世界を救う読書

ビジネス書から文芸書までさまざまな本を通して世界の見方を考えるブログ

電話で尖閣を守れると思っている夢想家集団・菅政権

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米国でバイデン政権が誕生したことを受け、早速日本政府の「お慶び申し上げます」外交が始まっています。岸信夫防衛相は世界最速で新しい国務長官に電話したとかで、誇らしげに語られているようですが、その会談の内容がロクでもない…。

岸信夫防衛相は24日、バイデン米政権で新たに就任したロイド・オースティン国防長官と初の電話会談を行った。東・南シナ海で軍事的影響力を強める中国をにらみ、沖縄県尖閣諸島が米国による防衛義務を定めた日米安全保障条約第5条の適用対象だと確認。 

端的に言えば

日本政府「尖閣諸島に中国が攻めてきたら守ってくれますよね」

アメリカ政府「米国が守る領域には含まれている」

日本政府「あー。良かった。これで中国が攻めてきても安心だ〜。」

 

何なんですかね、これは・・・。

仮にアメリカが「どのような犠牲を払ってでも、尖閣諸島は米国が守る」と言っているのならまだしも、「まぁ、守る地域には入ってるね」と確認しただけです。

 

実はこの「確認作業」は、バイデン氏が大統領選に勝利したとされた際に、菅首相がバイデン氏に「お喜び申し上げます電話」をした時にも行われました。つまりこの二ヶ月ほどの間に二度も内閣関係者が「アメリカは尖閣諸島を守ってくれるんですよね?」という確認作業をしているのです。なんでこんなに頻繁に確認作業を行うのでしょうか?

 

この背景には昨年から尖閣における日本と中国の諍いが先鋭化していることがあります。

 

日本ではほとんど報じられていないのですが、昨年2020年8月21日、イギリスのロンドン大学のアレッシオ・パタラーノ博士が「嵐の集い—魚釣島をめぐる中国の略奪戦略」という論文を発表して話題になりました。

この中で博士は「7月5日が中国の海事活動の新局面を迎えた転換点だ」として、次のように述べています。

中国の公船による39時間23分間にわたる領海侵入単なる「侵入」ではなく、「主権海域の本格的法執行パトロールであり、この中国の行動が日本統治に対する完全な挑戦に向かう」と強調した。この長期滞在中、公船は島から平均4~6マイルまで近づいた海域を航行し、一時的に海岸線から2マイル半まで迫ったと伝えられている。さらに、日本の漁船に接近し、法執行を行使しようとする行為まで行ったのでないかと懸念している。

これはメチャクチャ重要な指摘です。

中国としては日本の領域に"侵入"しているという認識ではなく、"中国の領域に日本が侵入している"という認識だというのです。

さらに、先日1月22日に中国は、日本の海上保安庁に当たる海上法執行機関である中国海警局に、武器使用を含む任務と権限を定めた「海警法」を可決しました。

時事通信によると

中国の主権や管轄権を侵害する外国の組織、個人に対して、海警局が「武器の使用を含むあらゆる必要な措置」を取り、危険を排除する権利があると明記。中国の法に違反した外国の軍艦や公船に関しても、退去を命令したり強制的な措置を取ったりすることができると規定している。

https://www.google.co.jp/amp/s/www.jiji.com/amp/article%3fk=2021012200744&g=int

とのこと。

つまり、中国固有の領土である尖閣諸島に日本の艦船が不法侵入した場合、中国は法律に基づきその外国船を武力で排除できることになった、ということです。

だからこそ日本政府は慌てて「アメリカさんは日本を守ってくれるんですよね!?」と確認しているということなのです。

 

本来なら自分の国は自分で守るというのが当たり前の話ですが、それを完全に放棄してアメリカ様に約束を取り付けるのが精一杯。しかも電話で一本で(笑)。

それにしても、これだけ必死にアメリカにすがる日本政府ですが、本当に有事が起こった際にアメリカは中国と戦争してまで日本を助けてくれるのでしょうか?

 

東日本大地震述べて時に「おトモダチ作戦だ」とか言って駆けつけた割には、福島第1原発の事故が起こった際にも真っ先に脱出。

世界の気候変動を防ぐためのパリ協定もトランプ大統領になった途端離脱したかと思えば、バイデン氏が大統領になったら"いけしゃあしゃあ"と復帰するような国ですよ?

いくら日米安全保障条約を締結しているからと言って、本当にアメリカが守ってくれる保証はどこにもありません。条約を反故にする言い訳なんて後付けで何とでもなります。

 

それにも関わらず、「尖閣諸島日米安保の対象になることを確認した!」とドヤ顔で報告する政権…本当にこの国は大丈夫なのでしょうか??

大丈夫じゃないよね!きっと!知らんけど!(笑 

人はなぜ独裁者を欲するのか? 「独裁=悪」という思い込みこそが危険という話

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2016年にアメリカ大統領に就任したトランプ氏が政権の座から終わり、バイデン新大統領による政権がスタートします。トランプ政権の評価は様々ですが、ある意味で一つの”功績”として考えても良いのは、「政治体制というものがいかに重要であるか」が、世界中で再認識されたことではないでしょうか。特に民主制度という政治制度がいかに脆弱なものであるかが明らかになった4年間であったと言えると思います。

バイデン政権への移行によって世界の流れがどう変わるかは分かりません。今後いろいろなメディアで様々な識者が予測をし出してくるでしょう。ただ、そういった予測の前に、そもそも私たちが当たり前だと思ってきた民主制度が、どういうシステムであるのかを改めて見つめ直すことは、とても意義があることなのではないかと思います。

そこで今回は、民主主義と対極にある「独裁者」の歴史を追うことで、民主政治がどのように生まれ、どのような問題点を持っているのかを検証した本をご紹介します。

 

その本がこちら。本村凌二 著「独裁の世界史」です。

独裁の世界史 (NHK出版新書)

独裁の世界史 (NHK出版新書)

 

著者紹介

本村凌二 (もとむら りょうじ)。1947年熊本県生まれ。東京大学名誉教授。古代ローマ史研究が専門。

本書では民主政が生まれた古代ローマ古代ギリシャの研究を元にして、独裁政、民主政の歴史を追っていきます。

 

本書のテーマ

御覧の通り、この本のタイトルは「独裁の世界史」。このタイトルから考えると、独裁者の歴史を追うような内容だと思われるのではないでしょうか。実は私もそう思って手に取りました。ただ、どうも本当のテーマはそれではない。

この本は著者の専門分野である古代ローマから現代に至るまでの「独裁者」の歴史を取り上げることで、「民主政」「共和政」という民主主義に根差した政治体制というものが、どのように成立してきたのか。そして、その成立の過程を元にしながら、それぞれの長所と短所、問題点を解説している本です。

 

古代ローマの偉人たちの長ったらしい名前 (ペイシストラトスペリクレスとか)が頻繁に出てくるので、ちゃんと読もうと思うと少し大変かもしれません。しかし、個人名や歴史的出来事の正確性をズバッと無視して、ざっくりと「政治的混乱 → 独裁者の出現 → 民主化」という大枠の流れを読むようにすれば、さらっと面白く読めると思います。

 

では、本書の要点をざっとご説明し、その後本書から私たちが引き出すべき教訓をお話したいと思います。私個人の見解ですけどね!(笑)

独裁者だったが「悪」ではなかった人物

まず、一般的に「独裁」というと非常に悪い政治体制というイメージがあると思います。ドイツのヒトラーとか典型ですね。

そういうイメージからすると意外かもしれませんが、この本では「独裁者=悪」という単純な見解をとっていません。歴史を見る限り必ずしも独裁だから悪いという話ではなく、むしろ政治的な危機や経済的な危機においては、独裁による強固なリーダーシップや迅速な判断が必要になる時もある。

例えば古代アテネにおいて世界で初めて「民主政」という政治体制が花開きました。しかし、古代の歴史学者トゥキュディデスによれば、この時のアテネの繁栄はペリクレスという”独裁者”によって築かれました。そして、この独裁者ペリクレスは次のような演説を残しています。

 

「私たちの政治体制は、私たち独自のもので”民主政治”と呼ばれている。これは私たちが他国に誇るべきものだ。我が国では個人間で争いが起これば法律に基づいて、それぞれに平等な発言が認められている。優れた能力の人であれば、たとえ貧乏であったとしても高い官職を得ることができる。

また、個人がそれぞれの自由な楽しみを行うための行動を制限されることもない。個人が互いの自由を邪魔し合うことも許されない。

われわれは法を敬い、他者から侵害を受けた物を救うための法があるし、法を破る行為を恥じる不文律を大切にする気持ちを私たちは忘れない。」

*1

 

政治的手腕という意味では確かにペリクレスは独裁者であったと言えるかもしれません。しかし、彼の理想は現在と比較しても高い民主的政治であったのは間違いありません。実際彼の治世において、アテネの民主制度はもっとも高度に成長したと言われているようです。

彼の例を見ても分かるように独裁者だからと言って、100%悪だとは言えないのではないでしょうか。むしろ「独裁者」の問題は、独裁という制度そのものではなく、そのリーダーが国民のためを思って正しい行動をとる人物かどうかという”個人の資質”にかかっているという点にあると言えるのだと思います。

独裁の問題点

しかしながら、このような個人の資質に依存した体制というのは、組織の長期的な運営を考えた場合は非常に危険です。いわゆるリスクマネジメントができない、ということですね。特に国家のように永続的な組織で、関わる人間の数が大量に及ぶ場合はなおさらです。独裁者だから危険だというのではなく、独裁という制度は永続的な組織運営としては脆弱であることが問題点である。

もちろん凶悪な独裁者による危険性もあります。しかし、仮にその独裁者の資質が優れたものであっても、その独裁者がいなくなれば反動で政治は不安定化し、その混乱に乗じる形でポピュリズムに走ってしまう危険性があるからです。

そのような独裁の脆弱性を回避するために、古代から様々な国々でいろいろな政治体制が考案されてきた。その一つが「民主政」であり、「共和政」であります。

民主政とは何か

「民主政」はよく聞きますが、「共和政」はあまり聞きなれない方も多いかと思います。「そういえば学校で習った気がするな・・・」程度の方が多いのではないかと。

まずこれらの違いを明確にしておきましょう。

 

民主政も共和政も民主主義に基づいた政治体制という意味では考え方は同じです。ただ、具体的なアプローチが異なります。

直接民主制、間接民主制という言葉を聞いたことがある人は多いかと思いますが、民主政とは正確には「直接民主政」のこと。つまり市民や国民が直接意見を出し合って議論し、意思決定を行う体制のことです。しかし、少し考えればわかるように、このような方法は小さい村落のような少人数であれば可能でしょうが、数百万人とか数千万人とかいった巨大な人口の下では実現できません。

 

社会契約論で有名な哲学者ジャン・ジャック・ルソーは、次のように述べています。

「民主政という言葉の意味を厳密に解釈するならば、真の民主制はこれまで存在しなかったし、これからも決して存在しないだろう。もし神々からなる人民があれば、その人民は民主制をとるであろう。これほど完全な政府は人間には適さない。

つまり直接民主制は人間には不可能だと述べているのです。 

共和政とは何か

民主制すなわち直接民主制が不可能であれば、どうすれば民主主義を達成できるのか?そこで考え出されたのが「共和政」です。

共和政とは直接人民が政治にかかわるのではなく、代表者を選出して、その代表者の集団によって意思決定を行うシステムのこと。いわゆる間接民主制のことです。

つまり、日本人には馴染みのない「共和政」ですが、国民の代表者によって構成される国会で政治決定が行われる日本の政治体制も、実は共和政なのです。

先ほど紹介したルソーも現実的に可能な政治体制として共和制を支持しています。

「法によって治められる国家をその行政の形式がどのようなものであろうとすべて共和政と呼ぶ。なぜなら、その場合においてのみ、公けの利益が支配し、公けの事柄が軽んぜられないから。すべて合法的な政府は、共和的である。

 

民主政と共和政の違い

ここまで述べてきたように、政治システムとしては脆弱な独裁政よりも民主政、共和政の方がより望ましいものです。では、民主政と共和政についてはどちらの方がより望ましいのか?

先ほどご説明したように厳密な意味での民主政、つまり直接民主制は現実的な方法ではありません。この本の著者も共和政を支持する立場をとっています。ただ、その理由が独特で面白い。

著者は民主政と共和政を

・民主政 : 平等な市民が全員参加することを基本に議論で意思決定を行う。代表例が都市国家アテネ

・共和政 : 市民全員ではなく市民を代表する集団によって意思決定を行う。代表例が古代ローマ

として定義しています。

「どちらもいわゆる”直接民主制”ではない」という意味では同じなのですが、古代ローマの方がより身分制度がはっきりしており、エリート層が市民を代表して国家運営を行っていたという形です。

 

ここで非常に興味深いのは、古代ローマの人々が渋々エリート層に支配されていたのではなく、その政治体制を誇りに思って受け入れていたという点です。ここにはローマ人の徹底した現実主義的視点があったのではないでしょうか。

確かに理念的には人間はみな平等。意思決定は全員で行うというのは素晴らしい考えだと思います。

しかし、現実的には人間の能力は平等ではないし、考え方や抱えている歴史的背景も違います。そのような多様な人々が”平等に”政治参加をし、意思決定に関わるというのは現実的には非常に難しい。

古代ローマの人々はちゃんとそのことを理解していた。だからこそ、政治に長けている人が政治を行い、生産に長けている人は生産労働に従事する。労働に従事する人々は政治に長けた人々 (=エリート層) を信じて労働に専念する一方、政治家は労働者の信頼に応えるべく政治に真摯に取り組む。もちろん、その信頼を損ねるようなことがあれば、労働者がエリート層の暴走を防ぐための政治的システムもちゃんと担保しておくことも重要。

著者の分析によると、このようなそれぞれの身分の信頼関係と適度な緊張感こそが、古代ローマを500年もの間存続することができた要因だったと言えます。

 

民主政と共和政という2つの「民主主義的政治システム」。

どちらがより民主主義的か?

どちらのがより平等社会か?

という観念的な問題はさておき、実際問題としてアテネが長く見ても100年、ローマが500年存続した。その点を考えれば、著者は国家の統治システムとしては共和政の方が優れていたのではないかと書いています。

 

民主主義の敵もまた民主主義

しかしながら、アテネが100年程度、ローマは500年程度と期間に違いはあるものの、民主主義に根ざした政治体制を取りながら、独裁あるいは帝政といった権力への集中を招き、結局滅亡してしまったという点では同じです。

では、それぞれの政治体制の何が問題だったのでしょうか?

共通しているポイントは「格差の拡大が生んだ社会の不安定化」です。

 

たとえばアテネでは「ペリクレスの市民権法」という法律の成立がひとつのきっかけでした。

この法律の成立以前は、アテネの母親が外国人であっても父親がアテネ人であれば市民権が与えられました。しかし、法律成立後は両親がともにアテネ人でなければならないということになりました。当時のアテネギリシャ世界の広くから人が集まっていたため、同じ都市国家にいながら市民権を持つ者と持たない物が明確に区別されることになり、「アテネ人 vs 非アテネ人」の対立が先鋭化します。これに対外戦争などが重なり、国が混乱して衰退へとつながっていきました。

 

一方のローマは、その強力な軍事力で対外戦争を推し進めた結果、国内の農地が荒廃。農地から離れ都市に流れ込んだ「無産市民」と、奴隷を使って農地開発を行い富を得た上流貴族の格差が拡大。現代でもそうですが、政治的に多少問題があったとしても経済的に国家が安定していれば何とか安定が保たれるものです。しかし、経済格差が拡大すると、平和時には持ちこたえられた社会的混乱は顕在化し、社会の安定は保てなくなります。

 

民主政アテネにせよ、共和政ローマにせよ、社会格差が拡大したことで社会が不安定化。国民に間に渦巻く不満を吸収し、利用する形でポピュリズム勢力が台頭し国家が崩れていく・・・。結果的に共和政ローマの方が長く続いたものの、「民主主義に基づく政治」は社会格差の拡大によって衰退するのが宿命と言えるのかもしれません。

現代の世界の混乱に通じるものがありますね。

日本も民主政治の崩壊間近?

