世界を救う読書

ビジネス書から文芸書までさまざまな本を通して世界の見方を考えるブログ

伊藤羊一著「一分で話せ」。左脳で組み立て、右脳を刺激し、人を動かすプレゼン力。

さて、早速ですが、今日ご紹介する本はこちらの45万部超えのビジネス書。

伊藤羊一著「一分で話せ」です。

プレゼンなどで人に何かを伝える時に必須の技術を詰め込んだ書籍です。

プレゼンを前提に書かれていますが、誰かに自分の考えを説明したり、協力をお願いをする時など、頭の中にあることを“誰かに伝える”シーンで役に立つ技術が満載です。すでに45万部以上売れているそうですが(2020年10月時点)、それもうなずける内容で非常にオススメです。 

著者紹介 

著者の伊藤羊一氏は、ヤフー株式会社Yahoo!アカデミア学長。グロービズ経営大学院客員教授という肩書。さまざまなビジネスマン向けの授業を通して、プレゼンの仕方を教えているそう。ただ、意外にも本人は元々プレゼンが苦手だったとのこと。

この本は、その著者が少しずつ現場で学び、プレゼン指導をするまでになったその秘術を詰め込んだ一冊。プレゼンが不得意、人にうまく伝えられないという人には期待の一冊といえるでしょう。

なぜ「一分で話せ」なければならないのか

まず、本書の目的をズバリ言ってしまえば、それは

自分の考えを伝え、人を動かす力を身につけること

です。

したがって、この本では

1) 自分の考えをまとめる方法

2) それを人に伝える実践的な方法

が数多く紹介されています。

 

タイトルである「一分で話せ」もその技術のひとつですが、なぜ一分で話さなければいけないのでしょうか?  

著者はそもそも「人は相手の話80%聞いていない」と言います。考えてみれば当たり前で、自分が言っていることを一言一句残さず聞いて、100%理解し、しかもそれを後々まで覚えていてくれるなんて人はいるわけがありません。すごく熱意を込めて懇切丁寧に説明したのに「で、結局何なんだっけ??」「要するに何が言いたいの?」と言われて愕然としたことは、あなたも経験したことがあるはず。

 

だったら、まずはとにかく短くシンプルにする。“一分で話せるくらい”短く、シンプルに話を組み立てることから始めようというわけです。

そしてそれが出来たら、自分の考えを伝えて相手を実際に動かしていく。

その技術を著者は余す所なく伝えています。

 

頭の中をシンプルにする“構造化”作業

まず大事なのは自分の頭の中にある主張をシンプルに整理することです。自分の頭の中がゴチャゴチャのままだったら、相手に伝わるわけがありません。

この「頭の中を整理する方法」として著者が提案しているのが、下記のような形で構造化してみることです。

 

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文字で書くと

「話の枠組みを明確にする。主張(結論)は一つ。その根拠はこの3つ。」

ということ。一番良いのはこのような図を紙に書いて、実際に自分の言葉を当てはめてみることです。そうするとシンプルなだけに、自分の主張がどういう理屈で、どういう構造になっているのかが視覚的に分かりやすくなります。

人間は自分の頭の中で考えている時は「完璧に理解した。」「これなら誰もが納得するはずだ。」と思っていても、実際に人に説明しようとするとうまく説明できないことが多いですよね。よく言われることですが、こういう時には一度何かに書き出して視覚化すると、自分がちゃんと理解できていないポイントがわかりやすくなります。 

左脳への働きかけて伝える

自分の主張が構造化されたら、次はその構造を相手に伝える段階に進みます。

著者によると相手に自分の主張を伝えるには、「左脳」と「右脳」の両方に訴えかけることが効果的だそうです。何だか難しそうに聞こえますが、実は左脳に訴えかけるのは先程の「構造化」ができていればほとんど出来たも同然です。

 

よく左脳は論理的な思考を司る器官だと言われます。ではその「論理的」とはどういうことかというと「主張と根拠の意味がつながっていること」です。どんなにハッキリとした主張で、根拠がどんなに精密に数値化されていたとしても、それらに因果関係が見い出されなければ人は納得しません。

この論理的なつながりというのは頭の中で考えているだけだと“何となく”誤魔化されがちです。自分自身が何となく理解しているから、人に伝えようと思った時にうまく伝えられない。だからこそ前節で紹介したような図で視覚化するのがオススメ。

視覚化すると主張と根拠がちゃんとつながっているかどうかわかりやすくなるのです。

 

自分の伝えたいことを視覚的に構造化し、主張と根拠の論理的つながりが確認できたら、あとは簡単。

①これから伝えることの枠組みを明確にする。

②根拠となる3つの要素を示す。

③最後に主張 (結論) を述べる。

これだけです。

もしかしたら最初に結論を言ってしまった方が人の心を引き付けられるかもしれませんが、それはケースバイケースで臨機応変に。

右脳への働きかけ方〜イメージが湧く仕掛けづくり〜

左脳に訴えかける論理構造ができたら、その次に必要になるのが相手の感情に訴えかける方法です。前節に書いた論理構造は、相手に自分の考えを伝えるための基礎づくりみたいなもの。これがなくては、そもそも相手に自分の言葉は届きません。

しかし、相手に言葉が届いて理解してくれたからと言って、相手が自分の望むように動いてくれるかは別問題。大切なのは相手が「よし。それでやってみよう!」と心を動かされることです。確かに、自分の立場などを利用して論理で相手を追い詰めれば、一瞬は相手も動いてくれるかもしれません。でも、それも一瞬だけの話。

結局人は心が動かされなければ、積極的に動いてはくれない。ひいては自分が望む結果を出すことも難しくなるのです。

 

では、どうすれば人の心を動かせるのか?

それは相手の頭の中に具体的なイメージを生み出させることです。

そのためのアプローチとしてこの本では2つの方法が紹介されています。

 

イメージを伝える方法① ビジュアル素材を使う

一つめは画像や動画などをビジュアルで見せること。これは分かりやすいですね。

私は職業柄コピーライター的な仕事もやっているため、文字で表現する機会が多いです。しかし、文字や言葉はどうしても解釈の幅が広くなってしまいます。そこで実際の作業に入る前に写真や動画などを補足してイメージを共有することで、できるだけ他の人とイメージの齟齬が出ないようにしています。これで根本的なやり直しはかなり防ぐことができます。

 

もちろんプロ並みのクオリティは必要ありません。

スマホで撮った写真やネットで見つけてきた画像、あるいは下手でも手書きで書いた絵など、自分のイメージが伝わる視覚的な素材を見せることができれば良いのです。

イメージを伝える方法② 言葉で表現する

写真や動画のようなビジュアル素材を用意できない場合に用いられるのが、言葉でイメージを掻き立てる方法。

今の時代だれでもスマホを持っているでしょうから、できれば先程書いたビジュアル素材を用意する方法を使った方が早いです。またその方が伝えられるイメージもより具体的になります。しかし、あまりに先進的なことで前例がなかったり、どうしても自分のイメージに合う画像や動画が見つからない時には次点の策として有効。

 

ただ、言葉で伝えることに自信があるのであれば、相手にイメージさせる方が効果的という場合もあります。これはラジオ通販がよく売れるのと同じ。目に見えないからこそ想像が掻き立てられ、より強く印象が残るという手法ですね。

かなりの話術が要求されますが、著者は取り入れやすい方法として

 

・具体的な例を出すときに「例えば」と一呼吸おいてから始める

・「想像してみください。」という言葉を投げかけてから具体例を出す

 

という手法を紹介しています。このような言葉を使うことで、相手も”イメージを浮かべるモード“に入りやすくなります。シンプルな方法ですがなかなか有効です。

 

ちなみに、言葉によってイメージを連想させるには言葉の語感も大事です。言葉が持つ語感の影響力については、前にこちらの記事で取り上げたので良かったら参考までに。

 

一分で「吉野家がなぜ好きなのか」を伝える技

ここまでのまとめとして、著者の分かりやすいプレゼンの例を紹介します。それが「吉野家がなぜ好きなのか」を伝えるごく短いプレゼンです。

吉野家が好きです。 (結論)

まず、早い。座ったかどうかのタイミングで、店員さんが牛丼を出してくれますよね。(根拠①)

次に、安い。今どきどこで食べても大抵500円はかかります。(根拠②)

最後に、うまい。想像してみてください。お腹がすいた時に牛丼をかきこんだことを。(根拠③と言葉によるイメージ想起)

だから、僕は吉野家が好きなんです。(結論の念押し) 

一つの結論に対して3つの根拠を提示し、食べている状況を想像させて吉野家の牛丼のイメージを伝える。ものすごく簡単なのですが、「一分で話す」プレゼンの妙技が詰まったプレゼンだと思いませんか?

 

まとめ

今回ご紹介した内容をまとめると、下記のようになります。

 

1) 人を動かすには左脳(論理性)と右脳(感情)の両方に訴えかけることが必要。

2) 左脳に訴えるには自分の考えを構造化することが大事。その構造は「枠組み設定」、「一つの結論」、「三つの根拠」とし、それぞれに意味のつながりを持たせる。

3) 右脳に訴えるには、写真や動画、あるいは言葉を駆使して相手のイメージが湧きやすいよう心がける

 

恐らく一番難しいのは2番の構造化の工程です。ただ、これができないと一分で相手に伝えるのは難しくなりますので、是非ここは乗り越えたいところ。慣れると案外簡単にできるようになりますよ!

 

おまけ 〜感想〜 

私はあまりビジネス書は読まないのですが、これはなかなか面白かったです。特に私は言葉で説明するのが苦手なタイプなので、かなり参考になりました。いわゆる「プレゼン」をする機会がない人でも、誰かに説明をする機会がある人なら誰でも参考になる内容です。逆に誰かのプレゼンを“聞く”時にも、この本の内容が頭に入っていると相手の話を理解しやすくなると思います。

 

ちなみに、個人的に一番響いたのは次の言葉でした。  

プレゼンというのは、自分が伝えたいことを「伝えていく」行為ではなく、「相手の頭の中に、自分が伝えたいことの骨組みや中身を、『移植していく』作業」なのです。

 

私は「伝える」ということは「自分が伝えたいことや誰か(クライアントとか)が伝えたいこと」を"言ったり""書いたり"することだと思っていました。極端に言えば「自分が伝えたいことを言うこと」だと。しかし、この本によるとそもそもその前提が間違っているということなんですね。

言われてみれば当たり前なのですが、妙に納得してしまいました。

この「自分の伝えたいことを移植する」という意識でこの本を見ると、著者が伝えたいこともより分かりやすくなると思います!

 

という訳で、今回はこちらの書籍のご紹介でした。

最後まで長文をお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

読めば分かる日本を覆う"空気"正体。山本七平の名著「空気の研究」

突然ですがみなさん、「名著の条件」って何だと思いますか?

