世界を救う読書

ビジネス書から文芸書までさまざまな本を通して世界の見方を考えるブログ

ブレグジット(英国のEU離脱)の理由とは、人間が持つ尊厳を傷つけられた“怒り”である。

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イギリスが国民投票によってEUからの離脱を決めて早2年。

もう日本ではすっかり「そういえば、そんな事もあったね〜」くらいの温度感になっていますが、EUとの離脱交渉はまだ継続であり、どのような形で収束するかはまだ予断を許さない状況です。

 

ご記憶の方も多いと思いますが、EU離脱国民投票によって決定した当初、日本では「いかにイギリスが馬鹿な選択をしたか」「排外主義に毒された大衆迎合主義者が大衆の不安を煽った」などとイギリスを断罪するような報道一色でした。

アメリカのトランプ大統領に対する批難とほぼ同じ様相だったと言えるかと思います。

 

ところで、つい先日ひょんなことからこのイギリスのEU離脱問題に関して、岡部伸という方の書いた「イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭」という新書を読む機会がありました。

産経新聞のロンドン支局長の方が書いた本で、「イギリス特派員として現地だからこそ感じとれたこと、新聞記事では書ききれなかったことを書いた」とのことだったのですが・・・・。

 

この本を読む中で、現在の「ポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭」と言われる状況を考えるに当たり思うことがありましたので、今日はその事を取り上げたいと思います。

 

 

さて、早速ですがこの本の内容をギュッとまとめると、イギリスのEU離脱問題とは

 

EUの政治機構の官僚達がEU全体のルールを創り上げ、それを諸国に押し付けていることに、イギリス人は民主主義の原則から逸脱した行為であり、主権が欠侵害されていると感じていた。

そして、そこに移民問題による社会の分断や経済的困窮が炎上し、イギリスの反EUの機運を盛り上げた。

その結果がイギリスのEU離脱である。」

 

ということになります。

つまり、移民問題はあくまで炎の勢いを強くしただけで、問題の根幹はイギリスの主権問題である、と。

ちなみにそれについて著者自身は特に態度を明確にしていません。前半はかなり批判的な書き方をしているように見えるのですが、後半はむしろ「そこまでイギリスが追いこまれる状況を作ったEUという組織に問題がある」という書き方になっており、どちらにでも取れる書き方だと感じました。

この内容については確かに冷静な分析ですし、基本的な事情に関しては私もその通りだと思います。

 

国民投票に至った経緯や、国民投票の前後でイギリス国内でどのような議論が行われたか等はさすがに現地記者だなと思わせるほど詳細なもので、なおかつ分かりやすい文章だとも思います。

ですが、何かこう・・・他人事感(?)を感じるというか、核心に触れることなく分析に徹しているという感じがして、ちょっと読み応えはないかなぁという印象です。

 

私がこのように感じるのには実は訳がありまして、私は2年経った今でもテレビで見たあるイギリス人の発した「ブレグジットの理由」が記憶に焼き付いているんです。

そして、非常に短い言葉なのですが、この本を読んでもその一言を超えるような深みを感じなかったのです。

その発言というのは、日本で働いているイギリスのビジネスマンらしき方が発した言葉で、イギリスの立場を日本に置き換えて

 

「日本の最高裁がソウルにあり、国会が中国にあったら嫌でしょう?」

 

というものでした。

何と言いますか、私にとってこの言葉ってすごく説得力があったんです。どんな政治評論家やコメンテーターの解説よりも最も真に迫っており、それでいて簡潔でわかりやすい。

 

よくよく考えるとどちらも言っていること自体はほとんど変わりません。敢えて言うならどちらも「主権を害されたことに対する不満が問題の根幹だ」ということ。

ですが、私が思うにその決定的な違いは、新聞記者の岡部氏が「主権を害された」という事実(というかイギリス側からの解釈)を述べているのに対し、TVに出ていたイギリス人は「主権を害されたことに対する“怒り”を表現している」ことです。

 

すなわち

 

怒りという感情

 

の違いです。

 

もちろんイギリス人は真の意味で自分たち自身に関わることであるのに対し、岡部氏はいくらイギリスに駐在しているとは言え、所詮日本人。外野にしか過ぎません。従って、そのような温度感が生じるのは当たり前と言えます。

しかし、これは岡部氏のブレグジットに関する分析だけでなく、トランプ大統領の言動に対する日本の識者の分析もそうなのですが、いくら外野とは言え怒りや不安といった人間が本能的に持つ感情を蔑視し、人間はすべからく合理的に、理性的に物事を判断するべきであるという“理性至上主義”という観点から物事を考え過ぎのように感じます。

 

確かにこのブレグジットに関して言えば、人間の怒りや不安、道徳心や共同体への愛情という本能的な感情を徹底的に排除して、「経済合理性」に基づいて判断すればこの上なく愚かな判断だったかもしれません。

ですが、そのような本能的な感情を完全に排除し、いついかなる時も理性に基づいて判断することは可能でしょうか?

 

たとえばこの夏盛り上がった甲子園。

熱中症による死者が全国で続出する炎天下で高校生に何時間も野外で運動をやらせるなどということは、合理的に考えれば馬鹿げています。

将来のことを考えれば、超一流の選手以外は学校や図書館で大学受験に向けて勉強をした方がはるかに得でしょう。

ましてや、選手でもないのに応援のために駆けつけ、応援席で大声を張り上げるなど愚の骨頂でしょう。合理的に考えれば応援席からの声などという「空気の振動」が勝敗に影響を与えるなどということはあり得ません。

 

にも関わらず、野球が好きという非合理的な理由で選手は懸命に戦い、「彼らを応援したい。少しでも力になりたい」というこれまた非合理的で、非科学的な理由で応援席は盛り上がる。応援する人は自分が選手でも何でもなく、その勝敗が将来を左右するような合理的な理由がないにも関わらず、勝敗やそこで生まれるドラマに涙する。

熱中症で倒れて死者が出る可能性を考えれば、これほど愚かで非合理的な行動はありません。冷徹に考えれば、命の危険を顧みず野球選手を応援することにはこれっぽっちも合理性はないのです。

 

しかし、現実はどうでしょうか?

あの異常なまでの暑さの中で高校生は激闘を演じ、勝ち負けに関わらずそこで生まれるドラマを見て、我々は胸の奥に言葉では説明できないような熱い想いを感じるのです。

 

人間は本来非合理的な生き物なのです。

いえ、むしろ非合理的だからこそ人間なのではないでしょうか。

 

私はその意味において、イギリス人がEU離脱を選んだことを合理性や経済性などという「理性」の面から断じようとすることには違和感を感じざるを得ません。

もちろん、イギリス人全員が離脱を選んだ訳ではないことは百も承知です。

ただ、イギリス人のエコノミストであるロジャー・ブートル氏が述べたように

 

「これ(選挙という洗礼を受けていない欧州委員会欧州議会といったEUの中枢が生み出したルールを加盟国に押し付けていること)は何世紀にもわたる英国の歴史の否定にも等しい。

今日の欧州委員会が歴代のほとんどの英国王よりも議会をないがしろにしていることは愕然とする。」

 

というのは離脱派、残留派を問わず広くイギリス人の間で共有された感覚でしょう。

 

確かにこの「愕然とする」という感覚も非合理的なのかもしれません。いわゆる「大衆迎合主義」がそのような「感情」につけ込んだと批判するのは簡単でしょう。

しかし、この自分たちの歴史を否定されたことに対する怒りは、人間であれば当然のものではないでしょうか。どのように冷静な分析を行おうとも、この怒りに対する理解、あるいはその怒りの元となる人間としての尊厳への敬意を失くしては、今世界を席巻している混乱の根幹は決して理解できないのではないか。

 

そして、その理解なくして、イギリス人のEU離脱という選択、あるいはトランプ氏を大統領に選んだという選択が正しかったとか間違っていたとか、偉そうに決めつける資格はないのではないかと思うのです。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

世界一の災害大国が観光を基幹産業にしようとする愚かさ

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皆さんご存知の通り今年は異常なほど異常(?)な自然災害が日本を襲っています。

ざっと並べると・・

2月 北陸地方福井県を中心に平成30年豪雪
4月 島根県西部地震震度5強)

6月 大阪府北部地震震度6強)
7月 西日本豪雨災害 
8月 台風12号上陸 全国熱暑 
9月 台風20号上陸、台風21号上陸、北海道地震(震度7) ←今ここ。

 

いくら災害大国とは言え、何かあまりに異常過ぎて感覚が麻痺していると言いますか、もはや「これが普通」のような錯覚に陥りそうな気さえします。

もちろんこれが普通ということはありませんが(少なくとも今までは・・・)、以前のブログにも書いたように地震一つとってみても

 

国土は世界の0.25%に過ぎないのに、世界で起こる地震の10〜15%が日本で発生しています。マグニチュード6以上だと20%!!

