世界を救う読書

ビジネス書から文芸書までさまざまな本を通して世界の見方を考えるブログ

古代中国の「莊子」が予言したネット社会の病。便利さの追求が心の安定を失わせる。

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さて皆さん、毎日どれくらいインターネットに接続していますか?

デスクワークをしている人であればネットに繋がっていない時はほぼないでしょうし、そうじゃない人でもスマホの時間まで計算すれば、むしろ寝ている時は常時接続が当たり前かもしれません。

 

確かにインターネット以前の世界に比べればはるかに便利になりました。

欲しい情報も無料ですぐに手に入るようになりました。

ですが、それによって失われた物もまた多いのではないでしょうか?

 

ネットでブログ記事を書いてるお前が何言ってんだwwというツッコミはさておき(笑)、ちょっと今日はそんな「インターネットによって失われた物」の話をしてみたいと思います。

 

ネット技術によって失われた経済効果

たとえば経済的側面で見てみましょう。

タイラー・コーエンというアメリカの経済学者が著した「大停滞」という本があります。

その中でコーエンはこのように書いています(そのまま引用すると大変なので私なりにまとめます。本文が気になる方は是非ご購入ください)。

 

大停滞

大停滞

 

 確かにインターネットは世界を大きく変えた。ツイッターFacebookといった新しい娯楽と情報伝達の方法を生み出した。

だが、その経済的効果は決して大きくない。

インターネットが生み出す価値の多くは、個人が私的に経験するものなので、GDPのような生産性のデータに反映されないのである。

たとえば私達が2ドルでバナナを買えばGDPがその分押し上げられるが、インターネットで20ドル相当の娯楽を楽しんでもGDPは上昇しない。むしろ、家にこもってインターネットを楽しめば、逆にGDPの値が小さくなる可能性すらある。

 

さらに、自動車や機械工業などに比べると、インターネット事業は圧倒的に雇用創出の効果が低いのである。

いわゆる「GAFA」と呼ばれる4大IT企業の従業員数を見ると

 

Google: 10万人

Apple: 12万人

Facebook: 2万人

Amazon: 56万人

 

確かに1企業としてみれば膨大な数であるが、全世界を席巻している企業として考えればGAFA全てを合計してもたった80万人程度の雇用しか生み出していないことになる。

ちなみにトヨタグループの社員数は37万人。当然自動車製造の場合、膨大な下請け企業が存在しており、そこまで勘案すれば膨大な数になる。

 

ネットという“無料サービス”の反対側には“無料で請け負っている人”がいる

いかがでしょうか?

確かに、コーエン氏が言うように私達はインターネットによって多くの娯楽を得ることができるようになりました。

しかも無料で。

無料であるということは、個人にとっては非常に有り難いものです。特にこのデフレ不況においては。

しかし、あるサービスが無料であるということは、反対側にはそれを無料あるいはそれに近い金額で請け負っている人たちがいるということでもあります。

 

そのようなインターネットにおけるサービスの両面を鑑みた時に、果たしてインターネットというものは私達の生活を本当に豊かにしているのでしょうか?

 

立場や価値観、その人の職業などによってその答えは変わるでしょう。

どちらが正解という訳でもないと思いますし、「本当はむしろ貧しくなっているんだ!」と声を上げたところで、今から「インターネットがなかった時代」に戻れる訳ではありません。

人間は一度手にした物をたやすく手放すことはできませんから。

 

ただ、私達が手に入れたものの反対で失ったものもあるということ。そして、なぜそれを失うことになったのかという背景や社会の原理に思いを馳せることは、決して無駄ではないと思います。

 

古代の思想家「莊子」が予言したネット社会の病

私はこういった「文明の利器」について考える時に、決まって思い出す話があります。

それは古代中国の思想家“莊子”の天地篇にある短い話です。

 

孔子の弟子の子貢という人が旅行をしている時に畑仕事をしている老人に出会います。

その老人は畑に水を注ぐのに、井戸から手でバケツを使って汲み出しています。子貢は

その老人に「はねつるべ」という機械があって、それを使えばもっと簡単に効率的に水くみができますよ、と教えてあげます。

 

それに対して老人は

 

「その機械は知っているが、機械に頼る仕事が増えれば、必ず機械に頼る心が生まれる。心に機械に頼る思いが生まれれば自然のままの素朴な美しさが失われる。

そして、素朴な美しさが失われれば命の働きが不安定になり、命の働きが不安定になれば人の道を踏み外す。

私はそんな恥知らずなことになりたくないから、機械は使わないのだ。」

 

と告げます。

子貢は恥ずかしくなって黙り込んでしまったそうです。

 

細かいところはちょっと違うと思いますが、大体こんな感じのお話です。

 

さすがに「はねつるべ」は古すぎるかもしれませんが、これは「インターネット」や「パソコン」「スマホ」であっても同じことではないでしょうか。

インターネットに頼った仕事が増えれば、インターネットに頼る心が生まれる。

そして、インターネットに頼り過ぎた結果、心の安定を失い、人の道を踏み外す。

 

正に現代の病を莊子が言い当てていると言っても過言ではないと思うのです。

 

 

私達はインターネットという技術によって多くの娯楽と情報、そして便利さを手にしました。しかし、その反対側で実に多くの物を失ったのではないか。

そんな事を考えた秋の夜長の一日でございました。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

 

 

台風21号が破壊したインフラ。もういい加減「想定外でした」は聞き飽きたぜ!!

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今年7月に福岡に帰省した際に「西日本大豪雨」という災害の真っ只中を経験した私は、「これだけひどい事は滅多に起きないわ。とんでもないことになってしまった。」と思っていましたが、ある意味にそれに勝るとも劣らない衝撃の災害が起こってしまいました・・・。

そう、一昨日日本を縦断した台風21号のことです。

 

 

様々な被害をもたらしたこの台風ですが、恐らく一番衝撃が大きかったのは関西国際空港の孤立ではないでしょうか。

 

実は友人が関空の近くに住んでいたので「あの辺は本当に何にもなかった。ただの海。あんな所を埋め立てて空港作って大丈夫なのか?」という声は聞いていました。

聞いてはいたものの今回のニュースで初めて知ったのですが、関空って開港依頼最大3メートル以上も地盤沈下してたんですね・・・。

 

大阪・泉州沖で平成6年9月、当時としては世界にも例のない海上空港として誕生した関西国際空港。長年の悩みは地盤沈下で、運営する関西エアポートによると、開港以来1期島は最大3・43メートル、2期島で4・14メートルほど沈んでいる。護岸のかさ上げ工事などで対策を進めてきたが、今回は「50年に1度」の想定を上回る高波が空港島を襲った可能性がある。

<産経新聞のニュースより抜粋>

 

そりゃ、海に沈む訳です・・・納得。

また、実際に利用したことのある人ならお分かりかと思いますが、関空は連絡橋一本でつながっているので、あそこがやられたら本当に陸の孤島になります。

私も以前海外での仕事から帰ってきたときに事故で鉄道が運休になり、半日近く閉じ込められたことがあります。

あれも8月だったのでめちゃくちゃ暑い駅構内で待たされた記憶があります・・・。

 

 

さて、今回の災害を受けてテレビのニュースでコメンテーターが「そもそもこんな所に空港を建設することが計画として問題があったんじゃないか」とか言っていました。

確かに問題はあったかもしれません。

しかし、所詮は人間がやること。「問題がない計画」なんてものはあり得ません。

どんな計画にも問題はあるのです。

 

しかも、今回のことが発生するまで(私が経験したような小さい事案ではなく)空港の存在そのものを脅かすような大きな事案は発生しておらず、プライベートにしろ、ビジネスにしろ、実に多くの人達がそのメリットを享受していた訳です。

それを今更「計画に問題があったんじゃないか」などと他人事のように言われても、何の益もありません。

 

