1年間空いた穴埋めのために急遽手抜きで製作された・・・もとい(笑)、1年間お待たせしたファンのために最新作を見どころシーンを過去作品から選りすぐったスペシャルドラマ、”特別総集編「名探偵コナン 緋色の不在証明」”です↓↓↓

 名探偵コナンのファンはすでにご存知の通り、このアニメにはFBI、CIA、MI6、果ては国家公安委員会まで世界の名だたる警察組織やスパイ組織が登場します。

今回はその中でもFBIの凄腕エージェント・赤井秀一という人物の家族に焦点を当てた物語になります。ちなみに、赤井秀一の声優さんは池田秀一。あのガンダムで”シャア・アズナブル”を演じている方です。

なので、名前が赤井秀一

さらに、そのライバルとなる人物が国家公安委員会の安室透 (あむろ とおる) であり、その声優はガンダムアムロ・レイを演じる古谷徹さんです。

時空と作品を超えて、アムロとシャアが戦う・・・それが名探偵コナンです(笑)。

 

さて、本来昨年公開されるはずだった「緋色の弾丸」という作品で、この赤井秀一がフィーチャーされるはずでした。

 

この赤井秀一とその家族は、名探偵コナンにかなり昔から出演しているのですが、家族全員が謎の多い人物であるためコナンとの繋がりもかなり分かりづらくなっています。

母親がMI6の諜報員なのに薬のせいで姿が子どもになっているとか。

赤井秀一はFBIだけど、コナンを殺そうとしている組織にスパイとして侵入。その上、一回死んだと思ったら実は生きていた、とか。

昔から観ているファンじゃないとちょっと理解できないくらい複雑です。

 

という訳で、今作は”「緋色の弾丸」の前にもう一度人間関係を整理しましょうね。そうすれば最新作がもっと楽しめること間違いなし!”というプロモーション作品となっています。

内容は基本的に過去のテレビアニメ作品から赤井一家に関する部分を抜粋し、コナンの解説の付きで編集した内容。

したがって、アニメをがっつり観ている人には残念ながら知っている話ばかりかな。

最後にちょっとしたファンサービスがありますが、映画館で見る必要があるか?というとちょっと疑問かもしれません (逆にコアなファンなら、その最後の数秒のために観る価値があるかも)。

 

私は、映画は結構観てるけどテレビアニメの方はなかなか観れなかったので、今回ちゃんと赤井一家のことが整理できて良かったです。

各キャラのセリフの意味もより深く感じられるようになりましたし。

また、映画館で販売されているパンフレットには、赤井一家を中心としたコナン登場人物の相関図が掲載されているので、映画の内容と合わせると物語がかなりスッキリ。

値段も700円とお手頃価格ですので、映画館に行ったらご購入をお勧めします^^b

 

これで4月公開の「緋色の弾丸」が思いっきり楽しめそう!

IMF国際通貨基金)の重要提言

さて、ではいよいよなぜこの名探偵コナンが日本経済を救うのか、について考えてみましょう。

その手がかりの一つがIMF (国際通貨基金) のゲオリギエワ専任理事の提案にあります (←急に話が変わったな(笑))。

 

下記の記事によりますと氏は「IMFとしては非常に珍しいことだが、現在の政策に関して3月から各国政府に対して支出を促す。最大限お金を使い、さらにもう一段支出を増やすように求める」と述べた。「生産と消費双方を意図的に制限している時期だ。経済崩壊を防ぐための緩和的な金融政策と財政政策を引き続き主張する」と述べた模様。

 

また下記のBloombergの記事でも「世界規模で同期した財政出動で協調する根拠は時間を追うごとに強まっている」と述べたと報じられています。

 財政政策というのは政府が行う経済対策のことで、主に国債などからお金を調達して政府主導で事業を行ったり、投資を行ったりすることです。

つまり、このIMFの提言というのは「各国政府は経済復興のためにお金をガンガン使え。最大限使え。いや、最大限以上に使え。そして、それを世界各国が同時に使え。」という意味なのです。

IMFという機関は通常「無駄なお金を使うな。節約しろ。」という”寄宿路線”を取ってきましたが、そのIMFでさえ「四の五の言ってないで政府が金使え!」という積極財政派に転じたということです。

そして、この積極財政アプローチによる経済復興の申し子が、まさに名探偵コナンの世界観なのです!

