世界を救う読書

ビジネス書から文芸書までさまざまな本を通して世界の見方を考えるブログ

ギリシャ財政危機の再発は必然。問題は“日本とギリシャは違う”という事がそれまでに広く認識されるかだ。

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ちょっと遅くなってしまいましたが、ギリシャ財政破綻後に欧州連合から受け続けてきた金融支援プログラムが先月完了したようです。

 

・・・が、あまり報道されませんでしたね。

財政破綻した!という不安を煽る時には大騒ぎになるのに、財政が落ち着いた時にはベタ記事扱い。

危機だとか、災害だとか何か事が起こった時に騒ぐのは簡単です。

しかし、本当はこういう騒動が一段落した時こそ、メディアはその騒動が持つ意味をしっかり検証しなければならないはずですが、残念ながら日本のメディアはまだまだそういう真の意味でのレベルが低いようです。

 

さておき。

この支援プログラム終了によって何が変わるのでしょうか?

いわゆる投資家サイドの意見としては

「これで後はギリシャも自分たちで財政の黒字運営の軌道に乗せられるだろう。やれやれだぜ。」と考えている人も多いでしょう。

前回号(かな?)のNewsweekでも、「これからはギリシャに投資して一儲けできる時代だぜ!」みたいなコラムを書いている人がいました。

 

が、そんな簡単に行きますかね。

いや、私は敢えてこう言いましょう。

 

支援プログラムが完了しても何も変わらない。

ギリシャはもう一度財政破綻する。そして、今度こそEUから離脱する。

 

まぁ・・・同じことを言っている人は一杯いますので、別に私の独自説じゃないですけどね(笑)。

 

私がそのように思う理由は、別に何も難しいことではありません。

確かに欧州連合(EU)、欧州中央銀行(ECB)と国際通貨基金IMF)という外部団体によって国家財政を管理されるという屈辱的な事態が解消したとは言え、ギリシャの根本的な問題は何一つ解決していないのです。

 

ギリシャの失業率は19.5%前後。若者にいたっては45%近い。

ギリシャ政府の債務はまだGDP比で177%

基礎的財政収支(国家のお小遣い帳みたいな物です)は、2022年までGDP比3.5%の黒字を維持することをEUに約束している。

・従って、あと数年は緊縮財政を継続しなければならず、必要な財政政策は打てない。

 

 

などなど、問題は山積みです。

 

致命的なのは(今更言っても仕方ありませんが)、統一通貨をユーロを採用したことによる弊害が大きすぎる。

ユーロを採用せず独自通貨であれば、為替によって国際競争力を高めることが可能ですが、、統一通貨ユーロを導入している以上、為替メリットによってそれを実現することは不可能です。

そうなると自力で生産性を高めるしかありませんが、そもそもEU統合による莫大な利益を吸収したドイツなどのインフラ(公共設備、IT設備、教育レベルなど)が整った国に比べ、生産性を高めるための基礎力がまるで違います。

 

たとえて言うなら、戦前のトヨタ社のトラックとフェラーリのスポーツカーが、同じコースで「よーい、ドン!」でレースを始めるような物なのです。

そもそも勝負になるわけがない。

「負けるのはお前の努力と創意工夫が足りないからだ!」と言われても、そんな次元の話ではないのです。

 

必ず負け続けます。

そして、そのたびに「レース参加費用」として借金が積み重なっていくのです。

もしかしたら、フェラーリが勝手に事故って大破して、一回くらいは勝てるかもしれませんが、そんな奇跡を期待するのはナンセンスでしょう。

 

ですから、今の体制を維持し続ける限り、ギリシャは必ず再び財政危機に陥ります。

それを回避する策があるとしたら、EUから独立して独自通貨を復活させるしかありません。それでも立ち直れる保証はありませんが・・・。

 

 

という訳で、私はギリシャの財政危機の再来を確信している訳ですが、問題はそうなった場合の日本への影響です。

ギリシャが再度財政破綻という事態に陥った場合、必ず

 

「ほら見ろ。ちょっと落ち着いたと思ったらこれだ。日本も危ないぞ! 緊縮財政だ!」

 

と、また日本の財政破綻論者が声高に主張し、世論がそれに同調する空気が醸成されるだろうということです。

そしてもし、それが来年の消費増税前に起こったら最悪です。

「消費増税待ったなし!」ということになり、今度こそ消費税が10%に引き上げられるでしょう。

ただでさえ、前回の8%への引き上げ以来、日本の国民の実質所得はほとんど伸びていません。その一方「社会保障費に充てる」という公約だった税収はまるで伸びておらず、相変わらず「社会保障費の増大が〜」と叫んでいる訳です。

税率は法律によって変えることができます。しかし、税収は簡単に計算通りに上げることはできない、ということを日本は身をもって証明したのです。

 

ですから、もしそういう「ギリシャはまた破綻した。日本も!」という議論が活発になったら、是非みなさんに思い出した欲しいのです。

自国通貨の発行権がある日本と、自国通貨の発行権をEUに明け渡したギリシャでは条件が全く違うということを。

「自国通貨の発行権がある」というのは、それほど強大な力がある。それを保持し続ける限り、ギリシャとは違い日本には数多くの選択肢が残されているということを決して忘れないで欲しいのです。

 

 今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

経済学とは自衛隊が出動するような非常事態を一切想定しない学問である。

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みなさんご存知の通り、今年は異常なまでに災害が日本列島を直撃しています。

数もそうですが、一つ一つの災害の規模も今まででは考えられなかったようなレベルのものが発生しています。

 

そのような異常事態において最近では当たり前のように自衛隊の方々が出動し、復旧のために尽力されています。

いくら仕事とはいえ、災害地のような過酷な現場で連日に及ぶ肉体労働、精神労働をこなすのは並大抵のことではありません。やはり「日頃の鍛錬」の積み重ねだということなのでしょう。

 

ところで、この自衛隊の方々の日頃の鍛錬ですが、何のために行われているのでしょうか。

当然趣味で鍛えている訳ではありません(笑)。

公の仕事である以上、国家の何かのために行っています。

それは国家に迫る異常事態に対処するためです。

もちろん「戦争」というのが最重要の事案になりますが、今現在で言えば北海道で行われているような救援活動も、災害という異常事態に対処するための活動です。

 

それは災害にあった地域からすればとても有り難い話なのですが、本当はそのような事態が起こらないことが一番幸せな訳です。

助けてもらえるのは有り難い。でも、助けてもらうような事態にならず平穏に生活できるのが一番。当たり前ですね。

 

ですが。

これに異を唱える学問があるのです。

そう。それこそが経済学なのです。

 

まず、経済学にはいくつかの流派があり、主義主張がかなり異なります。

今回の投稿で書く経済学というのは、いわゆる“主流派”経済学と呼ばれる「新古典派経済学」のことになります。主流派のくせに現実から乖離しているという事実が、経済学の混乱を表していますが・・・(笑)。