考えなければならないのは(一刻も早い復旧はもちろんのこと)、「計画には必ず問題がある。」「想定を超えた災害は必ず起こる」ということを前提に、想定を遥かに超える防災建設計画を立てておくこと、そしてそのような事案が起こった時に様々な回避ルートを予め備えておくことです。

 

そして、そのためには当然「インフラ整備の投資のための予算」をしっかりとつけることが肝要です。

災害が起こる度に「想定外のことが・・」と言い訳したり、「計画に問題があったんじゃないか」と糾弾したりしても仕方ないのです。

 

日本のような世界に類を見ない災害大国であれば

 

「“想定外のことが起こる想定”でのある意味過剰とも言えるほどのインフラ整備」

 

を行って当然なのです。

そして、そのためにはそれを実行できるだけの「まともな予算」をつけなければなりません。

その予算をつけるのを妨げているのが、言うまでもなく「日本の借金1,000兆円!」「日本は財政破綻する!」論です。

 

しかし、日本の国債のうち半数近い45%が既に“日本政府の子会社である”日銀が保有しています。つまり45%は返済不要。

国際通貨基金(IMF)は、中央銀行保有の自国通貨建て国債については、デフォルトリスク、つまり破綻する危険性が「0」だとしています。

 

そのような状況、いえ事実の中で「お金がないから」などと言って、国民の命を危険にさらすようでは、何のための国家なのか意味不明です。

 

東日本大震災以来、何か災害があるとバカの一つ覚えのように

 

「想定外でした。」

「想定外でした。」

「想定外でした 〜 (*^▽^*)ゞ」

 

いつまでも同じ言い訳が通用すると思ってると大間違い!!

こっちが聞きたいのは「想定外のことが起こった時のために、どのようなバックアップ体制を取っているか?」だ!!!

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

医者の技術と責任まで無償で引き出そうとする東京オリンピックの病

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 以前の投稿で、ボランティアの名目で若者の労働力を無料で活用しようとするオリンピック組織委員会を批判しました。


 と思ったら、今度は選手や参加者の命を預かる医者まで無料で活用としていたようです。

 


記事によると、高尾美穂氏というスポーツドクターのところの東京オリンピック組織委員会から東京オリンピックへの参加要請が届いたとのこと。

ところが・・・

産婦人科医で婦人科スポーツドクターの高尾美穂氏は、東京五輪でのスポーツドクターの依頼がきたことを29日にTwitterで報告。しかし、その報酬は「案の定 無償」だったとして、「本気でこれでいいのか?これでは日本スポーツ界は変わっていかない」と疑問を呈している。医師としてのスタンスについて、「好きな人が好きなことやってるんだからいいでしょ?じゃない、資格持って責任持ってする仕事なんだよ」と語っている。

 

 前回取り上げたような学生ならまだしも(いや、それも十分駄目なんですが)、今度は人の命を預かる医者にまでボランティア活動を求めたとのことです。

 

そもそもボランティアの語源はラテン語のvolutasであり、「自ら進んで」という意味です。

つまり自分から志願することであり、誰かに依頼されて行うものではありません。

ましてや、それが東京オリンピック組織委員会のような公的機関に近い団体であれば、強要だと言われても何も言い返せないでしょう。

 

引用記事の後略部にも書いてありますが、今回の場合、応急手当てセットを所持して会場を巡回するファーストレスポンダーとして従事するケースもあるようです。

だとすると、場合によっては正に人の生死に関わるような時も十分考えられます。

そのような責任のある仕事を無償で行わせようとは…正気の沙汰とは思えません。

医者の善意ややる気につけ込んで、対価を支払わずに責任を負わせるような所業は決して行ってはならないのです。

 

そもそもオリンピックとは何のために開催するのか。

国威発揚、日本の国際的地位の向上、スポーツ界の振興などさまざまな目的があるでしょうし、恐らくそれはどれも間違ってはいないはずです。

ただ、重要な側面の一つは経済振興という側面です。

数年前に大揉めに揉めたオリンピック会場の建設はもちろん、開催に必要な機材や関連施設の建設など相当な金額がオリンピック関連で使用されることになります。

その源泉は基本的には国民の税金です(都民の税金も込み)。

 

もちろん、だからと言って「無駄な金を使うな」と言うつもりはありません。

むしろ私は「ガンガン使え」と考えます。

今の日本の不況の原因は需要不足、投資先不足ですから、必要なお金はけちらずにガンガン使えば良いのです(誰かのポケットに入るだけのような無駄な出費は駄目ですが)。

 

だから、人件費もガンガン使えば良いのです。

医者にもガンガン払って潤わせれば良い(できれば貯めずに使わせるようにしなければなりませんが、そこは方法論の話なのでまた別の議論で)。

 

それをわざわざボランティアにするという考え方自体が、そもそも間違っているのです。

 

 

以上のことを一言でまとめて言えば・・・

 

オリンピック。

やると決めたらケチ臭いことしてんじゃねーーー!!!

 

というところでしょうか(笑)。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

池上彰著「世界史で読み解く現代ニュース」に潜む近代合理主義的歴史観

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さて、今日はある本の読書レビューをお届けします。

その本は

 

池上彰 & 増田ユリヤ 共著「世界史で読み解く現代ニュース」。

 

池上彰さんはご存知の方が多いと思いますが、私は全然存じ上げませんでした(笑)。

元々高校で歴史を教えていた先生だったようですが、今は教壇を離れて教育問題の現場を取材している方だそうです。
 
さてこの二人による共著である本書ですが、現代のニュースへの理解をぐっと深めるために、現代につながる世界史をそれぞれの視点で深掘りするという内容になっています。
 
内容はタイトルの通り現代のニュースを読み解く上で重要となる世界史のトピック、例えば
 
オスマン帝国の勃興」
フランス革命が世界に与えた衝撃」
「イギリスで発生した産業革命の影響」
 
などの解説となります。
 
という訳で、この本のレビュー開始!
・・・と行きたいところですが・・・・途中まで書きかけて、はたと筆が止まりました。
というのも、ぶっちゃけた話この本ではいわゆる歴史的な事実をご紹介しているだけなので、何かそれを一々取り上げても結局この本の内容を繰り返すだけではないのか? と思ったのです。つまり
 
「この本は面白いので読んでください」で終了じゃない??と(笑)
 
そんな事をわざわざブログに書いても面白くも何ともありません。
 
という訳で、読書レビューというよりも「私がこの本を最初に読んだ時にふと感じた違和感」ついて書いてみようかと思います。
 
その違和感というのは、池上彰さんと増田ユリヤがそれぞれ端書で書かれている、次の部分で感じました。
 
まず池上さん。
 
「世界史を知っていれば、現代のニュースが理解できる。現代のニュースからさかのぼれば、世界史が興味深く学べる。そんな視点から、この本を書くことになりました。」
 
 
そして増田さんの方はちょっと長くなるのですが、増田さんが北欧に取材に行った際に、とある学校で世界史と日本史を教えているという話をした時に
 
「課目を二つに分けて教えてるなんて、何か特別な意味があるのか。もう一つは、地球上の歴史は一つではないのか、日本だって世界の国の一つだし、さまざまな国とのつながりの中で歴史を積み重ねてきたのではないか、というようなことを先生から言われた。
その時は『古い時代は、日本とヨーロッパとの関わりはほとんどないし、日本史でも他国との関わりを教えている』と答えるのが精一杯だった。何を伝えたくて授業をしてきたのかを考えさせられた。」
 
