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しいたけ.推薦、マキャヴェッリ著「君主論」は運命に立ち向かう者への讃歌だ。

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皆さんは「しいたけ.」という方をご存知だろうか?
“占い師”というと聞こえは悪いかもしれないが、
私個人について言えば、普段占いなどは信じない・・・正確に言えば“自分に都合が良いところだけ参考にする”スタイルだが、このしいたけ.氏の占いはそれぞれの星座の人物評のような面があり、それが非常を的を射ており、かなり興味深い。
そのしいたけ.氏が、ある雑誌の記事の中で古典的名著について触れていることがあった。その名著とは他でもない。
ニコロ・マキャヴェッリ著「君主論」である。

しいたけ.氏は次のように述べた上で、お勧めする一冊に取り上げている。
運について考えるようになったきっかけは、大学生の時に歴史哲学の授業でマキャヴェリの『君主論』を学んだことです。
そこでは時代の権力を持つ人は「力量、運、時代性」の三つが必要だと言われている。どんなに実力があっても、運に恵まれない場所にいたらどうしようもない、と。
AERA2019年9月12日号

 

この本は16世紀に書かれた有名な古典的名著。
当時の動乱期のヨーロッパにおいて、“いかにしてイタリアという国家が生き抜いていくか”という政治政策が具体的に細かく書かれている。必然的に国家論、組織論、リーダー論的な観点からの主張が多く、現在でもビジネス書のような視点から読み解かれることが多い。
しいたけ.氏のように“運”という観点から読み解くのは珍しい。
けれども、その観点から改めて本書を読み返すと、よくあるリーダー論、組織論とは違う別の「君主論」の姿が見えてくることに気づく。“君主”のあるべき姿を問いながらも、運命という巨大な波に人間がどのように立ち向かっていくべきかという人生論がこの本には隠されているのだ。

君主論で重要な2つの概念

先程のコメントの中で、しいたけ.氏は君主論の中で「力量、運、時代性」が重要だと書かれていると述べているが、マキャヴェッリが重要視したのは
「力量 (イタリア語で”ヴィルトゥ”)」
「運命 (イタリア語で”フォルトゥナ”)」

の2つだ。
力量 (ヴィルトゥ) はもともとラテン語で「男性、雄々しさ」を意味する”ヴィルトゥス”から来た言葉で、マキャヴェッリは特に剛毅さや機敏な知恵という、まさしく日本語の”力量”のニュアンスに近い意味で使っている。一方の運命(フォルトゥナ)は古代ギリシャでは”ファトゥス”と呼ばれ、運命の糸を分かち、紬、絶つ、三人の女神にたとえられていた。運命の不確実な性質を女性のきまぐれな姿に見たのだ。
そのような気まぐれな運命 (フォルトゥナ) を引き寄せるためには、雄々しく、知恵のある手腕を意味する「力量 (ヴィルトゥ)」を持っていなければならない。
だから権力を握るものには「力量と運命」が必要であるとマキャヴェッリは説いたのだ。
しいたけ.氏が挙げた「時代性」というのは、この「運命」を補足するような形で使われており、「必要性、時機、好機」という意味で使われる。たとえば「必要性に応じて、柔軟な政策を出せる力量が重要だ」と言ったような使われ方である。

この「君主論」の中ではこの2つの概念が最重要であり、これが理解できているとかなり読みやすくなる。そして、それが理解できていればこの本の中核の考え方がわかる。それは
「何か事を成し遂げようとするなら、移ろいやすい運命を引き寄せる力量を磨くことが重要である。その上で、今この瞬間にいかなる力量を発揮すべきかを見極める冷静な判断力を備えておかなければならない。」
ということである。

君主論」をいわゆる”ビジネス的”な意味で役立てようとするのなら、これさえ理解できていれば十分だ。あとはそれを現実にどう応用していくかだけの話になる。実際「君主論」を自己啓発書、組織論として解釈するビジネス書では、ほとんどこれだけしか書かれていない。