「何万部突破!」といった発行部数で測るという考え方もあるかもしれませんが、 必ずしも「たくさん売れた=名著」とは言えません。ものすごくたくさん売れた訳ではないければ、時代を超えて読みつがれる名著という物もあります。

 

この「名著の条件」について以前評論家の中野剛志氏がこのように仰っていました。

「世間の人々が何となく“こういうことじゃないかな”と思っていることを形にして、読んだ人が“そうそう。これが言いたかったんだよ!”と思うようなこと。名著というのはそういうものだと思うんですよ」と。

 

本とは自分一人では知り得ない価値観や世界の見方を示して、物事を考える道筋を示してくれるもの。

だとすれば、世の中の多くの人がぼんやり感じているけど、言葉にできない。何と言ったら分からないけれど、何か喉につっかえているようなモヤモヤを適切に表してくれるような本があれば、たしかに名著と言えそうです。

 


今回紹介する本は、まさにそのような意味で時代を超えた名著、山本七平 「空気の研究」です。

正直、これめっちゃ難しいです。内容もさることながら、著者の独特な表現や言い回しによってかなり難易度が高い著作になっています。ただ、読むとめちゃくちゃ面白い!

もう50年くらい前に書かれた本なのですが、現代人の多くが悩まされる”空気"。目には見えないけれど、無言の圧力で言動を縛る"空気"。存在しないのに確実に存在する"空気"。これは一体何なのか?

 


その謎に立ち向かい、空気に支配されないためにどすれば良いかという道筋を示してくれる著作です。

書かれたのが随分昔ですので、出てくる具体例こそいささか古いですが、そこで表現されている日本人を支配する空気は現代にも通ずるリアリティを持って描かれています。


空気という"妖怪"に多くの人が悩まされる現代こそ、広く読まれるべき名著。ちょっと長くなってしまいましたが、この本が描く空気の正体と恐ろしさを詳しくご紹介します!

 

著者紹介

著者である山本七平第二次世界大戦の前後に活躍した評論家。1921年生まれ、1992年没。クリスチャンの両親を持ち、その名前「七平(しちへい)」はキリスト教の神の安息日である日曜日に生まれたことから名付けられたとのこと。両親と同じく七平も敬虔なクリスチャンです。

このキリスト教徒であるということが、山本七平の独特の視点に大きな影響を与えており、その著書も「日本人とユダヤ人」「聖書の旅」「日本教徒 (※翻訳)」など、宗教を題材にしたものが多くなっています。

また、第二次世界大戦の際にはルソン島にも出征。のちにマニラの捕虜収容所に移送されるなど、実際に”戦争”を体験したこともまた彼の思想に非常に強い影響を与えています。

クリスチャンであること、そして戦地を経験した。この2点が山本の言説を理解する上で、とても重要なバックグランドになります。

 

山本七平がこの本を書いた理由

この本では文字通り「空気」に関する研究が展開されています。その空気とはもちろん今の私たちが「あいつ空気読めないなー」などという時に使う空気と同じものです。

この「空気」を研究した本としては、本書は当時かなり画期的だったようです。なぜなら当時はまだ今のように「空気を読む」ということが意識されることがなかったから。空気を読むのが当たり前すぎて誰も意識すらしていなかったということですね。

では、なぜ山本はそのような状況でこの空気を研究したのか?

それは先ほども述べたように第二次世界大戦を実際に経験したことが影響しています。

 

軍国主義者でもなくクリスチャンであった山本がなぜ戦地に行かなければならなかったのか。戦後の視点から考えれば無謀だと分かりきっていた戦争になぜ突入してしまったのか。

それについて考え抜いた結果、「この空気という存在が日本を戦争に追い込んだのではないか?」という仮説に辿り着いた。

では、その空気は戦争が終わって消滅してしまったのだろうか? いや、そんなことはない。戦争に国民を駆り立てた空気は消えてしまったが、別の形で空気は存在し続けている。

だとしたら、その空気とは何なのかをしっかりと検証し、空気の支配によって国家や国民が間違った道へ進まないためにはどうすれば良いのかという対策を提示しておかなければならない。

このことについて山本は次のように述べています。

 

「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一瞬の「超能力」かもしれない。

(空気に支配されてしまうと)統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって(中略)すべてが「空気」に決定されることになるかもしれぬ 。

 

われわれはまず、何よりも先に、この「空気」なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起こるやら、皆目見当がつかないことになる。

これが山本が「空気の研究」を書いた理由です。

空気が良いものなのか悪いものなのかは分からない。

しかし、その判断を下す前に、まずは空気の正体を見極めることから始めよう、ということです。

 

今こそ空気の研究を読むべき理由

この山本の動機は現代の私たちにとってもとても重要な意味があります。その理由のひとつは、ネット社会の発達による情報の氾濫の中に私たちがさらされていることです。

 

ご存知の通り、ここ数年フェイクニュースという言葉が世界で注目を集めています。

フェイクニュースとは虚偽の情報を元に作られた偽情報のことですが、現在の情報過多の社会では一人ひとりの人間が一つ一つの情報のソースまで遡って調べることは不可能です。どうしても

「詳しくは知らないけど、どうもXXXらしい。」

「よく分からないけど、メディアにも書いてあるし、周りの人もそういってるから本当なんだろう」

という伝聞と推測による思い込みが増えてしまいます。

これこそが山本が言う「空気」です。

そしてこれが進むと、その空気に逆らうことが自分の不利益になるため、本当はちょっとおかしいと思っていても空気に同調せざるを得なくなる。こうして空気の支配が完成するわけです。

すわなち現代のような情報過多社会こそ空気の支配が進みやすい時代と言えます。近代化が生んだ情報社会が空気の力を強くする・・・。この矛盾した社会で物事を冷静に判断し、より良い選択肢を選んでいくためにも、この「空気の研究」は改めて読み解かれる意義がある名著です。

 

なぜ空気は生まれるのか

この問いを考えるために、山本は「空気が発生する時の状態を調べ、その基本図式を検証してみるのが最良だ」と考えます。つまり空気が発生する条件を探ろうというわけです。

そして、山本が空気が発生する時の条件として着目するのが

「臨在的把握」

「情況倫理」

という概念です。

うーん、何やら難しい表現ですねぇ。ですが、これらは山本の議論を理解するうえで非常に重要なキーワードとなりますので、ちょっと詳しくみてみます。

 

臨在的把握

臨在的把握①ー臨在的把握とは何かー

言葉は難しいのですが、実は言っていること自体は難しい話ではありません。

「臨」とは「臨む (のぞむ)」という意味。今から試合が始まるぞ!みたいな時に「臨戦態勢」という言葉を使いますよね。あの「臨」です。臨戦とは「戦いに臨む」ということ、つまり「戦う」という行為にすぐそばで向かい合っている状態です。

「在」とは「存在」のこと。「存在感がある」とか言いますよね。あの「在」です。

そして「把握」とは物事の内容を理解することです。

 

したがって、臨在的把握とは「ある存在に向きあっているように、その存在を把握すること」という意味になります。

この臨在的把握の具体例として山本が挙げているのが、実際にあったイスラエルでの発掘調査での出来事です。

 

イスラエルの古代の墓地を日本人調査団が調べていたところ、人骨や髑髏などが出てきました。大量だったので、現地のユダヤ人と日本人の調査団で移動させていたのですが、一週間ほどするとなぜか日本人だけが体調が悪くなってしまった。ユダヤ人は何ともないのに。

そして作業が終わると、調子を崩した日本人もケロリと治ってしまったそうなのです。実はこれが臨在的把握によるものだそう。

ユダヤ人にとっては人骨はただの骨であり、物質であり、そこには何も意味がありません。しかし、日本人はその人骨という物質に何かの意味を感じ取り 、その大量の人骨が生み出す”空気”に飲まれて体調を崩してしまったのです。これは日本人ならほとんどの人が想像がつくのではないでしょうか。

たとえば、日本では墓地の近くの土地にはなかなか民家が建たないようですが、それも「何か気持ち悪い」という感覚があるからでしょう。

 

つまり、人骨という存在に、向きあった(臨んだ)ことで、その背後にある”何か”を感じ取った (把握した)、あるいは人骨の背後に何か物質を超越した存在を感じ取った結果、日本人の調査団は体調を崩してしまったのです。

この臨在的把握、つまりそれ自体は何者でもない物事に対して特別な意味を見出して、まるでその意味が本当に存在しているかのように理解してしまう・・・このことが空気を生みだす端緒となる。今風の言葉で言えば、何かの存在に対して人が勝手に”忖度”をして「こうあるべきだ。」「こういう風にしてほしいに違いない。」という空気を作り出してしまうというところでしょうか。

これが山本の分析です。

 

臨在的把握②ー西洋では空気が発生しない理由ー

ただ、この「臨在的把握が空気を作り出す」という話には一つ問題があります。

それは「だったら、なぜ日本人しか空気を作り出さないのか? (と思われているか?)」ということです。

たとえばキリスト教で十字架や聖書が神聖視されるように、日本以外の文化でも何かの物に神秘性を感じるという感覚自体はあります。空気自体が発生しないわけではない。しかし、日本の”空気”のようにその”神秘性を感じさせる何か”を絶対視するほど強力な拘束力を持つことはありません。日本のように「暗黙のルールに逆らったら村八分になる」みたいなことはない訳です。

だとしたら日本人と西洋で何が違うのでしょうか? 

 

ここで山本は面白い考え方を提示します。

それは一神教多神教の違いによるものだ、という考えです。

 

臨在的把握③ー多神教という要因ー

西洋社会で主流な宗教と言えばキリスト教であり、キリスト教は唯一絶対の神がいる一神教です。

一方日本は多神教の国。「自分は無宗教だ」という人も多いでしょうが、正月には神社に初詣をし、神社にいくつもある社や岩に紙が宿っていると言われれば手を合わせ、果てはトイレにも神様がいると公言する日本人は圧倒的に多神教の国であると言って差し支えないでしょう。

この一神教多神教の違いが、日本に特異な空気の支配を生む原因だと山本は言います。なぜでしょうか?