ここまでご紹介してきたように、この本では古代アテネ古代ローマで民主主義的な政治制度が誕生した過程とその衰亡の歴史を追うことで、その弱点を暴き出しています。そしてその弱点とは格差の拡大のこと。特に経済的な格差の拡大が民主政治の崩壊を導くということです。

これは現代にも通じる話ですね。

よく言われることですが、アメリカでのトランプ現象や英国のEU離脱なども一部の富裕層に富が極端に集まる一方、貧困率が上昇するなど経済的格差が広がったことが大きな原因だと言われています(参考 : https://www.rieti.go.jp/jp/special/af/data/060_inoue.pdf)。

 

一方の日本はどうでしょうか?

たとえば、UNICEFによれば日本の所得格差のレベルは先進国の中でワースト8位。厚生労働省の調査によると、OECD基準による相対的貧困率は15.7%で6人に1人が貧困状態で、単身親世帯で見れば実に 48.3%が貧困層にいるとされています(厚生労働省https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa19/dl/03.pdf)。

もちろん一言で「貧困」と言ってもかなり幅があるので、貧困=飢餓状態というわけではないでしょうが、それでも世界第三位の経済大国・日本でこれだけ格差が広がっているのは異常でしょう。

日本ではまだ米国や欧州ほど顕在化していませんが、このような社会格差が広がっている現状では、「民主政治の崩壊」が日本にも迫っていると言っても過言ではないでしょう。

まとめ:なぜ歴史を学ぶべきか

さて、ではこのような社会格差が広がる状況、民主政治が崩壊しかねい状況で、私たちに何ができるのでしょうか? 

一人の人間にできることは限られているし、その人が置かれている状況によってもできることは様々です。特に政治家と強いコネクションがあるという人でなければ、直接的に何か働きかけるということも難しいでしょう。でも、たった一つだけ誰でもできることがあると思います。それは「知ること」です。

 

この本では過去の人々が独裁者の誕生をいかに防ごうとし、そして防げなかったのかについて考察されています。その経緯や理由はさまざまですが、一つだけ確かなのは「誰も悪の独裁体制を築こうとして独裁者を望んだわけではない」ということです。それぞれの時代で、それぞれの人達が混迷の事態を解決しようとして必死に取り組んできた。

 

後から考えれば「何で民主政を放棄して、こんな独裁者を支持したんだ。馬鹿なんじゃないのか。」と思うかもしれません。しかし、その時代の混乱の渦中にいる人達には、自分たちが一体どのような時代の流れの中にいるのかを感じ取ることは非常に難しいものです。

まるで川の浅瀬で溺れている人がパニックになるようなものです。「足が着く程度の深さ」であることも分からず、死ぬかもしれないと必死にもがいてしまう。過去にさまざまな独裁者が生まれましたが、それはそのような必死の取り組みの結果論でしかないのです。

そのような時代の流れの中で重要なのは、「この流れはマズイ」と気付ける人がどれだけいるか。そして、そのために必要なのが、過去の歴史を把握し、現在の自分たちに置き換えて冷静に考える視点を養ってておくこと・・・すなわち「知ること」なのではないでしょうか。歴史の流れを人間一人のちからで変えることはできないけれど、過去の歴史を知ることは誰でもできる。そして、それこそが現在の自分たちの立ち位置を見つめ直し、あるべき道を考える道標になるのではないでしょうか。

そのきっかけとして、本書は一読の価値があるのではないかと思います。

 

 

という訳で今回ご紹介した本は、本村凌二著「独裁の世界史」でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m

 

独裁の世界史 (NHK出版新書)

独裁の世界史 (NHK出版新書)

 

*1:※トゥキュディデス「戦史」。原文はちょっと長いので意訳・要約しました。

”逃げ恥”スペシャルが超絶つまらなかった。※面白かった人は読まないでください。

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いつも硬い話題を取り扱う私としては珍しく、今回はテレビドラマについての話題を投稿します。

そのドラマとは・・・

 

国民的人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!」!!

初回は2016年でしたが、それから毎年年末に全話再放送されるのが恒例となるほど異常な人気を見せる「逃げるは恥だが役に立つ」。

私は正直、新垣結衣はそこまで可愛いと思ったことはない。

星野源もどっちかって言うと好きではないタイプ。

そんな二人がダブル主演とあって私も最初の3話くらいは見逃してました・・・が、妻の勧めてチラッと観てみると、これがすっごい面白い。完全にハマってしまいまして、再放送の度に全話見ている有様です。

 

そんな「逃げ恥大ファン」の私ですが・・・・正直今回のスペシャル版は「正直イマイチ。」いや、むしろ「やらない方が良かった」と思いました(笑)。期待が大きかっただけに、「なんじゃこりゃ?」というがっかり感が半端なかった。正確に言うと

 

(以下ネタバレ注意)

 

みくりの出産までは、まぁ結構面白かったんですよ。

でも、その後の「コロナ編??」みたいなのになると、もう駄目。全然駄目。もはや登場人物が同じなだけの完全に別のドラマ。

出産までで終わらせて逃げ切れば良かったのに(笑)。

なんでこんなことになった???

 

という訳で、今回は逃げ恥スペシャルの何がつまらなかったのか。

ファンの視点から考察してみたいと思います。

※あくまで個人の主観です!(笑)

そもそも「逃げ恥」の何が面白かったのか?

ドラマ「逃げ恥」の面白さの要因はいくつもあると思いますが、代表的な物を挙げると

 

1) 登場人物の誰もがすごい能力が高いのだけど、"どこか抜けてる”愛らしさがある

2) 話の展開のテンポ感 (緩急のつけ具合)

3) シリアスとコミカルと絶妙なバランス

 

といった所ではないでしょうか。

まず1番目の「キャラの愛らしさ」。

主人公の津崎平匡 (星野源) & 森山みくり (新垣結衣) コンビは言うに及ばず、石田ゆり子古田新太、藤井 隆、富田靖子など、脇役も「しっかりしてるんだけど、ちょっと抜けてる」愛らしさがとても魅力的。

みんなすごく能力が高いんだけど、そのちょっと抜けてる所が本当に身近にいそうな親近感を与えてくれて、どのキャラにも愛着が湧いてきます。

 

次に「話のテンポ感」。

基本的にほのぼのしたキャラ & 話題が多いので、全体的にゆったりとした展開なのですが、会わせちゃいけない人が鉢合わせになったり、逆に会わせたいのに絶妙にすれ違うといった展開によって、ところどころ緊張感を持たせて視聴者をハラハラさせる。このテンポ感が絶妙!

 

そしてもうひとつが「シリアスなテーマをコミカルに描くバランス感」。

「コミュ障」「リストラ」「就職難民」など、非常に現実的な社会問題に翻弄される人間模様を描きながらも、ところどころでお笑い的演出(懐かしのテレビ番組をモチーフにしたをネタ)や主人公二人のぶっ飛んだ妄想ネタを仕込んだりすることで、シリアスさと面白さのバランスを保っていたところです。

だからこそ「基本笑えるんだけど、単純なバカ騒ぎじゃなくて親身になって考えさせられるリアリティがある」番組になっていた。それが魅力だったと思うのです。

 

 

それが今回の特番ではどうだったのか?

「キャラの愛らしさ」という意味では、従来通りの面白さをしっかり保っていたと思います。

「こだわりどころ、そこかよ!」「素直に言っちゃえば良いのに・・・もどかしい!」みたいなツッコミどころ満載のキャラのボケっぷりは相変わらず。

 

問題はそれ以外。

・とにかく話のテンポが悪い!(特に後半)

・シリアスの比重が大きくなりすぎて、コミカルさとのバランスが崩壊している!

 この2点がもう致命的でした。

そして、この二つの根幹にあるのが「社会問題の提起が多すぎる」という点です。

 

逆にLGBTを馬鹿にしたネタ作り

前半にみくり(新垣結衣)の叔母である「ゆりちゃん (石田ゆり子)」に突然子宮がんが発覚。に「女性らしい美しさ」「一人で生きていくことで難しさと格好良さ」を貫こうとする女性の前に、年齢から来る現実が容赦なく襲い掛かる・・・・これ自体は良いのです。こういうリアルな部分をしっかり描くことが、この作品の魅力だと思いますし。

ただ、ここでなぜか突然「LGBT」の話題が絡んでくるのが意味不明 (子宮がんの診断を受ける時に、高校時代同級生だったLGBTの新キャラが突然出現して、「昔あなたのことが好きだった」とか言い始める)。

私はLGBTの話題が駄目だったというつもりはありません。

自分の周りにも実際そういう人がいますし、別にそれがおかしいと思ったこともないです。

ただ、突然新キャラを出してまで無理やり突っ込む意味があったとはとても思えない。あまりにも不自然すぎる。その上、ゆりちゃんの子宮がん摘出手術が終わったら、もう完全に「あの設定なかったことで」みたいにガン無視。一度も新キャラ出てこない・・・。

 

もし本当にLGBTを入れるのであれば、ちゃんと最後まで向き合うべきだったと思う。それがあんな中途半端な形で入れられると、逆に「とりあえず時代の流れ的にLGBTネタ仕込んでおけば良いでしょ」みたいなLGBTを馬鹿にしているようにしか思えません。

やるならやるで、ちゃんと最後まで回収すべきだったのではないでしょうか。

 

一切回収できなかったコロナ禍ネタ

そして、後半突然仕込まれたコロナ禍ネタも最悪でした。

前半から「2019年XX月XX日」みたいなカウントが始まっていたところから、嫌な予感がしていたのですが、2020年になるといきなりコロナで生活が激変!みたいな急激な展開。

しかも、これがコロナ禍で主人公がひたすら翻弄されるだけで、主体性がまったくない。主人公なのに物語を動かせずにオロオロするだけとか・・・これは何の話なんですかね。

しかも、最後はコロナ禍が終息したという設定なのか、引き離された主人公二人が突然マンションの前で「おかえり」とか言って抱き合うシーン。

ん??コロナはどうなった?

二人は何をどう乗り越えて、この抱き合うシーンに至ったのだ?

途中

「男が”子育て”と向き合うとは、どういう現実があるのか?」

「夫と妻が家族になる上で、男としての責任、女としての責任に対して、現代人はどう向き合っていくべきなのか?」

といった非常に重要な問いかけがあったはずですが、それらは全くなかったかのように未回収。

コロナで全部ぐちゃぐちゃになっちゃったから、話の設定もめちゃくちゃになっても仕方ないでしょ?っていうことなんでしょうか。あまりにも風呂敷のまとめ方がめちゃくちゃで話が崩壊していたとしか思えません。

 

なこんな酷い展開になったのか

という訳で、逃げ恥ファンの私としては今回のスペシャルはもう完全に期待を裏切られたという感想です。

これだったら「その後が知りたいという視聴者の要望なんて無視して、そのまま逃げ切って欲しかった」(笑)。

 

なぜこんなことになってしまったんでしょうか。

これは私の勝手な推測ですが、「色んなネタを突っ込みすぎた。しかも後付けで。」ということではないかと思います。

上の方でも書きましたが、ひどかったのは後半で前半はそれなりに面白かったんですよ。ゆりちゃんが子宮がんになるのも、その後がしっかり回収されればちゃんと成立していたはず。

平匡とみくりに子供ができて、それに対し父親が「男としての責任にちゃんと向き合わないといかん」と迫るシーン、そしてそれを受けて平匡がその責任に苦しむ流れなんかは、ちゃんと最後まで描ききればとても良いテーマになったはずです。

 

恐らく当初はそのような「平匡とみくりという普通じゃない夫婦が、子を授かることで自分たちなりの家庭を築いていくための葛藤」をしっかり描いていく話だったのではないでしょうか。

それが「視聴率優先」で”LGBTネタ”を無理やり突っ込み、「コロナ禍ネタ」を突っ込み、”ガンバレ人類”などという訳の分からないサブタイトルをつけて無理やり体裁を整えた。そんな”視聴率優先の後付け、無理やり、全部ぶち込み作戦”が、「逃げ恥」という物語を崩壊させたのではないかと思います。

 

という訳で、私としては最悪だった逃げ恥スペシャルでした。

逃げ恥ファンの私としては非常に残念でした (それなりには面白かったですけど、期待値が高かったので・・・)。

是非次は今回回収できなかった伏線を回収した「完全版ファイナル」を制作してほしい!

それが一ファンとしての切なる願いです!!

 

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございました!m(__)m

 

 

”自由意志”という呪縛が本当の自由を奪う。國分功一郎「はじめてのスピノザ」

皆さん、新年あけましておめでとうございます。

遅筆のためなかなかブログの更新頻度が上がりませんが、今年こそは週一更新を目指して、皆さんのためになる情報をお届けしていきたいと思っております。

今年もよろしくお願い申し上げます。

 

さて。

という訳で、早速2021年の一本目にいきたいと思います。

お題は、國分功一郎著「はじめてのスピノザ」です。

 

著者紹介

みなさんは本を買う時、どんな風に買う本を選びますか?

気になった本をとりあえず買ってしまう人もいれば、ECサイトでのレビューをチェックしてから読む人など様々でしょう。

私も基本的には中身を吟味してから購入するタイプなのですが、たまに「著者買い」をする人がいます。”この人が書いた本なら即買ってしまう”という感じです。

その一人が今回レビューする本の著者、國分功一郎氏です。

 

國分氏は東京大学教養学部の准教授。専門は哲学、現代思想。哲学者あるいは哲学研究者ですね。私もいくつか國分氏の著作は読んでいますが、難解な哲学的概念を分かりやすく、たとえ話を交えながらかみ砕いて説明するのがとても上手い方です。

そんな著者が今回取り上げたのが、17世紀のオランダの哲学者として有名なスピノザ。そして彼の代表作である「エチカ」。日本語では「倫理学」と訳されています。

いかにも”哲学書”っぽいタイトルの本で、それだけで敬遠する人もいるかもしれません。

しかも17世紀に書かれた本だとなると、哲学好きな人にウケそうな「難解な哲学解説書」を想像してしまうかもしれませんね。

ところが、この國分氏の手にかかると、これが不思議なことに「現代のわれわれが読むべき名著」に早変わりしてしまうので驚きです。

説明がうまい学者=優れた学者とは限りませんが、複雑で難解な概念を専門知識がない人にもわかりやすいようにかみ砕いて解説できるというのは、やはり力量に秀でた学者であると思います。

 

なぜ今スピノザを読むべきか

さて、國分氏が今回取り上げるスピノザの「エチカ」は、17世紀に書かれた著作。そんな大昔に書かれた哲学書をなぜ今読むべきなのでしょうか?

この本の中で國分氏はスピノザの「自由」という概念を取り上げます。

普段私たちがよく使う「自由」という単語ですね。

しかし、この本を読んでスピノザの考え方を知ると、実は私たちが知っている「自由」というものが決して当たり前ではないこと。私たちの知らない「自由」の在り方や考え方があり得るのだということが分かってきます。

これが実に爽快でとても面白い。

 

そして、このスピノザ的な自由を知ると、この自由こそが現代を生きる私たちにとって非常に重要な意味があることが分かります。

 

自由とは何か?

私たちが普段「自由」という言葉を使う時は、「自由意志」という言葉が使われるように、「何かの制約を受けずに、自分の意思で言葉を発したり、行動したりできること」という意味で使います。

ところがスピノザによると、このような「自由意志」は存在しません。幻想、あるいは思い込みに過ぎないのです。

自由な意思など存在しない???

どういうことでしょうか?

