世界を救う読書

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なぜ日本人は学ばなくなったのか? その背景にあるノーリスペクト社会。

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突然ですが質問です。

みなさん「勉強」は好きですか?

 

好き! っていう人もいるとは思いますが、ほとんどの人は「嫌い」「好きじゃない」という答えではないでしょうか?

かく言う私も勉強は嫌いです。好き好んで勉強したくはありません。

ただ、「自分で勉強するのは嫌でも自分の子供にはちゃんと勉強して欲しい」。そんな都合の良いことを考えている親御さんも多いのではないでしょうか? (笑)

 

そんなみんなが嫌いな「勉強」について考えるのに面白い本を見つけました。

それはテレビにも時々出演する、明治大学教授 齋藤孝氏の「なぜ日本人は学ばなくなったのか」です。

なぜ日本人は学ばなくなったのか (講談社現代新書 1943)

なぜ日本人は学ばなくなったのか (講談社現代新書 1943)

 

 

 「学ぶ」ことの意味は何か?

みんなが嫌いな勉強をなぜやらなければならないのか?と考えたときに、恐らく多くの人がこう考えると思います。

「学力を身につけて良い大学に入るため」

だと。

 

最近は昔ほど良い大学に入ったからと言って、良い就職先に恵まれるとは限りませんし、あるいは良い就職先に入っても定年まで勤め上げるとも限りませんから、「勉強ができる」ということが、必ずしも“将来安泰”に繋がるとは限りませんが(笑)。

少なくとも「将来困らないように最低限の知識や学力を身に着ける」ためという目的は変わらないのではないでしょうか。

 

ところが、齋藤孝さんは「学ぶ」ということの意義についてこのように説明します。

 

「学ぶということは、単に知識を獲得するだけの行為ではありません。そのトレーニングを通じ、わからないことや大量の問題に立ち向かっていく心の強さを培っていくことが、もっとも大事なのです。」

 

この場合に、「勉強」と「学ぶ」ということが必ずしもイコールではないことに注意する必要があります。

いわゆる勉強というのは、学校や塾での授業を受け、その知識を身に着けること。

一方、学ぶということは、その過程で勉強は含むことになるもののテストでの点数が目的ではなく、間違っても失敗しても立ち向かっていく心の強さを培っていくことに、その意義があるということです。

 

ですから、敢えて誤解を恐れずに言えば、勉強はテストで高い点数を取るためのもの。

学ぶということはたとえテストで高得点が取れなくても、そこから考える力を身に着けられればそれで良い。

そんな違いだと言って良いかもしれません。

 

日本人は学ぶ力が衰えている

さて、世界でもまれにみる勤勉ぶりで評価されている日本人。

資源のない日本では「人」こそが資源であると言われるように、昔から「学ぶ」ことの重要性が強調されて来ました。

ところがそんな日本人も「学ぶ」ということの質において、昔に比べて相当低下しているのではないかと感じることはありませんか?

 

テレビでは次から次へと新しい“おバカキャラ”が登場。

社会人として知っていなければ恥ずかしい常識を知らないどころか、それを開けっ広げにすることがもてはやされ、それをお笑い芸人がいじることで笑いを取る。

あるいはSNSでは、折角の観光名所や美味しい料理を食べても、それについて考えたりすることもなく、とにかく“映え”狙いの投稿ばかり。

 

すべてがそうだとは言いませんが、多くの物がその瞬間だけの注目を集めるためにやっきになり、目の前にある物事を深く掘り下げる(=学ぶ)ということを全くしない。

そんな風潮が非常に強くなっているのではないでしょうか。

 

齋藤孝さんはそのような状況の変化について、このように言っています。

 

「ある時期を境にして、日本には『バカでもいいじゃないか』という空気が漂いはじめました。ある種の『開き直り社会』ないしは『バカ肯定社会』へと、世の中が一気に変質してしまったのです。」

 

と。

では、なぜこのように日本は「バカ肯定社会」への変質してしまったのか?

 

ノーリスペクト社会の誕生

齋藤孝さんはズバリその理由を

 

「リスペクトという心の習慣をなくしてしまったからだ」

 

と結論付けます。

リスペクトという「敬意」のことです。

 

昔の日本人には何かに敬意を感じ、あこがれ、自分自身をそこに重ね合わせていくという心の習慣が、ごく自然に身についていた。

そのような自分より優れた人、あるいは自然の成り立ちなどに対してあこがれや敬意を持つことで、自分もそんな風になりたい。少しでもその高みに近づきたい。

それが原動力となるからこそ、人はさまざまな知識や経験を身に着けることに貪欲になるし、辛いことを乗り越える精神的な強さを身に着けることになるのです。

 

でも、その「敬意」がなければその原動力は生まれません。

そのような敬意を失った人々が暮らす「ノーリスペクト社会」こそが、日本人が学ばなくなった、あるいは「そんな必至に学ばなくたって良いじゃん」と開き直るようになった原因である。

それが齋藤孝さんの主張です。

 

何がノーリスペクト社会を生んだのか?