ファンタジック・アクション映画「名探偵コナン

名探偵コナンの映画を観たことがない人は恐らく勘違いしているのですが、名探偵コナンは”推理ドラマ”ではありません。

小学生の江戸川コナンがミッションインポッシブルのトム・クルーズを超える、超絶アクションを繰り広げる”ファンタジック・アクション映画”なのです!!(笑)

コナンの映画ではほぼ毎回新しい大規模施設(サッカースタジアム、飛行船、高層ビル、テーマパークなど)が建設され、そこで大爆発などが起こり破壊されます。

その危機を小学生のコナンが”眼鏡やサッカーボールやスケボーを駆使して”被害を収めてしまうのです。

うん。まぁ、冷静に考えると確実におかしいんですけどね・・・。

 

それはともかく、映画の冒頭では毎回新しい建造物やテーマパークが登場します。そして見た瞬間に「今回はこれが破壊されるんだな」と分かります・・・。むしろ”破壊されるために作られた建造物”と言った方が良いでしょう。

確かに破壊されるために作られるというのは無駄かもしれません。

しかし、実は日本のようなデフレ不況で苦しむ国においては、このコナンの世界のような「何も作らないより、無駄になっても作る」方が正しいのです。

これこそが日本経済復活のカギを名探偵コナンが握っているという秘密です。

政府が使うお金は無駄になっても良い?

先ほどもご紹介したようにIMFは経済復興のために政府の財政拡大を強く求めています。

なぜでしょうか?

それはコロナ禍のような状況では国民の需要 (あれが欲しい、これが必要だという欲求のこと)が抑えられるため、民間企業は投資をしづらいからです。

経済が縮小している状況では、投資に見合う利益が見込めませんので、従業員削減、労働時間短縮などのコスト削減に走ります。

一方、国民の方もこのような異常な状況では消費を渋ります。巣ごもり需要が拡大しているとは言え、それはあくまで一部の話であり、ほとんどの家庭で財布の紐がきつくなっています。

これはこれで合理的な行動であり、誰かが間違っているわけではありません。

 

しかし、誰かがお金を使わなければ経済は回らない。これも事実。

民間がお金を使いづらいのであれば、政府がお金を使うしかない。

だから、IMFは各国政府に積極的にお金を使う政策を行うように要請しているのです。

財政問題が・・・」などと言っている間に、自国経済がつぶれてしまっては元も子もない!とにかく政府は金を使って需要不足を補え!ということです。

 

この”需要不足”によるデフレという現象が恐ろしいのは、誰もお金を使わなくなることです。

お金を使ったことへのリターンが少なくなるために、民間も個人もどんどんお金を渋るようになる。リスクを背負ってお金を使うよりも、確実に貯金しておく方向に走る。

だから、仮にお金を使うことになったとしても、”費用”と”見返り”のバランスをめちゃくちゃ慎重に見極めることになります。

それが国家レベルになると、地震や台風などの災害大国でも

「本当にその設備は必要なのか? 」

「その設備を作る分、どこかのお金を削らないと・・・。」

という緊縮発想になってしまいます。

 

しかし、残念ながら根本から間違っている。

日本政府というのは民間企業ではなく”非営利団体”です。利益を出す必要はありません。

利益を出さずに正常な運営ができるように、通貨を自分で発行できる強力な権限が与えられている。自分で通貨を発行できる政府が財政破綻なんてする訳がない(もちろん限界はありますが、その話は長くなるのでここでは割愛します)。

無駄がなく効率的に使えればそれがベストですが、最悪なのは無駄を恐れて何もお金を使わないことです。

無駄だと分かっていても使った方が、お金を使わないよりも100倍、いや10,000倍マシなのです。

 

だからこそ日本は名探偵コナンの世界を見習って、もっとお金を使うべきなのです。

国民も民間企業もお金を使わないのですから、政府が使うしかない。

名探偵コナンの世界観こそがデフレ不況に苦しむ日本を救う唯一の解決策である。

長年名探偵コナンの映画を観てきた私は自信を持ってそう言い切れます。

日本の政治家にこそ名探偵コナンをぜひ劇場で観てほしい!!

それこそが日本経済復活の狼煙となるのだと私は信じています。

 

という訳で、皆さん4月公開の名探偵コナン激情版最新作「緋色の弾丸」を観て、正しい経済観を学びましょう!

 

 

自由貿易とは”自由に略奪するルール”を作る歴史だった。福田邦夫「貿易の世界史」

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ご存知の通り日本という国は資源が非常に少ない国です。

そんな日本にとって海外との貿易は欠かせない要素の一つ。

そして日本においては、「貿易」と言えば企業が自由に海外市場で競争できる「自由貿易」が当たり前だと思われています。

しかし、本当にそうでしょうか?

