世界を救う読書

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「CNN vs トランプ」に見るアメリカジャーナリズムと、"記者クラブ"というぬるま湯に浸かる日本メディア

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何かとお騒がせネタの豊富なトランプ大統領ですが、今度はCNNとぶつかってるようです。もはや注目を集めるための炎上商法じゃないかと思えてくるほどですが・・・(笑)。

テレビでも結構報道されているので動画をご覧になった方も多いと思いますが、アメリカCNNの記者が中間選挙直後のトランプ大統領の記者会見で、ホワイトハウスという敵陣(というと語弊があるかもしれませんが)にありながら、猛然とトランプ大統領に食って掛かり、それに対してトランプ大統領が記者をかなり不躾にいさめるという一幕がありました。

その後、その記者のホワイトハウスへの入館証を取り上げたことを巡り、CNNがトランプ大統領を提訴。アメリカの報道のあるべき姿を巡って問題になっています。

日本のメディアだったら速攻で内閣に頭を下げそうですが、大統領を訴えるという手に出るのがさすがアメリカのジャーナリズムですね。

 

日本のメディアはこの会見時のトランプ大統領を「横柄でひどい大統領だ」というような雰囲気で報じました。そして、その流れでこのCNNの記者がホワイトハウスへの入館証を取り上げられたことと、それに対してCNNがトランプ大統領を提訴したことを「CNNが横柄で独裁的な大統領に対して見せたジャーナリズムの立派な気概」のように賛同する報道がなされています。

 

確かにトランプ大統領の言葉遣いに関しては、国家運営の責任者としてはちょっとどうかと思いますし、一方の記者についてもトランプ政権への批判ありきで、他にも大勢の記者がいるのに一人でいくつもの質問を大統領に浴びせかけるのはちょっとどうかとも思います。

まぁ、どっちもどっちだな、と。

ただ、その様子を「トランプ大統領が無礼なやつで、それに対してジャーナリストが毅然と立ち向かった」みたいなストーリーで日本のメディアが報道しているのは、私は違うのではないかと思います。

なぜなら、日本ではこのようなトランプ大統領の言動を「報道の自由を歪めるものだ」という風に報道していますが、実は日本ではある意味トランプ大統領の一連の行動よりもさらに酷い言論統制システムが敷かれているからです。

 

 

日本での言論統制システムとは何か

それは「記者クラブ」なるものの存在です。

記者クラブというのは、官公庁や政党、警察などに設置されている記者の連合体のことで、新聞社やテレビなどの報道に関わる会社の記者はほとんどがこのクラブに所属しています。

官公庁などが発表するプレスリリースなどもこれらの記者クラブに所属していなければ入手できません。記者会見においても、記者クラブに所属していなければ出席できない、もしくは出席できてもただ傍聴するだけで質問することなどができません。

このようなシステムは日本独自のもので海外には存在しないため、記者クラブというのは英語でそのまま「Kisha Kurabu」と翻訳されるそうです。Fujiyama, Geisyaみたいですね。

 

日本では記者クラブが官邸発表などの情報のリソースに対するアクセス権を独占しているため、記者たちは記者クラブでの席をキープし続けることに非常に神経を使います。何か粗相をしでかして記者クラブから追い出されたら、自分あるいは自社だけ記事を発表することができなかったり、他社より遅れてしまったりするからです。

したがって、記者クラブに所属する他社はもちろん、例えばそこで会見を行う政府に対しても「記者クラブと政府の関係性を良好に保つこと」が暗黙のルールとなってしまうため、政府に対して記者会見の場で手厳しい質問をすることができないような状況になってしまっているのです。

まぁ、日本の記者のレベルではそのようなルールがなくても、政府に切り込むような鋭い質問ができることがどの程度できるか分かりませんが・・・。

 

いずれにせよ記者クラブという「報道各社と官公庁の仲良しサークル」に守られた中で、しかもルールから逸脱しないレベルで、政府に“文句を言っているだけ”の日本のメディアが、トランプ大統領とCNN記者のような真剣勝負について意見を言う資格があるとは思えません。

 

 

日本のメディアは民主主義における自分達の役割を再考すべし 

私は特にトランプ大統領を支持している訳ではありません。

先程も書いたように今回のやり取りに関しては「どっちもどっちだな」という印象です。それは馬鹿にしているのではなく、記者も大統領も真剣勝負でぶつかった結果の喧嘩両成敗的な意味です。

 

しかし、残念ながら、日本の記者クラブのような、悪い意味で“ 和を以て貴しとなす”という仲良しこよし報道統制の元では、アメリカのような歯に衣着せぬ物言いでの真剣勝負は成り立ちえません。それは総理大臣や内閣官房の記者会見がまるでお葬式のような暗い雰囲気で粛々と進められるのを見れば、誰もが感じることではないでしょうか。

 

私は基本的にアメリカという国があまり好きではありませんが、このようなやり取りがテレビ報道も含めて様々な国民の目がある中で堂々と行われるような空気があり、それによってより良い社会を作っていくという気概が広く共有されているところは羨ましくもあります。

 

そもそも私達が採用している民主主義という政治体制は単なる「多数決」のシステムではありません。それではいずれ少数派による反乱が起こり、社会は不安定化していきます。そうならないように、単なる数の論理で話を決着させるのではなく、いろいろな人達の価値観や立場の違いを議論によって乗り越えていくことが重要です。

そのためには国家に関わる情報をできるだけ広く国民が共有できるようなシステムづくりが非常に重要となる訳で、そのためにメディアが果たす役割と責任はとてつもなく大きいのです。記者クラブなどという内輪組織を守ることなどがその役割ではないのです。

 

今回のCNN記者の処遇を巡る一連の騒動を単なるトランプ大統領への批判(というか“トランプいじり”)のために消費して終わり、などということはあってはいけません。

アメリカの姿を見て、自分たちが民主主義という体制における役割を果たすために何をやらなくてはならないのか? そのことをメディア自身が問い直すきっかけになることを希望します。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

数字は嘘をつかないが、数字に意味を持たせるのは人間の価値観である

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突然ですがみなさん、「飼い犬に手を噛まれる」という言葉をご存知でしょうか?

