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自由と平等という幻想が社会を狂わせる。ジョン・ロック「市民政府論」

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「国民の信任を得た」

選挙後に多数派となった政党がよくいう言葉の一つだ。

だが、この言葉にもやもやした違和感を感じる人も多いのではないだろうか。

「国民の信任を得た」と言うけれど、投票した人がみなその人に投票したわけではない。むしろ「こいつだけは信任したくなかったのに」と思う人も大勢いるだろう。

本来選挙に勝つことと、信任を得ることは別の話のはずだ。それなのに、なぜわざわざ「信任を得た」と表現するのだろうか?


ここには歴史上のある人物の政治思想が深く関係している。

それが17世紀の政治哲学者ジョン・ロックが提唱した"社会契約"という思想だ。

思想家の丸山真男はロックを評して「17世紀に生き、18世紀を支配した人物」だと言った。しかし、彼の著作に目を通すと、今の私たちの思考の多くがロックが作り上げた土台の上に築き上げられていることに気づく。

その意味では、ロックは「17世紀に生き18世紀を支配した」どころか、「21世紀を支配している人物」だとさえ言える。


今回は彼の主著「市民政府論」を元に、私たちの思想や考え方がいかに17世紀的な価値観に縛られているのか。それが現代社会にどのような影響を与えているのかを考えてみたい。

 

著者紹介

ジョン・ロック。1632年生まれ、1704年没。イギリスの哲学、思想家。

家柄は下級官吏であり名門の家柄ではなかったが、さまざまな人の手助けによって名門校ウェストミンスター・スクールやオックスフォード大学に進学。ギリシャ語や修辞学、医学、物理学を学ぶ。

有力な政治家であったシャフツベリ伯爵と懇意になったことで政治の道へ。一時オランダへ亡命するなど波乱の時期もあったが、帰国後には「権利の章典」の草案に関わるなどイギリス政治の中心に積極的に関わる。主著「市民政府論」「人間知性論」で思想家としての名声を確立した。

 1704年、イングランド東部のエセックス州にて肺疾患により死去。享年72歳。

 

ロックを知る上での基礎的概念

ロックの現代社会への影響を考えるためには、ロックが示したいくつかの概念を知っておいた方が話が理解しやすい。まずはロックの基礎的な概念をサラッと紹介したい。


自然状態

天然自然で人間がどのような状態にあるか? を想定したもの。

この時代の哲学者の多くが独自の自然状態を定義しているのでややこしいが、ロックの言う自然状態とは

個人一人ひとりが完全に自由で、完全に平等な状態。ここでは、自然法の範囲内で自分が正しいと思う範囲で自分を律して行動する。 自分の行動に対して他人の許可は必要ないし、他人の意思に依存することもない。」

ということを意味している。

このように書くと「誰もが好き勝手なことをやって良い」と言っているようだが、そうではない。当時はまだキリスト教の価値観が有効であった。だから、人間が自由であれば自然と神の意思に基づいた理性的な行動を行うため、皆が自分勝手な行動を犯すことはあり得ないという前提に基づいている。 

自然法

これは上記のような自然状態において、人間が従うべき法律のことだ。天然自然の状態なのに従うべき法律があるというのもおかしな話だが、ロックの中では矛盾していないようだ。

これもやはりキリスト教的な考えに基づいており、まずこの世界は神が作ったものであり、人間はその世界で生まれた。だからどんなに自然な状態と言えども、神が示す理性的で、道徳的であるべしという”自然法”には人間は規定される。

いくら自由であると言っても、他人の財産や安全を脅かしたり、傷つけたりすることはあってはならない。これが自然状態であっても従うべき法律、すなわち”自然法”だ。 

所有権

今では当たり前の「所有権」という概念だが、当時はまだそれほど一般的ではなかった。特に「土地」が顕著だが、国王や領主、あるいは神のものであり、個人がそれを所有できるという考えは当時は比較的新しいものだった。

ただ、ロックがオリジナルで考え出したアイデアというわけではない。

時代的には、お金によって土地を所有する、いわゆる”土地持ち”が出現しはじめており、所有権的な考えは広まりつつあった。ロックはあくまでその正当性を理論的に定義づけただけだ。

それが本当に”理論的”であったかどうかは議論の余地があるが、本稿ではそこまで深入りしない。

社会契約

恐らくこの「社会契約」こそが、ロックが示した概念の中でももっとも重要なものだ。

上記で示したように、ロックによれば自然状態において人間は一人ひとり、完全に自由で、平等であり、その精神や所有権は誰にも拘束されることがない。

その個人がなぜ他の人と集まり、共同体や国家を作るのだろうか?

それは個人であればたしかに自由ではあるが、生命や財産の安全性が確保できないからだ。それを守るために個人は、自分の自由の度合いをある程度制限してでも共同体に属することを選択する。そして、共同体は個人の自由を制限する代わりに、その安全を守るための行動を行う。

つまり、個人と共同体はそれぞれの利益のために”同意”に基づいた契約を行うのだ。

これがロックの言う「社会契約」だ。 

  

以上、非常にざっくりとした形だがロックが示した重要な概念をさらってみた。これらはどれも非常に有名な概念であり、現代社会を理解する上でも重要な知識だ。ネットで探れば詳しい解説がいくらでも転がっているので、興味がある方はぜひ探ってみてほしい、

 

17世紀に生きたロックが21世紀を支配する構造

さて、ではこれらのロックの概念が一体どのようにして現代社会にも大きな影響を与えているのだろうか?

ここに「私達の”信任”の下に政府は国家を統治している」という、冒頭で述べた信任の問題が浮かび上がってくる。

ロックによれば、私たちは独立した個人としてこの世界に存在している。現代の私たちもそのように教えられて来たし、そう信じている人がほとんどだろう。では、なぜ独立した個人として存在するはずの私たちが、政府の統治下に服さなければならないのだろうか?

その理由を、ロックは巧妙に説明した。

「人間はみな、本来的に自由で平等である。そして独立している。同意してもいないのにこの状態を追われるとか、他社の政治的権力に服従させられるとかいったことは、あり得ない。

(中略)

共同体を結成する目的は、自分の所有物 (生命・自由・財産) をしっかりと享有し、外敵に襲われないよう安全性を高めるなど、お互いに快適で安全で平和な生活を営むことにある。」

本書P138

もっと噛み砕いてみるとこうなる。

 

私達は本来、平等で自由な独立した個人として存在している。だが、自分の安全や財産を守るためには一人でいるよりも集団 (共同体) に属した方が良い。そのために私達は所有権や財産権などを部分的に放棄して、その共同体に属することを選択している。それが私達が社会と取り決めたことなのだ。

これが国民と社会との契約、すなわち「社会契約」である。

 

その上で、ロックはこの契約が成立するためには、私達国民が統治者が正しい行いをするという信頼・・・すなわち「信託」が必要だ述べている。つまり、私たちが本来持っている自由や財産を統治者(国家)に移譲するのは、統治者が私たちのために正しいことを行ってくれるはずだという信頼が基礎になければ成立しないということだ。

この社会契約論はロックやその後のルソーなどによってバージョンアップされているものの、基本的には現代の私達の社会、政治体制の基礎になっている。

 

冒頭で私がロックのことを「17世紀に生き21世紀を支配している人物」と書いた理由はここにある。21世紀に生きる私達は今もなお17世紀の哲学者ジョン・ロックが敷いた「社会契約論」から続くレールの上で生きているのだ。

 

誰も信頼していないのに「信任」されるという矛盾

ここまで読みといて来ると、政治家が選挙の時に「国民の信任」ということをしつこく繰り返す理由がわかって頂けると思う。

率直に言って多くの国民はの政治家のことを信じてもいない。選挙で投票する時も「まぁ、こいつなら少しはマシだろう」という程度でしか選んでいないことがほとんどだ。そんなことは分別のある政治家なら本人も分かっているだろう(本当に「信任された」と思っている人もいるだろうが・・・)。

だが現代社会が「政治家が国民のために正しい行いをしてくれると信頼して、政治権力を譲渡している」という社会契約論の延長線上にある以上、たとえ形式上のことであってもそう言わざるを得ないし、その形式によって現実の政治が曲がりなりにも機能しているのが実情なのだ。国民の信頼を得た・・・すなわち「信任された」という物語の上に現在の社会は成り立っているのだ。

だが、残念ながらこの内実を伴わない”形式上の信任”、”信任という物語”によって、たびたび私達の生活は混乱をきたすことがある。

 

信任してないのに統治される?

たとえば昨年からのコロナ騒動による政府の場当たり的な政策はその最たるものだろう。

日本は一応国民が主権を担う国民主権の国だ。だが実際にいまの菅政権は私たちが選挙で選んだ訳ではない。安倍前政権が突如として崩壊したため、その急ごしらえ的に生まれた政権。それが菅政権だ。言うなれば、誰も信任していない政府だ。

実際、毎日新聞が4月17日に報じた世論調査では、国民の菅政権に対する不支持率は62%を超え、戦後最悪を記録した。それにも関わらず菅政権は今もなお国民を導く立場にある。

菅内閣の支持率30%、発足以来最低 毎日新聞世論調査 | 毎日新聞

それにも関わらず国民はこの政府に従わなければならない。繰り返すが「国民主権の国」であるにも関わらずに、だ。

このような矛盾に満ちた社会が私たちが生きる現実だ。

 

社会契約論の欠陥

この矛盾の根幹はどこにあるのだろう。

実はそれもまたロックが述べる社会契約論という思想の中にある。

先にも書いたように、社会契約論は平等で自由な個人が、自分の財産を守るという目的のために統治者と同意の上で社会契約を結んでいる、ということになっている。

では、その同意は一体いつ行われ、いつ国民と国家は社会契約を結んだのだろうか?

その問いに対してロックは次のように答えている。

「ある国の領土のいずれかの部分を所有ないし利用している者はだれでも、そうすることによって暗黙の同意を与えているのであって、土地を利用している間はずっと、その国の方に服従する義務を負うのである。・・・土地の利用には・・・さまざまな形態がある。わずか一週間の滞在であっても、あるいは単に街道を自由に往来するだけであっても、土地を利用していることになる。」

(本書P171)

つまり、ある国の土地を一瞬でも利用したなら、その瞬間にその人は国家が統治することに同意し、社会契約を結んだことになるというわけだ。

 

だが、このような一方的な契約をはたして「個人の同意を得られた」とみなしても良いのだろうか? 

ロックは、その土地を少しでも利用したならというが、それならばこの世に生を受けた瞬間・・・あるいは母親の胎内に生命を宿した瞬間から、その個人は国家と契約を結んだことになる。そこに「同意しない。」「契約を結ばない。」という自由はない。

そんな契約が果たして契約と認められるのだろうか?

 

ロックが”証拠なし”でも社会契約論を生み出さなければならなかった理由

実はこの点に関して、ロックは論理的な証明をしていない。

それどころか「個人の同意に基づく契約が行われ、それが共同体が発生することになったことを裏付ける歴史的実例がない」といい、自分の理論に裏付けがないことをロック本人も認めている(本書P143)。

それにも関わらずロックは「記録というものは共同体が創設された後につけられるものだから、共同体が創設される前の記録がないのは全く不思議ではない。記録がないからといって、そのような事実がなかったということはできない。」というかなり滅茶苦茶な理屈で、個人と国家の同意により社会契約が結ばれ、共同体が創設されたという持論を主張している。

 

普通に考えればこのような理論は誰からも受け入れないはずだ。

少なくともこのような滅茶苦茶な理論では、小論文のテストなら赤点必死だろう。

一体なぜロックはこのような無茶苦茶な理屈を採用したのだろうか?

さまざまな理由が考えられるが、一つ挙げるとすればそれは個人には完全なる自由と平等が生まれつき与えられているという価値観をロックが絶対的な命題として掲げたからだろう。

ロックが、個人は完全なる自由と平等を持つと信じている以上、あえてそれを放棄して共同体を形成するためには、それに足る目的を何とかひねり出さなくてはならなかった。その苦肉の策として考案されたのが「自らの安全と財産を守るために、個人の同意に基づく社会契約が行われ、共同体(国家)は形成された」という理屈だったのだ。

 

結論ありきで考え出されたようなめちゃくちゃな話だが、歴史を見ればこの理論は大成功だった。

ロックに続く数多くの思想家がこの考えから大きな影響を受けた。

21世紀に生きる私たちでさえも「自由で平等な個人が自分の安全を守るために国家に権利を委譲することに同意している」という社会契約論の基本理念を受け継いでいる。

 

今こそロックを乗り越えなければならない。

このロックの「同意に基づく社会契約」という理論は大きな問題を引き起こす。

それは国家の形成は「個人」の力と「同意」の力を現実よりも大きく見せてしまうことだ。これが正しいのならば、国民の同意が得られなければ国家は崩壊することになってしまう。

だが、現実にはそのようなことは起こらない。

私たちが日々感じているように、たとえ個人が同意せずとも国家や共同体の方針は決まっていく。むしろ「同意しない」という消極的な否定だけでなく、「そういう方針には反対する」と積極的な否定の態度を示したとしても、実際には個人の主張は無視されて物事は進んでいく。

それが現実であり、そのような現実の中で人間は必死にもがいて日々生きているのだ。

 

しかし、ロックの「同意に基づく社会契約」という理論は、そのような現実の矛盾を覆い隠してしまう。

今回のコロナ騒動の政府の場当たり的な対応がその典型だろう。

政府は「選挙によって選ばれた」こと、すなわち自分たちが統治することに同意を得たという形式を免罪符にして、国民に一方的な負担を強いる政策を次々と実行に移している。しかもそのどれもが実効性に欠けている。

それにも関わらず次の総選挙まで「国民の同意を得た」という形式になっている。

 

ロックは個人の同意に基づく社会契約によって共同体が形成されると言った。

しかし、現実には国家の方針は一般大衆の個人が全くあずかり知らぬところで決定され、それに同意を求められることすらない。たとえ政府の決定に疑問があったとしても、その命令には絶対に逆らうことはできないのだ。

 