 

この新古典派経済学における重要な法則に「セイの法則」というものがあります(ジャン・バティスト・セイという経済学者が提唱した)。

これがどういうものかと言いますと

 

市場に参加する人は、自分が欲しいと思うものを手に入れるために、自分以外の人が欲しがっているモノを持ち込む人たちということになっています。

私達が日頃行っている「何かを買おうと思えば、お金を持ってくる」ということも同じです。

 

そして、この市場においては下記のような人たちは存在しないことになっています。

 

・そもそも誰も欲しがっていないモノを持ち込む人

・そもそも欲しいモノが無い人

・モノを無償で提供したいという人

 

そんな人たちが存在したら、市場の動きを予測できないからです。

さらに、この市場においては、持ち込まれたモノはすぐに誰かに購入されて、モノが余るということもありません。

 

つまり「作ったモノが全て、すぐに売れる」ということになっています。

売れ残るとか、将来のために買い溜めるとか、そんなことはあり得ないのです。

 

セイの法則とは、このような「市場においては作ったモノが全て売れる。しかもすぐ売れる。」という決まりごとのことを言います。

 

この経済学的な見地には

 

「理性的な人間であれば売れないはずのモノを作るはずがなく、買う人も理性的であれば、適切な価格で適切な数だけ購入するはずだ」

 

という人間の理性に対する絶対的な信頼がベースになっています。

※多分、この時点で多くの人は「そんな馬鹿な。そんな現実あるわけがない。」と思われるでしょう。それが普通です。

ですが、怒りを抑えてもうちょっとお付き合いください・・・。

 

 

さて気を取り直して、ここで「自衛隊」のことを考えてみましょう。

自衛隊という組織が提供するサービスとは、非常事態を適切に解決することになります。しかし、そもそもそんな「非常事態を解決する」などという自衛隊サービスは、そもそも発揮されない方が良いに決まっているのです。

自衛隊の存在意義である非常事態の解決するというサービスを提供するために、災害は起きるべきだし、戦争も起きるべきだ」

などという事を言う人がいるでしょうか。

そんな事を言う人はどこにもいませんよね。そういう意味で、自衛隊の提供するサービスというものは発揮されない方が良いに決まっているのです。

 

しかし、それにも関わらず自衛隊の方々は、万が一の時に備えて十分な役目を発揮できるように常に訓練を行っているのです。

なぜなら非常事態というのは必ず起こるものであり、しかもそれはいつ起こるか分からないからです。

 

ところが、上記のセイの法則に従うと、経済学的にはそのような誰も望まないサービスが存在することは間違っていることになっていますのです。

「そんなことは経済学的に、理論的にありえない。そんなサービスが存在するとすれば、それは現実が間違っているのだ!! 経済学の理論は絶対に正しいのだーー!!」

ということです。

なぜなら、理性的な人間は無駄なモノやサービスを生産しませんし、いつ必要になるのか、本当に必要な時が来るのかすら分からないようなサービスはあり得ないという解釈になるからです。

理性的な人間は無駄なことを一切しないのだーー!!ってことですね。

 

だからこそ、自衛隊のような「需要が存在するかどうかも分からないサービス」、あるいは公共事業のように「損をする可能性が非常に高いのに提供されるサービス」の存在は主流派経済学にとっては邪魔だということになります。

そんなものが存在していては、自分達の学説が成り立たないからです。

 

 

どう思われますか?

経済学という学問の立場に立てば、言っていることの意味は分からないではありません。

確かに何の事件や事故もなく、災害もなく、現在と同じ時が永遠に続くのであれば、人間は無駄な物を一切作らないのかもしれません。

しかし、普通に社会で生きている感覚で言えば、そんな事に「その通りだ。経済学が正しい!」と納得できるでしょうか?

今私達が経験しているように事件や事故、災害という不測の事態は必ず起こるのです。だから、「無駄かもしれない」「こんなモノが役に立つような時は来るべきではない」としても、万が一に備えて人は準備を行うのです。

 

今回取り上げたセイの法則以外にも、現在“主流派”と呼ばれる新古典派経済学には似たような非現実的な前提が数多くあります。

全てがそうだということではないですが、多くのものが「理論では分かるけど、そんな現実ありえないよね」という前提ばかりです。

バブルは存在しない、失業は存在しない、不況は存在しないとか(笑)。

そんな非現実的な理論が“主流派”としてまかり通っているのが、経済学の現状です。

 

ただ、私は別に「だから経済学は無駄だ」とまで言うつもりはありません。

ですが、このような事実が知られることなく「経済のことはよく分からんけど、えらい学者さんが言っているならそうなんだろう。」と一般国民から盲信され、その経済学に従った結果、国民や国家を誤った方向に導かれるような事態は避けなければならない。

そのためには学問という人類の知恵に対する敬意の一方で、「学問は所詮学問であり、常に正しいとは限らない」という事実もしっかりと認知されるべきではないかと思います。

 

そのような社会に根差していればこそ、学問もまた成長していくことができる・・・と。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

古代中国の「莊子」が予言したネット社会の病。便利さの追求が心の安定を失わせる。

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さて皆さん、毎日どれくらいインターネットに接続していますか?

デスクワークをしている人であればネットに繋がっていない時はほぼないでしょうし、そうじゃない人でもスマホの時間まで計算すれば、むしろ寝ている時は常時接続が当たり前かもしれません。

 

確かにインターネット以前の世界に比べればはるかに便利になりました。

欲しい情報も無料ですぐに手に入るようになりました。

ですが、それによって失われた物もまた多いのではないでしょうか?

 

ネットでブログ記事を書いてるお前が何言ってんだwwというツッコミはさておき(笑)、ちょっと今日はそんな「インターネットによって失われた物」の話をしてみたいと思います。

 

ネット技術によって失われた経済効果

たとえば経済的側面で見てみましょう。

タイラー・コーエンというアメリカの経済学者が著した「大停滞」という本があります。

その中でコーエンはこのように書いています(そのまま引用すると大変なので私なりにまとめます。本文が気になる方は是非ご購入ください)。

 

大停滞

大停滞

 

 確かにインターネットは世界を大きく変えた。ツイッターFacebookといった新しい娯楽と情報伝達の方法を生み出した。

だが、その経済的効果は決して大きくない。

インターネットが生み出す価値の多くは、個人が私的に経験するものなので、GDPのような生産性のデータに反映されないのである。

たとえば私達が2ドルでバナナを買えばGDPがその分押し上げられるが、インターネットで20ドル相当の娯楽を楽しんでもGDPは上昇しない。むしろ、家にこもってインターネットを楽しめば、逆にGDPの値が小さくなる可能性すらある。

 

さらに、自動車や機械工業などに比べると、インターネット事業は圧倒的に雇用創出の効果が低いのである。

いわゆる「GAFA」と呼ばれる4大IT企業の従業員数を見ると

 

Google: 10万人

Apple: 12万人

Facebook: 2万人

Amazon: 56万人

 

確かに1企業としてみれば膨大な数であるが、全世界を席巻している企業として考えればGAFA全てを合計してもたった80万人程度の雇用しか生み出していないことになる。

ちなみにトヨタグループの社員数は37万人。当然自動車製造の場合、膨大な下請け企業が存在しており、そこまで勘案すれば膨大な数になる。

 

ネットという“無料サービス”の反対側には“無料で請け負っている人”がいる

いかがでしょうか?