有名な言葉ではありますが、一応ことわざ辞典によりますと

 

飼い犬に手を噛まれるとは、日頃からかわいがり面倒をみてきた者からひどく裏切られたり、害を受けたりすること。

 

ということのようです。

 

とは言え、実際に飼い犬に手を噛まれるを噛まれることは滅多にないと思いますが、人間の社会ではよく起こるようですね。下記の記事によると日本銀行(飼い犬)が政府(飼い主)に噛み付いたようです。

 

飼い犬とか飼い主というと日銀を馬鹿にしているようですが、そういうつもりではありません。あくまで比喩です。

ただ、あまり知られていないのですが、

 

日本銀行とは株式会社であり、政府の子会社である

 

これは事実です。

 

日本銀行と言うと、日本銀行券いわゆる「日本円の紙幣」を発行していたり、政府方針に基づいて金利を操作したり、金融緩和をしたりと、日本経済に関わる影響力の大きさから一見政府の一機関のように見えますが、実は大株主が日本政府となっているれっきとした株式会社なのです。

当然、大株主である日本政府の子会社となります。そんな子会社である日銀が親会社である日本政府に噛み付いたということなのです。

 

「噛み付いた」というのは、具体的にはどういうことでしょうか。

実は日銀が内閣府が独自に集計、分析している経済統計のデータの信憑性を怪しんでおり、根拠となる元データを開示しろ!と内閣府に求めているのです。

 

記事中に

 

日銀の不信には一定の根拠がある。例えば厚生労働省が毎月まとめる賃金に関する統計。今年1月に統計手法を変えたところ前年同月比の伸び率が跳ね上がった。これには専門家から異議が噴出。統計委員会でも俎上(そじょう)に載り、この賃金データを基にまとめる内閣府の報酬統計も修正を迫られた。

 

という部分がありますが、これは日本の賃金統計に関して政府が実際に行った詐欺まがいの行いのことです。

 

政府は日本の賃金の実態調査のために行っている「毎月勤労統計調査」というものがあります。国勢調査のような5年に一度の調査とは違って毎月実施するものですので、日本全国の全事業所を調べることはできません。したがって、ある程度調査対象を絞って調査する訳ですが・・・。

何と今年の1月から前年までの対象の中から「給料が低い事業所」を外し、「給料が高い事業所」に入れ替えていたのです。

その上で、「現金給与所得がアップした!!! どや!!!」とやっていたのです。

 

例えばあれですよ。

私が勤める会社のような中小企業ばかりを対象に調査していたのに、急に今年から電通とかNTTとかトヨタとかといった超大企業を調査対象に変更したら、そりゃ平均給与上がるに決まってんだろwwwという話です。

 

しかも、その調査対象を変更したことを告知しているのならまだしも、その変更自体は黙っていた訳です。当然専門家の方々からクレームがついて大騒ぎになりました(あまりメディアは取り上げませんでしたが、安倍政権から目を付けられるのが怖かったのでしょうか)。
 

ここで私が言いたいのは、別に安倍政権を非難することそのものではありません。

いや、もちろんあってはならないことですので非難されて当たり前なのですが。

それは当然のこととした上で、結局

 

データは所詮ただの数字。

その数字をどのようにはじき出すか(どのような統計手法や計算方法を使うか)は、その人間や価値観や社会情勢に大きく左右される。

何よりその数字にどのような意味を持たせるかは人間であるということ。

そうであるならば、どれだけ「データ」を重視したところで結局人間や社会の価値観やによって左右されるのだから、その人間や社会に関する深い洞察がなくては適切な判断はできないということなのです。

 

よく「数字は誤魔化せない」などと言いますが、政府が実際に行ったような手法を使えば数字自体は誤魔化せなくとも、そこから引き出す結論はいくらでも誤魔化せるのです。

データは確かに大事です。しかし、それが全てではない。

結局、社会や人間に関する洞察がねじ曲がってしまえば、どんな精密なデータでも世の中をねじ曲がった方向に導いてしまう。そのことを今一度我々は肝に銘じなければならないのではないでしょうか。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

内閣公認!? お天気で経済が変わる国ニッポン!

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いやーもう笑うしかないですわ。マジで。

何がってこれですよ! (笑)

内閣府が14日発表した7─9月期国内総生産(GDP)は季節調整済み年率マイナス1.2%になったのですが、それに対する内閣府の分析というか言い訳が

 

個人消費は前期比マイナス0.1%と落ち込んだ。宿泊や外食、旅行などが減少しており、内閣府では、自然災害の影響で外出が控えられた可能性があるとしている。

GDPを受けて会見した茂木敏充経済再生相は、マイナス成長について「自然災害による工場や空港の閉鎖、海外からの旅行客の減少など一時的要因が寄与した」

 

どうですか、これ。

結局これって平たく言うと

 

7−9月の経済が悪かったのは天候が悪かったから

 

だということです。

もう本当にアホかと。

冷夏だったら「エアコンやビールが売れなかったから」と言い、酷暑だったら「暑くて国民が外出しなかったから」と言う。

暖冬だったら「暖房器具が売れなかった」と言い、極寒だったら「雪がひどくて交通網に影響が出たから」という。

 

これはもうアレですよ。中学生や高校生が

 

雨が降ってたから遅刻しました

 

と言い訳するのと同じレベルです。

 

これが進めば、経済悪化の原因を

 

「去年はピコ◯郎の歌が流行って経済効果があったけど、今年はピ◯太郎がウケる曲を作れなかったから」

「今年は任天堂Playstationも新機種を出さなかったから」

 

とか言い始めますよ!

