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なぜ日本人は一生懸命働くのか? 山本七平「日本資本主義の精神」


「日本人は勤勉だ。」
こう言われて否定する人はいない。
「日本人と言えば勤勉。勤勉と言えば日本人。」であり、「社畜」「ブラック企業」という言葉がはびこるのも、この日本人の勤勉さゆえと言っても過言ではないだろう。むしろそれだけ”奉仕する心”を持つことを誇りにさえ思っているのではないだろうか。
では、ここでさらに一つ質問したい。
「日本人はなぜ勤勉なのだろうか?」。
この質問に答えられる人は少ないのではないだろうか。
その問いに真正面から向き合った人物がいる。それが稀代の評論家、山本七平である。今回は山本七平の著作「日本人的資本主義の精神」を紹介し、なぜ私たち日本人が勤勉に、一所懸命に働くのかについて考えてみたい。そして、その先に勤勉な私たちにとっての幸せな働き方を見出していきたい。 

 

山本七平とは何者か。

本書の著者である山本七平は、大正10年に生まれ、平成3年にこの世を去った昭和を代表する評論家の一人である。当時としては珍しく両親がクリスチャンであり、本人も後にクリスチャンとなった。「七平」という名も神の安息日(日曜)生まれから命名されたものだ。
青年期に太平洋戦争が勃発し、自らも出兵。終戦直後にはマニラの捕虜収容所に収監されている。
この戦争体験は山本に大きな衝撃を与えた。
「なぜ日本人は太平洋戦争に突入しなければならなかったのか」。
山本の戦後の人生はこの問いへの答えを探し続けたものだったと言っても過言ではない。実際、彼の著作の多くは何かしらの形でそのような”戦争に突入しなければならなかった”日本人の精神構造に関わるものが多い。

「何だかわからないが、こうなってしまった」という日本人の特性

本書における山本の視点もまた正にこの山本の問いの上に成り立っているものである。実際山本は本書の冒頭で次のように述べている。

「長所とは裏返せば短所であり、美点は同時に欠点である。このことは、日本に発展をもたらした要因はそのまま、日本を破綻させる要因であり、無自覚にこれに呪縛されているということは『何だかわからないが、こうなってしまった』という発展をもたらすが、同時に『何だかわからないが、こうなってしまった』という破滅をも、もたらしうるからである。
明治のこの無自覚状態は、太平洋戦争に帰結している。一度の失敗は許されても、二度の失敗は許されない。したがって、いま必要なことは、この『呪縛』の対象を分析し、再評価し、再把握して、自らそれを統御することである。」

一見「日本資本主義の精神」というタイトルからは、日本的な資本主義経済の特徴を論じたものであるかのような印象を受ける。だが、それはあくまで取り扱う事象が経済という外形を伴っているに過ぎない。本書であくまでも「”何だかわからないが、こうなってしまった”で済ませ、その分析もしようとしない」という日本人の特性を、資本主義という経済の側面から分析したものである。
その分析のための手法として、本書では社会学の祖とも言われるマックス・ヴェーバーの名著「プロテスタンティズム倫理と資本主義の精神  (通称”プロ倫”)」のアプローチを応用にしている。
というか、乱暴に言ってしまえば、本書は「プロ倫」の日本への焼き直しであるのだが、この分析にはかなり説得力があり、「なぜ自分はこんなに一生懸命働いているんだろう。」と思ったことがある人であれば、おそらく誰もが「なるほど。そういうことだったのか・・・。」と得心することができると思う。
そこで烏煙のようだが、まずはマックス・ヴェーバーの「プロ倫」とはどういった内容であるのかをザッと説明をしたい。

マックス・ヴェーバーとは?

マックス・ヴェーバーは19世紀後半から20世紀前半に活躍したドイツの社会学者である。社会学とは文字通り社会の有り様を研究する学問であるが、近代的社会学マックス・ヴェーバーによって始まったと言っても過言ではない。彼の代表的著作が「プロテスタンティズム倫理と資本主義の精神」である。
この本は産業革命以後、ヨーロッパ文明が他を圧倒するほどの力を身につけた要因を、キリスト教プロテスタントに特有の倫理観と資本主義システムが結びついた点にあると論じたものである。この本については数多くの研究や入門書があるので、気になる方はそれらを参照して頂くとして、ここではざっとあらましだけ書いておくに留めておく。先程述べたように、欧米諸国は18世紀以降、世界史上でも類を見ない発展を遂げた。その根本にあるのが資本主義的経済システムである。資本主義的経済とは国家や民間がお金を投資することでより多くの富を得る経済の形態のこと。この資本主義というシステムが欧米、特に西欧で生まれたのは間違いないが、なぜ西欧で生まれたのだろうか。
その理由の一つとしてヴェーバーが指摘したのが「プロテスタントキリスト教に特有の”倫理観”」である。
日本ではほとんど理解されていないが、同じキリスト教でもカトリックプロテスタントは全く違う。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の概略

