世界を救う読書

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”普遍性のディズニー”と”多様性のチャップリン。あなたの心をつかむのはどっちだ?

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 ウォルト・ディズニーチャーリー・チャップリン

世界で最も有名なこの二人だが、彼らの繋がりを知る人は意外にも少ない。年齢で言えば一回りほども違うが、実は彼らは強い師弟関係で結ばれていた。

たとえばこんな話がある。

ディズニーは子供時代からチャップリンに憧れて育ったが、二人が初めて出会った時、ディズニーはまだ駆け出しのアニメ・クリエイターでしかなかった。

だが、チャップリンはディズニーの才能をすでに見抜いており「君はもっと伸びる。君の分野を完全に征服する時が必ず来る」と予言した。その上でディズニーのその後を左右する重大なアドバイスも与えていた。

そのアドバイスとは「自分の作品の著作権は他人の手に渡しちゃだめだ。」というものだった。ディズニーと言えば、その著作権管理の厳しさで有名だが、そのポリシーには実はチャップリンのアドバイスが生きていたのだ。

 

・・・などと偉そうに言うものの、恥ずかしながら私もそのような二人の繋がりは全く知らなかったどころか、二人に対してあまり興味がなかったというのが実際のところだ。

そんな私が二人の繋がりを知ることになったきっかけが、偶然見付けたこちらの新書

大野裕之著「ディズニーとチャップリンーエンタメビジネスを生んだ巨人ー」。 

本書は、ディズニーとチャップリンをエンターテインメント界の巨人へと昇華させた”キャラクタービジネス”を切り口としながら、彼らのエンターテインメント哲学の共通点と相違点を論評している。

前半は二人が歩んだ人生や、師弟関係とも言える二人の繋がりを20世紀前半の世界情勢を交えながら紹介する内容。「ディズニーとは」「チャップリンとは」と人に語れるようなちょっと深いウンチクを得ることができる。

一方後半では、二人の思想や世界観の違いを論評する。

ディズニー帝国とも言える巨大企業に成長したディズニーに比べ、チャップリンは残念ながら「昔の喜劇王」という印象が拭えない。しかし、今でもその映像を見た人の心を掴み、特別な感情を抱かせる圧倒的な存在感と魅力を放つのは多くの人が知るところだろう。

ディズニーとチャップリン、この二人の巨大な才能の共通点と相違点を考えることで、現代メディアとエンターテインメントの姿が立体的に見えるようになる。ディズニーやチャップリンに興味がなくとも楽しめる、知的興奮を味わえる新書だ。

 

 

 

二人の共通点”キャラクタービジネス”

ディズニーとチャップリン

この二人の共通点として著者が挙げるのが「キャラクタービジネス」だ。

チャップリンと言えばほとんど人があの「チョビ髭、山高帽子、不格好なスーツ、そしてステッキ」という映像を思い浮かべるだろう。一方のディズニーはミッキーマウスを筆頭に現代でも数多くのキャラクターを取り揃えている。

今では当たり前となったキャクタービジネスだが、この原型を生み出したのが他ならぬチャップリンだった。

 

キャラクタービジネスと言えばあまり良いイメージを持たない人も多いかもしれない。いわゆる”著作権”を笠に着て、他人が作り出したものに言いがかりをつけて法外な賠償金をせしめるような悪どいビジネスが横行しているのを目にしたことがある人も多いだろう。

キャラクタービジネスの根幹にあるのは、キャラクターというものに著作権があるという概念だ。今では当たり前の考えだが、昔は現在の中国のようにキャラクターというものに対する著作権という概念はまったく存在しなかった。

チャップリンの人気が高まりはじめていた当時は、映画という新しいメディアが産声をあげた頃だったのだが、まさにこの映画の興隆こそがチャップリンに”著作権によるキャラクター保護”の重要性を痛感させたのだった。

そのきっかけになったのが「カルメン裁判」という裁判だ。

チャップリンの考えを一変させたカルメン裁判

このカルメン裁判を簡単に紹介すると、チャップリンは当時エッサネイ社という映画配給会社で監督、脚本、主演をすべて担当しており、いくつかの大ヒット作を生み出した。その後チャップリンは別の会社に移籍したのだが、なんとエッサネイ社がチャップリンの作った「チャップリンカルメン」という映画を改変して、別の映画として公開したのだ。チャップリンはこの映画の差し止めを要求したが、裁判によってチャップリンは敗訴する。おまけに、このエッサネイ社がチャップリンがいなくなったことによる損失を損害金として賠償する裁判まで起こした。その後も、「チャップリンカルメン」以外の作品も同じように再編集を行い、別映画として公開したようだ。