今は「そんなアホな」と思いますが、5年後には本当にそんなこと言ってるかもしれないという一抹の不安が・・・(´・ω・`)

 

この災害大国ニッポンにおいては自然災害が起こって当たり前です。もちろん自然災害が起こって欲しいという意味ではなく、最悪の場合を想定するのが国家だということです。

百歩譲って自然災害や悪天候により経済が悪化したとして、「だから国土強靭化を図ります」というなら分かるのです。ところが茂木敏充経済再生相が言っているのは

 

「各種政策の効果もあって、民需を中心とした景気回復が期待される」

 

などと言っている訳です。言い方はいかにもちゃんと考えてる風に言っていますが、これって結局

 

「いろいろ頑張ってるから、多分これからは大丈夫だと思うよ。知らんけど。」

 

と言っているのと同じなのです。だって、具体性がないんですから。

 

しかし、実際に日本国民は、2014年9月、2015年9月、2016年9月、2017年9月、2018年9月と、5年間も連続で実質消費を「対前年比」で減らしています。

5年もの間、安倍内閣は何も手を打たなかった。あるいは打ったかもしれないけど、実効性は全くなかったと評価されても仕方ありません。

「何もしなかった訳じゃない! 安倍内閣が頑張ったからこの程度で済んだんだ!」とか言う人がいるかもしれませんが、政治の世界でそんなことを言っていても仕方ありません。だって、実際に成果が出ていないのですから。

政治の世界は結果が全てなのです。言い訳無用!!

 

天気や自然のせいにする暇があったら、それに負けないような強靭な国土を作るべく少しでも具体的な対策をしろ! としか言いようがありません。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

人手不足 → 移民受け入れ拡大は、バカボンのパパ並の三段論法だ。

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今日の昼のニュースで聞いて驚いたのですが、入管法改正について自民党公明党の幹事長が会談をしたようです。

 

 

驚いたのはこの部分

 

会談に同席した自民党森山裕国対委員長は、記者団に対し「参院の審議時間も考えなければならないので、何としても16日には改正案を審議入りさせたい」と強調した。

 

アホか!!!

いや、知ってはいたけど

やっぱりアホか!!!

 

今後100年以上に渡る日本の国のあり方に影響を与える重要な案件を、今国会中に成立させたいから16日には何としても審議開始したいだそうです。知ってはいましたが「入管法改正を成立させること」が結論として決まっており、全てはそのスケジュールのために動いているのです。

 

そして、なぜ入管法改正を行い移民受け入れ拡大をするかと言えば、ただ馬鹿みたいに何も考えず

 

「え? だって民間企業が人手不足で困ってるんでしょ? だったら海外から人いれれば良いじゃん。」

 

と信じているだけ。

 

人手不足で民間企業が困っているのだ。

日本は人口が減っているのだ。

だから海外から人を雇えば良いのだ。

 

というバカボンのパパ並の三段論法程度の理解しかない。情けないことにこれが日本を代表する国会議員の低レベルさなのです。

 

資本主義とは、その名の通り資本を投資し、技術革新によって単位資本当たりの生産性を向上させることで経済発展を促す経済モデルです。生産性向上も促進せずに足りない人間を別のところから買ってきて充てがう。それは資本主義成立以前の中世の時代に逆戻りする政策に他なりません。

※もちろん資本主義も国民の生活を豊かにするために、現時点で考えられる現実的で実際的な方法であるからそれが採用されているだけで、資本主義自体が正義とか悪とかではありません。

 

私は何も移民受け入れ政策が資本主義という正義に反しているから、とかいう理由で反対しているのではありません。

本来生産性の向上が行われれば、国民の富の集合であるGDPも上がって行き、日本国民の生活も豊かになる。そして、その稼ぎ出したGDPを原資にすることで、安全保障の向上ははもちろん、国際的な地位を高め発言力を増していくことができる。

それが移民受け入れによって安い労働力を使用することにより、生産性向上のための投資を行わずとも、企業は現在の利益を確保することができます。また、そうなるとわざわざ高い日本人労働者を雇う必要もなくなるため、日本人に支払われるべき賃金が移民に流れることになります。

それは間違いなく日本人労働者の貧困化を促進する一方、雇用主の利益を確保することで社会の格差拡大に繋がります。

そして、その格差拡大が社会の不安定化を生み出していくことは、今われわれはアメリカの内情によって実際に目にしているのです。

 

それにも関わらず、国会議員は

 

人手不足で民間企業が困っているのだ。

日本は人口が減っているのだ。

だから海外から人を雇えば良いのだ。

 

という低レベルな三段論法によって、この政策を進めようとしているのです。

本気でそのような話を信じているのであれば、その人達は資本主義社会というものが何なのかを根本的に理解していないのです。そのような国家が、「ザ・資本主義国家」とも言えるアメリカと「共通の価値を有している」などと言うのは片腹痛いとしか言いようがありません。

 

人手不足の時代に本来やるべきは、生産性の向上のための投資であり、それ以外はあり得ません。そして、海外からの移民受け入れ拡大は国民の貧困化を促進し、社会の不安定化を引き起こす。

したがって「審議入り」を目的にすること自体が根本的に間違っているのだということを、国会議員にはもう一度考え直して欲しいと切に願います。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

ペンス副大統領が突きつけた声明はエクス”ペンス”(費用)負担の強要だよ!

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導入からいきなりインテリジェンス溢れる(笑)知的ダジャレから入ってみました(ダジャレに知的があるのかどうかは分かりませんが、そういうことにしておいてください・・・)。

 

冗談はさておき、アメリカのペンス副大統領が来日し安倍首相と会談を行いました。

会談の詳細は後日外務省のHPででも取り上げられるでしょうから、そちらを確認したいと思いますが、ニュースサイトの記者会見の要旨を見る限り

 

これはまた安全保障を盾に足元見られたな

 

という印象です。まぁ・・・いつものことですが・・・。

 

安倍首相とペンス副大統領の間で下記のような内容が確認されたようですが

  • 原子力分野の研究開発、産業協力で覚書
  • LNGの供給やインフラ建設で高水準の投資を促す意図有している
  • 開かれた競争力のあるエネルギー市場の推進、企業間連携促進などにコミット
  • 持続可能な経済成長へ、インド太平洋における投資プロジェクト促進で覚書

