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接客やサービスは“おもてなし“の本質ではない。もてなしとは「何をもって、何を成すのか」?

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昨日の投稿で

 

「今の日本は成長戦略という美辞麗句によって過去の遺産を切り売りしているだけではないか? そしてその切り売りする行為を“おもてなし”という言葉で誤魔化しているのではないか? 」

 

という話を書きました。

 

 

 

 

 

実はその時にもう一つ書きたかった話があるのですが、論点がゴチャゴチャになるので端折ってしまったことがあります。

そこで今日はその「昨日端折ってしまった話」を書いてみようかと。

 

どういう話かと言いますと、

 

そもそも現代のような“おもてなし”という言葉の使い方は間違っているんじゃないのか?

 

という話です。

 

これは「語源と違うのでは?」という意味もあるのですが、それだけではなくその言葉の根幹にある日本独自の価値観に根ざした意味とかけ離れてしまっているのでは?という意味です。

 

私は仕事で文字を書くこともやっていますが、言語学の専門家ではありません。

ですので、ここで書くことは多分に私の独自解釈でしかありません。

学術的な裏付けは何もありません <( ̄^ ̄)>

ですが、読んで頂ければきっと日本的な価値観の奥深さをもう一度考え直すきっかけにはなるのではないかと思いますので、生暖かい目で楽しんで頂ければ幸いですm(_ _)m

 

 

さて。

「語源としての意味を考えるのではない」と言いつつも、やはり語源は気になるもので(笑)。

 

ネットで調べると

 

「“裏表がない”の形が変わって“おもてなし”になった」

「モノを以って成し遂げる、の意味」

 

という解釈がよく出てきます。

 

「裏表なし」説はまぁ日本語の移り変わりという話ではよくありがちですが、それだったらむしろ「うらなし」になるのが普通な気がします。

おもてなし、だと、みんな裏ばっかりになって逆の意味ですからね。

 

次の「モノを以って成し遂げる」という説が多いように思いますが、私はこれはかなり違和感を覚えます。

そしてその違和感が私なりの「おもてなし」の本来の意味の解釈に繋がります。

 

「モノを以って成し遂げる」と言う場合、まず何を成し遂げるのでしょうか?

みなさんの説では「相手を喜ばせることを成し遂げる」というように書かれているようですが、本当でしょうか?

 

私はこの解釈はかなり西洋的な解釈のように思えてなりません。

西洋のような「自分」と「それ以外の人」が明確に分かれている世界観です。

 

その世界観は言語の一人称に如実に表れており、例えば英語では「私」はいつの時代でもどのようなシチュエーションでも「I」。

面と向かっている相手はいつの時代でも「You」です。

これは変わりません。

 

しかし、日本語では一人称は相手との関係性で変化します。

「私は〜」「俺は〜」「お父さんはね〜」とか、時代が変われば「拙者」とか「わらわ」とか、方言によっても違いますしね。

 

これは日本人が「確固たる自分」の前に社会との関係性で自分のことを認識していることの表れです。それは「相手に合わせる」というような話ではなく、「相手があり、周りの環境があり、それら全てが自分を形作っている」という全体の調和の中で自分という存在が規定されているという考え方です。

 

 そのような日本人にとって「モノによって相手を喜ばせるというミッションを成し遂げる」というような相手と自分が明確に分かれた価値観の言葉が生まれてくるとはとても思えないのです。

むしろ、自分が世界の一部であるように、相手もまたこの世界の一部であり、ともにこの世界の調和をなす存在という意味で全体の一部である。

その全体の調和を成すためにそれぞれが何をなすべきか? 

それを行動の規範に据えて状況に合わせた柔軟な対応をすること。それこそが日本的な美学ではないかと思います。

※この場合の調和とは「誰かと揉め事を起こさない」とか「事なかれ主義」とは全然違います。

この自然災害の総合デパートのような国土で生きる人として、自分の命だけでなく、社会全体が末永く続いていくために、利己主義的な狭い価値観にとらわれず、過去と未来を繋ぐ結節点として自分の存在を捉え判断するということです。

 

そのように考えると“もてなし”の「以って成す」とは、

 

「“自分という存在を以って、全体の調和を成す”ために、いかに行動すべきかを考える」

 

ということではないかと思うのです。

その方が今自分が生きている日本と、様々な古典や歴史的遺産から感じる日本に通じる日本らしさにぴったり来る気がするのです。

なんか抽象的な表現ですみません。

 

 

ですから、真心を込めて接するとか、相手を喜ばせるために期待を超えるようなサービスを提供するとか、そんなことはあくまで枝葉末節の話であり、上記のような意味での「もてなし」の本質にとっては単なる表層にしか過ぎないように思います。

 

そのように考えた時、現在の日本が成長戦略と銘打って行っている

 

・テーマパーク的な分かりやすい外観的な魅力

・交通やWi-Fiスポットなどの便利さ、快適さ

 

などは、本当の意味での日本のもてなしになっているのでしょうか。

 

それは「全体の調和をなす」ためのものではなく、やはり「どうでしょ? 日本凄いでしょ? Japan is cool でしょ? 喜んでくれるでしょ?」という“これだけしてるんだから喜んでるはずだ”という押し売りによって、外国人観光客の心情も含めた全体の調和を乱すものではないでしょうか?

 

もし相手が「日本人の実際の生活に宿った文化を感じたい」と思っているのであれば(多分欧米の方はそういう方が多いと思いますが)、むしろ「英語は通じない環境の方が良い!」という解釈もあり得るのです。

 

どんなに立派な箱や建物を作っても、多言語の取説や、洒落たキャッチコピーを考えても、それに見合った中身がなければ、ただの「きれいなパッケージ」に過ぎません。

それを作り上げることが“おもてなし”だと考えているのだとしたら、自分達の文化の真髄すら分かっていない人間が、自分たちの文化は凄い!と語るという何とも滑稽な姿ではないでしょうか?

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