Dive Into The World

話題のニュースの裏側を専門知識がない人にも分かりやすく。普通の人たちと専門家の繋いでいけるようなブログを目指します。

「空気読めない」は恐れなくて良い。空気の正体教えちゃる!(笑)

皆さん「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざをご存知でしょうか?

これは「幽霊だと思って恐がっていたが、落ち着いてよく見るとただの枯れたススキの穂だった」という話です。恐怖心や疑いの気持ちがあると、何でもないものまで恐ろしいものに見えることを喩えたものです。逆に言えば、恐ろしいと思っていたものも、正体を知ると何でもなくなるということのたとえとも言えます。

 

ここ10年くらいでしょうか。

「空気読め」「空気を読む力」「あいつは空気読めないからな」みたいに「空気が読めないことが悪いことだ」という意味で使われるようになり、そのことで多くの人を悩ませる言葉になっています。

ちなみに私の場合は逆に空気を読みすぎて何もできなくなってしまうタイプですので、空気が読めすぎるのも困ります(笑)。何事も”ほどほど”が良いというわけですね。

 

そんな読めなくても困る、読みすぎても困るという現代人を悩ませる”空気”を読むことについての悩みをちょっと軽くできる本を今日はご紹介します。

 

それが作家・演出家の鴻上尚史(こうがみ しょうじ)著、『「空気」と「世間」』です。

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

 

  

この本の冒頭は「空気を読めないことを恐れるのは、空気とは何かが分からないからだ。空気の正体が何なのかが分かれば、それに対処する方法は自ずと分かるようになる。」という話から始まります。

 

つまり冒頭に私が書いた「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と同じく、「空気」の正体さえ分かれば「空気を読めない」ということを恐れる必要はないのだ、ということです。だからまずは空気の正体を知ることから始めましょう、と。そのために、この本では恐れる前にまずはみんなを苦しめる空気の正体を暴くことに力点が置かれています。

 

では、その空気の正体は何なのか?と言うと、鴻上さんはズバリ「それは世間である」と言います(正確にはちょっと違うのですが、とりあえずそう理解した方が分かりやすいので)。

そしてその「世間」とは何なのかというと、それは自分と「現在すでに利害関係のある人々」と「将来利害関係を持つであろう人々」の全体の総称です。具体的には政党の派閥、大学の学部や趣味の人たちの集まり、そして当然ご近所付き合いも含まれます。基本的には同質な人々が集う共同体のことだと考えれば良いでしょう。

 

その世間というのはもともと経済的な「セーフティ・ネット」として昨日してました。昔から「世間」という言葉のイメージである通り自分の行動や考えに規制を課す面もありますが、それでも経済的な安定を保障してくれる機能だったので、誰もがその「世間」を考えることで安定した生活を送っていたのです。

たとえばその共同体の中で結婚できない人とかがいると、共同体としては将来の貴重な労働力になる子どもを確保できなくなります。だからこそ「世間」のご近所さんたちが結婚相手を探してくれていたのです。今では「結婚するしないは個人の勝手だろ!」と言われてしまいますが、昔は「共同体」として永続的な活動ができるようになるためのセーフティ・ネットとしての機能だったわけです。

自分の生活や存在を安定させてくれる存在だったからこそ、誰もが「世間」を気にして生きていた。そういう合理的な行動だったのです。しかし、その「世間」も昔のような強固な共同体としては存在できなくなります。その理由は都市部への人口移動や、西欧文化流入など様々なですが、ざっくり言えば「近代化の波によって」ということでしょう。それらによって壊された「世間」ですが、まだ完全には壊れておらず崩壊しつつあるというのが現状であり、その「崩れつつある世間」こそが「空気」である、と著者は考えます。

 

つまり、「空気」というものはそのような「世間」が原型となっているものなので、「空気を読む」という行為も自分という存在を安定させる何かを探そうとする行為であると考えることができます。人は誰しも1人で生きているわけではなく、そのような安定装置を探すことは何もおかしなことではありません。そして、現代のように世間が壊れつつある途中にある世界においては、「自分という存在を保障してくれるもの」を見つけることはとても難しいので、空気を読むということは実際とても難しいものなのです。「空気を読めない」ということは別に特別なことではなく、実は誰しもが自分という存在と向き合う上で、必ず通る道なのです。

 

実はそのような自分という存在を安定させる機能は日本人だけが求めている訳ではありません。個人主義者として個人の強さを強固に備えていると思われているアメリカ人でさえ実はあるものによって、その存在を安定させようとしています。それが一神教、すなわちキリスト教です。私達日本人からは分かりづらいですが、欧米の個人主義というのは空中に浮いた「自分」という存在を自分の独力で固定させているような強固なものではありません。欧米の個人主義といのはあくまでキリスト教という一神教が示す「神」という存在の元に、平等な個人としての存在であり、その神が"直接"、"一対一"で個人と結びつき、その個人の存在を安定させているのです。

 

「今どきそんな神なんて信じているやつがいるのかww」と思われるかもしれませんが、Newsweek誌の世論調査では「神が人類を創造した」と考えているアメリカ人は48%。実に半分近くです。そして「進化の過程に神の役割はなかった」と答えたのはわずかに13%でした。つまり、逆に言えば87%の人は「人類の進化の過程には神が関与した」と信じている訳です。