 

分かりやすい例が人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」に出てくるワンシーンです。

このドラマは新垣結衣が演じる「森山みくり」が働き口がなく困っていたところ、ひょんなことから津崎(星野源)という独身男性の家で家政婦として働くことになります。その上、働き口が欲しいみくりと、仕事で家事をする暇がない津崎は”利害”が一致して偽装結婚を行い、戸籍上は夫婦でも何でもない「契約結婚生活」を始めることに。

しかし、そんな二人が徐々に惹かれ合うようになり、その関係が少しずつ変わっていくというストーリーです。

そんな「逃げ恥」にこんなシーンがありました。

 

「あなたの自由意志です」by 星野源

ある時お金に困ったみくり(新垣結衣)が、津崎(星野源)と同じ職場で働くイケメン独身男性から「うちでも家政婦をやってくれないか」と誘われます。みくりは”雇い主”である津崎にどうすべきか相談を持ち掛けるのですが、すでにみくりに恋心を抱きながらそれをうまく表現できない津崎は、嫉妬心満々で「彼のところでも働けば良いじゃないですか。どうするかはみくりさんの自由意志です。」と言い放ちます。

止めてくれると思っていた津崎に心ない一言を告げられたみくりは、怒って「じゃあ、働きます!」と豪語する羽目に・・・。

 

という感じ。

(実際のセリフとかはちょっとアレンジしてます。ちゃんと知りたい方はDVDで(笑))。

 

問題はこの津崎が言った「どうするかは自由意志です」という言葉です。

確かにただの「雇い主」でしかない津崎に「ほかの場所で働くな」とは言えません。しかし、契約結婚とは言え世間的には一応「夫婦」。しかも、お互い少しずつ恋心を抱いているのですから、本当であれば「行くな」と言って引き留めるのが”格好良い男”でしょう。

ただ、女性経験がなく、自尊感情の低い津崎にはそんなことは言えず「あなたの自由意志です」という言葉で逃げたのです。

 

その言葉を受けてみくりは「自由意志で」男性の下で働くことにする訳ですが、これは本当に「自由意志」なのでしょうか?

確かにみくりは「彼の下では働きたくない。あなたの所にいます。」という選択もできたでしょう。しかし、上記のような話の流れでそんなことが言えるでしょうか?

まぁ、言えなくもないでしょうが、「空気」としては非常にいいづらいと思います。

スピノザが「自由意志など存在しない」というのも、まさにこれと同じなのです。

 

私たちの行動は社会との関係で決まる

自分の自由な意思で決めたと言っても、実際にはその人の過去や立場、あるいは周りの人との関係性によって、決断しなければならないことがほとんどです。

それは何も人生の大きな決断だけではありません。学校や職場から家に帰る時に何かおやつを買って帰ろうと思っても、家で誰かがご飯を作ってくれていればそのご飯のおかずに配慮することもあるでしょう。あるいは、健康診断で医者に止められた物は食べないようにしようとか気を遣うこともあるでしょう。

私たちの日々の生活の中において、本当に何の制約もなしに自由意志で決められることなどほとんどありません。すべてのことが自分の過去の経験や未来への予測に基づいた何かしらの条件のもとに、比較的納得のできる選択肢を選んでいるに過ぎないのです。

 

國分氏によると、スピノザは世間一般で言われるような「自由な意思」という存在を認めていません。とは言え、「意思の存在」そのものを否定している訳ではありません。意思は確かに存在している。その意味で私たちはロボットではありません。ただ、その意思とは何ものにも制約を受けないような自由なものでもない。

私たちの意思は常に何かの原因に影響を受けて、左右されている。つまり、私たちの意思の自由とは私たちの周りの環境、社会との関係性によって決まっていくものであり、「何ものにも縛られない自由」「自分の意思で行動を決めることができる自由意志」などという物は、端から存在しないというのです。

重要なのは、そのような制約の中でどの程度自分の能動的な意思を表現できるのか。その自由の度合いを高めていくことなのです。

 

「自己責任論」からの脱却

ではこのようなスピノザの自由に対する考え方は、現代の私たちにどういう意味を持つのでしょうか? 

単に哲学的な問いかけを禅問答のように繰り広げるだけなのでしょうか?

そうではありません。

このスピノザの自由に対する考え方は、私たちに非常に大きな意味を持ちます。

 

現代の私たちにとって「自由」とは、人として生まれた時から当然与えられているものであり、それが阻害されているのであればそのような社会環境が間違っている考えられています。しかし、これはある問題を引き起こします。それが「自己責任論」です。

私たちは社会的に高度な自由が認められているのだから、その中で”失敗”や”脱落”をしたのならば、それは

「あなたが自由意志で選んだ結果だ。」あるいは「そのような結果しか出せなかったあなたの努力不足だ。」

という自己責任論を導き出します。

先ほどの逃げ恥で言う「あなたの自由意志です」というやつですね。

 

しかし、自分の決定は必ずしも自由意志で行われるものではない。社会との関係性の中で”事実上選択肢がなかった”ということになれば、誰か個人の失敗も社会の関係性の中で導き出された必然だということになります。

つまり、そもそも自由意志が存在しないのだから、自己責任論で片づけることも誤りだということになるのです。

 

「自由」が責任回避を肯定する?

もちろん私も何でもかんでも「他人のせい」「社会のせい」「自分は悪くない」という無責任論者は嫌いです。しかし、世の中には自分の意思だけでは何ともならないことが存在するのも事実です。

どんなに必死に努力しても、ちょっとしたタイミングや人との相性などの「運」や「社会環境」よって、その努力が恵まれないこともある。夢が実現するには運が絶対に必要。残念ですがそれが現実です。

人の成功や失敗は、その人個人にも、社会にもそれぞれ責任がある。

それを「自己責任」「自由意志の結果」で片づけることは楽ではあります。自分が生き残るのに精いっぱいなのに、他人の人生になんか構っていられるか!というのも切実な思いでしょう。

しかし、やはりそれは社会的責任を背負うという義務から逃れるための言い訳に過ぎない。さらに言えば、他人の人生に対して何ら責任を取らない欺瞞から目を背けるための都合の良いレトリックなのではないでしょうか。そのための根拠として「自由」という言葉が使われているのだとしたら、世間一般で用いられている「自由」という言葉は、なんと”自分勝手な自由”なのでしょうか。

 

まとめ

私たちは日頃、無自覚に、無条件に「自由とは良いものだ」と信じています。

しかし、今回ご紹介したようなスピノザの議論をもとに考えると、実は私「自由」とは必ずしも素晴らしいものとは限らないのではないか・・・という疑問が沸き起こってきます。

もちろん、それでも改めて「やっぱり自由は良いものだ」と再確認することもあるでしょう。それはそれで一つの考え方です。

ただ、自分が無自覚に当たり前として受け入れているものが、実は当たり前でも何でもないかもしれないという前提で改めて考えなおすことは決して無駄ではないと思います。

 

私は哲学書の類は時々読む程度ですが、このような「当たり前と思っていることの意義をもう一度問い直す」という時に、哲学というのはとても参考になると思っています。ましてや、17世紀から今に至るまで長年の間読み継がれてきた本であるなら、そこには私たち個人では思いつきもしないような深い洞察が込められているに違いありません。

スピノザの「エチカ」は哲学書の中でも非常に難しい書物だと思います。

ただ、やっぱり難しいからという理由だけで手をつけないのはもったいない。

その意味でも國分功一郎氏のような非常に説明力に長けた人物が、新書という読みやすい形でこのような解説書を出してくださったことは、とても意義深いものだと思います。

ぜひ一人でも多くの人にこの本に触れていただきたいと思います。

 

という訳で今回ご紹介したのは、國分功一郎著「はじめてのスピノザ」でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m

 

 

2021大河ドラマの前に知っておきたい渋沢栄一「論語と算盤」のもう一つの読み方

今回お届けする読書レビューはこちら。

日本の資本主義の父と言われる明治の偉人、渋沢栄一の代表的著書「論語と算盤」です。 

 

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:渋沢 栄一
  • 発売日: 2008/10/24
  • メディア: 文庫
 

 

 

渋沢栄一と言えば、2021年大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公として取り上げられ、2025年に刷新される新一万円札の肖像画に選ばれるなど、にわかに注目が高まっている人物です。

 

この「論語と算盤」は渋沢が著した書籍の中でも特に有名なもので、現代にも通じるビジネス書として広く読まれています。ただ、原文がかなり古い表現で書かれているため難易度が高い。そのため分かりやすく解説した書籍が数多く出版されています。その内容を一言で言えば、

「仕事やビジネスは自分の利益だけ考えてやっていては駄目だ。世のため、人のためになるかどうかを意識して取り組みなさい。論語にはそのための秘訣が書いてあるのだ。」

という感じです。いわば”道徳の教科書 ビジネス版”、それがこの「論語と算盤」だということですね。

 

これがすべて誤りであると言うつもりはありませんが、個人的には「表面的な解釈だな」という気がしています。

確かにそのような”実生活で役に立つ“秘訣が数多く書いてあるのは事実です。しかし、実はこの「論語と算盤」はそのような個人の道徳と経済の両立という“小さな話”ではなく、もっと壮大なスケールの大きな「国家戦略としての論語と経済のあり方」が書かれているのです。

そして、その観点こそが現代の私たちにとって非常に重要なポイントです。

ところが、残念ながらそのような視点で書かれている解説書はほとんどありません。それじゃあ、あまりにももったいない!

 

という訳で、今回は誰も光を当てていない「論語と算盤」に隠された渋沢の本当のメッセージに焦点を当てたレビューを書いていきたいと思います。

ちなみに、今回のレビューでは本書から引用した言葉をいくつか紹介しますが、原文は難解な表現が多いため基本的には分かりやすい表現に改めてあります。その点はご注意ください。

 

 

渋沢栄一とはどんな人?

論語と算盤の内容に入る前に、まずは渋沢栄一とはどのような人物なのかをざっくりさらっておきましょう。とっくにご存知の方は読み飛ばしてもらって大丈夫です。

 

渋沢栄一は江戸末期の1860年に今の埼玉県深谷市に生まれました。

 

彼の家は農家でありながら、養蚕や藍染も生業にしており、経済状態はかなり恵まれていたようです。いわゆる「豪農」というやつですね。

 

幼少期から文武両道。

 

剣術は神道無念流(桂小五郎永倉新八といった幕末を代表する人物も修得したことで有名)。また「論語と算盤」に見られるように「論語」や四書五経といった古典にも精通し、幼い頃からかなり秀才ぶりを発揮していたようです。

 

青年期には尊皇攘夷思想に傾倒。一時期は倒幕派の志士とも行動をともにして、横浜を焼き討ちして外国人を片っ端から斬り殺す計画も企てていたほどの激烈な人物だったようです (横浜焼き討ちは身内に説得されて断念した)。

 

そんな倒幕派だった渋沢は、ひょんなことから全く逆の幕府側・・・しかも後の十五代将軍、徳川慶喜の配下で働くことになります。その上、幕府の司令によりフランスに留学していた時に大政奉還が成立。大本の徳川幕府が倒れてしまったことで、急遽日本に引き戻されるという大波乱に巻き込まれます。

 

明治維新の時には幕府側だったものの、その有能さゆえに維新政府に参画し八面六臂の活躍を見せます。しかし、維新政府との方向性の違いを痛感して退職。その後は民間の側から日本国を支えるために、約470社に及ぶ企業の設立に関わります。彼が関わった企業と言えば、(現在の)みずほ銀行王子製紙キリンビール (現キリンホールディングス)、サッポロビールなどなど・・・などなど。いずれも現在にまで続く大企業が名を連ねます。渋沢栄一の名前を知らなくとも、彼の偉業は私たちの日々の生活にとてつもない影響を与えていることが分かりますね。

 

1931年、直腸がんによって死去。享年91歳。

渋沢の葬儀の車列が通った際には沿道には多くの人々が押し寄せ、その死を悼みました。

 

まさに幕末〜明治という激動の時代を生き抜いた男、それが渋沢栄一と言っても過言ではありません。

 

そんな渋沢がこの「論語と算盤」を書いたのは、第一次世界大戦中の1916年。つまり渋沢が77歳の時です。現代でも77歳と言えば高齢ですが、当時の77歳と言えば、もう余生も終えようかという年齢。そんな時にどうして渋沢はこの本を書こうとしたのでしょうか?

まずはその辺りから探ってみたいと思います。

国家社会を強く意識した渋沢

渋沢がこの本のタイトルに選んだ「論語」と「算盤」。

この論語とは“道徳“のこと、そして算盤とは“実業”あるいはざっくり“経済”のことだと思って貰えば良いです。

渋沢は本書の中でこれらの重要性を説いていますが、それ以上に何度も出てくる言葉があります。それが「国家のために」「社会のために」という言葉です。

実業(=経済)と道徳心の修養が重要である。それは国家をより強くしていくために、社会をより良くするために重要なのだ、と。

たとえば、渋沢自身が実業家を志した理由も

「欧米諸国が現在のような隆盛を誇っているのも商工業が発達しているからである。日本が今のまま現状を維持するだけでは、彼らと並び立つことはできない。国家のために商工業の発達を図りたいと思った時に、実業界で生きていこうという決心がついたのだ (本書P85)」

と述べています。

まさに国家の発展に民間サイドから寄与するために実業界を志したのです。

 

また、それ以外にも自分の能力や、それによって得た富は国家社会のために活用しなければならないといった、国家社会と個人の関係の重要性を述べている箇所がいくつも出てきます。

「専ら私は国家社会のために尽くすことを第一に考えている。自分の富とか地位とか、子孫繁栄とかいうものは二の次だと考えているのだ。」(本書P98)

 

「(知識や精神の)修養はただ自分のためだけではなく、国家の隆盛に貢献するものでなくてはならない。」(本書P204)

 

「今では国家の富国強兵よりも自分の富を増やそうとする人間が多くなっている。自分のことだけを考え、国家社会を眼中に入れないということは全く嘆かわしい。」(本書P216-217)

例をあげれば切りがありませんが、このように渋沢は何度も「国家のために」「社会のために」という言葉を使っています。

論語と算盤」を紹介する書籍はたくさんあるのですが、なぜかここに触れている物はほとんどありません。しかし、本当はこの「国家社会のために」という枠組みこそが重要であり、これを見落とすと、この本はただのよくある“道徳のススメ”になってしまいます。

この本を理解するためには、この点はもっと注意して考えるべき重要なポイントになります。

 

渋沢の考えていた「国家と個人」の関係性

渋沢が「国家社会」を意識していたからと言って、それは必ずしもいわゆる軍国主義的な国家像を描いていたとは限りません。渋沢の意図を測るには、渋沢が国家社会というものをどのように考えていたのか。つまり渋沢の国家観について知っておく必要があります。

 

国家観とは難しい言葉ですが、簡単に言えば「国家」に対してどのようなイメージ、あるいはビジョンを持っているかということです。

例えば現代の私たちは「国家」というものにある種の拒否反応を持っています。それこそ国家と言えばヒトラーナチスのように「個人を力づくで従わせ、自由を奪う権力」のことであるかのように思っている人も多いでしょう。

 

しかし、渋沢は国家をこのような個人と対立する概念だとは考えませんでした。

例えば本書の中で渋沢は下記のように書いています。

「人はただ一人だけでは何事もなし得ない。国家社会の助けによって自ら利益を得ることができるし、安全に生きていくことができる。もし国家社会がなかったら、何人もこの世で生きていくことは不可能だろう。

そう考えると、富が多い人ほどよりたくさんの助力を社会から得ているわけであるから、救済事業 に力を注ぐのは当然の義務であり、できる限り社会のために尽力しなければならないのだ。」(P134)

つまり、国家社会と個人は対立するものだと考えていなかった。国家があるから個人は生きていくことができる。だからこそ個人もまた社会のために尽力すべきであるという、言わば”補完的関係“にあるというのが渋沢の国家観でした。

 

このことは現在コロナ禍においては、私達にも理解しやすいのではないでしょうか。

たとえば感染拡大防止のために政府が店舗などに自粛要請を行うこと、国民に移動の制限を行うことも、”やり方”はともかく規制が行われること自体には多くの国民が理解を示していると思います。これもまさに「経済と安全のバランス」を国民と政府で補完する関係を示す一つの出来事だと思います。

 

論語と国家

では、この国家と国民が補完関係にあるという国家観の下で、なぜ「論語」が重要になるのでしょうか?