そして、初夏には梅雨による大雨。現在のような秋口になれば台風通過と災害を起こす自然現象のオンパレード。それが日本という国です。

 

私は日本で生まれ日本で育った生粋の(?)日本人ですし、他の国に行っても「やっぱり日本が一番だな」と実感するほど日本という国が好きです。

しかし、これがもし日本で生まれ育っていなければ、日本に対してどういう考えを持っていたかは分かりません。ぶっちゃけこんな「災害大国」にわざわざ来たいと思うでしょうか?

 

下記のロイターの記事によると田端浩観光庁長官がこのように発言したそうです。

9月の訪日旅行客の動向については、まだ具体的な数字は出ていないものの、台風による関西空港での被害や北海道地震の影響などで訪日旅行のキャンセルや手控えの動きが出ているとし「マイナスの影響を懸念している」と述べた。

 

 

・・・そりゃ、そうでしょ。

確かにどこに死ぬ時は死ぬから一緒かもしれません。

ですが、自然災害に遭遇する確率がこれほど高い国にわざわざ来てるくれることをアテにする方が私はどうかしていると思います。

 

別の日経新聞の記事では

 

「大規模災害に見舞われた大阪と北海道で、インバウンド(訪日外国人)消費への懸念が広がっている。関西国際空港は14日、主力の第一ターミナルで運行を一部再開したが、当面は客足の鈍化が避けられない。

北海道でも宿泊キャンセルが相次ぐなど、観光客に人気の両地域で相次いだ災害は打撃だ。」

「(大阪や京都の人気店に調査したところ)全てで台風前より訪日客が減少。4割弱の店が『客数が半分以下に減った」と答えた」

 

という記事がありました。

 

・・・そりゃ、そうでしょ。

もちろん外国人観光客を呼び込むなという訳ではありません。特に民間企業が“自己責任”で外国人観光客をアテにするのは自由でしょう。しかし、基本的に外国人観光客にとって日本という国はただの観光地にしか過ぎません。わざわざ危険を犯してまで来なければならない義務はないのです。

また、外国人観光客の場合、自然災害だけでなく政治的状況や為替などの経済状況による事情で来日することが難しくなる可能性も大いにあります。

 

「観光立国」などと言えば聞こえが良いかもしれませんが、外国人観光客の消費を当て込むことは、政治的にも常に外国との関係に必要以上に注意を払わなければならない状況に自らを追い込むという側面もあります。

さらに、「外国人が来やすいように規制を緩和する」ということになれば、それはそれだけ外国から危険性を持ち込む可能性を高めるということにもなりかねないのです。

 

誤解のないように書いておきますと、外国人観光客を日本に入れるな、とか極端なことを言うつもりは全くありません。観光立国などと言って“必要以上に外国人観光客を当て込む”のは、回り回って自分たちの首を締めることになると言っているだけです。

日本という国は、とにもかくにも「鎖国コンプレックス」が強烈なのか、「開かれた国」などという薄っぺらい言葉に弱く、「外国人を呼び込む観光立国」などというだけで素晴らしい国を志向しているような気分になるようです。

 

しかし、観光立国とは単に“それ以外に産業がないから”そうなっているだけの話であり、日本のような科学技術や機械産業など他に基幹産業となりうるものがあるのであれば、わざわざ外国に色目を使わなければならないような産業にすがる必要は全くないのです(だからこそ科学技術の凋落などは由々しき問題なのですが・・・)。

 

繰り返しになりますが、だからと言って「鎖国しろ」とか極論を言いたい訳ではありません。観光立国として成功している他の国なんか参考にするな、と言っているのでもありません。

他の国の在り方を参考にするのはとても大事なことですが、それはあくまでその国の根幹となる様々な条件と合わさってこその物であり、それがそのまま日本に通用するなどということはありません。

日本という国の国土、文化、教育、産業などの国の条件に適した世界との接し方を模索するべきではないかと思うのです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

前門の安倍、後門の石破。問題の根幹は首相の顔ではない。

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連日ニュースになっておりますように、自民党の総裁選挙が始まっております。

自民党がほぼ単独の政権与党である以上、事実上「次期首相選挙」でもある訳ですが、現職である安倍首相と“次期首相候補”と言われながら“万年候補”になっている石破元幹事長との一騎打ちになっております。

私は自民党員でもなんでもありませんし、特に自民党を応援しているわけでもないですが、次期首相を決める訳ですからそれなりに興味はあります。

“それなりに”というマイナスの表現を使ったのには意味がありまして、一つには

 

「安倍首相が勝つに決まってるから」。 

 

別に安倍首相を応援している訳ではありません。しつこいですがww

基本的に選挙というのは、どのような選挙でも現職が圧倒的有利なのです。

目に見えて悪手だったような壮大なミスか、倫理的に許されないような過ちを犯さなければ、基本的には現職の方が「自分の成果」を具体的に提示しやすいのです。

逆に対立候補は、以前党首やっていたとかならまだしも具体的な成果を示しにくいので、基本的に勝つ見込みは薄くなってしまいます。

まぁ、勝負に絶対はありませんが、ほぼ間違いなく安倍さんが勝つでしょう。

 

で、私が取り立てて興味がない理由のもう一つは

 

どっちも基本的な経済政策への考え方が一緒だから、どっちが首相になっても大差ない

 

からです。

 

今までの政策を見ても分かる通り、安倍首相は緊縮財政派です。

もしかしたら心中は違うかもしれませんが、実際に行ってきたことを見れば緊縮財政、規制緩和の推進派だとしか受け取りようがありません。おまけに来年の消費増税も予定通り行うつもりです。

8%への増税による影響から4年経った今も抜け出せないでいるというのに。

 

一方の石破元幹事長。

 

「消費税を上げても、やっていける経済環境を作らなければならない。国民一人一人の所得を10年で3割伸ばす」と述べ、消費税率を引き上げても国民生活に影響が出ないよう、10年で所得を3割伸ばすことを目指すと訴えました。

 

 ・・・だからさ、消費税を上げるという選択肢がそもそも間違っているのに、それに耐えられる経済環境を作らなければならないというのが意味不明です。「消費税を上げなければならないから、所得を伸ばさなければならない」っておかしくないですかww

本当にそう思っているのだったら「まずは消費増税は凍結。所得が3割伸びた時点で増税するべきかどうかを判断する」が順序としては正しいはずです。

それがなぜ「消費増税ありき」で話がスタートしているのか。

 

それは石破氏の政策ブレーンが伊藤元重学習院大学教授だからです。

伊藤教授と言えば、押しも押されぬ財務省の御用学者として超有名な方ですが、何と言っても東日本大震災の直後でさえも

 

消費税引き上げというと、すぐに震災後のこの厳しい状況で増税なんてとんでもない、という議論が出てくる。こうした議論をする人は、パブロフの犬のごとく、「増税→景気悪化」という条件反射の世界にいる

 

と、「大震災によって甚大な被害を受けた被害者にも負担を無条件に強いる消費税の増税」を主張した方です。

この方には「消費税を増税しなければ日本は財政破綻する! 増税したからと言って景気が悪化するなんてことを言う奴は馬鹿だ!」という考え方が骨の髄まで染み込んでいるのです。

 