私はロックが示したこの虚構の理論を乗り越えることが、いま非常に重要なのではないかと思う。

ロックの「個人の同意に基づく社会契約によって共同体が形成される」という虚構に縛られているからこそ、政治家は「選挙に勝てば(=形式的に同意を得られれば)やり放題」になるし、国民は「同意しようがしまいが、結局政治家様がやりたいようにやるんだから選挙なんか意味ない」という無力感にさいなまれることになる。

国家が個人との契約によって形成されているという虚構のシステムから解放されることで初めて、国民は「国家とは何なのか」「国家がまとまるには何が必要なのか」「何が国家を破壊するのか」「国家を存続させていくためには何が必要なのか」という政治家も国民が対等に、そして同じ目線で国の行く末に関わることができるのではないだろうか。

 

17世紀に生まれ21世紀にも影響を与え続けるロックの理論。

今こそその原点に改めて迫るべきではないだろうか。

 

 

 

というわけで、今回ご紹介したのはこちら

ジョン・ロック「市民政府論」でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m 

 

 

 

なぜオリンピックを強行開催するのか。政府の基本方針から読み解く理由。

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「政治家は一体何のために仕事をしているのだろうか。」

思わずそう呟かざるを得ないほど、現代は政治家と国民の分断が拡大している。

東京オリンピックの強行開催はその象徴的出来事だ。

朝日新聞が5月に発表した世論調査によると、「中止する」と答えた人が43%、「再び延期する」と答えた人は40%に上ったようだ。

多くの国民がオリンピック開催に反対する理由は極めてシンプル。海外の選手や関係者によって感染が拡大することを恐れているからだ。

政府あるいは国家の役割とは本来国民生活の安定と安全を確保することのはず。それにも関わらずなぜ政府はこれを強行しようとするのだろうか。

オリンピックの目的は何か

政府が東京オリンピックを強行する理由を読み解くのに参考になる資料がある。

首相官邸のHPに掲載されている「2020 年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会の 準備及び運営に関する施策の推進を図るための基本方針」だ。

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tokyo2020_suishin_honbu/kaigi/dai2/siryou1-2.pdf

 

これによれば東京オリンピックの開催意義を政府がどのように考えているかが分かる。

例えば

・自信を失いかけてきた日本を再興し、成熟社会における先進的な取組を世界に示す契機 

 

・多くの先進国に共通する課題である高齢化社会、環境・エネルギー問題への対応に当たり、 日本の強みである技術、文化をいかしながら、世界の先頭に立って解決する姿を 世界に示し、大会を世界と日本が新しく生まれ変わる大きな弾みとする。

 

・文化プログラム等を活用した日本文化の魅力の発信、スポーツを 通じた国際貢献、健康長寿、ユニバーサルデザインによる共生社会、生涯現役社 会の構築に向け、成熟社会にふさわしい次世代に誇れる遺産(レガシー)を創り 出す。

 

高齢化社会、環境・ エネルギー問題その他の日本が直面し多くの先進国に共通する課題を踏まえ、 大会の開催後も有用であり、次世代に誇れる有形・無形の遺産(レガシー)を全国に創出するとともに、日本が持つ力を世界に発信する。

 

・大会を通じた日本の再生

日本の強みで ある環境・エネルギー関連などの科学技術を世界にアピールし、地方創生・地域 活性化、日本の技術力の発信及び外国人旅行者の訪日促進等を通じた「強い経済」 の実現。

「被災地の復興・地域活性化」「日本の技術力の発信」「外国人旅行者の訪日促進」「日本文化の魅力の発信」

 

と言った具合だ。

(一応、11ページある文書の10ページ目に「スポーツ基本法が目指すスポーツ立国の実現」という項目が一つだけある)

 

ここから読み取れる東京オリンピックの目的とは

「日本文化ビジネスの拡大」

「観光業促進」

「科学技術力アピールによる諸外国による投資の拡大」

といった、いわゆるビジネス的な金儲けであるということだ。

いわゆる一般的な国民が考えているような、国際平和や海外との交流といったスポーツの祭典として意義は全く考慮されていないのだ。

 

"オリンピック開催"という正義

オリンピックを推進する政治家たちは、たとえ世論を無視した強行開催であってもオリンピックを開催すればビジネス的には成功すると信じている。

そして、儲かりさえすれば今は文句を言っている国民たちも「やっぱりオリンピックをやって良かった」と手のひらを返すに違いないと高をくくっている。

だから民意をどうであろうと強行開催してしまえば良い。それが日本の未来のためになる。

言うなれば、彼らは”自分が信じる正義”に基づいて行動しているのだ。

 

彼らの正義が正しいのかどうかはここでは問うつもりはない。ただ、政治家として行政に携わる者たちには、たとえ民意を無視してでも自分たちが正義として信じる行動を国民に強制することができる"政治力"があること。

そしてそれは"民意によって選ばれた"という法的な正当性が付与されているということを、私たちは目の当たりにしている。

 

私たちはこれまで日本は法治国家であると信じてきた。そして法を通して私たち国民は主権を行使しているのだと信じてきた。それこそが近代国家のあるべき姿であると。

だが、本当にそうだろうか?

 

今回のオリンピックをめぐる騒動は、「オリンピックを開催するべきかどうか」という狭量な枠組みで収めるべき議論ではないのではないか。

私たちがいま目の当たりにしているのは、法による統治という理念の限界という、近代の政治哲学が静かに、しかし確実に孕み続けてきた問題なのではないだろうか。

だとすれば、今こそ私たちは近代という時代について考え直さなくてはならない大きな問題を突きつけられているのではないだろうか。

 

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

 

国民のために働きたくても働けない。「ブラック霞ヶ関」の実態

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「官僚」

日本においてこれほど悪いイメージを持たれている言葉も少ないだろう。

本来なら日本を牽引するエリート集団であることを否定する人はいないだろう。その一方で多くの一般国民が抱くイメージとは

「上級国民の集まり」

「無駄に偉そう」

「税金から給料をもらっているくせに国民をバカにしている」

「まともな仕事をしてない(=まともな政策を作らない)」

といったものだろう。

 

そのようなイメージを覆すような衝撃的な本がある。それが今回紹介する

千正康裕「ブラック霞ヶ関」だ。

この本では、普段私たちが抱きがちな"上流階級"とは全く違う実態が描かれている。

超絶ブラック!官僚の実態

2019年に行われた官僚1000人のアンケートによれば、65.6%は年間残業時間が720時間を超え、1000時間超えが42.3%、1500時間超えが14.8%だった (ちなみに過労死ラインは960時間)と言われている)。

また、朝7時に業務開始時間、仕事が終わるのが27時過ぎというのもザラのようだ。

私自身も民間企業で同じようなスケジュールで仕事をしていた時期があるが、案の定体を壊して1年ほど休職せざるを得なかった経験がある。

著者によれば、厚生労働省経済産業省などの本省で働く国家公務員に関して言えば、約一割が体調を崩して休職しているそうだ。

 

官僚と言えばれっきとした"エリート"。普通に考えれば「片手団扇」の生活をしていてもおかしくないはずだが、その彼らがなぜこのような殺人的業務をこなさなければならないのだろうか。

 

この本では元厚生労働省の官僚が自身の体験を交えながら

 

・なぜ官僚たちはこのようなブラック企業並みの働き方をしているのか。

・この官僚の実態が私たちの生活にどのような影響を与えているか

 

が解説されている。

その上で、私たちの生活をより良くするために官僚にどのように働いてもらうべきなのかについて、具体的な提案も交えて語られている。

一般国民にはあまり馴染みのない官僚たちだが、この本によりその生態や考え方を知ることで、どうすれば官僚たちが国民のために働けるようになるかが見えて来る。

そもそも官僚とは何か

官僚とはそもそも何だろうか?

Wikipedia的な説明をするならば、中央行政機関で各省にかかわる国家公務員のこと。特に国家公務員の中でも、国家公務員総合職試験で採用され、中央官庁の中で一定以上のポストにある人たちを指して官僚という。

公務員の中でも、国家公務員Ⅰ種採用試験という超難関試験を突破した者だけがなれる超エリート達だ。

彼らの仕事がどのようなものかをひと言でいえば、「官僚の仕事は政策をつくること」だと言えるだろう。

ではその「政策」とは何だろうか?

 

官僚が作る政策とは?

著者によれば政策とは「政府独自のリソースを活用して、人々の行動変容を促し、社会課題を解決する営み」のこと。

政府独自のリソースというのが分かりにくいが、たとえば法律による規制や税金の徴収とその配分。あるいは労働基準監督署による労働環境の取り締まりのような公的機関だけが実行できる手法のことだ。

これらを策定、運用する制度設計を行うのが官僚の仕事ということになる。

官僚の役割

このような政策とは私達一般国民の生活に直結するものだ。したがって、政策の設計をする際には、国民にとって利益があるように様々な現地調査や分析、それに基づく将来予測が必要となる。

当然ながらそれはインターネットで検索して、パソコンに入力すれば自動的にできあがるような単純なものではない。著者によれば「良い政策」を作るためには下記の3つのプロセスが重要となる。

1) 詳しい人が徹底的に考える

みなが使う法律や精度の案を作る人間は、その内容や変えた時の様々な影響が見通せるように詳しくないといけない。専門家の知識は非常に重要だ。

2) 出来るだけ多くの人の意見を聞く

仮に、指示下や官僚が優秀だとしても、世の中のすべての国民の生活や制度の欠陥を見通すことはできない。だから、色んな立場の人の意見を聞いて政策へ反映させることが重要。

3) 決めた後の執行のことをよく考える

どのような政策もそれが成立した時に大きな話題となるが、実際に重要になるのはそれが施行されてから。どれだけ大きな給付金を予算に盛り込んでも、それがちゃんと執行されて、国民に届くようにするための時間や手法を確保しなければ意味がない。

 

考えてみれば当たり前のことであり、どれも特別な意味を持つものではない。民間企業で働いたことがある人ならもちろん、学生であっても部活やサークルで何かを実行しようとしたことがある人なら、これらは実に当たり前のことだ。

 

ただ一つ注意しなければならないのは、これらのプロセスには非常な時間と労力、そしてお金がかかるということ。政策を考えるのはもちろん、多くの人の意見を求めるにも、政策のプロセスを精査するにも莫大な労力がかかる。

民間企業や学生のサークル程度ならその労力も知れているかもしれない。しかし、国の政策とは国民生活に強く、長い影響を与える (下手をすればその政策により生活が困窮するような可能性もある)。そして、一旦施行されれば、それを撤回することは容易ではない。

ここにこそ官僚がブラック化する原因がある。

すわなち絶望的な人員不足である。

 

日本は公務員が少なすぎる?

バブル崩壊以降、いわゆる”公務員叩き”が流行る中で日本の公務員はガンガン削られてきた。文字通りの人数削減もあれば、派遣労働者によって急場を凌ぐケースも多い。

一般的に日本は公務員が多すぎるというイメージがあるが、実は先進国の中では日本の公務員は圧倒的に少ないのが実態だ。

下記は人事院による人口千人当たりの公務員数の国際比較だが、これによると

フランス 89.5人

イギリス 69.2人

アメリカ 64.1人

ドイツ 59.7人

日本 36.7人

と圧倒的に少ない。しかも、地方公務員も入れた総数で見ればこの20年あまりで100万人以上減少していることになる (国家公務員に限っては半減!)。

この数字を見ただけでも、諸外国と比べて日本の公務員が激務に追われている実態は不思議でもなんでもない。むしろ当然の結果だろう。

https://www.jinji.go.jp/pamfu/profeel/03_kazu.pdf

人事院HPより転載

https://www.jinji.go.jp/pamfu/profeel/03_kazu.pdf

公務員数の減少が与える影響

実際、この本のなかでもさまざまな実例を踏まえて「少人数で無理やり激務をこなしている官僚」の姿がありありと描かれている。

冒頭でも紹介したように

・65.6%は年間残業時間が720時間を超え、1000時間超えが42.3%、1500時間超えが14.8% (ちなみに過労死ラインは960時間と言われている)。

・朝7時に業務開始時間、仕事が終わるのが27時過ぎがザラ。

・本省で働く国家公務員に関して言えば、約一割が体調を崩して休職

という異常な状態が常態化するのも頷ける。

そして、実際このような異常事態は私達の生活にも影響を与えている。

 

たとえば昨今たびたび話題になる、コロナ禍による飲食店の時短営業への影響もその一つだ。

下記の朝日新聞の記事によれば

新型コロナウイルスの感染急拡大を受け、1~3月に出された緊急事態宣言の対象11都府県で、営業時間短縮の要請に応じた飲食店などへの協力金の支給率にばらつきが生じている。福岡県が支給をほぼ終える一方で、大阪府は6割強にとどまることが朝日新聞の調査でわかった。(中略)
 一方、申請が約11万4千件と2番目に多い大阪府は支給率が最も低い64%だった。期間別にみると、緊急事態宣言の最初の期限だった2月7日分までは78%で、11都府県の中で唯一90%台に達していない。2月8~28日分は49%にとどまる。民間企業に業務を一括委託したが、「判断に迷う事案が多く発生した」(府担当者)という。対応する府職員は3月末まで2、3人だけで支給は滞った。」

なぜこのような事態が起こるのかと言えば、店が実在するのか、時短要請の対象となるのか、営業許可証と確定申告の名前が一致しないなど、民間業者に判断できない事案が発生。それを大阪府職員に確認するものの、府側の担当者は2、3人しかいないために全く処理が追いつかない。

日本は公務員が多すぎるという思い込みにより減らし続けた結果、私たち国民自身が苦しんでいるのが実態だ。

もちろんこれは大阪府という一地方自治体の話だが、本書の官僚たちのブラック化も同根の問題を引き起こしているであろうことは想像にかたくない。

 

官僚と国民、双方にとってベストな方策を

著者は今回の新書を書いた理由を「まえがき」にて、次のように書いている。

「この本を書くことにしたのは、官僚を本当に国民のために働かせるためにはどうしたらよいか、それを皆さんと一緒に考えて実現していくためのきっかけとしたいからです。

(中略)

そして『そうだな。自分たちの税金で仕事をしている官僚には、国民のためになることに極力時間を使ってほしいな』。そう思ってくださったら、とても嬉しいです。」

長年官僚として働き、自身も身体を壊すほどに働いた人物の心からの訴えだ。

たしかに現在の官僚たちに何も問題がないわけではないだろう。上記の「人手不足」がその原因のすべてとも言えない。冒頭に述べた官僚の悪いイメージも、あながちすべてが幻想という訳でもないだろう。

だが、民間だろうが学校のサークルだろうが、どんな組織でも必ず制度的な問題を抱えているものだ。それを官僚システムにだけ「お前たちの努力が足りない。国民の税金で暮らしているのだから、滅私奉公を徹底しろ」と突き放すのは、やはり正当とは思えない。

官僚として働く彼らにも、彼らなりの言い分や、自分たちの力だけではどうしようもない課題もあるはずだ。

日本のはびこる、いわゆる「官僚」というイメージにとらわれることなく、官僚自身の声にも耳を傾けること。そして、国民と官僚お互いにとって少しでも良い環境を生み出せるように努力し合うことが大切ではないだろうか。

本書はそのための一助になるものとして、是非多くの人に一読して頂きたい。

 

というわけで今回ご紹介したのはこちら。

千正康裕「ブラック霞ヶ関

でした。

今回も最後まで長文をお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

 

 

映画「るろうに剣心 The Beginning」。ファン歴30年が語る感想。

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ついにこの時がやって来た・・・!