ズバリそれは「国民の間の絆を強くするため」です。

安っぽい表現ですみません(笑)。でも、本当にそうなんですよね。

もうちょっと詳しく考えてみましょう。

 

昨今よく聞かれる言葉に「多様性」というものがあります。

たとえば2021年にアメリカ大統領に就任する予定のバイデン氏も、選挙中から多様性の大切さを繰り返してきましたが、言われるまでもなく人間が社会で生きていくためには多様性の尊重が重要なのは間違いありません。しかし、「多様性が大事だ!」と言っているだけでは多様な社会は構築できないのも事実です。家庭環境、生活レベル、考え方、全てが違う人たちがお互いを受け入れて共同生活を営んでいくためには、お互いに共通項がなくてはならないのです。

 

それはたとえば言語であり、文化であり、歴史でもあります。その一つが「道徳」であり、日本人が共有できる道徳的指標だとして渋沢がもっとも重視したのが「論語」だったのです。

 

とかく現代の私たちは世界に通じる普遍的な真理や原理が世の中にはあると信じがちです。道徳にもそのような「普遍的な道徳」があるものだと思われがちです。しかし、本当にそうでしょうか?

少なくとも渋沢はそのようには考えていなかったようです。

渋沢は本書「実業と士道」の中で

「国が異なれば道徳の観念も異なるのが自然である。したがって、細かくその社会の組織や風習を観察し、祖先から受け継いだ素養や慣習も考え、その国や社会に適した道徳観念の育成に務めなければならない。」

と述べた後、論語の一文を紹介した後に、古来の日本人の習慣性から生まれる道徳観を堂々と誇るべきだと記しています。つまりそれぞれの国や社会に適した道徳が存在するのであり、論語こそが私たち日本人の習慣に根ざした道徳的指標であると渋沢は考えていたわけです。

 

もちろん「論語に書いてある道徳を日本人が全員共有せよ」などというマッチョな発想ではありません。渋沢が「論語」を重視したのは内容そのものよりも、論語という一つの道徳観に多くの人が触れ、一人でも多くの人がそれについて考えを巡らせること。それによって国民の一体感、つまり共同体意識を取り戻すことではないかと思うのです。

算盤と国家

次に、渋沢が国家社会と国民の繋がりを考える上で意識したもう一つの要素、それが「算盤」つまり経済でした。 

ただ、渋沢が本書を著した当時は国家経済、特に資本主義経済は大きな転換点を迎えていたことを知っておく必要があります。それは第二次産業革命です。

第二次産業革命後の経済の変化

日本では、産業革命というと18世紀に起こった第一次産業革命のことを指すことが多いです。蒸気機関の発明によって繊維の生産力が拡大したとか、石炭によって動く蒸気船が開発されたことで、欧米諸国が世界中に版図を広げていったという話は誰しも歴史の授業で習ったのではないでしょうか。しかし、実は資本主義の発展という意味では、蒸気機関による第一次産業革命よりもその後の”第二次産業革命”の方が圧倒的に影響が大きかったのです。

第二次産業革命とは石油化学や電力という新しいエネルギーによってもたらされた革命のこと。鉄道や蒸気船によって人、物、情報の流れのスピードが圧倒的に速くなり、現代に通じるグローバリゼーションをも誘発しました。

この第二次産業革命後の産業には2つの大きな特徴があります。それが「規模の経済」と「範囲の経済」です。

 

電力を使用した機械や石油化学製品などは大規模な設備の建設が不可欠となるため、莫大な金額の投資や土地などが必要になります。しかし、それができれば大幅なコストメリットが得られ、収益もかつてないほど得られるようになる。これを「規模の経済」と呼びます。

そして、石油製品や製鉄機械などは同じ原材料からさまざまな商品を生み出すことができるため、特定の範囲内で多品種生産を行った方がコストの削減が可能であるとともに、大量の数の製品を生み出すことが可能になります。これを「範囲の経済」と呼びます。

 

 「国家 vs 企業」ではなく「国家x企業」という戦略

このような「範囲の経済」「規模の経済」が強く働く第二次産業革命後の世界では、それ以前のような小規模事業では成果を上げることはできません。

渋沢も

「維新以降、世の中の機運が高まるに伴い、国家の経済組織もより複雑なものになっていき、商業にせよ、工業にせよ、大資本を投資して壮大な計画の下に物事を推進していかなければならない時代になったのだ」

と述べ (青淵百話)、大規模な計画の下に経済を推進していかなければ、当時の世界経済の中で生き残っていくことは困難であることを痛感していました。つまり、様々な事業体のバランスを取り、必要な社会的制度を練り上げていく国家が非常に重要な役割を果たしていたわけです。

この流れは基本的に現在の製造分野においても変わっていません。それどころか、IT分野でのアメリカ、EU、中国の国家的な対立に明らかなように、”国家と企業の複合産業体”としての戦略はますます苛烈になっていると言えます。

 

渋沢はこのような第二次産業革命後の激変する経済社会の姿を目の前で見ていました。だからこそ、実業家が自分の利益ばかりを追求してバラバラで闘っているような国家体制では、早晩日本の没落は避けられないことを渋沢は見抜いていたのでしょう。

道徳のみならず、経済の面においても国家社会がより強く結びつくことの必要性を強く感じていたのです。

 

ちなみに、このような国家と企業の協業関係的な戦略眼は、これからますます重要になってくると思われます。

dそれはデジタル分野での「米国 vs EU」「米国 vs 中国」の対立にあらわれているように、先進技術分野の開拓においては非常に重要な視点です。なぜなら、渋沢が見抜いたように、あるいはそれ以上にそれらの事業分野においては、短期的な利益に左右されない「国家」だからこそできる超長期的な視点と、強制力を伴った統制もまた重要になるからです。しかしながら、今の日本は「あくまで主体は民間企業で、政府はそのサポートをするだけ」という姿勢が抜けません。それは「政府のような公的機関よりも民間企業の方が効率性の高い展開ができる」という盲信が基盤にあるように思われます。

これからの先端技術分野の開拓においては、政府と企業が短期的利益ではなく「国家社会のために」という共通の目的の下、一丸となって取り組んでいく姿勢がますます重要になるのではないでしょうか。 

まとめ

では、そろそろまとめに入りたいと思います。

渋沢栄一がこの本を著したのは、道徳と経済の両立の重要性を国民に説くことが必要だと考えていたからでした。

しかし、あくまで渋沢が説いたのは「自分1人の利益を追求するのではなく、みんなと分かち合おう。そうすれば誰もが幸せになれる。」というようなヒューマニスティックな“道徳のススメ”ではありませんでした。

 

渋沢は、まだ帝国主義が色濃く残っている世界で日本が生き残るためには、国家社会をより強靭なものにすることが必須だと考えていた。近代社会においては国家社会の存立こそが国民の生活を保障するものであり、そのような国家があるからこそ国民も自分の能力を精一杯奮うことができる。そんな国家観を持っていた渋沢にとって、一人ひとりの国民の幸福のためにも国家社会の強靭化は必要不可欠だったのです。

 

そして、その場合の強靭な国家とは”西洋的な弱肉強食の国家”ではありませんでした。渋沢はこのようなアプローチを、論語でいう「覇道」だと述べて否定しています。そうではなく、”道徳と経済を両立した国家”・・・論語で言う「王道」こそが、日本という国に相応しい戦略だと考えていたのです。

渋沢がこの本で敢えて迂遠とも思える「道徳」と「経済」の重要性を説いたのも、あくまでその戦略的な流れにおいてでした。

私はこれこそ今の私たちが渋沢から受け継ぐべきもっとも重要な視点ではないかと思います。

 

もちろん、現代の私たちがいきなり「国家社会を強くするために生きる!」というような目標を掲げることは、相当難しいのは事実です。明日から生き方を変えることもできません。

しかし、その一方、現代社会において誰もが自分の利益や目先の利益だけを考え、人かの利益を奪い取ろうとする弱肉強食の装いが強まっていること。誰かが困っていてもそれを「自己責任」で片づける風潮が強くなっていること。そして、それによる社会的、経済的な分断が広がっているのも事実です。

そのような状況を何かおかしいと思っている人は大勢いるのではないでしょうか。

 

いきなり「国家社会のために生きる」なんて大目標を掲げる必要はない。しかし、自分以外の周囲の人との結びつきの重要性を、「道徳的な見地」と「経済的な見地」の両方から見つめ直してみることくらいは、きっとできるのではないでしょうか。

そのような小さな一歩を一人ひとりが踏み出すことで、日本という国の共同体が強くなり、そこで暮らす人々も確実に幸せになっていく。

そんな未来の姿こそ渋沢栄一が「論語と算盤」を通して、私たちに伝えようとしているのではないかと私には思えるのです。

 

 この「論語と算盤」は、世間で一般で言われるようにビジネス書、処世術の書として読むことは確かに可能です。でも、それでは私はあまりにもったいないと思います。渋沢が本当に言いたかったのは、もっと深いところにあるのではないかと思うのです。

ずいぶん昔に書かれた本ですので、表現はいささか難しい部分があります。しかし、それを補って余りあるほど、渋沢の日本の未来を思う熱い魂が宿る本になっています。

「今だけ、金だけ、自分だけ」。

そんな個人主義がはびこる現代にこそ改めて読み直されるべき名著だと思います。

 

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m

 

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:渋沢 栄一
  • 発売日: 2008/10/24
  • メディア: 文庫
 

 

相貌心理学「人は顔を見れば99%わかる」が面白い。

早速ですが、今回は会社や友人関係など、人とのコミュニケーションで悩みを抱える人必見の本をご紹介します。

その本がこちら。

佐藤ブゾン貴子著「人は顔を見れば99%わかるーフランス発・相貌心理学入門ー」です。 

「顔を見れば99%わかる??嘘くさい!!」と思ったあなた。ちょっと待ってください!(笑)。

こちらは顔を通じて総合的に人間の特性を分析する「相貌心理学」という学問に基づいた理論。誰もが経験的に何となく感じている「こういう顔の人って、こういう性格の人が多いよね」という感覚を理論的に説明した書籍。

読めばきっと納得する。

しかも納得して実生活に生かせる。

あなたのコミュニケーション能力が飛躍的に向上する!(・・・は、言い過ぎ?(笑))

そんな面白い本になっています!

 

 

著者紹介

著者は佐藤ブゾン貴子。

2004年、アパレルの勉強のためにフランスに渡り、現地で相貌心理学に出会い、傾倒。学会長に師事し、5年の研修過程を経たのち、世界で15人、日本人では初となる相貌心理学教授資格を取得する。

※本書より引用

「ブゾン」という名前が変わっているので芸名かと思いましたが(笑)、フランス人の方と結婚され、ご主人のお名前だとのこと。現在は東京の八王子でご主人とガレット店を営みながら、相貌心理学を世に広めるためセミナー活動などを積極的に行われているそうです。

「相貌心理学」なんて聞いたことないなぁ・・・と思っていたら、著者が日本人唯一の教授資格を持つ人物だとのこと。それじゃあ、まだまだ日本での知名度が低くても仕方ないですね。今後のご活躍に期待です。

 

相貌心理学(そうぼうしんりがく)とは何か?

さて、この相貌心理学という聞きなれない言葉。

一体どんな学問なのでしょうか?

著者によると「相貌心理学とは顔を客観的に読み取り、その意味を言語化し、相手や自分を理解するための心理学」のこと。1937年にフランスの精神科医であったルイ・コルマン氏によって提唱されたものだそうです。

平たく言えば「顔から性格や考え方を分析する学問」ということですね。

日本でも昔から「観相学」「人相学」といった「顔から人物を分析する方法」はありますが、それらはあくまで目、耳、鼻といったパーツに焦点を当てて分析する方法。一方相貌心理学はそれらのパーツの関連性を探りながら、総合的に顔を分析する学問ということで、観相学や人相学とは違うようです。

また、相貌心理学は人が顔に現れる人生観や考え方などを分析しますが、”未来を読む”ことはできないので、いわゆる”占い”とも違います。

 

相貌心理学にできること

相貌心理学とは先ほども書いたように「相手や自分を理解するための学問」であって、

「こういう顔立ちは社会生活になじめない」

「この人の顔の方が、あっちの顔の人より優れている」

といった”評価”をするためのものではありません。

まず大事なのは、相手や自分の特性や考え方を理解すること。そして、その前提にどのような人付き合いをすれば良いか、目的を達成するためにどのようなアプローチをとれば良いのかを考えていくことです。

”人生を生きやすくする学問”と言っても良いかもしれませんね。

 

相貌心理学で観る「輪郭」とエネルギー

では、相貌心理学を使って人の顔を分析すると、どのようなことが分かるのでしょうか?

顔と一言に言っても、輪郭、目、口、鼻などいくつものパーツがあります。相貌心理学ではそれらを総合的に判断するので、一言で説明するのは難しいのですが、私が一番面白いと思った部分の説明をご紹介したいと思います。

それは「輪郭とエネルギーの関係」です。

 

相貌心理学によると、輪郭はその人が持つエネルギーや体力を表すパーツです。

その輪郭は大きく二つのタイプに分類されます。「ディラテ」と「レトラクテ」です。両方ともフランス語なので分かりにくいのですが、

 

・ディラテとは「四角か、丸形のどっしりした顔」

・レトラクテとは「輪郭が細長い顔」

 

のこと。

ディラテ、つまり四角か丸形の顔の人は、体力やエネルギーの量が豊か。

レトラクテ、つまり細長い顔の人は、体力やエネルギーの量が少ない。

 

したがって、四角か丸形の顔の人はエネルギーに満ち溢れているので、積極的に周りの人とコミュニケーションを取ろうとするタイプ。

一方、細長い顔の人はエネルギーが少ないため、力を効率的に使おうとするので、コミュニケーションを取る相手を選ぼうとする。

 

・・というように分かれます。

 

こうして観ると、四角か丸顔の人(ディラテ)の方が優れているような気がしますよね。しかし、そう簡単には行かないのが相貌心理学の面白いところ。

四角か丸顔の人(ディラテ)の人は積極的に周囲とつながろうとする分、孤独に弱い。一人になると途端にバランスを崩してしまう弱さを持つ。一方、細長い顔の人(レトラクテ)の人は一人でも平気。むしろその方が力を発揮できる。

どちらも一長一短であり、それぞれの特性に合ったやり方があるというわけです。

 

ちなみに、私は完璧にレトラクテ(顔が細長い)タイプですが、まさに仰る通り。いろんな人とつながるより一人で進める方が得意。一人でも全然平気です。広く浅く付き合うより、狭く深く付き合うタイプです。

 

今回紹介した輪郭以外にも、相貌心理学では顔のさまざまなパーツの持つ意味を言語化し、それを実際の人間の特性の分析に生かしています。ほかの顔のパーツの持つ意味について興味がある方は、ぜひ本書をお読みください。なかなか面白いですよ!結構当たってるしね!

