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日本フェンシング協会「英語の成績が悪ければ実力高くても代表にしない」

日本では大分マイナーなスポーツであるフェンシングですが、それを司る日本フェンシング協会がとんでもないことを言い出しました。

なんと代表選手の選考に年に1回英語の「読み書き」「話す」に関する試験を行い、一定の基準に達しない場合は、実力が上位であっても代表に選ばないようにするそうです。

以前のオリンピックで銀メダルを獲った太田雄貴会長が

「世界ランキングがどんなに高くても代表に選ばないということは、競技団体として相当の覚悟を持って決めた。今だけでなく、選手の未来を考えた結果で、協会として真っ向から取り組んでいきたい」

と話した模様。

え・・・太田って会長になってたのか・・っていうのがちょっと驚きですが、まぁそれは置いておいて。

 

誤解を恐れずに言わせて頂きますが、これを聞いた時に私は

 

「やっぱりスポーツしかやってない奴に権威を与えたら駄目だな」

 

だと思いました。

 

はっきり言って

 

「英語の勉強してる時間があったら練習しろwww」

 

と思います。

もしこんな事を通してしまったら、全てのスポーツで英語圏の人間が圧倒的に有利になるじゃないですか。だって、彼らはその時間を削って練習時間に集中できるのですから。わざわざ日本勢を弱くしてどうする?

 

個人戦のスポーツでコミュニケーション力がどこまで大事?

また

協会は、選手たちが英語を学ぶことでほかの国の選手や審判とコミュニケーションを取れるほか、現役を終えたあとにも、職業の選択肢が広がるといったメリットがあるとしています。

などと言っていますが、全くどうかしています。

 

もちろん野球やサッカーのようなチームプレイであれば話は別です。チームメイトとコミュニケーションを取れなければなりませんから。ですがフェンシングのような個人競技は違いますよね? むしろコミュニケーションをとらない方が戦術上有利なこともあるのではないでしょうか?

 

仮にコミュニケーションをとる必要があるのだとしても、まずは海外勢に混じっても負けないくらいの実力があること前提です。言葉というのはコミュニケーションのためにあるのですから、「こいつとコミュニケーションを取る必要がある」と思えば、相手も何とかコミュニケーションを取ろうとして来ます。

ですから、「コミュニケーションを取りたい」と思わせるほどの実力がないと話にならないのです。ただでさえ、欧米発祥のスポーツはその体格から日本人には不利なものが多いのです。であれば、欧米人よりも少しでも多く練習することが肝要です。それにも関わらず練習時間の一部を英会話に振り向けろというのが全く意味不明です。

 

そもそもスポーツの世界には「勝ちか負けか」の2つしかない。そんな所でコミュニケーションがなぜ必要になるのか? コミュニケーションを取れないと真の実力が出せないようなら。それはその程度の実力でしかないということです。実力で黙らせろ!

どうしても必要なら付きっきりの通訳をつければ良いじゃないですか。ましてや、今後5Gが当たり前の世界になったら、全ての言語の同時翻訳技術も圧倒的に高まりますので、英語なんて勉強する必要がますますなくなります。

 

金があればスポーツは買収可能だってこと。

結局、この話というのは「お金」の話なんでしょう。

フェンシングは日本ではマイナーなスポーツですので、大会運営や選手強化に必要なお金の捻出に困っているのが実情。そこに「ベネッセコーポレーション」が目を付けて、フェンシングをやるには英語能力の向上が必要ということにすれば資金援助するとでも言い出したのでしょう。

それでこの太田氏がコロッと騙されてこんな荒唐無稽な方針を打ち出した。一応彼は珍しくフェンシング選手としては、日本国民の中で認知度が高いですし、オリンピックでの活躍でフェンシングに注目を集めた張本人ですから、周りに“神輿(みこし)”として祭り上げられたんでしょう。

 

ベネッセコーポレーションとしては、子どもに影響力があるスポーツ選手が「私もベネッセで英語力を身に着けて、海外で活躍しています」というCMを打てれば、莫大な売上に繋がると考えているに違いありません。

 

 

一流スポーツ選手だからと権威を与えるな

やっぱりスポーツ選手として結果を残している人というのは、必死に努力をしていけば必ず結果が出ると信じていると思います。そして結果を出せば周りも分かってくれる、と思っているのでしょう。でもスポーツという「点数」でハッキリと白黒つけられるものと違って、現実の世界はそんなに甘くありません。

どれだけ努力しても結果が出ない人は出ないし、結果を出せても周りが納得するかどうかは別問題。そんなことは社会を経験していれば誰でも分かります。そういう意味ではオリンピックや世界大会に出場経験がある人は、こういう協会の役員の人選から外すべきではないでしょうか。

むしろ「スポーツで結果を出そうと必死に努力したけど出なかった人」にこそ、こういう組織を担う分野で働かせるべきだと思います。

 

どこかの国にスポーツ庁とかいう訳の分からない官庁がありますが、そのトップにスポーツ分野で実績を残した人をつけたがります。それは「現場を分かっている人、当事者が求めているもの分かる人がトップになるべき」というのは、“現場第一主義”的な考えに基づいているのですが、私はそれ自体が間違っていると思います。

現場が分かっているからと言って、組織を動かす能力があるとは限りませんし、結局その人が知っている現場も「その人の主観」に過ぎません。経験者一個人の経験談としては重要だと思いますが、それは意見として尊重すれば良いだけの話で「経験者が仕切るべき」という話とは別です。

 

むしろ、そのような経験者の意見を取り入れつつ、組織を動かす能力に優れた人間を組織のトップには据えるべきであって、スポーツで実績を残したかどうかを選考基準にするのはナンセンスです。どれだけスポーツの現場を知っていたとしても、結局組織や資金を動かすのに必要なノウハウを身に着けた官僚の言いなりになるだけなのですから。

この太田氏もどうせベネッセにフェンシングの未来を考えたら今決断が必要だとか、これからのグローバルな時代に英語が話せれば選手も選択肢が広がるとか、都合が良いことを言われてコロッと騙されたんでしょう。

ベネッセという一企業の利益や、グローバル化などという時代遅れ価値観に今さら乗っかるために、将来の有望な選手に無駄な時間を使わせ選手の力を弱体化させることを「覚悟」を持って決断したそうですが、思い上がりも良いとこですね。

 

今だけの価値観に則って将来の選手の行動をも規定する足るほど、自分たちが信じる価値観が正しいとでも思っているのでしょうか。

かつて、古代ローマ時代のユウェナリスという詩人が「健全な精神は健全な肉体に宿れかし」という言葉を残しました。

これはよく間違えられて「健全な精神は健全な肉体に宿る」と言われますが、完全に間違いで、最後“願望”の「かし」が付いていることから分かるように、

 

健全な精神が健全な肉体に宿るということがあれば良いのだが、実際にはそんなことはないのだなぁ・・・

 

という意味です。

まさしく今回の日本フェンシング協会の決定を言い当てている言葉だな、と思います。

 

今回も長文を最後までお読み頂き有難うございました😆

 

 

 

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