そのような欧米の「神」の存在に代わるのが、日本では「世間」だったわけです。

 

日本においては、農村共同体として村人が一致協力して農業に取り組まなければ、そもそもみんなが生きていくことができませんでした。だからその農村共同体といかに強調していくかが、死活問題でありその象徴が「世間の目」だったのです。それが生活環境の変化、都市化の流れ、そして"一神教への理解を抜きにした抽象的な形での"欧米的個人主義の中途半端な移植により、その世間が中途半端に壊れて行きました。

 

特にここ20年あまりは農村共同体の代わりとして戦後の社会を支えていた「会社」の年功序列、終身雇用といった生活や精神の安定剤として機能していたものが崩壊することで、かろうじて安定させていた日本人の存在を安定化させる世間がますます壊れていきました。その上、欧米とは違い、一神教のない日本人にはその世間に代わる自己安定装置も見いだせないままというのが実情なのです。

 

世間もない、一神教もない。

つまり自分を安定させてくれる存在が存在しない。

非常に厳しい、生きづらい世界です。

そのような厳しい環境の中で「空気を読む」、つまり「自分の存在を安定させる」ためにはどうすれば良いか?

 

ここまで書いてきたように空気を読むというのは、セーフティ・ネットとして機能する世間の流れで生きるということです。ですから、まずは「そもそも自分を社会的に、経済的に安定させてくれる存在とは何か?」を考えるべきでしょう。

何も闇雲に空気を読む必要はないのです。所詮セーフティ・ネットという機能なのですから、「自分にとって有効」と思われるところにだけ集中すれば良い。たしかにその「有効」の範囲が狭い人、広い人というの違いはあるでしょう。でもそれはパーソナリティの違いがあるのでどうしようもありません。それを他人と比較してどうこう考えるのではなく、あくまで「自分という存在を安定させてくれる機能なんだから、自分に合う共同体を探せば良い」だけなのです。

 

昔でしたら自分が生まれた共同体で生きていけなればなりませんでした。しかし、今は違います。昔よりは圧倒的に自分が属する共同体を選ぶことができるようになりました。今目の前にある共同体の空気が読めないのであれば、それはたんにあなたにとってのセーフティネットにはなり得ないというだけの話なのです。何も空気を読めないことが悪いわけではない。
その人にとってはその共同体とは馬が合わなかった、それだけの話なのです。


大切なのはそのような環境で無理をして空気を読む努力をすることではありません。あなたの存在を社会的、経済力に安定させてくれる共同体と出会うための選択肢を多く持つ準備をしておくこと。そして、そのような共同体(を構成する人たち)に出会えた時に、そこに飛び込んでいく勇気なのではないでしょうか。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました

日欧EPAをメリットとデメリットで比較する愚かさ

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揉めに揉めたTPP11に引き続き、日本とヨーロッパ諸国の経済連携協定いわゆる「日欧EPA」が締結されましたね。

なんかネットとかメディアでも「チーズやワインが安く買えるようになる」ことが最大のメリットのように報道されていますが(笑)、みんなそんなにチーズとかワインが好きなんですかねww

私はワイン嫌いですしチーズも年に数回しか食べないので、そんなもの何のメリットにもなりません(笑)。

 

ま、それは個人の好みの話なのでどうでも良いのですが、TPP11に反対していた私としては当然この日欧EPAにも反対しております。もちろん、TPP11にしろ日欧EPAにしろ、もう決まったからどうしようもないのですが、こういった自由貿易協定の何がまずいのかについて書いておくことは意味があると思います。

 

貿易協定をメリットとデメリットで語る愚

メディアでもネットでもこういった自由貿易を「メリットとデメリットの比較考量」で考える向きがありますが、ぶっちゃけて言うとそんなこと考えても仕方ないのです。

敢えて言うなら"無駄”です。

なぜならメリットとデメリットは立場や考え方によって違うからです。例えば今回のEPAに関しても

 

・消費者の立場に立てば「チーズやワインのような欧州食品が安くなる!」。

・逆に酪農生産者の立場に立てば「国外から安い食品が入ってくると仕事が成り立たなくなる!」。

 

となります。

 

それはもちろん酪農だけの話ではなく、自動車生産や部品などの製造業に関して言えば

・輸出業者の立場から考えれば「関税が下がることで輸出商品が安くなるから競争力がつく!」。

・日本国内での製造業者から考えれば「輸入商品が安くなるから価格競争が厳しくなる」。

 

となるわけです。

 

先程も書いたように、結局メリットとデメリットのどちらが大きいかなんて、立場によって変わるのですから、そんなことを話していても意味がありません。もちろん国会や行政のレベルになれば当然話は別です。しかし、一般国民がああだこうだ言っていても仕方ありません。国民投票にでもなるなら別の話ですが、そうでないなら単なる井戸端会議でしかない訳です。

私が国会議員か官僚の立場だったら、「お前たち国民がどうでも良い話をしてる内にこっちは実務レベルで議論を進めるんだよ。お前たちは井戸端会議だけしてれば良いんだから本当に幸せだなww」と思うことでしょう。

 

繰り返しますが、メリット or デメリットで話をしていても仕方ない。では、何で測るべきか?