実生活やビジネスに活かせる心理学

さて、このように顔のパーツの持つ意味を分析することで、人の特性を理解するのに役立つのが相貌心理学ですが、誰もが考えるのは「それがどのように実生活に役に立つのか?」です。

これについても、とても興味深い”応用力”が相貌心理学にはあります。

 

たとえば先ほどの輪郭の話。

一見するとディラテとレトラクテは”相性が悪い”というように読めます。

なぜなら片方はエネルギーに満ちていて、片方はエネルギーが不足がち。相手の思考方法や心持を理解するのが難しいからです。

著者も本の中で触れていますが、例えば上司がディラテ(エネルギーがある方)で、部下がレトラクテ(エネルギーが少ない方)の場合、上司が「俺が若い頃は2,3日寝ずに仕事しても平気だったぞ。」と言ったとしましょう。

上司にそのつもりがなくても、もともとのエネルギー量が限られているレトラクテの部下にはプレッシャーにしかなりません。

っていうか、そもそも確実にパワハラですが。

 

しかし、会社あるいは上司がこの相貌心理学的な知識があり、レトラクテタイプの部下の思考方法を把握していれば、こまめな休息を取らせて、要所要所で声掛けフォローをしてあげることで、部下はじっくりと、確実に仕事をこなしていくことができるようになります。

 

要するに、相貌心理学とは人が人の特性を理解し、その特性に合ったコミュニケーション方法を取るための道しるべとなるものなのです。そして、それが学術的に理論化されている。

 

まとめ

今回は相貌心理学の中でも「輪郭とエネルギー」の部分だけ取り上げてご紹介しましたが、もちろん目、鼻、口などそれぞれのパーツにも非常に重要な意味があります。

それらが本書ではかなり具体的に書いてあるため、普段の実生活やビジネスシーンで役立てるのにも非常に参考になると思います。自分に当てはめてみれば、自分が意識してなかった特性も知れるので、そういう意味でもかなり面白い。

 

あえて唯一残念なことと言えば、顔のパーツとそれが持つ意味についての原理的な結びつきが紹介されていないことでしょうか。

例えば輪郭とエネルギーの関係についても、顔が四角、丸形の方がエネルギーがあるといわれても「なぜそうなるのか?」の説明がないのです。

「顔を正面から見て、耳が正面側に起き上って見える人の方が独立心が強い。耳が起き上って見えない人は独立心が弱い」という説明もあるのですが、それがなぜなのかが分からない。

これは私の推測ですが、たとえばライオンなどの捕食動物は前方に意識を集中するため前の方に耳が立ちます。しかし、シマウマなどの被捕食動物は外敵から逃げるために、周囲の音を聞きやすいように耳が外側を向いています。

恐らくそのような生物学的な理論づけがあるのでしょうが、そこには言及されていません。多分そこまで説明すると学術書のようになってしまうからでしょうが・・・ちょっとそこが残念だとは思いました。

次の書籍が出るのであれば、ぜひそういう説明も展開してほしいですね。

 

というわけで、今回は相貌心理学の入門書「人は顔を見れば99%わかる」をご紹介しました。

人とのコミュニケーション方法に悩んでいる人はたくさんいると思います。

しかし、コミュニケーションを取る前に、まずは相手の特性を理解することが重要なのは言うまでもありせん。相貌心理学はその特性理解に非常に役に立つ学問だと思います。

 

長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m 

まさか私がパニック障害⁈ 症状と予防法を障害

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皆さんパニック障害という病気をご存知でしょうか?

パニック障害というのは、何の前触れもなく突然、動悸やめまい、呼吸困難など様々な症状が表れる病気のこと。原因が特定されている訳ではありませんが、過度のストレスに晒され、それが長期化することで発症することが多いようです。

実は私もこのパニック障害を患っています。

 

私はあまり自分語りをするのは好きではありません。その私がなぜ自分の病気のことを書こうと思ったのか? それは下記の記事で野球選手の小谷家栄一選手がパニック障害を患いながらも戦い続けているということを知ったことがきっかけです。

この記事を読んだ時に、少し気持ちが楽になりました。「この症状で苦しんでいるのは自分だけじゃないんだな」と。

そして、小谷野選手ほどじゃなくとも、自分の体験や症状、対処法などを書くことで救われる人もいるかも知れない・・・そんなことを考えて今回の記事を書くことにしました。

 

というわけで、今回の記事はパニック障害や他の精神的病を抱えている人への励ましのメッセージです。

ただ、現代は100人に1人はパニック障害を経験すると言われています。

今は健康な人も突然パニック障害になるかもしれない。

あるいは、あなた自身がかからなくても、家族や友人など周りの人がパニック障害に陥るかもしれない。そんな時にどう接してあげれば良いのかについて、アドバイスできるような記事にできたら良いなと思っています。

 

 

私がパニック障害を発症した瞬間

まずは私がパニック障害を初めて経験した時のことをお話しましょう。

 

きっかけは過呼吸

私が初めてこの症状を経験したのは2018年の秋でした。

いつものように普通にパソコンを使った仕事をしていたのですが、 突然気分が悪くなってきたのです。「気のせいだろう」と思って我慢して仕事を進めていたところ、気分の悪さがどんどん強くなり、頭痛までしてきました。

さすがにこれは何かおかしい・・・と思って、休憩しようとした瞬間、手足がしびれはじめ、脈拍が急に上がり、首を絞められているような息苦しさが私を襲います。「やばい!!」と思って同僚に救急車を呼んでもらいましたが、救急車を待つまでの5分くらいの時間が果てしなく長い・・・「ああ、俺死んじゃうのかな。人生ってこんなに唐突に終わるのか・・・」。大げさでも何でもなく本当に死を覚悟しました。

 

何とか救急車で近くの病院に運び込まれ、病院でも「死ぬ・・、これマジで死ぬやつだ・・・」と思っていたところ、医者に言われたのは

 

「ああ、過呼吸ですね。典型的な。」

 

という言葉でした。

過呼吸???これが???過呼吸ってこんな意識が飛びそうになるほどつらいの???マジすかww」というのが私の心の叫び。

医者が続けて言うには「とにかく落ち着いてください。死んだりしないから。ゆっくり呼吸して。」。

 

まぁ、結局本当に過呼吸で、15分くらいで症状が落ち着き、その後点滴を打って帰宅したのですが・・・いや、本当に死ぬかと思いましたよ。過呼吸を完全に馬鹿にしてました。全国の過呼吸持ちの方、本当にごめんなさい(笑)。

ただ、事はこれで終わりではありません。むしろここから私のパニック障害との闘いが始まったのです。

 

頻発するパニック障害の症状

とりあえず九死に一生を得た(?)私でしたが、その後たびたび眩暈や動悸、息苦しさなど様々な症状が私を襲いました。

一番怖かったのは、仕事で車を運転している時に胸が痛くなり、呼吸困難になって、手足が震え始めた時です。ちょうど渋滞にはまっている時だったので、まさに逃げ場がない。

どうも私は渋滞とか、特急電車とか、トンネルの中とか閉ざされた空間で、”自分の意思で動けない”というシチュエーションにはまると発作が出るタイプのようです。

歯医者さんで歯形を取る時に「しばらく動かないでくださいね」と言われると、もうダメ。

あと、美容院で髪を洗う時に、シャンプーが顔に飛ばないように布をかぶせられるのもダメ。

数十秒で発作が出ます。

 

パニック障害が怖いのは、自分でも予測できないタイミングで、一瞬で発作が起きることです。下手したら10秒前まで元気だったのに、突然苦しみ出すとかいうことが普通にあります。

そのためパニック障害じゃない人がその症状を見たらびっくりすると思います。

「え?なんで??ついさっきまで元気だったじゃん!」って。

これ、周りの人も驚くと思うのですが、本人も本当につらいんですよ。

 

発作が起こった時の精神状態

パニック障害になったことがない方のためにお伝えしておきたいのは、発作が起きた時の精神状態です。

これは一言でいえば

 

「死んじゃないか?気が狂うんじゃないか?というとてつもない恐怖」

 

です。

「眩暈や動悸、息苦しいとかで死にそうって、そんな大げさな~(笑)」と笑われてしまいそうですが、これ本当に大げさじゃないんです。確かに理屈で考えればその通りなのですが、パニック障害の発作が起こると本当に”理屈抜きの底知れぬ死の恐怖”に精神が支配されます。

 

多分、浅い川や海で溺れる時のような感じに近いんじゃないかと思います。冷静になれば脚が地面に着くくらいの深さでも、一旦パニック状態になると”立つ”ということすらできなくなる。多分そんな感じ。

「動悸や息苦しさで死ぬはずがない」ってわかっていても、この恐怖は止められないのです。

 

パニック障害になったらどうする?

仕事をやっていて突然呼吸困難になった・・・。

車に乗っていたら手足が震え始めた・・・。

そんなパニック障害かもしれない症状が出たら、まずは病院へ行きましょう。これ大事。

今は結構いろんな薬があって、それを飲むと症状が抑えられます。医者の指導に従って服用を継続すれば、完全回復あるいは症状がほとんど出なくなることもあるようです。

また、薬を飲まなくても「何かあったらこの薬を飲めば良い」というアイテムがあるだけで精神的にかなり違います。実際私も運転中に「次の信号待ちの時に薬を飲もう」って思っていたら、症状が収まってしまったこともあります。

 

ちなみに、いざ病院に行くとなると躊躇しがちなのが、「パニック障害なんてメンタルが弱いやつがなる病気」という思い込み。私も最初はそうだと思ってました。でも、そんなことはありません。冒頭の小谷野選手のようにメンタルが強くてもなる時はなる。

恐がらず、恥ずかしがらず、躊躇なく病院へ行きましょう!

 

私が実践している予防法

では、次に私がパニック障害の発作が出ないように実践している予防法をご紹介します。適切な方法は人それぞれ違うと思いますが、参考になれば嬉しいです。

 

予防する上で大事なのは

 

・どういう状況で発作が起こりやすいか

・発作が起こる初期段階にどのような症状が見られるか

 

を把握することです。

パニック障害というのは、身体の不調に異常に反応して”パニック状態”になることです。したがって、発作が出ないような環境作りが一番大事です。

私の場合は、狭い所や身動きができない状況だと危険性が高まるのがわかっています。ですから、そういう場所にはできるだけ行かない。

運転中も渋滞やトンネルを避ける。できるだけ二車線以上のルートを選ぶ。

コンサート会場や映画館に行く時は、角や出口に近い席に座る。

新幹線や特急もできるだけ乗らないようにしていますが、仕事上どうしても新幹線に乗ったりしないといけない時があります。そういう時は乗る前に薬を飲んでおく。

 

あとは体調不要や寝不足だと発作が出やすいので、寝不足は絶対避ける。最低でも6時間半は寝る!

 

いずれにせよ、発作が収まった後に「どういう要因が重なると症状が出るか」を記憶しておいて、それらの共通項を分析しておく。そして、それを回避する方法をいくつも準備しておく。これが大事だと思います。

 

これが出来ているだけで

「あ、これは発作が出そうな状況だな。」

と発作が予測でき、発作が出始めてもパニックになるまでの時間が稼げます。これだけでも発作を抑えられる時がありますし、発作が起きても比較的早く落ち着けます。周りの人に助けを求める余裕が出ますしね。

 

また、自分の発作の初期症状が分かっていれば、「ああ、これはいつものやつだ。大丈夫、大丈夫だよ!俺!!」とセルフマインドコントロールが出来ます (傍から見ると危ないやつですね・・・)。

 

症状が表れてしまったらどうすれば良いか?

どんなに気をつけていても症状が表れる時はあります。これはどうしようもありません。

では、パニック障害の症状が表れたらどうすれば良いのか?

 

人によって対処法は違うと思いますが、私がやっている対処法・・・・

それは「とにかく不安を発生させる原因から逃げる」です。

逃げるは恥だが役に立つ”! (何か違う?)

完全に逃げ切ることはできないかもしれませんが、少しでも早く距離を置いて、不安発生要素の射程距離外に逃げる。これは物理的な意味でも、精神的な意味でもです。

 

例えば狭い空間で息苦しくなったら、まずは広い空間とそこにたどり着くまでの最短コースをシュミレートして、速攻でそこへ逃げます。友達とかが居てもガン無視!「ごめん!」って一言告げて逃げる!

車を運転中に症状が出たら、一番近くのコンビニやスーパーを頭の中で探して、そこへ移動する。それが無理だったらハザードランプを点けて、道の真ん中で止まる。エンジンを切る。そして車の中で大声で歌って気分を紛らわせる。

「そんなことしたら周りの迷惑になるじゃないか!」と思うからもしれません。

仰る通りですね。そりゃ、周りからすれば迷惑でしょう。

でもね、それで良いんですよ!周りに迷惑かけたって良いんです!(※犯罪は駄目ですが)

むしろ、パニック障害になる人は大体責任感が非常に強いひとなので、周りに迷惑をかけることを非常に嫌がります。これは私の独断と偏見ですが、そういう責任感が強いひとに限ってパニック障害になりがちです。“迷惑をかけることに慣れることが大事”なんです。

 

実際、私も夜中に会社の車で移動中発作が出たことがあります。

その時は一晩コンビニに停めて電車で帰宅し、次の日に車を取りに行きました。迷惑だったと思いますよ、コンビニも、会社も。でも仕方ないじゃないですか。「だってパニック障害なんだもん!」(笑)。

 

周りに迷惑かけても、恥ずかしい思いしても良いんです。まずはあなたを不安に駆り立てる要素から全力で逃げて、気分を落ち着かせる。それを第一に考えましょう。迷惑かけた人にはその後、誠心誠意謝れば良いのですよ。

「発作が出たから仕方なかった。ごめんなさい!」って謝れば99.9%の人が許してくれます。

 

周りの人がパニック障害になったら?

それでは最後に「パニック障害って何?」という方へ。

ここまでパニック障害という病の実際の症状や、発作が起きた時の本人の心理状態をご紹介してきました。おそらくこれを読んでも経験をしたことがない人には「そんなに大変なの? ちょっと息苦しくなると、頭が痛くなるくらいんなんでしょ? 大げさだなー」という感じだと思います。

うん。私も自分がかかるまではそうだったので分かりますよ。

ただ、本人は本当にパニックになっているので冷静な判断ができず、「やばい!死ぬ、死ぬ、死ぬ!!」と生命の危険を感じるくらいの恐怖を味わっています。大げさでも何でもなく。それだけでもわかってもらえると、とてもありがたいです。

 

ですので、もしあなたの近くの方がその症状を訴えたら、大げさだなと思わずに、ぜひ

「大丈夫、大丈夫。そばにいるから、落ち着いて。ゆっくり呼吸しよう。」

と冷静に、しかし温かく受け止めてください。それだけでだいぶ落ち着くはずです。

また、パニックになると普通の呼吸ができなくなることが多いです。発作を起こした人が息苦しさを感じているようだったら、本人が話したくなる質問を何でも良いから投げかけてください。喋るのって結構ちゃんと呼吸していないとできないので、喋っているうちに呼吸が落ち着いてくることも多いです。大事なのは本人に喋らせること。あなたが喋って、本人が聞き役になってたら症状は多分悪化します(笑)。

 

少しずつ知られるようにはなってきましたが、まだまだ言葉すら聞いたことのない人が多い「パニック障害」。でも今は100人に1人はパニック障害になっているという時代。

カミングアウトしていないだけで、あなたの周りにも患っている人がいるかもしれません。

もし周りでその症状で困っている人がいたら、今回の記事を思い出して優しく声をかけてもらえると嬉しいです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

 

 

アフリカ化する日本の未来を止められるか?

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「ダイヤモンドは永遠の輝き」

1947年に米国のデビアスダイヤモンド社が考案したキャッチコピーだ。

このキャッチコピーによってダイヤモンドはその価値を不動の物としたため、人類史上最も成功したキャッチコピーだと言われている。1999年には、米国の広告専門誌「アドバタイジング・エイジ」によって「20世紀で最も偉大なスローガン」に選ばれてもいる。

いま私達が思い描く「ダイヤモンド」という宝石の価値は、このキャッチコピーから始まったと言っても過言ではない。

しかし、その一方でここに興味深い数字がある。

アフリカのダイヤモンド原石の年間輸出金額は約76億ドルだが、その内半分以上の36億ドル分が“原産地不明”で取引されていたのだ。

 

日本人のほとんどがこの実態を知らない。アフリカでダイヤモンドが発掘されていることすら知らない人が多いだろう。私たち日本人にとってアフリカと言えば「貧困、紛争、不衛生」というネガティブなイメージが主流であって、実態を知る機会もなければ、アフリカについてもっと知りたいという気すらもゼロに等しい。

なぜだろうか?

