崩壊する文明の運命に立ち向かった男。ル・ボン「群衆心理」
社会心理学の歴史的名著、ギュスターヴ・ル・ボン著「群衆心理」。
この本をご存知だろうか。
この本は著者のル・ボンがフランス革命の混乱の後に書いたもの。革命の最中、民衆が”群衆”と化し、社会に破壊と殺戮の嵐を招いた激動の様子を観察し、その群衆がなぜそのような行動を取ったのかを社会心理学的な観点から分析したものだ。
当時は群衆を研究対象とした本はほとんどないどころか、そもそも"群衆"に特別な意味を待たされていなかったため、群衆を真正面から取り扱ったこの本は、社会心理学研究の発展への道を開いた名著と言われる。
だが、その過激な内容と、著者ル・ボンの激烈な毒舌のために社会心理学の中でも異端扱いをされている。その故、名著と言われながらも、社会心理学の世界においては評価が著しく低いようだ。
確かに本を正しく評価することは難しい。
そもそも著者の意見が正しく理解されないこともある。
あるいは著者が伝えたいことは全く無視された上で、著者の意図とは全く違うように捻じ曲げられて、散々な評価を受けているものも多い。
その意味でこのル・ボンの「群衆心理」は”もっとも不当に評価されている”古典的名著の一つといえるだろう。
しかし、私は今こそこの本の真の価値が見直されるべき時ではないかと思う。
なぜなら、この書は単なる社会心理学的なものではなく、人類の文明社会がいかに衰退し、崩壊していくのか、そのダイナミックな歴史転換のシステムを描いたものだからだ。
現代は数百年、あるいは千年に一度の大変革の時代だと言われる。その変革の時代にこそ、このような”異端の書”に改めて注目する意義があるのではないだろうか。
群衆心理の内容
この「群衆心理」についてのよくある内容解説は、大体次のようなものだ。
「人間が大勢集まって群れをなすー群衆化するーと、個人の時には現れなかった特別な心性や行動様式を示す。そこでは、動物の群れにおけるのと同様、盲目的な付和雷同性が支配的となり、理性的な判断はできなくなったしまう。
このような「群衆」は巧みな言葉やスローガンを用いる指導者に扇動され、多くの場合、過激な破壊行動を行い、しばしば犯罪をも平気で犯す。
実際、フランス革命においては、ロベスピエールのようなリーダーに唆された盲目的な群衆が猛威を揮ったとして断罪された。
このような心理が発動する原因は、人々が群衆化すると自分で考える力をなくし、単純なイメージに影響を受けやすいことにある。」
この内容の説明自体は間違っていないと思う。
だが、これを眺めただけでル・ボンの伝えたいことを理解し、十分に評価できるのかと言えばかなり疑わしい。
ル・ボンをこき下ろした歴史学者
ル・ボンが示したような群衆的な心理分析については、現在ではかなり市民権を得ている。特に今年2021年初頭、アメリカ大統領選挙において選挙システムに不審を抱いた群衆が連邦議会に大挙して押し寄せた事件を観て、”群衆化した民衆の恐ろしさ”を記憶している人も多いだろう。
ただ、このル・ボンの「群衆心理」という書自体は、昔からかなり不当な評価を受けていたようだ。
例えばこのル・ボンの著作を批判した人物にジョルジュ・ルフェーブルという歴史学者がいる。
ルフェーブルはル・ボンの功績として、彼が今では常識とも言えるほど流通している「群衆」という概念を、社会の動きを解釈する上での概念のひとつとして世界で初めて取り上げたことを挙げている。
だが、ルフェーブルは「彼の功績は、それ以上のものでは決してない」とした上で、
- ル・ボンは群衆の心理と個人の心理を混同している (およそ社会心理学の研究としては成立していない)
- ル・ボンは動物の群れと同じように人間の群衆の中でも心理状態が病的に感染すると言う。しかし、人間の群衆において特定の心理が伝播するのは事実だが、動物の群れのシステムとは全く違う。