確かに、コーエン氏が言うように私達はインターネットによって多くの娯楽を得ることができるようになりました。

しかも無料で。

無料であるということは、個人にとっては非常に有り難いものです。特にこのデフレ不況においては。

しかし、あるサービスが無料であるということは、反対側にはそれを無料あるいはそれに近い金額で請け負っている人たちがいるということでもあります。

 

そのようなインターネットにおけるサービスの両面を鑑みた時に、果たしてインターネットというものは私達の生活を本当に豊かにしているのでしょうか?

 

立場や価値観、その人の職業などによってその答えは変わるでしょう。

どちらが正解という訳でもないと思いますし、「本当はむしろ貧しくなっているんだ!」と声を上げたところで、今から「インターネットがなかった時代」に戻れる訳ではありません。

人間は一度手にした物をたやすく手放すことはできませんから。

 

ただ、私達が手に入れたものの反対で失ったものもあるということ。そして、なぜそれを失うことになったのかという背景や社会の原理に思いを馳せることは、決して無駄ではないと思います。

 

古代の思想家「莊子」が予言したネット社会の病

私はこういった「文明の利器」について考える時に、決まって思い出す話があります。

それは古代中国の思想家“莊子”の天地篇にある短い話です。

 

孔子の弟子の子貢という人が旅行をしている時に畑仕事をしている老人に出会います。

その老人は畑に水を注ぐのに、井戸から手でバケツを使って汲み出しています。子貢は

その老人に「はねつるべ」という機械があって、それを使えばもっと簡単に効率的に水くみができますよ、と教えてあげます。

 

それに対して老人は

 

「その機械は知っているが、機械に頼る仕事が増えれば、必ず機械に頼る心が生まれる。心に機械に頼る思いが生まれれば自然のままの素朴な美しさが失われる。

そして、素朴な美しさが失われれば命の働きが不安定になり、命の働きが不安定になれば人の道を踏み外す。

私はそんな恥知らずなことになりたくないから、機械は使わないのだ。」

 

と告げます。

子貢は恥ずかしくなって黙り込んでしまったそうです。

 

細かいところはちょっと違うと思いますが、大体こんな感じのお話です。

 

さすがに「はねつるべ」は古すぎるかもしれませんが、これは「インターネット」や「パソコン」「スマホ」であっても同じことではないでしょうか。

インターネットに頼った仕事が増えれば、インターネットに頼る心が生まれる。

そして、インターネットに頼り過ぎた結果、心の安定を失い、人の道を踏み外す。

 

正に現代の病を莊子が言い当てていると言っても過言ではないと思うのです。

 

 

私達はインターネットという技術によって多くの娯楽と情報、そして便利さを手にしました。しかし、その反対側で実に多くの物を失ったのではないか。

そんな事を考えた秋の夜長の一日でございました。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

 

 

台風21号が破壊したインフラ。もういい加減「想定外でした」は聞き飽きたぜ!!

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今年7月に福岡に帰省した際に「西日本大豪雨」という災害の真っ只中を経験した私は、「これだけひどい事は滅多に起きないわ。とんでもないことになってしまった。」と思っていましたが、ある意味にそれに勝るとも劣らない衝撃の災害が起こってしまいました・・・。

そう、一昨日日本を縦断した台風21号のことです。

 

 

様々な被害をもたらしたこの台風ですが、恐らく一番衝撃が大きかったのは関西国際空港の孤立ではないでしょうか。

 

実は友人が関空の近くに住んでいたので「あの辺は本当に何にもなかった。ただの海。あんな所を埋め立てて空港作って大丈夫なのか?」という声は聞いていました。

聞いてはいたものの今回のニュースで初めて知ったのですが、関空って開港依頼最大3メートル以上も地盤沈下してたんですね・・・。

 

大阪・泉州沖で平成6年9月、当時としては世界にも例のない海上空港として誕生した関西国際空港。長年の悩みは地盤沈下で、運営する関西エアポートによると、開港以来1期島は最大3・43メートル、2期島で4・14メートルほど沈んでいる。護岸のかさ上げ工事などで対策を進めてきたが、今回は「50年に1度」の想定を上回る高波が空港島を襲った可能性がある。

<産経新聞のニュースより抜粋>

 

そりゃ、海に沈む訳です・・・納得。

また、実際に利用したことのある人ならお分かりかと思いますが、関空は連絡橋一本でつながっているので、あそこがやられたら本当に陸の孤島になります。

私も以前海外での仕事から帰ってきたときに事故で鉄道が運休になり、半日近く閉じ込められたことがあります。

あれも8月だったのでめちゃくちゃ暑い駅構内で待たされた記憶があります・・・。

 

 

さて、今回の災害を受けてテレビのニュースでコメンテーターが「そもそもこんな所に空港を建設することが計画として問題があったんじゃないか」とか言っていました。

確かに問題はあったかもしれません。

しかし、所詮は人間がやること。「問題がない計画」なんてものはあり得ません。

どんな計画にも問題はあるのです。

 

しかも、今回のことが発生するまで(私が経験したような小さい事案ではなく)空港の存在そのものを脅かすような大きな事案は発生しておらず、プライベートにしろ、ビジネスにしろ、実に多くの人達がそのメリットを享受していた訳です。

それを今更「計画に問題があったんじゃないか」などと他人事のように言われても、何の益もありません。

 

考えなければならないのは(一刻も早い復旧はもちろんのこと)、「計画には必ず問題がある。」「想定を超えた災害は必ず起こる」ということを前提に、想定を遥かに超える防災建設計画を立てておくこと、そしてそのような事案が起こった時に様々な回避ルートを予め備えておくことです。

 

そして、そのためには当然「インフラ整備の投資のための予算」をしっかりとつけることが肝要です。

災害が起こる度に「想定外のことが・・」と言い訳したり、「計画に問題があったんじゃないか」と糾弾したりしても仕方ないのです。

 

日本のような世界に類を見ない災害大国であれば

 

「“想定外のことが起こる想定”でのある意味過剰とも言えるほどのインフラ整備」

 

を行って当然なのです。

そして、そのためにはそれを実行できるだけの「まともな予算」をつけなければなりません。

その予算をつけるのを妨げているのが、言うまでもなく「日本の借金1,000兆円!」「日本は財政破綻する!」論です。

 

しかし、日本の国債のうち半数近い45%が既に“日本政府の子会社である”日銀が保有しています。つまり45%は返済不要。

国際通貨基金(IMF)は、中央銀行保有の自国通貨建て国債については、デフォルトリスク、つまり破綻する危険性が「0」だとしています。

 

そのような状況、いえ事実の中で「お金がないから」などと言って、国民の命を危険にさらすようでは、何のための国家なのか意味不明です。

 

東日本大震災以来、何か災害があるとバカの一つ覚えのように

 

「想定外でした。」

「想定外でした。」

「想定外でした 〜 (*^▽^*)ゞ」

 

いつまでも同じ言い訳が通用すると思ってると大間違い!!

