Dive Into The World

話題のニュースの裏側を専門知識がない人にも分かりやすく。普通の人たちと専門家の繋いでいけるようなブログを目指します。

”努力をすれば報われる”信仰が自らの首を締める時もある。

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先日、消費税の10%への引き上げが安倍首相より表明されたことを受けて、下記のような投稿を行いました。

 

この中で私は「どの政党でも与党になった途端、増税に賛成するのだから、増税した政権批判だけやっていても仕方ない。増税を行わせる構造そのものを見直さなければならないのではないか?」ということを書きました。

とは言え、この「構造」というのは中々難しい問題です。

 

というのは、そもそも構造という位ですから、「この一つを解消すれば、全体の構造そのものが劇的に改善する!」というような単純な話ではないからです。

 

例えば会社とか、サッカーチームとか、何でも良いのですが、人数や規模に関わらずどんな組織やチームでもどこも何かしらの問題を抱えています。人間関係、成績、経営状態・・・どこかには必ず問題を抱えているものです。そして、その問題とは誰か一人だけ、何か一つだけの原因から発生しているということもありません。大小さまざまな問題の原因があり、それらが複雑に絡み合って全体としての不具合を引き起こしている場合がほとんどです。

 

昨日の投稿で私は「財務省」が経済政策に与える影響について問題視していることを書きました。もちろんそれを撤回しようとは思いませんが、じゃあ財務省の組織改革が上手くいったからと言って、それだけですべてが好転するほど国家組織の構造が甘くないことも事実です。

組織の構造をなすさまざまな部分に目を向け、それらの問題に着目しながら、少しずつ改善していくような粘り強さときめ細かさが必要になるのではないかと思います。

 

そして、この「国家」という組織においては、我々国民自身もその構造をなす一つの要素であることも事実です。国家をものすごく狭い定義として捉え「国家とは政府のこと。いや、内閣のこと。もっと言えば、安倍首相のことだ」とか極端な主張をしなければ、普通に考えて国家とは私達国民を基盤とした組織であるのですから。

だとすれば、現在のような「デフレ不況からの脱却ができていない状況で、さらに不況を促進するような消費増税を行う」という選択を行われたことについても、何かしら我々にも要因があるのではないかと思います。

 

その要因はいくつかあるとは思いますが、今回取り上げたいのは「努力は必ず報われる」という日本国民の間に信仰にも近い影響力を持つ努力信奉主義です。

 

今の苦境を脱するためには何か苦労をしなければならないという日本人独特の価値観があります。勿論努力をせずに成果を得ようとすることが難しいのは事実です。
しかし、逆が真なりとは限りません。
成果を得るために苦労が必要になる場合があるからと言って、苦労をすれば成果が得られるとは限らないのです。世の中そんなに甘くないことは、現実の社会で生きている人なら誰でも分かることでしょう。
 
しかし、それが「経済問題」となると中々そのように考えて貰えないのも事実です。例えばいわゆる「日本の借金問題」。
多くの日本人は「日本は財政問題を抱えている」という解消すべき問題があると信じています。そして、日本人はその問題を解決するという成果を得るためには、何かしら苦労をしなければならないと思い込んでいます。今回の消費増税もそのような考え方をベースにして、「将来世代にツケを残してはならない!」とか「全世代型社会保障制度の実現!(でしたっけ?ww)」というもっともらしいスローガンで実施されます。
 
しかし、その「日本は財政問題を抱えている」思い込みがそもそも間違いであるとすればどうでしょうか?
 
実際のところ、日本の日本国債の45%は「日本政府の子会社である日本銀行保有しています。日本政府は、日本銀行保有する国債について、返済の必要も利払いの必要もありません。連結決算で相殺されるからです。利払いはしていますが、日銀の決算が終ると「国庫納付金」として戻ってきています。

つまり借金1,000兆円とか言っても、その半分近くは返済不要なのです。それでも500兆円あるじゃないか!と言われるかもしれませんが、それでも1,000兆円と500兆円では偉い違いです。

 

また、財政破綻したギリシャの債務残高がGDP比で160%を超えていて、日本は200%を超えているからやばい!!とか言われますが、本当に“ヤバイ”のだったら、もうとっくに日本は財政破綻しているはずです。日本が財政破綻するという話は1980年代から言われていますが、30年以上経ってもこれっぽっちも財政破綻する気配がありません。

だとすれば、本当は債務残高のGDP比が◯◯%だから日本やヤバイ! ではなくて、「債務残高のGDP比で財政状況を語ることそのものがおかしい」という話にならなければならないはずなのです。


今回はこの問題には深入りしませんが、それにしても日本には国の借金問題も、財政問題も存在しない。これは歴然とした事実です。

 
若いうちの苦労は買ってでもしろという言葉があるように、日本人には苦労を厭わない精神性があり、苦労することそのものに過剰な評価を与える習慣があります。
下手すれば、赤穂浪士の討ち入りのように、信念を通し、時にはその信念の下に敗れ去ることにさえも魅力を感じる。そのような文化するあるわけです(良い、悪いは別にして)。
 
確かに人間ドラマの「物語」としては美しいでしょう。
ですが、そのような「苦労をすれば報われる」「みんなで一つの目標に向かって努力し、痛みを乗り越える」的な日本人の美徳を国家戦略にも援用することはあってはならないのです。
以前小泉首相が明治初期の長岡藩の「米百俵」話を取り上げて「痛みを伴う改革」の正当性を主張しました。それ以来20年(正確にはそれより少し前ですが)から様々な規制緩和改革を日本では進めて来ました。
ですが、それで日本経済が少しでも改善したでしょうか?
日本国民の暮らしが少しでも楽になったでしょうか?
 