映画「るろうに剣心 最終章 The Beginning」が公開!

映画の初公開から足掛け10年にわたる歴史がついに終止符。

果たしてその結末とはいかに??

原作から数えて30年弱のファン歴を誇る一ファンの目にどのように映ったのかを語り尽くす。

※前作「The Final」については以前のこちらで投稿。

よろしければこちらも

 

総評

この映画「るろうに剣心」は、言わずもがな昔週刊少年ジャンプにて連載されていた漫画「るろうに剣心 明治剣客浪漫」を実写映画化した作品。

2012年に初作、2014年に京都大火編が公開。そして今年、原作の最終章「人誅編」に当たる「The Final」「The Beginning」が公開された。

実は原作では、このThe FinalとThe Beginningに当たる話は、ひと繋がりのストーリーとして描かれている(The Finalのパートは現在の話で、The Beginningのパートは主人公の”回想シーン”として描かれている)。

映画版では大胆にもこれを別作品として切り分けたのだが、”原作ファン”としてはちょっと考えられないアプローチであり、これが功を奏するのかが非常に気がかりとなっていた。

では、実際に映画版を観てどうだったのか?

 

結論から言えば・・・

めっちゃ面白かった!!(笑)

正直「これでつまらない作品になっていたら、原作レ○プとして、スタッフにクレーム入れてやろう。何なら原作者に”お前はこれで良かったと思っているのか”と投書してやろう。」と思っていたのだが(※冗談です)、そんな心配していたのがアホらしいくらいに面白かった!

 

ただし。

ただし、だ。

この作品だけを切り分けて一個の単独作品として見れば面白かったのだが、これをもって「るろうに剣心」という映画シリーズ全体が有終の美を飾ることができたのか?という意味では、手放しでは喜べないところがある。

各論としては素晴らしいが総論としては微妙だった、とでも言うべきか。この点についてもう少し詳しく考えてみよう。

The Beginningの素晴らしかった点

ストーリーとアクションのバランスが素晴らしい

何と言ってもストーリーとアクションのバランスが素晴らしい内容だった点を挙げるべきだろう。

今までのるろうに剣心は「時代劇アクション」と分類できる映画だった。主人公緋村剣心を演じる佐藤健の超人的な身体能力を最大限に引き出すべく、演出、シナリオ、カメラワークすべてが”息をつかせない”アクションシーンが最大の見せ場だった。いわゆるアメリカ映画的な派手さはないものの、その質においては世界にも誇れるレベルの高さだったと言えるだろう。

その一方でストーリーの深みという意味では、若干完成度に劣っていたところは否めない。賛否両論あるだろうが、あくまでアクションが主、ストーリーは従、という位置づけだったと言って差し支えないだろう。

しかし、今作においては緋村抜刀斎や雪代巴の心の動きを描くストーリーが中心で、アクションはそれを引き立てるための素材として上手く活用されていた。このバランスが絶妙だった。

今までの「アクション映画」を期待した観客には意外に映るかもしれないが、恐らく良い意味で期待を裏切るるろうに剣心のドラマ性」を堪能できるのではないだろうか。

 

新しい「時代劇」の姿を見せた

次に素晴らしかったのは、「時代劇」という映画表現に新しいアプローチを見せたことだ。

映画るろうに剣心のプロデューサーである小岩井宏悦 (こいわい ひろよし) 氏によると、そもそも2009年に映画るろうに剣心のプロジェクトを立ち上げた際にも、「若い人は時代劇を観ない」という反対意見があったようだ。

当然だろう。

平成以降の世代で「時代劇を観るのが趣味」という人はほとんどいない。いくらイケメン俳優・佐藤健を主役にするからと言って、「時代劇でもこのコンテンツは成功する」と予想できなかっただろう。

だが、制作陣はその下馬評を見事に覆した。

佐藤健が若い世代を捕まえる取っ掛かりになったのは間違いないが、今までの日本映画にはなかった刀を使った息を呑むアクションで高い評価を勝ち取り、実績を残した (興行収入は初作が30億円、京都大火編が52億円、そして前作The Finalは5月末時点で既に興行収入30億円を突破)。

その意味ですでに映画るろうに剣心は既存の「時代劇」という枠を塗り替えたと言っても過言ではないが、今作The Beginningではそれをさらに超えるものを出してきた。

 

今まではスピード感や(刀のぶつかり合いなどの)サウンドを強調した”アクション映画として格好良い”というビジュアル重視の見せ方をとってきたが、今回は一転して”格好良い時代劇”を見せてきたのだ。その最大の違いは”静けさ”だ。

たしかにスピードやサウンドによる力強い映像は今までを踏襲している。しかし、今回の作品はとにかく”静か”なのだ。

静かなアクション映画

今回のThe Beginningが今までの作品と違うところの一つが「静けさ」にある。

もちろんそれは単純なボリュームの大小の話ではない。

大音量のシーンでもどこか寂しさを感じさせるような静けさを感じさせるのだ。

 

要因のひとつは、緋村抜刀斎が振るう刀の違いにある。

今までのシリーズでは主人公・緋村剣心が使っていたカタナは、刃と峰が逆になった”人を殺せない”刀、逆刃刀を振るっていた。そのためどうしても敵を倒すのに、何度も叩きつける必要がある。

しかし、今作の緋村抜刀斎が振るうのは普通の”人を殺せる刀”だ。つまり一振りで殺せる。結果、戦い自体は一瞬で決着がつく。

そのため多くの相手を斬り殺しても、戦闘シーン自体はそれほど長くならず、アクション映画的な大音量も少なくなっている。それによって物理的に静かという面がある。

 

そして、この作品の静けさのもう一つの要因は役者たちの演技にある。

作品を通じて感じたのは役者に無駄な動きがほとんどないことだ。分かりやすいのはヒロインである雪代巴(有村架純)の動きだろう。

巴が武家の人間という設定もあり、所作に無駄がなく、動きに大げさなところがない。役柄的に「クールビューティ」ということで、言葉や表情も非常に冷たい感じであるところが物語全般に静けさを与えている。

それ以外のキャラクターにしても、常に「いつ死ぬか分からない」という緊迫感があるせいか、無駄な動きがほとんどなく、結果的に今までの作品のような”賑やかな”空気感とは全く違う作品になっている。

アクション性と物語性が融合した作品

このアプローチは、るろうに剣心シリーズの派手なアクション性を期待した視聴者にとっては面食らうかもしれない。派手な剣戟アクションを求めたいた人からすれば、物足りない部分もあっただろう。

だが、見た目の派手さよりもキャラクターの心情、つまり緋村抜刀斎や雪代巴が抱える心の闇や心の変化の機微。そしてラストに向かって収束していく二人の悲劇的な運命をより深くえぐり出すのには、この静けさによる表現は非常に効果的だったと思う。

特に二人の最期のシーンにおいては、この静けさが二人の悲哀を極限にまで高めており、原作とは全く違う”はかなさ”と”美しさ”を描いていた。このシーンに関しては、もう完全に原作を超えたと言っても過言ではない。

この静けさこそが、日本映画でもトップクラスのアクション性と、これまでのるろうに剣心シリーズでは必ずしも突き詰められなかった物語性を、この作品において上手く融合させた要因ではないかと思う。

The Beginning単体の評価

という訳で。

るろうに剣心の原作からの熱烈なファンでもある私としては、The Beginningは予想を遥かに超えた素晴らしい作品だったと思う。

正直、雪代巴が有村架純だと聞いたときは「ないわ。マジないわ。有村架純に巴はできない。無理。」と思っていたのだが・・・・すみませんでした!!

私のイメージの巴とは違ったけれども、この作品の雪代巴としては確かに有村架純にしかできない役だったのかもしれない。

若干歴史的な知識や、原作を知らないと意味が分からないところがあるのは事実だが、るろうに剣心ファンではない人にもお勧めできる作品になっている。

The Beginningのイマイチだった点

・・・と、ここまではThe Beginningの良い点を挙げた。

しかし、この作品が100点満点だったのか?と言われれば、残念ながらそうは言えないのが事実だ。

確かにThe Beginning単体で観れば素晴らしい出来だったのは間違いない。

だが、るろうに剣心シリーズ全体の中での評価という意味では、「残念な結果だった」というのが正直なところだ。

 

ここからは完全に原作ファンとして見解となる。その点はご了承願いたい。

るろうに剣心のテーマとは何か

以前の投稿でも書いたのだが、私はこのるろうに剣心の映画化において「原作を忠実に再現すること」は求めていない。

重要なことは、るろうに剣心という作品が伝えたかったテーマを描けているかどうかだ。

 

るろうに剣心という漫画には非常に多くのテーマが込められているため、一つに絞ることは難しい。

だが、私の主観も込めつつ敢えて断言するなら

「人生の超克」と「魂の救済」

だと言えるだろう。

人生の超克とは、すなわち「辛く、苦しく、ときに悲しみに溢れた人生を生き抜くことの難しさ」を描くこと。

そして、人生を歩む中で誰しもが少なからず罪を背負うものだが、「その罪は愛する人や仲間の支えによって必ずや許される日が来る」という希望の道を描くこと。これが魂の救済である。

いささか大仰ではあるが、これこそが人斬りを主人公にしたるろうに剣心ならではのテーマだと思う。

しかし、残念ながらこれらのテーマは今作品では描かれなかったと言うしかない。

 

描かれなかった"人生の超克"

前作The Finalのレビューでも書いたことだが、今回のThe Beginningにあたる物語は、本来The Finalの中の回想シーンだ。

緋村剣心は自分の最愛の妻を惨殺したという罪を背負いながら、しかしその罪とは向き合えないままに10年間生きながらえてきた。

だが、10年の時を経てようやくその罪と向き合える心の強さと、信じられる仲間を持てるようになる。だからこそ、その罪を告白し、仲間や新たな伴侶とともにその罪を乗り越える覚悟をもつことができたという流れだ。

その意味でこのパートは単なる回想シーンではなく、緋村剣心が自分の罪と向き合う贖罪のシーンであり、その苦しみを共有することで仲間との絆をより一層深めるための試練でもあった (実際原作では回想シーンの後、仲間が一旦バラバラになるが、再びより絆を強くして集結するというストーリーになっている)。

つまり、The Beginningによって剣心の過去をえぐり出す過程があってこそ、The Finalが本来の意味を持つ。その過程がなければThe Finalの意味合いも半減する。

しかし、今回はこの二つを完全に切り分けるという手法を採用した。

 

上で書いた評価のように、これによりThe Beginning単体でのクオリティを上げることはできたのは事実だ。

だが、剣心が己の罪に向き合いそれを克服するとい過程はすっぽり抜け落ちてしまったのは否めない。

当然ながら、剣心は自分の人生を超克することができなかった。前作で敵役であった縁を倒したのは、あくまでその"人生の超克"の象徴だったはずなのだが、映画ではただの勘違いのシスコン男を力で倒し、相手に自分の過ちを認めさせて終了という、単なる勧善懲悪ドラマのような終わり方になってしまった。

 

誰の魂も救済されなかった

もう一つのテーマである魂の救済だが、これも残念ながら成し遂げられなかったと言える。人生の超克が成し遂げられてこその魂の救済なのだから当たり前だが…。

本来なら剣心が過去の罪に向き合い、心身ともにボロボロとなり、そこから立ち上がる過程において、周りからも赦され、自分自身を赦すプロセスが描かれるはずだった。

だが、剣心が自らの罪を乗り越える過程が描かれなかったため、このプロセスが描かれることもなかった(剣心も10年間苦しんで来たんだから、もう良いでしょ的な浅い扱い…)。

 

これは剣心の魂が救済されなかっただけではない。巴の魂もまた救済されなかったのだ。

巴が命をかけたのは、他でもない剣心を守るためだが、当然それは剣心が幸せに生きることを願ってのこと。結果的に巴の命を奪ったのは剣心だが、それに剣心が縛られ不幸になることは望んでいなかったはずだ。

したがって、剣心が巴の死に縛られたままでは、巴の魂も浮かばれない。剣心が救済されなければ、巴の救済されないまま。剣心が救済されて新たに幸せな人生を歩んでいく…それでこそ巴の魂もまた救済されるはずだった。

実際、原作では剣心と薫が巴の墓を見舞った際に、剣心が巴の墓に「ありがとう。済まない。そしてさようなら。」と告げ、薫立ち去るシーンがある。その際に巴の墓に穏やかな風が流れるのだが、それも正に剣心の幸せが巴の魂を救済したことを示す演出だったのだろう。

 

つまり、剣心の過去の回想をThe Beginningという作品に切り分けたことで、本来描かれなければならなかった"人生の超克"と"魂の救済"の物語がまったく描かれないという事態になってしまったのだ。