 

キリスト教イスラム教のような一神教では唯一絶対の存在は「神」のみです。神以外の存在は絶対ではありません。したがって、仮に空気が発生したとしても、それが神ではない以上、日本のように絶対視されることはない。必ず相対的な物としてみなされるのです。

相対的なものとしてみなされるとは、「お前はそうやって言うけど、お前は神じゃないのだから絶対ではない。それはお前の考えだろ?」となるという意味です。

つまり一神教では神以外のすべてが相対化されて捉えられるために、日本のような空気絶対主義にはならない。これが山本の主張です。

 

情況倫理 

情況倫理①ー情況倫理とは何か ー

さて、次のキーワードは「情況倫理」です。

何だかこれも難しそうな用語ですが、実はこれもそんなにややこしい話ではありません。これを理解するポイントは”状況”ではなく”情況”という言葉を使うところ。

よく言われる「状況」とは、その時々の場の有り様を指す言葉です。しかし、「情況」となると同じ”場の有り様”を示す言葉でも、そこに関わる人たちの思いや価値観を含めたものになります。

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情況倫理②ー日本型情況倫理と西洋型固定倫理

さて、普通「倫理」と言えば、どのような状況であっても変わらない”人としてあるべき道”であると考えられるのが一般的です。山本はこれを固定倫理と言っており、主に西洋的な倫理だと考えられています。しかし、日本の場合その倫理が「その場その場の情況に応じて変わる」のです。

たとえば同じ盗みを働いたとしても、「遊ぶ金欲しさ」だったら厳しく罰せられるし世間の目も厳しくなります。しかし、「親から捨てられて、その日食うお金もなかった」という理由だったら、世間からも情状酌量されます。同じ”盗み”という罪であっても、犯罪を犯した”情況”によって評価が変わる。だから”情況”倫理という訳です。

 

情況倫理③ー言語に表れる日本の独自性ー

このような日本型の情況倫理が生まれる原因として、言語に現れる一神教多神教の違いを紹介しておきたいと思います。これは山本の主張ではないのですが、日本で情況倫理が生まれる理由を考える上で意義があると思います。

 

一神教と言えばキリスト教

キリスト教と言えば西洋。

西洋と言えば英語。

という訳で、かなり強引ですが(笑)、分かりやすいので英語を例にとって考えます (本当はラテン語で考えるのが正しいのでしょうが、ラテン語の知識が乏しいので・・・)。

 

英語の場合、一人称は必ず「I (アイ)」になります。誰と話をする時でも「I」。これはドイツ語、フランス語、イタリア語など他のヨーロッパ系言語は同じです。

しかし、日本語の場合は相手との関係性や情況によって一人称が変化します。「わたし」「俺」「僕」もそうですが、子供に話しかける時は「パパはね」「ママは」とも言いますし、公式な場では「当方」「わたくし」「自分」などにも変化します。

ここには、日本語とは相手と自分がどのような関係性にあるかによって、自分が何者であるかの定義が変わるのであり、一神教のような「いついかなる時も変わらない自分」というものは存在しないという世界観が表れています。

つまり、私たち日本人はあらゆる状況において瞬時にその場の空気を読み取り、自分自身の存在を規定するという感覚が無意識の奥にまで染み付いているのです。

 

この日本語の特性については、こちらの本を参考にさせて頂きました。これもとても読みやすく、面白いのでよろしければ是非。

本当に日本人は流されやすいのか (角川新書)
 

 

 

「臨在的把握+情況倫理」のコンボがやばい。

このように日本においては、何かの物事を判断する時に常に情況が汲み取られることになります。そして、その情況に応じてさまざまな物事が判断される。この情況というのは、単なる物事の流れという以上に、そこに関わった人たちの感情や思いを重視したものです。したがって、情況を汲み取るということは必然的にその対象に感情移入することになります。

この「情況倫理」と先程述べた「臨在的把握」と合体すると、どうなるでしょうか?

何かについて考える時に、それが置かれた情況を汲み取った結果、特定の対象物の背後に特別な意味を勝手に読み取り、そこに感情移入をしてしまう。一旦感情移入してしまうと、科学的な分析や論証をいくら示されても冷静な判断ができず、自分の感情が信じた結論から離れられなくなってしまう。

つまり、特定の対象物が生み出した空気 (これも自分が勝手に忖度したものですが)に囚われ、思考を拘束されてしまうのです。

 

この「対象物を論理や科学的分析ではなく感情で判断してしまう」というのは非常にややこしい問題を引き起こします。

男女の恋愛感情のもつれを考えると分かりやすいのですが、いさかいが感情レベルの物になってしまうと、どれだけ「自分が正しく、あなたが間違っている」と”論証”したところで、相手は聞く耳を持ってくれませんよね。むしろ論破した方が逆に怒りを倍増させることになることは、多くの人が経験していることでしょう。

 

このように情況倫理と臨在的把握がドッキングして思考が囚われると、外部からの科学的な力で説き伏せることはほぼ不可能なのです。これが「空気の支配」が危険な理由です。

 

空気の支配を防ぐ知恵

このように非常に危険な状態を招く空気ですが、無意識の内に自分と相手の関係性を規定し言葉を選んでしまう日本人にとっては、これから逃れるのは非常に困難です。では、日本人にはもう何ともしようがないのか? 空気の支配は日本社会では必然なのか? と言えば、そんなことはありません。

この空気という”妖怪”から自分たちを守るために、日本人は偉大な知恵を発明していました。それが「水を差す」という対処法です。山本はこの「水を差す」という行為を行えるような情況を常に作っておくことが大事だと言います。

 

日本人が空気を読んでしまうのはもう無意識のレベルに染み付いた習性のようなもので、これを事前に防ぐのは不可能です。しかし、それが誰も逆らえない”支配”のレベルに及ぶ前にストップをかけることは可能です。それが水を差すという行為なのです。

※ここまで書くタイミングがありませんでしたが、山本は「空気の発生それ自体が悪いことだ」と言っている訳ではありません。空気を読むことで円滑にコミュニケーションが取れることもあり、だからこそ一々指図をせずとも皆がスムーズに動けるということもある。あくまで空気による”支配”が起こると危険だという話です。

 

「水を差す」とは何か?

改めて「水を差す」とはどういうことでしょうか?

それを説明するために山本は次のような例を挙げます。

 

山本は山本書店という書店を経営していたので、周りには出版に関わる人が大勢いたようです。そういう人が集まると、みんな独立して自分が出したい本を出版したいという話になるのだそう。

そんな話をしている内にみんなヒートアップして、「いつまでもサラリーマンじゃつまらない、独立して共同で始めるか」ということになり、話がエスカレートしていく。けれど、話が具体的になってくると誰かがこういうのだそうです。

「先立つものが無いなぁ」と。

 

山本はこう言います。

一瞬でその場の「空気」は崩壊する。これが一種の「水」であり、そして「水」は、原則的にいえば、すべてこれなのである。(中略)その一言で、人は再び、各人の日々、すなわち自己の「通常性」に帰っていく。

通常性とは現実、あるいは現実とのつながりに立った考え方をするということ。つまり「水を差す」には現実に立脚した視点が欠かせません。もしこの現実とのつながりを忘れてしまえば、この水が差せなくなる。すなわち空気がすべての人の思考を拘束してしまい、空気が全てを決定してしまう。したがって、空気の支配を防ぐには常にこの「通常性」「現実とのつながり」を確保しておくことが非常に重要になるのです。

 

「水」にも弱点はある

空気の支配を防ぐのに重要な「水」ですが、この水にも弱点はあります。それはこの水もまたすぐに新しい「空気」になってしまうということです。

さっきの出版業界の人たちの例で説明しましょう。

 

最初みんなは「サラリーマンなんてやってても仕方ないぜ!みんなで独立しよう!」「そうだそうだ!」と盛り上がって"独立機運"という空気が充満していました。それが「とは言え、金が無いなー」という現実的な一言で水を差されました。一気に意気消沈したわけですね。

そうなると逆に「結局金がない俺たちに独立なんかできないだよ。あ〜あ…」という"空気"に一瞬で切り替わってしまうのです。

膨れ上がった空気にせっかく水が差されたのに、その水が全く逆の空気を生み出したという訳です。

 

空気の支配を防ぐための水が新たな空気を作る。そしてまた新たな水が差される…この堂々巡りが延々と繰り返されるわけです。

 

空気の支配を防ぐためにやるべきこと

ここまで見てきたように、空気の支配を防ぐためには、現実とのつながりを維持し続ける通常性という「水」が重要です。しかし、その水はすぐに新たな空気を生む。したがって我々は常に空気の支配の危険にさらされて生きている訳です。

では結局、我々はその空気と水の間で漂うことしかできないのでしょうか?

これに対する山本の言葉を引用しましょう。

それから脱却しうる唯一の道は、前述のあらゆる拘束を自らの意思で断ち切った「思考の自由」と、それに基づく模索だけである。まず"空気"から脱却し、通常性的規範から脱し、「自由」になること。この結論は、だれが「思わず笑い出そう」と、それしかない。

(P169)

自分の思考や周りの人々を縛る情況や倫理、思い込みなどあらゆる空気から放たれて自分の頭で考える。「ここまで長々と語ってきて、答えはそんなことかよ(笑)」と笑われようと(=水を差されようと)、我々にできることはそれしかない。

 

そして山本はさらにこう続けます。

そして、それを行いうる前提は、一体全体、自分の精神を拘束しているものが何なのか、それを徹底的に研究することであり、すべてはここに始まる。

 

日本という社会において空気の発生を防ぐことはできない (空気の発生自体は悪いことではなく、それ良い方向に働くこともある)。しかし、空気による支配は防ぐことができる。そのために大切なのは、我々一人一人が空気に縛られない自由な思考を心がけること。そして空気とは何なのかを徹底的に考えることである。

これが山本が出した答えであり、後世の私たちに伝えたいメッセージであると言えるでしょう。

 

締めの一言。

というわけで、非常に長文になってしまってしまいましたが、山本七平著「空気の研究」をご紹介しました。 ここまでお読み頂いた方、本当にありがとうございました。

 

実を言うと、最初はもっと簡潔に「この本面白いですよー」という感じでレビューを書こうと思っていたのです。ただ、他の方のレビューを見ると、山本の主張のほんの上澄みしか触れられていなかったり、全く違うことを書いてあったり、ひどい物になると自分の主張を通すためにかなり捻じ曲げられて書かれている物さえあるように感じました。※個人の感想です。

「なんで山本の本を読んでこういう結論になるのかさっぱり分からない。山本七平はそんなこと書いてないのになぁ。」という感じ。

 

 

だったら、どんなに長文になろうとも私ができる限りで詳しく、分かりやすく、少しでもこの本の魅力が伝わるように書き切ろう!と思って、今回のレビューを書いたのです。また、山本が言っていることについては、私も疑問を感じるところ、反論したいところがあるのですが、できるだけそう言った要素は省いたつもりです。

 

内容自体のレベルの高さもそうですが、山本独特の言い回しや、同じことを別の言い方で何度も書く、みたいな所があって、読み解くのはかなり難易度が高いと思います。しかし、内容としては非常に面白く、なおかつ情報過多の現代においては多くの人に読まれるべき名著であることは間違いありません。

私の今回の投稿を読んでいただいて、少しでも多くの人が本に触れ、少しでも理解しやすくなれば、これ以上の幸せはありません。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございました!

*1:※「情況」と「状況」の違いについては諸説あるようですが、山本は明らかにこのような意味合いで使っています。

政治家に人柄など不要!日本人はどこまで馬鹿にされれば気が済むのか?

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ご存じの通り2020年9月17日に菅内閣が発足しました。

これを受けて早速各メディアが世論調査を行い菅内閣の支持率を発表。例えば日経新聞では、支持率74%、発足時歴代3位と報じています。

私はこの報道を耳にした時、愕然としました。

支持率の高さもそうなのですが、その一番の理由が「人柄」だそうです・・・。

人柄とは別の言葉で言えば人格、人間性ということですが、いったい日本国民のうちの何人が人柄を判断できるほど菅総理個人を直接知っているのでしょうか?