日銀総裁が示した物価上昇目標も棚上げし、実質賃金もほとんど伸びず、社会の格差は拡大。これっぽっちも社会情勢は良くなっていません(実は「規制緩和」とは総じてデフレ促進政策なので、そんな改革でデフレを脱却できる訳がないのですが)。
結局我々はこの20年、いえ30年の間「努力すればいつかは報われる」と思い込みながら、実のところその努力の意味を考えもせず「理屈は分からんけど、とにかく精一杯頑張れば状況は改善するんだーー!!」という“努力信奉主義”を盲信しながら、脇目も振らず、努力の意味も考えずにひたすらに走り続けてきたのです。
 
そのような情緒に訴えかける政策方針に惑わされることなく、問題を解決するために正しい努力をするためにはどうすれば良いのか?
 
私はやはり「知ること」しかないと思います。
あるいは「知ろうと努力すること」です。
 
問題の根幹がどこにあるのかを見極め、それに相応しい解決方法が何なのかを判断するためには、「誰かがこう言っているから」ではなく、自分たちを取り巻く環境を理解するための知識を自分自身で貪欲に取り入れようと努力すること。そして、その姿勢を持続させること。それに尽きるのではないかと。
 
確かに現実社会で生きていて、家族との生活を支えている人間には、大変な作業です。
でも、そこを諦めてしまったら試合終了なのです。
自分の価値観を常に見つめ直し、アップデートすることを怠ったら時、その時まさに政府やあるいは狡猾なポピュリストたちがその瞬間を狙って私たちを扇動しようとするのですから。
 

これは私自身にも言い聞かせていることでもあるし、そういうことを他の人にも知ってもらうために少しでも自分ができることをやり続けるということが、このブログを書き綴る目的でもあります。

 

絶望は愚者の結論である。

どのような状況でも絶望する訳にはいきません。

 

 今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

 

消費増税という絶望の選択。増税を促したのは誰か?

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「絶望とは愚者の結論である」
 
これは19世紀のイギリスの政治家ベンジャミン・ディズレーリの言葉です。
歴史に残る明言の一つ。
 
・・・ですが、そうは言ってもここまで愚かな選択をされると絶望したくもなりますぜ!ディズレーリの旦那よーー! (ジョジ◯の奇妙な冒険のスピードワゴン風)
 
何のことかと言われれば、言わずもがな、一昨日安倍首相が表明した消費税の10%への引き上げです。
 
麻生副総理や黒田日銀総裁
 
「5% > 8%の増税の時ほどの影響はない! ( ・`ω・´)キリッ」
 
とか世迷言を言っているようですが、正に寝言は寝てから言え! です。
 
本当に影響がないと思っているのだったら、クレジットカードで買ったら2%分ポイントつけるとか、軽減税率を導入するとかいった“対策”を打つ必要はないはずです。「そのような対策をしなければ景気に(あるいは選挙に)多大な影響が出る」と分かっているから、そのような対策を講じるのです。
 
もう一度言いましょう。
 
寝言は寝てから言え! (# ゚Д゚) ムッカー
 
・・・・という怒りで満ちている私ですが、その一方で考えなければならないことが2つあることも分かっています。
 
一つはもはや首相が表明してしまった以上、この決定を覆すのはほぼ不可能です。であれば、この増税によるインパクトを是正するために何をなすべきかを考えること。
 
そしてもう一つ。
それはこのような愚かな選択をなぜしてしまったのか。その構造をもう一度考えることです。もちろんそれはさらなる愚策を講じないために、です。
 
※最初に書いておきますが、私は安倍政権や自民党を擁護するつもりはこれっぽっちも、微塵もありませんので、その点はご理解の上ご覧ください。
 
誤解を恐れずに言いますが、私は安倍政権への批判だけしていても仕方がないと思っています。勿論、政権を担当している訳ですから、その方針が間違っていれば批判すること自体は構わないのです。
ですが、私は安倍政権を批判し続ければ問題が解決するとも思えません(特に経済政策において)。
 

野党の時は反対し、政権につくと賛成する。それが消費税

思い出して頂きたいのですが、自民党が野党で民主党が与党だった時、安倍総裁や麻生氏は消費増税に反対していました。逆に当時与党だった民主党の方が消費増税を進めようとしていたのです。
その後、消費増税に反対する姿勢を示した自民党民主党を破り、再び与党に返り咲きました。しかし、その期待を裏切り自民党政権は2014年4月に8%への増税を実施しました。
さらに言うと、そもそも民主党が与党になる前も「消費増税反対」を旗印に選挙を戦い、政権の座についたのです。
 
つまり、消費税の増税とは実は安倍政権がどうとか、民主党政権がどうとか、というよりも
 
野党になると反対し、与党になると賛成する
 
という構造なのです。
 
私が安倍政権の批判“だけ”をしていても仕方がないと思っているのは正にここです。
この構造そのものが問題な訳で、そこに乗っかっただけの安倍政権を批判し、仮に選挙で大敗させたとしても根本的な解決にはならない。私はそう思っています。
※繰り返しますが、私は安倍政権を批判するなとか言ってませんよ。実際に引き上げを判断したのは安倍政権ですからね。その責任は充分にある。
 

組織において絶対的権力を持つのは予算を握る者

では、この構造を生み出しているものは何か?
それは他でもない財務省です。
どの組織でもそうですが予算を握る者が全てを握ります。
ましてや財務省は日本の中でも有数の(学歴上の)エリートが揃う巨大な組織です。そんじょそこらの政治家がちょっと経済の勉強をしたからと言って、理論で彼らをねじ伏せることはできないでしょう。
 
しかし、実は財務省の官僚のほとんどは法学部出身で経済の勉強などほとんどしたことがない“経済には素人”たちなのです。経済は何も勉強していないけどいわゆる“勉強”だけはできる素人たちが、現在の経済学において主流派と呼ばれる新古典派の学者から入れ知恵された知識で考え出しているのがほとんどの経済政策なのです。
もちろん、主流派による経済学が正しいのであれば何も問題はありません。ですが、彼らの経済政策とは「人間とは理性的な生き物であり、正しい情報が共有されればみんな正しい道を進む。だから、みんな自由に競争できる世の中にすれば経済は自動的に発展するのだ」という子供のように自由を信奉する(経済学史的には)特殊な学派なのです。
 