だが、これでは君主論の魅力の半分も理解できていない。
これほどの名著でありながら本当にもったいないと思う。

君主論の面白さはここまで理解した上でさらにもう一段深く読みとくことで、はじめて理解できるものなのだ。
そこで本書の内容をさらに深堀りし、マキャヴェッリが本当に伝えたかったことを探るために、この本の概略を少し説明させて欲しい。

イメージの悪さは天下一品

昔から名著として評判の高い書だが、“マキャヴェリズム”という言葉のダーティな印象から一般にはとっつきにくいイメージを持たれることが多い。
というのは、“マキャヴェリズム”という言葉自体が「目的のためには手段を選ばない冷酷非道さも必要である」というイメージとして広く流布しているからだ。
実際、この君主論には
「国を維持していくためには、冷酷非道な手段や、人を裏切ったり欺いたりする行為もあってしかるべき」
といった表現や
「人間というものは狡猾で嘘つきで信用ならない生き物である」
とした上で君主がどうあるべきかを説いている箇所が散見される。
本書の構成自体も大部分がそのような冷徹な国家運営の方法について割かれている上に、それらの説明が非常に淡々と繰り広げられ、読者を引きつけるようなドラマチックな部分がほとんどない。
だが、実はその「面白くなさ」にもれっきとした理由がある。

マキャヴェッリがこの本を書いた理由

この君主論が政治哲学の書としてあまりにも有名なため、マキャヴェッリ政治学者あるいは哲学者だったのだと誤解されることが多い。だが、実は彼はイタリアはフィレンツェの外交官だった。しかもどちらかと言えば、上級官僚から使いっぱしりにされるような低い身分だ。
当然彼自身に国をどうこうするような権力はない。
ではなぜマキャヴェッリはこの本を書いたのだろうか?

先程マキャヴェッリは外交官だったと書いたが、この「君主論」を書いた時には自分が就いていた政権が倒れてしまったために、外交官をクビになっていた。それだけではない。一民間人として生活をしていたところ、とある政治事件に関わっていたとして無実の罪で投獄。拷問を受けた後に釈放されたものの、その後は酒と博打に明け暮れる日々だったようだ。
その生活を何とか挽回しようと、次期君主と目されていたメディチ家のロレンツォ二世に自分を雇ってもらおうと必死に書き上げた論文。それがこの「君主論」だった。
いわばイタリアの国家統一への道筋を理詰めで説明した上、「このようにすればあなたは立派な君主になる。ついては、それを補佐するためにぜひ私を雇って欲しい。」という自身を売り込むのがこの本の目的だった。今で言えば”就職活動”のようなものだろう(残念ながらこの論文はロレンツォ二世の目に触れることはなく、外交官への道は断念せざるを得なかったのだが・・)。

では、なぜマキャヴェッリがそこまでして外交官に返り咲こうとしたのだろうか。
この点を掘り下げることで「君主論」でマキャヴェッリが伝えたかった熱い思いが浮かび上がってくる。

悲劇の医者イグナーツ・センメルヴェイス

それを探るのに、ひとつ参考になる事例を紹介しておきたい。19世紀のオーストリアに存在した、イグナーツ・センメルヴェイスという若い医者の話だ。

当時の病院で妊婦が出産する際に、分娩を助産婦が行うよりも医者が行った方が妊婦の死亡率が高いという現象が発生していた (助産婦が3%に対して医者は30%)。
その様子を見ていた研修医のセンメルヴェイスは、ある仮説を立てた。
その仮説とは「医者の手から何かの物質が発生しており、それが原因で妊婦が死亡しているのではないか」というものだった。これだけ聞くと奇妙な仮説だが、実際にその仮説の下に分娩の際に消毒液による手洗いをするようにしたところ、死亡率が激減したのだった。
実は医者の手に付着していた細菌が原因だったのだが、当時はまだ細菌という概念自体がなかったため、このセンメルヴェイスの仮説は医学界にまったく受け入れられなかった。それどころか、センメルヴェイスは「奇妙な仮説によって、医者を貶めようとした」としてなんと病院から追放されてしまう。
もしセンメルヴェイスの説が正しければ、医者は自分たちの責任で膨大な人数の妊婦を死に至らしめたことになる。当時は細菌という概念すらなかったのだから仕方のないことだが、医者の立場としては「知らなかった。ごめんなさい。」で済まされる話ではない。
その上、その説を主張しているのは若手の研修医でしかない。「この若造が!適当にデタラメを言ってるんじゃないぞ!」というわけだ。
それでも自説を曲げようとしなかったセンメルヴェイスは、そのことを告発する書籍を出版しようとしたのだが、強制的に精神病院へ収監。そこから逃走しようとした時に負った傷がもとで、その後死亡してしまったのだった。