いくつか指標があると思うのですが、今日は

 

日本という国がどうあるべきか?

 

という点から考えてみたいと思います。

 

あ、ちなみに。

日本という国と表現すると何か右翼の人みたいな印象を受けるかもしれませんが(笑)、そんな極端な話ではありません。日本では「国」というと何かそれだけで戦前を彷彿とさせるような「国家統制」みたいなイメージを思い起こされますが、私達個人と国というのは別に対立する存在ではありません。

「国」とか「国家」というと何かすごく仰々しく感じるかもしれませんが、自分が生まれ育った町や地域、そして自分の家族や友人がこれから先も幸せに暮らして行けるにはどうすれば良いか?という話です。日本という国の話はその延長でしかありません。

 

日本という国がどうあるべきか

今回の日欧EPAが典型ですが、「日本が得意な工業製品や部品を輸出して、欧州が得意なチーズやワインなどを輸入することで、お互いにウィン・ウィンの関係になる」という話で自由貿易を擁護する人たちがいます。

これは古くは18世紀の経済学者デイヴィッド・リカードという人が唱えた「比較優位説」というものに依拠しています。お互いの国がそれぞれ秀でた物を生産し、それを交換し合えば全体としてもメリットが大きくなる、という説です(超ざっくりですが)。

 

一見もっともらしい説ですが、大きな問題があります。

一つはその二国間が必ずしも平和的に、永続的に貿易ができるとは限らないこと。政治的なパワーバランスに不具合が発生すれば成り立ちません。あるいは戦争が起こってしまえばそもそも根本から崩壊します。

 

そしてもう一つ。

佐伯啓思(さえき けいし)氏という経済学者の「経済学の犯罪」という本に分かりやすい説明がありますので、そちらを引用しますと

 

もしも日本が優秀な産業技術のもとでハイテクのチップを効率的に作り、一方、アメリカは豊かな農園を背景にしてじゃがいもを効率的に生産することができるとすれば、比較優位論が教えることは何か。それは、日本はコンピューターのためのシリコンチップを生産し、アメリカはもっぱら胃袋のためのポテトチップを生産し、両者が自由貿易で交換すれば良い、ということだ。

これで双方とも利益を得ることができる。だけど、果たしてアメリカはそれで満足するだろうか。

ここに自由貿易論の大きな陥穽(かんせい。落とし穴のこと)がある。アメリカは決してポテトチップ大国で満足などできないのである。とすれば、比較優位の構造を政府が作り変えてゆくだろう。ここでは国家の基幹産業は何であるべきか、あるいは国家を支える産業はどうあるべきかという価値選択が不可欠になる。

 

 ちょっと長くなりましたね。すみません。

要するに地理的、社会的な条件などによりその国が生産しやすい物はある程度限定されて来ます。特に農産物はそうでしょう。大地の肥沃具合や緯度、経度、など地球的な条件がとても大きいです。

しかし、工業製品は違いますし、IT革命以降の情報処理技術に関してはいわずもがなです。つまり、何を基幹産業にするかは選択の自由が発生し、それを決定するのは「国家として100年先、200年先を見据えた時にどうするべきか?」という価値判断が入らざるを得ないのです。

 

日欧EPAをメリット、デメリットで語るのが問題なのは、そういった将来を見据えることを放棄して(せいぜい5年とかくらい?)、「今自分たちにお金がないから安く買いたい」「今自分たちの製品の売り先が少ないから、もっと広く売りたい」という点でしか判断をしていないことです。

 

一言で言えば、今の自分達の金勘定でしか考えていないということが問題なのです。

 

確かに100年先、200年先の未来を予測することはできません。それは事実です。

ですが、どのように転んでも対応できるような基礎構造を作り上げておく、ことは可能です。

分かりやすい例で言えば、津波に対する防波堤です。 

東日本大震災が起こる前に、大地震に伴う津波対策として巨大な防波堤を築こうとしましたが、某元女性タレントの議員が「1,000年に一度起こるかどうかの津波のために、こんなものにお金を掛けるのは無駄だ」と言い放ちました。

ですが、実際その数年後に大地震は訪れた訳です。

確かに、1,000年に一度となればいつ起こるのかを予測することはできません。ですが、もしものことが起これば取り返しがつかない事態になるということを私達は教訓として学んだ訳です(正確に言えば、昔の人はちゃんと教訓を残してくれていたのに、現代人が無視していたわけですが・・・)。

 

未来を予測することはできない。だが、起こり得る事態を考えることはできる訳です。数少ない事案の中から未来を予測し、その危険を回避する方策を探ることができる。それこそが人類の知恵なのです。

であればこそ、日本と海外諸国との関係性において私達が考えるべきは「今の自分たちにとってのメリット」ではないはずです。将来起こり得る危険性を考えた上で、どういう国であるべきかを考えることこそが重要なのではないでしょうか。

 

 

今回のEPAのように経済的…というよりも金銭的なメリット、デメリットでしか物事を測れなくなっている想像力の欠如こそが問題の根幹にある。私はそのように思うのです。

 