その上、そもそもチャップリンが移籍したことで損害を受けたという”難癖”によって、チャップリンに多額の賠償金を負わせる裁判まで起こされている。

著作権の重要性を認識したチャップリン

この一連の裁判によって著作権を自分のものにすることの重要性を認識したチャップリンは、その後自前の撮影所を建設し、自分で経営を担うことにした。会社の庇護や金銭的条件よりも、自作の著作権を優先したわけだ。

著作権トラブルによって、その大切さを骨身に染みたチャップリンは映画の著作権の確立に一役を買った。だからこそチャップリンはディズニーという偉大な才能に出会った時に、まず著作権保護の重要性をアドバイスしたのだった。

今でこそ当たり前となったこのキャラクターの著作権保護をチャップリンがはじめたのは、現代のような興行収入の保護だけでなく、まさにクリエイターの良心と権利を守り、彼らが創作に集中できる環境を整えるためだったのだ。

 

 

さて、同じキャラクターをビジネスとして活用しながらも、その方法論はディズニーとチャップリンでは全く異なっている。

チャップリンは、キャラクターの権利を確立した最初の人物である。だが、意外なことに彼はそれを主たるビジネスとして展開することに興味はなかった。あくまで思う存分に作品作りに集中するために、すべての権利を完全にう手中におさめ、その一つがキャラクターの権利だったわけだ。

(中略)

それゆえに、驚くべきことに1920年代以降のチャップリン全盛期に夜に出たおびただしい数のキャラクター・グッズはほとんど無許可で販売されたものだった。チャップリンは”偽チャップリン俳優”には厳しく対応したが、関連グッズは放置していた。彼は根っからのクリエイターだったのだのだ。」(本書P261)

 

では、一方のディズニーはどうだったか。

ディズニーと言えばミッキーマウスが代表格だが、白雪姫やくまのぷーさん、アナ(と雪の女王)などなど、数多くのキャラクターを取り揃えている。それは自社で生み出したものだけでなく、スパイダーマンやアイアンマンなど他社を買収することによって獲得したものも含まれる。

その上、それらのキャラクタービジネスから得た利益で巨大企業を次々の買収し、知的財産を次々と獲得。たとえば、映画配給会社の20世紀フォックスを買収し、自社のDisney+というストリーミング・サービスで膨大な映画や番組を独占して配信するようになったこともその一つ。メディア・ネットワーク事業を基幹産業として、年間14兆円を叩き出すコンテンツ企業になった。

キャラクタービジネスを基盤に、ディズニー帝国とも言える巨大産業を生み出したのだ。

世界の人々と一つになるためのキャラクター

同じキャラクタービジネスでありながら、なぜ具体的な手法にこれほどまでの違いが出たのだろうか?

著者はその原因を「ディズニーの”普遍性”」と「チャップリンの”多様性”」という違いに見出している。

この二人の特性の違いをはっきりさせるためには、迂遠なようだが二人が目指した共通の理想について考えると分かりやすい。

 

著者は本書第4章において、チャップリンの言葉を引用しながら次のように語っている。

(チャップリンと言えば多くの人が思い出すように、無声映画を作り続けた。いわゆる出演者の”声”のないパントマイムのような映画だ。一方当時は音声のある”トーキー映画”も出はじめており、将来的にはトーキー映画の方が主流になると言われていた)

チャップリンが、1931年に『街の灯』を、すでに時代遅れとみなされていたサイレントで作ると発表した時、多くの批評家が驚きを示した。彼は『パントマイムとコメディ』という文章を発表して、彼らの疑問に答えようとした。

”なぜ私は無声映画を作り続けたか? 第一に、サイレント映画は普遍的な表現手段だからだ。トーキー映画にはおのずと限界がある。というのも、特定の人種の特定の言葉に規定されてしまうからだ。”

チャップリンがこだわったのは、サイレントかトーキーかという技術ではなく、世界中の人に理解されるかどうかだった。その考えこそ、ディズニーも共有しているものだった。」

(本書P121)

「ミッキーはほとんど一夜にして国際的な成功を収めた。なぜなら、初期の作品においては、その笑いの大半が目で見てわかるギャグだったからだーローレル&ハーディやバスター・キートン、そして特にチャーリー・チャップリンのように。人々が香港で見ていても、パリでも、カイロでも、言葉が必要ない。彼らは、スクリーンで起こっていることを、ただ笑うことができるのだ。」

(本書P123)

 

世界中の人々に言葉や人種を越えて、笑いや感動を伝えたい。

ディズニーもチャップリンもその思いを共有していた。

だからこそ二人は「世界中で通じるたった一つの共通イメージ」の重要性を鑑みた結果、”キャラクター”にこだわったのだ。

二人のアプローチの違い。「普遍性」と「多様性」。

世界中で通じるたった共通イメージを作り上げるために”キャラクター”を重要視したその思想は、二人に共通するものだった。

しかし、具体的なアプローチはまったく違う。

それが前述の「ディズニーの”普遍性”」とチャップリンの”多様性”」である。

 