こっちが聞きたいのは「想定外のことが起こった時のために、どのようなバックアップ体制を取っているか?」だ!!!

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

医者の技術と責任まで無償で引き出そうとする東京オリンピックの病

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 以前の投稿で、ボランティアの名目で若者の労働力を無料で活用しようとするオリンピック組織委員会を批判しました。


 と思ったら、今度は選手や参加者の命を預かる医者まで無料で活用としていたようです。

 


記事によると、高尾美穂氏というスポーツドクターのところの東京オリンピック組織委員会から東京オリンピックへの参加要請が届いたとのこと。

ところが・・・

産婦人科医で婦人科スポーツドクターの高尾美穂氏は、東京五輪でのスポーツドクターの依頼がきたことを29日にTwitterで報告。しかし、その報酬は「案の定 無償」だったとして、「本気でこれでいいのか?これでは日本スポーツ界は変わっていかない」と疑問を呈している。医師としてのスタンスについて、「好きな人が好きなことやってるんだからいいでしょ?じゃない、資格持って責任持ってする仕事なんだよ」と語っている。

 

 前回取り上げたような学生ならまだしも(いや、それも十分駄目なんですが)、今度は人の命を預かる医者にまでボランティア活動を求めたとのことです。

 

そもそもボランティアの語源はラテン語のvolutasであり、「自ら進んで」という意味です。

つまり自分から志願することであり、誰かに依頼されて行うものではありません。

ましてや、それが東京オリンピック組織委員会のような公的機関に近い団体であれば、強要だと言われても何も言い返せないでしょう。

 

引用記事の後略部にも書いてありますが、今回の場合、応急手当てセットを所持して会場を巡回するファーストレスポンダーとして従事するケースもあるようです。

だとすると、場合によっては正に人の生死に関わるような時も十分考えられます。

そのような責任のある仕事を無償で行わせようとは…正気の沙汰とは思えません。

医者の善意ややる気につけ込んで、対価を支払わずに責任を負わせるような所業は決して行ってはならないのです。

 

そもそもオリンピックとは何のために開催するのか。

国威発揚、日本の国際的地位の向上、スポーツ界の振興などさまざまな目的があるでしょうし、恐らくそれはどれも間違ってはいないはずです。

ただ、重要な側面の一つは経済振興という側面です。

数年前に大揉めに揉めたオリンピック会場の建設はもちろん、開催に必要な機材や関連施設の建設など相当な金額がオリンピック関連で使用されることになります。

その源泉は基本的には国民の税金です(都民の税金も込み)。

 

もちろん、だからと言って「無駄な金を使うな」と言うつもりはありません。

むしろ私は「ガンガン使え」と考えます。

今の日本の不況の原因は需要不足、投資先不足ですから、必要なお金はけちらずにガンガン使えば良いのです(誰かのポケットに入るだけのような無駄な出費は駄目ですが)。

 

だから、人件費もガンガン使えば良いのです。

医者にもガンガン払って潤わせれば良い(できれば貯めずに使わせるようにしなければなりませんが、そこは方法論の話なのでまた別の議論で)。

 

それをわざわざボランティアにするという考え方自体が、そもそも間違っているのです。

 

 

以上のことを一言でまとめて言えば・・・

 

オリンピック。

やると決めたらケチ臭いことしてんじゃねーーー!!!

 

というところでしょうか(笑)。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

池上彰著「世界史で読み解く現代ニュース」に潜む近代合理主義的歴史観

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さて、今日はある本の読書レビューをお届けします。

その本は

 

池上彰 & 増田ユリヤ 共著「世界史で読み解く現代ニュース」。

 

池上彰さんはご存知の方が多いと思いますが、私は全然存じ上げませんでした(笑)。

元々高校で歴史を教えていた先生だったようですが、今は教壇を離れて教育問題の現場を取材している方だそうです。
 
さてこの二人による共著である本書ですが、現代のニュースへの理解をぐっと深めるために、現代につながる世界史をそれぞれの視点で深掘りするという内容になっています。
 
内容はタイトルの通り現代のニュースを読み解く上で重要となる世界史のトピック、例えば
 
オスマン帝国の勃興」
フランス革命が世界に与えた衝撃」
「イギリスで発生した産業革命の影響」
 
などの解説となります。
 
という訳で、この本のレビュー開始!
・・・と行きたいところですが・・・・途中まで書きかけて、はたと筆が止まりました。
というのも、ぶっちゃけた話この本ではいわゆる歴史的な事実をご紹介しているだけなので、何かそれを一々取り上げても結局この本の内容を繰り返すだけではないのか? と思ったのです。つまり
 
「この本は面白いので読んでください」で終了じゃない??と(笑)
 
そんな事をわざわざブログに書いても面白くも何ともありません。
 
という訳で、読書レビューというよりも「私がこの本を最初に読んだ時にふと感じた違和感」ついて書いてみようかと思います。
 
その違和感というのは、池上彰さんと増田ユリヤがそれぞれ端書で書かれている、次の部分で感じました。
 
まず池上さん。
 
「世界史を知っていれば、現代のニュースが理解できる。現代のニュースからさかのぼれば、世界史が興味深く学べる。そんな視点から、この本を書くことになりました。」
 
 
そして増田さんの方はちょっと長くなるのですが、増田さんが北欧に取材に行った際に、とある学校で世界史と日本史を教えているという話をした時に
 
「課目を二つに分けて教えてるなんて、何か特別な意味があるのか。もう一つは、地球上の歴史は一つではないのか、日本だって世界の国の一つだし、さまざまな国とのつながりの中で歴史を積み重ねてきたのではないか、というようなことを先生から言われた。
その時は『古い時代は、日本とヨーロッパとの関わりはほとんどないし、日本史でも他国との関わりを教えている』と答えるのが精一杯だった。何を伝えたくて授業をしてきたのかを考えさせられた。」
 