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございました😊

「値上げを拒否なら水は供給しない」。これが水道民営化の実態だ。

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先日の投稿でもお伝えしたように、皆さんに水道を供給する水道事業の民営化を促進する法律が可決されました。

 


 民営化というだけで何か良いことのように思われるかもしれませんが、とんでもない。

民営化するとどうなるかという実態を示す事件が起こっています。


これは岩手県で現在起こっていることですが、水道事業を担当する民間会社が経営悪化のため住民に井戸水をくみ上げるポンプの電気料金負担を住民に求めているようです。

いわく

 

「水道管の老朽化で漏水している恐れがあり、安定した水道供給には住民の協力が不可欠だ。赤字のままでは継続できない」

 

"漏水している恐れがある"という理由で、きちんとした調査もせずに住民に協力を求めているということですが、要するに「管理にお金が掛かって赤字経営だから値上げする。値上げに応じられないなら水の供給を止める。」と言っている訳です。

 

住民は当然反対して訴えを起こしているようですが、仮にその訴えが認められたとして値上げを差し止められたとしましょう。その場合に民間企業が打ってくる手は「水質管理の放棄」です。そりゃそうでしょう。民間企業の目的はあくまで利益です。赤字になってまで水質管理をする義務はありません。

 

「そんな酷い話があるか!!」とおっしゃるかもしれませんが、実際今回可決された法律ではそうなっているのです。それはコンセッション方式という事業方式で、

 

事業の所有権は自治

運営は民間企業

 

という形で責任の所在と運営が分けられているのです。

電気事業やガス事業も民営化されていますが、それらの事業はまだ法律によって安定した電気やガスを国民に供給することを義務づけられています。しかし、水道に関してはそのような法律がないため、民間企業は水の安定供給、品質管理をする義務はないのです。

 

何かがあった時に責任を取るのは自治体。

そしてその自治体は私達の税金で運営されている。

つまり、何かあった時に責任を取るのは私達、というわけです。

もちろん利益は民間企業ががっつり貰っていきます。

 

私が学生時代には「水は水道料金が払えなくても余程止められない」とか言っていましたが、そんな甘い時代はもうとっくに過去のものです。

「水が欲しいならもっと金払え! 金が払えないなら雨水でも溜めて飲んでろ!」。

それがまかり通る時代の入り口に既に私達は立たされているのです。

 

 

 

今回も最後までお読み頂きありがとうございました😆

あなたは「どこにでも行ける誰か」と「ここにしかいないあなた」のどちらですか?

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「勝ち組」と「負け組」

「金持ち」と「貧乏」

「保守的」と「進歩的」

 

などなど、世の中には色々な“分け方”があります。

その分け方には経済的なものだったり、社会的地位だったりといろんな指標で分けられるものですが、ちょっと興味深い”分け方“をご紹介します。

 

それはイギリスのジャーナリスト、デービッド・グッドハート氏が著作「The Road to Somewhere」の中で示した

 

「エニウェアーズ」と「サムウェアーズ」

 

という分類です。

 

エニウェアーズとサムウェアーズ

「エニウェアーズ」とは英語で“Anywheres“。

高学歴で社会的地位も高く、それにより国際的な移動性向も高い。生まれ育った土地を離れて“どこでも“生きていることができると考えている人たちのこと。

一方の「サムウェアーズ」は英語で“Somewheres“。

「エニウェアーズ」とは逆に社会的地位や学歴がそれほど高くなく、そのため国際的な移動性向も低い。生まれ育った土地をほとんど離れず「どこか」に貴族して生活している人たちのことです。

 

テレビや雑誌などでよく取り上げられるような、世界で活躍するビジネスマンや経営者、投資家 (Z◯Z◯の社長とか、ホリ◯モンとか)などは、まさにエニウェアーズの典型です。

そういった“世界で活躍“する日本人が賛称されることが多いのですが、実は日本で暮らすほとんどの人たちはサムウェアーズの方です。世間で暮らすほとんどの人が生まれ育った土地、あるいはせいぜい日本国内のどこかで育ち、社会に出て、そして子を生み育てていく・・・そのようにして生きているのではないでしょうか。

「これからのグローバルな社会では英語が必須だ」とか「AIやプログラミングに関する知識がないと!」とか世間では言われますが、実際にそれが必要になる人達というのはごく一部なのです。

 

エニウェアーズとサムウェアーズに優劣はあるか?

日本では「日本人的だ」というのを悪い意味で使います。閉鎖的だと、保守的だとか、そういう暗いニュアンスを含んだ言葉として。その裏返しとして「国際的」「グローバル」だとかいう言葉に弱いのですが、「日本的であること」ってそんなに悪いことでしょうか?