というエピソードです。
 
私はこれらのエピソードの中に、世界史というものをプロフェッショナルとして扱うこの人たちでさえも
 
「世界の歴史は一つである。」
「世界とは同じ時間軸の中で流れていって一つ歴史を刻むものである」
「世界の歴史は理性によって理解が可能である」
 
という、西洋的な歴史観の潜在意識レベルでの刷り込みが潜んでいると感じました。
 
 
どのような時代であれ、その時に起こった出来事全てを把握することは人間にはできません。
ましてやその時に起こった出来事の関連性を理解するなどということは不可能です。
であれば、結局人間が歴史と呼んでいるものは、ある特定のタイミングで、特定の場所で発生した出来事から関連がありそうなものを人間が取り出したものでしかありません。
そう考えると、歴史とはそれらの事象に人間の誰かが主観に基づいて紐付けした、一つの解釈でしかありませんし、その人間の主観とはその人が生きた社会に根差した価値観から逃れることはできません。
 
だとすれば、世界史というものは、それぞれの社会に生きる人たちに共有される価値観が違えば、その分だけ無限に解釈があり得ることになります。
したがって、「歴史はひとつだ」という考え方自体が、ある特定の価値観が正しいという認識に基づいた独善的なものではないかと思うのです。
 
たしかに池上さんが言うように、歴史的な流れを知っていれば現代のニュースを見る目も変わってくると思います。
それ自体が間違っているとは思いません。
 
ただ、歴史がそれぞれの時代の社会の価値観に根差した解釈の仕方であるとするならば、今の、しかも西洋的価値観に染まった日本人の価値観で見た歴史でニュースを解釈できると考えるのは傲慢ではないでしょうか。
あくまで「ニュースを解釈する一つの手法を身に着けられる」。
その程度の話ではないかと。
 
 
 
日本に日本から観た歴史観があるのと同じく、ほかの国や地域にもそれぞれの国の価値観に根差した歴史観がある。
それは歴史には様々な立場での捉え方がある、という程度の話ではなく、それぞれの社会に流れる時間軸や世界観、人生観すべてが根本的に違うという意味で、価値体系の全く違う歴史観である、ということを忘れてはならないのではないか。
 
そのような事を考えさせられた、今回の池上彰さんと増田ユリヤさんの共著でございました。
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

さくらももこ死去に際して考えた。「漫画は文化」思想は漫画の面白さを殺す。

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既にご存知の方が多いと思いますが、ちびまる子ちゃんの作者さくらももこさんがお亡くなりになりました。

 
昔から漫画好きで、ちびまる子ちゃんもアニメ放送前から毎号読んでいた私としては、やはりこの件を外すわけにはいきません。
 
 
ちびまる子ちゃんと言えば、同じ漫画誌に掲載されていた「お父さんは心配性(誰も知らないかな(笑))」と並んで、私が
 
「ニヒルな笑いの漫画」
 
という存在を知るキッカケになった漫画でした。
 
最初はその「ニヒル」という概念が理解できず、何が面白いのかさっぱりでしたが、慣れてくるとその独特なスルメのような噛めば噛むほどに染みる笑いにすっかりハマった
 
 
ただ、そんな私ももう随分長いことちびまる子ちゃんのアニメを観ていません。
なぜでしょうか?
 
働き始めて時間がなくなった、というのもあります。
ですが、それだけではありません。
アニメの方向性が変わってしまったのがきっかけです(私の主観です)。
 
 
具体的にいつからかは覚えてませんが、ちびまる子ちゃんが「国民的アニメ」という位置付けになった頃ではないかと思います。
 
初期のちびまる子ちゃんは、実際に多くの人が子供の頃に味わうような
 
・どんなに頑張ってもどうしようもない「現実の壁」から逃げ出したい衝動
・そこから逃げ出すためにいろいろな策を弄するものの、結局失敗して現実の前に放り出される無情さ
 
そういった現実の世界に“後ろ向きに立ち向かわざるを得ない”子供の苦しさを、決して重苦しい暗い雰囲気ではなく、ニヒルな笑いで表現していたところに面白さがあったように思います。
 
それが「国民的アニメ」のような立ち位置に立たされるようになった頃から、そのようなちびまる子ちゃんの持ち味が失われ、「普通の家族団らんや学校の友だちとの絆を描く物語」になってしまったのです。
 
 
恐らくそのような方針転換は、ビジネス的な理由が主でしょう。
やはり「ニヒル系」では“マス”の支持を得ることはできませんので。
ただ、その背景には昔と違ってアニメや漫画を日本の文化だと持ち上げようとする、アニメや漫画に対する考え方自体の変化があったのではないかと思います。
 
 
私は一漫画ファンとしてこのような考え方には、強烈な違和感を持っています。
 
「漫画が文化になったら終わり」
 
だと私は思っているからです。
 
※「何をもって漫画というか?」という議論になるとややこしいので、その議論は避けます。とりあえずざっくりジャンプとかサンデーとか、普通の人が「漫画」と聞いて思い浮かべる、一般的な漫画雑誌に載っているようなコマ割り、吹き出しのある漫画スタイル、と理解してください。
 
誤解がないように書いておきますが、私は今でも漫画が大好きですし、その内容や価値がくだらない物だと思っている訳ではありません。
むしろ「あなたの人生に最も影響を与えた作品はなんですか?」と聞かれたら、私は速攻で
 
るろうに剣心です!」
 
と答えるくらいです( ̄ー ̄)ニヤリ
 
 ただ、“だからこそ”私は漫画には大人に文化的価値がどうのこうのと論じられるのではなく、子供が大人に隠れてこそこそ読むような、普通の世界とは全然違う禁断の世界を覗き込むようなワクワク感を子供に与え続ける存在であって欲しいのです。
だからこそ、むしろ大人には漫画を読む子供には眉をひそめて欲しいし、「公の場では漫画なんか読んじゃいかん! 」という常識をしっかりと持って欲しい。
そんな真っ当な社会であって欲しいのです(ま、そう言いながら裏では漫画読むんですけどね。「裏」で読むから漫画は面白いのですよ!)。
 
大人に隠れて読む。
大人に見つかったら嫌な顔されるけど、それでも面白いから読みたい!
そんなワクワク感とドキドキ感こそが漫画の面白さをブーストするし、だからこそ世の漫画家たちも子供に夢を見せてあげようと必死で描くのではないでしょうか。
それが「文化」だとまかり通ってしまったら、私には本来の漫画の面白さが失われてしまうような気がしてなりません。
 
 
私はそもそも「表現」というものは、制約が強ければ強いほど深い表現ができると考えています。
万葉集古今和歌集に載っているような和歌がその好例です。
五・七・五・七・七という非常に厳しい制約の中で、何とか今の心情や情景を伝えようと努力するからこそ、そこに想像の翼が広がるのです。
そういう意味においては、漫画のように絵でも文字でも表現できる表現方法は制約があまりありません。アイデア次第で何でも出来てしまうのです。
ですから、「文化」としての立場を漫画に与えて他の表現方法と並べてしまうと、それは逆に漫画の底の浅さを際立たせるだけではないかと危惧してしまうのです。
 
※漫画は底が浅いというのは誤解を生みそうですが、現状漫画を描くハードルがかなり下がってしまっているので、玉石混交の状態になっています。
昔のような一握りのその道を極めた漫画家しか生き残れないような時代よりも、むしろ平均値は下がってしまっているのではないかと私は感じています。
ただ、その中でもすごい漫画を書く人は確実にいますので、「漫画自体が底が浅い」という意味で書いたのではありません。表現が拙くて申し訳ありません。
 
 
ちょっと脱線してしまいましたが、私の「漫画が文化になったら終わり」という主張をざっくばらんに言い換えるなら・・・
 
禁断の世界は“禁断”だから良いんだよ!
それが文化だと世間に認められたら、自己否定以外の何物でもないんだよ!
 