これは正直原作ファンとしてかなり残念だ。このような重いテーマを取り扱いながら、ちゃんと商業的にも成功した稀有な作品、それこそが「るろうに剣心」の魅力だった。それ以外の部分がとても優れた映画であった分だけ、肝心なテーマが削ぎ落とされたことは心残りだと言わざるを得ない。

 

それでも制作陣に感謝したい

ここまで辛辣なことを書いておきながら…ではあるものの、るろうに剣心という漫画史に残る名作を映画化してくれた制作陣やスタッフにはとても感謝している。

クオリティが予想を上回る出来だったため、「どうせならここまで描いて欲しかった」と述べたくなるものの、そもそもるろうに剣心の映画化自体が原作ファンにとっては夢のようなことだったのだ。

その夢を叶えてくれただけでも、とてつもなく有難いことだ。

その上、何度も書いているように、アクション性においては日本トップクラスなのは間違いない。それ以外の演出や映像の美しさ、迫力においてもずば抜けたクオリティの作品となっている。

 

漫画の映画化といえば"コレじゃない感"が漂う原作レイ◯の作品がお決まりだ。

だが、この映画るろうに剣心シリーズは、そのような心配を見事に裏切ってくれた。これほどの物を作り上げた関係者の努力には脱帽だ。本当に素晴らしい仕事をして頂いたと思う。

映画を観たことで改めて「るろうに剣心」という作品の素晴らしさについて考える機会が持てた。そして、さらに好きになることができた。このような貴重な機会を提供してくれた関係者の方々に心からお礼を述べたいと思う。

 

wwws.warnerbros.co.jp

コロナ不況脱却のために何が必要か? 井上智洋「『現金給付』の経済学」

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先日携帯電話の利用料金に関して、驚きのニュースが報道された。

総務省は毎年、東京やニューヨーク、ロンドン、パリ、デュッセルドルフなど世界の主要6都市で、携帯電話料金を調査しているのだが、東京での価格がロンドンに次ぐ二番目の低価格になったというのだ。

これに関し、武田総務大臣は「携帯事業者間の競争の結果が反映された。日本の料金水準は1年前と比べて大幅に安くなったため、諸外国と比べても遜色なく、条件によっては国際的に安い水準となった」と"評価"した。

 

私は正直このニュースを聞いた時に呆れ果てた。

日本経済は未だデフレ不況から脱却できていない。だからこそ政府もデフレ不況の脱却を目指していたはずだ。

そもそもデフレとは実質賃金が減少している中で物価が下落することで現象だ。これは国民の所得が減る…つまり、国民が貧困化することを意味している。

だからこそ日銀も政府も物価上昇率2%という数値目標を掲げている。当然携帯電話の利用料金もこの物価上昇率へ影響する。それにも関わらず、それが値下がりしたこと…すなわち物価上昇率2%という目標に反する事態が起きていることに対して、"総務大臣が評価する"とは一体どういう了見なのか?

 

このことは、政府がデフレの何が問題なのか全く理解していないということの証左だ。もちろん、国民の賃金が上昇している局面であれば、何も問題ないだろう。だが、今は明らかに国民の賃金が減少するデフレ局面なのだ。

その状況で物価が下がるということは、結局回り回って国民の所得や国内経済がどんどん小さくなっていくことを意味する。それが「長期的な視点で考えた国家経済のビジョン」なのだが、どうやら政府はそのような長期的視野は全く持っておらず、まるで一消費者のように

「物価が下がったら物が買いやすくなるんだから何が悪いの?」

という短絡的な視点しか持っていないことが、このコメントひとつ取っても明らかだ。

 

では、この携帯電話料金のような『事業者間の競争』ではなく、政府はどのような政策を行うべきなのだろうか?

それを考える上で、参考になるのが今回紹介する

井上智洋「『現金給付』の経済学」

だ。

 

著者紹介

井上智洋 (いのうえ ともひろ)。駒沢大学経済学部准教授。経済学者。IT企業勤務を歴て現職。専門はマクロ経済学貨幣経済理論、成長理論。著書に「人工知能と経済の未来」など多数。

経済学に明るくない一般の人たちにも分かりやすく国民経済の問題を解説する。経済学界隈で最近世界を巻き込んだ論争になっている現代貨幣理論 (MMT)に関して、中立的な立場から非常に分かりやすく解き明かしており、Youtubeでの活動、国会審議に参考人として出席するなど、幅広い活動を行っている。

 

バラマキこそが最適解

今回の携帯電話料金に限らず、長年日本を苦しめているデフレ不況だが、その最大の原因は「お金が不足している」ことにある。そのように言われると、経済ニュースに詳しい人であれば「日銀はここ数年異次元の金融緩和をしてジャブジャブに供給している。お金が足りないなどということはないはずだ。」と言われるかもしれない。

残念ながらこれは正しい指摘ではない。

このことを理解するためには、「貨幣とは何ぞや?」について少し専門的な知識が必要になる。詳細は本書に譲るとして、ここではざっくり簡単に説明しよう。

二種類のお金

一般にはほとんど認識されていないが、お金には実は二種類ある。「マネタリーベース」と「マネーストック」だ。

マネーストックとは、企業や個人と言った普通の民間主体が使うお金であり、「預金」と「現金」のこと。普通私達が「お金」と聞いてイメージするのが、このマネーストックのことだ。

一方マネタリーベースとは、銀行同士の取引に使う特殊なお金のことで、「預金準備」と「現金」から成り立っている。この預金準備とは民間銀行が中央銀行(日銀のこと)に預けているお金のことだ。

※マネタリーベースのほとんどが「預金準備」であり、「現金」はほぼ無視して良い割合でしかない。

日銀が供給しているのはどっち?

日銀の異次元緩和により大量に供給されているお金というのは、実はこの預金準備のことなのだ。そして、詳しい解説はここでは省くが、この預金準備というのは通常の民間企業はアクセスできない仕組みになっている。したがって、この預金準備がどれだけ異次元緩和によって膨らんだとしても、誰も入れない金庫にお金が積み上がっているだけなのであって、私達国民の下には一切流れ込んで来ない。

「日銀の異次元金融緩和」などと騒いでも、私達の給料が全く増えないのはこのせいだ。マネタリーベースがどれだけ増えても、私達国民には基本的に何も関係ないのである。

政府がお金を使わないとお金は増えない?

しかし、このマネタリーベースを国民の生活に流れ込ませる方法がある。

実はそれは「政府がお金を使うこと」なのだ。

マネタリーベースは中央銀行と民間銀行の間で使われる特殊なお金だと書いたが、実は日本政府もこの口座にアクセスができる。逆に日本政府は民間銀行に口座を持てない仕組みになっているため、日銀の当座預金にしかお金を持てないのだ。

したがって、実はジャブジャブに貯められているマネタリーベースのお金を国民の下に送り込むためには、政府が何かしら公共事業を行い、マネタリーベースのお金を使ってその支払いを行うしかない。

政府がお金を使い、その支払が「日銀 → 民間銀行」と行われることで、初めて”ジャブジャブ”に溜まったマネタリーベースが国民に流れる仕組みになっているのだ。

バラマキこそが最適解

私達は普段政府がお金を使うことを嫌う傾向があるが、これは上記のようなお金の仕組みを理解していないから。これを理解すれば小学生でも分かる話なのだが、デフレ不況というお金が不足している状況において、大量に日銀が刷ったお金を国民に流し込むためには、政府がどんどん事業を行いお金を使うしかない。

本書の帯に書いてある通り「『バラマキ』こそが最適解!」。これが真実だ。

このマネタリーベース、マネーストックという貨幣のシステムに関しては、少し込み入った説明が必要になるためここでは割愛する。興味がある人は・・・・というか、一人でも多くの人に本書を読んで、この事実を知ってほしい。

一般的な貨幣観ではとても受け入れられないが、井上氏による丁寧な解説をニュートラルな気持ちで読んで頂ければ、必ず理解できるはずだ。

ベーシックインカムの実現

この前提に立てば、デフレを脱却するために必要なことは「政府が日銀に持つお金を国民に流すことだ」ということが理解できる。そのための具体的な政策はいくつもあるだろう。

いわゆる昔ながらの公共事業もその一つだし、教育や科学技術に関する投資、あるいは公務員の数を増やして”公務員給与”という政府の支出を増やすことも方策の一つだ。

その中で著者がもっとも強く提唱するのが、ベーシックインカム・・・つまり国民のすべてに生活に必要な一定程度のお金を供給する方法だ。ベーシックインカムには賛否両論あり、賛成派の中でも様々な議論や方法論がある。

ベーシックインカム」と十把一絡げで是非を論じることは難しい。

特に議論の的となるのは財源の問題だ。

これを税金とするのか、政府の国債とするのかでも賛否が変わってくるが、著者は少なくともデフレから完全に脱却するまでは国債で賄うのが望ましいという立場だ。

その理由としては、国民の賃金が増えないデフレ期、特に現在のコロナ禍のような異常事態においては、税収を増やすことはほぼ不可能であることが挙げられる。現下の状況では一刻も早い現金支給が求められているため、税金の制度を改めて議論するような時間的猶予はない。

もちろん、国債を財源にすることに関しても議論はあるだろう。しかし、日銀の異次元緩和により数百兆円が供給されて、巨額のマネタリーベースが積み上がっているのも事実。スピードを重視するのであれば、それを活用することを前提にいち早く動くことが重要だ。何しろこのコロナ禍で明日の生活も危うい人たちが確実に増えているのが現実であり、躊躇しているような時間はない。

恒久的な現金給付制度の即座実現とはいかなくとも、昨年行われた国民一人当たり10万円の現金給付のような手法もある。これもまたベーシックインカムの一形態であり、同様の手法であれば素早い実現も可能だろう。

 

著者が述べるような恒久的現金給付としてのベーシックインカムが最良の手であるかどうかはじっくり議論する必要はある。しかし、少なくともデフレ不況から脱しきれない状況で、総務大臣が「値下げ」を喜んでいるような異常自体は即座に解消すべきだ。

そのような議論を盛り上げ、私達国民の生活に本当に必要な政策がどのような物かを考える上で、本書は非常に重要な示唆を示してくれると思う。

 

という訳で、今回ご紹介したのはこちらの本

井上智洋「『現金給付』の経済学」

でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

ヨーロッパの覇権を確立した3つの革命 玉木俊明 著 『16世紀「世界史」のはじまり』

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「先進国と言えばどこの国か?」と聞いて思いつく国と言えばどこだろうか?

アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス・・・中国ももはや先進国の一つだろうか。

先進国にはいろいろな定義があるけれども、欧州、特に西ヨーロッパの国々といえばどこも先進国の一つだと言っても良いだろう。それほど欧州と言えば世界を牽引する先進国の集まりだというイメージが強い。

だが、その欧州が数百年前までは後進国であったと聞いたら信じられるだろうか?

実は16世紀なかばくらいまでは先進国と言えば、中国や中東であり欧州はむしろ後進国だったのだ。たとえば中国は、紙、火薬、羅針盤、陶磁器の世界最大の産出国だったし、イランやインドと言った中東地域も綿花、綿織物などの産地であり、欧州は輸入する側だった。シルクロード (絹の道) という言葉を聞いたことがある人も多いだろう。

このように、中国や中東が優れた工芸品や産出品を持っていたのに対し、欧州にはアジアに輸出できるような物はほとんどなく、文化的にも後進国だった。

その後進国の集まりであるヨーロッパが、なぜ現在のような”先進国”の立場として、権威を振るうようになったのか? 

その原因をさかのぼり、欧州の力の源泉の秘密を探るのが今回ご紹介するこちらの本

玉木俊明著「16世紀『世界史』のはじまり」

だ。

 

欧州を変革した3つの革命

意外かもしれないが、現在の私たちが恩恵を預かっている近代科学は欧州で一から発展したわけではない。

たしかに近代科学の端緒となった科学は、アリストテレスに代表される古代ギリシャの哲学者から生まれている。しかし、それらは古代ギリシャの滅亡とともにイスラム社会に伝わり、そこで独自の発展を遂げた。数学、自然科学、天文学、地理学などのさまざまな分野において、科学的知見はイスラムで発展したものだ。

また、中国が果たした役割も忘れてはならない。製紙法、羅針盤、火器の発明など近代科学の元となった発明は中国に起源を持つものが多い。

では、なぜ欧州がそれらの地域に取って代わることができたのだろうか?

著者によれば、それは大きく次の3つの革命が影響している。

すなわち

・宗教革命

軍事革命

・科学革命

だ。

欧州を変えた3つの革命

欧州を変えたこの3つの革命について簡単に見てみよう。

 

まず宗教革命。この名は、「ルター」や「プロテスタント」という言葉とともに広く知られている。

かつてはキリスト教と言えばカトリック教会のことだったが、どの組織にでもありがちな汚職や腐敗が進行したため、ルターやカルヴァンに代表される人物がカトリック系に「プロテスト (=抗議)」し、組織を改めようとしたのが始まりだ。

次に科学革命とは、コペルニクスガリレオ・ガリレイニュートンらによって新しい物理学上の発見がなされ、科学研究の方法に大きな変革が生まれたこと。自然や宇宙を数学的に理解し、解明することができるようになったことで、人間の生活様式を大きく変えることになった。ここで生まれた科学的知見により、18世紀に欧州で産業革命が起こったことも重要だ。

そして、最後に軍事革命。それまで馬に乗って剣を交える騎馬戦が主流だった戦争に、火縄銃や大砲などが用いられるようになったことで、それを使用する歩兵が兵力の中心になったこと。そして、それを活用するために兵隊が大規模化し、大量の人的・物的資源が動員されるようになったことを言う。

著者によれば、これらの革命が16世紀に集中して発生したことが、後進国だった欧州が世界的な影響力を持つようになった原因だという。

では、これらの3つがどのように欧州の覇権獲得に影響を与えたのだろうか?