世間のほとんどの人は日々の生活に愚痴をこぼしながらも「日本的」で「(地域的には)限定された社会」で平和に暮らしています。ですが、そのような社会で暮らしているからこそ、“他の誰でもないあなた“を必要としてくれている人がいるのではないかと思うのです。

 

逆に「エニウェアーズ」的な生き方は、確かにパッと見では格好良いかもしれません。ですが、結局その人のような「能力」と「経済力」があれば、誰にでも取り替えが可能なのです。

日産のカルロス・ゴーン氏が逮捕されても、なんだかんだ日産という会社は潰れずに動いています。まぁ内部では色々あるのでしょうが。

確かにカルロス・ゴーン氏には莫大な財産があるでしょう。でも、結局あのレベルにまで上り詰めたとしても“取替可能”な存在であることには変わりありません。その一方で、いかに地理的に限定されていたとしても、今そこにいるあなたを必要としてくれる人がいる社会で生きる「サムウェアーズ」の生き方が、エニウェアーズの生き方に劣っているとは思えません。

 

特に、SMAPの「世界に一つだけの花」が国民的大ヒットになる日本という国においては、実は「誰にも代わりのきかないサムウェアーズとしての生き方」にこそ生きる幸せを見出す価値観が根強いのではないのでしょうか。

 

日本がデフレ不況に陥って以来、特に「勝ち組」といった言葉で代表されるエニウェアーズの生き方が参照される向きがあります。しかし、「本当に自分が幸せになれる生き方はなにか」を考える上で、他の誰でもない“ここにしかいない自分“すなわり「サムウェアーズ」としての生き方というのをもう一度評価し直しても良いのではないか。そんなことを思ったのでありました。

 

うーん、何か締まり悪かったかな。すんませんww

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

「子どもが夢を観れる社会」を“無駄“だと切り捨てて良いのか?

ちょっと変な話から始まりますが、私はこの日本に暮らす人間の1人として、やはり子どもが明るい将来を夢観れるような社会であるべきだと思っています。

子どもが

「こんなロクでもない大人ばっかりの国にいたって仕方ないな〜」

と思う国よりも

「こんな凄い人たちが同じ日本人にいるんだ。自分もそんな人になってみたい!」

 

と思える国の方が健全ではないかと思うのです。

もし自分に子どもがいて「こんな道に進みたい」と言ったら、どんな苦労も厭わずにその夢を応援してあげたくなるのが親心だと思うのですが、私は間違っていますでしょうか?

 

私は親というのはそういうものだと思うのですが、残念ながら日本という国「子どもに夢を観させるなんて無駄」と考える寂しい国になってしまっているようです。

何の話かといいますと、私がこのブログでも何度か取り上げている「ILC(国際リニアコライダー)」という国際的な科学技術プロジェクトのことです。このプロジェクトは

 

「宇宙の始まりである“ビッグバン”を人工的に再現することで宇宙誕生の謎を解き明かす」

 

という人類の夢を成功させる巨大装置を日本に建設しよう!というものです。

 

似たようなプロジェクトでCERN(欧州原子核研究機構)がスイスに建設したLHCという巨大装置があります(数年前に「神の粒子」と呼ばれたヒッグス粒子の発見で世界中で話題になりました)。みなさんが普段使っているWebサイトの技術も、実はこのLHCの研究の過程で生まれた技術でした。つまり「本来の研究目的の副産物」だった訳です。

今回のILC(国際リニアコライダー)というプロジェクトは、そのCERNの研究よりもさらに大掛かりなものになります。そのプロジェクトが日本で実行されれば世界随一の研究者たちが日本に集結することになるのです。

 

その過程で様々な新しい技術と発見がもたらされることになるでしょう。CERNのWebサイト技術が世界を変えたのと同じように、世界を変えるような新しい技術が生まれることになるのです。しかも、この日本で。

「宇宙の始まりを解明する」。そんな夢のようなプロジェクトが日本で行われたら、それだけでも子ども達への影響はものすごいことになると思います。その子ども達の中から将来、世界の科学技術の中心を担うような子が出てくる可能性も非常に高いと思いますし、何よりそんな夢を子どもたちに与えることができること自体が素晴らしいことだと思うのです。

 

 

その場所に日本の岩手県が最有力候補として挙げられています。

それも日本人が勝手に主張している訳でなく、当事者である世界中の研究者たちが「日本でこそやるべき。いや、日本でしかできない。」と日本に要請しているのです。しかも、その経済波及効果は4.3兆円、約25万人の雇用創出が見込まれています。

後は日本政府が「はい。やります!」と決断するだけ。本当にそれだけなのです。

 

なのに、なぜまだ日本で行われることが決定されていないのか。

他でもない日本政府が「お金がないから」という理由で躊躇し続けているからです。

じゃあ、それがそんなに大金なのか?というと、1年当たり300億円ぽっちです(建設事業なので10年間かかりますが)。もちろん一個人で考えればとんでもない金額ですが、GDP550兆円を抱える日本という国で考えれば、投資額はたった0.05%の投資にしか過ぎないのです。しかも別に払い損という訳ではありません。その投資分の雇用は10年間確実に生まれる訳です。何も損することはないのに何を躊躇しているのか。

仮に年収500万円の家庭であれば、年間2,500円の話です。

 

もし自分の子どもが、例えば医者になりたいとか、科学者になりたいとかいう夢を抱いて、もっと勉強したいから塾に行きたいと言ったとしましょう。それが年間2,500円だったら躊躇しますか? (これはたとえ話なので、2,500円とか逆に安すぎて恐いでしょうが(笑))。

日本政府はその程度の話を躊躇している訳です。

 

さらに日本政府にILCプロジェクトを思い止まらせようとしている「日本学術会議」という(科学者ではない)学者さんたちの集まりがあるのですが、その会議は何と「ILCにお金をつぎ込んでも成果が出るかどうか確証がないから止めておけ」と言っているのです。

さっきの子どもの例で言えば、子どもが勉強したいと言っているのに「お前の頭じゃ芽が出る確証がないから年間2,500円も払うのはもったいない」と言っているのと同じなのです。

 

そんな情けない国で、子どもたちが育ったら一体どうなるのでしょうか?

