世界を救う読書

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被災者への「頑張って」は上から目線で、「頑張ろう」は被災者目線だから良いというのは本当か?

ひょんな事から知ったのですが、今年西日本に甚大な被害をもたらした豪雨によって落ち込んだ西日本の観光客の誘致を図るためJRが「頑張ろう!西日本キャンペーン」というものをやっているそうです。

 

 

そのような取り組み自体は良いことだと思います。

被災した土地の商品を購入することで、地域経済を活性化するという役割は確かに担えるし、それはビジネスにおいては重要なことです。
 
 
それは良いのですが、このキャンペーンに限らずここ数年の「頑張って」という表現から「頑張ろう」という表現への変更にかなり違和感を感じています。
 
確かこのような表現に変わり始めたのは、東日本大震災の後ではないかと記憶しています。
その時に、
 
“頑張って!というのはいささか上から目線な物言いだ。頑張ろう!というのは被災地の方との一体感が感じられるので、頑張ろうの方が良い表現だ”
 
というような意見がありました。
それ以来熊本の大地震にしろ、西日本豪雨にしろ、この前の大坂の台風にしろ、「頑張ろう!」という表現ばかりが目立ちます。応援すること自体はもちろん良いのです。やはり同じ日本人ですから、こういう時にこそ助け合わなくては! とは私も思います。
 
ですが、私はこの“頑張ろう”という「被災者との一体感を促進する言葉」がどうにも胡散臭く感じるのです。
 
確かに日本のような災害大国において、国民同士の助け合いの心というのは非常に大切です。日本という国土においては、南海トラフ地震を引き合いに出すまでもなく、ほぼ全ての地域においていかなる災害に襲われるか分かりません。
いざそのような事態になった時に助けてくれるのは、やはり同じ日本国民です。その時に日本国民同士に連帯感がなければ、たちまち日本という国は崩壊してしまいますし、より多くの命が犠牲になることでしょう。
 
それは事実です。
ですが、そうは言っても同じ日本国民だからと言って全ての感情を共有できるわけではありませんし、災害にあったと人達の全ての事情を慮る(おもんばかる)こともできません。人間はそれほど万能ではないのです。
 
「頑張ろう」は被災者と同じ目線で、「頑張っては上から目線」というのは、確かに耳触りが良い表現です。しかし、広島や熊本、東北に行ったこともない人が、その土地で何十年も…下手したら先祖代々何百年も暮らしている人達の悲しみを自分のことのように理解し、一緒に肩を組んで頑張ろう!などと言えるものでしょうか?
 
その悲しみや苦しみは、同じ国民とは言え所詮安楽な環境からメディアを通して"情報"を受け取っただけの他人が理解できるものではないと思います。
私は九州の出身ですので、熊本には何度か行ったことがあります。熊本城は町中に溶け込むような形で存在していて、観光としてのシンボルというようなものではありません。逆に私が住んでいる東海地方にある名古屋城なんかは場所も、その周りの街作りも完全に「観光用」として成立しているので、恐らく戦時中に空襲で焼ける前の名古屋城を知っている人でなければ、「心のシンボル」というほどの精神的な存在感はないと思います。
そういう意味では熊本城は本当に熊本県人の心の奥底に流れるアイデンティティの一角と言っても良いほどの存在感を放っています。そのような存在があのような状態になったことの衝撃は、恐らく同じ九州の人間でも全く想像がつきませんし、熊本に行ったことがない人でしたらなおさらではないでしょうか(それが悪いのではなく「仕方がない」ということです)。
 
したがって、私が当事者を目の前にしたらやはり「私にはその苦しみは想像もつかない。ですが、私にできることは協力しますので皆さんも頑張ってください。」としか言うことができません。
被災地に引っ越してそこに骨を埋める覚悟もなく、いざとなったら帰れる拠り所をちゃっかりキープしたままで、「一緒に頑張りましょう! 」などと言うのはおこがましいとしか思えないのです。
 
 
 
どれほど強く願っても人の人生を救うということは、とてつもない労力と責任が伴うことです。たとえ命を懸けたとしてもたった一人の人生を救うことができるかどうかさえ分かりません。命を懸けたごときで救えるほど、人の人生というものは軽くない。
私にも守るべき家族がいて、私の双肩にはその家族の生活と幸せを守るという役目が背負われています。それは被災者も同じことでしょう。
その大事な肩をひとつ被災者に預けて肩を組み、「一緒に頑張ろう!」などと言うことができるというのは、自分や自分が守るべき人達の人生を軽んじているか、被災者の人生を軽んじでいるかのどちらかではないかと私には思えてならないのです。
※もちろん本当にそこに骨を埋める覚悟で真剣に取り組んでいる方もいらっしゃるかと思いますが、そのような覚悟のある方は極々一部でしょう。
 
人間は全知全能ではない。
同じ国民でも分からないことはある。
それを理解できるかのような薄っぺらい一体感でもって、中途半端に被災者の方と共に頑張りましょうなどというのは、むしろその人たちの人生の重みを軽んじ、自分の力量に対して思い上がっているのではないでしょうか。
何でもかんでも共感すれば良いという訳ではない。人には人の分相応というものがあり、その線引きをしっかりわきまえた上で自分に何ができるのか?を考えた時、「一緒に頑張りましょう!」などとはとても言えないのではないかと思うのです。
 
 
 
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😊
 

 

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