今ではセンメルヴェイスが正しかったことは科学的に立証されているのだが、当時は誰もその新事実を信じなかった。いや、信じたら自分が築いてきたものがすべて崩壊してしまうという恐怖から、その事実を信じたくなかったのだ。
ちなみに、現在では、このような「通説と合致しない新事実を拒絶する傾向」のことを「センメルヴェイス反射」というようになり、世間で知られるようになっている。

センメルヴェイスは時代を読めない愚者だったのか?

話を「君主論」に戻そう。
先程も書いたようにマキャヴェッリは「君主論」において
「何か事を成し遂げようとするなら、移ろいやすい運命を引き寄せる力量を磨くことが重要である。その上で、今この瞬間にいかなる力量を発揮すべきかを見極める冷静な判断力を備えておかなければならない。」
という主旨のことを述べている。
この言葉を字義通りに解釈するのなら、センメルヴェイスは運命を引き寄せる力量がないにも関わらず、無謀な戦いを挑んだ愚か者だったということになるのだろうか?
たしかに確実を期すのであれば、仮に同じ主張をするにしても、せめて自分のキャリアを磨いて研修医を脱するべきだったのかもしれないし、自分の説をしっかりと理解してくれる上司が現れるのを待つべきだったのかもしれない。あるいはその「医者から発せられている物質」が何なのかをじっくりと研究するべきだったのかもしれない。
だが、彼はそんな時局も考慮せずに自らの説を堂々と報告し、それが医学界に受け入れられなければ一般の人に訴えるべく本の出版さえ企画した。実際、彼の説は”科学的には”正しかったのだ。それにも関わらず彼は惨憺たる扱いを受け、命を落とすことになった。
彼は人生の選択を誤ったのだろうか。時代を読めない愚か者だったのだろうか?
私は違うと思う。

運命に抗う意思

確かに彼はもっと良いタイミングを見計らうこともできたかもしれない。だが、それはより多くの妊婦が命を落とすことになることを黙って見過ごすことになる。それは彼の信念にとって受け入れられないことだったに違いない。
なるほど、”成功者かどうか”という意味ではセンメルヴェイスはたしかに失敗した側の人間だったかもしれない。時代性を読み間違えた上、運命を引き寄せる力量もなかった。
挙げ句の果てには、自説にこだわったことで命を落とす羽目になった。あえて勝ち組か負け組かを選別するのなら、彼は後者に属するのだろう。
だが、彼は自らの行動を後悔しただろうか。
否。「なぜ理解してもらえないのか」という忸怩たる思いはあっただろうが、その行動に迷いはなかったはずだ。センメルヴェイスはたとえ周りからどのような目で見られようと、自らが正しいと信じた道を進み、自らに課せられた使命をまっとうした。そこに後悔の念は一片たりともなかったのではないだろうか。

私は「君主論」を書き上げたマキャヴェッリも同じ心持ちだったのではないかと思う。
センメルヴェイスは目の前の患者たちを死なせたくないという意思から、自らの説を広く訴えかけた。
マキャヴェッリは自らの愛したイタリアという国を守りたいという意思から、自らの説を次期君主に訴えかけた。
彼ら二人には共通している点がある。
それはたとえ運命がどうであろうと、自らの信念を貫こうとする強い意思を持っていたことだ。