こういう方々は全て経済学的に言う「予算制約式」という理論を無条件に信奉しています。予算制約式とは人が一生で稼げるお金が限られているように、国家も稼ぐことができるお金の量は決まっている。だから一定の予算の下で規律正しい財政運営をしなければならないのだ、という理論です。

 

確かに個人の人生においてはそうでしょう。

ですが、国家の場合は、特に日本のように自国通貨の発行権をある国家にとっては、お金はいくらでも発行することが可能なのです。予算制約式なんぞは国家には当てはまりません。

なぜそのような荒唐無稽な考え方を経済学者が信奉するかと言えば、そのような制約を設定しなければ経済学が成立しないからです。いくらでも国家は通貨を発行できるとなれば、市場にそれだけ多くのお金がとめどなく供給されることが可能になり、経済学的な分析ができなくなるから。

つまり、自分たちの学問が学問として成立しないから、それだけの理由です。

 

そして、そのような経済学の考え方は、財務を自らのコントロールに置きたい財務省にとってはこの上なく便利な考え方になります。そこで財務省と経済学者の利害が一致して協力するという構図になっているのです。

 

そのような人間をブレーンに置いている以上、石破元幹事長は“本人の意思がどうあれ”財務省の言いなりになってしまうことは確実です。

そしてそれは自民党が野党になっていた時に安倍首相が「消費増税に反対し、適切な財政政策によってデフレを脱却する!」と真っ当なことを主張していたにも関わらず、政権を取った途端財務省の言いなりになって、緊縮財政に走ってしまったのと全く同じことなのです。

 

それほどまでに財務省の力は強力なのです。

私はその権力構造こそが問題だと考えていますので、安倍首相の顔が石破氏に変わったところで自体は何も変わらないと考えています。

むしろ、もしかしたらごく少数存在する真っ当な自民党議員とのパイプを保っている安倍首相の方が、ほんの少しマシかもしれない・・・そのようにすら思うのです。

 

問題の根幹は首相がどのような顔をしているのかではない。

その裏にある権力構造をいかに正すかだ!

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

経営者たちに「働き方改革」をコストカットの言い訳にさせるな

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今日はとある事情で、とある企業の、とある社長にお話を伺う機会がありました。

↑「とある」が多いなww

別にインタビューとかじゃないですよ。単純に、ある技術者の人を探しているということだったので、その話を伺っただけです。

 

ただ、その時の社長さんが仰っていたことに、相当違和感を感じてしまいました。

曰く

 

「昨今働き方改革とかって言われてるように、うちも新しく人を雇うのが厳しい。

社員として雇うんじゃなくて、外部に発注できる技術者を何人か声かけておいて、仕事がある時にその人達に頼むという形にしようと思っている」

 

とのことでした。

 

えーっと、あのですね・・・。

 

それは働き方改革とは関係ねぇ!!!

働き方改革」を言い訳にした、ただのコストカットだ!!!

 

経営者とは企業に利潤をもたらすために仕事を行う訳ですが、それは自分の会社のモノやサービスの付加価値を向上させることによって行わなければなりません。そうしなければ、社会全体の経済が成長していかないからです(ここでは経済成長の是非は議論しません)。

それを単なるコストカットによって利潤を増やすことは、単純に社員の給料(人的投資)や設備投資を減らせば良いだけですので、馬鹿でもできるのです。

 

また、そもそも経営者と労働者は対等な立場ではありません。基本的には経営者側の立場が強くならざるを得ません。

それが不況になればなおさらです。

好景気であれば労働者にも他の会社に移るという選択肢が発生しますが、不況の場合は他に働く場所を探すのが難しいため、どうしても「他に働く場所もないし、多少給料が安くても仕方ない」と、より社員の立場が弱くなっていってしまいがちです(これからの日本はそういう意味では人手不足により事情が変わってくるはずですが、そんなにすぐには状況は変わらないでしょう)

 

下記はちょっと古い記事になりますが(2017年8月)、大和総研の試算によると、いわゆる「働き方改革」の一環である残業規制により8.5兆円もの国民所得が吹き飛ぶ可能性があるとのことです。

 

残業時間の上限が月平均で60時間に規制されると、残業代は最大で年8兆5000億円減少する―。大和総研は、政府が掲げる働き方改革で国民の所得が大きく減る可能性があるとの試算をまとめた。個人消費の逆風となりかねないだけに、賃金上昇につながる労働生産性の向上が不可欠となりそうだ。 

 

確かに残業代削減というコストカットによって、一時的に企業の利益は増えるかもしれません。しかし、それは残業を無くしても“それによる付加価値が減少しなければ”の話です。

実際にはそんなことはあり得ないでしょう。

残業をすることで生み出されていた付加価値分を何かしらの方法で補填しなくてはならなくなるはずです。本来であれば生産性の向上を促す、設備投資や人的投資(社員がより高度な技術を身に付けるための教育補助も含む)によって、中長期的な計画でそれを実施すべきです。

あるいは、もしかしたら「残業を減らせば、給料を上げる」などの方策によって、社員が仕事を行う効率性向上を促す・・・といった方法もあるかもしれません。

ですが、今までの、そして現状の日本の企業の在り方から考えると、

 

日本の真面目な社員にサービス残業を強いることで達成する

 

という可能性が一番高いと思われますが、いかがでしょうか。

 

冒頭の社長の馬鹿な一言もそうですが、日本の経営者や政治家、もしかしたら社員すらも「コストカットで利益を出す」という考え方が染み付きすぎているのです。

しかし、それは正しい資本主義の在り方ではありません(資本主義が正しいかどうかという議論はとりあえず置いておいて)。

 

資本主義とは、あくまで設備、人、環境などに資本を投じて生産性を高めることで、そこから得られる付加価値を向上させる(=生産性を向上させる)というシステムです。コストカットで一時的に利益を増大させたとしても、それを循環させていくことはできません。なぜなら、カットできるコストには限界があるからです(平たく言えば、社員が普通の生活を営むことができる給与よりもコストを下げることは不可能です)。

絶対にどこかで限界が訪れます。

つまり、コストカットによって利益を増大させるとは、本来経営者が立ち向かうべき生産性の向上による付加価値の増大という使命を労働者に転嫁、あるいは未来に先送りしているに過ぎないのです。

 

先送りと責任転嫁しかできないような者に経営に携わる資格はありません。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

九州大学火災事件の犠牲者追悼。選択と集中というコストカットによって若い才能を殺すな、

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今日は個人的に衝撃的なニュースが飛び込んで来ました。

九州大学箱崎キャンパスと言えば、私が学生時代を過ごした思い出深い大学です。

先週そこで火災が発生したと聞いた時はとてもびっくりしました。何か事故でも起こったのか? でも法学部で火災事故というのもちょっとおかしいな、と思っていたのですが・・・・。

 

・・・が、その火災を起こしたのが九州大学の元大学院生で、しかも恐らく私が通っていた時と同じ時期に通っていたらしき年齢・・・。まぁ、千人単位で人がいますし、学部が違いますので(彼は法学部、私は経済学部)実際にすれ違ったかどうかは分かりませんが、すれ違っていても全くおかしくありません。

 

しかもニュース記事を見る限り“私とは違って(←ここ重要)”かなり優秀な方だったようです。

男性は15歳で自衛官になったが退官し、九大法学部に入学。憲法を専攻し、1998年に大学院に進学した。修士課程を修了して博士課程に進んだが、博士論文を提出しないまま2010年に退学となった。

 ドイツ語を勉強し、文献の校正ができるほどの力を付けた。生前は少なくとも県内の二つの大学で非常勤講師を務める傍ら、教授の研究補助もしていた。元教授は「授業の発表も丁寧で、論文を書く能力もあったのに」と振り返る。 

 

博士論文を提出しなかった理由は分かりませんが、自衛官となった後に九州大学法学部(西日本の文系学部では最高峰と言って良いと思います)に入学。大学院に進学。ドイツ語の文献校正ができるほどですから、相当熱心に研究をされたのだと思います。

 

そんな人がなぜこんな事を・・・と思って記事を読み進めると、何と

 