要するに、エネルギー分野でアメリカがインド太平洋へ進出するに当たり、日本は技術と金を負担しろ、ということでしょう。

 

 現在のアメリカが抱える課題はいくつもありますが、その内の大きなものが

 

1) 中国の国際的影響力の拡大を抑えること

2) 将来にわたる太平洋地域における影響力を保持すること

3) 対外貿易赤字を縮小するために国内の生産力を高めるとともに、海外の市場を開拓すること

 

です。

1番目の中国はさておき、他の2つはTPP協定によって賄うことが可能でした。

しかし、恐らくアメリカは想像以上に長きにわたるTPP交渉を見て、こう考えたのでしょう。

 

「こんなことを悠長にやっていては埒が明かない。それより自分たちが得意な二国間交渉に持ち込んで、ガチで譲歩を迫った方が早いし、利点が大きい」

 

と。

もちろん、TPPによってアメリカ国内の農業も悪影響があるという言説が広まったことも”社会格差の犠牲者たち”からの支持が強いトランプ政権としては、TPP交渉から脱退した理由の一つでしょうが。

 

しかし、アジア太平洋地域の市場を開拓すると言っても単純にアメリカ産の商品を売り込めば良いというほど単純な話ではありません。何しろ物価が違いすぎますので、高価な米国産商品でアジア太平洋地域の市場を席巻することは流石に困難です。

だとすれば、まずは民間市場の前にその基盤となるインフラ整備という国家ビジネスの市場を奪い取ることです。インフラはそれ自体がビジネスになるということもありますが、インフラをアメリカ式に作り上げてしまえば、それに沿って発展する分野のルールもアメリカ方式にしたがって進歩させるしかありません。

簡単に言えば、一旦Windowsというインフラを買わせてしまえば、その後のソフトウェアもMac用ソフトではなくWindows用ソフトを買うしかなくなる。つまり、最初にWindowsで環境を整えればそう簡単にMacには乗り換えられなくなる、ということです。

 

そうしてアジア太平洋地域が育って行けば、そのままその市場を総取りできる可能性がある。勿論、実際にはそんなにオセロみたいに総取りはできませんが、少しでも陣地を多く確保する可能性を上げるためには、それ相応の下準備が必要なのです。

 

しかし、もちろんそれらの地域には中国も同様に影響力を強めようと虎視眈々と準備を進めていますので、そこに割り込んで行くにはそれ相応の資金力が必要となります。

そこで。

日本の出番という訳です。

 

何しろ日本は独力で中国から自国を守ることもできません。アジア太平洋地域における中国の影響力が拡大するのは防ぎたいと思っても、自分からその地域に踏み込んでいくこともできないのです。日本は以前「アジアを侵略した国」ということになっていますからね。

ですが、そこにアメリカの主導があれば別です。

あくまで主導するのはアメリカで、日本はそれに協力をするだけ。そうすれば日本は大手を振ってアジア太平洋地域へと投資することが可能になる訳ですし、アメリカに協力することで「中国の脅威から守ってもらえる」ということになる訳です。

まぁ、本当に守ってもらえるかどうかは不明ですが、一応建前上はそうなります。

 

つまり、ざっくばらんに言ってしまうと

 

「中国の軍事的脅威を削ぐためにもインド太平洋地域へのアメリカの支配力を増強した方が日本にとっても良いだろ? どうせお前達は自力で中国から自国やインド太平洋地域を守ることなんてできないんだ。アメリカがやってやるんだから、お前たちは金くらい出せよな?」

 

とペンス副大統領に言われて

 

「はい。分かりました。お金は出しますので日本を守ってください。」

 

と頭を垂れた、ということなのです。

 

そのことの是非はここでは問いません。

ただ、どれだけ「日本とアメリカは共通の価値観を持った国だ」とか「強力なパートナーシップ」とか言ったところで、自国で安全保障を賄えない国というのはその程度の扱いしか受けないということは理解しておくべきではないかと思います。

 

そして、タイトルの通り

ペンス副大統領が突きつけた声明により、日本は高いエクス”ペンス”(費用)の負担を強いられることになるでしょう。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

オーケストラがドラッカーの組織論を勉強したらどうなるか

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さて、皆さん。
くれぐれも言っておきますが、どこかで聞いたことがあるタイトルだなとか思わないでくださいね! 私のオリジナルですから!! (笑)
 
という訳で???
今回はこの本
 
山岸淳子著「ドラッカーのオーケストラの組織論」
 
の読書レビューをお届けします。
 
ドラッカーとオーケストラという珍しい組み合わせの言葉に物の見事に引っかかってしまいました(笑)。
いや、まぁ一応音楽業界に身を置く者としては一応ね。仕事の一環であるし、一応ね(「一応」が多過ぎだわ)。
ただ、ジャケ買いならぬタイトル買いした割には、なかなか良い本でしたのでご紹介しようかと思います。
 
 
さて、ドラッカーとは言わずもがなマネジメントの父と名高いピーター・ドラッカー。ぶっちゃけ私はいわゆる「ビジネス書」然としたものはあまり読みませんので、ドラッカー氏の本も実は読んだことがありません。私がドラッカー氏のことで知っているのは、この方がマネジメント論というか組織をいかに動かすべきかという組織論において世界的に有名であるという程度です。
 
その方とオーケストラというのが何とも意外な組み合わせだったのですが、なんとドラッカー氏はオーストリアのウィーン出身なんですね。そう、ウィーンと言えば、かの有名なウィーン・フィルハーモニー・オーケストラがあるところ。音楽の都として名高いあのウィーンです!俄然オーケストラ感(?)が出てきましたね!(笑)。
 

ドラッカーはオーケストラに「未来の組織の姿」を見た

本書によると、そもそもドラッカーが組織に注目したのは、それが「人」の集団である組織だからとのこと。そしてオーケストラは人の知識や技術が結集した、高度にマネジメント化された組織。「人の集団としての組織論」、そこにドラッカーとオーケストラを結びつけるものがあるというのは面白い切り口ではないでしょうか。