 

 

米ソ冷戦が終結した1990年代以降、世界ではいわゆる自由貿易が広がっていきました。

ところが、国際NGOオックスファムのレポートによると、世界人口の1%にあたる富裕層が持つ富は、残りの人口の99%が持つ富の合計を上回るという、異常な経済格差が世界に広がっています。

そして、アメリカ社会の分断、英国離脱など不協和音が出始めているEU、そして自由貿易によって強大な経済力を身に着けた中国の台頭など・・・自由貿易で繁栄すると思われていた世界が、目まぐるしく不安定化している姿も私たちが最近目にしているところです。

 

自由で公正なはずの貿易がなぜこのような結果を生んでいるのか?

その原因を貿易の歴史の中に求めた本があります。

それがこちら。福田邦夫著「貿易の世界史」です。 

本書では、自由貿易という概念が広がった大航海時代にまでさかのぼり、自由貿易の本質を探ります。

貿易というものがどのように発展してきたのか。

それは誰のために、誰によって進められ、誰が利益を得てきたのか。

そして、これから世界の貿易はどのように進んでいくのか。

貿易の実態を歴史的に検証することで貿易の本質と今後進むべき道が明らかになります。

 

「世界の人々が国を越えて交流する」という表層的なイメージの奥にある実態を知ることで、「海外との経済的な交易」をどのように進めるべきか考えるきっかけになる著作です。

「自由な貿易」は誰のための物か

私たち日本人は外国と交易をするというと、すなわち「自由貿易」のことだと考えます。

実際、多くの政治家やビジネスエリートたちが

「開かれた自由で公正な市場を守らねばならない」

「自由な貿易が経済を発展させる」

自由貿易の推進を訴えています。

・・が、本当にそうなのでしょうか?

 

かつて日本が現在と同じようなデフレ恐慌に陥った時に、日本経済を救った高橋是清という政治家がいました。

彼は自由貿易について次のように述べています。

「欧米列強が自由貿易を主張するとき、彼らは原理原則に従ってそれを主張しているのではなく、彼ら自身の利益のために主張している」と。

すなわち「自由とは自分たちが勝つための方便として使っているだけであり、誰も真の自由貿易なんか求めちゃいない」ということです。

 

本書において詳述される貿易の歴史を見ると、ヨーロッパ諸国がまさにそのような「自己利益を最大化するための自由」という思想の下、世界に進出していったことが明らかになります。

自由で公正なルールが略奪を生む?

この本の中では、スペイン、オランダ、イギリスといったかつての覇権国家が、自由貿易の名の下に世界中で富を収奪した歴史が語られます。

ただ、これ自体は特に本書オリジナルの考え方ではありません。

 

実際、ほとんどの人が義務教育で

・アフリカ大陸から黒人奴隷を買い取ってプランテーションなどで労働させる「奴隷貿易

・イギリスがインドから中国へアヘンという麻薬を輸出させ暴利を貪る一方、中国を麻薬漬けにした三角貿易

といった、貿易の歴史を学んだことを覚えているかと思います。

したがって、歴史的に見れば、貿易とは”先進国による後進国からの収奪の歴史だった”ことは間違いありません。

 

しかしながら、現実にはほとんどの人がむしろ「貿易こそが世界を活性化させる」と信じているわけです。

その理由は

「過去の悲惨な貿易はヨーロッパ諸国が暴力を使って、後進国の富を力づくで奪い取ったからだ。暴力を使わせない公正なルールを作れば”自由、公正で、お互いWin-Winの関係となる貿易”が実現できるはずだ」

と考えているからです。

実はここに根本的な誤解があります。

 

実は、ヨーロッパ諸国は暴力で富を奪い取ったのではありません。

むしろ、貿易のルールづくりを自国に優位に導くことで行われてきたのです

暴力による貿易は効率が悪い

略奪行為というとすぐに「暴力を伴うもの」と思いがちですが、実は貿易においてはそうではありません。

大航海時代の初期段階においては、当時の覇権国スペインやポルトガルは確かに暴力によって、インカ帝国アステカ帝国を滅ぼし、その金銀財宝を略奪しました。

ただ、残念ながら金銀財宝といった鉱産物は必ず底がつきます。無尽蔵に発掘できるわけではありません。初期の大航海時代ではこの失敗によって覇権国家は衰退しました。

そこで次世代の覇権国家であるオランダやイギリスは、綿花生産や香辛料など”増産可能な産物”を自分たちに都合の良い金額で、都合の良い量を吸い上げることで富を蓄えていきました。つまり貿易によってです。

 

もちろん、そこではあからさまな暴力は使いません。

それは平和的な貿易を目指したからではありません。単純に暴力支配は効率が悪いからです。

当たり前ですが、ヨーロッパから遠い南アジア、東南アジアへ軍隊を派遣すること自体が非常に困難です。

もし仮に一時的な勝利が獲得できたとしても、何年もの間、圧倒的に人数の多い現地を力で抑え込み続けるのは不可能。

だから、暴力に訴える支配は効率が悪いのです。

 