16世紀ヨーロッパで始まった宗教改革については、多くの人が歴史の授業で学んだことだろう。
かつて”贖宥状”なる物を買えば死後天国に行けるという宣伝の下、カトリック教会がお金を荒稼ぎしていた時期があった。そのような教会のやり方にマルティン・ルターらが抗議(=プロテスト)したことから、宗教改革が起こり、カトリックプロテスタントに分裂したという話である。
プロテスタントとはこのようなカトリックのお金稼ぎに精を出す姿勢に抗議して生まれたのであるから、彼らの教義は非常に厳格であり、必要以上にお金を稼ぐような”強欲さ”に対して強い嫌悪感を持っている。
ここで多くの方が疑問に思うだろう。
「強欲さに嫌悪感を抱くプロテスタントがなぜ”お金稼ぎ”を肯定する資本主義を生み出すのか?」と。
疑問に思うのは至極まっとうなことであるが、ここには巧妙なレトリックが存在している (最初からそれを狙った訳ではなく、結果的にそうなっただけなのだが)。

プロテスタントカトリックに抗議をした原因の一つはカトリックの堕落、中でも死後の世界が金で買えるというようなデタラメを喧伝したことである。
先程も書いたようにプロテスタントの教義は非常に厳格であり、神は唯一にして絶対の存在である。だから死後、天国に行くか、地獄に行くかはすべて神が決めたことであり、人間にどうこうできる問題ではない。そして、神は決して間違いを犯すようなことはないのだから、死んだあと天国に行くかどうかは既に運命として決定されている。
これはある恐ろしい結論を導き出すことになる。
それは
「天国に行けるように」と願って努力しても無駄。どれだけ神に祈っても、どれだけ善行を重ねても無駄。天国行き or 地獄行きという神の決定は決して覆らない
ということである。

これは実に恐ろしい教義である。
天国や地獄というものが本当に存在するのかどうかは分からない。証明のしようがないのだから、”あるかもしれないし、ないかもしれない”。「信じるかどうかはあなた次第です。」という類のものである。
だが、どれだけ無神論者であろうと死んだ後どうなるかについて多少なりとも漠然とした恐れを抱くのが普通である。それを「どれだけ努力してもあなたは地獄行きです」と言われればどうなるか・・・。
少なくとも当時はその恐怖と孤独さに耐えられる人はおらず、多くの人が「そうは言っても、天国に行ける人は何か他の人と違うところがあるはずだ・・・」と期待をした。
そこで生まれたのが「天職」という考え方である。

神によって救われるかすかな希望”天職”

天職という言葉は私達の日常生活でも流通している言葉にかなり近い意味合いで、「天」とくにキリスト教では「神」から与えられた役目のこと。いささか乱暴に言ってしまうと、プロテスタントではこの「”神から与えられた役目”である天職に力を尽くし成功をすることができれば、それは神によって救われる (可能性がかなり高い)」と解釈している (宗派によって違うため、あくまで”ざっくり言えば”であることは承知して頂きたい)。
したがって、プロテスタントにおいては「欲望のためにお金を稼ぐ」のは忌避すべき行為だが、「神から与えられた役目を正しく懸命に行い、その結果お金を稼ぎ、財をなす」のは正しい行為だと解釈される。

”勤勉さ”が近代を作った

この天職に代表される「神から与えられた役割に邁進することこそが正しい行いである」という考えから、近代的な倫理観・・・すなわち倹約に努めてお金を溜めること、規則正しい生活を送ること、時間を守り有効に活用するといった倫理性が生まれてきたのである。
現代においては、時間を守ることの大切さや、仕事や学業に真面目に取り組む勤勉さは当たり前の倫理観として植え付けられている。しかし、近代以前においては全く当たり前ではなかった。これらは近代以後に生まれた価値観の賜物であり、この倫理観こそが資本主義が発展する基礎となったのだ。このことをヴェーバーはプロ倫において証明したのであった。

かつての日本人には時間を守る習慣はなかった

では、日本ではどうであったのか。
山本はこのヴェーバー日本人にもこのような価値観の転換、すなわちプロテスタンティズムが引き起こしたような倫理観の転換が、日本にも存在したのではないかと推測する。この点に関しては山本の強引な見方があるかもしれないが、無理矢理なこじつけとも言い切れない。