そんな人達に入れ知恵をされているものですから、財務省が打ち出す経済政策というのは、どれほど難しい言葉で表現されていたとしても、現実に国民が生きる社会を何も知らない学生が空想で考えた「正しいお金のつかい方」程度の机上の空論でしかないわけです。
 
本来であれば、現実社会を知らない官僚達の机上の理論の空虚さを政治家が吹き飛ばすべきなのですが、「世間の生きる知恵」よりも「学校で学んだ理論」に理解を示す“良い子ちゃん政治家”がはびこってしまったために、財務省の官僚達にやり込められてしまっているのが現状なのです。
そして、何より国民の多くがそのような財務省の“現実離れした机上の理論”を「偉い人たちが言ってるんだからそうなんだろう」と無批判に受け入れてしまっていることが、政治家から現実社会に根差したまともな判断能力を薄れさせてしまっているのです。
 
(どのような政党であろうが)与党が財務省の現実離れした机上の空論に“教育”され、財務省の望む通りの経済運営を行うという構造が存在し続ける限り、今回の消費増税のような愚策は何度でも繰り返される。
まずはそのことを認識することが、私達が自分たちの生活に関わる経済政策をより真っ当なものにしていく上で、なすべきことではないかと思うのです。
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

書店のアミューズメントパーク化は、”本との出会い”をアクセサリー化しているだけではないか?

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先日とある用事で近畿地方滋賀県に行ってきました。

滋賀県と言えば琵琶湖。琵琶湖と言えば滋賀県。(滋賀県出身の方には怒られそうですが)もはや滋賀県よりも琵琶湖の方が有名と言っても過言では・・・・・(以下略)。

少なくとも「滋賀県=琵琶湖」くらい琵琶湖のイメージが強く、琵琶湖がすごく大きいというイメージがあるため滋賀県のほとんどが琵琶湖なんじゃないかと思ってしまいます。

ところが、以前滋賀県出身の方に聞いたのですが、県外の方からのそういう疑問に答えられるように、滋賀県の学校(小学校かな???)では滋賀県の面積の内のどれくらいを琵琶湖が占めているのかを生徒に教えているそうです。

恐るべし琵琶湖!!

(ちょっとお年を召した方だったので今は違うかもしれませんが)。

 

それによると何と琵琶湖面積は滋賀県の「1/6」だそうです。

え・・・何かちょっと意外・・・。ほとんど・・・いやせめて半分くらいは琵琶湖かと思っていましたが。滋賀県民の皆様、大変失礼致しましたm(_ _)m

 

さておき。

特に遠出が好きというわけでもない私は、折角他県に行ったのなら必ずと言って良いほど行く場所があります。

それはズバリ! 本屋さんです!

 

本屋なんかどこでも一緒だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、陳列や本のラインナップを見ると、案外そのお店ごとの特色が出ていてなかなか面白いものです。「こんなマイナーな本を置いてるなんて、店主と気が合いそうだな」とか(笑)。

 ですので、普段行かないところに行くととりあえず近場にどんな本屋があるのかを探してしまうのです。

 

 今回はどちらに行ったかと言うと…スケジュールの都合もあってTSUTAYAブックストアです!(笑)。「結局TUTAYAかよwww」とか言わないで〜〜(笑)。

今回行ったTUTAYAは最近増えているカフェとか雑貨屋と融合した新業態店舗のTUTAYA。本屋に行くと最低でも一時間は長居してしまう私にとっては、この手の座ってじっくり読めるスペースがある本屋は大歓迎です.

 

 

大歓迎なんですが・・・・気になっていることがあるのも事実なのです。

それはズバリ、このような新業態店舗が「人が本と出会う場をアミューズメントパーク化することで、自分が知らなかった世界や知識に接する知的興奮を逆に削いでいるのではないか?」ということです。

 

なぜそう思うかと言いますと、本屋をカフェや雑貨といったおしゃれなお店と融合させることで若者に受け入れられるオシャレ感の演出には効果があるのですが、「本屋で過ごす」という時間を“知的雰囲気を演出するアクセサリー化”させているのではないか?という気がするのです。

 

今でもまだ健在ですが、一昔前は本屋と言えば街の片隅で本棚に本がズラリと並んでいて、基本立ち読みご法度。雑誌はさておき、いわゆる書籍コーナーについては知的好奇心の旺盛な人が立ち寄る、ちょっとだけ特別な空間でした。

それがWebの発展により紙媒体の流通が減り、さらにスマホの普及により本を読むよりもスマホをいじる人が増えたことで、そういった街の本屋さんの数は大分減少しました。

 

そこにこのようなお洒落な業態の店舗が参入してきたことで、今まで本屋に来なかったような人が訪れるようになっています。

確かに様々な店舗が一つの空間に収まることで集客という相乗効果はあるように思います。ですが、それは「本と出会うという知的好奇心を満たす空間」としての本屋の発展というよりも、“オシャレ”をキーワードにカフェや雑貨と本を空間的につなぎ合わせただけの“アミューズメントパーク化”させただけではないかと思うのです。

 

実際に店舗に入ってみるとそのような場所で特に本を読むわけでもなく井戸端会議をやっていたり、勉強道具を持ち込んで勉強にふけったり、下手すれば学生が友達とスマホゲームに明け暮れて騒いでいたりするわけです。じっくり本を吟味したい本好きにとっては、むしろ雑音が増えて本に集中できなくなってしまったようにすら感じるのです。

 

確かにビジネスとしては成功している面もあるかもしれません。ですが、そのようなアミューズメントパーク化、そして本との出会いを“知的な雰囲気を感じさせるアクセサリー”とすることで、人生を豊かにするという本の本来の魅力を削ぐことにならないだろうか。

そのような危惧を最近の新業態店舗の隆盛に感じざるを得ないのです。

 