家族や友人・・・せめて同じ会社に勤めている人ならまだしも、国民の99%が政治とは無関係の世界で暮らしているにも関わらず、「人柄」で支持をするとは全く意味が不明です。そもそも世論調査でこんな項目を設定していることがおかしい。

 

図らずも15世紀に活躍した政治思想家ニコロ・マキャベッリは、その著書「君主論」の中でこう言っています。

総じて人間は、手にとって触れるよりも、目で見たことだけで判断してしまう。なぜなら、見るのは誰にでもできるが、直に触れるのは少数の人にしか許されないからだ。

(中略)

大衆はつねに、外見だけを見て、また出来事の結果で判断してしまうものだ。しかも、世の中にいるのは大衆ばかりだ。

 まったくその通りで、ぐうの音も出ません。

もちろん私も菅総理の人柄はこれっぽっちも知りません。というか興味もありません。菅総理の人柄などどうでも良いです。私の人生には何の関係もありません。

 

私はそもそも政治家に人柄の良さなどは不要と思っています。

(もちろん、人の人生を貶めるような倫理的許されない行為をすれば駄目に決まっていますが)

どれほどあくどい手段を使ったとしても、そこに「国民のために」という理想があるのであれば仕方ない。残念ながらそれが政治家というもの。再びマキャヴェッリの言葉を借りれば

慈悲深さゆえに臣下に反乱を許し国を混乱させる君主と、残酷さゆえに国の平穏を保つ君主。真に慈悲深いのはどちらかね?

マキャヴェッリ君主論講談社まんが学術文庫 P175

 

国を維持するためには、信義に反したり、慈悲に背いたり、人間味を失ったり、宗教に背く行為をも、たびたびやらねばならないことを、あなたは知っておいてほしい。

マキャヴェリ君主論」中公クラシックス P135

なのです。

では、政治家に人格が求められないなら何でもやって良いのか? ですが、それはYesでもありNoでもあります。

 

判断の基準は

「国民のため」という理念があるかどうか

です。

この場合の国民とは必ずしも今この日本で暮らしている人たちだけを指すものではありません。今の日本ができあがるまでに尽力した過去の人たち、これからの日本を担う将来の人たち、そしてその交点となる現代に生きる私たちのことです。

 

そしてもう一つ重要なのは

 国家元首が誤った時、誤ろうとした時に止める制度が整備されているか

です。

どれほど優れた人物であろうとも必ず人は誤ります。どんな状況でも100点満点の判断を下すことなどできるはずがありません。肝心なのは誤った行動を起こした時、あるいは起こそうとした時に、それを防ぐ制度がちゃんと整備されているかどうかです。

 

では、菅総理はどうなのか?

ここまでの菅総理の発言から考えるに、どちらの点においても非常に危ういとしか考えられません。その理由を2つの点から考えてみたいと思います。

 

菅総理が危うい理由① 経済政策

菅総理は総裁選挙時から中小企業の統合・再編を促す考えを示しており、「足腰を強くしないと立ち行かなくなってしまう」とも発言しています (日経新聞2020年9月15日)。


中小企業の再編とは要するに・・

中小企業の統合や再編というとボヤっとしていますが、要するに「企業体力のない中小企業は潰す、あるいは強いところに吸収させるように促す」ということです。日本には中小企業は約358万社あり、企業全体の99.7%を占めます。そのほとんどを”ふるいにかける”ということです。

中小企業を潰す、あるいは強い企業に吸収させたとして、元の企業に勤めていた人たちは果たしてまともに再就職ができるのでしょうか? これからコロナ恐慌が増す中で、そんなことは実現不可能でしょう。多くの人が確実に露頭に迷うことになります。

 

競争力強化とは価格競争強化である

また「グローバル市場における日本経済の競争力強化に政策の照準を定める。」などと言っていますが、そもそもグローバル市場における競争力とは何でしょうか?

これはズバリ”海外市場でも通用するように価格を下げる”ということです。よく「価格を下げずに付加価値を上げれば良い」などと言いますが、はっきり言って机上の空論に過ぎません。海外では日本以上に値段にはシビアです。

たとえば299ドルを1ドルでも上回ったらそもそも市場で見向きもされないなんて言うのは当たり前です。499ドルで売れる商品を作って、実際は299ドルで売れるなら話は違うかもしれませんが、319ドルくらいの付加価値のものでは299ドルの市場では見向きもされません。

特に昨今のネット通販全盛の世界では、1ドルでもターゲット価格から外れたらそもそも検索にすら引っ掛からないのですから、よほどの高付加価値商品を作らなければ話になりません。

 

競争力強化とはデフレ促進である

ですから、「グローバルで通用する競争力」というのはイコール「値下げしろ」ってことなのです。

そして、値下げをされれば当然労働者の給料は減ります。

商品の値段が下がり、労働者の給料が下がる・・・それをデフレと言うのです。

結局「グローバルで通用する競争力を高めろ」とは「デフレを促進しろ」と言っているのと同じなのです。

 

そんな中で菅総理は「最低賃金を引き上げろ」などという無茶苦茶を言っているのです。完全に支離滅裂。

もし本当に菅総理最低賃金を引き上げつつ、企業の競争力を高めたいというのであれば、その従業員への給与に関して何かしら政府が保障や補填をしなければなりません。そのための税制改革というのであれば有効でしょう。

ただ、緊縮財政を強力に推し進めたアベノミクスを継承すると言っている菅総理が、そんなことをやるとはとても想像できません。

 

したがって、今までの菅総理の発言を見る限り、現在の国民の生活水準を下げ、それに起因する形で発生する将来世代の所得減少は避けられない可能性が非常に高いです。

これの一体どこが「国民のため内閣」なのでしょうか?

悪い冗談としか思えません。

 

菅総理が危うい理由② 縦割り打破という名の権力濫用

そして、政治においてもう一つ重要なのが、先ほど書いた国家元首が誤った時、誤ろうとした時に止める制度が整備されているかです。

ところがこれについても菅総理はかなり危険は発言をしています。

自民党総裁選で優位に立つ菅義偉官房長官は13日のフジテレビ番組で、政府が政策を決めた後も反対する官僚は異動させる方針を示した。「私ども(政治家は)選挙で選ばれている。何をやるという方向を決定したのに、反対するのであれば異動してもらう」と述べた。

 何という横暴でしょうか。

たしかに政治家は国政選挙によって選ばれています。小選挙区制、比例代表制には「本当に国民の意思を代弁していると言える選挙制度か?」という疑念はありますが、まぁ一旦横に置いておきましょう。

 

しかし、政治家が国民から選ばれていると言っても、「だから政治家は間違わない」ということにはなりません。当たり前です。

国民だって間違えるし、いわゆるポピュリスト的な政治家によって扇動された国民が誤った選択をする時だってある。

だとしたら、組織としては当然誤った政策を見直し現実的な方向へ導いていく安全弁が必要になります。それにはさまざまな組織があると思いますが、官僚組織もその一つでしょう。

菅総理のみならず、小泉元総理、安倍元総理も「縦割り行政の打破」などという言葉を使いますが、「縦割り」とはそもそも何なのでしょうか? 「縦割り」と言えば何か悪いものだというイメージだけが先行していますが、この縦割りについて正確に定義している人をあまり見たことがありません。

 

縦割りとは農林水産や工業、福利厚生などさまざまな分野において専門的に扱う官僚組織のことを指しているのだと思われます。それ自体は何も悪いことではありません。ただの組織形態の名称ですから。縦割り組織=悪みたいなイメージが浸透していますが、各分野に精通する組織であるということは、その分野での問題点や今後どうすべかという課題も一番理解している人たちだということです。現在のように多種多様な問題が世界を取り巻く時勢では、そのような専門家の知見をうまく利用することが重要なはずです。

 

たしかに、組織が肥大化すれば、指揮系統が複雑になり、確認事項も増え、物事を進めるスピードが遅くなるのは事実です。それが弊害を生むことがあるのも事実でしょう。しかし、縦割りの官僚制度がうまく回っていないという問題があるとすれば、それは組織そのものの問題というよりも”運用の問題”のはずです。

どのように官僚組織を運用していくのが国民のためになるかを考えるのが政治家であって、「言うことを聞かなければ排除する」というのは、非常に稚拙な考え方であるし、権力の乱用以外の何物でもありません。

 

ましてや、「縦割り110番」などという小学生が思いついたような愚策を、これぞとばかりに喧伝するとは・・・政治家の知性もここまで堕落したかと嘆息せざるを得ません。

 

菅総理が考えていること

事細かく取り上げればきりがありませんが、ここまで見ただけでも十分でしょう。

菅総理は「国民のため」などこれっぽっちも考えていません。百歩譲って好意的に考えたとしても「国民とはだれのことか」を考えていないのでしょう。過去の日本を築いてきた国民のことも、将来日本を築いていく国民のことも考えていない。

だからコロナ恐慌でボロボロになっている現状で「将来的に消費増税もありえる」などということが言えてしまうのです。

 

それにも関わらず菅内閣の支持率74%!歴代三位!

その理由は人柄!

は~~~、何なんでしょうね一体。日本人はどうなってしまったのでしょう。

どれだけ国民を苦しめる政策を行い、権力の乱用を示唆する言葉を述べても

「東北出身で、苦労人らしいから良い人なんだろう。」

その程度で70%以上の人が支持しちゃう・・・・。

 

 

最後に、菅総理大臣やその側近が現在考えていることをズバリ言い当ててみましょう。

それは

 

日本国民はマジでチョロいwwアホばっかww

やっぱりこんなアホどもは俺たち導いてやらないと駄目だわwww

 

ということです。

 

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m

どうしてあなたの話は聞いてもらえないのか 〜論理より大事な◯◯感〜

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「同じ内容を言っているのに、自分が言うより他の人が言った方が周りが納得してくれる。」

みなさんはこんな経験がないでしょうか?

私はしょっちゅうあります(笑)!

 

会議の場で自分が提案した時は誰も反応しなかったのに、別の人が提案すると「なるほどねー。それ良いね。」と言われて、その人が提案したことになってしまう。「さっき私も同じこと言ったんだけどね・・・」とがっかり感半分、怒り半分という気持ちでいっぱいになる。

 

 

そんな私はある時、会社の先輩に相談した時にこう言われました。

「うーん・・・あなたの言い方はカクカクしているんだよね」と。

カクカクしている??

どういうこと??

言い方がキツイということか?? 横文字が多いっていうこと?? 

それ以来、私はずっと心のどこかでこの”カクカクしている”というのが何なのかが分からずモヤモヤが募るばかり・・・。

 

 

ところが。

これがなんと。

ついに!