たとえば時間を守ることを例に挙げてみよう。
幕末に日本を訪れたイギリスの外交官アーネスト・サトウなどは、日本人がいかに時間を守らないかを嘆いている。また、昨年の大河ドラマで有名になった渋沢栄一も「論語と算盤」の中で、アメリカ人から日本人が時間を守らないことを厳しく批判されたことを書き記している。
今でこそ日本人の時間の正確さは驚嘆すべきものであるが、それは元々備わっていたものではないのだ。あくまで、明治初期に西洋諸国が発展した理由を研究する中で、彼らの時間を守り、規律正しく働く勤勉さの重要性に気づいた政府がさまざまな工夫を凝らした結果、今の日本人の「時間を守る」という倫理観が定着していったのに過ぎないのである。
そのように考えれば、ヴェーバーが論じたプロ倫的な価値観の転換が日本にも存在したのではないかという山本の推測も一理あるといえるだろう。

日本人の職業観の祖、鈴木正三

では、山本は具体的に日本の歴史のどこにそのような価値観の転換点を見出したのであろうか。
それが戦国時代末期から江戸時代初期の期間であり、西洋のプロテスタントに当たるのが戦後時代末期の鈴木正三 (すずき しょうさん)という禅僧と、江戸中期の石田梅岩 (いしだ ばいがん) という思想家、そして彼らによって生み出された「石門心学 (せきもんしんがく)」という思想/価値観である。鈴木正三はもともと徳川の武将として活躍した人物であったが、戦国時代の終焉とともに僧侶に転じた。長い間続いた戦国時代に疲れ切った当時の人々は、安心して暮らせる平和な世とともに、新しい時代での生き甲斐を熱望していた。その時代要請に応えるために鈴木正三が展開した理論が「四民日用 (しみんにちよう)」という宗教観であった。
細かい解説は本書に譲るが、大雑把に言えば「農民なら農業、手工業者なら手仕事・・・と、誰しもがそれぞれの職業に日々まじめに取り組むことで、仏への道が開かれ、平穏な暮らしを手に入れることができる。」と説いたものである。

結果としての利潤を肯定した石田梅岩

もう一人の石田梅岩は江戸中期の人物である。
いわゆる”商家”で奉公人として長年、現代の”サラリーマン”に近い形で仕事をしていた。そういう意味では市井の人であったのだが、とてつもない読書家だったようで、それが高じて思想家へと転身する。
彼は鈴木正三の「四民日用」という思想に感銘を受け、より江戸時代に受け入れやすい形に読み替えることで発展させた。鈴木正三の時代はいわゆる”中世”の時代であり、神仏の救いという宗教的な価値観から議論が展開されていた。しかし、石田梅岩の時代はすでに戦国時代のような血で血を洗うような抗争はなくなっている。そのため梅岩は、より実利を志向した生き甲斐、やり甲斐を成し遂げるための実践的なアプローチとして、「四民日用」を読み替えていったのであった。特にそれは商売的な成功に関して大きな価値観の転換を行うものだった。

現代でも同じような感覚は残っているが、江戸時代には商売的な成功はまだ”卑しい行為”であると見なす考えが強かった。梅岩も必要以上の利益を得て、それを浪費することは否定している。それは社会の秩序を乱すことになるからである。
だが、商売的な成功そのものは決して卑しいものではない。むしろ周りの人たちのために誠実に仕事に取り組んだ結果として得たお金は尊いものであるとして肯定したのだった。これはまさにプロテスタントにおいて、天職に取り組んだ結果として得た利益が肯定されたのと同じ文脈であると言えるだろう。
山本七平もまたこの点から、鈴木正三と石田梅岩が生み出した
・「四民日用」という職業観、すなわち”自分に与えられた仕事を粛々とこなしていくことこそが、人が歩むべき道である”という倫理観
・必要以上の利益を欲せず、浪費をせず、倹約に励むという生活態度
これらが相まって人々に浸透することで、日本人的な資本主義的倫理観・・・つまり自分の仕事に懸命に取り組み、規律を守り、お金を浪費せずに財を成すことを奨励する価値観を生み出したのだと主張している。

日本人にとっての正しさの根拠とは何か。

ここまで見てきたように、山本七平は西洋におけるプロテスタンティズムの働きを参照しながら、日本においても「四民日用」という職業観が日本における資本主義的精神の発生に大きな影響が与えたと主張している。
だが、ここで疑問に思うのは、仮に山本の言う通りだとしても「日々の仕事に打ち込むことが正しい道である」と信じる根拠はどこにあるのか? ということである。
キリスト教の場合は話が簡単だ。「それこそが神によって救われることの証明になるから」という根拠があるからだ。すわなち西洋社会では”唯一絶対神の存在”が資本主義的倫理観の前提となっているのである。
だが、日本は違う。ほとんどの日本人はそのような絶対神の存在を前提とした世界観は持ち合わせていない。
では、何を根拠にして「四民日用」的倫理観が正しいものだとして、日本社会に浸透したのだろうか?
山本はそれを「共同体」にみている。