 3つの革命をつないだ「航海技術」

欧州覇権への影響を紐解く鍵となるのが航海技術。欧州を覇権を作り出したのは他でもない、宗教革命、軍事革命、科学革命という3つの革命を航海によって繋ぎ合わせたことだった。

 

最初に述べた通り、16世紀までは欧州は中国や中東に比べて後進国であり、それらの地域に輸出できるような特産品は何もなかった。しかし、科学革命が生んだ自然に対する新たな知見や軍事革命による軍事技術を得たことで、それらを他国と交易するための輸出品として育てることができた。

とはいえ、輸出品があるだけでは遠い諸外国と交易をすることはできない。交易とは距離的に隔たりのある地域同士が、物やサービスを融通し合うことによって成り立つ。したがって、いくら科学的知見という優秀な特産品があったとしても、それを運ぶことができなくては交易は成り立たない。

この欧州による外国との交易を物理的に可能にしたのが、科学革命によって進歩した天文学、物理学をベースにした航海技術だった。1492年にコロンブスが新世界を「発見」し、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインド洋に到達したことによって、欧州の国々は世界中に交易ネットワークを広げることが可能になった。

そして、欧州の国々が交易に使用した知見や技術とは、基本的に人の頭の中に蓄えられている。つまり、科学的知見という特産品を持った”人”が世界中を航海することで、欧州の”輸出”は活発になったのだ。このことは宗教改革と密接な関係を持っている。

なぜなら、カトリック教会は知識や技術というソフトパワーを持った教徒を世界に派遣することによって、カトリックの布教活動とグローバルな交易の両立を実現することが可能だったからだ。

すなわち、”航海術による交易”という点によって、宗教改革軍事革命、科学革命という3つの革命が欧州に巨大な繁栄をもたらしたのだ。ここにこそ、その後欧州の国々が世界の覇権を担っていく源泉がある。

 

 

まとめ

世界の覇権争いと言えば、一般的には「軍事力」による争いの結果であるように思われがちだ。

だが、本書で解説される欧州による覇権確立のあらましを知ると、実は軍事力が覇権のすべてではないことが分かる。欧州はたしかに強大な軍事力の下に世界を支配した。しかし、それと同時に科学的知識や交易システム、航海術といったソフトパワーの力によってその影響力を拡大していったと言える。

この視点は現在の覇権争いである米中戦争について考える上でも、私たち日本が世界での影響力を高めていく上でも非常に重要な示唆を与えてくれるのではないだろうか。

 

 

 

という訳で今回紹介したのはこちら。

玉木俊明 著 『16世紀「世界史」のはじまり』でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

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イノベーションとは合理性からの脱却である。安藤昭子著「才能をひらく編集工学」

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「ここ数年の変化は歴史的に見ても、千年に一度起こるかどうかというほどの大変動ですよ。」

以前、阿川佐和子が司会を務める「サワコの朝」という番組で、歴史学者磯田道史氏がゲストに招かれた際に発した言葉だ。

世の中の流れとは常に変化するものだが、ここ数年の変化の度合いは歴史上でもまれだろう。新型コロナの感染拡大だけの話ではない。その以前から、国際的な政治情勢、世界経済、テクノロジーといった様々な分野で非常に大きな地殻変動が続いている。

そのような先が見通せない不安定な社会で求められるのが、既存のシステムの壁を突破する探究力や、事態を急展開させるアイディア。いわゆる”イノベーション”を引き起こすクリエイティブな思考だ。

ただ、イノベーションやクリエイティビティというと、どこか”才能のある人が生まれつき持っている特殊能力”、あるいは”訓練で身につけた能力”のように思われがちだ。自分には関係ない話だと思う人が多いだろう。

ただ、もし「実はそうではない、そういった才能は誰にでも備わっているのだ」としたらどうだろうか?

 

今回紹介する本は、イノベーションに必要な"情報を読み解く力"を解明し、私たちの中に眠るクリエイティビティを揺り起こすための思考方法を説く力作。

 

安藤昭子 著「才能をひらく編集工学 世界の見方を変える10の思考法」だ。

 今回はこの本が説く編集工学の一端を紹介するとともに、クリエイティビティの覚醒を実は近代合理主義が阻害しているという少し哲学的な話もしてみたい。

 

編集工学とは何か

編集工学・・・耳慣れない言葉だが、これは松岡正剛 (まつおか せいごう)という著述家が生み出した情報編集技術のことだ。

松岡自身の言葉を借りれば「情報を工学的な組み立てを借りながら編集すること、それが編集工学だ。」ということになる。

注意が必要なのはこの場合の「情報」や「編集」の言葉の広さだ。これらの言葉の意味を理解することは、本書を読み進める上でとても重要なため、以下でザッと紹介しておきたい。

<編集工学が扱う情報の範囲>

まず、編集工学における「情報」とはニュースで取り上げられるような新しい出来事や、物事に関する知識だけにとどまらない。私たちを取り巻く環境のすべて、スマホや車のような生産物だけでなく、石ころや草花のような自然もまた何かしらの意味を持っている。編集工学が対象とする情報とは、私たちを取り囲む森羅万象すべてのことだ。

<編集工学における編集の意味>

また、編集という言葉も、一般的に考えられている、雑誌やWebサイトを作るような狭義の編集に留まらない。

先ほどの私たちの周りにある森羅万象すべての「情報」のそれぞれをつなぐ”関係性”を見出すこと。そして、それらの情報の組み合わせを変えることで新しい価値を生み出すこと。これが本書における「編集」だ。

<工学とは何か?>

そしてもう一つの「工学」。これは本書の中では明確に定義づけされていない。したがって、本書全体からの推測になるが、情報を読みといて編集を行う際に、分析対象を細かく切り分け、構造を明らかにするための手法のことを意味しているようだ。

たとえば「テレワークとは何か?」という設問で考えてみよう。

恐らく「在宅勤務」「リモートワーク」といった言葉が思い浮かぶと思うが、このテレワークという言葉を「tele =離れて」「work=働く」と考えてみる。そうすると「職人の分業体制」もテレワーク (離れて働くこと)であるし、役者やスポーツ選手の「自主練習」もテレワークだと言える。つまり、テレワークという言葉を「tele」「work」という2つの語からなっている構造だと理解すれば、様々な解釈が生まれることになるのだ。

このように分析対象の構造を分解することによって、新しい解釈を生み出そうとする行為。これを工学的アプローチだと本書では捉えている (ようだ)。この利点は、ある対象を分析するときに、「空気を読む」「風を読む」のような動物的感覚によらずに、誰にでも情報の関係性を把握できる技術体系として多くの人が共有できる点にあると思う。

 

以上を踏まえて、編集工学が何であるかを改めて説明すると次のようになるだろう。

すなわち、編集工学とは私たちを取り巻く全ての事象を誰にでも分析できるような分かりやすい構造に解きほぐすこと。そして、それらを組み合わせることで新しい価値を生み出せるようにするための技術ということだ。

編集工学の肝「3A」

本書を理解する上で中心となる概念に「3A」というものがある。3Aとは、3つのAのことで、

・アナロジー (analogy)

アブダクション (abduction)

アフォーダンス (affordance)

という3つの言葉の頭文字を取ったものだ。以下、簡単にこれらを説明しよう。

<アナロジーとは>

まず、アナロジーとは「類推すること」。「似ている(類似)」ものを「推し量る (推論)」ことだ。一言で言えば、何か新しい概念や出来事に出くわしたときに「何かに別のことにたとえて考えること」と言っても良いだろう。誰かに説明を求められた時に「まぁ、これはつまりXXXXみたいなもんですよ」と説明するようなものだ。この「XXXみたいなもの」という”たとえ”を連想していき、

<アブダクションとは>

次にアブダクションとは「ある問題に対して、仮説を立て、それを元に推論すること」。かのアインシュタインは「経験をいくら集めても理論は生まれない」と言ったそうだが、目に見えるもの、経験したものを追いかけているだけでは何も引き出すことができない。

自分が遭遇したものに対して、当てずっぽうでも良いから想像力を働かせて仮説を立てる。それによって新しい発見を生み出す。それがアブダクションだ。

<アフォーダンスとは>

そして、最後のアフォーダンス。これは英語の「afford (与える)」という言葉を名詞化したものだ。これは適切な日本語が見当たらないので理解するのが難しい概念だが、「環境が物事に与え、提供している意味や価値」のこと。本書に書かれている例がわかりやすいので、少し長いが引用しよう。

たとえば、ある3人家族が山登りに行ったとする。

しばらく歩いていると道端に人の腰の高さくらいの岩があるのを見つける。

父親はそこに「一休みしよう」と腰をかけ、母親は岩の平らなところに弁当を広げ、子供は岩によじ登ったりして遊び始める。

この場合、たった一つの岩が多くの意味を持っていることが分かる。父親にとっては椅子であり、母親にとってはテーブルであり、子供にとっては遊び道具だ。

つまり一つの物事でもそれが置かれている環境や、それに接する人の解釈によって、無限の意味を持ちうる (=意味をアフォードしている)ということだ。

 

これら「アナロジー」「アブダクション」そして「アフォーダンス」という3つの概念が編集工学において非常に重要だ。

なぜなら、世界のあらゆる物事が持つ意味(アフォーダンス)を環境や状況といった関係性から解釈し、それをアナロジーアブダクション(推論)を使って他の物事が持つ意味や関係性を捉え直すこと。これこそが「編集」だからだ。

本書の後半では「具体的にどのように情報を編集するのか。」「新しい価値を生み出すための思考法とはどんなものか?」が数多く紹介されている。そのすべてがこの3つの概念をベースとして展開されている。拙い説明で恐縮だったが、上記の3Aに関して少しでも興味を持たれたならば、ぜひ本書を手にとって頂きたい。今までとは全く違う世界の見方を知ることができるはずだ。

 

編集工学とは関係性を見出すための技術

このように編集工学の特徴とは、あらゆる情報を分析する際に、物事それ自体ではなく、それが置かれた環境や他の物事との関係性に目を向けるところだ。

私たちは特定の物事を考える時には、その物自体を中心に考える癖がある。しかし、その物事自体は実に多様な意味(アフォーダンス)を含んでいるため、結局物事分析とはその環境と関係性を見つめることに他ならないのだ。

 

ただ、このような関係性に着目して分析するという手法編集工学の特権ではない。たとえば20世紀の経済学者にジョセフ・アロイス・シュンペーターがいる。イノベーションという概念の重要性を説いた人物であり、本書でも彼が提唱したイノベーションの重要性が紹介されているのだが、彼もまた物事の関係性という観点を重視した。

イノベーションにおける物事の関係性の役割を考えるために、この点を少し掘り下げたい。

イノベーションとは"編集"のこと

シュンペーターの提唱したイノベーションという言葉は、日本語で技術革新と訳されることが多い。しかし、彼が使っている意味は少し異なる。

シュンペーターは『経済発展の理論』の中で「新結合」という言葉を使って、この概念の重要性を説いた。その中で彼は企業が生産を拡大するために、生産方法や組織といった生産要素の組合せを組み替えたり、新たな生産要素を導入することで生産力を拡大することをイノベーションと呼んでいる。

すなわちイノベーションとは、一般に思われているような革新的なアイデアをゼロから生み出すようなものではなく、既存の要素を組み合わせを変化させることで新しい価値を生み出すことなのだ。そう、今回紹介している本書の中でいわれている、”既存の情報を編集する(組み合わせる)こと”がイノベーションだとシュンペーターは言っているのだ。

そして、イノベーションのためにシュンペーターが重視したのが「ヴィジョン」であった。

イノベーションに必要な”ヴィジョン”

ヴィジョンという言葉は、世界の全体像や未来など、本来見えるはずのないものを見通す力のことであり、あえて言うならば洞察力、直感力、想像力といった言葉が当てはまるだろう。一見すると科学的な根拠のない、非合理的な、神がかった力のように思える物だが、シュンペーターは”科学”こそがこのヴィジョンの力に支えられていると考えていた。

たとえば何かの科学的な研究を行うとしよう。

この世界には無数の事柄が存在し、それらをすべて網羅的に分析することなどは人間にはできない。そこで科学者は無数の事柄の中から分析対象を選び出し、それに焦点を絞って研究を始めることになる。

すなわち、直感力などとは何も関係ないような科学的研究においても、まず最初に分析対象を選ぶ時点では、非科学的な直感にしたがって決定を行うのである。この直感に対してシュンペーターはヴィジョンという名を与え、その重要性に焦点を当てた。

つまり、科学という非常に合理的な学術体系においてさえ、実はその出発点にはヴィジョンという非科学的なものを宿しているのだ。

イノベーションは近代合理主義の否定から始まる

さて、ここまで見たように、シュンペーターの議論にならえば、科学さえもその出発点にはヴィジョンという非科学的なものを宿していることになる。

そして、現代の私たちの生活のほとんどはこの”科学的なるもの”に支えられている。

ここから分かるのは、科学によって進歩してきたと思われる私たちの生活は、実は非科学的なによってもたらされているということだ。これはある意味近代以来の合理主義が必ずしもこの世界のすべてを説明しうるものではない、ということを意味する。

 

実際、本書においても編集工学という考え方がいわゆる「近代合理主義」への批判、あるいは距離を置こうとする思想が見え隠れしている。

たとえば第二章「世界と自分を結び直すアプローチ」において、つぎのような記述がある。

近代以降の伝統的な知覚モデルでは、「意味」というものは人間の頭の中で完全に処理されているとされてきました。視覚、聴覚、触覚等の感覚器からの入力情報を脳が処理して「意味」にすると考えられてきたのです。

その見方のルーツは17世紀の哲学者ルネ・デカルトにあります。「我思う故に我あり」で知られるデカルトは、精神と身体を異なる実体として捉える「心身二元論」を説きました。客観的な「事実」の世界と人間が生きる「価値」の世界を明確に分離したのです。現代の医学やテクノロジーは、このデカルト以降の二元論を基軸にした西洋的世界観を規範としています。知性を身体や環境から切り離し、知識や論理の力で自然を含む世界を認識しコントロールしようという見方です。

 と述べている。

また、シュンペーターもヴィジョンに関する議論において、カール・マンハイムという社会学者の研究を参照しているのだが、マンハイム社会学は次のような哲学を基礎としていた。

それは

・人間とは集団生活の営みの中で生きるものであるという存在論

・人間はその集団生活を通じてのみ世界を知ることができるという認識論

だ。これはまさに主観世界と客観世界を分離し、個人が抽象的な思索を通じて客観世界を認識するというデカルト以来の近代合理主義を否定するものだ。

ヴィジョンを磨くための編集工学

社会が安定的に成長してきたこれまでの世界においては、たしかに近代合理主義的な判断や思考方法が機能してきたのは間違いない。ファクトやエビデンスに基づく論理的な思考こそが重要であると言われてきた。

しかし、これからの社会ではそれが逆転するのかもしれない。

むしろ、ここ数年のように社会が不安定化し、先行きが不透明な時代においては、必ずしも近代合理主義的な方法では物事を解決するイノベーションを見出すことができないという可能性がある。

これからの不透明な時代を生き抜くためには、合理的で科学的なロジカル思考ではなく、先を見通すヴィジョンを持つことが私たち一人ひとりに求められるのかもしれない。そのヴィジョンを身につけるために、この編集工学というアプローチは非常に強力な武器になるのは間違いないだろう。

 

 

 

という訳で今回ご紹介した本はこちら

安藤昭子著「才能をひらく編集工学 世界の見方を変える10の思考法」

でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

 

高橋真矢 著「資本主義から脱却せよ」。未来のために私たちが取り戻すべきものとは何か。

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早速ですが今回ご紹介する本はこちら。

高橋真矢・井上智洋・松尾匡の3名による共著「資本主義から脱却せよ」。

最近、資本主義批判の本がよく出版されており、若干”流行り”のような感じがある。この本もてっきりその流れの本かと思ったものの、著者に私が好きな井上智洋という経済学者が名前を連ねていたため手に取った次第。

さて、肝心の中身はどうだったのか?

