世界を救う読書

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「空気読めない」は恐れなくて良い。空気の正体教えちゃる!(笑)

皆さん「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざをご存知でしょうか?

これは「幽霊だと思って恐がっていたが、落ち着いてよく見るとただの枯れたススキの穂だった」という話です。恐怖心や疑いの気持ちがあると、何でもないものまで恐ろしいものに見えることを喩えたものです。逆に言えば、恐ろしいと思っていたものも、正体を知ると何でもなくなるということのたとえとも言えます。

 

ここ10年くらいでしょうか。

「空気読め」「空気を読む力」「あいつは空気読めないからな」みたいに「空気が読めないことが悪いことだ」という意味で使われるようになり、そのことで多くの人を悩ませる言葉になっています。

ちなみに私の場合は逆に空気を読みすぎて何もできなくなってしまうタイプですので、空気が読めすぎるのも困ります(笑)。何事も”ほどほど”が良いというわけですね。

 

そんな読めなくても困る、読みすぎても困るという現代人を悩ませる”空気”を読むことについての悩みをちょっと軽くできる本を今日はご紹介します。

 

それが作家・演出家の鴻上尚史(こうがみ しょうじ)著、『「空気」と「世間」』です。

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

 

  

まずは空気の正体を知ろう

この本の冒頭は「空気を読めないことを恐れるのは、空気とは何かが分からないからだ。空気の正体が何なのかが分かれば、それに対処する方法は自ずと分かるようになる。」という話から始まります。

 

つまり冒頭に私が書いた「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と同じく、「空気」の正体さえ分かれば「空気を読めない」ということを恐れる必要はないのだ、ということです。だからまずは空気の正体を知ることから始めましょう、と。そのために、この本では恐れる前にまずはみんなを苦しめる空気の正体を暴くことに力点が置かれています。

 

では、その空気の正体は何なのか?と言うと、鴻上さんはズバリ「それは世間である」と言います(正確にはちょっと違うのですが、とりあえずそう理解した方が分かりやすいので)。

そしてその「世間」とは何なのかというと、それは自分と「現在すでに利害関係のある人々」と「将来利害関係を持つであろう人々」の全体の総称です。具体的には政党の派閥、大学の学部や趣味の人たちの集まり、そして当然ご近所付き合いも含まれます。基本的には同質な人々が集う共同体のことだと考えれば良いでしょう。

 

「世間」はなぜ必要だったのか

その世間というのはもともと経済的な「セーフティ・ネット」として機能してました。昔から「世間」という言葉のイメージである通り自分の行動や考えに規制を課す面もありますが、それでも経済的な安定を保障してくれる機能だったので、誰もがその「世間」を考えることで安定した生活を送っていたのです。

たとえばその共同体の中で結婚できない人とかがいると、共同体としては将来の貴重な労働力になる子どもを確保できなくなります。だからこそ「世間」のご近所さんたちが結婚相手を探してくれていたのです。今では「結婚するしないは個人の勝手だろ!」と言われてしまいますが、昔は「共同体」として永続的な活動ができるようになるためのセーフティ・ネットとしての機能だったわけです。

自分の生活や存在を安定させてくれる存在だったからこそ、誰もが「世間」を気にして生きていた。そういう合理的な行動だったのです。しかし、その「世間」も昔のような強固な共同体としては存在できなくなります。その理由は都市部への人口移動や、西欧文化の流入など様々なですが、ざっくり言えば「近代化の波によって」ということでしょう。それらによって壊された「世間」ですが、まだ完全には壊れておらず崩壊しつつあるというのが現状であり、その「崩れつつある世間」こそが「空気」である、と著者は考えます。

 

つまり、「空気」というものはそのような「世間」が原型となっているものなので、「空気を読む」という行為も自分という存在を安定させる何かを探そうとする行為であると考えることができます。人は誰しも1人で生きているわけではなく、そのような安定装置を探すことは何もおかしなことではありません。そして、現代のように世間が壊れつつある途中にある世界においては、「自分という存在を保障してくれるもの」を見つけることはとても難しいので、空気を読むということは実際とても難しいものなのです。「空気を読めない」ということは別に特別なことではなく、実は誰しもが自分という存在と向き合う上で、必ず通る道なのです。