というエピソードです。
 
私はこれらのエピソードの中に、世界史というものをプロフェッショナルとして扱うこの人たちでさえも
 
「世界の歴史は一つである。」
「世界とは同じ時間軸の中で流れていって一つ歴史を刻むものである」
「世界の歴史は理性によって理解が可能である」
 
という、西洋的な歴史観の潜在意識レベルでの刷り込みが潜んでいると感じました。
 
 
どのような時代であれ、その時に起こった出来事全てを把握することは人間にはできません。
ましてやその時に起こった出来事の関連性を理解するなどということは不可能です。
であれば、結局人間が歴史と呼んでいるものは、ある特定のタイミングで、特定の場所で発生した出来事から関連がありそうなものを人間が取り出したものでしかありません。
そう考えると、歴史とはそれらの事象に人間の誰かが主観に基づいて紐付けした、一つの解釈でしかありませんし、その人間の主観とはその人が生きた社会に根差した価値観から逃れることはできません。
 
だとすれば、世界史というものは、それぞれの社会に生きる人たちに共有される価値観が違えば、その分だけ無限に解釈があり得ることになります。
したがって、「歴史はひとつだ」という考え方自体が、ある特定の価値観が正しいという認識に基づいた独善的なものではないかと思うのです。
 
たしかに池上さんが言うように、歴史的な流れを知っていれば現代のニュースを見る目も変わってくると思います。
それ自体が間違っているとは思いません。
 
ただ、歴史がそれぞれの時代の社会の価値観に根差した解釈の仕方であるとするならば、今の、しかも西洋的価値観に染まった日本人の価値観で見た歴史でニュースを解釈できると考えるのは傲慢ではないでしょうか。
あくまで「ニュースを解釈する一つの手法を身に着けられる」。
その程度の話ではないかと。
 
 
 
日本に日本から観た歴史観があるのと同じく、ほかの国や地域にもそれぞれの国の価値観に根差した歴史観がある。
それは歴史には様々な立場での捉え方がある、という程度の話ではなく、それぞれの社会に流れる時間軸や世界観、人生観すべてが根本的に違うという意味で、価値体系の全く違う歴史観である、ということを忘れてはならないのではないか。
 
そのような事を考えさせられた、今回の池上彰さんと増田ユリヤさんの共著でございました。
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

さくらももこ死去に際して考えた。「漫画は文化」思想は漫画の面白さを殺す。

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既にご存知の方が多いと思いますが、ちびまる子ちゃんの作者さくらももこさんがお亡くなりになりました。

 
昔から漫画好きで、ちびまる子ちゃんもアニメ放送前から毎号読んでいた私としては、やはりこの件を外すわけにはいきません。
 
 
ちびまる子ちゃんと言えば、同じ漫画誌に掲載されていた「お父さんは心配性(誰も知らないかな(笑))」と並んで、私が
 
「ニヒルな笑いの漫画」
 
という存在を知るキッカケになった漫画でした。
 
最初はその「ニヒル」という概念が理解できず、何が面白いのかさっぱりでしたが、慣れてくるとその独特なスルメのような噛めば噛むほどに染みる笑いにすっかりハマった
 
 
ただ、そんな私ももう随分長いことちびまる子ちゃんのアニメを観ていません。
なぜでしょうか?
 
働き始めて時間がなくなった、というのもあります。
ですが、それだけではありません。
アニメの方向性が変わってしまったのがきっかけです(私の主観です)。
 
 
具体的にいつからかは覚えてませんが、ちびまる子ちゃんが「国民的アニメ」という位置付けになった頃ではないかと思います。
 
初期のちびまる子ちゃんは、実際に多くの人が子供の頃に味わうような
 
・どんなに頑張ってもどうしようもない「現実の壁」から逃げ出したい衝動
・そこから逃げ出すためにいろいろな策を弄するものの、結局失敗して現実の前に放り出される無情さ
 
そういった現実の世界に“後ろ向きに立ち向かわざるを得ない”子供の苦しさを、決して重苦しい暗い雰囲気ではなく、ニヒルな笑いで表現していたところに面白さがあったように思います。
 
それが「国民的アニメ」のような立ち位置に立たされるようになった頃から、そのようなちびまる子ちゃんの持ち味が失われ、「普通の家族団らんや学校の友だちとの絆を描く物語」になってしまったのです。
 
 
恐らくそのような方針転換は、ビジネス的な理由が主でしょう。
やはり「ニヒル系」では“マス”の支持を得ることはできませんので。
ただ、その背景には昔と違ってアニメや漫画を日本の文化だと持ち上げようとする、アニメや漫画に対する考え方自体の変化があったのではないかと思います。
 
 
私は一漫画ファンとしてこのような考え方には、強烈な違和感を持っています。
 
「漫画が文化になったら終わり」
 
だと私は思っているからです。
 
※「何をもって漫画というか?」という議論になるとややこしいので、その議論は避けます。とりあえずざっくりジャンプとかサンデーとか、普通の人が「漫画」と聞いて思い浮かべる、一般的な漫画雑誌に載っているようなコマ割り、吹き出しのある漫画スタイル、と理解してください。
 
誤解がないように書いておきますが、私は今でも漫画が大好きですし、その内容や価値がくだらない物だと思っている訳ではありません。
むしろ「あなたの人生に最も影響を与えた作品はなんですか?」と聞かれたら、私は速攻で
 
るろうに剣心です!」
 
と答えるくらいです( ̄ー ̄)ニヤリ
 
 ただ、“だからこそ”私は漫画には大人に文化的価値がどうのこうのと論じられるのではなく、子供が大人に隠れてこそこそ読むような、普通の世界とは全然違う禁断の世界を覗き込むようなワクワク感を子供に与え続ける存在であって欲しいのです。
だからこそ、むしろ大人には漫画を読む子供には眉をひそめて欲しいし、「公の場では漫画なんか読んじゃいかん! 」という常識をしっかりと持って欲しい。
そんな真っ当な社会であって欲しいのです(ま、そう言いながら裏では漫画読むんですけどね。「裏」で読むから漫画は面白いのですよ!)。
 
大人に隠れて読む。
大人に見つかったら嫌な顔されるけど、それでも面白いから読みたい!
そんなワクワク感とドキドキ感こそが漫画の面白さをブーストするし、だからこそ世の漫画家たちも子供に夢を見せてあげようと必死で描くのではないでしょうか。
それが「文化」だとまかり通ってしまったら、私には本来の漫画の面白さが失われてしまうような気がしてなりません。
 