夢や希望よりまずは金。

そんな国で子どもたちは明るい将来を描くことができると思いますか?

 

私はそんなケチで情けない国になってほしくありません。子どもたちが夢や希望を抱けるような、そんな将来を示してあげられるような社会であるべきだと思います。

もちろん、事業としてやるわけですから経済波及効果の計算も大切です。しかし、日本政府にはそんな「金勘定」ではなく、どんな日本の未来を描くのか?という国家の大局を観た上での判断をして欲しい。そんな風に願っているのです。

 

ちなみに、ILCのような超巨大プロジェクトにも関わらず、日本ではさっぱり取り上げられないことも問題の一つです。もしちょっとお時間があるのでしたら、下記のKEK(高エネルギー加速器研究機構)のHPにある「漫画でわかるILC」をご覧ください。

さらっと読めて、ILCプロジェクトの魅力が理解して頂けると思います。

 

漫画で解る!ILC – ILC

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今回も最後までお読み頂きありがとうございました😆

 

このままでは日本はあと5年以内にノーベル賞を獲れなくなる

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皆さん既にご存知の通り京都大特別教授の本庶佑(ほんじょたすく)さん(76)がノーベル医学生理学賞を受賞しましたね!

 


いやー、めでたいですね!めでたい!

(↑本庶教授の研究ががん治療に具体的にどれほどの役に立つのか分かってませんけどね!(笑))


特に2000年代に入ってからのここ数年は、立て続けに科学方面の分野で日本人が受賞しているので、何か感覚が麻痺して

 

「え?また獲ったの?」

ノーベル賞って毎年日本にくれることになってるやつだよね」

 

とか"ノーベル賞バラまき"みたいなイメージすらあるかもしれません。
もちろん、そんなことはない訳です(笑)。
それどころか、これから先…5年先とか10年先というスパンで見ると日本人はノーベル賞を受賞することができなくなるのではないかという可能性が非常に高くなっています。

 

日本の科学技術が急激に弱まっていると政府が公式に発表

今年の6月に政府が閣議決定した今年度の科学技術白書の内容は「日本の科学技術は力が急激に弱まった」という恐るべき内容でした。
それによると、日本の論文数は2004年の6万8000件をピークに2015年は6万4000件に減少。主要国で減少しているのは日本だけ。その一方で中国は約5倍に増えて24万7000件に、アメリカも23%増の27万2000件に増加しています。


そして日本で作られた論文が引用される数、つまり引用数は、2003-2005年の4601から2013-2015年は4242となり、順位も4位から9位に後退。一位は当然アメリカですが、なんと二位には中国がランクインしています。
つまり、日本よりも中国で作られた論文の方が引用する価値が高くなっているということであり、その分日本の研究の影響力が世界で低迷しているということです。

 

日本の科学技術予算は主要国最低レベル


それもそのはず、なんと科学技術関係予算の伸び率を見ると、2000年をベースにして考えると


日本は2018年度で1.1倍
米国は2017年度で1.8倍
韓国は2016年度で5.1倍
中国は2016年度で13.5倍


と伸びが顕著となっているのです。
日本が1.1倍にしか増えていないにも関わらず、韓国でさえ5.1倍、中国に至っては2016年でも13.5倍ですので、この差はもっと開いているでしょう。

 


これだけ諸外国と予算に開きがあれば、「日本の科学技術は力が急激に弱まった」のも当たり前です。そのような状況で日本人がこれだけノーベル賞を受賞できているのはいるのは奇跡!
…ではありません。単純にノーベル賞を受賞しているような重鎮の研究者たちが若い頃に研究に没頭できる環境があり、しっかり予算もつけられた上で必死に努力をされたからです。


以前の投稿にも書いたのですが、今の大学ではとにかく研究以外の雑務が多すぎて、研究に割く時間が取れないことが大きな問題になっています。

というのは、「国から配分される予算に競争原理が持ち込まれている」ことにより、その予算獲得のために、行政側にプレゼン資料を作らなければならないというような、無駄な実務仕事が増えているのです。
実際、大学等教員の職務活動のうち研究が占める割合は、2002年の46.5%から2013年には35.0%に減少。これも5年前の数値ですから、今はもっと下がっているでしょう。 

 

  
予算を増やさず、研究時間も減らしておきながら「成果を出せ」と言ってもそりゃ無茶でしょう。あと5年くらいはまだ何とか持ち堪えられるかもしれません。しかし本庶教授のような重鎮が引退した後には、もう日本は二度とノーベル賞が取れないような科学後進国に落ちぶれているでしょう。
当然そのような国では若い研究者も育ちませんし、科学の道を志ざす子供も出てこないでしょう。出てきたとしても「これからは研究しようと思ったら中国だね!日本語より中国語を勉強しよう!」と満面の笑みで未来を語るかもしれません。