というかそもそも筆者によると、オーケストラこそが未来のあるべき組織モデルとなる可能性があるし、そうあるべきだとドラッカーは考えていたようです。
 
ドラッカーは未来の理想的な組織とは「情報化組織」であると考えていました。
情報化組織とは従来のトップダウン方式によるマネジメントではなく、組織において情報が共有され、その情報に基づいて組織の構成員である専門家集団が自律的に目的や方向性を考え出し、それにも基づいて行動する組織。ま、平たく言えば、漫画ハンターハンターの幻影旅団みたいな物ですね。団長は目的と方針を決めるんだけど、後はそれぞれのメンバーが独自に動いていく、みたいな(余計分かりにくいか(笑))。
 
ただ、この場合に組織が基盤にする情報とは単なるデータではありません。データの分析と判断によって意味と目的が付加されたもの。それが情報であるとドラッカー(を引用して著者)は言います。
意味と目的が付加された“情報”がメンバー間で共有されるために重要なのは、情報を伝達し共有するためのルール作り。そして、これまたそれをオーケストラに置き換えると、それは「楽譜」である、と。
確かに音楽においては、楽譜という簡潔で分かりやすいルールに基づいて情報の伝達が伝達されることで、情報がメンバー間で共有されます。そして、オーケストラにおいて優れた音楽家がその楽譜から作曲者の意図を汲み取り的確に表現するように、組織における構成員も、その情報の中から自分の行動指針を導き出しそれを具現化しなければならない。
 

オーケストラのような「情報化組織」において必要とされる力とは?

そのような情報化組織においては、具体的な行動に翻訳できる明確で単純な共通の目的が存在しなくてはならないし、その指針を出せる強力なリーダーシップをもった人物が必要となります。
そして、そのリーダーシップを持った人間というのは、オーケストラにおける指揮者に当たります。
また、オーケストラの指揮者がそれぞれの楽器の演奏方法が分からなくても、演奏者の知識と技術をいかにして引き出すかを知っている必要があるように、組織におけるリーダーに求められるのは個別の構成員の技術と知識をいかにして引き出すかを知っておく必要がある。
 
また構成員の方も、自分に与えられた役割が全体の中でどのように機能するルールかを知らなければ、全体の成果に貢献することはできない。すなわち、全体が目指す方向性とともに、他人の演奏つまり他者からの情報に丁寧に耳を傾けて、自分の発する情報も丁寧に伝えることでコミュニケーションをとるという能力が必要になるのです。
構成員がそのようなコミュニケーション能力があり、リーダーも彼らの能力を引き出す術を熟知している。その組み合わせによって、リーダーが具体的な目的な方針を出すことで組織全体が自律的に動く新しい形の組織へと生まれ変わっていく。
それは正にオーケストラという組織そのものであり、これからの時代の組織に求められるのはそのような形態であるとドラッカーは述べているのです。
 

組織がオーケストラのような「情報化組織」と成長するために必要なもの

どうでしょうか?
なかなか面白い考察だと思います。
私は上に書いた通り、ドラッカーの本を実際に読んだことはありませんので、これのどこまでがドラッカーが実際に言っていることで、どこからがこの著者である山岸さんの考えなのかはちょっと分かりません。
また、私はいわゆるバンドをやっていますが、オーケストラはやったことがありませんので、オーケストラという組織についてもどの程度妥当性があるのかは分かりません。
 
ただ、現代のような膨大な情報が猛烈なスピードで流れる社会の中で組織が(特に会社組織ですが)、その流れについていくためには以前のようなトップダウン式の指揮命令系統では難しいのは事実ではないかと思います。
あまりに情報量が多すぎ、その種類も多彩で、それらを収集分析するための技術も以前とは比べ物にならないほど複雑になっています。そのような状況においては、確かにこの本で言われているようなリーダーが目的と方向性を具体的に示し、それに基づいて組織の構成員が自律的に、自分の判断で動いていく。もちろん適宜軌道修正は必要だと思いますが、そのようなスピード感で動いていける組織こそが、今の時代に合った強力な組織なのかもしれません。
 
そして、またそこで重要なのは、構成員が自律的に動きながらも周りの声をちゃんと聴くコミュニケーションの重要性を意識すること。
そして、何より自律的に動く構成員のことをリーダーがいちいち監視するのではなく、彼らを信頼して任せることが重要なのではないかと思います。
 
私にしては珍しく「組織のあるべき姿」を語ってしまいましたが、そのような組織論に興味がある方。あるいは実際に今属している組織の形に疑問を持ってらっしゃる方には、是非手に取って頂きたい良書だと思います。
※随所にオーケストラという組織の説明や、楽器の果たす役割の説明が入ってますが、興味なければそこは読み飛ばしても良いと思います。
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
 

被災者への「頑張って」は上から目線で、「頑張ろう」は被災者目線だから良いというのは本当か?

ひょんな事から知ったのですが、今年西日本に甚大な被害をもたらした豪雨によって落ち込んだ西日本の観光客の誘致を図るためJRが「頑張ろう!西日本キャンペーン」というものをやっているそうです。

 

 

そのような取り組み自体は良いことだと思います。

被災した土地の商品を購入することで、地域経済を活性化するという役割は確かに担えるし、それはビジネスにおいては重要なことです。
 
 
それは良いのですが、このキャンペーンに限らずここ数年の「頑張って」という表現から「頑張ろう」という表現への変更にかなり違和感を感じています。
 
確かこのような表現に変わり始めたのは、東日本大震災の後ではないかと記憶しています。
その時に、
 
“頑張って!というのはいささか上から目線な物言いだ。頑張ろう!というのは被災地の方との一体感が感じられるので、頑張ろうの方が良い表現だ”
 
というような意見がありました。
それ以来熊本の大地震にしろ、西日本豪雨にしろ、この前の大坂の台風にしろ、「頑張ろう!」という表現ばかりが目立ちます。応援すること自体はもちろん良いのです。やはり同じ日本人ですから、こういう時にこそ助け合わなくては! とは私も思います。
 