 

正直、初見の印象はかなり悪い 

内容の紹介の前に言いたいことが一つ。

それは「編集力の無さによって、ここまで駄作になる本も珍しい」ということだ。

誤解がないように言っておきたいのだが、内容はかなり面白い。

貨幣という一つのテーマを切り口に、芋づる的にさまざまな問題を論評していくさま様は、自分が物事を考える上でも非常に示唆に富んでいる。

また、三名の独自の視点で語ることで、よりテーマを多角的に掘り下げようとする試みも面白い。
だが、いかんせん一つの本としての構成が悪すぎて、内容が非常に理解しづらい。

それぞれの論説はわかりやすく丁寧なのだが、構成が悪いために話があちこちに飛びすぎており、論旨が定まっていない(ように読める)のだ。

本当に「編集者出てこい!!」と怒鳴りつけたいほどだ。


この点についてはまた後で述べたいと思うが、著者三名の論説も紹介しつつ、この本が読みやすくなる読み方を提案したいと思う。

本書のテーマ

この本を読みやすくするために、本書のテーマとは何かを確認しておきたい。

一般的には書籍のタイトルなのだが、残念ながらそれも違う。率直に言ってタイトルの「資本主義から脱却せよ」は本書のテーマとはかなり食い違っていると思う。

実は本書においては副題の方が圧倒的にテーマにかなっているのだ。その副題とは「貨幣を人々の手に取り戻せ」である。

これは完全に邪推だが、編集者はこのタイトルでは売れないと思ったのではないだろうか?実際よほど経済と社会の問題に関心がある人でなければ、「貨幣を取り戻せ」などと言われても、全くピンと来ないだろう。

 
一方、昨今はなにかと資本主義批判が流行だ。

斉藤幸平の「人新世の資本論」にせよ、渋沢栄一の「論語と算盤」にせよ、現代の資本主義のあり方は間違っており、新しい資本主義のあり方を模索すべきだという論調がさまざまな雑誌やビジネス記事で見受けられる。

その流行に乗っかる形で「資本主義からの脱却」などという眉唾もののタイトルを選んだのではないだろうか。

そう思わざるを得ないほど、この本は”資本主義からの脱却”というタイトルではかなり語弊があると言って良い。

この辺りのセンスのなさが、本書の内容の分かりづらさにもつながっていると思われる。中身自体はとても良いのに、非常にもったいない・・・。

本書の概略

構成が非常に分かりづらいものの、実は一旦中身さえ理解してしまえば、この本の内容は非常にシンプルだ。すなわち

「”失われた30年”の間、多くの国民はとても勤勉に働いてきたのに、まったく生活は豊かにならない。その理由はよく言われるような”日本人の生産性が低いから”ではない。お金つまり貨幣を国内で循環させるシステムに問題があるからだ。

このシステムの問題を改善することで、私たちは”一所懸命に働けば豊かになれる”という当たり前のストーリーを取り戻すことができるのだ。」

というものだ。

そして、この「貨幣を国内で循環させるシステムの問題点」を明らかにするために

 

1)貨幣が発行され、流通するシステムを解説

2)その問題点を提起

3)問題点を解決するための方策を提示

 

という形で議論が展開されていく。

上記1~3に関して、3名の著者がそれぞれの専門分野において解説を行うのだが、内容にはレベルの差があることは注意していただきたい。

メインの著者というか、今回の著作の呼びかけ人である高橋真矢氏は学者ではなく、不安定ワーカー (執筆段階では失業者)という立場もあり、生活に苦しむ一般人の視点から解説を行う。

井上智洋氏は経済学者の立場から、少し技術的な貨幣システムの在り方を理論的に紹介しつつ、今後期待される貨幣システムの在り方を提案する。

そして、松尾匡氏は経済学者の立場でありながらも、どちらかというと貨幣と国民の関係性を思想的な面から解説する。

という内容になっている。

 

この次元の違う3名の論説がバラバラと展開されているため、一章から順番に読んでいくとかなり混乱する。したがって、お勧めな読み方としては、自分の興味や経済学への知識に合わせて、3名それぞれの論説だけ読んでいくのが良いかと思う。

 

たとえば、経済学に関してある程度知識がある方なら、井上氏や松尾氏のセクションをいきなり読んでも楽しめるかもしれない。

逆に経済学には馴染みがなく、「経済ってお金儲けのことでしょ?」くらいの感覚の方であれば、高橋氏の”生活になじんだ”議論から読み進めた方が楽しめるだろう。

特に高橋氏が解説する貨幣発行システムの説明に関しては、恐らく国民の99%が知らないような内容であるため、目から鱗が落ちるような感覚を味わえるはずだ。

お金を生み出す万年筆の話

本書を紹介されている中でもっとも重要な概念が信用創造という貨幣発行システムだ。これさえ分かれば本書の内容の80%は理解できるし、現在の日本の経済問題はほとんど理解できてしまう。

信用創造とは誤解を恐れずに言えば「お金が生まれて、国内に循環するプロセス」を描いた概念だ。本書に詳しく解説がなされているが、私のブログでも以前紹介したことがある。

多くの人は「お金は政府が造幣局で作っているものだ」と思っている。

だが、それは半分正解で半分間違いだ。

確かに貨幣を発行する権限は政府あるいは中央銀行にのみ与えられている。しかし、貨幣にはいわゆる現金通貨の他に、銀行預金も含まれており、国内で出回っている貨幣のほとんどはこの銀行預金なのだ。

 

また、この銀行預金とは通常「国民が稼いだお金を銀行に預けている」と思われがちだが、これも半分正解で半分間違いだ。

確かに私たちの”貯金”も銀行預金に含まれるのだが、実はほとんどが「銀行がどこかの事業主に貸しつける時」、つまりその事業主を”信用”して融資を行う時に「事業主の口座に”融資額〇〇万円”」と書き込まれるのである。

お金はどこかから融通して貸し付けるのではない。

むしろ事実は逆で「銀行が誰かにお金を貸しつける時に、銀行口座にポンっと生まれるもの」なのだ。

これは普通の感覚では信じがたいことだが、日々現実に行われていることであり経済学的には当たり前のことなのである。

 

これは実は日本政府がお金を発行する時も同じことが起きている。

日本銀行が日本政府に対してお金を貸しつける時に、日本政府の口座にお金がポンっと生まれる。当然日本政府はこのお金を返済しなければならないが、日本政府には通貨を発行する権限があるため、いくらでも返済することができる。

たがって、この信用創造という概念を理解しておくと、日本政府が財政破綻するなどと言うことは、どう考えてもあり得ないことが分かる。逆に言えば、信用創造を理解していないから、”日本が財政破綻するという嘘”にいつまでも騙され続けるのである。

 

本書を読み、信用創造のプロセスを理解した時、私たちの生活がなぜいつまでも豊かにならないのか、その理由がきっと分かる。そして、今私たちが何を議論すべきかもわかるだろう。

貨幣という物の本来の役割を改めて認識することで、私たちの生活を豊かにする貨幣とはどうあるべきかについて、より深い知見を手にすることができると思う。

内容構成が稚拙なため分かりづらい部分が多々あるものの、内容としては非常に含蓄が深い。ぜひ一人でも多くの人に、本書を手に取って欲しいと願う。 

 

という訳で今回ご紹介したのはこちらの本

高橋真矢・井上智洋・松尾匡 著「資本主義から脱却せよ」

でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m 

 

映画「るろうに剣心 The Final」。ファン歴30年が語る感想と次作への期待。

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さて、ついに映画「るろうに剣心 The Final」を観てきました。

るろうに剣心シリーズの最後を締めくくり、シリーズ最大の謎に迫る今作。

ファン歴25年以上を誇る”るろ剣フリーク”の私の目にどのように映ったのか?

ちなみに、下記投稿で「るろうに剣心の魅力」を映画鑑賞前に語りました。よろしければこちらも。

率直な意見

まず今作を観て抱いた最初の感想は「評価が難しい…」。それが正直な感想だった。

アクションは素晴らしかった。このるろ剣のアクションは一作目から素晴らしく、"魅せる殺陣"という意味では日本映画でも屈指なのは間違いない。

一方、ストーリー面では手放しで評価できないところがある。ただ、これは「評価できない=できが悪かった」という意味ではない。文字通り評価するのが難しいということだ。

身も蓋もない言い方をしてしまえば、その原因はThe FinalとThe Begginingという2作品に分割したことにある。今作は次作の「The Beggining」と複雑に関係し合う作品となっている。そのため「The Beggining」の内容次第で今作の評価が変わってしまうのだ(漫画版ではこれをうまくミックスして展開していた)。

したがって、この切り分け方が成功だったのかどうかは”The Beggining”次第ということにならざるを得ない。


そこで今回の投稿では”次作「The Begginig」の展開をできる限り好意的に予測した前提”の上で、今作「The Final」の感想を述べてみたいと思う。次作への期待をこめて!

注意点: 漫画の再現性ついて

感想を書く前に最初に断っておきたいのは、私は原作をどれくらい忠実に再現できるか?を重視している訳ではないということだ。

以前の投稿でも書いたのだが、私は連載開始前の読切漫画時代からの、るろうに剣心のファンだ。"るろ剣愛"ではそんじょそこらのファンと一緒にしてもらっては困る(笑)。とは言え、"原作の再現性"でもってこの映画を評価するつもりはさらさら無い。

そもそも

「漫画だからできる」

「漫画だから面白い演出やストーリーがある」

のであって、それをそのままトレースすることが実写映画の評価を左右するは思っていない(あくまで「原作への愛と敬意があれば」の話だが…)。原作をそのままトレースした映像作品にするのであれば、アニメのクオリティを上げれば良いだけであって、実写映画化する意味はない。

問題は、映画版るろうに剣心が原作に込められたどのようなテーマに焦点を当てたのか。そして、それが映画ならではの方法でちゃんと表現できたのか?という点だ。


アクション映画としては120点

ます、「映画るろうに剣心」が世間で高く評価されている理由の一つは、そのアクション映画としての完成度の高さだ。

主人公・緋村剣心を演じる佐藤健の身体能力の高さを最大限に活かし、第一作から日本映画でも類を見ない高レベルのアクション性を実現。もちろんワイヤーを使った演出はあるものの、壁を走る演出や高速の殺陣などはそういった細工なしの撮影であり、まさに息を持つかせぬ緊迫感溢れるアクション劇だ。その歴代のるろうに剣心映画の中でも、今回は最高の出来だったと言って良いだろう。

今までの緋村剣心を演じる佐藤健の"速さ"はさらにレベルアップ。

さらに、今回の敵役である雪代縁を演じる新田真剣佑の"力"の相乗作用で、剣のぶつかり合いの波動が伝わってくるような重量感があった。

特に二人が一対一で戦うラストシーンは特筆すべき迫力。BGMが一切なく、二人の剣戟の音と息遣いだけが聞こえる演出になっており、逆に二人の剣を通じた"会話"に聴衆を強く引き込んでいく。


これまでの飛天御剣流の再現性の高さは承知していたが、今作は佐藤健自身も述べているように”敵の攻撃を当たるか当たらないかギリギリのところでかわす”という演出が功を奏しており、緋村剣心の"達人具合"が一層際立っていた。

また、雪代縁が繰り出す倭刀術も原作をかなり忠実に再現した見せ方になっており、剣心の飛天御剣流との差別化がしっかりと図られていた。
アクション映画という意味では、古参のファンの目から見ても120点の出来だったと言える。

ストーリー性の評価

では、一方のストーリー面はどうだったのか。

冒頭にも書いたように、この点は非常に評価が難しいというのが率直な感想だ。この原因は、漫画では一つの流れになっている「人誅編」と「追憶編」を、映画では「The Final」と「The Beggining」という二つに切り分けたことにある。

これは大友啓史監督としても非常に難しい判断だったと思われる。

便宜上二つに分かれているとは言え、内容としては密接に関係しており「人誅編の中に追憶編が収められている」と言った方が正しい。追憶編を読んでいるからこそ人誅編が面白いし、人誅編を読んでいるからこそ追憶編の悲哀が深く染みる・・・そんな構成になっているのだ。

ところが今回はこれらを「The Final (=人誅編)」と「The Beggining (=追憶編)」という形で二つに分けて作られた。恐らく原作ファンであれば、人によっては受け入れられない構成だったかもしれない。

しかし、これは映画の上映時間の都合も考えると仕方ないし、興行収入的な成功を意図するなら仕方がないところがあると思う。また、そういった興行的な面を考慮せずとも、「人斬り抜刀斎が緋村剣心へと変わる”るろうに剣心という物語の発端”を描いて、最後を締めくくる」というコンセプトから考えればアプローチしては十分”アリ”だ。

ただ、それが成功したかどうかを図るのは現時点では難しいと言わざるを得ない。

私が今作を評価する上で重視したいのは、「The Final、The Begginingと切り分けるアプローチが正しかったかどうか」ではない。重要なのはあくまで「るろうに剣心というドラマで描くべきテーマを描けたかどうか」だ。それが描けていればこのアプローチも正しかったのだろう。

逆にそれが描けていなければ「やはり漫画の構成を踏襲すべきだった」という評価にならざるを得ない。

では、るろうに剣心において描くべきテーマとは何だったのか? 