 

一つには距離の問題がある。日本からアフリカは直線距離で大体1万キロ以上離れている。たとえばマダガスカルに移動するには、飛行機でまる一日以上かかってしまう。

もう一つは文化的な馴染みのなさだ。「自分の友人にヨーロッパに住んでいる」という人は多いだろうが、「自分の友人がアフリカに住んでいる」という人はほとんどいない。「卒業旅行でアフリカに行った」という人も稀だろう。

私たちはアフリカについてあまりに知らなすぎる。たしかにアフリカのことについて知らないからと言って、今すぐ生活に困るわけではない。しかし、実は日本という国が将来アフリカ諸国と同じレベルの経済生活にまで落ち込むかもしれないと言われたら、どうだろうか?

「そんな馬鹿な」と思う人がほとんどだろう。

だが、一度アフリカの現状について考えれば、あながちあり得ない話でもないことが分かってくる。そんなあり得ない、馬鹿げた日本の未来が垣間見える一冊の本を今回はご紹介しようと思う。それがこの吉田敦 著「アフリカ経済の真実」だ。 

 

 

"希望の大陸アフリカ”の影

先程「日本人はアフリカについてあまりに知らなさすぎる」と書いたが、実はビジネスの世界ではここ数年アフリカは世界的に脚光を浴びている。たとえば英国のエコノミスト誌では「希望に満ちた大陸」として特集が組まれている。

また、海外からの直接投資額も増加しており、2000年には81億ドルだった金額が2016年には600億ドル近くにまで拡大している。

 

したがって、そのような希望の大陸として注目を集めるアフリカ大陸というイメージは、は一面では正しい。しかし、著者である吉田はこの明るいアフリカ像の影にある”アフリカ経済の実態”をこの本で暴いている。いわく

「アフリカが誰にとっての「希望に満ちた大陸」であるのか、ということを問わなければならない」。

 

本書で吉田が暴くアフリカの実態を読み解く上で重要になるキーワードが

「資源」

「開発」

「独立国家」

この3つだ。

それぞれのキーワードに基づいて、この本で取り上げられているアフリカの実態を少し紹介したい。

 

1) 資源国家アフリカ

21世紀に入りアフリカが注目されている理由のひとつが「天然資源」だ。たとえば石油の埋蔵量は、2019年時点でトップ10からは漏れたもののナイジェリアが11位、リビアが12位と肉薄。さらに天然ガスもアフリカ大陸近海で優良な天然ガスが見つかるなど、開発投資が活発になっている。

また、冒頭で取り上げたダイヤモンド以外にも、プラチナ、クロム、銅、コバルトなどの私たちの生活に欠かせない鉱物資源の大多数がアフリカで発掘されている。*1

 

オランダ病とは

ここで誰でも疑問に思うのは「それほど資源がありながら、なぜアフリカでは貧困が続くのか」という問いだ。その問いに答えるのは難しい。しかし、著者が取り上げている要因の一つが「オランダ病」と呼ばれる資源依存体制である。

オランダ病とは、天然ガスや石油などの天然資源に依存した経済成長を行った結果、農業部門や製造業部門が衰退してしまう現象のこと。この名前は、かつてオランダが天然ガス田が発見され開発が行われた際に、そのような現象が起こったことに由来している。

その原因は資源ブームに乗せられて資源開発に労働力や資本が集中してしまうこと。それにより“儲からない”他の産業が衰退してしまうのだ。

 

資源開発に依存した成長が危険なのは、資源価格という国際情勢で変化する不安定な要素に左右されるために、経済発展も不安定化してしまうことだ。本書によると、天然資源への依存度が高いほど、一人当たり経済成長率が低くなる傾向が研究で明らかになっているという(本書p162)。

 

石油や天然ガス、鉱物資源といった天然資源に過度に依存したアフリカは、まさにこのオランダ病の典型といえるだろう。

 

2) 「開発」という言葉に潜む独善

通常我々は「開発」という言葉を良い意味で使う。発展していない国や地域を発展させること。あるいはいまだ見ぬ技術などを新しく生み出すなどという意味で、だ。しかし、この開発という言葉の意味を掘り下げると、必ずしもそうとは言い切れないことが明らかになってくる。

著者はアメリカの政治学ダグラス・ラミスの言葉を引きながら、この「開発」という言葉の持つ意味の再考を読者に促す。

 

ダグラス・ラミスによれば「開発」とは

”国Aは国策として国Bを発展させる (=開発する)、それが国Bの発展である。”

ということだ。

もう少しかみ砕いてみよう。

たとえば国Aを日本、国Bを南アフリカだとする。

南アフリカは資源も豊富なのにまだ十分に開発されていない。だから発展途上から抜け出せない。だから日本が十分な投資をし、開発を行い、資源を有効活用すべく”開発する”。日本はそこから資源を得ることができるし、南アフリカは日本からの投資により発展することができる。いわゆる”ウインウイン”の関係だ。

しかし、ことはそれほど単純ではない。

なぜなら、基本的に開発する側(日本)と開発される側 (南アフリカ)は対等の立場ではないからだ。開発される側は自ら開発する能力や資金力がないから外国による開発を受け入れる。したがって、往々にして開発に関する取り決めは”開発する側”にとって有利な条件になる。

たとえば、税制面での優遇、輸入関税免除、労働環境の規制緩和などが開発する側に有利になるよう参入障壁が下げられる (これを現在では”自由で開かれた貿易”と呼んでいるようだが・・・)。

しかも、参入しやすいように国内規制を変更してまで外国資本の誘致を進めた以上、外国資本の機嫌を損ねるわけにはいかなくなる。外国資本の顔色をうかがうようにして、国内の政治や経済のかじ取りをしなくてはならなくなる。外国資本のために自国民に不平等を強いる政策が打たれていくケースも増えるだろう。まるで現在の日本のようだ。

 

我々は「発展途上国の開発に貢献する」という言葉を聞くと、自然と”善いことを行っている”あるいは”道徳的な行為を行っている”という認識をしてしまいがちだ。しかし、ともすれば「開発」は、その国家の不安定性や脆弱性を高める要因になりえるという側面も認識しておくべきではないだろうか。

3) 国家という秩序

 本書を読み解く上で重要になるもう一つのキーワードは「国家」である。

天然資源が豊富なアフリカ諸国で行われる開発が、必ずしもその国を発展させることにつながらない。本書を読み解いていくと、その原因の根幹に「国家の不在」という問題が潜んでいることが分かる。より詳しく言えば「現在と未来の国民のために、国内を統治できる力を持った政府がいない」ということだ。

 

アフリカと言えば、紛争やテロなどが頻発する危険な地域だという印象が強い。実際、1990年代以降、コンゴルワンダスーダンなど様々な国で100万人単位の犠牲者が出る紛争が幾度となく繰り返されている。なぜそのような紛争が絶えないかと言えば、それはさまざまな勢力を統治する国家権力が不在であるためだ。

我々のイメージでは紛争が起こる背景には、宗教的対立や政治的な権力争いが主な原因だと考えられることが多い。しかし、昨今の研究によると紛争の背景には政治的動機よりも経済的動機が強く働いていることが指摘されている (P48)。アフリカの場合はその経済的動機が天然資源と密接に関係している。

 

通常は安全で安定した地域の方が経済的機会は得やすいと考えられる。しかし、資源国の場合は国家による管理体制が脆弱であった方が武力による略奪が行いやすい側面がある。石油など炭素資源の場合は、運営に巨大な近代的施設が必要となるため小さな武力勢力ではコントロールが難しい。そのため”ビジネスモデル”として成立させにくい。ところが、ダイヤモンドやレアメタルなどの鉱物資源の場合、大規模な施設がなくとも人手を駆り集めさえすれば、人海戦術で”商品”を得ることができる。

したがって、強力な国家権力で安定した運営が行われる体制よりも、不安定で混乱した社会の方が、難民を労働力として使用でき、流通面でも法の目をかいくぐった売買ルーとを確立しやすい。つまり、「国家権力が育たない方が有利」なのだ。

 

もちろん、アフリカ諸国と一言に言っても、その置かれた条件や歴史、そして経済力はバラバラである。「アフリカの国」と十把一絡げで批評するのには留保が必要かもしれない。しかし、このような国家権力の不在による不安定さが、アフリカという地域の発展を妨げているという点は認識しておく必要があるだろう。

 

アフリカの暗部を取り上げることの意義

ここまで見てきたように、アフリカはまれに見る資源集積地でありながらも国家体制の脆弱さのために、いまだ多くの人々が貧困生活を強いられている。

著者である吉田氏は、この本の中で”希望の大陸”の影の部分に光を当てているが、それは決して先進国が発展途上国から利益を搾り取る構造を責め立てることが目的ではない。ましてや、スキャンダラスな”煽り記事”でもない。

 

 

確かにこの本ではアフリカの暗部をえぐり出している。しかし、途方もない社会格差が広がっているとは言え、アフリカ大陸に世界の注目が集まることによって救われている人たちがいることも事実だろう。近年SDGsなどで貧困国に手を差し伸べる運動が活発になっているが、吉田氏の指摘はそれを揶揄するものではない。

世界の歴史が常にそうであるように、アフリカに寄せられている開発投資もまた光の部分と闇の部分があるだけだ。ニュースで表立って取り上げられるのは「有望な投資先としてのアフリカ」だが、そのような一面的な見方ではアフリカの全体を捉えることはできない。それどころか、そのような見方がアフリカの社会格差や政治的・経済的混乱を加速させる可能性があるのだということを、私たちが認識することこそが重要である。

そのためのカウンターパンチとして、この本は非常に貴重な視点を提示してくれるものだ。

 

日本は将来アフリカ諸国並の経済力になる

さて、、この書籍はアフリカ経済の現状とそれを生み出した歴史についての知見を広げてくれる。しかし、事はそれで終わりではない。

この書籍の内容を現在の日本に引き寄せて考えてみると、アフリカの現状は日本の将来像になりえるのではないか?という可能性が見えて来る。当然それは”希望に満ちた将来”ではない。絶望のシナリオだ。

 

「失われた20年」という言葉を知っている人も多いだろう。 日本経済がバブル崩壊以降、縮小の一途をたどっていることは広く知られていることである。

京都大学大学院教授の藤井聡氏が、日本経済がこのまま縮小していくと世界経済におけるシェアがどのようになるのかを試算した記事があるので、簡単に紹介したい。

https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20181126/

 

それによると、過去20年間で日本経済は80%程度にまで縮小。一方で世界は238%まで拡大。結果、過去20年の間に日本の経済力のシェアは約18%から6%以下にまで、実に「三分の一」にまで縮小している。

もしこの状態が継続すると、50年後には日本の世界シェアは0.4%にまで激減する計算になる。ちなみに、その頃の日本のGDPは、名目値で319兆円。今のおおよそ6割くらいの水準。私たちの給料が、50年後には今からおおよそ4割くらい安くなるということを意味する。
しかし、その一方、他の国々はその頃になるともっと成長しているため、相対的にシェアは激減。現在成長が著しい東南アジアの国々、フィリピン、マレーシア、そしてそれに比肩するナイジェリアや南アフリカ程度になる。

 

もちろんそのような将来が確定している訳ではない。

しかし、1997年以来実質賃金が下がり続けている日本の状況を考えれば、50年後に給料が4割下がるという予測は十分にあり得るものだ。あくまでシナリオの一つにしか過ぎないが、そのような可能性があるというだけで空恐ろしい気がしないだろうか。

 

絶望の未来を回避するために何が必要か

失われた20年が”失われた30年”になりそうな現在の日本。

社会格差が拡大し、将来に希望を持てる人の方が少数派といっても過言ではない日本という国家の現状。

このまま日本は衰退し、アフリカ諸国並の経済小国に陥るシナリオは避けられないのだろうか。

私は違うと思う。

そのような絶望の未来を避けるシナリオはあるはずだ。そのためにできることも、奇しくもこの書籍で紹介されたアフリカ諸国が示してくれている。

 

そもそもアフリカ諸国が”発展途上”から抜け出せないのかを改めて考えてみよう。

それは石油や天然ガス、プラチナやコバルトなどの”資源に依存した”経済モデル (いわゆるモノカルチャー経済)を採用しているからだ。本来であれば、その資源によって得た経済的利益を用いて、国内の生産能力、供給能力を高め、資源依存から脱する経済モデルに作り変えていくべきである。

産出される資源に頼っているからその資源価格の情勢に国内経済が左右される。資源を加工して付加価値を生み出すことができないから、いつまでも高付加価値の商品を先進国から売りつけられることになるのである。簡単なことだ。

 

では、なぜその簡単なことができないのだろうか。

それは「国家体制が脆弱だから」だ。それに尽きる。

国家の役割はいくつもあるが重要な役割は、国民が持つ富や生産能力を集めて、それを投じる先をコントロールすることにある。

近代経済学の父と言われたアダム・スミスは、国の生産能力を高めるためには「分業」が重要であると説いた。さまざまな産業で分業体制をとることによって、国民の生産能力が高まり経済は豊かになっていくと。しかし、19世紀の経済学者フリードリヒ・リストが強調したように、分業を行うのと同じくそれを「統合」することもまた非常に重要だ。

国民がそれぞれの能力を生かした分業を行い、それを統合し、一つの方向性を持った総合力へと昇華させる。その時にはじめて国家全体としての生産能力が向上し、国民が豊かになれる。それを実現できるのは、現在のシステムでは国民国家しかありえない。

 

日本人は「国家」という言葉に強い忌避感を持っている人が多いが、何も国家とは特定の権力者が国民を抑え込む独裁体制のことを言うのではない。むしろ、 国家とは強い共同体意識を持った国民が基盤にあってこそ、安定した運営を行うことができるものだ。したがって、私たちに安定した生活を保障する国家というものは、私たちの中に強固な共同体意識があって初めて成立するものである。繰り返しになるが、残念ながらアフリカ諸国ではこの共同体意識が希薄なのである。

 

しかし、昨今はその共同体意識を奪う空気が日本を覆っている。

たとえば、このコロナ禍で多くの企業が休業あるいは廃業を余儀なくされている。

コロナで企業の休廃業が増加 事業続ける意欲失う経営者も | 新型コロナ 経済影響 | NHKニュース

そのような状況において

「こういうときに備えておかなかった企業や経営者の自己責任」
「むしろ、これで企業の新陳代謝が進む。ゾンビ企業は淘汰されるだからちょうどいい」

などという言説が飛び交うのが現在の日本だ。

経営者には企業運営の責任があることは事実である。しかし、その企業もまた誰かの”顧客”であり、顧客が消えるということは回りまわって自分の首を絞めることになる。国民の生活や経済というものはお互いにつながって出来ているものだが、そのような意識、つまり共同体意識がますます失ってしまっているのが日本の現状である。

共同体意識が失われ、だれかの成功を妬み、成功者の足を引っ張るような社会。あるいは、個人の努力では何ともならない要因によって恵まれない状況に陥った人たちを、自己責任として切り捨てる社会。このような社会では国家システムはいずれ崩壊する。

そして、国家システムが崩壊した社会に個人が放り出された時、私たちは絶望の未来に立った一人で立ち向かわなくてはならなくなるだろう。

 

私はそのような社会を将来の世代に放り込むようなことは決してあってはならないとお思う。その決意を新たにするためにも、”日本の未来としてあり得るアフリカの実情”を知っておくことは決して無駄にならないはずだ。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

 

伊藤羊一著「一分で話せ」。左脳で組み立て、右脳を刺激し、人を動かすプレゼン力。

さて、早速ですが、今日ご紹介する本はこちらの45万部超えのビジネス書。

伊藤羊一著「一分で話せ」です。

プレゼンなどで人に何かを伝える時に必須の技術を詰め込んだ書籍です。

プレゼンを前提に書かれていますが、誰かに自分の考えを説明したり、協力をお願いをする時など、頭の中にあることを“誰かに伝える”シーンで役に立つ技術が満載です。すでに45万部以上売れているそうですが(2020年10月時点)、それもうなずける内容で非常にオススメです。 

著者紹介 

著者の伊藤羊一氏は、ヤフー株式会社Yahoo!アカデミア学長。グロービズ経営大学院客員教授という肩書。さまざまなビジネスマン向けの授業を通して、プレゼンの仕方を教えているそう。ただ、意外にも本人は元々プレゼンが苦手だったとのこと。

この本は、その著者が少しずつ現場で学び、プレゼン指導をするまでになったその秘術を詰め込んだ一冊。プレゼンが不得意、人にうまく伝えられないという人には期待の一冊といえるでしょう。

なぜ「一分で話せ」なければならないのか

まず、本書の目的をズバリ言ってしまえば、それは

自分の考えを伝え、人を動かす力を身につけること

です。

したがって、この本では

1) 自分の考えをまとめる方法

2) それを人に伝える実践的な方法

が数多く紹介されています。

 

タイトルである「一分で話せ」もその技術のひとつですが、なぜ一分で話さなければいけないのでしょうか?  