困窮、研究の場も無く 「経済破綻に直面」知人に訴え 非常勤職失い複数のバイト

 

とのことで、経済的に、そしてそれによる精神的に追い詰められた結果の自殺ではないかということです。

正直ショックが大き過ぎて何と言ったら良いか分からない・・・というのが今の心情です。

 

私達の世代・・・バブル崩壊後に超氷河期の就職戦争を迎えた世代は「ロスジェネ世代」と呼ばれています。

この超就職氷河期には、基本的にどの企業も余程優秀じゃない限り新卒は雇わないという態度でしたので、私の周り私も“手書きの応募ハガキ(今みたいにWeb申し込みとか無かったんで!)”200枚以上書いて返事が全く来ないとか、面接も50社、60社と受けても全然内定貰えないとか、そんな人はザラでした。

 

そんな中で私も相当苦労しましたが、何とか今の会社に滑り込むことができました。

特別裕福なわけではありませんが、このようにブログを書く余裕はある訳ですし、何より自分が好きだった音楽の業界に携わっていられるというのは、今回の事件を起こした人から考えれば相当に恵まれていると言って良いでしょう。

 

そんな事に考えを巡らせてこの記事を読んで行く中で私の心をえぐったのは、下記の記述でした。

「院生はみな厳しい現実を共有していた。私が彼だったかもしれない」。男性をよく知る研究者は声を落とす。

私もこの男性と全く同じことを考えました。

私は“たまたま運が良かった”だけ。何かがほんの少し違えば、私自身が同じことをしていたかもしれない・・・。

 

 

私はこの方を直接は知りません。

しかし、ニュースに掲載されている関係者の話と彼の経歴を見る限り、恐らく彼は純粋に研究がしたかっただけではないかと思います。ただ、彼が生きた時代がそれを許さなかった・・・。

 

記事にあるように

大学側によると、男性は15年以降、研究室を1人で使用。ただ、顔を出すのは夜間で、ほかの院生と接触しない“孤立”状態だった。

 と、もしかしたら研究者にありがちな周りとコミュニケーションを取るのが難しいタイプの方だったのかもしれません。そのような状況に追い込まれるまで周りに助けを求めることができないプライドの高い方だったのかもしれません。

ですが、仮にそのような事情が本人にあったとしても、それだけでここまで追い込まれるほどの責任が彼にあるとは思えません。

 

私は誰でも好きなことをやって生きていく権利があるとか、人生は何度でもやり直せる。やりたいことをやれ、とかそんな絵空事を言うつもりはありません。

人間は平等じゃないし、才能も環境も人によって違う。どんなに好きでも才能がないことはあるし、逆にどんなに才能があっても様々な事情でそれを発揮できずに人生を終えることもある。

人生とはそれほど厳しいものです。

 

しかし、彼は全国でも有数の大学を出て、大学院にまで進学。学問を続けるために昼も夜もバイトをこなし、さらに非常勤講師を務めるほど学問に情熱を注いでいた。そして、彼の仕事振りに対し周りからも一定の評価がされていた。

少なくとも彼にはその才能を学問の場で活かす資格はあったと言えるのではないでしょうか。

 

そんな人が死ななければならないほど追い込まれる社会、そしてそのような意識が研究者の間で共有されるような社会はやはり間違っていると思います。

 

先日の投稿でも書いたように、国立大学の法人化以来、選択と集中という言葉でオブラートに包んだコストカットという実態が進んでいます。

今回の事件の原因が全てそれであるとは言いません。

ですが、コストカットによる非常勤講師の増大は事実であり、その非常勤講師でさえも昼も夜もバイトをしなければ生活がままならないような給与しか支払われないのは、どう考えても異常です。

 

結局ここまで彼を追い込んだのは、「日本は財政危機だ」という間違った認識が根幹となっている緊縮財政主義であり、それを許している我々国民ではないかと思うと、自分自身が歯がゆいのです。

 

かと言って今の私に出来ることと言えば、このブログでこのような主張をすることしかありません。そして、このブログにどれだけの意味があるのかと問われれば、言葉に窮する。

それが今の私の実力です。

 

忸怩たる思いで一杯です。

しかし、だからと言って諦めるわけにもいきません。今回のような悲劇が決して繰り返されないよう、ほんの少しでも自分ができることを考え、そしてひとつでも多く行動できるように、取り組んでいくしかない。

そうしなければ彼が浮かばれない。

 

 そのような思いを抱いた日でありました。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました。

敢えて書きたい、リニューアル版「安部礼司」への応援讃歌。安部礼司のアベレージが上がった?(笑)

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以前「あ、安部礼司」というラジオ番組のリニューアル内容が酷すぎるということで記事を投稿しました。

 

 

そうしましたところ、えらく反響がありまして、今ではネット上で「安部礼司」「リニューアル」と検索すると、この記事が上位に表示されるようになりました。

それはブログを運営する私としては勿論嬉しいことなのですが、同じくらい残念な気持ちもあります。

 

確かに反響があるのは大変喜ばしいのですが、だからと言って私は「安部礼司のリニューアル内容が酷くて良かった」などとはこれっぽっちも思っていません。

むしろ「残念・・・毎週安部礼司を聴くのを楽しみにしていたのに・・・」という“裏切られた感”があったからこそ、あの記事を投稿した訳です。

恐らく私と同じように裏切られた感を感じている方々が多いからこそ、「安部礼司。リニューアル。」というキーワードで私のブログがランキングされるようになったのでしょう。だとすれば、恐らくその方たちは私と同じく「また安部礼司が面白くなって欲しい」と願っているのではないかと思います。

 

実際、毎週日曜日の安部礼司放送時間になるとこのページへのアクセス数がグッと増えます。本当に「安部礼司つまんねぇわ。もう聴く価値ないわ。はい終了〜〜〜。」と思っているのであれば、安部礼司のことを検索なんてするわけがないですから。

「“本当の嫌い”は無関心である」とは至言です。

 

さて、 そんなリニューアル版が大不評だった「安部礼司」ですが、実は最近ちょっと面白さが戻ってきたような気がしています。景気じゃないですけど、底を打った感じ?

いくつかポイントがあるように思いますが、私が一番大きなポイントだと思うのは

 

リニューアル以来、“最悪”と言っても良いほどに劣化したテンポの悪さが改善されたこと

 

ではないかと思います。

前の投稿にも書いたのですが、リニューアル後の安部礼司はそれ以前と違いサザエさんのような三本シナリオ形式になりました。その結果一本一本の時間配分が悪く、サラッと終わるには長すぎ、ちょっと深く描くには短すぎるという中途半端な長さになったため、正直聞いていてイライラするような劣悪なテンポ感でした。

 

ですが、リニューアルから4ヶ月ほどが過ぎこなれて来たのか、3本立てなりの描き方ができて来たように思います。一本目で恒例になっている東京都神保町のサラリーマンの日常の描き方の“どうでも良さ”は相変わらずですが(面白い時もあるんですけどね・・・)、残り二本は「会社での安部礼司」と「家庭での安部礼司」がしっかり棲み分けして描かれるようになり、聞いているうちに「あれ?もう終わり?」と感じるようなテンポの良さが出て来るようになったと思います。

 

正直、毎回聞いていて慣れてきたというのもあるのですが(笑)、それでも「あれ?もう終わり?」と感じるようになったということは、それだけ引き込まれるようになったということの証。

また、リニューアル時には底の浅さが目立った人間心理の描き方。

これも一本ずつの時間が短くなったことが原因の一つだと思っていましたが、少しずつ「短い時間なりにサラリーマンの苦悩」がうまく描かれるようになって来たように感じます。

 

 

と、前回の酷評とは打って変わって、ここまでリニューアル後の安部礼司を褒めて来ましたが、ここで改めて安部礼司というラジオ番組の面白さの根幹を考えてみたいと思います。

 