というところでしょうか(笑)。
 

 

文化とは国民の生活や価値観、あるいは道徳観に密接に結びついているものだから、「これを文化にしよう!」と言って作り上げることはできません。

その意味では、何か一つの文化的な特質が文化となるかどうかは歴史の中で定められていくと言えるでしょう。

 

ですが、子供の頃から漫画を読んで育ち、今でも漫画を愛読する私としては、漫画を文化として成立させることは、本来の面白さと読者の楽しみ方を失わせるのではないかと思います。

漫画には世間一般には開かれない、サブカルチャー的な存在でというか、良い意味で

 

「大人に黙って読んでほくそ笑むような、子供が現実から逃れて想像の世界へ飛び込んで行くような子供の宝物」

 

であって欲しい。

そう思うのは私だけでしょうか。

 

 

 

さて、随分長くなってしまいましたので、ここらで締めたいと思います。

私にとって、さくらももこさんの「ちびまる子ちゃん」という作品は、そんな「大人からは目をひそめられるけど、子供には共有できるシニカルな笑い」を提供してくれる貴重な作品の一つでした。

子どもの頃に「俺ってあくどいなぁ、嫌なやつだなぁ。こんなに現実から逃げて誤魔化してばかりじゃいけないんだよなぁ・・・」と思っても、ちびまる子ちゃんを読むと「みんな一緒なんだな。やっぱりそんなもんだよな。」とクスクス笑いながら、自分をちょっと許せるような、何かそういう安心感みたいなものを得ていたような気がします。

 

救われたというほどではないですが、ちょっと肩の荷が降りたような気にさせてくれる。そんな作品だったかな、と。

 

ちょっと硬くなってしまったかもしれませんが、私なりの敬意と感謝を添えて、今回のブログをさくらももこ氏に捧げたいと思います。

長い間本当にご苦労様でしたm(_ _)m

 

星野源の新曲「アイデア」に「アイデアの生み出し方」の真髄を見た

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突然ですが、皆さんWebサイトを作ったり、広告を作ったり、写真を撮ったりという「クリエイティブな仕事」と聞くとどんなイメージを持たれますか?
 
「なんか無駄に格好つけてそう」
リア充気取ってそう」
「芸術家気取りのアーティスティックな仕事をしている」
 
なんかそんな声が聴こえてきそうです(笑)。
そこまで極端じゃなくても、あまり良いイメージはないような気が・・・(笑)。
 
ただ、良い意味でも悪い意味でも
 
何か「アーティスティックなセンスで、クリエイティブなアイデアを出していく仕事」
 
というイメージはあるのではないでしょうか。
 
 
かく言う私もそういった、いわゆる“クリエイティブ”系に携わる仕事をしておりますが、今の仕事の前はいわゆる営業的な仕事をしていました。
クリエイティブ系には無関係の仕事でしたので、こういう仕事は
 
「人が思い付かないような奇抜なアイデアを考えられるような人じゃないと務まらない」
 
と思っていました。
 
ところが実際にやってみると、全然そんなことはないんだなという事を実感しています。
というか、このような仕事で必要になる「アイデアの出し方」はクリエイティブ系だろうが何だろうが実はそれほど変わらない。むしろ基礎は同じなんだな、とすら思っているのです。
 
 
 
実はつい最近そのような「アイデアの出し方」について考えさせられる出来事が続けて起こりました。
そこで今回は
 
「営業的なアイデアの出し方」
「クリエイティブなアイデアの出し方」
 
その両方を知っている私だからこそお伝えできる
 
「アイデアの出し方」のテクニック
 
をお届けしたいと思います!! ドーン!!! (・∀・)
 
あ、ちなみに、本文読んで貰えば分かりますが、私が考えた方法じゃないですww
私はあくまで「紹介するだけ」なので!!!。
そこんとこヨロシク!! (=゚ω゚)ノ
 
 
 
 
 
さてさて、では本題ですが、ぶっちゃけて言うと
 
イデアなんて何もそんな思い付きで出てくるものじゃないです。
 
そんなのね、当たり前ですよww
世の中そんな甘くありませんww
 
ですが
 
「より早く、それなりのクオリティでアイデアを生み出す確率をグッと高めることは可能」
 
です。
 
そのことを分からせてくれる出来事が最近2つほどありました。
 
一つがAvexでアーティストのプロモーションを担当していた、原尻淳一という方の著書「アイデアを形にして伝える技術」。
そしてもう一つはタイトルにも書いた、星野源の「アイデア」という曲です。
 
 
まず前者の原尻氏の著作について。
この中で著者が提案しているのは「アイデアを出す技術を身に着けるための方法」です。そう、この中で著者が前提にしているのは、アイデアとは技術であるという考え方です(この言葉自体は使っていませんが、内容的にはそのように解釈して問題ないと私は思っています)。
 
技術であれば、世界でもトップクラスのような「ものすごく高いレベル」の話をしなければ、知識や経験によって誰でもある程度は身に着けられるものということになります。
 
その具体的な手法がこの本の中には書かれているのですが、その基本的な考え方としては
 
「知識の収集、整理、そして組み合わせ」
 
です。
もう少し詳しく書くと
 
「アイデアを出すためには前提として、アイデアが求められる分野でより多くの情報を収集し、それを分析、整理して、体系だった知識として記録しておく事が重要。
なおかつ、それは単なる“知っているだけという知識”ではなく、それを必要とする人たち、活用する人たちにとって現実的な“当事者意識のある知識”として保存しておかなければならない。
 
また、そのような知識を活用できる状態にするには、常に「どのような形でその知識をアウトプットするか?」を考えながら、取り入れ整理しなければ意味がない。
 
そのような体系だった知識としてのアーカイブが構築できれば、アイデアとはそれらをどのように組み合わせるかだけである。
 
そして、その組み合わせ方は、どのような相手にどのような形で届けるべきかに応じて変えるべし。」
 
という感じでしょうか。
 
具体的な細かいテクニックに興味がある方は、実際の書籍をお読み頂くことをお勧めしますが、私がこの本を読んだ時に
 
「ああ、星野源が言ってたことと同じだな〜」
 
と感じました。
 
 
突然ですが、NHKの「あさイチ」という番組をご存知でしょうか?
朝の連続テレビ小説が終わった8時15分から毎朝始まる、NHKキャスターと博多華丸・大吉の3名が、いろいろな分野のゲストを呼んでお話をしたり、色んな社会問題などについて語り合ったりする番組です。
 
そのゲストとして先週星野源が出演していたのです。

 

まぁ、理由は単純で今放送している連続テレビ小説の主題歌を星野源が書いているので、その宣伝なのですが(笑)。

 

その曲名が「アイデア」なのですが、その番組の中で曲の背景などを星野源が語っていました。

その時に彼が語った言葉が耳に残っていたのです。

 

「曲なんてどこかから降ってきたりしませんよ。ギター持って、ああしよう、こうしようって悩んで作るんです。」

 

「毎朝みんなが見る番組だから、『おはよう』から始めようと思った」

 

連続テレビ小説の主題歌を作るというオファーがあったときに、この曲を僕の名刺みたいに出来ないかと思ったんです。色んな世代の人が見る番組だから、僕を知らない人も一杯いる。そんな人達に『僕はこんな人です。よろしくお願いします!』って名刺代わりになったら良いなと。

だから、今までの自分が作ってきた曲、これから作りたい曲、自分の過去、現在、未来を取り入れた曲にしようと思ったんです。」

 
記憶で書いているので細かいところはご勘弁願いたいですが、大体このような事を仰っていました。
 
これだけだと原尻氏の著作とどこが同じなのかが分かりづらいと思いますので、私なりに解説を加えますと・・・
 
まず、星野源は子供の頃から音楽が好きで、色んなジャンル、色んな世代の音楽に造詣が深い。
これは「知識の収集」です。
 
また、今回の主題歌について言えば、自分が作ってきた曲の特徴をしっかりと分析し、整理しておくことで、「自分の曲がどういうものか」を明確に把握している。
これは「分析と体系だった情報の整理」。
 
そして、この主題歌において求められるものが何かを理解した曲を構成(『おはよう』から始めることや、朝らしい爽やかな曲調)。
これは「アーカイブされている知識の組み合わせ」。
 
によって作り上げられたことが分かります。
 
しかも、その上で幅広い世代に自分のことを理解してもらうという名刺代わりにする、というセルフ・プロモーションの役割さえも持たせている。
 
「何か良い物を」というような漠然としたアプローチではなく、自ら作り上げた「アイデアを生み出せる方法論」によって、綿密に計算された曲に仕上がっているわけです。
 
お・・・恐るべし、星野源!!
 