著者はそもそも「人は相手の話80%聞いていない」と言います。考えてみれば当たり前で、自分が言っていることを一言一句残さず聞いて、100%理解し、しかもそれを後々まで覚えていてくれるなんて人はいるわけがありません。すごく熱意を込めて懇切丁寧に説明したのに「で、結局何なんだっけ??」「要するに何が言いたいの?」と言われて愕然としたことは、あなたも経験したことがあるはず。

 

だったら、まずはとにかく短くシンプルにする。“一分で話せるくらい”短く、シンプルに話を組み立てることから始めようというわけです。

そしてそれが出来たら、自分の考えを伝えて相手を実際に動かしていく。

その技術を著者は余す所なく伝えています。

 

頭の中をシンプルにする“構造化”作業

まず大事なのは自分の頭の中にある主張をシンプルに整理することです。自分の頭の中がゴチャゴチャのままだったら、相手に伝わるわけがありません。

この「頭の中を整理する方法」として著者が提案しているのが、下記のような形で構造化してみることです。

 

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文字で書くと

「話の枠組みを明確にする。主張(結論)は一つ。その根拠はこの3つ。」

ということ。一番良いのはこのような図を紙に書いて、実際に自分の言葉を当てはめてみることです。そうするとシンプルなだけに、自分の主張がどういう理屈で、どういう構造になっているのかが視覚的に分かりやすくなります。

人間は自分の頭の中で考えている時は「完璧に理解した。」「これなら誰もが納得するはずだ。」と思っていても、実際に人に説明しようとするとうまく説明できないことが多いですよね。よく言われることですが、こういう時には一度何かに書き出して視覚化すると、自分がちゃんと理解できていないポイントがわかりやすくなります。 

左脳への働きかけて伝える

自分の主張が構造化されたら、次はその構造を相手に伝える段階に進みます。

著者によると相手に自分の主張を伝えるには、「左脳」と「右脳」の両方に訴えかけることが効果的だそうです。何だか難しそうに聞こえますが、実は左脳に訴えかけるのは先程の「構造化」ができていればほとんど出来たも同然です。

 

よく左脳は論理的な思考を司る器官だと言われます。ではその「論理的」とはどういうことかというと「主張と根拠の意味がつながっていること」です。どんなにハッキリとした主張で、根拠がどんなに精密に数値化されていたとしても、それらに因果関係が見い出されなければ人は納得しません。

この論理的なつながりというのは頭の中で考えているだけだと“何となく”誤魔化されがちです。自分自身が何となく理解しているから、人に伝えようと思った時にうまく伝えられない。だからこそ前節で紹介したような図で視覚化するのがオススメ。

視覚化すると主張と根拠がちゃんとつながっているかどうかわかりやすくなるのです。

 

自分の伝えたいことを視覚的に構造化し、主張と根拠の論理的つながりが確認できたら、あとは簡単。

①これから伝えることの枠組みを明確にする。

②根拠となる3つの要素を示す。

③最後に主張 (結論) を述べる。

これだけです。

もしかしたら最初に結論を言ってしまった方が人の心を引き付けられるかもしれませんが、それはケースバイケースで臨機応変に。

右脳への働きかけ方〜イメージが湧く仕掛けづくり〜

左脳に訴えかける論理構造ができたら、その次に必要になるのが相手の感情に訴えかける方法です。前節に書いた論理構造は、相手に自分の考えを伝えるための基礎づくりみたいなもの。これがなくては、そもそも相手に自分の言葉は届きません。

しかし、相手に言葉が届いて理解してくれたからと言って、相手が自分の望むように動いてくれるかは別問題。大切なのは相手が「よし。それでやってみよう!」と心を動かされることです。確かに、自分の立場などを利用して論理で相手を追い詰めれば、一瞬は相手も動いてくれるかもしれません。でも、それも一瞬だけの話。

結局人は心が動かされなければ、積極的に動いてはくれない。ひいては自分が望む結果を出すことも難しくなるのです。

 

では、どうすれば人の心を動かせるのか?

それは相手の頭の中に具体的なイメージを生み出させることです。

そのためのアプローチとしてこの本では2つの方法が紹介されています。

 

イメージを伝える方法① ビジュアル素材を使う

一つめは画像や動画などをビジュアルで見せること。これは分かりやすいですね。

私は職業柄コピーライター的な仕事もやっているため、文字で表現する機会が多いです。しかし、文字や言葉はどうしても解釈の幅が広くなってしまいます。そこで実際の作業に入る前に写真や動画などを補足してイメージを共有することで、できるだけ他の人とイメージの齟齬が出ないようにしています。これで根本的なやり直しはかなり防ぐことができます。

 

もちろんプロ並みのクオリティは必要ありません。

スマホで撮った写真やネットで見つけてきた画像、あるいは下手でも手書きで書いた絵など、自分のイメージが伝わる視覚的な素材を見せることができれば良いのです。

イメージを伝える方法② 言葉で表現する

写真や動画のようなビジュアル素材を用意できない場合に用いられるのが、言葉でイメージを掻き立てる方法。

今の時代だれでもスマホを持っているでしょうから、できれば先程書いたビジュアル素材を用意する方法を使った方が早いです。またその方が伝えられるイメージもより具体的になります。しかし、あまりに先進的なことで前例がなかったり、どうしても自分のイメージに合う画像や動画が見つからない時には次点の策として有効。

 

ただ、言葉で伝えることに自信があるのであれば、相手にイメージさせる方が効果的という場合もあります。これはラジオ通販がよく売れるのと同じ。目に見えないからこそ想像が掻き立てられ、より強く印象が残るという手法ですね。

かなりの話術が要求されますが、著者は取り入れやすい方法として

 

・具体的な例を出すときに「例えば」と一呼吸おいてから始める

・「想像してみください。」という言葉を投げかけてから具体例を出す

 

という手法を紹介しています。このような言葉を使うことで、相手も”イメージを浮かべるモード“に入りやすくなります。シンプルな方法ですがなかなか有効です。

 

ちなみに、言葉によってイメージを連想させるには言葉の語感も大事です。言葉が持つ語感の影響力については、前にこちらの記事で取り上げたので良かったら参考までに。

 

一分で「吉野家がなぜ好きなのか」を伝える技

ここまでのまとめとして、著者の分かりやすいプレゼンの例を紹介します。それが「吉野家がなぜ好きなのか」を伝えるごく短いプレゼンです。

吉野家が好きです。 (結論)

まず、早い。座ったかどうかのタイミングで、店員さんが牛丼を出してくれますよね。(根拠①)

次に、安い。今どきどこで食べても大抵500円はかかります。(根拠②)

最後に、うまい。想像してみてください。お腹がすいた時に牛丼をかきこんだことを。(根拠③と言葉によるイメージ想起)

だから、僕は吉野家が好きなんです。(結論の念押し) 

一つの結論に対して3つの根拠を提示し、食べている状況を想像させて吉野家の牛丼のイメージを伝える。ものすごく簡単なのですが、「一分で話す」プレゼンの妙技が詰まったプレゼンだと思いませんか?

 

まとめ

今回ご紹介した内容をまとめると、下記のようになります。

 

1) 人を動かすには左脳(論理性)と右脳(感情)の両方に訴えかけることが必要。

2) 左脳に訴えるには自分の考えを構造化することが大事。その構造は「枠組み設定」、「一つの結論」、「三つの根拠」とし、それぞれに意味のつながりを持たせる。

3) 右脳に訴えるには、写真や動画、あるいは言葉を駆使して相手のイメージが湧きやすいよう心がける

 

恐らく一番難しいのは2番の構造化の工程です。ただ、これができないと一分で相手に伝えるのは難しくなりますので、是非ここは乗り越えたいところ。慣れると案外簡単にできるようになりますよ!

 

おまけ 〜感想〜 

私はあまりビジネス書は読まないのですが、これはなかなか面白かったです。特に私は言葉で説明するのが苦手なタイプなので、かなり参考になりました。いわゆる「プレゼン」をする機会がない人でも、誰かに説明をする機会がある人なら誰でも参考になる内容です。逆に誰かのプレゼンを“聞く”時にも、この本の内容が頭に入っていると相手の話を理解しやすくなると思います。

 

ちなみに、個人的に一番響いたのは次の言葉でした。  

プレゼンというのは、自分が伝えたいことを「伝えていく」行為ではなく、「相手の頭の中に、自分が伝えたいことの骨組みや中身を、『移植していく』作業」なのです。

 

私は「伝える」ということは「自分が伝えたいことや誰か(クライアントとか)が伝えたいこと」を"言ったり""書いたり"することだと思っていました。極端に言えば「自分が伝えたいことを言うこと」だと。しかし、この本によるとそもそもその前提が間違っているということなんですね。

言われてみれば当たり前なのですが、妙に納得してしまいました。

この「自分の伝えたいことを移植する」という意識でこの本を見ると、著者が伝えたいこともより分かりやすくなると思います!

 

という訳で、今回はこちらの書籍のご紹介でした。

最後まで長文をお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

読めば分かる日本を覆う"空気"正体。山本七平の名著「空気の研究」

突然ですがみなさん、「名著の条件」って何だと思いますか?

「何万部突破!」といった発行部数で測るという考え方もあるかもしれませんが、 必ずしも「たくさん売れた=名著」とは言えません。ものすごくたくさん売れた訳ではないければ、時代を超えて読みつがれる名著という物もあります。

 

この「名著の条件」について以前評論家の中野剛志氏がこのように仰っていました。

「世間の人々が何となく“こういうことじゃないかな”と思っていることを形にして、読んだ人が“そうそう。これが言いたかったんだよ!”と思うようなこと。名著というのはそういうものだと思うんですよ」と。

 

本とは自分一人では知り得ない価値観や世界の見方を示して、物事を考える道筋を示してくれるもの。

だとすれば、世の中の多くの人がぼんやり感じているけど、言葉にできない。何と言ったら分からないけれど、何か喉につっかえているようなモヤモヤを適切に表してくれるような本があれば、たしかに名著と言えそうです。

 


今回紹介する本は、まさにそのような意味で時代を超えた名著、山本七平 「空気の研究」です。

正直、これめっちゃ難しいです。内容もさることながら、著者の独特な表現や言い回しによってかなり難易度が高い著作になっています。ただ、読むとめちゃくちゃ面白い!

もう50年くらい前に書かれた本なのですが、現代人の多くが悩まされる”空気"。目には見えないけれど、無言の圧力で言動を縛る"空気"。存在しないのに確実に存在する"空気"。これは一体何なのか?

 


その謎に立ち向かい、空気に支配されないためにどすれば良いかという道筋を示してくれる著作です。

書かれたのが随分昔ですので、出てくる具体例こそいささか古いですが、そこで表現されている日本人を支配する空気は現代にも通ずるリアリティを持って描かれています。


空気という"妖怪"に多くの人が悩まされる現代こそ、広く読まれるべき名著。ちょっと長くなってしまいましたが、この本が描く空気の正体と恐ろしさを詳しくご紹介します!

 

著者紹介

著者である山本七平第二次世界大戦の前後に活躍した評論家。1921年生まれ、1992年没。クリスチャンの両親を持ち、その名前「七平(しちへい)」はキリスト教の神の安息日である日曜日に生まれたことから名付けられたとのこと。両親と同じく七平も敬虔なクリスチャンです。

このキリスト教徒であるということが、山本七平の独特の視点に大きな影響を与えており、その著書も「日本人とユダヤ人」「聖書の旅」「日本教徒 (※翻訳)」など、宗教を題材にしたものが多くなっています。

また、第二次世界大戦の際にはルソン島にも出征。のちにマニラの捕虜収容所に移送されるなど、実際に”戦争”を体験したこともまた彼の思想に非常に強い影響を与えています。

クリスチャンであること、そして戦地を経験した。この2点が山本の言説を理解する上で、とても重要なバックグランドになります。

 

山本七平がこの本を書いた理由

この本では文字通り「空気」に関する研究が展開されています。その空気とはもちろん今の私たちが「あいつ空気読めないなー」などという時に使う空気と同じものです。

この「空気」を研究した本としては、本書は当時かなり画期的だったようです。なぜなら当時はまだ今のように「空気を読む」ということが意識されることがなかったから。空気を読むのが当たり前すぎて誰も意識すらしていなかったということですね。

では、なぜ山本はそのような状況でこの空気を研究したのか?