マキャヴェッリの抱えた矛盾

マキャヴェッリは確かに力量 (ヴィルトゥ) を磨き、運命の女神 (フォルトゥナ) が微笑んだ時に果敢に突き進むべく、常に冷静に、冷徹に事に臨むべきだと説く。だが、それと矛盾するかのように彼はこの書の終盤において次のようにも述べる。
「もともとこの世のことは、運命と神の支配に任されているのであって、たとえ人間がどんなに思慮を働かせても、この世の進路をなおすことはできない。いや、対策さえも立てようがない。(中略)しかしながら・・・仮に運命が人間活動の半分を、思いのままに裁定しえたとしても、少なくともあとの半分か、半分近くは、運命がわれわれの支配に任せてくれていると見るのが本当だと、私は考えている。」
今までの自分の主張をすべてちゃぶ台返しするかのような物言いである。
ここに至るまでマキャヴェッリは”運命には逆らえないのだから、運命が微笑んだ時に歩を進めるべきだ”と述べてきた。それにも関わらず唐突に、何の根拠も示さずに”運命の半分はわれわれの手の内にある”かのように語りだすのだ。
さらにマキャヴェッリ
「運命は変化するものである・・・人は慎重であるよりは、むしろ果断に進む方が良い。」と続け、「運命を力づくで征服せよ」とまで述べるのである。

矛盾している。少なくともこの終盤の物言いは、それまでの言説と整合性がとれていないと言って差し支えないだろう。
だが、それがいい
人間とはそもそも矛盾した生き物なのだ。
誰かを愛していると同時に憎くらしく思う時もあれば、辛く苦しい時にこそ生きる喜びを感じる時もある。秩序と無秩序。冷静さと情熱。そのような矛盾を人は常に抱え、それらに折り合いをつけながら必死に生きている。だからこそ人生は輝くのであり、矛盾のない整然とした平坦な人生を歩いても生きる喜びなど感じることはできない。マキャヴェッリの「君主論」もまたそういった矛盾点にこそ彼の本心が現れているとみるべきだと思う。

運命に抗う人への讃歌

たしかにこの「君主論」において、マキャヴェッリは努めて冷静に持論を展開している。しかし、丁寧に読むと序盤から彼のふつふつと沸き起こる情熱の炎が湧き出しているのが端々に見てとれる。私には序盤から冷静に抑え込んできた、たぎるマグマのような思いが終盤において、遂に爆発したように感じられてならない。
すなわち

「運命 (フォルトゥナ) は変えられる。強い意思 (ヴィルトゥ) を持って立ち向かい、運命を征服するのだ!皆のものよ、恐れず前に進め!」

という信念だ。
マキャヴェッリは彼自身運命と時代に翻弄された人生を送り、はかなくも短い人生を遂げた。彼がこの本で伝えたかったこととは、運命 (フォルトゥナ) の持つ圧倒的な力の前に足をすくませる人々に、一歩を踏み出させる勇気を与えることではなかったか (この勇気もまた「力量 (ヴィルトゥ)」のひとつだろう)。
なるほど、マキャヴェッリの言葉はたしかに苛烈である。
宗教改革という嵐が吹きすさび、国家と国家が容赦なくぶつかり合う時代の到来を予兆するような混迷の中で書かれたのだから無理もないだろう。だが、その言葉の苛烈さや冷徹さという”形”に目を囚われては、マキャヴェッリの真のメッセージを受け取ることはできない。

文庫本であれば150ページほどで決して大著とは言えないが、その端々からほとばしるマキャヴェッリの情熱は古典的名著と呼ぶに恥じない圧倒的パワーを秘めていると思う。もしあなたが自分のちからではどうしようもない運命(フォルトゥナ) の前に膝を屈しようとしているのであれば、ぜひ一度この本を手にとって欲しい。運命に立ち向かう勇気と具体的な方法を得る大きなヒントになるはずだ。

という訳で、今回ご紹介したのはこちら。ニコロ・マキャヴェッリ君主論」でした。今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

 

 

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