ですが、私はこの“頑張ろう”という「被災者との一体感を促進する言葉」がどうにも胡散臭く感じるのです。
 
確かに日本のような災害大国において、国民同士の助け合いの心というのは非常に大切です。日本という国土においては、南海トラフ地震を引き合いに出すまでもなく、ほぼ全ての地域においていかなる災害に襲われるか分かりません。
いざそのような事態になった時に助けてくれるのは、やはり同じ日本国民です。その時に日本国民同士に連帯感がなければ、たちまち日本という国は崩壊してしまいますし、より多くの命が犠牲になることでしょう。
 
それは事実です。
ですが、そうは言っても同じ日本国民だからと言って全ての感情を共有できるわけではありませんし、災害にあったと人達の全ての事情を慮る(おもんばかる)こともできません。人間はそれほど万能ではないのです。
 
「頑張ろう」は被災者と同じ目線で、「頑張っては上から目線」というのは、確かに耳触りが良い表現です。しかし、広島や熊本、東北に行ったこともない人が、その土地で何十年も…下手したら先祖代々何百年も暮らしている人達の悲しみを自分のことのように理解し、一緒に肩を組んで頑張ろう!などと言えるものでしょうか?
 
その悲しみや苦しみは、同じ国民とは言え所詮安楽な環境からメディアを通して"情報"を受け取っただけの他人が理解できるものではないと思います。
私は九州の出身ですので、熊本には何度か行ったことがあります。熊本城は町中に溶け込むような形で存在していて、観光としてのシンボルというようなものではありません。逆に私が住んでいる東海地方にある名古屋城なんかは場所も、その周りの街作りも完全に「観光用」として成立しているので、恐らく戦時中に空襲で焼ける前の名古屋城を知っている人でなければ、「心のシンボル」というほどの精神的な存在感はないと思います。
そういう意味では熊本城は本当に熊本県人の心の奥底に流れるアイデンティティの一角と言っても良いほどの存在感を放っています。そのような存在があのような状態になったことの衝撃は、恐らく同じ九州の人間でも全く想像がつきませんし、熊本に行ったことがない人でしたらなおさらではないでしょうか(それが悪いのではなく「仕方がない」ということです)。
 
したがって、私が当事者を目の前にしたらやはり「私にはその苦しみは想像もつかない。ですが、私にできることは協力しますので皆さんも頑張ってください。」としか言うことができません。
被災地に引っ越してそこに骨を埋める覚悟もなく、いざとなったら帰れる拠り所をちゃっかりキープしたままで、「一緒に頑張りましょう! 」などと言うのはおこがましいとしか思えないのです。
 
 
 
どれほど強く願っても人の人生を救うということは、とてつもない労力と責任が伴うことです。たとえ命を懸けたとしてもたった一人の人生を救うことができるかどうかさえ分かりません。命を懸けたごときで救えるほど、人の人生というものは軽くない。
私にも守るべき家族がいて、私の双肩にはその家族の生活と幸せを守るという役目が背負われています。それは被災者も同じことでしょう。
その大事な肩をひとつ被災者に預けて肩を組み、「一緒に頑張ろう!」などと言うことができるというのは、自分や自分が守るべき人達の人生を軽んじているか、被災者の人生を軽んじでいるかのどちらかではないかと私には思えてならないのです。
※もちろん本当にそこに骨を埋める覚悟で真剣に取り組んでいる方もいらっしゃるかと思いますが、そのような覚悟のある方は極々一部でしょう。
 
人間は全知全能ではない。
同じ国民でも分からないことはある。
それを理解できるかのような薄っぺらい一体感でもって、中途半端に被災者の方と共に頑張りましょうなどというのは、むしろその人たちの人生の重みを軽んじ、自分の力量に対して思い上がっているのではないでしょうか。
何でもかんでも共感すれば良いという訳ではない。人には人の分相応というものがあり、その線引きをしっかりわきまえた上で自分に何ができるのか?を考えた時、「一緒に頑張りましょう!」などとはとても言えないのではないかと思うのです。
 
 
 
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😊
 

 

ハズキルーペが拡大したのは「人間の視野」と「広告の意義」である。

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ハズキルーペ、だ~い好き」で、すっかりお馴染みになってしまったハズキルーペの勢いが止まらないようです。

 

私がハズキルーペを目にし始めた頃は、確か本屋さんとかの一角に、ディエゴスティー二の組み立て式F1カーのそばにちょこんと置いてあるような程度だったように思います。

4~5年前くらい?

 

それが今では豪華俳優陣を擁したCMが、テレビのゴールデンタイムに流れるほどになりました。

EDIONとかの家電量販店に行くとスマホやパソコンコーナーの近くに必ずと言って良いほど展示コーナーが設けてあるほど、その露出具合は相当なものです。

ちなみに、この前30分程で終わる簡易な縫合手術を受けたのですが、その時にお医者さんが「これ便利なんですよねー」と言ってハズキルーペを掛けていた時はびっくりしました(笑)。

 

そんなハズキルーペの話題のCMは、観た人は必ずと言っても良いほど「なんじゃ、この格好悪いCMは⁉️」と驚きを隠せない、人智を超えたダサさです(←言い過ぎ?(笑))

 

私も広告宣伝に携わる身としては、こんなCM誰がOK出したんだ?と驚きました。

それもそのはず。このCMなんとハズキルーペの社長自らが考案した内容だそうです。

 

「ハズキルーペ」CMに広告のプロが「負けた」と脱帽するワケ│NEWSポストセブン

 

記事にはそんな事になった事情が書かれていますので、一部引用しますが、

 

松村謙三会長が広告代理店から出てきた案を却下し、結局自分で作ったと明かしました。元々はミラノで渡辺がカッコよく登場する案だったようですが、女性セブン‪11月15日号のインタビューではこう語っています。

 

「まずは、商品を知ってもらうことが第一。しかし、CMクリエイターは商品を売ることよりも、自分の作品を作ろうとして、見当違いな企画を持ってくることが多いんです。“ミラノの駅から始まって…”とか“お殿様にハズキルーペを献上して…”とか(笑い)。こちらは60秒のCMの宣伝費に100億円かけていますから、1秒2億ですよ。ミラノの風景なんか無駄に見せるくらいなら、自分でやるよ!って」"