 

そんな悩みを解消するヒントがいっぱいの素晴らしい本に出会ってしまいました。

これはもう私だけでなく

 

・自分の気持ちや考えをうまく伝えられず悩んでいる

・友達や仲間同士の一体感を高めるにはどうしたら良いか悩んでいる

・他の人との距離を縮めたいけど、どう声をかければ良いか分からない

 

そんな"人とのコミュニケーションの取り方"について悩んでいる人には、きっと役に立つと思います。ぜひご紹介したい!

という訳で、その本がこちらです!

 

 黒川伊保子 著 「ことばのトリセツ」

ことばのトリセツ (インターナショナル新書)

ことばのトリセツ (インターナショナル新書)

 

言葉にまつわる悩みや課題を抱えている人にとっては、一読の価値があるのは間違いありません。この本に書いてあることを知っておくだけで、あなたの言葉遣いがレベルアップするかも??です!

 

著者紹介

著者の黒川伊保子さんは人工知能研究者であり、作家。

黒川さんの「妻のトリセツ」「夫のトリセツ」と言えば、書店で見かけた人も多いのではないでしょうか。私もてっきり本業が作家なのかと思っていましたが、本職は人工知能の研究者でありバリバリの”理系”。

「ことば」という文系の代表とも言える分野をなぜ理系の研究者が? と疑問に思いますが、人工知能に人間らしい会話をさせるというミッションのために言語を研究した結果だとのこと。そして、この本はその研究の集大成だということです。

 

正直この本の紹介を読んだ時は「研究者としての集大成が”新書”ってどうなのよ?」と思いました・・・。新書をバカにしている訳ではないのですが、新書というのは基本的に一般の人に分かりやすく書くもの。それが研究者としての集大成と言われると、ちょっと信じられないし、「売るための手法か?」と勘ぐってしまいました。

ところがどっこい。

なかなか面白い。

っていうかめっちゃ面白い(笑)。読みやすい上に奥が深い。もっと言葉について知りたくなる。そんな魅力が詰まった一冊です。

 

なぜ「でも」「だって」を使ってはいけないか?

ビジネスの世界で半ば禁句と言われるのが

「でも」

「だって」

などの否定語です。

なぜなら、その後に続く言葉が言い訳になるからです。

ビジネスでは結果が全て。どんな結果になろうとも言い訳するのは、建設的な話につながりません。

とは言え人間ですから言い訳したくなる時もあります。実際、避けられない事故だったり、自分も被害者だったりすんわけですから。そんな時に「言い訳をしちゃいけない…」と、"でも"や"だって"を飲み込むのは本当にストレスです。

 

著者もそんな「でも」「だって」は使わないことを推奨しているのですが、その理由が面白い。いわく「Dの接続詞は(中略) 自分のみならず、周囲の人の意欲にもブレーキをかける」のだそうです。

 

「会話はキャッチボールだ」とはよく言われます。

ただ、そう言われる時は「キャッチボールは相手の言いたいことをちゃんと受け止めて、返す時も相手が取りやすいように投げなくちゃいけない。」という意味で使われるのが一般的です。

しかし、”Dの接続詞」を使うと会話が止まる説”に立って考えれば、「でも」「だって」を使うと会話のリズムが悪くなると考えることもできます。どんなに正確なボールを投げても、リズムが悪いとキャチボールはうまく行きません。リズムが悪いとお互いストレスになるだけ。

そう考えると、「でも」「だって」を使わないのは”言い訳をしないため”ではない。お互いリズムよく会話をするために使わない方が良いということになります。リズムが良いと盛り上がるし、前向きな話がしやすくなる。

人間がストレスを感じるのは、自分でコントロールできないことが生じた時 (=我慢しなくてはならない時) だそうです。だったら、「言い訳をしないために”でも”、”だって”を我慢する」よりも「会話リズムよく進めるための言葉選びをする」と考えた方がストレスが少ない気がしませんか?

 

言葉の”音”が持つイメージ

さて、そこで疑問に感じるのは「なぜ”D音はブレーキ”」と言った感覚が生まれるのか? です。

これと関係するのが「音象徴(おんしょうちょう)」と呼ばれる概念です。

音象徴とは、言葉を発する時に生じる音その物が特定のイメージを人間に生じさせるという事象のこと。簡単に言えば、言葉というのは辞書的な意味だけではなくて、音その物にも意味を持っているため、その言葉の音を聞くだけで私たちは何かしらのイメージを感じとることができるということです。

たとえば、グリコはP音 (ぱぴぷぺぽ) を商品名にすると売れるというジンクスがあるそうです。チョコレートの「ポッキー」がP音が含まれますね。ポッキーがこの名前になった理由も、”ポッキン”というポッキーが折れる時の音の響きをモチーフにしたそうです。ポッキンもそうですが、ポッキーも何だか軽やかで、手軽に食べられそうなポップな響きがありますよね。これも音象徴のひとつでしょう。

 

ブーバキキ効果

この音象徴という現象を説明するのによく引き合いに出されるのが、「ブーバキキ効果」と言われるものです。このブーバキキ効果とは何なのでしょうか?

まずは下の写真を見てください。

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これら2つの図形は、一方には「ブーバ」、もう一方には「キキ」という名前が付いています。さて、あなたはどちらが「ブーバ」で、どちらが「キキ」だと思いますか?

 

 

答えはどちらでも良いです。あなたが「ブーバ」「キキ」からどのようなイメージを連想するかをみるための実験なのです。

この実験はドイツの心理学者ケーラーによって紹介されたもので、ほとんどの人は右の図形を「ブーバ」,左を「キキ」と思うようです。日本人だけではなく、世界の多くの国の被験者で同じ反応が見られるとのこと。

つまり、ほとんどの言語において「ブーバ」という言葉は曲線的イメージを連想させ、「キキ」という言葉は尖った鋭角なイメージを連想させるのです。これをブーバキキ効果と言います。

このような現象が起こる原因は、発音する時の口の動きと実際の音情報を処理する部分が一部重なっているからというのが有力な説のようです。著者によるとそれは「小脳」が深く関係しているとのことです。

 

音とイメージをつなぐ脳のはたらき

「小脳」は身体を動かす時の制御する機能、目・耳などから得た知覚情報を統合する機能、そして感情や空間認識力に関係する器官だと言われています。言わば、私たちの意識には上がってこないけれど、無意識下で身体や感情をコントロールする機能を担っていると言えます。
私たちが言葉を発する時は、当然横隔膜によって肺の中の空気を喉や口まで送り出し、口や舌、そして口腔 (口の中)の形をコントロールしています。これらも小脳の働きです。つまり、声を出す時の口腔や舌の形のイメージと、耳や目から得た知覚情報のイメージが同じ小脳の働きによって無意識下でリンクするということです。

したがって、私たちが言葉を聞き取る時は、その辞書的な意味だけではなく、音そのものが持つイメージと合わせた総合的な印象として、その言葉認識することになります。

 

先程「Dの接続詞は自分のみならず、周囲の人の意欲にもブレーキをかける」と書きました。これも著者によると

Dは、舌の歯列いっぱいに舌を膨らませつつ、細かい振動をかけて発音する。どっしりとした感覚が下あごに伝わり、身体全体に広がる。馬を「どうどう」と言って落ち着かせるのは、乗り手の身体がどっしりと落ち着き、ブレーキになるからだ。

(中略)

気がはやって、緊張してしすぎている人を立ち止まらせ、落ち着かせるのに、D音ほど聞く発音体感はない。

※本書P76

ということなのだそうだ。 

 

論理は人には届かない

さて、ここまで言葉とは辞書的な意味だけではなく、音のイメージという情報も伴ったものであるということを書いてきました。

それを受けて考えると、人に何かを伝える時に重要なのは音が与える印象、つまり語感が持つイメージを汲み取って言葉を選ぶということではないでしょうか。

もちろん話す内容の論理性というのも重要だとは思います。しかし、そもそも人間が何かの刺激を認知する時の流れというのは

 

外部からの刺激が目や耳などの感覚器官を通じて認知される

食欲、性欲などの生理的欲求や感情を司る大脳辺縁系に刺激が入る

論理的思考を司る大脳新皮質へ伝わる

 

という流れになっています。

つまり外部からの刺激や情報は、まず感情を司る部分に入り、その後論理的思考を司る部分に伝わるわけです。よく人を納得させるための論理的な話し方を解説するような記事や本がありますが、実は人間の意思決定は基本的には感情で行われており、論理はその感情を追認しているだけとも言われているのです。

もちろん、人間はすべて感情で動くわけではありませんし、論理的に考えることで感情に基づく意思決定が後で覆ることも十分あります。ただ、”逆もまた真なり”でどれだけ論理的な話をしても語感が悪い言葉を羅列すると話している内容が全く相手に届かないということもあり得るわけです。感情を阻害せずスムーズに訴えかける言葉選びをすれば、より緊密なコミュニケーションが取れる可能性がグッと高くなる!というわけですね。

 

人の心を動かす”ことばのトリセツ”

では、どういった言葉選びをすれば良いのか?

それはぜひこちらの黒川伊保子さんの本をお読みください(笑)。

焦らしてるわけでもないのですが、黒川さんの文章が分かりやすくて、読みやすい。なおかつ奥が深いってことで読んでみるのが一番なんですよ。

とは言え、です。

せっかく皆さんここまで読んでくださったので、私が気に入った話をひとつだけご紹介します。

それは相手と親密になりたいのだったら、訓読みの言葉を多用した方が良いという話。訓読みとはいわゆる大和言葉ですね。

同じ感謝の表現でも「感謝いたします」よりも、「ありがとうございます」の方が言葉が柔らかくて親密感が出ます。これは訓読みで多用される母音が持つ効果なのだそうです。

だから、誰かと話をする時に親密感を増したいなら、「あ〜、そうなんだ」「へー、いいねー」など、母音が多い言葉で相づち打つと良いらしいです。

ほ〜、なるほどね!(←こんな感じ(笑))

 

もちろんこれ以外にも、人を労う時の言葉の使い方や異性との距離を縮めたい時の言葉使いなど、様々なシチュエーションで言葉を発する際にとても参考になる話題がてんこ盛りです。

また、そういったハウツー的な内容だけでなく、日本語という言葉がどのように私たちの感情や文化に関わっているかといった言葉の深淵に迫る内容も豊富。それがすべて分かりやすい、平易な書き方で説明されています。

あなたの知らない「ことば」の世界がきっと開けると思います!