そこでヨーロッパ諸国が現地支配のために用いたのが、社会の分断です。

現地の特定勢力に利益を与え、彼らに統治を行わせる。もし反対する勢力が出てきたら、そちらにも利益を与え、敢えて衝突させる。

それによって国を疲弊させることで、その国を統治しやすくするわけです。

そして、一番強い勢力に利益を与え続けることで、彼らを通してその国を支配するという手法をとりました。

 

特定の勢力に力や利益を与えることで、間接的にその土地から利益を吸い上げるシステムを作り出す。

このような「貿易システム」こそがヨーロッパ諸国が世界の覇権を手にした要因だったのです。

貿易における「自由」とは自分勝手の正当化

このような貿易のシステム作りやルール作りの重要性に早くから気付いていた欧米諸国は、「自分に優位なルール」を相手に押し付けるための技術を長年磨いてきました。

その技術の一つが「自由」という言葉です。

私たちは自由と言えば無条件で良いものだと思いがちですが、実はこれほど自分に都合が良いように人を操れる言葉はありません。

 

たとえば、記憶に新しいTPPこと環太平洋連携協定への参加が盛んに議論されていた時、「非関税障壁」という言葉が頻繁に使われました。

非関税障壁というのは、文字通り関税ではないが貿易の障害になるものです。

以前アメリカは日本で米国車が売れないのは、軽自動車などという物があるからだと難癖をつけてきたことがあります。

日本人の感覚では大きすぎて燃費の悪い米国車よりも、小さく経済的な軽自動車を選ぶのは”自由”なわけですが、「軽自動車という日本独自の規格」こそが非関税障壁と認定されることになり得ます。

この論法でいけば、日本で日本語が使われるのも非関税障壁となります。日本で英語でビジネスができないのは、アメリカ人にとっては不自由である、というわけです。

 

TPPの議論の際、アメリカの経済学者ジョセフ・E・スティグリッツ教授が次のように述べていました。

「もしある国が本当の自由貿易協定を批准するとしたら、その批准書の長さは3ページくらいのものだろう。」と。

確かに完全に自由な貿易だということならば、「一切の規制をするな。企業への補助も行うな。」だけで済むはずです。

しかしながら、実際にはTPPの協定書は数千ページにも及ぶ長大な文書になった。

つまり、彼らの言う自由とは「自分にとって都合が良い自由」のことであり、それを各国に認めさせるためには、それだけ膨大な説明書きがなければ成り立たなかった、ということなのです。

まさに高橋是清が指摘したように

「欧米列強が自由貿易を主張するとき、彼らは原理原則に従ってそれを主張しているのではなく、彼ら自身の利益のために主張している」のです。

今こそ貿易の意義を考え直すべき 

私たち日本人は”閉鎖性コンプレックス”、”島国根性コンプレックス”が染み付いています。

そのため「閉鎖的だ」「日本的だ」「海外では〜」と言われると、頭を叩かれたように一瞬で”しょんぼり”してしまいます。

その習性ゆえに、貿易というのは無条件に良いものであり、積極的に展開していかなければならない物だと無自覚に信じています。

しかし、この本で明らかにされているように、貿易とは必ずしもそのような”自由で、公正な”素晴らしいものとは言えない側面があります。

 

もちろん資源小国である日本が完全に鎖国化することはできません。

しかし、だからと言ってありもしない”自由で、公正で、開かれた貿易”などという幻想にしがみついて良い訳でもありません。

貿易とは”貿易することが正しい”からやる訳ではない。あくまで自分たちの利益になるからやるものです。

欧米諸国はそれを理解しているからこそ、貿易のルール作りのために権謀術数を用いているし、それを大航海時代以来何百年も繰り広げているのです。

日本人の美徳とされる”ルールを守って行動する”という律儀さは、そのような狡猾な欧米諸国との貿易戦争においてもむしろ百害あって一利なしといえるかもしれません。

 

海外との貿易が日本にとって必要なのは間違いありません。

だからと言って、すぐさま「じゃあ、自由貿易だ」というのは話ではない。

なぜなら、その自由貿易というルールがそもそも欧米諸国が優位に立つために作り上げられたルールだからです。

欧米諸国との貿易戦争で勝ち抜くためには、「自由貿易は正しい」というナイーブな幻想から離れ、自国の利益を拡大するための戦いであるという現実を再認識する必要があります。

そのような貿易の意義を改めて問い直す上で、本書で描かれている貿易の歴史は私たちにとって非常に重要な意味があるのではないでしょうか。

  

という訳で、今回ご紹介したのはこちら

福田邦夫 著「貿易の世界史」でした。

今回も最後まで長文をお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m 

 

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