そもそも安部礼司が放送される日曜日の黄昏時という時間帯は、平均的なサラリーマンにとっては、スポーツで言うなら試合前のロッカー室のようなもの。

日常から刻々と迫る戦いに向けて気持ちを整え、様々な不安要素を抱えながらも準備していく段階です。

そんな時に安部礼司という「平均的なサラリーマン」の姿に自分を重ねることで、時に笑え、時には泣けて、そして「悩んでるのは自分だけじゃないんだ。よし、明日から頑張ろう!」と力を与えてくれる。

 

例えば、今日9月16日をもって引退する安室奈美恵の「Hero」みたいな曲はプレゼンの前とか大きな仕事の前にテンションを上げるには良いかもしれません。でも平日からそんなテンションを上げまくっていたら疲れてしまいます。

日々の戦いが永遠とも言えるほど長く続いていくサラリーマンにとって、そのような過剰なテンションを常々受け止めるのは逆に辛いことにもなりかねません。

だからこそ、平均的なサラリーマンの日常にとっては、ほんのちょっぴりだけど確実に自分を勇気づけてくれる、そんなちょっとピリッとした刺激のあるスパイスくらいの応援歌が丁度良いのではないでしょうか。

 

そしてもう一つ大きい要素は、ラジオドラマという聴覚情報のみで視覚情報がない演出方法であること。

視覚情報がないというのは一見不利なようにも見えますが、だからこそリスナーが想像の羽を広げられる余白が多いという利点もあります。それが30代、40代と人生経験を重ねて来たサラリーマンたちが、自分の姿と主人公安部礼司の姿を重ねやすく、よりその世界に入りやすいという状況を生み出すのではないでしょうか。

ただ、それはある意味諸刃の剣で、視覚情報の耳障りが悪ければ(音楽のチョイスやテンポの悪さなど)それだけでもう中身とは関係なしに評価がだだ下がりになってしまう。

丁度リニューアル直後の安部礼司がそうだったように。

 

これらのラジオ番組安部礼司のそもそもの良さを考えると、少しずつですが最近の安部礼司はその良さを取り戻しつつあるように思います。

 

もうちょっと、もうちょっとだよ安部礼司!

少しずつ、しかし確実に上がっているアベレージ(Average)に、安部礼司の未来を感じる最近の週末でした。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

 

 

なぜ大学は存在するのか。著書「『文系学部廃止』の衝撃」から考える大学の存在意義。

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突然ですがみなさん。

「なぜ大学に行くのか?」について考えたことがありますか?

 

私が最初にその疑問を感じたのは実は大学に入学したてのうら若き18歳の時でした。

あれ?遅い??

本当は高校生の時に考えるべきですか??(笑)

まぁ、そういう心ないツッコミはさておき・・・^^;

 

私はいわゆる団塊ジュニアの世代でまだまだ大学に進学しようとする人口自体が、今より断然多い時でした。一学年に数百人いるのに対し、講義の数は限られていますから一つの講義室はかなり満杯に近い状態になるのが常態化していました。

そして、どの講義を受けるかは任意ですので、まぁ普通は一回話を聞いてみて、その人の講義を半年とか一年受講したいかを判断する訳です。いわゆる様子見ですね。

そんな様子見のために、とある授業の初回講義に参加しようとした時にその事件(?)は起こったのです。

なんとその教授が満席になった生徒たちに対して

 

「こんな人数を教えることはできん。とりあえず誕生日の末尾が偶数の奴は出て行け。残った人数を見て多すぎたら、またふるいに掛けるからな。」

 

と。

そして、また別の講義では

 

「学生証の番号の末尾が奇数の奴は出て行け」

 

と言われます。

 

どんなに興味があっても先生の講義の一言すら聞く機会を与えられないうちに追い出されてしまうのです。

学生が少ないと嘆く現在では考えられないと思いますが、少なくとも私の大学ではそんな事が普通にまかり通っていました。

正直、私にとってその出来事は人生の価値観を揺るがすような出来事でした。「何なんだ、これは。こんな所に来るために高校3年間一所懸命勉強したのか」と。

 

それ以来、私は大学に関するニュースに接する度に「何のために大学に行くのか?」について考えるようになりました。

そんな私が再びその疑問を感じることになった本に出会いました。

 

という訳で今日は

 

吉見俊哉著「文学部廃止の衝撃」

 

についてレビューしたいと思います。

(前置き長い!!! (笑))

 

「文系学部廃止」という騒動

少し前のことになりますが、今から約3年前の2015年の夏に「文科省が文系学部を廃止しようとしている」という話題が巷を騒がせたことを覚えてらっしゃいますでしょうか?

その年の5月に文科省が提示した「国立大学の人文系学部の規模縮小」に関する素案が元になった騒動だったのですが、この本ではこのトピックをきっかけにして「現在の国立大学が抱える予算という壁」「そもそも大学とは何をなすべき存在なのか?」などのいくつかの争点ついて様々な角度から検討されています。

 

その争点の中でも私が特に興味を引かれたのは

 

・国から大学に配分される予算に競争原理を持ち込んだことで、いかに予算を勝ち取るか?に大学側が大きな労力を割かされているという実情。

・大学は何に奉仕するためにあるのか

 

という2点ですので、この点に絞ってレビューを書いてみようと思います。

 

 

予算獲得のために研究する時間が無くなる研究者

さて、ではまず第一点目の「国から配分される予算に競争原理が持ち込まれている」という話題についていきましょう。

実は私も知らなかったのですが、

 

1) 国立大学の予算は財政の基盤となる「運営費交付金」と、大学が抱える研究プロジェクトの社会的な評価によって決まる「競争的資金」の大きく二つからなる。

 

2) 基盤となる運営費交付金は毎年1%ずつ削減され、今では法人化前の10%以上縮小。その一方で競争的資金の方は毎年凡そ2%以上増額。

 

3) この競争的資金を獲得するには、省庁の求めに応じた細かい予算請求の申請書を作成。書類審査を通過した後は、学長や学部長などが関係省庁に出向きプレゼンテーションを行い認められる必要がある。

 

4) その審査書類やプレゼンの準備のために、関係者は学者の本分である研究時間の多くを割かなければならず、研究そのものがおろそかになっている。

実際、学術研究論文の数は減少し、教員への時間的負担が増加している。

 

5) 予算が通った後は、今度は大学内の予算配分を巡る争いが勃発。

その際、研究成果を具体的に示しやすく、チームで研究を行う理系学部に対し、文系は具体的な数値が出しづらく基本的には個人での研究であるため、文系学部は予算を獲得しづらいという構造的問題がある。

 

とのことです。

 

私がこのような問題があることを本書で知った時の正直な感想は

 

「くだらない。実にくだらない。」

 

というものでした。

 

こと大学の研究と予算のあるべき姿については、私は以前経済評論家の中野剛志氏が仰ったいたこと至言だと思うのですが、それは

 

「大学の研究を盛んにするなら金だけ渡して、好きにしろというのが一番。大学教員なんていうものは研究したくてたまらない奴らばっかりなんだから、金さえ渡しておけば勝手にとことん研究するんですよ。」

 

という言葉です(前に動画で見ただけなんで細かい表現は違うかもです。不適切だったらすみません)。

 

私もその通りだと思います。

学部の教授やら助教授やら教員たちというのは、自分が興味あることを研究するためにその職に就いているのです。そして、そのような研究が社会の役に立つから、そのような存在が許されている訳です。

それを「研究するための予算獲得のために時間が取られて、研究する時間がない」というのは、正に本末顛倒です。

 

なぜそのような倒錯した現象が起きるのか。

結局それは「日本の財政は危ない」という経済に対する誤った認識が世間に広まっているからです。「お金がないから国民は苦労しているのに、大学で好きなことをやっている奴らにお金使うなんてもったいない!!」という実にせせこましい話をしているのです。

 

お金がないなら生み出せば良い。

お金を生み出す源泉とは日本という国の総合力。つまり国力である。

そして、日本のような資源のない国において国力を左右するのは人である、それを成長させるのは知識、技術、文化である。

 

つまり「お金がないから研究費を削れ」は、結局将来の自分たちの富の源泉を自分たちで奪っていくに等しいのです。

 

確かに個人であれば「無い袖は振れない」論が筋が通るでしょう。

しかし、国家の場合は違います。ましてや日本のような独自通貨で運営されている国家においては、「無い袖は作れば良い」のです。

 

 

 大学は「グローバルなエクセレンスを追求する」のが目的???