 

という訳で今回はこちらの本、 黒川伊保子 著 「ことばのトリセツ」のご紹介でした〜m(__)m

 

 

ことばのトリセツ (インターナショナル新書)

ことばのトリセツ (インターナショナル新書)

 

桜が美しいと思うなら9月入学は止めておけ〜9月入学の危険性〜

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新型コロナウイルスが流行り始めたころ話題になったものに、「9月入学制度への移行」という話があります。

私はこの9月入学制度への移行には懐疑的です。なぜなら4月入学という学制は単なる「教育年度の区切り」ではなく、子供と社会を結ぶつながりや、日本に住む人々の絆や連帯感の根本に関わる話だと思うからです。

タイムスケジュールの都合で2020年に関しては、この9月入学への移行はうやむやになってしまいました。ですが、新型コロナウイルス騒動が落ち着いた頃に、また議論が活発化すると思われます。

そこで今回はこのような議論が再燃する前になぜ拙速に9月入学を採用してはならないのか、そして「入学時期」が私たちの文化や伝統と深い関係性があることについても考えてみたいと思います。

 

なぜ9月入学の議論が起こるのか

今年議論になった9月入学への以降について言えば、事の発端はコロナ禍での非常事態宣言により、子供の学習時間が十分に確保できなくなるという懸念が生まれたことです。

しかし、この9月入学制度への移行という話自体は、それ以前からずっと議論を呼んでいることでした。

この議論の出どころは主に2つあって、一つは経済界からよく出てくる要望。

その理由を端的に言えば、「9月入学がグローバルスタンダードなのだから、それに合わせろ。そうすれば、欧米の学校に日本人の学生が留学しやすくなるし、海外の学生も呼び込みやすくなり、ビジネスチャンスが広がる。」というものです。

また、もうひとつの出どころは教育界。彼らの主張は昨今の日本の教育の質の低下の原因を、この日本の教育制度がグローバルスタンダードから外れているという説に依拠しています。「グローバルな教育に合わせれば、日本の教育の質は上がるんだ」というやつですね。

英語教育の必修化もその流れで、 現場の教育者というよりも教育ビジネス業界からの要望と言った方が良いかもしれませんが。

 

そもそも9月入学はグローバル・スタンダードなのか?

先程も書いたように、9月入学を推進する人たちが声高に叫ぶ根拠は「それがグローバルスタンダードだからだ」というものです。

ですが、そもそも本当に9月入学がグローバル・スタンダードなのでしょうか?

ニッセイ基礎研究所のレポートによると、下記のようにかなりばらつきがあるようです。

 

1月 シンガポール、マレーシア、バングラデシュ南アフリカ
2月 オーストラリア、ニュージーランド、ブラジル
3月 韓国、アフガニスタン、アルゼンチン、ペルー、チリ
4月 日本、インド、パキスタン
5月 タイ
6月 フィリピン、ミャンマー
7月 米国
8月 スイス、スウェーデンデンマークノルウェーフィンランド、台湾、ヨルダン
9月 英国、アイルランド、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、オランダ、ベルギー、ギリシア、ロシア、カナダ、メキシコ、キューバ、中国、インドネシアベトナム、イラン、トルコ、サウジアラビアエチオピア、ナイジェリア
10月 エジプト、カンボジア

出典: https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=61449&pno=2&more=1?site=nli

 

欧州ではたしかに9月入学の国が多いようですが、アメリカでは州によるものの基本的には7月入学が採用されています。

このように見ると欧州では9月入学が多いものの、グローバル・スタンダードといえるものではありません。

 

130年程度では伝統にならない?

また、4月入学から9月入学に切り替えるべきと主張する人たちの論拠として、「そもそも4月入学も明治時代に定められたもので、江戸時代の寺子屋制度では特段の決まりはなかった。4月入学は日本の伝統でもなんでもない。」という指摘があります。

実際、日本の4月入学制度が始まったのは明治19年。それ以前の寺子屋制度時代ではむしろ家や地域の状況に合わせて自由に出たり入ったりできるのが普通で、特別な決まりがなかったようです。

 ただ、それをもって「伝統でもなんでもないのだから、海外の基準に合わせてしまっても何も問題ない。」と切り捨ててしまうのは、いささか早計ではないでしょうか。

 

明治19年といえば130年以上前。歴史の浅いアメリカで言えば、130年も続いているといえば紛れもない「伝統」だと思いますが、二千年以上の歴史を持つ日本という国で考えれば「130年程度で何を」という考えなのでしょうか(笑)。

冗談はさておき、恐らくそのように主張は、明治期に国家によって人工的に作られたものだから「伝統」とは呼べないという意味なのでしょう。

 

しかし、そういう主張をする人たちは「伝統」とは何なのかを深く考えたことがないのだと思います。伝統とは何も”古いこと”ではありません。古ければ何でも伝統になるわけではありません。古くて長続きしているだけのものは伝統ではありません。

それは「習慣」「慣習」です。

では、伝統とは何なのでしょうか?

 

伝統とは「子や孫に引き継ぐ価値のあること」

 伝統とは何か?を考える上で、非常に参考になるのが「表現者クライテリオン」という雑誌の2020年5月号にて、柴山桂太京都大学准教授が寄稿している「伝統論再考ー創られた伝統論の意義と限界」です。

表現者クライテリオン 2020年5月号

表現者クライテリオン 2020年5月号

  • 作者:藤井聡
  • 発売日: 2020/04/16
  • メディア: 雑誌
 

 この中で柴山氏は"創られた伝統論”の論評をしています。創られた伝統論とはざっくり言うと「伝統なんてものはよくよく調べてみれば、比較的最近作られたり、どこか別の国から持ってきたりしたもので、ほとんどが近代の創作である」という説です。

確かに私達が伝統だと考えているものも、実はそれほど長い歴史を持ったものではなかったということはよくあります。また、時には国家権力によって意図的に生み出されたものもあるでしょう。

「伝統論にとって重要なのは、伝統が創造されたという事実ではなく、その伝統が定着したという事実の方である」(柴山)。

 

また、柴山氏は同寄稿の中でスコットランドの民族衣装キルトで使われることで有名な「タータンチェック」について取り上げています。

タータンチェックスコットランドの伝統的な柄だと認識されていますが、実はベルギーのフランドル地方からの輸入品などから取り入れたもので、純粋にスコットランド伝統のものではないのだそうです。

物によっては古い歴史を持つものもあるそうですが、タータンチェックにも色々なバージョンがあるようで、地方によっては19世紀や20世紀になって創り出されたものもあるのだとか。

 

いわゆる「創り出された伝統」論では、そのような例を出して伝統の価値を貶めることがあるようです。

柴山氏は次のようなスコットランドの氏族長の言葉を引用しながら、そのような「創り出された伝統論」に反論します。

ちょっと長いですが、伝統の本質をとらえた素晴らしい文章だと思いますので、引用させていただきます。

「私のクランタータン (注:タータンチェック柄のこと)は1950年代にデザインされて以来着られています。いわば五十年もののタータンというわけです。歴史としてはとても浅いですが、父も私も、子供たちも来ています。四代目、五代目へと続いていくことでしょう。」

この氏族長は、一族のタータン柄が浅い歴史しか持たないことを自覚している。それでも、子や孫の世代へと受け継いでいかなければならないと考えているここには伝統について考える上で重要な論点がある。

伝統を次の世代に受け渡さなければならないのは、その伝統が長く続いてきたからという事実によるだけではない。次の世代にとっても価値があると思うからこそ、受け渡すのである。言い換えれば、伝統の真価を決めるのは過去への憧憬である以上に、未来への意思ということだ。

伝統は、過去世代にとってだけでなく未来世代にとっても価値あるものだ。今の世代がその価値を認め、次の世代にも引き継いででほしいと願うものーそのようなものこそが、伝統としての力強さを持つ。

表現者クライテリオン 2020年5月号 P174)

 

 伝統とは「伝統だから大事にしなくてはならない」というような押し付けではない。

伝統とは次の世代にも引き継いでほしいという”願い”である。

私はこの”想い”にこそ伝統を大事にすべき本質があると思いますし、だからこそ闇雲に形だけ守ることが伝統を守ることにはならないのだと思います。

 

桜にが象徴する4月入学という伝統

では、4月入学は伝統足りえるのでしょうか?

それを考えるときに私が重要だと思う”あるモノ”があります。

それは「桜」です。

桜は日本人にとってとても重要な意味を持つ花です。旅立ちや別れ、あるいは新しい仲間との出会い。そんな「寂しさ」と「未来へのわくわく感」を内包した不思議な感覚を桜は持たせてくれます。

桜は世界中にありますが、桜を目にした時にそのような感情を抱くのは日本人だけ。しかも老若男女問わずあらゆる世代に共通した感情です。

 

私は「3月卒業・4月入学」という日本の学制は、この感情に非常に強い影響を与えていると思います。

卒業は多くの友人たちとの別れを伴います。それと同時に自分がこれから向かう世界へのわくわく感と言いしれぬ不安感をも引き起こします。だからこそ、この時期に咲く桜という花は、一言では表現できない複雑な感情を凝縮した存在となっているのです。

だかこそ、日本には昔から桜を主題とした歌が数多くあり、ドラマや映画などでも出会いや別れには桜が非常に多く使われるのです。そして、多くの日本人はこの桜 (が持つイメージ)を子どもや孫の世代に伝えていきたい思っているのではないでしょうか。

 

そして、このような感覚こそ先ほど述べた柴山氏が言う「今の世代がその価値を認め、次の世代にも引き継いでほしいと願うもの」・・・すなわち「伝統」だと思います。

桜という花そのものは伝統にはなりえないかもしれない。しかし、それに象徴される複雑な想いは日本の伝統として残していくべきものだと信じます。

 

もし4月入学という学制が崩されてしまったら、このような感覚を世代間で引き継いでいくことは難しくなるのではないでしょうか。数十年後、自分が孫を持った時に「中学校に入学する時に桜がいっぱい咲いていてね」とか「桜の時期は別れの時期だからね~」とか言っても、孫たちには「は? なんで? 桜なんてただの花じゃん。」としか理解されない。

私たちが感じる桜を見上げた時の言いしれぬ感情が、つぎの世代とは共有できなくなる・・・私はそれはとても辛くて、寂しいことだと思います。

だからこそ、そんな未来を招きかねない選択をありもしない「グローバルスタンダード」に合わせるために行うことは、とても賢明とは思えません。

 

グローバル社会以後に求められるもの

さて、そろそろ結びに入ろうと思います。

ここまで私が述べてきたことは、果たして過去に憧憬を抱く感傷に浸るだけのセンチメンタルな感情でしょうか。そして、そのような感傷はこれから激動を迎える世界で日本が生き残るうえで不要なものでしょうか。

そんなことはありません。むしろこれからの激動の時代で日本が生き残るためにこそ重大な意味をもつと思います。

なぜなら、このような私たちが当たり前すぎて有難みを感じなくなった些細な経験こそが、社会のつながりや国民の絆を強くするからです。理屈ではなく、感情で分かり合える、通じ合える、そんな共感があるからこそ、人々はお互いにちからを合わせることができるのではないでしょうか。

 

 

2008年のリーマンショック、英国のEU離脱、トランプ旋風、そして激化する米中貿易戦争。今の社会は確実に脱グローバル化が進んでいます。さらに新型コロナウィルスの感染拡大により、世界中の国が自国を守ることに必死となり、それを隠そうとしていません。この流れがこれからますます激化することは避けられません。

そのような時代において、世代格差や社会格差が拡大し、皆が皆自分の利益しか考えないような国では絶対に生き残ることができません。経済的、社会的に強固な結びつきがますます重要になってきます。

だからこそ、私たちは日々の何気ない出来事の大切さについて、そして現在の自分たちと子や孫たちの絆を作るものは何なのかについて、改めて考えなおす必要があるのではないかと思います。

 

 というわけで・・・・タイトルに書いた通り

 

桜を美しいと思うなら、9月入学は止めておけ。

 

と私は思うわけなのです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(__)m

 

なぜ自動車の覇権争いを知れば未来がわかるのか

 

突然ですが、日本で環境にやさしい車と言えば、どんな車が思いつきますか?