 
 
恐らく星野源も様々な苦労の中でこのような方法を生み出した・・・あるいは、無意識のうちに身に付いたのかもしれません。
そういう意味では必ずしも体系だった方法論ではないかもしれませんが、前述の原尻氏の「アイデアを形にする方法」と非常に近いものがあると感じます。
 
原尻氏による理論と、星野源による実践。
 
確かに二人が口に出している言葉は全く違います。
ですが、どちらにも共通しているのは
 
イデアを出すのに「神は降りてこない」
 
ということ。
 
むしろ、懸命に頭をひねって作り上げたものが、周りにちゃんと届いた時、その作品やアイデアに神が宿るのかもしれません。
 
私も仕事なのか、ブログなのか、あるいは音楽なのか、何か神が宿るとまでは言わなくとも、誰かの心に届くようなものを生み出せるようになりたい…。
 
そんな事を考えさせられた二つの「アイデア」に関する作品を接した一週間でした。
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😊

トルコリラの暴落と経済危機。危機が繰り返される理由はそれで儲かる人たちがいるからだ。

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さて、世間を騒がせている通り、今トルコの通貨リラがえらいことになっています。

当然トルコ経済も大混乱です。

 

1990年代にはアジア通貨危機があり、最近ではギリシャ危機があり、正直「また危機なの? 今度はどこや?」という感じがしないでもありません。

 

ですが、そもそもなぜ何度も通貨危機や財政危機が発生するのでしょうか。

今回の投稿ではその根本的な原因・・・危機の裏に潜む投機家という名の“ギャンブラー”についてちょっと考えてみようと思います。

 

 

さて、一言に危機といってもその発生には、様々な理由があります。常に同じ理由とも限りません。

それぞれの国の政治情勢や価値観、はては宗教問題などいろいろな事情が複雑に絡み合っています。

 

ぶっちゃけて言うと、それをこのようなブログごときで全て解明することは不可能ですwww さじ投げたww

 

 

ですが。

一つだけお伝えできることがあります。

 

それは

 

このような危機が繰り返される理由の一つは、それで儲かる人たちがいるから

 

だということです。

 

 

経済危機が起こりやすい方が都合が良い人達

一見、経済情勢が不安定化するということは悪いことのように見えます。

しかし、ちょっと別の視点で見ると次のようにも言えるのです。

それは

 

「不安定化するということはリスクが高まるということ。

リスクが高まるということは、それだけリターンも高まるということ。 

つまり、ギャンブルと同じように稼ぎどころと引き際をきちんと見極められる能力があれば、経済危機はむしろギャンブラーには好ましい。」

 

ということなのです。

 

例えばCDS (クレジット・デフォルト・スワップ)という金融商品があります。

複雑な条件は抜きにして、簡単に説明します。

 

例えばA社がB社に1,000万円の債権があるとします。

B社がちゃんと1,000万円を支払ってくれれば良いのですが、倒産したら困りますよね。下手すれば1,000万円がパーです。

 

そこでA社はC銀行に、B社が倒産した時のことを考えて1,000万円を保証する「CDS」という契約を結びます。

その代わりA社はC銀行に定期的に手数料を支払います。

銀行は手数料が儲かりますし、A社はB社が倒産しても1,000万円は保証されるので安心できる訳です。

 

これだけなら特に問題はありません。

ややこしいのは、この「CDS」という金融商品は、仮にA社がB社に債権を持っていなくても、A社とC銀行の間の契約で成立してしまう金融商品として取引されていることです。

つまり、A社はべつにB社への債権がなくても、C銀行からこのCDSという商品を買えるのです。C銀行としてはそれでも手数料が入ってくるから全然問題ありません。

 

そして、A社はもしB社が倒産した時は、債権を持っていないにも関わらずC銀行から1,000万円の保証金を受け取れます。

仮に手数料をC銀行に50万円しか払っていなかったとしたら、950万円まるまる儲かるのです。

 

恐くないですか?? CDSってwww

こういうのをデリバティブ (金融派生商品)というのですが、聞いたことある人もいるんじゃないでしょうか。

 

いや、投機家は儲かるんでしょうけど、こんなバクチみたいな商売、本当に恐ろしいですわ(笑)。

 

国家財政まで投機の対象にする恐ろしさ

元々国債市場は安定した債権であって、いわゆる安全資産とされてきました。

しかしながら、このCDSによって国債までも「市場に向けて開かれた」・・・と言えば聴こえは良いですが、いわゆるヘッジファンドなどによって投機の対象にされてしまったのです。

 

そして、このCDSの場合、購入してから時間が経つほど手数料がかさみ、その一方でいつまでも保証金が貰えません。ずっと損し続けるわけで、それは困ります。

この場合、投機家にとっては財政状況が不安定化し早くデフォルトすることで、手数料が少なくなおかつ高い保証金を得ることができる、ということになります。

あるいはデフォルトしなくても、財政状況の不安定化により保証金と掛け金が上がれば、その保証金の高さを餌にして別の投機家にCDSを売りつけてしまえば、自分だけは損しなくて済みます。

 

つまり、財政状況が悪いというハイリスクの状態こそがハイリターンを得られる可能性が高くなるというわけです。

 

これが問題なのは、実際に国家がデフォルトしそうな危機に陥ったとしても、ギリシャの時のようにデフォルトしてしまう前に売り抜けてしまった場合、その投機家は損をしなくても、「デフォルトした国」に済む国民はデフォルトによる債務の精算をしなくてはならないということです。

 

いわば投機家が儲かった分を国民が負担しなければならなくなるということになります。

 

 

しかし、そうだと分かっていてもそのような投機家の資金に頼らざるを得ない。

それが財政状況の悪化した国家の辛いところです。

自国通貨建てで国債をまかなっている国であれば、通貨を発行してその国債を補填することが可能です。

ですが、トルコもそうですし、ギリシャの場合もそうだったのですが、「外貨建て国債」の場合は、そのような真っ当な手段をとることができないのです(ギリシャの場合は「外貨」ではないですが、自国で通貨発行権がないので条件は同じです)。

 

そうすると、どうしてもそのような投機家と、彼らにCDSのような商品を売りつける民間金融機関の力に依存せざるを得なくなる・・・という訳です。

「分かってても他に手がないんだから仕方ないじゃないか!!」ということですね・・・。

 

投機家が儲かるリスクを背負うのは国民である

実はこのような「国家の(金融)市場への依存」をもたらすのは、今回取り上げたCDSだけではありません。

為替レートや金利も同じことです。

 

為替レートの変動が生む、グローバル化という資本移動の自由化によって増大した為替差益や企業収益への影響。

そして、金利においては、実際今のアメリカの金利が高まっているために、新興国から投機家が引き上げ、アメリカに舞い戻っています。

 

これらの動きによって各国の国内の企業活動が左右されるため、国家までもがそのような投機家の動きに敏感にならなければならなくなっています。

いわば国家が市場に隷属させられているような状況であり、国家は市場の顔色をうかがいながら経済政策を検討しなくてはならなくなっているのです。

 

そして、先程も書いたように、いざ事が起こった時にその尻拭いをするのは国民なのです。投機家ではありません。

 

本来国家とは国民の生活を向上させる「経世済民 (世の中を治め、民を救う)」のために政策を行わなければなりません。

それが今のグローバル化した世界では、「世界を股にかける投機家を招き入れる」ために政策を行わなければならない。

 

日本人は島国根性が逆に働くせいなのか、とかく「閉鎖的」ということにものすごい忌避感を示し、「開放的」ということに非常に強い憧れというか義務感を感じがちです。

それと同じくグローバルな資本を取り込むということにも強い憧れを抱くようです。

 

しかし、今のトルコを見てください。

グローバルな資本を取り込んだ結果がこの有様です。

 

グローバルな資本を取り込むということがどういう事を意味するのか?