 もう一点のトピックは「大学は何に奉仕するためにあるのか」です。

 この本の中で著者は「国立大学とは税金によって運営されているのだから、国家に奉仕すべき」という議論があるがそれは間違っている。」とした上で、次のように主張します。

 

つまり大学は、今日的な用語で言うならば、何よりも「グローバルなエクセレンス(優秀なこと、長所)の実現」に奉仕しなければなりません。たとえ国に批判的で、国民的な通念とは対立しても、真にクリエイティブに地球的な価値を創造していくことができる研究者や実践家を育てることが、大学の社会に対する意味ある責任の果たし方なのです。

 

と。

 

「は?」

 

もう一回言いましょう。

 

「は?」

 

「グローバルなエクセレンス」「クリエイティブに地球的な価値を創造する」・・・・なんですかね。この空虚な言葉が並ぶ感じは。

まるで

 

「喰らえ! 俺の必殺ウルトラ・スーパー・グレート・ギャラクティカ・ファンタスティック・アタック!!」

 

みたいなやつは(笑)。

正直失笑するしかないくらいなのですが・・・。

 

私も「国民の税金で成り立っているのだから国家に奉仕しろ」という言い方は「俺が金出してるんだから言うことを聞け」というような、札束で人の頬を叩くような品性のなさを感じて、とても賛同できるものではありません。

しかし、その一方で著者が言うような「地球の恒久平和を目指します」というような空虚な理想を掲げても、夢想の世界に生きる現実知らずのお坊ちゃんとしか思えません。

もしかしたら、そんな世迷言を日々聞かされる官僚の立場からすれば、「そんな夢見事を語っている奴らに金を払ってるほど余裕はないんだよ!」と言いたくもなるかもしれません。

 

私はこの本で吉見氏が主張するような、「グローバルなエクセレンス」・・すなわち、いかなる時代でも、いかなる場所でも人類全てに通じるような普遍的価値などというものはどこにも存在しないと思います。それはただの空想です。

 

同じ一つの出来事に対しても、時代や土地が違えば、人々がどのような反応を示すか、どのような感情を抱くのかは全く異なります。その人を育んだ歴史やコミュニティ、社会情勢、経済的環境などが全て違うのですから当然です。

今の私達日本人が「正しい」とか「普遍的な価値だ」とか思っているものこそが、人類の普遍的な価値だと断じる態度こそが「自分たちは正しい。少なくとも正しい方向に向かっている」という思い上がりなのです。

 

実際、そのような思い上がりが次の箇所に如実にあらわれています。

 

(中世のヨーロッパにおいて)価値の普遍性を探求していく機関が、キリスト社会にも、近代社会にも必要でした。(中略)この普遍性は人類的なものです。

大学が普遍的な価値の探求に向かうことが、めぐりめぐって人々のためにもなるという考え方を、ヨーロッパは受け入れてきたのです。

 

なんという傲慢。

これは正に著者が「ヨーロッパで生まれた価値観こそが普遍的で素晴らしいものだ。」というヨーロッパ至上主義、近代至上主義に完全に毒されていることの表れです。

 

私が思うに、研究者であるならばむしろ「自分たちが進んでいる道は本当に正しいのか?」という自分を省みる態度を常に備えていなければならないのではないでしょうか。

 

もし普遍的価値というものが存在するとしたら、社会や風土、経済環境、そして言語などの制度がある程度共有された特定の地域や集団において、彼らが生きてきた歴史、これから歩もうとする歴史の延長上で受け入れられるであろう価値観。

つまり、社会制度によってある程度限定されたコミュニティにおける普遍的価値しか存在し得ないのではないでしょうか。

 

 

少なくとも著者が言うような国や地域から全く切り離された「“グローバルな普遍的価値に奉仕するのだ」などということは、自分たちが存在している基盤を忘れ、学問に仕えるものは全ての現世のしがらみから完全に自由であると盲信しているような世迷言にしか思えないのです。

 

大学とは何のためにあるのか。

では、大学とは何のためにあるのでしょうか。

私は

過去と未来、そして人と地域をつなぐ結節点

それが大学の存在意義ではないかと思います。

 

先程著者の言う普遍的価値のことをこっぴどく批判しましたが、気持ちは分からなくはないのです。

やはり自分が研究していることが、現代の、しかも地域的にもすごく限定された場所でしか通用しない理論や知識だということであれば、やはり興ざめしてしまうでしょう。

世間に広く認められたいし、未来にも名を残せるような偉大な功績というのは誰しもが望むものです。

 

しかし、やはり先程書いたようにどんなに優れた人間であっても、自分が育った環境による歴史性や地域性から逃れた普遍的な見地から研究を行うなどということはできません。

「何を、どのように研究するか?」を考える時点で既に入り口や立ち位置は限定されてしまうのですから。

 

つまり、何かを学ぼう、研究しようとすれば、自分が帰属する国や地域と全く無関係であることはできないのです。そうであるなら、その国や地域に奉仕するという側面を捨て去ることはできないのではないでしょうか。

また、それは地域だけではなく歴史という時間軸についても同じことが言えます。

自分の価値観が歴史によって育まれる以上、自分が帰属する歴史とこれから生み出していく新しい未来に奉仕するという側面もまた捨て去ることはできないのです。

 

そういう意味において、大学とは「過去と未来、そして人と地域をつなぐ結節点」として存在する、と言えるのではないかと。

そのように私は思うのです。

 

今回はいつにも増しての長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

コンセッション方式という民間活用の闇。政府が横文字を使う時は大概ろくでもない事をやる時だ。

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皆さん「コンセッション方式」というキーワードをご存知でしょうか?

 

ここ最近ちょくちょくメディアに出るようになったワードなのですが、

 

道路や鉄道、水道など国家や地方自治体が運営するインフラ事業を「所有権は公的機関が保持しつつ、運営権のみ民間企業に譲渡する」運営方式のことです。

 

いわゆる“民間活力の活用”というものです。

 

特に最近は静岡県浜松市などの一部の地方自治体で水道事業のコンセッション方式による民営化が行われたりすることで露出が増えたように感じます。

ただ、民間活力の活用と言えば聴こえは良いのですが、当然良いことばかりではありません。

というか、最近コンセッション方式の良くない点が際立つ出来事がありました。

そう、台風20号が直撃し陸の孤島となったことも記憶に新しい、関西国際空港です。

 

リスクを理解しておきながら放置しておいた運営会社

関西国際空港を運営している関空エアポートという民間企業は運営権は保持しているものの、土地や建物は関空エアポートが保有している訳ではありません。

産経新聞のニュースによると、関空エアポートの代表は

 

海上空港として高潮、津波が大きなリスクと認識していたが、(関西エアは)空港をいちから設計するのではなく、民間の力で活性化するのが本分」

 

と述べたそうです。

つまり

関空に高潮、津波という大きなリスクがあることは分かっていたが、それを解決するのは自分たちの責任ではないから放っておいた。自分たちはただそれを活用するだけです。だって、それが民間活力の活用でしょ?」

という訳です。

 

また、恐らく見た目にも相当な衝撃を与えたタンカーの激突が発生した連絡橋ですが、あれもコンセッション方式によって運営されています。しかも、同じく産経新聞の記事によると、鉄道部分はJR西日本南海電鉄が運営しているものの、所有権は関西国際空港を所有する会社と同じ会社が所有。

その一方で、道路部分は西日本高速道路が運営しているものの、所有は日本高速道路保有・債務返済機構が所有するなど、相当複雑な形態になっているとのこと。

関係する会社が多ければ多いほど、意思疎通や役割・費用分担の交渉が難しくなるため、連絡橋の復旧は10月上旬になる見通しとのことです。

 