著者はディズニーの源泉はその普遍性にあるという。

たしかにディズニーのキャラクターたちが世界各国で通じる普遍性を持っているのは間違いない。だが、この場合の普遍性は少し意味合いが異なる。

ディズニーの場合は、ディズニーランドのようにまず現実世界と全く切り離された”夢の国”を構築する。そのクローズドな世界の中での唯一無二性をキャラクターに付加するという手法をとる。そのため、ディズニーキャラクターの普遍性とは、あくまでそのキャラクターのために構築された架空の世界の中で効力を発揮するものになる。

だからディズニーのキャラクターがどこかの国やサービスに提供される際には、必ずその世界観と一緒にパッケージされることになる。言うなれば、キャラクターが普遍的な価値を持ちうる世界ごと販売する形態、それがディズニーのキャラクタービジネスである。だからこそ、ディズニーは他者によるキャラクターの侵害に極端にシビアな態度を取るのだと言えよう。

 

これに対してチャップリンのキャラクターは、そのキャラクターの普遍性ゆえの多様性を持っている。

例えば「インドのある村ではチャップリンヒンドゥー教の神々の一人として祀られ、喜劇王の誕生日を聖日として村全員でチャップリンの紛争をして練り歩く風習がある」(本書P271)。

また、香港などでも「香港のチャップリン」として活躍する俳優がいるが、その風貌や実際の映画は本物のチャップリンとは似てもにつかないものだ。それでも現地の人たちは「これがチャップリンだ」という共通のイメージを抱いている。

著者はそのような現象が起こる理由として、チャップリンが持つ”内面に宿る大衆的リアリティ”を挙げる。

曰く

「放浪紳士チャーリーは、寓話的な外見を持つが、その内面は大衆のリアリティに根ざしている。チャーリーは現実社会を孤独に放浪し、一つの場所に留まることはない。夢を見ているが、かなえられることは決してないし、その恋は必ず破れる。孤独に理想を求め続ける彼は、権力に対してささやかない反抗を試みる弱者の一人だ。そうした内面ゆえに、チャーリーの精神は時代を超えて生き続ける。」(本書P277)

つまり、チャップリンには現実社会に生きる人なら誰しも抱える、悲哀や孤独といった普遍的テーマを体現している。だからこそ世界の人の心をつかむ。そして、そのテーマは価値観の違いによってさまざまな解釈とアプローチで描かれる。

 

ディズニーはキャラクターを夢の国という虚構の枠組みに収めることで、世界に通じる普遍的パッケージを生み出した。一方のチャップリンは、現実社会に生きる人々に共通する普遍的テーマを取り扱うことで、様々な価値観の持つ多様性を尊重した。

”世界中のどこででも通じる普遍性”を目指しながらも、ディズニーとチャップリンはまったく違うアプローチで迫ったのである。

 

ディズニーとチャップリンの優劣をつけるのは愚問

本書の最後に著者は「この本では二人の差異を強調」したものではない、と言っている。

ましてやどちらが優れているかといったような優劣を図るような内容では決してない。

だが、本書を素直に読めば著者が”多様性”を重視したチャップリンの方をより高く評価しているのは疑いようがないと思う。

実際、私も今回のブログを書いている中で、やはりチャップリンの方を好意的に書いているのは否めない。ただ、それは必ずしも「多様性を重視したチャップリンの方が正しい」というような善悪二元論ではない。

たしかにディズニーは虚構の世界を作り上げることで、世界のどこででも売れる普遍的パッケージを生み出したのは間違いない。それに比べれば現実社会のリアリティを追求したチャップリンの方が芸術としての価値は高いようにも思える。

だが、ディズニーは虚構の世界を作り上げ、世界の人々にその夢を見せることで、多くの人に夢と希望を与えているのは事実だ。それによって現実社会の生きづらさをかろうじて耐え忍んでいる人もいるだろう。そういう意味ではディズニーはチャップリンよりも多くの人の心を救っているかもしれない。

ディズニーとチャップリン、これだけの巨大な才能が並べられると、つい二人の優劣をつけたくなってしまう。

だが、それは最も愚かな行為だろう。

私達が二人から学ぶべきは「世界に通じるコンテンツを作り上げる」という一つの目標であっても、思想や哲学によってそのアプローチにはさまざまな切り口があるのだということ。そして、様々なアプローチがあるからこそより多様な社会が築かれるのだということだ。

普遍性と多様性、どちらが欠けても本質を見失ってしまう。

常に異なる視点から物事を考える柔軟性を持つことの大切さ、そしてそこから見えてくる世界の面白さをこの本ではきっと感じてもらえると思う。

 

 

 

 という訳で今回ご紹介した本はこちら。

大野裕之著「ディズニーとチャップリン」でした。

長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

 

 

 

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