それをもう一度冷静に考え直す時が来ているのではないでしょうか。

 

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POLA化粧品の新CMに見る「日本人の主体性」について考えてみた。

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さて皆さん、化粧品メーカー「POLA」の新しいCMをご覧になりましたでしょうか。

普段テレビをご覧にならない方はご覧になってないかもしれませんね。

 


その中で次のようなセリフがあるのですが

 

「この国では二つの仮面が必要だ。

学校では個性が大事と教えられる。

会社では空気を読めと言われる。

私は私の風を吹かせる。」

 

だそうです。

 

二つの仮面という言葉からすれば、「個性偏重」も「空気読め」もどちらにも与しないということのように思います。

ですが、最後の「私の風を吹かせる」というのは、「自分らしさを出していく」ということだと思いますので、結局個性偏重主義という結論のように思えて、ちょっとよく分かりません。

 

その結論はよくわからないのですが、このCMを見た時に

 

「学校では個性が大事と教えられる。

会社では空気を読めと言われる。」

 

という点は、なかなか現代の日本人の精神の問題点を突いているなと思いました。

 

「個性が大事!」は本当か?

そもそも私はこの「個性が大事」というセリフに対して強烈な違和感を感じています。10代の頃からです。

 

なぜかと言いますと、私は

 

周りに叩かれて潰れるようなものは、しょせん個性ではない。

 

と思うからです。

 

子供の個性を大事に育てようとか、子供の個性を尊重しようとかよく言われますが、そもそも個性というものは、そのような温室でぬくぬくと育つようなものではありません。

個性とは、他者と自分を隔てるその人独自の性質のことですから、個性が強ければ強いほど他者とのぶつかることを避けられません。

それを大事にしようということは、逆に「周りが我慢しろ」ということであり、個性至上主義という価値観の押し付けに過ぎないのです。

 

 

それでも制御できずに表れてしまうもの・・・それが個性なのです。

したがって、個性を持つ人間というのは(というか逆に個性がない人なんて本当に存在するとは思えませんが)、自分の性質を周りと共存していくためにどのようにコントロールするか? という技術を身につけていかなければならないのです。

 

 

日本が個性偏重主義に陥ったわけ

しかし、実際現代の日本ではこの個性偏重主義が蔓延しています。

なぜそのような事になったのかというと、戦後日本人の中で日本人自身に対する

 

・日本人は周りに同調するばかりで主体性がない

・自律的な考えを持っていない

 

というイメージが広まり、その結果欧米のような主体的に判断する個の確率が必要だ!という考えが蔓延したからだと思います。

 

例えばこんな事を聞いたことありませんか?

 

聖徳太子が“和を以て貴しとなす”と言っているように、日本人は昔から周りのことばかり気にしてきた。自分がどう考えるかよりも、周りの意見に合わせようとしてきた民族なんだ。」

 

と。

 

ですが、本当にそうでしょうか?

日本人は本当に「周りの目ばかり気にして自分の意見を言えない」民族なのでしょうか?

 

私はそれは日本人の価値観や主体性について、欧米的な価値観に基づいて考えているから生じる誤解であると思います。

いえ、もっと正確に言えば、誤解というよりも日本人の主体性に対する不勉強のせいだと思います。

 

 

英語と日本語の「自己観の違い」が主体性を左右する!?

このブログでは何度か書いているのですが、英語などのインド・ヨーロッパ語族では「私」を意味する言葉は常に「I」などの不変のものです。

どんな状況であっても、話す相手が誰であっても一人称代名詞は無関係であり、普遍的なものです。これはいついかなる事情においても「不変の存在」として自分があり続けるということを意味しています。

 

しかし、日本語ではそれが異なります。

普段の生活を思い起こせばお分かりでしょうが、この一人称代名詞が

 

「私は〜」

「俺は〜」

「お父さんは〜」

「ママは〜」

 

などと、周りの状況や話す相手次第で変化していきます。

 

つまり、そもそも自分が何者なのかを考える「自己観」が英語などのインド・ヨーロッパ語族と日本人では違うということなのです。

 

施光恒氏の「本当に日本人は流されやすいのか」によると、このような自己観を社会心理学的には

 

英語などの欧米言語で見られる自己観を「相互独立的自己観」

日本語に見られる自己観を「相互協調的自己観」

 

と呼ぶそうですが、それが実は「自分が何者か」という自己観だけでなく、道徳的な価値観にも密接に関係しているとのことです。

 

施光恒氏の著書から引用すると

 

「(欧米で主流な相互独立的自己観では)道徳的責任は、その人の埋め込まれている人間関係や社会的役割からは区別され、状況超越的な原理・原則にそうべきものだと捉えられる。」

「一方、(日本的な相互協調的自己観では)状況超越的な原理・原則ではなく、具体的人間関係や他者の気持ち、自分の社会的役割などの状況における具体的事柄を道徳的思考の際に重視する道徳観」

 

であると言います。

 

つまり、言語の一人称代名詞と同じく、どんな時でも確固たる自分と自分が正しいと信ずる原理・原則に則って主張する欧米に対し、日本人は自分が置かれた具体的な状況に対して適切な行動を行うことが道徳的に正しいと考える考え方が強いということです。

 

 

「主体性がない」と「状況に応じた行動」は別物

ここで注意しなければならないのは、「状況に対して適切な行動を行う」ということを安易に「だから日本は周囲に同調してばかりなんだ」と解釈してはいけない、ということです。

 

どれだけ周りに合わせて行動したとしても、それが適切な行動とは限らない。

それは仕事でもそうでしょうし、スポーツなどの趣味の世界でも実感したことがある方は多いのではないでしょうか。

 

例えば私は音楽をやっていますが、音楽の場でも同じことが言えます。

自分がやりたいプレイがあるからと言って、音楽の流れやメンバーの動きを見ずに全く無関係なプレイをしてしまっては、その音楽自体を壊してしまうことになります。たとえそれがどれ程テクニカルなスーパープレイであったとしても。

 

逆に周りの音に気を取られすぎてそれに合わせてばかりでは、自分が何をしたいのかが周りの人に伝わらず、結局何も生み出せないただの音の羅列になってしまいます。

 

自分が何をしたいか、周りが何をしようとしているか、今演奏している音楽はどこに向かっているのか。

それを冷静に見つめ分析する達観した視野があってはじめて、音楽という音の調和の芸術を奏でることができるのです。

※ちなみに欧米人のプレイは、正に個性と個性のぶつかり合いです。人によるとは思いますが、全体の調和を考えた音楽的プレイというのはある種日本的な音楽的価値観だと思います。

 

何が言いたいかというと「状況に合わせた適切な行動を行う」というのは、必ずしも周りの人間に同調するだけの主体性のない行動とは似ても似つかないということです。

 

むしろ、どのような状況であっても原理・原則に従って行動するよりも、相当に難しい行動様式なのではないかとさえ思えるのです。

自分の考えや能力、周りの人間の考えや能力、そしてそれらを取り巻く環境を冷静に分析し、先のことまで計算した上でなければ本当の意味での「状況に合わせた適切な行動を行う」ことはできない、ということだからです。

 

日本人の主体性は“いぶし銀”だ

確かに

 

・自分の主義や考えを主張する

・周りに流されない

・自分の個性を強く持つ

 

というのは、肩で風を切るような潔さや格好良さがあるように見えます。

 

一方、日本人的な「周囲の状況に合わせて判断を変えていく」というのは、“いぶし銀”と言いますか一見して分かりにくい地味な考え方のように見えます。

しかし、それは自分という“我”にとらわれず、かと言って周囲の意見を唯々諾々と聞き入れる訳でもない、全体の調和を図りながら適切な行動を取っていくという成熟した大人の態度とも言えるものです。

 

状況に応じて“自己”を表す一人称代名詞が変化するように、無意識レベルで状況に合わせた柔軟な変化を旨とする日本人にとっては、むしろそのような全体の調和を考えた行動ができる懐の深さこそがぴったり合うのではないかと思うのです。

 

 

うーん・・なんか今日はちょっと言いたい事がバラバラしちゃったかな?