 今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

すぐに「コスパ、コスパ」という人間は、大人になることから逃げている子供に過ぎない

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みなさん家電量販店とか本屋とかに行くと、決まって目を通すコーナーってあるのではないでしょうか。例えば男性が家電量販店に行ったらパソコンコーナーとか、女性が本屋に行ったファッション誌とか。
どういうコーナーに行くかは人によって様々だと思いますが、大体は趣味や仕事の関係上興味があるものではないかと思います。
 
私の場合、家電量販店に行くと大体音楽用のヘッドフォンやイヤホンのコーナーに行きます。理由は二つありまして、ひとつは趣味で音楽をやっているので、やっぱり音質にはこだわらないとね!ということ(まぁ、そう言いつつ普段はほとんどiPhone標準のイヤホンなんですけどね(笑))。
もう一つは仕事で広告やパッケージを作っているので、ヘッドフォンのパッケージや印刷物を見て参考にするためです。
 
ヘッドフォンとかにこだわる人は比較的若い人が多いので、今の流行見るのに参考になるのですよ。
 
で。
この前とある東の方に急ぐハンドっぽいお店に行った時に、ヘッドフォンコーナーに行ったのですが、何気なく陳列を見ていたら「2018年コスパ賞受賞」という文字が。
 
コスパ賞⁈
なんじゃそりゃ?
 
 「グッドデザイン賞」というものを見かけたことがある人も多いと思いますが、あれと同じような感じですね。
 
日本ではコスパ、すなわちコストパフォーマンスは、支払ったお金に対して、大きい効果が得られる物というように解釈され「ハイ・コストパフォーマンスモデル」などという言葉まであります。
 
最近では、結婚や子供を作ることに対しても「コスパ」で語られることすらあるようですが、このコスパ至上主義のご時世は何なんなのかと思ってしまいます。
 

コスパが良い」は日本語である

勘違いされるケースが多いのですが、そもそも「コスパ(コストパフォーマンス)が良い」という言葉は英語にはありません。外国人に「High cost performance」とか「Good cost performance」と言っても通じません。
 
以前アメリカ人に英文の校正を依頼した際に、私が「High cost performance model」と説明したところ、爆笑されまして
 
「そんな英語はないよ! cost performanceという言葉自体が安物を表す時の表現だから、それがhighだとかgoodだとか言うことはナンセンスだ。日本人は面白いことを考えるな(笑)」
 
と言われて、実に恥ずかしい思いをしました。
 
したがって、私は「コスパが良い」とか「コスパが悪い」というのは、日本独特のある考え方の中で生まれた表現なのではないかと思っています。ではその考え方というのは何なのか?
それは“他の皆と同じ価値基準の下で、物事の価値を判断したい、あるいはそうすることに安心感を得る”という考え方です。言い換えると、
 
“自分独自の価値基準で物事の価値を測るのではなく、世間一般に共有されている(と思われる)価値基準で価値を測る”
 
という考え方です。
 
 
ちょっと「コスパ」との関係が分かりにくい気がしますので、もうちょっと詳しく書きます。
日本でコスパとは、いわゆる“費用対効果”の意味で使われていると思います。結婚や出産/育児で考えると分かりやすいのですが、結婚とか出産/育児にかかる費用とそこから得られる効果(パフォーマンス)というのは一概に測ることができません。「どんなに仕事で疲れても、我が子の笑顔を見るだけで満たされる」という人もいれば、仕事もせずにぐーたらして、挙句の果てに子供が言うことを聞かないからと虐待する人もいます。
 
その違いが生まれる原因とは何でしょうか?
当然収入面などもあるでしょう。ですが、AmazonとかMicrosoftの社長一家とかいった極端な例を出さなければ、経済的に豊かになれば家計に占める家族への出費の割合がそれだけ減る訳ではありません。豊かになった分だけ、出費も増えるのが普通です。
 
そうではなくて、そのような家族との生活に幸/不幸の違いが出るのは、“いくら払うか”という費用重視ではなく、“その生活から何を、どれだけ得られるか”という効果をどれだけ引き出せるかという考え方の違いが原因なのではないでしょうか。
つまり、家族との生活が満たされたものになるかどうかは、自分が支払った労力やお金に対して回収率が良いか?というお金の話ではなく、得られたものや体験にどれ程の価値を見出せるか?の違いにあるということです。
 
しかし、そのような価値を引き出せるかどうかは、その人間の力量や人としての器に関わってきます。つまりその人の人生観や生き方など「個人の価値観」によるところが大きいということ。したがって、結婚や出産/子育てにどのようなパフォーマンスを見いだせるかを経費という観点から考えること自体がナンセンスなのです。
 
 

コスパ信仰に頼ってたら大人になれないぞ 

翻って、最初に挙げたイヤホンのコスパとは何でしょうか?
コストはその商品を買うためのお金でしょうが、パフォーマンスとは何でしょうか? 音質の良さでしょうか?
多分そういう意味での「コスパ」なんでしょうが、私から言わせればそれすらもナンセンスです。はっきり言って、どういう音が良い音かなんて人によって違います。いわゆるデジタルのクリアな音が良いという人もいれば、アナログ・レコードのようなくぐもった音を味があるという人もいるでしょう。
また、同じ人物でもその時の気持ちや空間、誰と一緒に聴くかなどで「良い音」かどうかの価値基準も変わってくるのです。さらに言えば、時代や社会情勢、音を解析し再構築する技術的な進歩によっても変わってきます。
いついかなる時にも通用する“絶対的な良い音”などという物は存在しません。それは幻想です。
したがって、先程の結婚や子育ての話と同様、払った費用によってその価値を測るのではなく、自分がその商品にどのような価値を求め、どれだけの価値を引き出せるのか? それこそが重要な考え方なはずなのです。
 
しかし、そのような「考え方」を身につけるのは非常に労力がかかります。自分が「何を、どう求めているのか」という問いに、いちいち向き合わなくてはならないからです。そこに出てくるのが「コスパ信仰」です。
コスパとは「お金を支払う=経費という概念から価値を計算する」という方式のこと。すなわちそれは“日本円”という日本社会で広く共有される一つの価値基準によって、すべての物事の価値量を測るということ。それが日本で広まっているコスパ信仰です。
 