そのような未来を避けるためにはどうすれば良いか?
まずは予算。予算です。それも単発では駄目です。しっかりと長期的な研究計画を立てられる予算。そして研究をするための施設と、何より研究者を育てられるのに十分な予算をつけることです。今のように若手の研究者を短期雇用でしか雇えず、将来不安を抱えさせたまま日々の生活に四苦八苦させるような環境は間違っています。


そして、私達にできることは、そのような予算をつけるだけの十分な経済力がこの国にはあるのだということ再認識することです。もっと簡単に言えば「日本は財政破綻する!」などという根も葉もない嘘っぱちに騙されないことです。

国民の一人でも多くがそれを理解することが遠回りですが、確実に日本をまともな国に戻していく力になると私は思います。

財政破綻論の「嘘っぱちさ」については何度かこのブログでも取り上げていますので、ここでは割愛します。よろしければ下記の投稿もご参照ください。

 

今回も長文を最後までお読み頂き有難うございました😆

 

パリ暴動③。デモ炎上の火種はフランス国民の「群集心理」にある。

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今年の冬はずっと暖かい日が続いていましたが、この週末は一気に冷え込みましたね〜。気温としてはそこまで低くないと思うのですが(例年並?)、身体が慣れていないせいかメチャクチャ寒い気がします。

この前とある気象予報士の方が仰っていたのですが、この冬は「暖かい日が続くけと時々すごく寒い日がある」という"暖冬傾向"になるそうです。"暖冬"じゃないですからね。"暖冬傾向"です(笑)。

面白い言い方をするなと思ったのですが、確かに「暖冬」と言われていて寒い日があると「暖冬って言ったやんけ〜〜!!」と批難が寄せられるかもしれません。しかし、「暖冬傾向」と言っておけば、「あくまで傾向だからな。寒い日があっても仕方ないか」と納得してしまうわけです。「傾向」一つ付けるだけで大違いですね!

 

さて、この「暖冬傾向」という言葉のように、私達は言葉によるちょっとしたイメージの違いで色々な感情を抱いたり、色々な行動をとったりすることがあります。さっき書いた、「暖冬」と言われていて寒い日があると「暖冬って言ったやんけ〜〜!!」っていう気になる、というのも同じ。

 

そんな特定の言葉やイメージによって導かれる大衆の心理を描いた古典的名著があります。それがこれ。 

 1895年にフランスの社会心理学者 ギュスターヴ・ル・ボンが著した「群集心理」という著作です。

 

群衆心理 (講談社学術文庫)

群衆心理 (講談社学術文庫)

 

 

という訳で(?)、今日はこちらの本のレビューをお届けします。

 

なぜ今「群集心理」か? 

さて、実はわたしこの本を取り上げるのを迷いました。

なぜかと言いますと、一つはブログで"簡潔に"紹介するには内容がメチャクチャ難しいということ。言っていること自体は難しくないのですが、簡潔にわかりやすくするのが超大変・・・。

 

そして、もう一つの理由は多分この本のレビューを読むと、皆さんが嫌な気分になりそうだからです・・・(笑)。

と言いますのが、この本に描かれている「群衆」には私たち現代の大衆もほぼ全て含まれるのですが、やはり「お前は群衆の1人だ」と言われて良い気がする人っていないと思うんですよね(笑)。さらに、この本では「群衆の心理」が相当手ひどくこき下ろされます。

 

ではなぜ敢えてレビューを書こうと思ったのか?

それはいま正に起こっているフランスの暴動、そして日本の政治の混乱にこそこの「群集心理」の状況が当てはまるのではないかと思うからです。だからこそこの本を読むことで今起こっていることをより多角的に観れるようになるのではないかと思ったからです。

 

マクロンを生み出したのも排斥するのも同じ「フランスの群衆」である

先日の投稿にも書きましたが、今回のデモはEUという巨大国家連合に民主主義の根幹である「自分たちのことは自分たちで決める」という権利を奪われたことに対する反発です。

 

少し詳しく説明しますと、EUにおける法律は各国の代表によって形成される欧州議会で決められます。当然EU全体のバランスを取るために色々な法律やルールが決められる訳ですから、一つ一つの国の主義主張や伝統、価値観などはどうしても後回しにされてしまいます。「最大多数の最大幸福」的な考え方ですね。

それ自体は仕方のないことのように思えますが、問題は欧州議会で決められた法律がイギリスとかフランスとかいった一つの国の法律の上位に立ってしまうことです。つまり、自分たちの意図しないこと、望まないことを欧州議会というところで勝手に決められた上、そのルールに逆らうことができないということです。

 

それでもEU成立後しばらくの間うまく行っていたのは、経済的利益がそういったマイナス面を上回っていたからです。「まぁ、所得は増えてるし、目に見えて社会が不安定化してるわけじゃないから我慢するか・・・」という話ですね。

しかし、ギリシャの経済破綻をきっかけにした経済危機により、そのマイナス面が一気に噴出しました。しかも、そのマイナス面を払拭するために必要な社会制度の整備がフランス独自ではできないのです。あくまで欧州議会に諮らなければならない。