なぜ日本人にとって共同体が重要なのか

共同体と一言に言っても、それはさまざまな形態がある。
最小の形態は家族であろうし、最大の形態は国家であろう。当然その間には親戚や幼少期からの友人たち、サークル仲間、あるいは現代であればオンラインゲームの仲間など、様々な共同体の形式が認められる。どのような人間であっても、規模の違いはあれど必ず何かしらの共同体に属しているものである。
このような共同体への帰属は日本に限った話ではなく、世界中の誰にでも同じことが言えるはずだ。だとすれば、なぜそれが日本人の倫理観の基準となるのだろうか。この点についても山本はキリスト教との対比で考えている。
先ほども述べたように、西洋社会ではキリスト教のような”唯一絶対神”を前提としており、一人の人間は個別的に神とつながっている。しかし、日本ではそのような世界観を持っていない。この違いが明確に現れるのが「契約」に関する考え方だ。
我々日本人は契約と言えば「ある人と別の人が取り交わす約束」だと考えられている。だが、これは実は日本人に特殊な考え方である。
キリスト教のみならずイスラム教でもそうなのだが、一神教の世界では「”契約”は”神と人の間”で行われるものであって、人と人の間で行われるものではない」のである。あくまで人が神との契約を履行することで、”結果として”ある人と別の人が約束が遂行されたように見えるのである。これは似ているようであるが、全く異なるものである。
一神教の世界ではすべてにおいて神と個人との契約が前提となっているが、日本人の場合はある人は別の誰かと直接契約を結ぶのであって、そこに神の存在が入る余地はない。だからこそ、ある人が別の人との付き合うにあたっては、「その人がどのような人であるのか」が重要であり、その裏付けとして「その人がどのような共同体に属しているか」が大きな意味を持つのである。
これはすなわち「所属する共同体こそが、その人の価値や意味を左右する」ということを意味する。共同体がその人の保証人としての役割を果たすと言っても良いかもしれない。

日本人の倫理観の根幹としての”共同体”

このような構造ゆえに、日本人の世界観においては”共同体”の性質、そしてその維持は非常に重要な役割を果たす。それ自体が自らの人生を左右する存在となりうるからである。
このような共同体を「維持すること」、あるいは「共同体に自分を受け入れてもらうこと」が日本社会で生きていく上では非常に重要となる。それはあたかもキリスト教の世界において、神に自らの存在を認めてもらえるかどうかというような、自己の存在の根幹に関わることである。
だからこそ、日本社会においてこの”共同体”が、キリスト教における神のように倫理観の基準となり得る。「”神の御名において”正しい行動と言い切れるかどうか」が、すわなち日本では「共同体において認められる行いかどうか」という行動基準に相当するということである。

つまり山本の論によれば
「共同体という日本人の倫理観の根幹に照らし合わせて、日々の仕事に懸命に取り組み、私欲に溺れず、共同体の存続・発展に資することこそが人間として正しい道である。
そして、このような倫理観の下で日々の生活を行うことこそが、日本において資本主義を発展させた精神のあり方である。」
という結論が得られることになろう。
日本人がより善く働くためには何が必要かここまで山本七平の論に従って、日本人がなぜ一生懸命働くのか、その理由について考えてきた。その理由を敢えて一言で言ってしまえば「日本人は自分のためではなく、共同体を維持、発展させるために目の前の仕事に取り組むことこそが正しい行いだと信じているから」と表現して良いだろう。そして、このことは多くの人にとっても合点が行く結論ではないだろうか。
安い賃金で、過酷な労働環境におかれても真面目に働き続ける人が多いのは、まさにこのような職業観が根ざしているからだと思う。
「人はパンのみにて生くるものにあらず。」とはイエス・キリストの言葉であるが、実際人は物質的、金銭的な満足を得さえすれば良いというものではない。物質だけではなく、精神的に満たされることを求めて生きる存在であり、日本人においては、共同体がその役割を果たしているのである。
では、このような日本人の特性を前提として、いかに私達は働くべきなのだろうか。どのようにすれば日本人は幸せに働けるのだろうか。
この点については本書を是非手にとって頂きたいところだが、敢えて簡単に言ってしまえば、「自分が所属する共同体を大切にし、自らの役割をしっかりとこなすことは重要である。だが、それは共同体に従っていれば良いということではない。共同体の価値観を大事にしながらも、自分の頭で考え、悩み、自らの意思で一つひとうの決断を行っていく。そのバランス感覚を養うことこそが重要である。」ということではなかろうか。

当たり前のこと過ぎてがっかりさせてしまったかもしれない。
だが、たとえ得られた結論がありきたりのものであったとしても、自らが立脚する世界観がどのようにして成り立ってきたのかについて、調べ、考えることは決して無駄ではないだろう。少なくともこの本には、私達日本人にとっての「働くことの意味」を改めて考えさせる力が込められていると私は思う。というわけで、今回ご紹介した本はこちら、山本七平著「日本資本主義の精神」でした。
長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

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