それは、自分独自の価値観を創り上げることなく、社会・・・いえ国家によって用意された価値基準ですべての価値を測る行為です。価値観の体系は既に作り上げられており、その価値体系の下に「あれはコスパが良い。これはコスパが悪い。」と好き勝手に言うだけの行為です。本来ならば「自分の価値基準ではこうだから、あれは認められない。これは認められる。」という判断をしていかなければならないはずですが、「これが1,000円。あれが10,000円。」と価値体系がすでに作り上げられた社会の中で、それを正しいと無批判に受け入れて「だったらそれは5,000円じゃない?」と判断しているに過ぎません。
つまり自分独自の価値基準というものを持たずに、社会で流通している価値基準に依存して「コスパ」という概念で、物事の価値観を判断した気になっているだけなのです。
 
そこには何の責任も生じませんし、自分の価値基準で判断するという労力も必要ありません。責任を持たずに個人的な感想を述べるだけ。非常に楽な作業ではあります。一つ一つの物事に自分独自の価値基準を当てはめて考えるということに比べれば、圧倒的に効率的でしょう。ですが、長期的に見てそれが本当に正しいことなのでしょうか?
 
コスパという判断基準ですべての物事を“計算”しているかのように、偉そうな態度を取っていても、結局それは自分独自の価値基準を築き上げ、その基準に基づいた判断に責任を取るという一人の大人としてあるべき姿から逃げているだけはないでしょうか。人から与えて貰った価値基準で物事を無責任に切りまくるだけの子供じみた生き方以外の何物でもないように私には思えるのです。
 
人間は人生のどこかで「正解のない問いに対し、自分独自の価値基準に基づいて判断を下さなければならない」という時に必ず遭遇します。
そして、そういう時にこそその人が持つ本来の力量というか器が示されるのです。「コスパ信仰」に頼っていては、そのような状況に陥った時に責任ある大人としての力量を示すことができないのではないでしょうか。
私は今の日本に蔓延するコスパ信仰が、人を責任のある大人として成長させる機会をどんどん失わせていっているような気がしてなりません。
 
 
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

自分の無知を認めるのは恥ずかしい。でもその先にこそ学ぶべきものがある。

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突然ですが質問です。

「入門書」と書いてある本を買うのって恥ずかしくないですか?

 

私はね・・・恥ずかしいですww (〃∇〃)

特に自分が“それなりに”知識があって多少なりとも自分の意見を表明できる分野において、「入門書」とタイトルに書いてある物を買うのは。そんなことは絶対ないのですが、本屋のレジ打ちの人に「ぷぷっ! こいつこんな入門書買ってやんのww」とか思われるんじゃないかと思って、いつもレジに持っていくのを躊躇します。

ちっちゃいプライドですね〜。あ〜、せこい、せこい(笑)。

 

そんな私の手元に今2冊の入門書があります。

 

若森みどり著「カール・ポランニーの経済学入門 -ポスト新自由主義時代の思想-」

中村隆之著「はじめての経済思想史 -アダム・スミスから現代まで-」

 

です。

二冊目の「はじめての経済思想史」の方はタイトルに「入門書」の文字はありませんが、帯にめちゃくちゃでかく「決定版入門書!」って書いてありますからね! どんだけ入門したいねん!! っていうww

 

でも、これらが二冊とも案外手強くて面白い。

入門書だからと言って馬鹿にできない奥の深さと、入門書ならではの間口の広さが魅力ですが、実はこの二冊を読んで気付いたことがあります。

 

それはそもそも私が「入門書」という物の意味を勘違いしていたことです。

冒頭に書いた通り私は入門書を買うのはちょっと恥ずかしいと思っていました。なぜなら「入門書 = 知識がない人向けの本」だと思っていたからです。でも、この本を読んで気付いたのですが、それは私の思い違いでした。

 

私がこれらの本を読んで思ったのは、“良い入門書”というのはそれを読んだ専門外の人が「もっと知りたい」「他の本も読んでみたい」と“入門したくなるような書”なのだということです。

これは言葉で書けば簡単ですが、実際に形にするのは非常に難しいことです。

 

入門したくなるような動機づけを行うためには、どこかの高みから専門知識を駆使して「お前は分かってないだろうけど、これはこういう事なんだよ」というような書き手の精神が少しでも感じられたら、誰の心を掴むことはできません。

よくある“悪い入門書”では専門知識を専門用語のオンパレードで説明するケースが多いですが、専門知識とはそもそもそれを理解している専門の人たちがお互いにより早く、より効率的にコミュニケーションをとるために必要なツールでしかありません。それを専門外の人に「理解させよう」「理解して当然だ」という態度で臨むことがそもそも間違いなのではないでしょうか。

それは門の前を訪れた人の首根っこにロープを引っ掛けて「こっちに来いやーー!」と引きずるような行為であり、入門どころか二度と門を見たくなくなるようなトラウマを与えてしまう行動ではないかと思うのです。

 

良い入門書とはそうではなくて、初めてその門の前に立つ門外漢にも、その人と同じ視点で、同じ方向を見ながら手を携えて道案内をしてくれる人ではないかと思います。

もちろん、単なる道案内をしてくれるだけではなく、普通の人が価値を見出さないような道に転がった小さな石でさえも、実は見方を変えれば非常に大切な価値があるというような、新しい世界の見方、新しい世界の楽しみ方を教えてくれる。

そんな優れた道案内人こそが“優れた入門書”ではないか・・・そんな風にこれらの本を読んで感じました。

 

気付いてしまえば当たり前のように感じるのですが、私はそんな事すら考えずに入門書を買うことにちょっとした恥ずかしさを覚えていたのです。あ〜本当に自分が嫌になる(TдT)

 

その上もっと恥ずかしいことに、この入門書があまりに分かりやすく書いてあるため、私がいざ読書レビューを書こうと思っても、この本以上に著者が言いたいことを簡潔にまとめ上げる力量が自分にはないことに気付いてしまいました。