るろうに剣心のテーマとは何だろうか?

るろうに剣心という漫画には非常に多くのテーマが込められているため、一つに絞ることは難しい。

だが、私の主観も込めつつ敢えて断言するなら

「人生の超克」と「魂の救済」

だと言えるだろう。

人生の超克とは、すなわち「辛く、苦しく、ときに悲しみに溢れた人生を生き抜くことの難しさ」を描くこと。

そして、人生を歩む中で誰しもが少なからず罪を背負うものだが、「その罪は愛する人や仲間の支えによって必ずや許される日が来る」という希望の道を描くこと。これが魂の救済である。

いささか大仰ではあるが、これこそが「人斬り」という普通の少年漫画ではありえない暗い過去を持つ主人公ならではのテーマだと思う。

緋村剣心の抱える闇。それとの向き合い方の変化

では、主人公の緋村剣心が抱える罪とは何か。

言うまでもなく、数え切れないほどの人を斬り殺したことだ。仮にそれが”人々が幸せに暮らせる新しい時代を作る”という理想の実現のためであったとしても。いや、むしろ「未来の人々のために、今を生きる人々を殺した」という矛盾こそが緋村剣心の闇をより一層深くしていると言って良いだろう。

それゆえ緋村剣心は、物語の開始当初「自分はいつ殺されても仕方ない」という”自分の生への諦め”を抱いて生きていた。それが物語が進む中で、新しい仲間ができ、大切な人との思いを育み、少しずつ自分の生の意味を取り戻していく。

そして、前作「志々雄真実編」において、周りの人間たちとの繋がりの中で自分の居場所をしっかりと認識することで、自らの罪深き生を積極的に受け入れる覚悟ができた。物語当初にかかえていた「生を諦め、安易に死に場所を求める」ような後ろ向きな道を断ち切る決意ができたのだ。前作の映画ではこの点の描写が物足りなかったが、全体の尺を考えれば落とし所ではあっただろう。

るろうに剣心という物語における今作の位置づけ

このように前作までの物語において、緋村剣心はその自分の人生を積極的に生き抜く覚悟ができた。

しかしながら、前作までに剣心が取り戻した”生きる決意”は、どちらかと言えば「誰かのために生きる」という利他性を含んだものだった。平たくいえば「自分を信じてくれている人たちのためにも、自分は生き抜かなければならない」というものだ。そこでは「自分の罪を受け止めた上で、自分のために生きる」という積極的な生への覚悟の要素が弱かった。自分の罪をどれだけ責められようとも、生きて自分の責務を果たすという決意までには至っていなかったのだ。

そのように”根底が不安定な状態での決意”に支えられた剣心は、ついに自身が抱える最大の過去の罪「妻殺し」に向き合わなければならないことになる。それが今回の映画「The Final」だ。

その意味で今作はるろうに剣心という物語のテーマである、「人生の超克」と「魂の救済」を描く上で、最重要とも言える位置づけとなる。当然

剣心「今まで人を殺めたことを後悔しているでござる」

周りの人「うん。分かってる。剣心はもう十分償ったよ」

剣心「分かってくれてありがとう。これからもよろしくね。」

みたいな浅い展開では完全に落第だ。

「妻殺し」という最大の罪を徹底的にえぐり出し、精神のどん底に突き落とされた上で、それでも再び立ち上がるというストーリーがなくてはならないのだ。実際、原作の漫画においては、その部分を非常に長く丁寧に描いていた。逆に、丁寧すぎて一部の読者から離れられてしまい、少年ジャンプの中での掲載順位がみるみる落ちていったほどだ。

しかし、それがあったからこそ、精神的にどん底に落ちた緋村剣心が改めて自分の生の意義を問い直す過程が意味を持ったのだし、そこから這い上がり仲間に受け入れられたことで緋村剣心の魂はようやく救済されることができたのだ。

今作は剣心に「人生を超克」させることができたか?

ここまで述べたように、今作で剣心の妻殺しを罪を克明に描き出すことは、物語のテーマを描く上で避けては通れない重要なセクションだ。極端に言えば、観ている人間が嫌になるほどその罪を深く描かなければならない。

ところが、である。

今回の映画版「The Final」においては、その部分はかなりバッサリ切られてしまっている。より正確に言うならば「描かれてはいるのだが、それは次回作へと切り分けられているため、今作ではダイジェスト的形で紹介されるに留める」というアプローチになっているのだ。

先程も書いたように、これには様々な理由があったと思われる。正直なところ、上映時間を7時間、8時間と設定する訳にはいかない以上、「物理的にどうしようもない」という事情はあったと思う。

・・・が、この重要なセクションを簡略化してしまったため、ラストに至るまでの剣心の心情の変化「生の苦しみや悲しみを”乗り越える”」という部分のドラマ性が落ちてしまったと言わざるを得ない。

・自分の妻(雪代巴)を惨殺したという罪

・それでもなお自分の生を生きると覚悟した決意。

・剣心が自分の過去の罪にどのように決着をつけ、雪代縁と向き合ったのか。

・物語の最後で剣心は自分の人生で何を成し遂げようとしたのか。

そういった「緋村剣心という一人の人生の総決算と、未来への決意と覚悟」がいまいち曖昧なものになってしまった感はどうしても否めない。

原作の最終版ではこの過程がかなり丁寧に描かれていたため、映画で簡略化されてしまったのはとても残念だ。

The Begginingへの期待。物語のテーマを左右する”あの人物”は登場するのか?

ただ、それはあくまで「今作だけで評価すれば」だ。

逆に言えば、次作「The Beggining」に描かれ方次第では、この評価は大きく覆る可能性がある、ということだ。The Begginingが単なる”緋村剣心の過去の物語”に留まることなく、剣心の巴への思いと、過去への贖罪、そして未来への決意といった要素が描かれるならば、今作The Finalの構成はとても意味があった物になると思う。

特に私が注目しているのは、原作に登場する”ある人物”だ。この人物が登場するかどうかで「魂の救済」の描かれ方がかなり変わると私は思っている。

その人物とは雪代巴と雪代縁の父親である。

彼は原作において、人誅編、追憶編の両方において存在だけは匂わせるものの、終盤までまったく出ないという、ある意味物語の”外側”にいる人物だ。自ら名前も出自を語ることはなく、緋村剣心も雪代縁もこの人物が「巴の父親」だとは一切認識されずに終わる(縁は幼い頃に生き別れており顔も覚えておらず、父親の方も縁だとは分からないという設定)。

だが、名前や経歴を語らずとも、この人物は精神のどん底に落ちた剣心に寄り添い、剣心が再び立ち上がるサポートをする。また、雪代縁に対しても、剣心に敗北して雪代巴の真意を知り、どん底に落ちた彼に寄り添う。そして、その魂を癒やすという絶妙な役どころを担う。

恐らく今作「The Final」の流れを観る限り、剣心の魂の救済ために彼が登場することはないと思われる (すでに神谷薫によって救われているため)。しかし、雪代縁の魂の救済という意味では、まだ出演の芽があると期待している。

雪代縁は、今作では「自分の勝手な思い込みで剣心へ恨みを抱き、一方的な復讐を果たそうとした男。最終的には真実を知ったことで、自分の行いを後悔した」という”ただのイタイ奴”の設定になってしまっている。これも間違いではないのだが、やはり自分の行いを悔い、新たな一歩を踏み出すという物語を用意してあげることで救済してあげなければ、この雪代縁の未来は救いようがないと思う。

雪代縁がイタイ奴なのは間違いないが、彼が自分の姉を愛していたことも間違いない。そうであれば、自分の罪を悔いた後につながる「魂の救済」の道を示してあげなければ、るろうに剣心のテーマを描ききることもできないのではないだろうか。

撮影は既に終わっているため、今更”期待”しても結論は変えられない。だが、次作公開を待つファンとしては、彼の登場を切に願う。

それでも「The Beggining」に期待する

さて、ここまでかなり「苦言」に近い記事を書いてしまった。今作を楽しんだ方の中には不快な思いをさせたかもしれない。だとしたら大変申し訳ない。

いまさら言っても信じてもらえないかもしれないが、これでも私は次の作品「The Beggining」にかなり期待している。The FinalとThe Beggining。この二つを合わせて観ることで「最初はどうかと思ったけど、大友啓史監督の力量に感服した!素晴らしい!!」とぜひ言わせて欲しいと、心の底から願っている。 

という訳で、結果的にますます「The Beggining」への期待が高まってしまった今作「The Final」。

るろうに剣心ファンのみならず、ぜひ多くの人に観ていただきたい!

 

るろうに剣心に興味がある人なら、映画鑑賞前に「るろうに剣心への熱い思い」を語った投稿もぜひ見てください!(笑)

 

 

wwws.warnerbros.co.jp

映画「るろうに剣心」に寄せて。”るろ剣”の真のテーマと長年愛される理由。

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いよいよ、ついに、この時がやってきました・・・

 

るろうに剣心最終章「The Final」が4月23日に公開されました!!!

 

私にとって「るろうに剣心」は、”人生を変えた”と言っても過言ではない作品。

私の人生は「るろ剣」なしには語ることができません (「たかが漫画で大げさな」とか言わないでくださいね・・・)。

何といっても私は、るろうに剣心の作者である和月伸宏のデビュー作からのファン。

さらに言えば、和月氏がデビュー前にアシスタントを務めていた小畑健の作品『魔神冒険譚ランプ・ランプ』の頃から、和月氏に注目していましたから!

さらにさらに、るろうに剣心の前哨戦ともいえる作品 「戦国の三日月」をリアルタイムで読んでいた男ですから!

筋金入りです!

 

今回の投稿では、そんな私の超個人的な「漫画版 るろうに剣心」への思いに加え、

・漫画「るろうに剣心」の概要

・映画「るろうに剣心」の概要

・「るろうに剣心」がなぜ時代に残る名作になったのか

・”売れる作品”と”名作”の違い

について考察。

その上で、今だからこそ言いたい私の自説

「漫画るろうに剣心は”本当は和月氏はこう終わるだったはず!”」という連載当時から確信していた”真のるろうに剣心エンディング”

も披露しようと思います (「妄想」とも言う(笑))。

 

こうあるべきだった

・「映画版 るろうに剣心」への期待

について書いてみます。

これを読めば、あなたも「るろうに剣心」を観たくなるはず!多分!

漫画「るろうに剣心」の概要

るろ剣”という愛称で親しまれる「るろうに剣心明治剣客浪漫譚ー」。

1994年から1999年にかけて週刊少年ジャンプに連載された漫画で、明治十年という少年誌にしては一風変わった時代を舞台にした作品です。

主人公の名は「緋村剣心 (ひむら けんしん)」。

見た目は身長が低く、優男風。爽やかな笑顔でとても人当たりの良い人物。

しかし、実は彼は江戸末期の京都にて政府要人を暗殺する人斬りとして、恐れられた最強の剣客だった。あまりに多くの人を斬ったため、ついたあだ名は”人斬り抜刀斎”。

そんな男が明治になってからは、人を斬ることを一切封じ、世間で苦しむ市井の人々を陰ながら助ける流浪の旅を行っていた。

 その緋村剣心はひょんなことから、神谷薫という女性と出会い、彼女が道場主を務める剣術道場に居候することになる。

その緋村剣心の前に、”人斬り抜刀斎”としての力をもってしか太刀打ちできない強大な敵が次々と現れる。

はたして剣心は、その強大な敵をしりぞけつつ、神谷薫や仲間たちとのつつましい生活をも守り続けることができるのかー。そんなストーリーです。

映画「るろうに剣心」の概要

この漫画るろうに剣心を原作として、大友啓史(おおとも けいし)監督の下、実写映画化されたのが「実写版るろうに剣心」です。

主人公の緋村剣心には、その身体能力の高さと"優男"風というイメージにピッタリな佐藤健がキャスティングされ、ファンの間でもかなり期待値が高まりました。

現在までに

2012年「るろうに剣心

2014年「るろうに剣心 京都大火編」「るろうに剣心 伝説の最後編」

が公開された。

そして今年原作の最終章である「人誅編」を描いた「最終章 (前編) The Final」が公開。その後6月4日に「最終章 (後編) The Beggining」が公開予定です。

映画版「るろうに剣心」。前作までの感想

実際のところ、るろうに剣心の映画化と聞いたときは微妙でした(笑)。「どうせ原作レイプだろ」という感じです。るろうに剣心の世界観を実写で表現できるわけがないと確信していましたので。

ただ、その一作目の映画は予想に反して、かなり見応えがありました。とくにアクションに関してはかなりの高レベル。

ストーリーは原作ファンとしては違和感がかなりありましたが、恐らく製作陣も「二作目がやれる」とは思っていなかったのではないでしょうか。かなり"詰め込んだ感"があったのは事実です。

それでも「ちゃんと描ける時間があれば、もっと面白かったのかもしれない。それだけに残念。」と思わせるクオリティではあったと思います。

 

果たして、続編の京都大火編と伝説の最後編は、ストーリー的にもかなり練られており、「アクションだけじゃないんだ」とファンを唸らせる展開でした。まぁ、それでも詰め込み感はあり、「あと3時間あればなぁ…」とは思いましたが(笑)。

 

そして、ついに今年最終章となる、剣心の十字傷の秘密を知る男「雪代縁(ゆきしろ えにし)」との戦いを描く「The Final」、剣心が人斬り抜刀斎として生きた幕末を描いた「The Beggining」の二部作が公開となります。

少年漫画の主人公しては異例な"闇"を心に抱える剣心が、自分が犯した罪とどのように向かい合うのか?