- 群衆の心理について語っているくせに、それを真剣に研究する気はさらさらなかった
と述べ散々にこき下ろしている (ジョルジュ・ルフェーブル著「革命的群衆」)。
ルフェーブルのような観点からル・ボンの主張を批判する言説は多い。
そのようなル・ボンの群衆心理への評価は果たして正当なものなのだろうか。
残念ながら、これらの批判は的外れと言わざるを得ない。むしろルフェーブルのような言説こそル・ボンが社会を混乱へと導く要因の一つと考えたものであり、彼が孤軍奮闘した相手であったのだ。
ルフェーブルの社会心理学の研究における功績について述べる素養は残念ながら私は持ち合わせていない。しかし、ことル・ボンへの批判に関しては、ルフェーブルの社会心理学的な専門性ゆえに、群衆が帯びる社会的心理というレンズの向こうにル・ボンが見通した近代主義への批判的思想を看取することが出来なかったようだ。
ル・ボンが見通した文明の未来
群衆心理というタイトルの通り、ル・ボンは人が集団になった時に表れる熱に浮かされたような破壊的行動をこの本の中で分析し、その直接的・間接的原因を種族、慣習、制度、教育などの文化人類学的な側面から読み解いている。
だが、彼が「群衆の心理」は群衆の動態が引き起こすであろう未来への危惧を示すための、ひとつの手段に過ぎなかった。重要なことは彼がどのような危惧を感じ取ったのかであり、その危惧を表明するための手段が学問的に正確でないことをあげつらうことは無意味である。むしろそれによって、ル・ボンの危惧した未来像が世間に共有されることを妨げたという意味では、致命的な損失を招いたとさえ言えるかもしれない。
では、ル・ボンが危惧した未来とは何だったのだろうか?
それはズバリ「文明の崩壊」である。
ル・ボンは群衆の時代、群衆によって世界が翻弄されることで、文明社会、中でもヨーロッパ的な西洋文明が崩壊する未来を予見したのである。それは彼自身の次の言葉に明確に表されている。
群衆の台頭こそは、恐らく西欧文明の最終段階を画し、新社会の出現に先立つあの雑然とした混乱期への復帰を示すものであろう。(中略)群衆は、もっぱら破壊的な力をもって、あたかも衰弱した肉体や死骸の分解を早めるあのバイ菌のように作用する。文明の屋台骨が蝕まれるとき、群衆がそれを倒してしまう。群衆の役割が現れてくるのは、その時である。
よくある本著「群衆心理」の評では、「扇動的な指導者に群衆が付和雷同的に動かされて社会を破壊する。その群衆心理のシステムをこの本は分析した。」と言われる。それは半分正解だが、半分は不正解である。
上記の言葉のように、ル・ボンによれば、まず衰退する文明の姿が徐々に現れ、それに呼応する形で人々が群集心理的な(破壊的な)活動を示し、ついには文明を破壊するに至るのである。その逆ではない。
この違いは決定的である。
なぜなら、人々が群衆化することで文明が崩壊するのであれば、人々が群衆化しないようなシステムを構築することで、それを防ぐことができる。だが、ル・ボンが述べるように文明の衰退と崩壊が先に始まり、群衆がそれを加速するだけの存在なのであれば、たとえ群衆心理の暴走を防ぐことに成功しても文明の崩壊を回避することはできないからだ。
シュペングラーの文明史観
では、なぜル・ボンのいうように「文明の衰退と崩壊」がまず最初に起こるのだろうか。
一般的な理解では文明とは特定の種族、民族の繁栄を示す、まさに人類の最骨頂とも言えるものだ。
だが、ル・ボンは文明をそのように解釈していない。まるで放物線の頂点・・・上へと上昇する運動エネルギーが下降への動きに変化するターニングポイントのような場所にあるもの、それが文明だと解釈しているようだ。
これは20世紀初頭の思想家・オズワルド・シュペングラーが表した「西洋の没落」において描かれる、文化の興亡を周期的に循環するシステムだと解釈する考え方と近い。