すみません。

ただ、

 

日本人には日本人なりの主体性があり、それは欧米的な主体性にも勝るとも劣らないものだという事に自信を持って欲しい! 

 

そんな願いが伝わると良いな、と思って今日の投稿を書かせて頂きましたm(_ _)m

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

移民先進国の欧州でも持て余す移民問題を、“日本ごとき”が乗り越えられるわけがない。

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突然ですが皆さん、「奴隷貿易」という言葉を聞いたことがありますでしょうか?

中学校や高校の歴史授業でも取り上げられますので、ほとんど人が聞き覚えはあるのではないかと思います。

 

念のためコトバンクさんの説明を引用しておきますと

 

アフリカ住民を奴隷としてアメリカに売込んだ近代ヨーロッパの貿易形態。 16世紀以来新大陸植民地化が進むにつれて,アフリカ黒人を捕獲して植民地の労働力として売ることが始った。

この貿易の輸送船に乗船させられる黒人の待遇は拷問に等しく,輸送される全黒人の少くとも 20%は,航海中に死亡したといわれる。

 

とのことです。

 

なんとなく思い出されましたかね?

 

さて、この奴隷貿易

上記のコトバンクの説明にも書いてあるように16世紀以降18世紀くらいまで行われたものですが、これが現代でも繰り返されているということを書いたら信じられますでしょうか?

 

「え? これって歴史上の出来事じゃないの?」

 

と思われますよね。

 

ところがどっこい、現代でも平然と行われているのです。

しかもヨーロッパにおいて。 

 

 

この記事によると

 

マリ、セネガルコートジボワールギニアなどフランス語圏に募集グループがあり、旅行会社を装い、ヨーロッパでの仕事を斡旋するともちかけて代金を支払わせる。陸路、地中海沿岸までいき、別のグループに引き渡され、少人数で小型船でスペインに渡る。

偽のパスポート・身分証明書書類でスペインに入国すると、スペイン国内の組織に引き渡されてバスク地方まで移動する。ここからフランス国境を越えて「買主」の組織に渡されるのだ。 

こうして密輸された移民は、農場で闇労働させたり、乞食のグループに入れられたりする。「フランス、英国、ドイツでは4、5人のアフリカ人を買い、教会やスーパーマーケットの入り口で物乞いさせたり、馬小屋ではたらかせたりする」。

働けたとしても、労働したとしても、イタリアの例よりももっとひどくて、月に100ユーロもらえるかどうかだという。

 

だそうです。

 

この記事のタイトルにもある通り、正に「ヨーロッパによみがえった奴隷貿易」と言って過言ではないでしょう。

 

ヨーロッパと言えば、EU憲法である欧州条約にも書いてあるように

 

「人間の尊厳、自由、民主主義、平等、法の支配、人権の尊重の諸価値を基礎として、多元主義、無差別、寛容、正義、連帯及び男女平等という価値を共有する社会」

 

として一般には受け止められています。

 

そして、このベースになっているのは、いわゆる18世紀以来ヨーロッパで脈々と受け継がれてきた啓蒙主義を体現した価値観。

人間の可能性は正しい「理性」によって切り開かれるもので,そこにこそ真実の認識と人類の幸福とが実現できる世界があるという信念、あるいはイデオロギーです。

 

すなわち、人間の「理性」に対する絶対的な信頼といえるでしょう。

 

そのような「人間が理性的に判断できる環境を作り上げれば、人間は常に正しい判断ができ、世界は幸福になる」という信念こそが、様々な民族や価値観を受け入れ社会を多様化させることで、社会がより豊かになり、そして活性化されるという多文化共生主義を生み出しました。

 

戦後ヨーロッパで推し進められた移民受入拡大は、そのような多文化共生主義をベースとして行われていったのです。

民間企業にあらゆる民族を平等に自由に雇用する機会を与え、民族も国境を超えて自分が自由に働ける場所で働くことができる。そして社会の側もそのような他民族によって構成される状況を許容する。

そのような理想社会の実現を目指す。

 

しかし。

そのような自由と平等の追求の結果として実現されたのは、17世紀、18世紀の奴隷貿易の再来だった。

 

つまり啓蒙主義に基づいた自由や平等という近代的価値観は、進歩してきた“はず”の人類の歴史の時計の針を逆回りさせただけに過ぎなかったということです。

 

これが今ヨーロッパで起こっている現実です。

 

 

にも関わらず。

ヨーロッパで繰り広げられているにも関わらず、むしろ日本では移民受け入れを拡大しようという動きが政府を中心に活発になっています。

人手不足に悩む民間企業のみならず、メディアに出演するコメンテーターのようないわゆる知識人もいまだに

 

「今までとは考え方を変えるべきだ。」

「人手不足への対応待ったなし」

「移民受入のルールづくりをしっかり行って対応すべき」

 

などと移民受入を容認、推進すべしという見識を述べる人間が大勢います。

 

そういった人たちは

「日本は遅れている国である」

「日本は世界から閉ざされた国である」

 

という先入観の下「とにかく日本はもっと門戸を世界に開くべき」という結論ありきで話しをします。

 

ですが、そのような価値観からすれば“移民先進国”でもあり、“世界に門戸を開いている”ヨーロッパ諸国でさえも、移民に関してはこの有様。

解決の糸口が見えないどころか、ヨーロッパの連帯を破壊するような事態にまでなりかけているのです。

 

そのようなヨーロッパ諸国でさえ持て余すような事案を“移民後進国の日本ごとき”に無事に取り扱えるなどと本気で考えているのでしょうか?

 

わざわざヨーロッパが身を挺して移民問題の深刻さ、一度その政策を進めたら二度と下には戻れないという現実を示してくれているのに、今更同じステージに乗り込んで行こうとするのは、私にとっては正気の沙汰とは思えません。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

日本の新聞に本当ことを伝える「ジャーナリズム」は実現不可能である

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さてインターネット全盛期である昨今、みなさん普段新聞を読んでいますか?