宿敵との戦いの果てに、自分の過去を乗り越える答えを見つけることができるのか?

この難しいテーマが果たしてどのように描かれるのか注目です。

るろうに剣心はなぜ面白かったのか?

正直に言って、るろうに剣心という漫画は爆発的ヒット作と言えるほどの作品ではないと思います。

週刊少年ジャンプで連載されていた頃、同誌では

ドラゴンボール

スラムダンク

ジョジョの奇妙な冒険

幽遊白書

など、まさに爆発的ヒットと言える名作がひしめき合っていました。

それらの作品と比べると、るろうに剣心はいささか"小物感"があるのは否めません。アニメ化もされたし、ゲームにもなった。小説にもなりました。

ですが、社会現象といえるほどの影響力があったかといえば、残念ながら力不足だったと言わざるを得ないでしょう。

 

では、原作終了から20年あまりが経過しても、なぜるろうに剣心は多くのファンから愛され続けるのでしょうか?

さまざまな理由があると思いますが、やはり私は主人公である緋村剣心に与えられた"主人公らしからぬ設定"にあるのではないかと思います。

王道と真逆の主人公

るろうに剣心の主人公・緋村剣心は、幕末に維新志士側の暗殺者として活躍し、“人斬り抜刀斎”と恐れられた男。数多くの暗殺者がうごめく京都において「最強」の人斬りだった。

そもそもこの設定自体が当時の常識から考えて異常 (現在だとサイコパス系の主人公も散見されますが、当時としてはかなり異例)。王道としては「人斬りに親兄弟を殺された主人公」という設定のはず。

ところがこのるろうに剣心は「殺しまくった人間」が主役です。王道から外れまくっています。

それに加え、緋村剣心は”最初から"最強だという点も異例です。

少年漫画としては「弱い主人公が友情と努力で強くなる」のが王道ですが、第一話目から最強の剣客というのは、かなり変わった設定だったと言えるでしょう。

 

正直これでは少年漫画の主人公としては微妙です。

少年漫画の主人公にとって重要なのは「読者が共感を覚えるかどうか」です。その意味では「最初は弱い主人公が努力して強くなっていく」という物語は、読者が共感しやすい設定です (今大流行している鬼滅の刃も「家族を大事にする」というところが、今の時代に共感を得やすい設定だと言われています)。

では、緋村剣心は一体どういう点で読者の共感を得ることができたのか?

最強にして最弱。それが緋村剣心の魅力

王道とは真逆の設定でありながら、緋村剣心が主人公としての魅力を勝ち取ることができた理由。それは「剣術の腕は最強だが、心は最弱」という点にあります。

剣心は新しい時代を切り開くという崇高な理想を持っていたものの、数え切れない人たちを斬ったという重い過去を背負っている。自分には人並みの幸せを得る権利はないと思っているからこそ、明治維新後も誰とも深い付き合いはせず、10年もの間孤独な放浪旅を送っていた。

心が最弱というと語弊があるかもしれませんが、どこか自分の命を軽く見ているし、思い過去を乗り越えて幸せに生きようと言えるほどの心の強さを持つことができないでいる。

そういう心の闇を抱えたところが、「誰も本当の自分の気持ちをわかってくれない」とどこか”精神的な放浪生活”を送っているような悩み多き10代の少年たちの心に響いたのではないでしょうか。

それまでの漫画の王道だった「あこがれ」「爽快感」「(肉体的に)強くなって困難を乗り越える」というのとは違った形で、読者の心を掴んだのが緋村剣心という主人公だったと思うのです。

精神の成長という新しい物語展開を実践したるろうに剣心

るろうに剣心以前の漫画では、ほとんどの場合が肉体的に強くなり、敵を打ち倒すことで物語が展開されていました。もちろん肉体と精神は強く結びついていますので、どちらか一方だけで成立するわけではありません。あくまでバランスの問題ではありますが、やはり肉体的な強さの方が”少年誌的なわかりやすさ”という面で有利ですので、どうしても肉体的な強さでストーリー展開が進むことが多かった。

その点るろうに剣心はより深く精神的な強さの方に踏み込んだ作品だったと言えます。

特に師匠から最強の奥義を会得する際に、それがドラマチックに描かれます。

剣の技術では剣心よりも強い師匠が繰り出す技に打ち勝つには、技術だけでは足りない。

生死を分けるコンマ数秒の戦いの中で、「自分は罪深い人間だからいつ死んでもいい」という後ろ向きな生き方を乗り越えること。そして自分のためではなく、「自分の愛する人や大切な仲間のために、俺は死ぬわけにはいかないんだ」という”生きようとする意思”を強く持つこと。

これこそが奥義会得のためにもっとも大切な要素だった。

それに気づいた剣心はようやく自分自身の命と正面から向かい合う心の強さを得ることができたのでした。

こういった、より精神面での成長をドラマとして描く作品はかなり少なかったように思いますし、この点こそ今でもなお読者の心を引きつけ続ける「るろうに剣心」の魅力なのではないでしょうか。

今回の映画はめちゃくちゃ暗い話になる??

さて、そんなこんなで(笑)、ようやくまっとうな幸せを手に入れようと歩みだした緋村剣心

そんな彼の前に、ついに自分の心のもっとも奥深くに刻み込まれた過去の苦い記憶と、自分の犯した最大の罪と向き合わなければならない敵が現れます。

それが今回の映画「The Final」と「The Beggining」の敵である、雪代縁です。

 

映画版がどのように描かれるのかまだ分かりませんが、少なくとも漫画版ではこの章はかなりシリアスで暗い話になっています。少年誌的にはNGじゃなんじゃないかというくらい暗い。

前章である「京都編」がかなり大人気だったお陰で何とか連載を続けられましたが、それがなかったら途中で打ち切りになっていてもおかしくないくらい暗いです。

その最大の原因は「ヒロインである神谷薫が死ぬ」というまさかの展開があるからです。

いや、たしかに精神性を強く打ち出した作品だとは分かっていましたが、まさか少年誌でヒロインが主人公の目の前で殺されるとかあります??

 

ただ、 実際にはこれは「神谷薫そっくりの人形」であり、神谷薫は死んでいなかったという展開だったので、一安心だったのですが。

それでも週刊連載中の半年くらいは「神谷薫は死んだ」ということで話が進んでいきましたので、相当インパクトがあったのは間違いありません。

この点が今回の映画でどのように描かれるのかも、かなり興味が惹かれるところです。

 

本当はこうだったはず?漫画版「るろうに剣心」のラスト 

さて、先程最終章の「ヒロインである神谷薫が死んだ・・・と思っていたら生きていた」という話題を述べました。

実は私この部分のストーリー展開こそ「るろうに剣心」最大の山場であり、ここにこそ最大の魅力があると思っていますので、ちょっと詳しく紹介したいと思います。

以下、激しくネタバレになりますので要注意でお願いします!!

 

前述の通り、この最終章において一旦神谷薫は殺されます。

殺すのは今回の映画版の敵役である雪代縁。雪代縁は雪代巴 (ゆきしろ ともえ)という女性の弟であり、この巴は幕末当時緋村剣心の妻でした。

そう。「妻だった」のであり、明治にはすでに故人となっています。

そして、この巴を殺したのが、他でもない夫である緋村剣心だったのです。これは悲劇的な不慮の事故であり、剣心は何も悪くないのですが、その惨殺の現場だけを見た縁は「剣心が姉を殺した」として復讐を企みます。

その復讐の手段として「緋村剣心がいま愛している女、神谷薫を剣心の目の前で殺す」という方法をとるのです。

・・・が、諸事情のための縁には神谷薫をことはできず、その代わりに精巧に作られた神谷薫の人形を死体に見立て、剣心に「お前のせいで、この女は死んだんだ」と思い込ませることにしたわけです。

結論を言ってしまえば、この計画は明るみになり、神谷薫は無事に剣心の下に戻り、物語はハッピーエンドを迎えます。

 

しかし。

私は、もし作者がこの「るろうに剣心」という作品の”作品性”を重視し、自分の伝えたいテーマを描くことを貫くのであれば、神谷薫は本当に殺すべきだった、と思っています。

作者が剣心の人生を通して伝えたかったのは、神谷薫を殺され、失意のどん底で自暴自棄になって仲間をも見捨てようとした剣心に、とある人物が諭した次の言葉だったはずです。

「大事なものを失って、身も心も疲れ果て、けれどそれでも決して捨てることができない想いがあるならば、誰が何と言おうとそれこそが君だけの唯一の真実だ。」

 

人生には死ぬほど辛いことがたくさんある。本当に死にたくなるようなときもあるし、何もかもがどうでも良くなるような時だってある。

でも、そういう時においてさえ、人には「決してこれだけ譲れない」という何かがあるはず。それがどんなに下らないことでも、甘っちょろい戯言でもいい。

自分が本当に正しいと思うなら、それに従って生きろ。誰の真実でもない。それこそが自分自身にとっての真実なのだから。

これが作者が伝えたかったメッセージだったと思います。

 

だとするなら、文字通り剣心には「すべてを失わせなければならなかったはず」です。

一応、剣心は神谷薫が実は生きていたということを知る前に、自力で立ち上がることに成功しますが、それでも物語の厚みという意味では神谷薫が生きていたことで説得力が薄くなった感は否めません。

最愛の人を守れず、目の前で惨殺されたとしても、それでも”目の前の人々の幸せを守る”という信念に従って最後まで生きていく・・・それがこの作品のテーマをもっとも強く打ち出せるエンディングだったと思います。

恐らくそれは作者は百も承知だったはず。

けれども、その手法は取らなかった。

なぜでしょうか?

私がるろうに剣心を愛する理由

神谷薫が死ななかった理由。

もちろん「少年誌的にそれは・・・」という大人の立場もあったと思います。

実際、神谷薫が死んだ(ということになった)後、るろうに剣心の少年ジャンプでの掲載順は見る見る後ろへ下がっていきました。ジャンプは人気投票で掲載順が決まるので、ヒロインが死ぬという衝撃的な展開がファン離れを引き起こしたのは間違いありません (それはコミックスで作者も言及している)。

ただ、そういった「少年誌的な配慮」という以上に、作者が”エンターテインメント”という物にこだわったからというのが最大の理由だったと思います。

作者である和月氏はコミックスの中で、物語展開の裏話とかキャラ設定が反省点とかを載せているのですが、その中で何度も「エンターテインメントはハッピーエンドであるべき」という持論を掲げています。

それはやはり「自分もそうやって漫画というエンターテインメントから夢や希望を受け取ってきた。自分もその一端にいる以上、読者に夢を届ける作品を書くべきだ」という自負があるのだと思います。

 

確かに神谷薫を殺した方が作品性はより高まるのは間違いない。

これは連載中にも思っていたし、今でもそう思っています。

しかし、問題はそれでは絶対ハッピーエンドにはならないということ。

どちらを取るべきかの激しい葛藤の結果、作品性よりもエンターテインメントであることを選び取ったのではないか・・・・私はそのように思っています。

実はこれこそが私がるろうに剣心を愛してやまない理由です。

るろうに剣心という作品自体もそうですが、この作品を通じて作者の苦悩が染み出しているー。それが私がるろうに剣心に惹きつけられる理由です。

ジョジョの奇妙な冒険のように、練りに練られたストーリー展開とキャラ設定で、息をつかせぬ展開で読者を引きつけるというのも、非常に面白いと思いますし、それこそが名作であるとも思います。

そういう意味では「るろうに剣心」は残念ながら名作とは言えないかもしれない。

ただ、物語の流れを丁寧におっていくことで、作者の苦悩や成長が見えてきます。

その作者成長の物語に自分自身の苦悩や楽しみを投影し、作者と一緒に成長しているような不思議な感覚を味わえる作品だと言えるのではないかと思うのです。

最終巻の作者コメントへの思い

繰り返しになりますが、このるろうに剣心が世間一般で言われる”名作”かどうかは分かりません。

ただ私にとってるろうに剣心はとても特別な作品なのは間違いありません。

この作品をきっかけにして、私はそれまで知らなかった新しい世界にたくさん触れることができました。

幕末という時代に興味を持ったことで、日本のみならず世界の歴史や経済、そして政治制度などの様々な問題について知見を広げることになりました。いささか大げさに言えば「自分が生きる理由」を考えるきっかけになったとさえ言えます。

 

先程も書いたように、この「るろうに剣心」のコミックには、作者によるこの作品へのさまざまなコメントが載せられています。

その最終巻の巻末に掲載してあるコメントが、この方の漫画家としての矜持がとてもよく現れています。文章としては拙いと思いますが、「るろうに剣心」という作品の締めとしてとても良い文章だと思いますので、転載させていただきます。 

 

「プロの漫画は作品であると同時に商品です。商品である以上、買った人がそれでどのように楽しもうとそれはその人の自由です。

通勤通学にヒマ潰しで読むも良し、読み飽きたら捨てるも良し、古本屋に売るも良し、本当に自由です。

けど、それでも和月はこの「るろうに剣心明治剣客浪漫譚ー」が皆さんの本棚の片隅に長く残ってくれる様、作者の勝手なエゴだとわかっていても、願って止みません。

和月の本棚の片隅に今もならんでいる、子供の頃に買った幾つかの漫画と同じ様にこの漫画がなれたら、これ以上嬉しいコトはありません。

1999年10月某日 和月伸宏

 

これから何百冊、何千冊と本を買い求め、その中にはいろいろな事情で手放さざるを得ない作品もあると思います。

しかし、この「るろうに剣心」だけは恐らく私が死ぬまで、私の書棚で生き続けることは間違いなさそうです。

 

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m


 

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