「西洋の没落」においてシュペングラーが示した世界観は、西洋文化に限らず、文化というものはすべからく没落する運命にあると考えるものだ。文化には大なり小なり栄枯盛衰のパターンがあり、幼年期>青年期>壮年期>老年期という具合に人の人生のように流れていく。
シュペングラーはそれを春夏秋冬の季節の流れになぞらえて
春 : 勃興
夏 : 成長
秋 : 成熟
冬 : 衰退
という運命をたどるとし、西洋文化は18〜19世紀には秋 (成熟) になり、20世紀初頭には冬 (衰退) の段階に入ったと分析。秋から冬に向かう転換点の前後を文明の全盛期と捉えている。
ここで注意すべきは、文化と文明の違いだ。
文化と文明の違い
シュペングラーによれば「文化の人間はその力を内部に向け、文明の人間は外部に向ける」という。
少し噛み砕いて説明すると、文化という段階において人間が持つさまざまな力 (活力、知力)は、英語のCulture (文化) の語源が示すように、自らを掘り下げる (cultivate) ことによって、さまざまな知恵や芸術を作り出していく。
それが文明の時代になると、その力は外部へと拡張するように変化し、自らを掘り下げて新しい物を創り出すことが困難になるのだ。
シュペングラーは一大文明として栄華を極めた帝政時代のローマ文明を挙げ
「ローマ文明は、見かけだけの青春の力と充実でもって、隆々とそびえ立ち、そうして若いアラビア文化から光と空気とを取ったのである。これが歴史におけるすべての没落の意味である」
と述べた。
すなわち文化の段階に存在した自らの中からほとばしり出る栄養が尽きると、外部の世界へと拡張し、そこから栄養を吸い付くし自らの力へと変換しようとする文明の段階へと至る。この段階に至れば、外部からの栄養を吸い尽くした段階でその文化は衰退し、崩壊してしまう運命を避けられないということである。
しかしながら、この文化から文明という外部拡張の時代への変化もまた避けられない。なぜなら文化の高度化はその民族や国家に経済的繁栄もしくは芸術的繁栄、もしくはその両方を実現するため、必ず膨大な人的、経済的エネルギーを必要とする。
だが、どれほど優れた文化であっても無尽蔵にそのエネルギーを生成できるわけではないため、それを外部への拡張によって補わんとするのは必然なのである。
シュペングラーの歴史観によれば、このようにして民族の文化は衰退へと向かい、その衰退期を経てまた新たな興隆の周期へと移り変わっていく。
ル・ボンの歴史観
群衆心理のル・ボンの言説を読むと、彼もこのシュペングラーの歴史観に近い感覚を持っていたようだ。そのル・ボンにとってフランス革命とその後の混乱は、まさに西洋文化がその頂点を過ぎ衰退する文明期に入っていることを予感させるものだったに違いない。
実際、ル・ボンは本書の最後はその運命を回避することはできないと結論付けている。
一つの夢を追求しながら、野蛮状態から文明状態へ進み、ついで、この夢が効力を失うやいなや、衰えて死滅する。これが、民族の生活が周期的にたどる過程なのである。
この場合の夢とは民族の中で共有される宗教や哲学のような観念と思ってもらえば良いだろう。ル・ボンはこのような夢が共有されることで民族は繋がりを強く持ち、文化が発展していく原動力となると本書の中でも解説している。その夢が効力を失ってしまえば、文明は再びそれ以前の野蛮状態へと回帰する運命にある。それがこの結論の意味であろう。
まさにル・ボンが生きた時代はそのような転換点であり、将来においては西洋文明が衰退の一途をたどることは必然である・・・その絶望の未来を直視し、それを避けられぬ要因を説いたのがこの著「群衆心理」だったのだ。
「群衆心理」から学ぶべきこと
では、この著書によってル・ボンは我々に何を残してくれたのだろうか?我々はル・ボンから何を学ぶべきなのだろうか?