日本で言えば、まず間違いなくプリウスに代表されるHV(ハイブリッド)車でしょう。日産リーフなど一部で電気自動車もありますが、基本的に日本で環境に優しい車とはすなわちHV。なんと言っても世界のTOYOTA様ですからね!

 

ところが、実は世界は電気自動車 (EV車)への転換がすう勢となっているのをご存知でしょうか?

ある民間調査会社の予測では、2021年にはEV車の販売台数がHV車を上回る見通しです。

「2021年にEVがHVの販売台数を上回る、電動車市場は4000万台に」

https://monoist.atmarkit.co.jp/mn/articles/1908/21/news044.html

むしろHV車全盛の日本は世界では既に取り残されつつあるのかもしれません・・・。 

 

ちなみに、中国に住んでいる私の友人によると、“あの中国でさえ”すでに街中でEV車が普通に走っている状況。テスラのEV車が"日本のカローラ並"にその辺で走っているそうです…。

都心部だけのようですが、それでもちょっとショックが隠しきれません。中国では地方都市でも東京くらいのサイズ感ですからねぇ。

 

このようなEV車への移行が進んでいるという話を聞くと、恐らく多くの人が「地球にやさしい」 「環境への配慮」という意味合いで受け止めるのではないでしょうか。もちろんそういう側面も存在します。しかし、実はその背後には世界の覇権を巡る各国の思惑が見え隠れするのです。

そしてその裏にはここ20年ほどの世界的な流れだった"グローバリズム"以後の新しい世界の潮流がうごめいています。

その政治的な潮流を探るために、自動車産業

・環境覇権

・エネルギー覇権

・情報技術覇権

という3つの側面から見てみます。そして、その新しい潮流の中で日本はどのようにすべきか?という問題についても考えてみたいと思います。

 

ちなみに今回の参考書籍はこちら。川口マーン恵美 著「世界新経済戦争」です。

もし今回の投稿で自動車産業の現状と未来についてもっと知りたいと思った方は、是非こちらをお読みください。

 

環境と自動車

さて、まずは環境問題と自動車の関係から考えてみましょう。

これはまぁ分かりやすい話ですね。

地球温暖化防止のためにCO2の削減が叫ばれ、ハイブリッド自動車や電気自動車が拡大しているのは周知の事実。

ただ、ハイブリッド自動車や電気自動車が本当にエコかどうかは実は怪しい。

例えば電気自動車は走っている時にはCO2を出さないものの、現時点では製造時に非常に多くのCO2を排出します。特に電源となるバッテリーの製造には多くのCO2を排出しますし、主な材料となるリチウムの産出には、大気汚染や土壌汚染といった環境への負荷がかかります。

また、リチウムバッテリーの材料の一つであるコバルトは、世界の供給量の半分がアフリカのコンゴで採掘されています。

しかし、その採掘場では年端もいかない子供達が、コバルトの粉塵が舞う劣悪な環境で働かされていることが国際問題になっています。

2019ねんに日本の吉野彰氏がノーベル賞を取ったことで注目を浴びることになったリチウムイオンバッテリーですが、私達が目の届かないところで多くの犠牲を出しながら生産されているのです。

「走っている間にCO2を出さない=環境にやさしい」というような単純な問題ではないということを我々は理解しておく必要があると思います。

※詳しくは本書第9章「電気自動車は本当に地球にやさしいのか」参照。

 

 

エネルギーと自動車

次に考えるべきはエネルギー問題と自動車の関係。

ご存知の通り自動車のエネルギーはガソリン。そしてガソリンは石油から作られます。

しかし、2019年に国際エネルギー機関が電気自動車への移行に伴って、自動車の石油利用は2020年代末にはピークを迎えると予測しました。そうなると割を食うのは、石油ビジネスが主力である中東諸国です。

日本で「石油の産出国と言えばどこ?」と聞けば、100人中99人が中東諸国のどこかを挙げると思います。しかし、実は中東諸国が石油の産出国としてメジャーになったのは第二次世界大戦以降のこと。それまでは石油と言えばアメリカ、あるいは東南アジアだったのです。

それが戦後は石油と言えば中東と言われるほどに、圧倒的な産出量を誇っています。

だからこそ、世界各国はやっきになって中東の安全保障のために力を注いで来たのです。その石油がエネルギーの主力としての立場を失うとなれば、当然諸国の中東への関心は薄れます。

ただでさえアメリカは、ここ数年あからさまにイスラエルを優遇しています。その理由の一つも石油問題。シェールガス革命によって独自でエネルギーを賄うことが可能になったため必ずしも中東地域の安定に注力する必要がなくなったためです。

 

電気自動車へのシフトによって石油の立場が下がれば、当然世界中でその動きは加速。中東の不安定化はますます進むことになるのは必至。まさに電気自動車シフトが中東地域の安定を左右するのです。

 

 

情報獲得戦争と自動車

電気自動車はその性質上どうしてもITとの親和性が高くなります。

例えばテスラの電気自動車は、ソフトウェアをオンラインでアップデートすることで、様々な追加機能を将来にわたって利用できるようになっています。

家電やパソコンと同じように、自動車をオンラインでつなぐことによって、運行記録や車に故障がないかなどの総合的な車の情報を管理することが可能。さらに、スマホに記録されている自分の行動履歴などと組み合わせれば、電気自動車に搭載されたAIが自分好みの休日プランを自動車が提供して連れて行ってくれる・・・なんてことまで実現できるようになります。

 

まるで夢のような話ですが、実はここにこそ電気自動車の最大の問題があります。

それは電気自動車での勝者を決めるのは、自動車自体の生産能力ではなく消費者から情報を収集し活用する能力だということ。そして、その情報収集・活用という戦いにおいて、そのルールを作った者が圧倒的優位に立つということです。

それは現在の世界において、GAFAと呼ばれるプラットフォーマーが圧倒的支配力を世界中で行使していることを考えれば、容易に想像がつきます。

実は、これこそが現在進行している米中貿易戦争の背景でもあります。

 

電気自動車の進化が進めば、そう遠くないうちに自動運転自動車に移行していくのは間違いありません。その元となるAIには膨大な量の個人情報、国民の動態、企業活動の情報が含まれることになります。

その時、情報という無形の財産が今よりも遥かに大きな価値を持つことになります。国家戦略的にも、です。

国家としては、そのような貴重な戦略資源を民間企業に管理させておく訳にはいきません。どこから敵国に漏れるか分かりませんし、どのように悪用されるか分からないからです。

現在進行中の米中貿易戦争は、そのような情報資源の獲得を巡る超大国同士の直接対決なのです。

 

今の日本に必要なことは何か?

最近まで自動車は人や物を移動させるため、つまり運送の道具でした。

しかし、ここまで見てきたようにそれが変わりつつあります。というかすでに変わっています。

AIや5GといったIT技術の革新と、それによって引き起こされる電気自動車へのシフトにより、自動車は単なる運送のための道具の枠を超えて、人の動きを支えるサービスの一形態としての変革を遂げつつあります。いわゆる「Maas (モビリティ・アズ・ア・サービス)」で、トヨタが進めているのもその一つでしょう。

生産年齢人口の減少や高齢化、地方の疲弊が叫ばれる日本においては、そのようなサービスの充実も非常に重要です。

 

ただ、残念ながら日本の民間企業はそこまでしかカバーできていません。

というか、民間企業単独ではそこまでしかカバーできません。

日本ではバブル崩壊以降、「民間活力の利用こそが重要」という観点から、多くの規制緩和や自由競争の奨励が行われて来ました。それはもともとイギリスやアメリカ発の新自由主義という思想の下で進められた、「自由だから正しい」という考え方でした。

しかし、すでに時代は変わり始めています。

今回取り上げた自動車産業のように、世界各国はすでに「環境覇権」「エネルギー覇権」「情報技術覇権」の獲得を見据えて国家ぐるみで動く総力戦に突入しています。

 

そのような国家と民間企業による総力戦が繰り広げられる時代において、日本に一体何ができるのか?

本書で著者は「産官学の連携」こそが鍵になるとしています。

確かにそれが重要なのは間違いありません。実際、アメリカや中国などは大学の研究チーム、民間企業の活動を国家が強力にバックアップしています。資金面ではもちろん、法整備などの社会制度や海外進出の際の外交的圧力という意味でも、です。

そういう意味では民間企業、国家、大学などの研究機関がより緊密な連携をとって行くことは必須だと思います。

 

ただ、私として本当にそれで良いのかどうか疑問符がつくと思っています。

 

例えば安倍政権は成長戦略と謳って様々な改革を行いました。そのお陰で株価はバブル崩壊以降最高値を更新しました。

しかし、企業の内部留保が溜まり、投資家の資産が増えた一方実質賃金は低下。国家の生産能力を示すGDPもほぼ横ばい。人口減少も加速するなど、社会の格差拡大が止まりません。

 


「産官学の連携が重要」とはまことにその通りなのですが、今のような状況で連携を呼びかけたとしても、"自分だけの短期的利益になる"分野だけの貧弱な連携しかできないのは目に見えています。

 

自動車産業が国家にとっていかに重要であるかを認識していた、日産自動車の初代社長鮎川義介は、1933年の創業時期にこのように言っています。

「これはいったい政府がやるべきものである。国家経済から見ても、国防関係から見てもそう思う。けれども一向におやりにならぬ。」

そこで、数年にわたる多額の欠損を覚悟で、自動車の大量生産に着手したそうです。

(本書第3章P43)


たとえ民間企業であろうとも、その社会的意義を十分に理解し、将来の国民や国家の発展のために自ら率先して立ち向かっていく。

単なるビジネス利益追求だけではない、ケインズ的な意味でのアニマル・スピリットの醸成こそがいまもっとも重要なのではないでしょうか。


今までは自分たちの欲求を最大化すれば良い時代だった。しかし、そのような時代は既に転換点を迎えています。この新経済戦争の中、国家と企業、そしてそこで生きる私たちは何を考え、何をすべきなのか。

それを考える上で、この本は自動車という窓を通して、非常に多くの示唆を与えてくれる良書だと思います。

 

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございました😆

真の教養を身に付けられるカンタン読書

昨今テレビや書籍、そしてYoutubeなどでもよく題材として取り上げられるのが「教養」です。特に大人向けの教養。

Youtubeで検索すれば「大人が身につけるべき教養」みたいな動画はいくらでも出てきますし、本屋に行けばかならず教養コーナーがあります。

そんな話題の教養ですが、多くの人が勘違いしていることがあります。それは「教養とはたくさん知識を身につけることだ」と思っていることです。

確かに教養と知識は密接に関係があります。しかし、「知識=教養」ではありません。

 

たしかに日々のニュースについてよく知っている人を見ると「すごいなぁ」と思います。あるいは古典文学なんかをよく読んでいる人を見ると「教養がある人って格好いい」と思ったりもするでしょう。

でも、「多くのことを知っている」というだけで教養があるといえるのでしょうか?