「民間活力の活用」。そのリスクを担保するのは結局国民

実は私、今月末に関西国際空港経由で中国へ出張する予定でした。

台風が到来するよりも前に色々な事情で別ルートから出発することになったので事なきを得ましたが、もしあのルートのままだったとすると、どうなっていたことやら・・・。

 そんな顛末もあったため、個人的にはそのような事情で復旧が遅れることになること、そして関空エアポート代表の発言には「そんな無責任な話があるか!」と怒りを隠せません。

 

・・・が、しかし、運営側言いたいことは分からないではないのです。

運営側の身勝手な事情だとは思いますが、そもそも民間団体に空港や鉄道、道路のような国民の生活を支えるインフラ整備を任せることが間違いなのです。

そのようなインフラの整備には、国家と国民社会を将来どのような方向に導いていくのかという国土設計の青写真が欠かせません。また、設計したものを実行していくには、その土地に暮らす人々の意見をどのように集約するかという民主主義的な手続きが必須になります。

 

それには必ずしも損得勘定では判断できない運営基準が必要になりますし、できるだけ多くの人の要望を最大公約数的に取り入れるための交渉も必要になります。

そして、そのための費用も必ずしも「予め定められた予算をベースに進める」という訳にはいきません。今回の台風のような自然災害、あるいはテロや疫病などの世界情勢によって伸縮的な財務運営をしなくてはならない必要があります。

「台風で被害出たけど、お金ないから今年は無理ね。来年復旧します。」ということは許されません。

今回の台風被害について関西エアポートは100億円まで負担すると言っていますが、不足分はどうするのでしょうか。結局そのような特殊な状況においては、所有権を持つ公的機関・・・つまり私達の税金によって補填するしか対応できないのです。

 

「民間活力を活用する」のは良いのですが、何かあった時に結局国民が負担するということは、国民の税金を使って民間団体が利益を得ているということに他なりません。「民間活力の活用」というもっともらしい言葉を使いながら、結局やっているのは「最後は国民の税金に任せてケツをまくれば良い」という“人のふんどしで相撲をとる方式”によって、一部の民間団体が利益を貪っているに過ぎません。

 

そもそも民間に適さない分野というものがある

そもそも公共サービスというのは、利益の追求という民間企業の目的からは根本的に相反するものなのです。

もしかしたらヨーロッパのような自然災害の少ない地域であれば、うまくいくのかもしれません。

いや、嘘つきました。

実際水道事業でコンセッション方式を採用した結果、フランスでは水道価格が25年で2.6倍に上昇したり、水質が悪化したり、供給が不安定になったりして、結局再公営化に踏み切りました。

 

しかし、先日の北海道地震のように水道管が破裂したりして想定外の維持管理費が発生しやすいのが日本なのです。このような国土条件なのですから、これはもうどうしようもありません。そのような状況で公共サービスを運営しても、民間が正常な企業活動ができるような利益が出せる訳がないのです。

もちろん、3〜5年とか短期であれば分かりません。コストカットや施設整備などによって短期の利益が出せるかもしれませんが、公共サービスは国民が存在し続ける限り必要になるわけですから、短期で利益が出ても仕方ないのです。

あくまで永続的に安定したサービスを提供できること、それが肝心なのです。

 

バブル崩壊以来の「政府や地方自治体はこんなに無駄なことをやっていた!」という報道の大合唱によって、とにかく公共団体や公務員は駄目だ。民間活力の活用こそが素晴らしいのだ!!という「民間活力真理教」が日本を席巻して来ました。

 

ですが、本当にそうでしょうか?

確かに公共団体による無駄はあったでしょう。

そりゃ、そうですよ。人間なんですから。それを言うなら民間企業なんてもっと無駄ばかりでしょう。

ただ、外から見て目につくような無駄が一部あったから、どこかの一時期に無駄な部分が多かったからと言って、その無駄が発生したメカニズムを検証することなしに感情的に全てを否定するというのは良識のある社会の判断とは思えません。

人間がやる以上は一切の無駄を省くなどということは不可能。むしろ「無駄を省く」ということを重視しすぎる余り、多少無駄があっていざという時の備えとして必要なことはたとえ赤字になったとしても、たとえそれによって救われる命がたった一つだったとしても行わなければならないことがあるのです。

 

民間には民間のやるべきこと。

公共団体には公共団体のやるべきこと。

それぞれの長所を活かせる、それぞれに適した分野がある。

「民間活力の活用」などという耳触りの良い言葉に惑わされず、それぞれの特質と状況、本来の目的を十分検討した上で、どのような運営を行っていくのが適切なのかを判断できるようにならなければならないのではないでしょうか。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

ギリシャ財政危機の再発は必然。問題は“日本とギリシャは違う”という事がそれまでに広く認識されるかだ。

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ちょっと遅くなってしまいましたが、ギリシャ財政破綻後に欧州連合から受け続けてきた金融支援プログラムが先月完了したようです。

 

・・・が、あまり報道されませんでしたね。

財政破綻した!という不安を煽る時には大騒ぎになるのに、財政が落ち着いた時にはベタ記事扱い。

危機だとか、災害だとか何か事が起こった時に騒ぐのは簡単です。

しかし、本当はこういう騒動が一段落した時こそ、メディアはその騒動が持つ意味をしっかり検証しなければならないはずですが、残念ながら日本のメディアはまだまだそういう真の意味でのレベルが低いようです。

 

さておき。

この支援プログラム終了によって何が変わるのでしょうか?

いわゆる投資家サイドの意見としては

「これで後はギリシャも自分たちで財政の黒字運営の軌道に乗せられるだろう。やれやれだぜ。」と考えている人も多いでしょう。

前回号(かな?)のNewsweekでも、「これからはギリシャに投資して一儲けできる時代だぜ!」みたいなコラムを書いている人がいました。

 

が、そんな簡単に行きますかね。

いや、私は敢えてこう言いましょう。

 

支援プログラムが完了しても何も変わらない。

ギリシャはもう一度財政破綻する。そして、今度こそEUから離脱する。

 

まぁ・・・同じことを言っている人は一杯いますので、別に私の独自説じゃないですけどね(笑)。

 

私がそのように思う理由は、別に何も難しいことではありません。

確かに欧州連合(EU)、欧州中央銀行(ECB)と国際通貨基金IMF)という外部団体によって国家財政を管理されるという屈辱的な事態が解消したとは言え、ギリシャの根本的な問題は何一つ解決していないのです。

 

ギリシャの失業率は19.5%前後。若者にいたっては45%近い。

ギリシャ政府の債務はまだGDP比で177%

基礎的財政収支(国家のお小遣い帳みたいな物です)は、2022年までGDP比3.5%の黒字を維持することをEUに約束している。

・従って、あと数年は緊縮財政を継続しなければならず、必要な財政政策は打てない。

 

 

などなど、問題は山積みです。

 

致命的なのは(今更言っても仕方ありませんが)、統一通貨をユーロを採用したことによる弊害が大きすぎる。

ユーロを採用せず独自通貨であれば、為替によって国際競争力を高めることが可能ですが、、統一通貨ユーロを導入している以上、為替メリットによってそれを実現することは不可能です。

そうなると自力で生産性を高めるしかありませんが、そもそもEU統合による莫大な利益を吸収したドイツなどのインフラ(公共設備、IT設備、教育レベルなど)が整った国に比べ、生産性を高めるための基礎力がまるで違います。

 

たとえて言うなら、戦前のトヨタ社のトラックとフェラーリのスポーツカーが、同じコースで「よーい、ドン!」でレースを始めるような物なのです。

そもそも勝負になるわけがない。

「負けるのはお前の努力と創意工夫が足りないからだ!」と言われても、そんな次元の話ではないのです。

 

必ず負け続けます。

そして、そのたびに「レース参加費用」として借金が積み重なっていくのです。

もしかしたら、フェラーリが勝手に事故って大破して、一回くらいは勝てるかもしれませんが、そんな奇跡を期待するのはナンセンスでしょう。

 

ですから、今の体制を維持し続ける限り、ギリシャは必ず再び財政危機に陥ります。

それを回避する策があるとしたら、EUから独立して独自通貨を復活させるしかありません。それでも立ち直れる保証はありませんが・・・。

 

 