多くの人はこの書を解説する際によくある結論はこうだ。
「他人の意見に安易に扇動されないように、一つ一つの物事をイメージではなく、しっかり自分の頭で考えることが大事。それによって群衆化することを防ぐことができる。特にSNSで偏った情報が大量に拡散しやすい現代では必読の書である。」と。
確かにこの著作にはいかにして集団は群衆化するのか、群衆化した時にどのような行動を示すのかが具体的に書かれている。したがって、”ハウツー本”的な読み方をすればそのような結論も引き出せるだろう。
だが、それではこの書の真の迫力は伝えきれていないのではないかと思う。
私が思うに、この書の最大のメッセージは「世の中には取り返しのつかないこと、後戻りできないことがあることを知れ。」ということではないだろうか。
繰り返しになるが、ル・ボンがこの書を著したきっかけはフランス革命によるヨーロッパ世界の大混乱であった。ル・ボンはフランス革命についてこう述べている。
「純理の示すところに従っては、社会を徹底的に改造できないということを発見するために、二十年間に数百万の人間を殺戮し、ヨーロッパ全土を混乱に陥れなければならなかった。」
日本ではフランス革命と言えば、絶対王政による圧政を志のある民衆が打ち砕き、民主主義国家の基礎を打ち立てた”素晴らしい民主革命”だと考えられている。しかし、これは全くのデタラメである。
フランス革命とは、たった数十年しか生きていない一部の人間が、それまでの歴史で少しずつ紡がれてきた社会の秩序をすべて破壊し、数学の計算のように頭の中で作られた人工的なルールに基いて、社会を一から作り直そうとする暴動だった。
当然そんな凶行がうまく行くはずもなく、数十年間の間に膨大な死者と社会混乱を招いた挙げ句、軍事独裁政権の誕生とヨーロッパ全土を巻き込んだ大戦争を引き起こした。
まさにル・ボンの言う通り「理性の力で社会を改造することなどできない」という当たり前の事実を再確認するために、ヨーロッパ世界はとてつもないツケを払うことになったのだった。
現代においてもそのような「理性による社会変革」という幻想は根強い。
何か大きな社会問題が起こるたびに、「今までのやり方では駄目だ」「革新的な解決策を」「どこかで美味い汁を吸っている奴らの既得権益をぶち壊せ」などとドラスティックな変革を求める声が必ず上がる。実際バブル崩壊後の日本はそのようにして、それまでの日本社会で培われてきた慣習や制度をことごとく破壊して来た。
その結果、一億総中流と言われた社会の構造は変化し富の二極化が進行。世界第二位と言われた経済力も今では風前の灯火。その間に、隣国中国との軍事力の差も圧倒的に開いてしまい、逆に東アジアの不安定化を促進してしまった。
米中新冷戦と言われる中で「日本はどのようにするべきか?」などと言っているが、もはや日本にできることなど何もない。数十年後、中国の自治区になるか、アメリカの植民地になるか、どちらの道を選択するかしか道は残されていない。
もうどうしようもない。
日本の失われた30年は二度と取り返しがつかない。
これが現実だ。
まさにル・ボンがこの書の最後で書いた通り”一つの夢を追求しながら、野蛮状態から文明状態へ進み、ついで、この夢が効力を失うやいなや、衰えて死滅する。”
これが今後日本が歩む道のうち、最も可能性の高いシナリオなのだ。
だが、最後に付け加えるとすれば、それは”だから諦めろ”という話ではないということだ。
世の中にはどうしようもないこと、取り返しのつかないことがある。
しかし、それを知っていれば今の行動を変えることはできる。確かに状況に合わせて変化していくこと、新しいものを吸収していくことは重要だ。だがそれは物事を根本的に作り直すこととイコールではない。今までの歴史的な叡智を残し、活用し、必要な部分だけを少しずつ調整しながら進んでいく。遠回りのようでいて、実はそれがもっとも近道であるということもあり得るのではないだろうか。
そのような選択肢を考えることができる歴史的叡智が宿っていること。それこそが世界最古の国である日本が持つ、もっとも強力な武器なのではないだろうか。
最後に、その諦めない力の重要性を強調するため、16世紀の政治思想家ニコロ・マキャヴェリの次の言葉を引用して、今回の投稿を終えたい。
歴史全体を通じてみても、私は次のことのまごうかたなき正しさを、ここで改めて断言してはばからない。つまり、人間は運命のままに任せていくことできても、これには逆らえない。また、人間は運命の糸を織りなしていくことはできても、これを引きちぎることはできないのだ。
けれども、何も諦めることはない。なぜなら、運命が何を企んでいるわからないし、どこをどう通り抜けてきて、どこに顔を出すものか、皆目検討もつきかねる以上、いつどんな幸福がどんなところから飛び込んでくるかという希望を持ち続けて、どんな運命に見舞われても、またどんな苦境に追い込まれても投げやりになってはならないのである。
今回も長文を最後までお読み頂き有難うございました😆