読書に成果なんか求めなくていい。著者との対話こそ真の醍醐味だ。
古今東西、読書には様々な方法がある。
その中でも最近特に言われるのが「本を読んだら、速やかにアウトプットすべし!」という方法だ。
一昔前なら読書日記をつけることが関の山だったのだが、そこはネット全盛の現代。
ブログやSNSなどで誰でも手軽に発信できるようになった今では、自分以外の誰かに本の内容を伝えることで、”より効率的に”、”より体系立った知識として”、本の内容を習得できるというわけだ。
そのようなアウトプットを目的とした場合、本を読む時の姿勢も変わってくる。
アウトプットをする以上は誰かからの反応を得たいのが人間の性であるから、当然本を開く時からアウトプットするためのネタ探し的な姿勢になる。さらには、本の探すときにすらそのような目的意識から本を選ぶようになるだろう。
なるほど、読書をする目的は人それぞれだ。
試験勉強のためにする読書もあれば、ビジネス上のスキルを磨くために必要な読書もある。その種の目的のためには読書に効率と成果の最大化を求めるのはやむを得ないかもしれない。
だが、そのような目的の読書であったとしても、それが貴重な人生の時間を費やすのであれば「仕事のために読むのだから、仕事が終われば一切合切捨て去ってしまって構わない」ということにはならないはずだ。たとえ短期の目標であったとしても、少しは人生の役に立つことを願うだろう。
そうであれば、短期的な効率や成果を求めるだけに留まらず、自らの人生を豊かにするための手段として読書の意味を考え直すことも必要ではないだろうか。
前置きがいささか長くなってしまったが、今回は「読書に効率や成果など求める必要はない」という立場から正しい読書の方法について考えてみたい。本を読んで成果を出すことに疲れた人たちにもう一度読書の魅力を噛み締めてもらえたら幸いだ。
知識に対する根本的な錯覚
まずもってはっきりさせておきたいことは「読書の目的は、知識や教養を身につけることではない」ということだ。
恐らく多くの人が本を読む目的として
・知識を得ること
・教養を身につけること
を挙げるだろう。
私は知識と教養は別物だと考えているが、今回の本筋からは外れるため便宜上これらを「知見を広げる」という目的だとまとめて話を進めることにする。
※教養と知識の違いについては以前の投稿にも掲載したので、よろしければこちらも。
多くの人々は知識を得る、あるいは知見を広げるということに関して根本的に誤解をしていると思う。
人々は新しい何かを知ることで、今までにできなかったことができるようになったり、自分の能力が向上したり、または自分の知らなかった世界が開けてくると考えているようだ。
確かに知見を広げることによって、そういう”今までの自分になかった力”を身につけることができるという側面はある。しかし、それは知見を広げることの役割を半分しか理解できていないと思う。
新しい何かを身につけたと言っても、それが世界の誰も知らない、誰も理解できないような全く新しい心理を発見であるケースはまずあり得ない。ほとんどの場合が、現在の誰かや過去の偉人が発見した物事を再発見したということに過ぎない。
つまり新しい知見を知り得たと思った時には同時に、過去の偉人が持ったより高い視座や広い知見が存在し、自分は後追いでそこに追いついたに過ぎないことを肌身で感じるはずなのである。
読書に伴う責務
かつて中世の人文主義者ソールズベリーのジョンは、12世紀の思想家ベルナールの言葉を引いて次のように語った。
「ベルナールスはわれわれをよく巨人の肩の上に乗っている矮人(わいじん)に準えたものであった。われわれは彼らよりも、より多く、より遠くまで見ることができる。しかし、それはわれわれの視力が鋭いからでもなく、あるいは、われわれの背丈が高いからでもなく、われわれが巨人の身体で上に高く持ち上げられているからだ、とベルナールは指摘していた。私もまったくその通りだと思う。」
現代の私達がさまざまな知見を得ることができるのは私達の能力のおかげではない。ここに至るまでの過去の偉人たちの功績があったればこそなのだ。
私達がいま享受している物のほとんどすべては、過去の偉人たちの蓄積の元に達成された果実だ。そうであるならば、私達が新たな知見を得た時には同時に、それを発展させ、それを知らぬ人々に伝えていく義務、さらに次の世代に受け継いでいくために努力する責任が生まれるはずなのだ。
当然そのような責任は本を読む側にだけ帰せられるべきではない。
書き手にも同様の責任が伴う。
本を読む人、本を書く人、その両方が知識や知見を広げ、人々へ受け継いでいくという責任を実感しながら本に関わるべきである。
もちろん、その責任の果たし方の中に「アウトプットする」という行為が含まれることもあるだろう。私も「アウトプットをするな」と言うつもりはない。だが、それは手段の一つであって目的ではない。ましてや、それに囚われて本を読むことへの正しい向き合い方を忘れるのは本末転倒だろう。
では本を読む目的とは何だろうか?