つまり

 

「入門書を買うなんて恥ずかしい」

 

とか言っておきながら、いざ「じゃあ、その入門書にどんなことが書いてあるのか簡潔に説明してみろよ」と言われたら、

 

「いや、まぁ、それはさ・・・色々面白いことが書いてあるよ。うん。」

 

くらいのことしか言えない自分の実力を思い知ったのです・・・(´・ω・`)

 

 

でも・・・そんな等身大の自分の実力を知ることができたのも、これらの本を読んだからです。どんなに頭の中で偉そうなことを考えても、ちゃんとそれを他の人の意見と立ち向かわせて精査しなければ、それを磨くことはできない。

どんなに知識と経験を積んでも、「入門書」を堂々と買えるような良い意味でのプライドのなさをちゃんと持っておくことも大事。そのような恥を乗り越えた先にこそ、本当に学ぶべきものがあるのだということを今回痛烈に感じたのでありました。

 

何かちゃんと締まらないな・・・。すみません(笑)。

このお詫びはこれらの入門書のレビューをしっかり書き上げることで果たしたいと思います!!! (・∀・)

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

「あと2ヶ月で“人類の未来”が決まってしまう」という事実を日本人のほとんどが知らない。

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すみません!  m(_ _)m

いきなり全力で謝罪しますが、今回のブログのタイトルはとある記事から「インスパイア(Inspire/触発) 」された言葉でございます。ちょ、ちょっと「パク◯」とか言わないで! あくまでインスパイアです!

 

でも、今回の投稿の内容を一番分かりやすく表現するのは、この言葉しか思い付きませんでした。それは下記の山下 了 (やました とおる) 東京大学特任教授の記事の冒頭部です。

※記事をご紹介しますので「インスパイアー罪」(笑)の適用はご勘弁をm(_ _)m

 

私のブログでは何度か取り上げておりますが、取り上げても取り上げてもその価値を伝えることができないほど、日本にとって・・・いえ、人類にとってとてつもなく重要なプロジェクト「国際リニアコライダー」こと「ILC (International Linear Clider)」に関する非常に重要な記事です。

 

いや、そこのあなた! そんなに引かないで! ちょっとばかりお立ち寄りくださいよ! (笑)

 

ILC (国際リニアコライダー)とは何か?

国際リニアコライダー (略称: ILC)とは、実は日本への誘致が進められている超大規模な国際的科学技術プロジェクトの名前です。

これが実現されるかどうかで、日本、いえ人類の100年先の未来が決まると言っても過言ではないほどの超重要プロジェクト。

どういうプロジェクトかと言いますと・・・

 

国際リニアコライダー(ILC)は、49の国と地域の300以上の大学や研究所の科学者やエンジニア2,400人以上が参加する国際的な取り組み。

全長約20km、絶対零度に近い超低温に保たれた超伝導加速器空洞(トンネル)を岩手県の地下に建設する。

そのトンネルの両端から中心に向けて電子と陽電子を加速させて発射。電子と陽電子のビームが1秒間に約7,000回、250ギガ電子ボルト(GeV)の重心系衝突エネルギーで衝突し、大量の新たな粒子が生成させることで宇宙開闢(かいびゃく)の謎を解き明かすプロジェクト。” 

 

です。

分かりませんよね?

大丈夫です。

私もほとんど分かってませんから!!!(笑)

 

細かい仕組みはさておき、この件に関しては下記のことを理解して貰えば充分です。

それは記事の中で山下特任教授が書いておられるように

 

MRIなどの先端医療、WWWに代表される情報技術も素粒子研究がベースとなっており、ILCができればこれらが格段に進歩する可能性がある。また、日本に「世界トップクラスの科学都市」が誕生するので、復興支援や経済効果といった実益的な面はもちろん、そこに集う科学者たちの研究に取り組む姿や、科学の不思議さ、面白さを通じて、日本の未来を担う子供たちに、これまでと比べ物にならないスケールの大きな「夢」を見せることができる

ということです。

 

なぜ日本なのか?

では、そのような超重要なプロジェクトがなぜ日本で行われるのか?

この素粒子加速器とは人間の髪の毛よりもはるかに小さい領域に200億の電子または陽電子が集中させるというとてつもない技術が必要になります。このILCを建設できる技術があるのは日本だけなのです。

しかも、これは日本が勝手に主張しているのではありません。

加速器に必要な超精密機器を製造することが可能な企業が日本には数多くあり、地下の岩盤も強固。「国際的研究者が世界中の候補地を見て、北上サイトが一番適切な所とした判断している」のです。

 

実際、山下教授の記事にもあるように、10年以上の議論と検討の結果、欧州、米国、アジアの研究者から「日本にリーダシップを取って欲しい」と言われてきました。しかし、いまだにこのプロジェクトが実行されていないのです。

日本には技術もあり、適切な土地もあり、そして世界中の研究者から「日本にやって欲しい」と望まれているにも関わらず、です。

 

なんとその理由は

 

「日本は財政赤字だから」

 

だそうです・・・・。もうね・・・情けなくて涙がちょちょ切れます。

 

そもそもこのような長期的な国際プロジェクトを「税金」で賄おうという考え方が異常なのです。ILCの素粒子物理学に代表されるような研究は、いわゆる「基礎研究」でありそれ自体が何かの利益を直接生み出すことはまれです。10年、20年、下手すればそれ以上の長期的期間の地道な研究により、そして他の基礎研究とのコンビネーションによって成果を生み出すことができるものです。

そのような長期的な成果は予測しようがないのですから、「今年の税金でまかなえる分だけで何とかする」というような単年度で費用対効果を見るような考え方自体がナンセンスなのです。

 

普通に建設国債などの国債を財源にあてれば良いだけの話です。

欧州も米国もどこもやってますよ。そんなこと。

 

なぜタイムリミットがあと2ヶ月なのか?