 
私はそもそも「表現」というものは、制約が強ければ強いほど深い表現ができると考えています。
万葉集古今和歌集に載っているような和歌がその好例です。
五・七・五・七・七という非常に厳しい制約の中で、何とか今の心情や情景を伝えようと努力するからこそ、そこに想像の翼が広がるのです。
そういう意味においては、漫画のように絵でも文字でも表現できる表現方法は制約があまりありません。アイデア次第で何でも出来てしまうのです。
ですから、「文化」としての立場を漫画に与えて他の表現方法と並べてしまうと、それは逆に漫画の底の浅さを際立たせるだけではないかと危惧してしまうのです。
 
※漫画は底が浅いというのは誤解を生みそうですが、現状漫画を描くハードルがかなり下がってしまっているので、玉石混交の状態になっています。
昔のような一握りのその道を極めた漫画家しか生き残れないような時代よりも、むしろ平均値は下がってしまっているのではないかと私は感じています。
ただ、その中でもすごい漫画を書く人は確実にいますので、「漫画自体が底が浅い」という意味で書いたのではありません。表現が拙くて申し訳ありません。
 
 
ちょっと脱線してしまいましたが、私の「漫画が文化になったら終わり」という主張をざっくばらんに言い換えるなら・・・
 
禁断の世界は“禁断”だから良いんだよ!
それが文化だと世間に認められたら、自己否定以外の何物でもないんだよ!
 
というところでしょうか(笑)。
 

 

文化とは国民の生活や価値観、あるいは道徳観に密接に結びついているものだから、「これを文化にしよう!」と言って作り上げることはできません。

その意味では、何か一つの文化的な特質が文化となるかどうかは歴史の中で定められていくと言えるでしょう。

 

ですが、子供の頃から漫画を読んで育ち、今でも漫画を愛読する私としては、漫画を文化として成立させることは、本来の面白さと読者の楽しみ方を失わせるのではないかと思います。

漫画には世間一般には開かれない、サブカルチャー的な存在でというか、良い意味で

 

「大人に黙って読んでほくそ笑むような、子供が現実から逃れて想像の世界へ飛び込んで行くような子供の宝物」

 

であって欲しい。

そう思うのは私だけでしょうか。

 

 

 

さて、随分長くなってしまいましたので、ここらで締めたいと思います。

私にとって、さくらももこさんの「ちびまる子ちゃん」という作品は、そんな「大人からは目をひそめられるけど、子供には共有できるシニカルな笑い」を提供してくれる貴重な作品の一つでした。

子どもの頃に「俺ってあくどいなぁ、嫌なやつだなぁ。こんなに現実から逃げて誤魔化してばかりじゃいけないんだよなぁ・・・」と思っても、ちびまる子ちゃんを読むと「みんな一緒なんだな。やっぱりそんなもんだよな。」とクスクス笑いながら、自分をちょっと許せるような、何かそういう安心感みたいなものを得ていたような気がします。

 

救われたというほどではないですが、ちょっと肩の荷が降りたような気にさせてくれる。そんな作品だったかな、と。

 

ちょっと硬くなってしまったかもしれませんが、私なりの敬意と感謝を添えて、今回のブログをさくらももこ氏に捧げたいと思います。

長い間本当にご苦労様でしたm(_ _)m

 

星野源の新曲「アイデア」に「アイデアの生み出し方」の真髄を見た

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突然ですが、皆さんWebサイトを作ったり、広告を作ったり、写真を撮ったりという「クリエイティブな仕事」と聞くとどんなイメージを持たれますか?
 
「なんか無駄に格好つけてそう」
リア充気取ってそう」
「芸術家気取りのアーティスティックな仕事をしている」
 
なんかそんな声が聴こえてきそうです(笑)。
そこまで極端じゃなくても、あまり良いイメージはないような気が・・・(笑)。
 
ただ、良い意味でも悪い意味でも
 
何か「アーティスティックなセンスで、クリエイティブなアイデアを出していく仕事」
 
というイメージはあるのではないでしょうか。
 
 
かく言う私もそういった、いわゆる“クリエイティブ”系に携わる仕事をしておりますが、今の仕事の前はいわゆる営業的な仕事をしていました。
クリエイティブ系には無関係の仕事でしたので、こういう仕事は
 
「人が思い付かないような奇抜なアイデアを考えられるような人じゃないと務まらない」
 
と思っていました。
 
ところが実際にやってみると、全然そんなことはないんだなという事を実感しています。
というか、このような仕事で必要になる「アイデアの出し方」はクリエイティブ系だろうが何だろうが実はそれほど変わらない。むしろ基礎は同じなんだな、とすら思っているのです。
 
 
 
実はつい最近そのような「アイデアの出し方」について考えさせられる出来事が続けて起こりました。
そこで今回は
 
「営業的なアイデアの出し方」
「クリエイティブなアイデアの出し方」
 
その両方を知っている私だからこそお伝えできる
 
「アイデアの出し方」のテクニック
 
をお届けしたいと思います!! ドーン!!! (・∀・)
 
あ、ちなみに、本文読んで貰えば分かりますが、私が考えた方法じゃないですww
私はあくまで「紹介するだけ」なので!!!。
そこんとこヨロシク!! (=゚ω゚)ノ
 
 
 
 
 
さてさて、では本題ですが、ぶっちゃけて言うと
 
イデアなんて何もそんな思い付きで出てくるものじゃないです。
 
そんなのね、当たり前ですよww
世の中そんな甘くありませんww
 
ですが
 
「より早く、それなりのクオリティでアイデアを生み出す確率をグッと高めることは可能」
 
です。
 
そのことを分からせてくれる出来事が最近2つほどありました。
 
一つがAvexでアーティストのプロモーションを担当していた、原尻淳一という方の著書「アイデアを形にして伝える技術」。
そしてもう一つはタイトルにも書いた、星野源の「アイデア」という曲です。
 
 
まず前者の原尻氏の著作について。
この中で著者が提案しているのは「アイデアを出す技術を身に着けるための方法」です。そう、この中で著者が前提にしているのは、アイデアとは技術であるという考え方です(この言葉自体は使っていませんが、内容的にはそのように解釈して問題ないと私は思っています)。
 
技術であれば、世界でもトップクラスのような「ものすごく高いレベル」の話をしなければ、知識や経験によって誰でもある程度は身に着けられるものということになります。
 
その具体的な手法がこの本の中には書かれているのですが、その基本的な考え方としては
 
「知識の収集、整理、そして組み合わせ」
 
です。
もう少し詳しく書くと
 
「アイデアを出すためには前提として、アイデアが求められる分野でより多くの情報を収集し、それを分析、整理して、体系だった知識として記録しておく事が重要。
なおかつ、それは単なる“知っているだけという知識”ではなく、それを必要とする人たち、活用する人たちにとって現実的な“当事者意識のある知識”として保存しておかなければならない。
 