 

 

凄いですね。

普通だったらクリエイター様(笑)からそんな企画があったら、「よく分からないけど、偉いクリエイターの人が言うからそうなんだろう」という感じで押し切られてしまうと思います。

ですが、そこを押し切られずに「自分でやる」と言い切ったのは豪胆というか、素直にすごいなと思います。

 

 

この記事にもあるように、そのクリエイターの方が自分の手掛けるCMを「作品」として世に出そうと思い、クライアントが求めるものを理解できなかったのか、それとも理解した上でベストだと判断したものを提案したのかは分かりません。

ただ、テレビCMほど大きな話でなくても、いわゆる宣伝広告に関わる仕事で、広告代理店とか制作会社に依頼したことがある人であれば、このハズキルーペの社長のいうことは「分かる、分かる」という感覚をお持ちではないでしょうか。

 

私もそのような経験をしたことが何度もあります。

というか、外部に出すとほとんどがそうなってしまいます。

その商品の良さやプッシュするべき箇所。そして、それをどのように伝えるべきかは、やはり作る人や売る人が一番分かっていなければなりません。というか、それが分かってない人達が作る商品というのは、結局自己満足でしかなく消費者に響かないのです。

 

しかし、なぜかクリエイターや広告代理店は、自分の方が分かっているという誤解をします。(全員がそうという訳ではないので不快な思いをされる方がいらっしゃれば申し訳ないのですが)そういう方々によく見られるのは「内部にいる人達(クライアント)は基本何も分かってない。物事を客観的に外から見ている自分たちの方が取るべき方策が分かっている」という態度です。

 

それは言うなれば、「客観性こそが正しい」という客観性への盲信が根本にあります。内部にいる人間は客観的な判断ができない。外部から観る客観的な見識こそがより正しい判断を行えるはずだという、言わば客観性至上主義とでも言いましょうか。

その結果、その商品の前提となる文化や目に見えない暗黙知、約束事などの重要性が軽視され、ハズキルーペの社長が感じたような的外れな提案をされることになるのではないかと。

 

ただ、実はこのような客観性の偏重は、クリエイターの方々だけではなく、現在の世の中で広く浸透している、いえ浸透し過ぎているのではないかと思います。具体的にはそれは何にでもデータ分析の裏付けを求めるデータ偏重主義や、人間の行動様式まで数値化して分析しようとする客観的数値主義などに表れます。

 

しかし、このような客観性至上主義的な考え方は本当に正しいのでしょうか。

たとえばiPhoneで有名なAppleの創業者の一人であるスティーヴ・ジョブスは、市場調査をしなかったことで有名です。それは消費者は自分が何を欲しがっているかを明確に理解しているのではなく、具体的な物を実際に見せられて初めて「こういうのが欲しかったんだよ!」と気づくと考えていたからです。だから、消費者に何を求めているかを聞いても仕方ないし、そこから得られるデータを分析しても仕方ない。本当の意味で消費者の立場で考え、自分だったらどういう物が欲しいかを真剣に考え抜くことこそが重要だというシンプルな哲学があったからです。

 

勿論「じゃあ、何でもかんでも自分のことしか考えないような自己本位で物事を進めるのが良いのか?」という訳ではありません。

やはり物事というのは程度問題ではないかと思うのです。客観と主観のどちらかではなく、その中間というかバランスをどこに置くのか。そのバランス感覚とセンスこそが重要ではないかと。

 

そもそも真の客観性などというものは存在しません。客観的な分析のように見えても、分析という行為そのものが何かしらの仮定や想定を前提にしか行えないのです。たとえばある物事を日本語で考えるとしたら、日本語という言語がカバーしている概念の中でしか考えることはできません。それが英語だろうがドイツ語だろうが同じことです。つまり何かを分析しよう、あるいはデータを収集しようとしたその時点で、既に何かしらの思い込みや概念、文化を基盤にした予断を伴うものなのです。当然逆もまたしかりで、真の主観性なども存在しません。ある人の考え方や価値観とは誰かとの関係性の中で成り立つものであり、その関係性の中で常に変化しつづけるものであるのです。完全に「自分独自の考え」などというものは幻想に過ぎません。

 

やはり重要なのは、主観性と客観性のバランスをいかにとるかというセンスの問題なのだと思います。

 

その意味においてハズキルーペの宣伝は、社長自らが信じる商品の特性とその良さという主観的な見方と、必要な人に情報が届くための道筋を見極めるという客観的見方のバランスが取れていたことが勝因ではないかと思います。

そして、もっとも重要なのはそのバランス感覚を信じて貫き通したことです。まぁ、実際CMのみてくれのダサさは凄まじいものがありますが(笑)、結果を出せばそれが勝利であることも事実です。ビジネスの世界ですからね。

 

人間は自分に自身が持てない時にはどうしてもデータなどの客観性に基づいて判断をしたくなります。ですが、結局最後には自分が正しいと思う道を信じ、それが正しくなるまで貫き通す強さがある者こそが最終的には強い。

当たり前のようですが、実は一番難しいその事実の重要性をハズキルーペのCMは教えてくれるような気がします。

 

という訳で。

今日の締めの言葉はやはりあれしかありませんね!