それは先ほども述べたように第二次世界大戦を実際に経験したことが影響しています。

 

軍国主義者でもなくクリスチャンであった山本がなぜ戦地に行かなければならなかったのか。戦後の視点から考えれば無謀だと分かりきっていた戦争になぜ突入してしまったのか。

それについて考え抜いた結果、「この空気という存在が日本を戦争に追い込んだのではないか?」という仮説に辿り着いた。

では、その空気は戦争が終わって消滅してしまったのだろうか? いや、そんなことはない。戦争に国民を駆り立てた空気は消えてしまったが、別の形で空気は存在し続けている。

だとしたら、その空気とは何なのかをしっかりと検証し、空気の支配によって国家や国民が間違った道へ進まないためにはどうすれば良いのかという対策を提示しておかなければならない。

このことについて山本は次のように述べています。

 

「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一瞬の「超能力」かもしれない。

(空気に支配されてしまうと)統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって(中略)すべてが「空気」に決定されることになるかもしれぬ 。

 

われわれはまず、何よりも先に、この「空気」なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起こるやら、皆目見当がつかないことになる。

これが山本が「空気の研究」を書いた理由です。

空気が良いものなのか悪いものなのかは分からない。

しかし、その判断を下す前に、まずは空気の正体を見極めることから始めよう、ということです。

 

今こそ空気の研究を読むべき理由

この山本の動機は現代の私たちにとってもとても重要な意味があります。その理由のひとつは、ネット社会の発達による情報の氾濫の中に私たちがさらされていることです。

 

ご存知の通り、ここ数年フェイクニュースという言葉が世界で注目を集めています。

フェイクニュースとは虚偽の情報を元に作られた偽情報のことですが、現在の情報過多の社会では一人ひとりの人間が一つ一つの情報のソースまで遡って調べることは不可能です。どうしても

「詳しくは知らないけど、どうもXXXらしい。」

「よく分からないけど、メディアにも書いてあるし、周りの人もそういってるから本当なんだろう」

という伝聞と推測による思い込みが増えてしまいます。

これこそが山本が言う「空気」です。

そしてこれが進むと、その空気に逆らうことが自分の不利益になるため、本当はちょっとおかしいと思っていても空気に同調せざるを得なくなる。こうして空気の支配が完成するわけです。

すわなち現代のような情報過多社会こそ空気の支配が進みやすい時代と言えます。近代化が生んだ情報社会が空気の力を強くする・・・。この矛盾した社会で物事を冷静に判断し、より良い選択肢を選んでいくためにも、この「空気の研究」は改めて読み解かれる意義がある名著です。

 

なぜ空気は生まれるのか

この問いを考えるために、山本は「空気が発生する時の状態を調べ、その基本図式を検証してみるのが最良だ」と考えます。つまり空気が発生する条件を探ろうというわけです。

そして、山本が空気が発生する時の条件として着目するのが

「臨在的把握」

「情況倫理」

という概念です。

うーん、何やら難しい表現ですねぇ。ですが、これらは山本の議論を理解するうえで非常に重要なキーワードとなりますので、ちょっと詳しくみてみます。

 

臨在的把握

臨在的把握①ー臨在的把握とは何かー

言葉は難しいのですが、実は言っていること自体は難しい話ではありません。

「臨」とは「臨む (のぞむ)」という意味。今から試合が始まるぞ!みたいな時に「臨戦態勢」という言葉を使いますよね。あの「臨」です。臨戦とは「戦いに臨む」ということ、つまり「戦う」という行為にすぐそばで向かい合っている状態です。

「在」とは「存在」のこと。「存在感がある」とか言いますよね。あの「在」です。

そして「把握」とは物事の内容を理解することです。

 

したがって、臨在的把握とは「ある存在に向きあっているように、その存在を把握すること」という意味になります。

この臨在的把握の具体例として山本が挙げているのが、実際にあったイスラエルでの発掘調査での出来事です。

 

イスラエルの古代の墓地を日本人調査団が調べていたところ、人骨や髑髏などが出てきました。大量だったので、現地のユダヤ人と日本人の調査団で移動させていたのですが、一週間ほどするとなぜか日本人だけが体調が悪くなってしまった。ユダヤ人は何ともないのに。

そして作業が終わると、調子を崩した日本人もケロリと治ってしまったそうなのです。実はこれが臨在的把握によるものだそう。

ユダヤ人にとっては人骨はただの骨であり、物質であり、そこには何も意味がありません。しかし、日本人はその人骨という物質に何かの意味を感じ取り 、その大量の人骨が生み出す”空気”に飲まれて体調を崩してしまったのです。これは日本人ならほとんどの人が想像がつくのではないでしょうか。

たとえば、日本では墓地の近くの土地にはなかなか民家が建たないようですが、それも「何か気持ち悪い」という感覚があるからでしょう。

 

つまり、人骨という存在に、向きあった(臨んだ)ことで、その背後にある”何か”を感じ取った (把握した)、あるいは人骨の背後に何か物質を超越した存在を感じ取った結果、日本人の調査団は体調を崩してしまったのです。

この臨在的把握、つまりそれ自体は何者でもない物事に対して特別な意味を見出して、まるでその意味が本当に存在しているかのように理解してしまう・・・このことが空気を生みだす端緒となる。今風の言葉で言えば、何かの存在に対して人が勝手に”忖度”をして「こうあるべきだ。」「こういう風にしてほしいに違いない。」という空気を作り出してしまうというところでしょうか。

これが山本の分析です。

 

臨在的把握②ー西洋では空気が発生しない理由ー

ただ、この「臨在的把握が空気を作り出す」という話には一つ問題があります。

それは「だったら、なぜ日本人しか空気を作り出さないのか? (と思われているか?)」ということです。

たとえばキリスト教で十字架や聖書が神聖視されるように、日本以外の文化でも何かの物に神秘性を感じるという感覚自体はあります。空気自体が発生しないわけではない。しかし、日本の”空気”のようにその”神秘性を感じさせる何か”を絶対視するほど強力な拘束力を持つことはありません。日本のように「暗黙のルールに逆らったら村八分になる」みたいなことはない訳です。

だとしたら日本人と西洋で何が違うのでしょうか? 

 

ここで山本は面白い考え方を提示します。

それは一神教多神教の違いによるものだ、という考えです。

 

臨在的把握③ー多神教という要因ー

西洋社会で主流な宗教と言えばキリスト教であり、キリスト教は唯一絶対の神がいる一神教です。

一方日本は多神教の国。「自分は無宗教だ」という人も多いでしょうが、正月には神社に初詣をし、神社にいくつもある社や岩に紙が宿っていると言われれば手を合わせ、果てはトイレにも神様がいると公言する日本人は圧倒的に多神教の国であると言って差し支えないでしょう。

この一神教多神教の違いが、日本に特異な空気の支配を生む原因だと山本は言います。なぜでしょうか?

 

キリスト教イスラム教のような一神教では唯一絶対の存在は「神」のみです。神以外の存在は絶対ではありません。したがって、仮に空気が発生したとしても、それが神ではない以上、日本のように絶対視されることはない。必ず相対的な物としてみなされるのです。

相対的なものとしてみなされるとは、「お前はそうやって言うけど、お前は神じゃないのだから絶対ではない。それはお前の考えだろ?」となるという意味です。

つまり一神教では神以外のすべてが相対化されて捉えられるために、日本のような空気絶対主義にはならない。これが山本の主張です。

 

情況倫理 

情況倫理①ー情況倫理とは何か ー

さて、次のキーワードは「情況倫理」です。

何だかこれも難しそうな用語ですが、実はこれもそんなにややこしい話ではありません。これを理解するポイントは”状況”ではなく”情況”という言葉を使うところ。

よく言われる「状況」とは、その時々の場の有り様を指す言葉です。しかし、「情況」となると同じ”場の有り様”を示す言葉でも、そこに関わる人たちの思いや価値観を含めたものになります。

*1

 

情況倫理②ー日本型情況倫理と西洋型固定倫理

さて、普通「倫理」と言えば、どのような状況であっても変わらない”人としてあるべき道”であると考えられるのが一般的です。山本はこれを固定倫理と言っており、主に西洋的な倫理だと考えられています。しかし、日本の場合その倫理が「その場その場の情況に応じて変わる」のです。

たとえば同じ盗みを働いたとしても、「遊ぶ金欲しさ」だったら厳しく罰せられるし世間の目も厳しくなります。しかし、「親から捨てられて、その日食うお金もなかった」という理由だったら、世間からも情状酌量されます。同じ”盗み”という罪であっても、犯罪を犯した”情況”によって評価が変わる。だから”情況”倫理という訳です。

 

情況倫理③ー言語に表れる日本の独自性ー

このような日本型の情況倫理が生まれる原因として、言語に現れる一神教多神教の違いを紹介しておきたいと思います。これは山本の主張ではないのですが、日本で情況倫理が生まれる理由を考える上で意義があると思います。

 

一神教と言えばキリスト教

キリスト教と言えば西洋。

西洋と言えば英語。

という訳で、かなり強引ですが(笑)、分かりやすいので英語を例にとって考えます (本当はラテン語で考えるのが正しいのでしょうが、ラテン語の知識が乏しいので・・・)。

 

英語の場合、一人称は必ず「I (アイ)」になります。誰と話をする時でも「I」。これはドイツ語、フランス語、イタリア語など他のヨーロッパ系言語は同じです。

しかし、日本語の場合は相手との関係性や情況によって一人称が変化します。「わたし」「俺」「僕」もそうですが、子供に話しかける時は「パパはね」「ママは」とも言いますし、公式な場では「当方」「わたくし」「自分」などにも変化します。

ここには、日本語とは相手と自分がどのような関係性にあるかによって、自分が何者であるかの定義が変わるのであり、一神教のような「いついかなる時も変わらない自分」というものは存在しないという世界観が表れています。

つまり、私たち日本人はあらゆる状況において瞬時にその場の空気を読み取り、自分自身の存在を規定するという感覚が無意識の奥にまで染み付いているのです。

 

この日本語の特性については、こちらの本を参考にさせて頂きました。これもとても読みやすく、面白いのでよろしければ是非。

本当に日本人は流されやすいのか (角川新書)
 

 

 

「臨在的把握+情況倫理」のコンボがやばい。

このように日本においては、何かの物事を判断する時に常に情況が汲み取られることになります。そして、その情況に応じてさまざまな物事が判断される。この情況というのは、単なる物事の流れという以上に、そこに関わった人たちの感情や思いを重視したものです。したがって、情況を汲み取るということは必然的にその対象に感情移入することになります。

この「情況倫理」と先程述べた「臨在的把握」と合体すると、どうなるでしょうか?

何かについて考える時に、それが置かれた情況を汲み取った結果、特定の対象物の背後に特別な意味を勝手に読み取り、そこに感情移入をしてしまう。一旦感情移入してしまうと、科学的な分析や論証をいくら示されても冷静な判断ができず、自分の感情が信じた結論から離れられなくなってしまう。

つまり、特定の対象物が生み出した空気 (これも自分が勝手に忖度したものですが)に囚われ、思考を拘束されてしまうのです。

 

この「対象物を論理や科学的分析ではなく感情で判断してしまう」というのは非常にややこしい問題を引き起こします。

男女の恋愛感情のもつれを考えると分かりやすいのですが、いさかいが感情レベルの物になってしまうと、どれだけ「自分が正しく、あなたが間違っている」と”論証”したところで、相手は聞く耳を持ってくれませんよね。むしろ論破した方が逆に怒りを倍増させることになることは、多くの人が経験していることでしょう。

 

このように情況倫理と臨在的把握がドッキングして思考が囚われると、外部からの科学的な力で説き伏せることはほぼ不可能なのです。これが「空気の支配」が危険な理由です。

 

空気の支配を防ぐ知恵

このように非常に危険な状態を招く空気ですが、無意識の内に自分と相手の関係性を規定し言葉を選んでしまう日本人にとっては、これから逃れるのは非常に困難です。では、日本人にはもう何ともしようがないのか? 空気の支配は日本社会では必然なのか? と言えば、そんなことはありません。

この空気という”妖怪”から自分たちを守るために、日本人は偉大な知恵を発明していました。それが「水を差す」という対処法です。山本はこの「水を差す」という行為を行えるような情況を常に作っておくことが大事だと言います。

 

日本人が空気を読んでしまうのはもう無意識のレベルに染み付いた習性のようなもので、これを事前に防ぐのは不可能です。しかし、それが誰も逆らえない”支配”のレベルに及ぶ前にストップをかけることは可能です。それが水を差すという行為なのです。

※ここまで書くタイミングがありませんでしたが、山本は「空気の発生それ自体が悪いことだ」と言っている訳ではありません。空気を読むことで円滑にコミュニケーションが取れることもあり、だからこそ一々指図をせずとも皆がスムーズに動けるということもある。あくまで空気による”支配”が起こると危険だという話です。

 

「水を差す」とは何か?

改めて「水を差す」とはどういうことでしょうか?

それを説明するために山本は次のような例を挙げます。

 

山本は山本書店という書店を経営していたので、周りには出版に関わる人が大勢いたようです。そういう人が集まると、みんな独立して自分が出したい本を出版したいという話になるのだそう。

そんな話をしている内にみんなヒートアップして、「いつまでもサラリーマンじゃつまらない、独立して共同で始めるか」ということになり、話がエスカレートしていく。けれど、話が具体的になってくると誰かがこういうのだそうです。

「先立つものが無いなぁ」と。

 

山本はこう言います。

一瞬でその場の「空気」は崩壊する。これが一種の「水」であり、そして「水」は、原則的にいえば、すべてこれなのである。(中略)その一言で、人は再び、各人の日々、すなわち自己の「通常性」に帰っていく。

通常性とは現実、あるいは現実とのつながりに立った考え方をするということ。つまり「水を差す」には現実に立脚した視点が欠かせません。もしこの現実とのつながりを忘れてしまえば、この水が差せなくなる。すなわち空気がすべての人の思考を拘束してしまい、空気が全てを決定してしまう。したがって、空気の支配を防ぐには常にこの「通常性」「現実とのつながり」を確保しておくことが非常に重要になるのです。

 

「水」にも弱点はある

空気の支配を防ぐのに重要な「水」ですが、この水にも弱点はあります。それはこの水もまたすぐに新しい「空気」になってしまうということです。

さっきの出版業界の人たちの例で説明しましょう。

 

最初みんなは「サラリーマンなんてやってても仕方ないぜ!みんなで独立しよう!」「そうだそうだ!」と盛り上がって"独立機運"という空気が充満していました。それが「とは言え、金が無いなー」という現実的な一言で水を差されました。一気に意気消沈したわけですね。

そうなると逆に「結局金がない俺たちに独立なんかできないだよ。あ〜あ…」という"空気"に一瞬で切り替わってしまうのです。

膨れ上がった空気にせっかく水が差されたのに、その水が全く逆の空気を生み出したという訳です。

 

空気の支配を防ぐための水が新たな空気を作る。そしてまた新たな水が差される…この堂々巡りが延々と繰り返されるわけです。

 

空気の支配を防ぐためにやるべきこと

ここまで見てきたように、空気の支配を防ぐためには、現実とのつながりを維持し続ける通常性という「水」が重要です。しかし、その水はすぐに新たな空気を生む。したがって我々は常に空気の支配の危険にさらされて生きている訳です。

では結局、我々はその空気と水の間で漂うことしかできないのでしょうか?

これに対する山本の言葉を引用しましょう。

それから脱却しうる唯一の道は、前述のあらゆる拘束を自らの意思で断ち切った「思考の自由」と、それに基づく模索だけである。まず"空気"から脱却し、通常性的規範から脱し、「自由」になること。この結論は、だれが「思わず笑い出そう」と、それしかない。

(P169)

自分の思考や周りの人々を縛る情況や倫理、思い込みなどあらゆる空気から放たれて自分の頭で考える。「ここまで長々と語ってきて、答えはそんなことかよ(笑)」と笑われようと(=水を差されようと)、我々にできることはそれしかない。

 

そして山本はさらにこう続けます。

そして、それを行いうる前提は、一体全体、自分の精神を拘束しているものが何なのか、それを徹底的に研究することであり、すべてはここに始まる。

 

日本という社会において空気の発生を防ぐことはできない (空気の発生自体は悪いことではなく、それ良い方向に働くこともある)。しかし、空気による支配は防ぐことができる。そのために大切なのは、我々一人一人が空気に縛られない自由な思考を心がけること。そして空気とは何なのかを徹底的に考えることである。

これが山本が出した答えであり、後世の私たちに伝えたいメッセージであると言えるでしょう。

 

締めの一言。

というわけで、非常に長文になってしまってしまいましたが、山本七平著「空気の研究」をご紹介しました。 ここまでお読み頂いた方、本当にありがとうございました。

 

実を言うと、最初はもっと簡潔に「この本面白いですよー」という感じでレビューを書こうと思っていたのです。ただ、他の方のレビューを見ると、山本の主張のほんの上澄みしか触れられていなかったり、全く違うことを書いてあったり、ひどい物になると自分の主張を通すためにかなり捻じ曲げられて書かれている物さえあるように感じました。※個人の感想です。

「なんで山本の本を読んでこういう結論になるのかさっぱり分からない。山本七平はそんなこと書いてないのになぁ。」という感じ。

 

 

だったら、どんなに長文になろうとも私ができる限りで詳しく、分かりやすく、少しでもこの本の魅力が伝わるように書き切ろう!と思って、今回のレビューを書いたのです。また、山本が言っていることについては、私も疑問を感じるところ、反論したいところがあるのですが、できるだけそう言った要素は省いたつもりです。

 

内容自体のレベルの高さもそうですが、山本独特の言い回しや、同じことを別の言い方で何度も書く、みたいな所があって、読み解くのはかなり難易度が高いと思います。しかし、内容としては非常に面白く、なおかつ情報過多の現代においては多くの人に読まれるべき名著であることは間違いありません。

私の今回の投稿を読んでいただいて、少しでも多くの人が本に触れ、少しでも理解しやすくなれば、これ以上の幸せはありません。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございました!

*1:※「情況」と「状況」の違いについては諸説あるようですが、山本は明らかにこのような意味合いで使っています。

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