その上肝心の大統領が国民よりも欧州議会やグローバルに活動する民間企業を重視する政策を次々に打ち出していく・・・・そりゃね、キレますよwww

「俺たちの国のことは俺たちに決めさせろ!!」となるのは当然です。

 

ただ。

ただ、です。

そのEUの成立に対してフランスは国全体で大歓迎していたわけですよ。「近代より以前から何百年も戦い続けてきた欧州の国々が、様々な障壁を乗り越え遂に欧州連合として一つの共同体になる! 」という夢のような物語に誰もが胸をときめかせていたのです(そうじゃない人もいたでしょうが)。

 

そして実際経済的にうまく行っている時には歓迎していた。欧州連合万歳! とその繁栄に酔いしれていた訳です。マクロン氏もたまたま今のような混乱のタイミングで大統領になってこんなことになっていますが、経済的にうまく行っている時だったら「マクロン最高!!」となっていた可能性も高いです。

 

しかし、経済危機によって事態が急変した途端、大衆は手のひらを返した訳です。

そして「反マクロン」で一致団結している。

 

私はこの欧州連合成立前後から今に至るまでの民衆の動きにこそ、まさにル・ボンの言う「群集心理」が見事に表れていると思うのです

 

 

群衆の敵を生み出すのもまた群衆である

ル・ボンは「群集」の特徴として

 

・衝動的で、動揺しやすく、興奮しやすい

・暗示を受けやすく、物事を軽々しく信じる

・感情が誇張的で単純である

 

という点を挙げます。

 

彼らは「反マクロン」「反グローバリズム」というイメージの下に集まり、暴動を引き起こしています。確かに私もマクロン氏のグローバリズム的な政策は、フランス人にとっては誤った政策だと思います。

ですが、以前彼らはそのグローバリズム的な政策を、恐らくそれが何をもたらすかもちゃんと吟味することなく、単なるイメージで漠然と正しいと信じ、「欧州連合結成」という夢物語を支持したのです。だからこそ、これまでのグローバリズム的な政策が打ち出されて来た。

 

確かに個人個人で言えば、グローバリズムの是非をしっかりと検討した上で反対していた人たちもいるでしょう。しかし、残念ながら多くのフランス人・・・というかフランス国民という集団としては、それを支持してしまった。まさにル・ボンが言うようにグローバリスト達の都合の良い話を衝動的に、軽々しく信じて、その方向へ突っ走ってしまったのです。

それが現在の混乱を生み出したそもそもの原因であることを今一度思い起こす必要があります。

 

したがって、現在の代表はマクロン大統領ですが、彼の政権を倒せばそれで済むという話ではない。

問題はそのような大統領を生み出した制度、そしてその原因となったグローバリズムを簡単に信じてしまったその「群衆の心理」にあるのです。

 

同じことは日本にも言えます。 

日本でもバブル崩壊以降、構造改革の美辞麗句の下、ひたすらデフレを強化する誤った政策を取り続けており、それどころか「構造改革」の意味も考えず

 

「とにかく今の状況が苦しいから、何かをどうにか改革すれば何とかなるんだろ。知らんけど。」

 

という程度の認識で、構造改革を支持し続けてきました。

 

また、自分たち民間にお金がないからと言って、"相対的に"安定している公務員を「俺たちは大変なのにあいつらばっかり安定した生活を送りやがって!」と叩き続けて来ました。バブルで民間が儲かっていた時は「公務員とかマジ底辺www」とバカにしていたくせに・・・。

 

そもそもお金というのは誰かが使わなければ回りません。

ですから、民間がお金を回さないのであれば、公務員や公共事業によってお金を使うことが景気回復には絶対条件なのですが、「自分たちにお金がないから、人が金を持ってるなんて許せない」という怨念に縛られた群衆は、自分たちで自分たちの首を締めていることに全く気付かないのです。

 

個人個人ではこのような「構造改革路線」「緊縮財政路線」に疑問を呈している人はいるかと思います。しかし、残念ながら日本人という群衆としては、それを支持し続けてきたのです。そういう意味では、日本人に厳しく外国人&多国籍企業に優しい安倍政権も、私達日本人が自ら選んで生み出してきたといえるのかもしれません。

 

 

・・・・という訳で、何か全然本のレビューじゃなくなってしまいましたがwww

この本を読むと、私ここまで書いてきたような「群衆心理」に、自分が普段何気なく取っている行動がどれだけ左右されているか。そしてその「群集心理」が誰に、どのようにして形成されているのかということが分かります。

"人が集まる"ということが、どれだけ自分の行動に影響を及ぼすのかを知ることで、自分の言動をより冷静に観ることができるようになる。それを知るだけでも自分の行動をいかに処するべきかについて、今までとは少し違った視点を持てるようになるのではないでしょうか。そして、そのような人が群衆の中に一人増えるだけで、自分たちの未来に明るい道を示すことができる。甘っちょろいかもしれませんが、そのような期待を持ってしまうのです。

 

読破するにはそれなりの時間がかかるかと思いますが、その価値は充分にあります。

今、この時にこそ読むべき本の一つではないかと私は信じています。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂き有難うございました😆