これは山下教授の記事を見て頂くと詳しい事情が書いてありますので、ぜひご覧頂きたいのですが、簡単に言うと、欧州では2020年から素粒子物理学の次期戦略を開始するので、そこにILCへの取り組みを盛り込んでもらうためには、今年の年末がタイムリミットだからです。

 

そもそも日本は2013年からずっと世界中から「日本にやって欲しい」と望まれていたのに、

 

「やらないとは言ってませんよ。前向きに、非常〜〜に前向きに検討してます」

「やります! ・・・と言いたいんだけど、ちょっと色々あってね・・・ゴニョゴニョ」

 

という調子で誤魔化し続けてきた訳です。

それを今になって「ごめん。やっぱり金ないから無理だわww」とか言ったら、それこそ日本の“国際的信用”とやらは地に落ちるでしょう。

 

科学技術の発展とは費用対効果で図れるものではない。

そもそも科学技術の発展というものは、「これだけ投資したから、これだけの収益や成果が見込める」など費用対効果が計算可能な世界ではありません。
 
例えば、皆さんが普段使っているWebサイトですが、これもCERN(セルン。欧州原子核研究機構)というスイスにある研究機関が、自分たちの情報をやり取りするために構築したシステムが元になっています。
しかし、別に彼らはそのシステムを構築するためにCERNを作ったわけではありません。
 
また、私達がしょっちゅう使っているGoogle MapなどのGPSを使用した機能などは、アインシュタイン相対性理論がなければ正確な距離や位置を測定することはできません。
しかし、アインシュタインGPSという機能を開発しようとして、相対性理論を考案したのでしょうか?
そんなことは断じてありません。
アインシュタイン相対性理論を構築したのは、重力というものの秘密を解き明かすためであり、相対性理論を構築することでGPSを開発できることを分かっていたからではありません。基礎研究に対して成果を求めることは、そのような原因と結果を完全に取り違えているのです。
 
どのような成果が得られるかは、偶然によることが大きいのです。

それを予め予測でき、費用に対してどれだけの成果を得られるかを計算できるとし、そのような“損をしない分野”にだけ投資しようとする考え方は、これまで人類が数多くの困難や試練を乗り越えてきた歴史を否定する浅ましい態度ではないかと思います。

 

人類の分岐点まであと2ヶ月!!

日本政府が真っ当な選択をすることを私は祈っています!!

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

100年前の「茶の本」が教えてくれる、“クール・ジャパン”が全然クールじゃない件。

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いきなりブチ込みますが、私ははっきり言って

 

クールジャパン戦略とやらが大っっっ嫌いです!! (笑)

 

そもそも名前がダサすぎる。「Cool」とか普通自分で言うことじゃないですし、横文字で言えば格好良い! と思っている幼稚な精神性がもう同じ日本人として恥ずかしすぎるww

おそ松くんに出てくるイヤミというキャラクターが言う「ミーは」とか「おフランスでは〜」とかと同じレベルを、ギャグではなく真剣にやっているのが痛すぎてもう見るのが辛いです。

 

もはや私にとってクールジャパンは「生理的に無理」なレベルで受け付けられないのですが、今回私がなぜそれほどまでに「クールジャパン」とやらを嫌うのか、その理由が分かる本に巡り会いました。

それは20世紀初頭に岡倉覚三こと岡倉天心が「茶道とはなんぞや?」を説明するために書いた「茶の本」です。今回はこの本についてのレビューをお届けします。

相変わらず前置き長www

 

そもそもクールジャパン戦略とは何か

内閣府のHPではクールジャパン戦略について説明をしているページがあります。

そこで発表している「クールジャパン戦略の狙い」によると、クールジャパンとは

◎クールジャパンは、外国人がクールととらえる日本の魅力(アニメ、マンガ、ゲーム等のコンテンツ、ファッション、食、伝統文化、デザイン、ロボットや環境技術など)。

◎クールジャパン戦略は、クールジャパンの、(1)情報発信、(2)海外への商品・サービス展開、(3)インバウンドの国内消費の各段階をより効果的に展開し、世界の成長を取り込むことで、日本の経済成長につなげるブランド戦略。

なんだそうです。

その他にもHPを見ると色々な具体的方策が書いてあるのですが、一言で言うと

 

「海外でクールと思われている日本のコンテンツを使って、もっと売上を伸ばしましょう」

 

ということです。

 

自分達が持てる財産をフルに活用して自分たちの利益に資する(お金だけの話ではなく、政治的な利益だったり、国民生活の充実だったり、広い意味での国家の利益にかなうという意味で)ことは、それ自体は何も問題ありません。むしろ、国家が戦略的に行っていくべきことでしょう。

 

ただ、私が強烈に違和感を感じるのは、このクールジャパン戦略とやらに

「なぜ日本の文化がクールだと受け止められているか」

「日本文化のどういう所がクールだと受け止められているか」

についての考察が全くなされていないことです。

それはつまり「海外の文化にはない、日本の文化の独自性とどこにあるのか?」という考察がなされていないということを意味します。

 

その考察がない以上、結局この話は「何かよく分からんけど、日本文化がビジネスチャンスになるらしいから、その流れに乗ってガンガン行こうぜ!」。その程度の話でしかありません。

現在はまだアニメ産業なども日本の優位性が辛うじて保たれていますが、中国の隆盛を考えればいつその優位性が崩れても不思議ではありません。勢いがある現在は物量作戦と力技で何とかなるかもしれませんが、将来的に永続できる展開を考えると、その根源的な理由である「日本の文化の独自性」がつかめていなければ、近い将来行き詰まってしまうでしょう。

自分たちの文化を発信し続けるためには、「そもそも自分たちは何者なのか?」という問いから逃げることはできないのです。

 

その意味において、今のクールジャパン戦略はその根源的な問いに立ち向かうことなく、目先の利益をいかに多く手に入れるかだけしか考えていない、非常に近視眼的な戦略のようにしか思えません。

 その「日本の文化の独自性とはどこにあるのか?」。それに正面から立ち向かい、その答えを世界に示したのが、実はこの「茶の本」なのです。

 

なぜ「茶の本」が書かれたか?