また、そのような知識を活用できる状態にするには、常に「どのような形でその知識をアウトプットするか?」を考えながら、取り入れ整理しなければ意味がない。
 
そのような体系だった知識としてのアーカイブが構築できれば、アイデアとはそれらをどのように組み合わせるかだけである。
 
そして、その組み合わせ方は、どのような相手にどのような形で届けるべきかに応じて変えるべし。」
 
という感じでしょうか。
 
具体的な細かいテクニックに興味がある方は、実際の書籍をお読み頂くことをお勧めしますが、私がこの本を読んだ時に
 
「ああ、星野源が言ってたことと同じだな〜」
 
と感じました。
 
 
突然ですが、NHKの「あさイチ」という番組をご存知でしょうか?
朝の連続テレビ小説が終わった8時15分から毎朝始まる、NHKキャスターと博多華丸・大吉の3名が、いろいろな分野のゲストを呼んでお話をしたり、色んな社会問題などについて語り合ったりする番組です。
 
そのゲストとして先週星野源が出演していたのです。

 

まぁ、理由は単純で今放送している連続テレビ小説の主題歌を星野源が書いているので、その宣伝なのですが(笑)。

 

その曲名が「アイデア」なのですが、その番組の中で曲の背景などを星野源が語っていました。

その時に彼が語った言葉が耳に残っていたのです。

 

「曲なんてどこかから降ってきたりしませんよ。ギター持って、ああしよう、こうしようって悩んで作るんです。」

 

「毎朝みんなが見る番組だから、『おはよう』から始めようと思った」

 

連続テレビ小説の主題歌を作るというオファーがあったときに、この曲を僕の名刺みたいに出来ないかと思ったんです。色んな世代の人が見る番組だから、僕を知らない人も一杯いる。そんな人達に『僕はこんな人です。よろしくお願いします!』って名刺代わりになったら良いなと。

だから、今までの自分が作ってきた曲、これから作りたい曲、自分の過去、現在、未来を取り入れた曲にしようと思ったんです。」

 
記憶で書いているので細かいところはご勘弁願いたいですが、大体このような事を仰っていました。
 
これだけだと原尻氏の著作とどこが同じなのかが分かりづらいと思いますので、私なりに解説を加えますと・・・
 
まず、星野源は子供の頃から音楽が好きで、色んなジャンル、色んな世代の音楽に造詣が深い。
これは「知識の収集」です。
 
また、今回の主題歌について言えば、自分が作ってきた曲の特徴をしっかりと分析し、整理しておくことで、「自分の曲がどういうものか」を明確に把握している。
これは「分析と体系だった情報の整理」。
 
そして、この主題歌において求められるものが何かを理解した曲を構成(『おはよう』から始めることや、朝らしい爽やかな曲調)。
これは「アーカイブされている知識の組み合わせ」。
 
によって作り上げられたことが分かります。
 
しかも、その上で幅広い世代に自分のことを理解してもらうという名刺代わりにする、というセルフ・プロモーションの役割さえも持たせている。
 
「何か良い物を」というような漠然としたアプローチではなく、自ら作り上げた「アイデアを生み出せる方法論」によって、綿密に計算された曲に仕上がっているわけです。
 
お・・・恐るべし、星野源!!
 
 
 
恐らく星野源も様々な苦労の中でこのような方法を生み出した・・・あるいは、無意識のうちに身に付いたのかもしれません。
そういう意味では必ずしも体系だった方法論ではないかもしれませんが、前述の原尻氏の「アイデアを形にする方法」と非常に近いものがあると感じます。
 
原尻氏による理論と、星野源による実践。
 
確かに二人が口に出している言葉は全く違います。
ですが、どちらにも共通しているのは
 
イデアを出すのに「神は降りてこない」
 
ということ。
 
むしろ、懸命に頭をひねって作り上げたものが、周りにちゃんと届いた時、その作品やアイデアに神が宿るのかもしれません。
 
私も仕事なのか、ブログなのか、あるいは音楽なのか、何か神が宿るとまでは言わなくとも、誰かの心に届くようなものを生み出せるようになりたい…。
 
そんな事を考えさせられた二つの「アイデア」に関する作品を接した一週間でした。
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😊

"人生で初めて救急車で病院に運ばれた"の巻

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※写真は本文とは関係ありません。お決まりの画像を作る時間がなかったので、近郊の夜景スポットの写真を代わりにw

時間がなかった理由は本文をご参照ください( ̄∇ ̄)


さて、本題です。

本当は昨日ブログをアップするつもりだったのですが、のっぴきならない事情により叶いませんでした。


その理由はタイトルの通り


人生で初めて救急車で病院に運ばれたからです!!(笑)



いや、笑い事じゃないんですけどね。


しかも原因は過呼吸です。


ちょっと!あなた笑ったでしょ!?

過呼吸かよww」って(笑)



いや、過呼吸舐めちゃいかんですよ。

私も舐めてましたが…。


とにかく仕事中に突然気持ち悪くなってきたと思ったら、手足が痺れ始め、全身が痙攣してきました。

喉が締められるような感じになり、呼吸も苦しく、意識も遠のいてきたんです。


過呼吸って、例えが悪いですが犬みたいに呼吸が荒くなって息がしづらくなるだけだと思っていたので、まさかこれが過呼吸だとは思いませんでした。


本気で「これ、死ぬやつや。人生ってこんなにあっけなく終わるんだ…」と思いましたよ。



会社の同僚に救急車を呼んでもらい、救急病院に搬送されたのですが…。

まぁ病院の方々の慣れたこと。


「あ〜、過呼吸だね〜」って言いながらケラケラ笑ってるんですよ!

ひどい!

こっちは本気で死ぬかと思ってるのに。゚(゚´Д`゚)゚。


まぁ、過呼吸はとにかく落ち着いて呼吸することが大事なので、落ち着かせるための手法なのかもしれませんが…。


ちなみに、治療が終わって最後に先生に言われました。

過呼吸舐めてたでしょ?」って(笑)。


ええ!舐めてましたとも!

すみませんでした!!