 

ハズキルーペ、だーい好き!  ❤(ӦvӦ。)」

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました(≧▽≦)

アメリカに「ねじれ国会」は存在しない。 ねじれという日本的発想。

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昨日に引き続きアメリ中間選挙ネタですが、日本のメディアの報道を観ていて面白いなぁと思ったことがあります。

それは今回の中間選挙によって上院が共和党優位、下院が民主党優位になった状況をして「ねじれ議会」と表現していることです。

 

これは勿論日本の国会で衆議院参議院のどちらかが与党優位で、もう一方が野党優位になることを「ねじれ国会」ということをもじって言っているのです。確かに今回の選挙によりそのような状態になったことは事実だと思います。しかし、当のアメリカ人達は「ねじれ議会」などとは思っているはずがありません。なぜなら「ねじれ議会」という概念自体が日本的な発想であり、アメリカにはそんな概念は存在しないからです。

 

“ねじれる”ということは何か正しい方向性があり、それが別の力によって意図せざる方向へと変化することです。これを「ねじれ国会」に当てはめて考えてみましょう。

国会がねじれているということは、与党が示す方向性がまず存在して、それが衆議院参議院を通してスムーズに国政へと反映されるという“本来のあるべき筋道”が、野党勢力によってスムーズに流れていかないという状況が生まれているということです。

つまり、上意下達という「上からの意向が下に伝わって行くのが、あるべき筋道である」という前提が国政においても置かれているということになります。

 

その是非はさておき、これってある意味とても「日本的」な考え方だと思うのです。ヨーロッパ諸国はちょっと分かりませんが、少なくともアメリカにはそのような考え方は存在しないはずです。

彼らはむしろ、意見の違う人達が闊達に議論を行うことで、お互いの意見が超克され、より良い方策が見つかるはずだと考える人達です。しかもアメリカにおいて政府や権力というのは、アメリカ人の自由を制限しようとするある意味忌みすべき対象であり、そのような行動を起こさないよう広く監視すべき対象なのです。

であれば、上院と下院において一つの政党が単独優位に立っている状況の方がむしろ好ましくないと考えるのです。

今回の中間選挙でもそうですが、だからこそ選挙で存分に戦った相手に対し、勝者は相手の奮闘を褒め称えるのです。

 

私は別に親トランプ派というわけではありません。

反・新自由主義ではありますので、それに対立する真っ当な政策を行おうとする態度は肯定的に捉えていますが、日本への二国間協定の強行な態度などを見ると別に日本の味方という訳ではありませんしね。

ただ、昨日の投稿にも書きましたが、日本のメディアのように「とりあえずトランプをこき下ろせるなら何でも良い」とばかりに、闇雲にトランプ政権の情勢を否定的に報じても何の甲斐もないということは理解しておくべきだと思います。

 

アメリカ人にはアメリカ人特有の概念と正義があり、それを日本的な価値観に無理やり当てはめて理解しても何の意味もありません。どんなにおかしな事に見えたとしても、別の国にはよそからは計り知れない道理があり、それを理解することはできないということ。そして、その上で、そのような各国の独自の価値観を尊重することを私達はもう一度肝に銘じる必要があるのではないかと思うのです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました(≧▽≦)

議席数は変えられても社会の空気は変えられない

既に散々報道されている通りアメリカの中間選挙が終わりましたね。

下院で民主党が巻き返したことはちょっと意外でしたが、大筋では予想通りかなという感覚です。別に議席数を予想してたわけではありませんが、大きなサプライズはなかったなという意味で。



相変わらず日本のメディアでは「民主党大勝利」とか「ねじれ国会」「トランプは運営が厳しくなった」とか「アメリカ第一主義の流れが変わる」とか言われてます。確かに政権運営には多少影響はあると思います。

ですが、大筋の方向には私は影響はないと思っています。

もちろん選挙の結果ですし、実際に議席数が変わる訳ですから純粋に「何も変わらない」という意味で影響がないということではありません。
私が言いたい影響がないというのは、反グローバリゼーションの流れはもはや止められないという意味です。


確かにアメリカの貧困率などを見るとリーマン・ショック直後のようなひどい状況ではないようですが、いまだに高い貧困率が維持されたままであり、経済格差が解消された訳ではありません(日本とは格差に対する価値観が違うと思いますので、日本における「格差」の意味とはイコールでないでしょうが)。

もともとトランプ政権の誕生は、レーガン大統領以来オバマ政権に至るまで進められてきたグローバリゼーションによって生まれた格差に対する、社会がその構成員である国民を守ろうとする社会自体の防衛本能としての側面があった訳です。その社会の格差が解消された訳じゃない以上、議会のパワーバランスが多少変わったからと言って、社会の空気そのものが大きく変化するとは思えません。

むしろ、今回民主党社会保険制度改革を訴えて議席を大きく伸ばしたことを考えれば、仮にトランプ大統領が二期目に選出されず民主党政権が誕生したとしても、「富の社会への再分配の強化」「格差是正のための政策」の方向で進み続けるのは間違いないと思います。

その空気の硬直は日本においても同じです。
日本でもどれだけ社会格差の広がりが訴えられても、規制緩和、自由競争という格差を広げようとする空気が変わらないことと同じです。何が正しいかではなく、「何が正しいと思われているか」がその社会の方向を決めるのです。
そして一旦醸成された空気を変えることは非常にむずかしいのです。

すわなち、日本のメディアが騒いでいるようにトランプ政権の是非そのものを語っていても、長期的な目で見れば何の意味もないのです。ただメディアが自分たちが考える正しい道かとトランプ大統領がやっていることが合わないから許せない、それだけのことではないでしょうか。
まぁ、言わば居酒屋で酒に酔った親父がクダを巻いているのと同じなのです。

勿論アメリカの情勢が日本に影響を与えることは間違いありません。その意味で今回の中間選挙を分析すること自体は手法の一つとして間違っていないと思います。
ですが、自分たちの方針と違うから文句を言うためちに粗探しを行っていても何も意味がありません。
今回の結果とそれに至った流れを分析し、そこからアメリカの次の手を予測すること。そして、その流れに潜む思想的な背景を知り、それとの比較分析により日本が進むべき思想的な道を考え議論することこそが重要なのではないかと思います。

そのような建設的分析を行う方は恐らく大勢いらっしゃいます。
ただ悲しいかな、メディアという表舞台に出てくる人たちにはそのような深い見識を持った方が少ないように思います。

日本にはたしかに活発な議論を行う文化はあまり根付いてないように思います。しかし、得られた情報を冷静に読み解く力は、面に出てこないだけで非常に高いレベルにあると思います。
願わくばメディアがそのような国民の知的興奮を刺激するような深いコンテンツが提供できるようにならんことを。
 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

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