この本が書かれたのは1906年

日本がロシアとの戦争、いわゆる日露戦争に勝利したことで世界から近代国家として認められるようになった時代です。非常に面白いのは、この本はもともと「英文」で書かれていた、ということです。

不思議ですよね。

日本人が書いた日本文化の紹介なのに、日本語ではなく英語で書かれているのか。実はこの本はもともと日本文化のことを詳しく知らない外国人に向けて書かれた本だからです。

 

この本が書かれた日本はようやく近代国家として歩みだしたところでしたたが、当時はまだ日本の伝統文化について国際的認知はありませんでした。単純に軍事力や法整備、社会制度が整うだけでは一人前の近代国家としては認められません。西洋文化という“進歩的な文化”から見れば、アジアの端っこにある国の文化などにおよそ「文化的な独自性」があるとは思われなかったのです。

そのような状況において、日本には昔から受け継がれてきた日本独自の文化があることを西洋に示し、近代国家としての地位を確立せしめんとして、岡倉天心はこの「茶の本」を書いたと言われています。

 

つまり、そのような背景で書かれたこの本は「茶の本」と銘打ちながらも、実は茶道の概略を示す説明書にとどまることなく、日本文化全般に関する独自の文明論になっています。その証拠に基本的には「茶道」を主軸としながらも、絵画や建築など日本文化を様々な側面から論じています。

当時諸外国から「日本は西洋の後追いをしているだけの底の浅い文化」という程度の認識しか持たれていなかった状況に対し、茶道をモチーフにしながら「日本文化に根差した精神性」を丁寧に説明することで、日本には長い年月の中で培った独自の文化性があることを世界に示したのです。 

 

この中で岡倉天心は日本文化の根幹を次のように言っています。それは

 

「不完全なもの」を崇拝する心にある

 

と。

岡倉天心自体は「茶道の要義は不完全のものを崇拝するにある」と書いていますが、この本が茶道に限定されない日本文化論であることを考えると、「日本文化は〜」と言い換えても問題ないと思います。

また、それを補足するようにして茶道(日本文化)とは「いわゆる人生という不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとする優しい企てである」と言っているのですが、これを私なりに言い換えると

 

「人生というものは完全なものではなく、不可解で苦しい道である。その人生を生きていく中で、不完全という何かが欠けた世界であるが故に、人に何かができる余地が残されている。そのような何かを成就しようと必至に生きる姿を崇拝する心が日本文化の要諦である」

 

という意味ではないかと思うのです。

 

この「不完全なものに対する崇拝」を表現するのに良い例が本書の中に書かれています。それは次のような茶人・千利休の逸話です。

 

千利休がその子紹安(じょうあん)が露地を掃除しているのを見ていた時のことです。

紹安が掃除を終えた時に利休は「まだ充分ではない」としてもう一度なおすように命じました。紹安が一時間ももう一度掃除し、完全に綺麗にした上で「もうこれ以上何もすることは残っていませんよ」と訴えたのです。そうしたところ利休は「露地の掃除はそんな風にするものではない」といって、庭にある木を揺すって紅葉の葉を庭一面に散らしたそうです。

 

もしかしたら「そんなのいじわる問題じゃないか」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、「完璧に綺麗にする掃除」では(お客さんを招く)庭の掃除としては完全ではない。その上で敢えて“崩す”という不完全さを演出することで、庭を訪れた客が自然の美しさに心を奪われる。そのような不完全さが生む趣を愛でる心。これこそが日本人独特の美しさであるということを岡倉天心は表現したかったのだと思います。

 

このような岡倉天心の日本文化に宿る精神性に対する理解力と、それを英文で書き上げる語学センスは今見てもずば抜けたものであると思います。

一方、現代の「クールジャパン戦略」とやらを省みると、そのような日本文化に対する理解や尊敬の念は皆無であり、単純に「日本文化が金になるらしい」という非常に軽薄な活動にしか私には思えません。

そのような自らの文化に対する軽薄さと、それを「クール」などという横文字で表現する圧倒的なセンスのなさは、逆の意味で恐るべきものがあります。クールなどという言葉で曖昧に表現する前に、今一度日本文化の源泉である精神性を再度検証することこそが、本当は必要なのではないでしょうか。

 

「クールジャパン活動」の前に日本文化の源泉をもう一度見つめ直せ

現代においても日本人は日本の伝統や文化の魅力、そしてその背後にある日本独自の精神性を説明することが不得手だと言われます。それは島国ならではの「場の空気」や「言葉の微妙なニュアンス」によって、明確に言語化しなくても伝えることがことができるという恵まれた意思伝達空間によって醸成されたものだと思います。

それには良い面と悪い面の両方があると思いますが、最近の・・・というか平成に入ってからの西洋文化、中でもアメリカ文化への傾倒。そして、その反対側で生まれている極端な日本文化礼賛を見ると、その悪い面が強く出ているのではないでしょうか。

つまり、自分たちの国の文化の背後にある精神性への無理解が、「日本文化離れ」と「日本文化礼賛」という両極端な現象を生んでいるということです。クールジャパン戦略は後者の好例です。

 

私個人は日本文化の精神性・・・特にこの「茶の本」で言われるような「不完全なもの」に対する崇拝や畏敬の念に対しては、心の奥底から染み出すような愛着を持っていますが、「日本人であるなら誰もがそのような心を持つべし」とかいうようなことを主張するつもりはありません。

「それが嫌なんだよ」という人もいるでしょう。

 

しかし、日本文化に対する感情が「愛」と「憎」どちらに傾くとしても、一度日本文化に正面から向き合ってその魅力を言語化してみるという作業を行ってみてもバチは当たらないと思います。どのような結論を導くにしても、そのような作業ができることこそが日本に生まれた人間の特権ですし、それを生かさないのは勿体ないのではないかと思うのです。

 

そして、そのような試みに少しでも興味があるのであれば、この「茶の本」はこれ以上ない教科書になるのではないかと思います。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