このようなノーリスペクト社会が生まれた原因を齋藤孝さんはいくつか提示します。

ちょっとここでそのすべてを取り上げることはできませんが、私が一番おもしろいと思ったのは

 

「ロック・ミュージックで簡単に得られる快感が学ぶことへのリスペクトを消失させた」

 

というものです。

 

これについて、齋藤孝さんはアラン・ブルームという人が書いた「アメリカンマインドの終焉」という書籍を参考にしながら話を展開していきます。

私は自分自身が音楽をやっていますし、音楽業界に身を置くものですので耳が痛い話なのですが、これが結構面白くて本当は全文紹介したいくらいです(笑)。

ただそうも行きませんので、簡潔に齋藤孝さんの主張を説明すると

 

「かつて快感とはさまざまな苦労のはてに得ることができる、あるいは特殊な状況や立場でこそ得られる貴重なものだった。

しかし、音楽、特にロック・ミュージックが一般社会に浸透することでその状況は一変した。

聴くのには努力も、才能も、人徳も必要ない。単純に音の波に身体を任せるだけで快感を得ることができるようになった。

簡単に快感が得られのであれば、誰も努力はしない。

だから、努力や苦難の果てに得ることができるものに対してのリスペクトを抱かなくなった。」

 

ということです。

 

私はこれはかなり正しいと思います。

 

ロックミュージックが生んだ幻想社会

もちろん、これだけですべてを説明できる訳ではありませんし、本当に音楽の極みに達しようとする人はこの限りではないことは事実です。

しかし、そうではない一般人レベルで言えば、昔は音楽を聴くということは特別な体験でしたが、今は音楽はより手軽に、身近に、そしていつでもどこでも聴くことができます。

毎年、まるでお笑い芸人のように次々に新しいアーティストが生まれ、そして消えていくように、「一時の快感を得るための消費サービスのひとつ」になってしまいました。

 

 「音楽は言葉を超える」などとよく言われ、分からなくても分かり合えるところが素晴らしいなどと言われます。

ですが、音楽によって分かり合えるというのはあくまで分かりあったような気になれるだけであり、本当に分かり合うなどということは土台無理なのです。

本当に音楽によって人が人種や国などを超えて分かり合えるのであれば、「We are the world」を歌っていればとっくに戦争はなくなっているでしょう。

でも現実は違います。

 

世界から紛争はなくなっていません。

音楽によって世界は分かり合える。

音楽によって壁を超えることができる。

こんなことはただの幻想です。イリュージョンです。

 

人種や国には決して乗り越えられない壁がある。

そんなことは各国の歴史をちゃんと学べば分かるはずです。

しかし、学びを忘れたことでそのような当たり前の事実でさえ理解できなくなっている。

そういう意味では音楽の、とくにロックミュージックの罪は果てしなく大きいと私は思います。

 

 

ノーリスペクト社会を加速させたネットの出現

すみません。ちょっと熱くなって話が脱線してしまいました。

話を本のレビューに戻します(笑)。

 

このように生み出されたノーリスペクト社会ですが、それがここ数年はさらに加速していると齋藤孝さんは述べます。

それを加速させたのはインターネットの出現です。

 

ネットの出現、特に「検索機能」の出現により情報をより簡単に入手できるようになりました。

確かにそれ自体は必ずしも悪いことではありません。特に社会に出てうまく道具として使いこなせば、より早く効率的に正解にたどり着くことができます。

 

ただ、「検索すれば答えが出る」という状況に慣れてしまうと、当然自分で考える力が衰えます。

答えを簡単に知れてしまうことでなぜその答えが生み出されたのか、これは本当に自分にとっての正解なのかと、情報の価値について考える力が失われます。

本当は「答え」を知ることそのものよりも、その答えを導き出すための過程を知り、考えることの方が重要なはずですが、答えが簡単に知れることでそのような「過程」に対するリスペクトが失われているのではないでしょうか。

 

もちろん、「だからインターネットが悪い」という話ではありません。

あくまでそれを道具として使いこなすために、適切な距離を取る精神力があるかどうか?

インターネットに取り込まれない適切な距離感を取るバランス感覚が養われているかどうか? が重要なのです。

 

ノーリスペクト社会から脱し、子供が“学びたくなる”社会のために

そのようなバランス感覚を養うため、そしてかつて日本人が持っていたリスペクトを再興させるにはどうすれば良いのでしょうか?

 

このような学習や学びについて議論されるときは、社会に出た大人たちが「今後の社会のあり方について考える」という体で行われるから仕方ないとは思うのですが、「子供たちにどう学ばせるか?」という視点で語られます。

ですが、ノーリスペクト社会が問題の根幹だとすれば、本当は私たち大人こそが子供たちが「この人達から学びたい」と思うようなリスペクトされる人間にならなければならないのではないでしょうか。

 

ちょっと長いですが、この本の最後の文章を引用してこのレビューを締めたいと思います。

 

「人はだれでも、『何かをリスペクトしたい』という気持ちを必ず持っています。

現代の若者にしても同様です。ただ彼らは、そういう感情を表に出す経験をせずに育ってしまった。(中略)彼らを批評することは簡単ですが、それでは何の解決にもなりません。“仏法僧”に当たる『学びのあこがれ』の対象を提示し、彼らのリスペクトの導火線に火をつけてやることが、上の世代の責任ではないでしょうか。」 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆 

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