という訳で、私はギリシャの財政危機の再来を確信している訳ですが、問題はそうなった場合の日本への影響です。

ギリシャが再度財政破綻という事態に陥った場合、必ず

 

「ほら見ろ。ちょっと落ち着いたと思ったらこれだ。日本も危ないぞ! 緊縮財政だ!」

 

と、また日本の財政破綻論者が声高に主張し、世論がそれに同調する空気が醸成されるだろうということです。

そしてもし、それが来年の消費増税前に起こったら最悪です。

「消費増税待ったなし!」ということになり、今度こそ消費税が10%に引き上げられるでしょう。

ただでさえ、前回の8%への引き上げ以来、日本の国民の実質所得はほとんど伸びていません。その一方「社会保障費に充てる」という公約だった税収はまるで伸びておらず、相変わらず「社会保障費の増大が〜」と叫んでいる訳です。

税率は法律によって変えることができます。しかし、税収は簡単に計算通りに上げることはできない、ということを日本は身をもって証明したのです。

 

ですから、もしそういう「ギリシャはまた破綻した。日本も!」という議論が活発になったら、是非みなさんに思い出した欲しいのです。

自国通貨の発行権がある日本と、自国通貨の発行権をEUに明け渡したギリシャでは条件が全く違うということを。

「自国通貨の発行権がある」というのは、それほど強大な力がある。それを保持し続ける限り、ギリシャとは違い日本には数多くの選択肢が残されているということを決して忘れないで欲しいのです。

 

 今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

経済学とは自衛隊が出動するような非常事態を一切想定しない学問である。

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みなさんご存知の通り、今年は異常なまでに災害が日本列島を直撃しています。

数もそうですが、一つ一つの災害の規模も今まででは考えられなかったようなレベルのものが発生しています。

 

そのような異常事態において最近では当たり前のように自衛隊の方々が出動し、復旧のために尽力されています。

いくら仕事とはいえ、災害地のような過酷な現場で連日に及ぶ肉体労働、精神労働をこなすのは並大抵のことではありません。やはり「日頃の鍛錬」の積み重ねだということなのでしょう。

 

ところで、この自衛隊の方々の日頃の鍛錬ですが、何のために行われているのでしょうか。

当然趣味で鍛えている訳ではありません(笑)。

公の仕事である以上、国家の何かのために行っています。

それは国家に迫る異常事態に対処するためです。

もちろん「戦争」というのが最重要の事案になりますが、今現在で言えば北海道で行われているような救援活動も、災害という異常事態に対処するための活動です。

 

それは災害にあった地域からすればとても有り難い話なのですが、本当はそのような事態が起こらないことが一番幸せな訳です。

助けてもらえるのは有り難い。でも、助けてもらうような事態にならず平穏に生活できるのが一番。当たり前ですね。

 

ですが。

これに異を唱える学問があるのです。

そう。それこそが経済学なのです。

 

まず、経済学にはいくつかの流派があり、主義主張がかなり異なります。

今回の投稿で書く経済学というのは、いわゆる“主流派”経済学と呼ばれる「新古典派経済学」のことになります。主流派のくせに現実から乖離しているという事実が、経済学の混乱を表していますが・・・(笑)。

 

この新古典派経済学における重要な法則に「セイの法則」というものがあります(ジャン・バティスト・セイという経済学者が提唱した)。

これがどういうものかと言いますと

 

市場に参加する人は、自分が欲しいと思うものを手に入れるために、自分以外の人が欲しがっているモノを持ち込む人たちということになっています。

私達が日頃行っている「何かを買おうと思えば、お金を持ってくる」ということも同じです。

 

そして、この市場においては下記のような人たちは存在しないことになっています。

 

・そもそも誰も欲しがっていないモノを持ち込む人

・そもそも欲しいモノが無い人

・モノを無償で提供したいという人

 

そんな人たちが存在したら、市場の動きを予測できないからです。

さらに、この市場においては、持ち込まれたモノはすぐに誰かに購入されて、モノが余るということもありません。

 

つまり「作ったモノが全て、すぐに売れる」ということになっています。

売れ残るとか、将来のために買い溜めるとか、そんなことはあり得ないのです。

 

セイの法則とは、このような「市場においては作ったモノが全て売れる。しかもすぐ売れる。」という決まりごとのことを言います。

 

この経済学的な見地には

 

「理性的な人間であれば売れないはずのモノを作るはずがなく、買う人も理性的であれば、適切な価格で適切な数だけ購入するはずだ」

 

という人間の理性に対する絶対的な信頼がベースになっています。

※多分、この時点で多くの人は「そんな馬鹿な。そんな現実あるわけがない。」と思われるでしょう。それが普通です。

ですが、怒りを抑えてもうちょっとお付き合いください・・・。

 

 

さて気を取り直して、ここで「自衛隊」のことを考えてみましょう。

自衛隊という組織が提供するサービスとは、非常事態を適切に解決することになります。しかし、そもそもそんな「非常事態を解決する」などという自衛隊サービスは、そもそも発揮されない方が良いに決まっているのです。

自衛隊の存在意義である非常事態の解決するというサービスを提供するために、災害は起きるべきだし、戦争も起きるべきだ」

などという事を言う人がいるでしょうか。

そんな事を言う人はどこにもいませんよね。そういう意味で、自衛隊の提供するサービスというものは発揮されない方が良いに決まっているのです。

 

しかし、それにも関わらず自衛隊の方々は、万が一の時に備えて十分な役目を発揮できるように常に訓練を行っているのです。

なぜなら非常事態というのは必ず起こるものであり、しかもそれはいつ起こるか分からないからです。

 

ところが、上記のセイの法則に従うと、経済学的にはそのような誰も望まないサービスが存在することは間違っていることになっていますのです。

「そんなことは経済学的に、理論的にありえない。そんなサービスが存在するとすれば、それは現実が間違っているのだ!! 経済学の理論は絶対に正しいのだーー!!」

ということです。

なぜなら、理性的な人間は無駄なモノやサービスを生産しませんし、いつ必要になるのか、本当に必要な時が来るのかすら分からないようなサービスはあり得ないという解釈になるからです。

理性的な人間は無駄なことを一切しないのだーー!!ってことですね。

 

だからこそ、自衛隊のような「需要が存在するかどうかも分からないサービス」、あるいは公共事業のように「損をする可能性が非常に高いのに提供されるサービス」の存在は主流派経済学にとっては邪魔だということになります。

そんなものが存在していては、自分達の学説が成り立たないからです。

 

 

どう思われますか?

経済学という学問の立場に立てば、言っていることの意味は分からないではありません。

確かに何の事件や事故もなく、災害もなく、現在と同じ時が永遠に続くのであれば、人間は無駄な物を一切作らないのかもしれません。

しかし、普通に社会で生きている感覚で言えば、そんな事に「その通りだ。経済学が正しい!」と納得できるでしょうか?

今私達が経験しているように事件や事故、災害という不測の事態は必ず起こるのです。だから、「無駄かもしれない」「こんなモノが役に立つような時は来るべきではない」としても、万が一に備えて人は準備を行うのです。

 

今回取り上げたセイの法則以外にも、現在“主流派”と呼ばれる新古典派経済学には似たような非現実的な前提が数多くあります。

全てがそうだということではないですが、多くのものが「理論では分かるけど、そんな現実ありえないよね」という前提ばかりです。

バブルは存在しない、失業は存在しない、不況は存在しないとか(笑)。

そんな非現実的な理論が“主流派”としてまかり通っているのが、経済学の現状です。

 

ただ、私は別に「だから経済学は無駄だ」とまで言うつもりはありません。

ですが、このような事実が知られることなく「経済のことはよく分からんけど、えらい学者さんが言っているならそうなんだろう。」と一般国民から盲信され、その経済学に従った結果、国民や国家を誤った方向に導かれるような事態は避けなければならない。

そのためには学問という人類の知恵に対する敬意の一方で、「学問は所詮学問であり、常に正しいとは限らない」という事実もしっかりと認知されるべきではないかと思います。

 

そのような社会に根差していればこそ、学問もまた成長していくことができる・・・と。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

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