 

「世間」とは日本だけにあるわけではない。

実はそのような自分という存在を安定させる機能は日本人だけが求めている訳ではありません。個人主義者として個人の強さを強固に備えていると思われているアメリカ人でさえ実はあるものによって、その存在を安定させようとしています。それが一神教、すなわちキリスト教です。私達日本人からは分かりづらいですが、欧米の個人主義というのは空中に浮いた「自分」という存在を自分の独力で固定させているような強固なものではありません。欧米の個人主義といのはあくまでキリスト教という一神教が示す「神」という存在の元に、平等な個人としての存在であり、その神が"直接"、"一対一"で個人と結びつき、その個人の存在を安定させているのです。

 

「今どきそんな神なんて信じているやつがいるのかww」と思われるかもしれませんが、Newsweek誌の世論調査では「神が人類を創造した」と考えているアメリカ人は48%。実に半分近くです。そして「進化の過程に神の役割はなかった」と答えたのはわずかに13%でした。つまり、逆に言えば87%の人は「人類の進化の過程には神が関与した」と信じている訳です。

そのような欧米の「神」の存在に代わるのが、日本では「世間」だったわけです。

 

徐々に崩壊する世間

日本においては、農村共同体として村人が一致協力して農業に取り組まなければ、そもそもみんなが生きていくことができませんでした。だからその農村共同体といかに強調していくかが、死活問題でありその象徴が「世間の目」だったのです。それが生活環境の変化、都市化の流れ、そして"一神教への理解を抜きにした抽象的な形での"欧米的個人主義の中途半端な移植により、その世間が中途半端に壊れて行きました。

 

特にここ20年あまりは農村共同体の代わりとして戦後の社会を支えていた「会社」の年功序列、終身雇用といった生活や精神の安定剤として機能していたものが崩壊することで、かろうじて安定させていた日本人の存在を安定化させる世間がますます壊れていきました。その上、欧米とは違い、一神教のない日本人にはその世間に代わる自己安定装置も見いだせないままというのが実情なのです。

 

世間もない、一神教もない。

つまり自分を安定させてくれる存在が存在しない。

非常に厳しい、生きづらい世界です。

そのような厳しい環境の中で「空気を読む」、つまり「自分の存在を安定させる」ためにはどうすれば良いか?

 

無理して空気を読む必要はない。自分に合う空気を探そう。

ここまで書いてきたように空気を読むというのは、セーフティ・ネットとして機能する世間の流れで生きるということです。ですから、まずは「そもそも自分を社会的に、経済的に安定させてくれる存在とは何か?」を考えるべきでしょう。

何も闇雲に空気を読む必要はないのです。所詮セーフティ・ネットという機能なのですから、「自分にとって有効」と思われるところにだけ集中すれば良い。たしかにその「有効」の範囲が狭い人、広い人というの違いはあるでしょう。でもそれはパーソナリティの違いがあるのでどうしようもありません。それを他人と比較してどうこう考えるのではなく、あくまで「自分という存在を安定させてくれる機能なんだから、自分に合う共同体を探せば良い」だけなのです。

 

昔でしたら自分が生まれた共同体で生きていけなればなりませんでした。しかし、今は違います。昔よりは圧倒的に自分が属する共同体を選ぶことができるようになりました。今目の前にある共同体の空気が読めないのであれば、それはたんにあなたにとってのセーフティネットにはなり得ないというだけの話なのです。何も空気を読めないことが悪いわけではない。
その人にとってはその共同体とは馬が合わなかった、それだけの話なのです。


大切なのはそのような環境で無理をして空気を読む努力をすることではありません。あなたの存在を社会的、経済力に安定させてくれる共同体と出会うための選択肢を多く持つ準備をしておくこと。そして、そのような共同体(を構成する人たち)に出会えた時に、そこに飛び込んでいく勇気なのではないでしょうか。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました

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