古くから読書には様々な意味が見出されてきたが、その中でも重要なものは人生の指針を導き出すことだろう。
少し話がそれるが最近”親ガチャ”なる言葉が流行っているそうだ。
オンラインゲームやスマホゲームで希望のアイテムを入手するために、クジを回すことを「ガチャ」と呼ぶが、それを自分の人生になぞらえたのが”親ガチャ”らしい。ガチャは基本的にくじ引きであるため、その結果は運次第。自分の出生もそれと同じで、どんな親の元に生まれてくるかを選ぶことはできない。
翻って、自分の人生がうまく行かないとしたら、”親ガチャ”に失敗したせいであり、自分の責任ではない、という意味合いが込められている。
実はこの”親ガチャ”に関しては、古代ギリシャの哲学者セネカが著書「人生の短さについて」ですでに述べている。
「我々がよく言うように、どんな両親を引き当てようとも、それは我々の力でどうすることもできなかったことで、偶然によって人間に与えられたものである。」
まさに”親ガチャ”と同じ考え方がすでに古代ギリシャにて広まっていたということだろう。
そのような考え方について、セネカは直後にこう述べている。
「とはいえ、我々は自己の裁量で、誰の子にでも生まれることができる。そこには最もすぐれた天才たちの家庭がいくつかある。そのどれでも、君が養子に入れてもらいたい家庭を選ぶが良い。(中略) 彼らは君に永遠への道を教えてくれ、誰もそこから引き下ろされない場所に君を持ち上げてくれるだろう。
これは死滅すべき人生を引き延ばす、いな、それを不滅に転ずる唯一の方法である。」
ここでセネカが述べている”家庭を選ぶことができる”というのは、過去の優れた人物の書物を読み、彼らと親子のように真剣に語らうことを指したものだ。
セネカはこの書の中でいかに人生が短いかを説き、一瞬たりとも無駄に過ごしてはならないゆえんを何度も反芻する。そのための具体的な方法として、古代の偉大な英知が残した名著を読むことを強く勧めている。
「われわれはソクラテスと論じ合うこともでき、エピクロスとともに安らぎを得ることもでき、ストア派の人々とともに人間性を打ち破ることもでき、またそれをキュニコス派の人々とともに乗り越えることもできる。
自然がどんな時代とでも交わることを許してくれる以上、この短くも儚く移り変わる時間から全霊を傾けて自分自身を引き離し、あの計り知れない、永遠な、また我々よりもすぐれた人々と共有する事柄に没入しないでよいであろうか。」
(セネカ「人生の短さについて」)
本との正しい向き合い方
では、我々はどのようにして本を読むべきなのだろうか?
私は昭和の文筆家・福田恆存 (ふくだ つねあり) の考えが最も真に迫った表現ではないかと思う。
福田は言う
「本を読むことは、本と、またその著者と対話することです。」
「本は、問うたり、答えたりしながら読まねばなりません。要するに、読書は、精神上の力くらべであります。本の背後にある著者の思想や生き方と、読む自分の思想や生き方と、この両者のたたかいなのです。」
著者が述べることを唯唯諾諾と受け入れること、あるいは極端に自己本位に読み進めることは対話とはなりえない。著者の主張を言葉尻だけでなく、思想的に捉えるのと同様に、自らの思想や生き方とも比較考量しながら、真剣に検討していく。
これが100%正しいのかどうかはケース・バイ・ケースかもしれない。
しかし、著者の述べるキーワードや結論だけをつまみ食いして分かった気になるような読書よりも、著者の主張が自分の心に沈潜するような深い読書ができるようになるのは間違いないと思う。それでこそ一生のうちの貴重な時間を読書に割く価値が生まれるのではないだろうか。
「アウトプット」という近視眼的な結果を得るために、それをないがしろにするのは如何にも愚かな行為だと言わざるを得ない。
読者に疲れた人たちへ。
以上、本を読むということに関してつらつらと書いてきた。
ここまで書いておいて言うのも変な話だが、本来、本の読み方は自由だ。
いつ、どのように、どんな本を読むのか。
速く読むことも遅く読むことも自由だ。
それを否定するつもりはない。
だが、自由にはすべからく責任が伴うことも事実だ。読書においては、その責任を意識することで、より著者と深く対話ができるようになるという側面がある。
昨今世間に流通している読書法の多くは、その本から得た知見を短期的に、そして文字通り"明文化"することを求められることが多い。
だが、明文化できることがその読書体験から得た物すべてとは限らない。むしろ読了後すぐに明文化できることなど、読書から得られた価値のほんの一部に過ぎない。
だから、本を読み終わった後に、その読書の成果を形にできなくとも何も問題はない。著者と十分に対話して感じ取った思想、対話の記憶は、その後じんわりとあなたの心に染み渡っていく。そして何年か後には、確実にあなたの心や思想を形成するとしてあなたの魂に宿るはずだ。
本当の読書の醍醐味はそこにある。
もし早く、効率的に読書をすることに疲れた人がいるなら、その読書の醍醐味をもう一度思い出してほしい。
そしてどうか著者と全霊を傾けて対話する楽しみを味わってほしい。
それ以外のことはどのようなことも読書においては枝葉末節に過ぎないのだ。
というわけで。
今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m