あんなに辛いとは思いませんでした。



皆さん、もし周りで過呼吸になっている人がいたら「たかが呼吸だろ?」とか馬鹿にせずに接してあげてください。

背中さすったり、「大丈夫だよ。落ち着いて」と声をかけてくれるだけでも全然違います。


そして、過呼吸に陥ってる人は自分が過呼吸という自覚がありませんので、息をいつも相当よりもゆっくり吐くことを促して貰えると、応急処置としてはよろしいかと思います。


というわけで、今回はもう疲れ果ててしまったのでこの辺で。

明日はちゃんとした(?)記事を投稿しますのでお楽しみに〜( ̄∇ ̄)


ではでは、皆さんも過呼吸にならないように、ストレスのない穏やかな日々をお過ごしください😃


トルコリラの暴落と経済危機。危機が繰り返される理由はそれで儲かる人たちがいるからだ。

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さて、世間を騒がせている通り、今トルコの通貨リラがえらいことになっています。

当然トルコ経済も大混乱です。

 

1990年代にはアジア通貨危機があり、最近ではギリシャ危機があり、正直「また危機なの? 今度はどこや?」という感じがしないでもありません。

 

ですが、そもそもなぜ何度も通貨危機や財政危機が発生するのでしょうか。

今回の投稿ではその根本的な原因・・・危機の裏に潜む投機家という名の“ギャンブラー”についてちょっと考えてみようと思います。

 

 

さて、一言に危機といってもその発生には、様々な理由があります。常に同じ理由とも限りません。

それぞれの国の政治情勢や価値観、はては宗教問題などいろいろな事情が複雑に絡み合っています。

 

ぶっちゃけて言うと、それをこのようなブログごときで全て解明することは不可能ですwww さじ投げたww

 

 

ですが。

一つだけお伝えできることがあります。

 

それは

 

このような危機が繰り返される理由の一つは、それで儲かる人たちがいるから

 

だということです。

 

 

経済危機が起こりやすい方が都合が良い人達

一見、経済情勢が不安定化するということは悪いことのように見えます。

しかし、ちょっと別の視点で見ると次のようにも言えるのです。

それは

 

「不安定化するということはリスクが高まるということ。

リスクが高まるということは、それだけリターンも高まるということ。 

つまり、ギャンブルと同じように稼ぎどころと引き際をきちんと見極められる能力があれば、経済危機はむしろギャンブラーには好ましい。」

 

ということなのです。

 

例えばCDS (クレジット・デフォルト・スワップ)という金融商品があります。

複雑な条件は抜きにして、簡単に説明します。

 

例えばA社がB社に1,000万円の債権があるとします。

B社がちゃんと1,000万円を支払ってくれれば良いのですが、倒産したら困りますよね。下手すれば1,000万円がパーです。

 

そこでA社はC銀行に、B社が倒産した時のことを考えて1,000万円を保証する「CDS」という契約を結びます。

その代わりA社はC銀行に定期的に手数料を支払います。

銀行は手数料が儲かりますし、A社はB社が倒産しても1,000万円は保証されるので安心できる訳です。

 

これだけなら特に問題はありません。

ややこしいのは、この「CDS」という金融商品は、仮にA社がB社に債権を持っていなくても、A社とC銀行の間の契約で成立してしまう金融商品として取引されていることです。

つまり、A社はべつにB社への債権がなくても、C銀行からこのCDSという商品を買えるのです。C銀行としてはそれでも手数料が入ってくるから全然問題ありません。

 

そして、A社はもしB社が倒産した時は、債権を持っていないにも関わらずC銀行から1,000万円の保証金を受け取れます。

仮に手数料をC銀行に50万円しか払っていなかったとしたら、950万円まるまる儲かるのです。

 

恐くないですか?? CDSってwww

こういうのをデリバティブ (金融派生商品)というのですが、聞いたことある人もいるんじゃないでしょうか。

 

いや、投機家は儲かるんでしょうけど、こんなバクチみたいな商売、本当に恐ろしいですわ(笑)。

 

国家財政まで投機の対象にする恐ろしさ

元々国債市場は安定した債権であって、いわゆる安全資産とされてきました。

しかしながら、このCDSによって国債までも「市場に向けて開かれた」・・・と言えば聴こえは良いですが、いわゆるヘッジファンドなどによって投機の対象にされてしまったのです。

 

そして、このCDSの場合、購入してから時間が経つほど手数料がかさみ、その一方でいつまでも保証金が貰えません。ずっと損し続けるわけで、それは困ります。

この場合、投機家にとっては財政状況が不安定化し早くデフォルトすることで、手数料が少なくなおかつ高い保証金を得ることができる、ということになります。

あるいはデフォルトしなくても、財政状況の不安定化により保証金と掛け金が上がれば、その保証金の高さを餌にして別の投機家にCDSを売りつけてしまえば、自分だけは損しなくて済みます。

 

つまり、財政状況が悪いというハイリスクの状態こそがハイリターンを得られる可能性が高くなるというわけです。

 

これが問題なのは、実際に国家がデフォルトしそうな危機に陥ったとしても、ギリシャの時のようにデフォルトしてしまう前に売り抜けてしまった場合、その投機家は損をしなくても、「デフォルトした国」に済む国民はデフォルトによる債務の精算をしなくてはならないということです。

 

いわば投機家が儲かった分を国民が負担しなければならなくなるということになります。

 

 

しかし、そうだと分かっていてもそのような投機家の資金に頼らざるを得ない。

それが財政状況の悪化した国家の辛いところです。

自国通貨建てで国債をまかなっている国であれば、通貨を発行してその国債を補填することが可能です。

ですが、トルコもそうですし、ギリシャの場合もそうだったのですが、「外貨建て国債」の場合は、そのような真っ当な手段をとることができないのです(ギリシャの場合は「外貨」ではないですが、自国で通貨発行権がないので条件は同じです)。

 

そうすると、どうしてもそのような投機家と、彼らにCDSのような商品を売りつける民間金融機関の力に依存せざるを得なくなる・・・という訳です。

「分かってても他に手がないんだから仕方ないじゃないか!!」ということですね・・・。

 

投機家が儲かるリスクを背負うのは国民である

実はこのような「国家の(金融)市場への依存」をもたらすのは、今回取り上げたCDSだけではありません。

為替レートや金利も同じことです。

 

為替レートの変動が生む、グローバル化という資本移動の自由化によって増大した為替差益や企業収益への影響。

そして、金利においては、実際今のアメリカの金利が高まっているために、新興国から投機家が引き上げ、アメリカに舞い戻っています。

 

これらの動きによって各国の国内の企業活動が左右されるため、国家までもがそのような投機家の動きに敏感にならなければならなくなっています。

いわば国家が市場に隷属させられているような状況であり、国家は市場の顔色をうかがいながら経済政策を検討しなくてはならなくなっているのです。

 

そして、先程も書いたように、いざ事が起こった時にその尻拭いをするのは国民なのです。投機家ではありません。

 

本来国家とは国民の生活を向上させる「経世済民 (世の中を治め、民を救う)」のために政策を行わなければなりません。

それが今のグローバル化した世界では、「世界を股にかける投機家を招き入れる」ために政策を行わなければならない。

 

日本人は島国根性が逆に働くせいなのか、とかく「閉鎖的」ということにものすごい忌避感を示し、「開放的」ということに非常に強い憧れというか義務感を感じがちです。

それと同じくグローバルな資本を取り込むということにも強い憧れを抱くようです。

 

しかし、今のトルコを見てください。

グローバルな資本を取り込んだ結果がこの有様です。

 

グローバルな資本を取り込むということがどういう事を意味するのか?

それをもう一度冷静に考え直す時が来ているのではないでしょうか。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

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