昨年私の会社に入った新入社員はサラッと「ネット見れば良いんで、わざわざ買う意味ないですもんね。ネットの方が早いし。」と言ってのけました。

 

ちなみに、その子は学がない訳ではありません。

某有名国立大学の出身で、実際頭は相当切れる子です。

 

まぁ、正直そうですよね。

情報の速さでは新聞は絶対にネットニュースに勝てませんし(元ネタが新聞だというのはとりあえず置いておいて、「世に出るタイミングの速さ」では)。

何よりデフレ全盛期に育った人間にしてみれば、「なんでわざわざお金を払って・・・」というのが率直な感想なのでしょう。

 

とは言うものの・・・実は私自身も昔から新聞という存在には懐疑的でございました。

少なくとも新聞記事を「事実」だとして受け入れたことはほとんどなかったのです。

今のようなインターネットなどが影も形もなかった頃から「新聞記事」には、ある種の怪しさを感じていました。

 

別に「私は子供の頃からメディア・リテラシーが高かったんです!」などと偉そうな話ではありません。

 

単純に本を読むのが昔から好きだった分、学校で宿題のような新聞を読むことを半ば強制されたりするのが嫌だったこと。

それと中学生くらいまでは「物語」を読むことは好きで小説を読み漁っていた一方、政治や経済的な「事実」にはあまり興味がなかったからです(笑)。

 

 

また、そのような斜に構えた考え方の私からすると、何より日本のメディアのあり方には以前から疑問を感じていたのも事実です。

とかく政治的なスキャンダルが発生すると、どの新聞も同じ様な論調でその点をあげつらって袋叩きにすることがそもそも「報道」だとは思えませんでした。

その上、社説では神の視座から見ているような抽象論をぶち上げて悦に入っているような小論文を載せているようにしか見えない。

「小論文の書き方の参考になるから」と社説を読むことを学校の先生に勧められても、「テストで点数を取れるようになるために、読みたくもない新聞の主張を読ませられている」という気分にしかなれず、苦痛以外の何物でもありませんでした。

 

そういう意味では私はもう何十年も日本の新聞の権威を距離を置いてきたのですが、それを支援してくれるかのような本を見つけました。

 

それが今回のお題でもある

 

ニューヨーク・タイムズ東京支局長 マーティン・ファクラー(※)著

 

「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」

 

です。

相変わらず前置きが長くてすみませんwww

 

(※ Wikipediaによると2015年にニューヨーク・タイムズは退職されたようです)

 

この本のポイントは

 

「現在の日本の報道のあり方では、構造的に真のジャーナリズムを養い、国民に必要な情報を届けることはできない」

 

という所だと思います。

 

その根拠となっているのが

 

記者クラブ

「サラリーマン記者」

 

の存在です。

 

前者の記者クラブは様々な所でその弊害が謳われていますので、その存在をご存知の方も多いかと思います。

一応Wikipediaの説明を記載しておきますと

 

記者クラブ(きしゃクラブ)は、公的機関業界団体などの各組織の継続取材を目的とするために大手メディアが中心となって構成されている任意組織。

 

です。

この記者クラブは英語でも「kisha kurabu」と表現される通り、海外にはそれに該当する機関がない日本独特の組織です(Samurai、Fujiyama、Geisya、みたいな感じですね)。

 

著者のマーティン・ファクラー氏も「日本で取材をするようになって最も驚いたのは、記者クラブの存在だ」と書いています。

 

日本ではいわゆる報道機関は元より、ほとんど全ての記者がこの記者クラブに所属しており、ここに所属していなければ内閣だけでなく官公庁全般の記者会見に立席することができません。

 

この本の中で著者が経験したこととして、例えばウォール・ストリート・ジャーナルの記者として2004年頃の日銀総裁の記者会見に参加しようとした時のことが書いてあります。

それによると

 

「会見に出るためには記者クラブの幹事社に毎回許可を求めなければならない。会見出席の許可が下りたとしても、質問をすることができないオブザーバーという資格で中に入るしかなかった。

黙って会見を聞くだけならOKのだが、疑問に思ったことを聞く権利はないのだ。

(中略)

記者会見に出られず、質問をする権利すら最初から奪われている。

こんな村八分のような取材帰省を、ジャーナリスト自らがスクラムを組んでいるのはどう考えてもおかしい。」

 

これは以前池上彰さんも仰っていたように記憶していますが、このような環境があるため日本の報道各社は

 

記者クラブから閉め出されること」

「それによって記者会見に参加できず、他社が掴んだ情報を自社で載せられないこと」

 

を何よりも恐れるそうです。

そのような「締め出しを恐れ、割り込んでくる物を排除するような環境」では、結局報道各社は“横並びの大本営発表”を行う機能しかできないのではないか。

 

それが著者が日本の報道機関の問題点の第一です。

 

そして、問題点の二番目。

それは

 

「日本の新聞で書いている記者が、安定的に給料をもらって記事を書く“サラリーマン記者”」

 

であること。

 

例えばアメリカでは記者になりたい人は地方の小さい新聞社や通信社からキャリアをスタートさせて、実力を少しずつ養いながら転職(キャリアアップ)を続け、影響力のある新聞で記事を書くことを目指して努力するそうです。

 

しかし、そんな彼からすると日本のような「新卒で入社すれば何か不祥事でも起こさない限り定年まで一生勤められる“新卒一括採用・終身雇用の記者”」は異様に感じられるようです。

そして、これは記者個人の問題ではなく、そのようなサラリーマン記者でしかいわゆる新聞社で記事を書くことができないという、日本の構造的な問題であり、それを解消しない限り、アメリカのようなジャーナリズムを日本の報道機関が持つのは難しいのではないか。

 

そのように著者は主張しています。

 

ただ、ちょっと私の書き方が悪かったかもしれませんので、誤解しないで頂きたいのですが、著者は「アメリカ流が最善で、日本のやり方は間違っている。アメリカ流にならえ!」とか極端なことを言ってるのではありません。

 

あくまでアメリカ流との対比によって日本の報道のあり方を相対的に判断しているだけであって、そのような悪意に満ちた書き方ではなく、それこそ「ジャーナリストの一人として、日本の報道のあり方について国民が多角的に考えられるような視点を提示するべきではないか?」というジャーナリストとしての矜持を元に書かれている内容になっています。

 

この他にもアメリカと日本の記者の給与体系の違いやそれによる影響など、日米報道機関の両者を経験したからこそ言える事柄が多数書かれています。

普段新聞などの報道にふれる機会が多い方であれば、一読する価値はあるのではないかと思います。

 

 

ちなみに、この著者の意見についてですが、私は半分賛成、半分疑問という感じです。

 

半分賛成というのは、日本のジャーナリズムの不甲斐なさは私も日々感じているところですし、著者が上げたような日本の報道機関における構造的な問題点は、的を射た部分が多数あると思います。

 

一方半分疑問、というのは

 

そもそもアメリカ的な意味でのジャーナリズムが日本に存在するか?

 

という点です。

 

英語のJournalの訳語として「報道」や「記事」が当てられるかと思いますが、私には正直この二つの概念が同じとは思えません。

特にアメリカ人は権力に対する強烈な懐疑心が根幹にありますので、(著者も書いているように)権力を監視するということがジャーナリズムの大きな役目になります。

 

しかし、日本では「報道」は「報せること」ですし、「記事」も「事柄を記すこと」です。

そう考えるとニュースになるような事柄を「伝えること」が報道の役割でしかない。

少なくとも日本ではそのように認識されているのではないかと思えてしまうのです。

 

ニュアンスを伝えるために言いますと「ジャーナリズム」に対する「記者魂」という訳語がありますが、なんかそのまま言うと気恥ずかしくなりませんか?

「記者魂が大事なんだよ」って普通に言えますか?

 

少なくとも私はなんか「持って回った言い方」というか、すごく大上段に構えたような表現に思えてしまいます。

普段の会話で使うには抵抗があるというか。

みなさんも普段の会話で「記者魂」という言葉を使ったことや聞いたことがありますか?

多分報道機関に勤めている人以外はほとんどないと思うんですよ。

 

 

そのように感じるということは、やはり「外から持ってこられた言葉で、日本文化として馴染んだ概念ではない」ということの現れではないかと思うのです。

 

だとするなら、この著者が言うような「ジャーナリズム」というのは、日本人には理解しづらい概念であり、「日本のジャーナリズムのあり方」を考えるということ自体がそもそもナンセンスだということになってしまうのではないかとすら考えてしまうのです。

 

しかしながら、当然報道機関がなければ国民は、日本や海外の情勢を知ることはできませんから、その機関は絶対に必要です。

しかし、そのあり方については「ジャーナリズム」とか言う英語的な概念ではなく、日本の文化の中に根ざした価値観としての報道のあり方とはどうあるべきなのか?

 

とても基礎的な概念の検証になりますが、一度そこに立ち戻る必要があるのではないか?

そんな事をこの本を読んで考えた次第であります。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

 

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