ものすごく色んな知識を持っている人でも、事あるごとに「ねぇ、ねぇ、これ知ってる。これって実はね・・・」と知識をひけらかす人を“教養がある人”と呼ぶでしょうか?

逆に「うっとうしいな、コイツ」と思うのではないですか?

 

「知識が多い = 教養人」ではないとしたら、教養がある人というのはどういう人のことを言うのでしょうか?

私が思うに教養がある人というのは、いろいろな物事に対する知識があるというだけでなく

 

“その時々の状況を分析して、過去の歴史や教訓から、その状況にふさわしい知識や考え方を示すことができる人”

 

ではないかと思います。

言い換えると“知識を組み合わせて新しい価値を生みだすことができる人”です。

その知識がほとんどの人が知らない珍しいことだろうと、誰もが知っている常識的なことだろうとそれはどちらでも構いません。重要なのは知識と知識の新しい関係性を見抜けるかどうかなのです。

 

現代社会で「教養」が注目されている理由もそこにあると思います。

ただ単に知識を取り入れたいだけなら、スマホでググってしまえばそれで解決します。誰かに聞くよりウィキペディアで調べた方が圧倒的に速い。

20年前なら「歩く生き字引」的な人にも高い存在価値があったかもしれませんが、これからは知っているだけでは生き残っていけません。既存の知識や考え方を応用して新しい価値を生み出せるかどうか、そこが重要になってきます。

そして、その力の土台になるのが「教養」なのです。

 

では、そのような教養を身につけるためにはどうすれば良いのでしょうか?

私がお勧めしたいのは読書です。まぁ王道ですね(笑。

ただ、普通の読書ではありません。

今回はある本を通して一風変わった「教養を身に付ける読書法」をご紹介したいと思います。

 

 

参考にするのがこちら。

 ピエール・バイヤール著「読んでいない本について堂々と語る方法」です。

 

 

著者紹介

まずはサラッと著者のピエール・バイヤール氏について紹介しましょう。

ピエール・バイヤールは、パリ第8大学教授。専門は精神分析です。

精神分析家でありながら、その知見を文学に応用した独特な文学批評論を展開している。著作に『アクロイドを殺したのはだれか』『シャーロック・ホームズの誤謬』など。

正直なところ私もこの方の方は全然知りません。なんならこの本で初めて知りました(笑)。

ただ、序論やあとがきなどを見ると

 

・仕事上書籍の批評をすることがあるければ、全部読んでるわけじゃない。

・なんなら全く読んだことがない本に対して批評せざるを得ない時すらある。

・カフェなんかで本について議論している人の話を聞くと、その人たちがその本を全然読んでないことがわかる。

・ほとんどの人は本をよく読まずに好き勝手に批判してるんだ。

 

みたいなことがあけすけに書いてあり、大学教授らしからぬ非常に面白そうな人物であることが伺えます。

 

“読まない読書”が重要!

私は先程「ある本を通して誰でも教養を身に付けられる方法をご紹介したい」と書きました。

そうすると恐らくみなさんは私が「この本を読めば教養を身に付けられる」みたいな本を紹介するのだと思うでしょう。

それは半分正解で、半分不正解です。

たしかに私はこれから教養を身につけるのにオススメの本を紹介します。

しかし。

私が紹介する本というのは「本を読まないことのススメ」なのです。

 

「読まないことをオススメする本をオススメする」???

なんかのトンチみたいですね。

 

本を読みすぎることは危険

著者であるピエール・パイヤールはこのように言います。

 

「教養ある人が努めるべきは、個別の知識を知ろうとすることではなく、さまざまな知識の“連絡”や”接続”である。」

「教養があるというのは、自分や該当する事象がどの位置に存在するかが分かっているということ。つまり、知識や物事が形作る全体像を把握し、それぞれがどのような関係性で位置づけられているのかを理解することである。」

 

※本書の中ではもっと詳しく書いてあるのですが、分かりやすいように抜粋・簡略化しました。

 

つまり、知識や事象そのものではなく「その関係性を見抜くことが重要」だと言っているのです。

 

たとえば読書についていうと、真面目で努力家の人ほど、一つの本を隅から隅までしっかり読もうとします。さらに順番もきっちり最初から順を追って最後まで。それが学校で習った「正しい本の読み方」だからです。

ただ、これは案外危険なのです。

ショーペンハウアーという19世紀のドイツの哲学者がいるのですが、彼も「読書について」という著作の中で

 

・本を読むことは他人に物を考えてもらうことである。

・読書ばかりして自分で考えないのは「習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなもの」

 

だと言って、読書の危険性を説いています。

我々は「教養を身につける」と言うとついつい「読書」に走ってしまいます。

しかし、実はこの「教養を身につける = 読書」という考え方はかなり危ういのです。

 

教養を身につけるためのクリエティブな読書

それではここまでを踏まえて、教養を身につけるために効果的な読書をひとつご紹介します。

これはピエール・パイヤールが本書の中で紹介している方法と、齋藤孝さんが「速読塾」という本で学生を指導する時に使う方法を合体させたものです。

誰でも簡単にできるし、お金もかかりません。

 

その方法とは

 

「買った本の"隣にあった本"をなぜ買わなかったのかを考える」

 

ことです。

 

ちなみにこの場合、実際に本を買ったかどうかはどちらでも良いです。「これを買おうとレジまで持って行こうとしたけど、スタバでコーヒー買えなくなるからやめた」でもOKです。

大事なことは自分が選別から落とした本に対して、なぜそれを買わなかったのかを考えることです。

 

書店で本を買うと大体買った本のことで頭が一杯になると思いますが、これはもったいない。

本屋に行けば必ず購入した本の近くに何冊か本が置いてあります。良い書店であるほど「これを探しに来たんじゃないけど、この本もメチャクチャ面白そうだな」という本が必ず陳列されているものです。

 

同じジャンルで、似たような内容の本が他にもあった。

それなのに「なぜあなたは他の本を選ばなかったのか」。

自分が選んだ本が他と何が違うのか。

この本とあの本のアプローチの違いは?

それぞれの著者の主張や根拠はどのように違うのか?

そもそもこの本はどういう社会的需要に応えようとして書かれたのか?

 

などなど、考えるべきことは山ほどあります。

しかもこういう思考をするために必要な手間は驚くほど簡単です。

せいぜい本の目次や序章を見れば十分ですし、下手すれば本のタイトルを覚えておくだけでも可能です。

しかもお金は一切かかりません!

しかし、このような本と本の関係性を考える思考こそが、情報を分析し、物事の関係性を見抜き、さまざまな状況に適した答えを導き出す真の教養を磨くことになるのです。

 

必要なのはあなたのやる気だけ。

それだけで単に本を読むだけ以上の教養が身に付けられること間違いなしです。

是非トライしてみてください!

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😊

今回の記事が気に入って頂けたら「イイネ!」してくれると嬉しいです😃

 

自動車から見る世界の覇権競争。川口マーン恵美著「新経済戦争」。

昨今のニュースを見てつくづく思うことは「競争」「争い」「戦争」といったワードが使われることが非常に多いという環境問題、米中貿易戦争、IT関連の開発競争。

昨今のニュースを見るとこういった「争い」的なワードを必ずと言って良いほど目にします。

争いが多すぎてもはや、どことどこが争っているのかさえ分からなくなりますが、世界の各国がある方向性に向かって進んでいるということを理解しておくと、かなり物事が見やすくなります。

その方向性とは「これからは国家主導型産業が主導権を握る世界が始まる」ということです。

もちろんそれは「国家が一から十まで設計した産業」とか「国家が出資する産業」とかいう前時代的な体制ではありません。

そうではなく「国家規模の取り組みがなければ打ち勝つことができない、激烈かつ大規模な競争世界になっていく」という意味です。

 

それは今までのような民間企業を自由に競争させれば、より強い企業が育ち、ビジネスの世界で勝ち抜いていけるというような生ぬるい戦いではありません。文字通り国家を巻き込んだ死にものぐるいの戦いが始まります。

 

そのような国家主導型産業の競争を自動車という産業から考察した本があります。

それが、川口マーン恵美 著「世界新経済戦争」。

 

 
概略紹介

この本では自動車という「乗り物」がドイツで誕生し、アメリカ、日本などでどのように発展したかの歴史的経緯を最初に取り上げます。

次に、1990年代頃から自動車が迫られてきた、CO2削減などの環境問題に自動車メーカーがどのように取り組んできたのかを検証。

そして、最後にAIや5Gと言った情報技術の発展と自動車の関係性を紹介。より「乗り物」から「情報管理ツール」の一つとして存在意義がシフトした自動車に対して、各国がどのようにしのぎを削っているのかを紹介。

自動車産業に対して、日本がどのような方策をとるべきかを考察しています。

 

 巨大過ぎるゆえの自動車産業のジレンマ

この本を読んで強く認識させられるのは、歴史的に見て、自動車という産業を振興するに当たっていかに国家が強く関与してきたかということです。

もともと自動車が開発されたのはあくまで個人の発明家の技術者としての発案でした。

その自動車とそれを動かすための内燃機関が持つポテンシャルに国家が目をつけた。

そして、国家は他国との競争に勝ち抜くために、その産業を強く後押ししたし、産業界もそれを強く望んだ。だからこそ自動車はここまで発展したのだし、産業としても非常な成功を収めることができたのです。

ただ、巨大な産業になり過ぎたが故に、単なる「乗り物」の器として以上に、多方面に影響を与える産業になってしまいました。それは例えばCO2削減目標の達成といった環境問題、脱化石燃料エネルギー問題です。

 

そして昨今もっとも話題となっている問題と言えば「自動運転技術」です。

 

自動運転は国家覇権問題

どうも世間の報じられ方を見ると「自動車技術の一環」か、せいぜいMaaSのような新サービスの一環としてしか報じられていません。しかし、これはそんな底の浅い問題ではありません。例えば自動運転をAIで行うためには、

 

・凄まじく速い処理能力を誇るコンピュータ開発

・瞬時に変わる運転状況を把握するための通信技術

・事故が発生した場合の責任を誰がとるかなどの法体制の整備

 

など様々な技術や法律・社会システムの整備が必要になります。

これらが一企業で網羅できることでないことは当たり前です。しかし、もっと大きな問題はこれらに対応する技術や社会システムをどこかの国が整備すれば、他の国もそのシステムに則ったシステムを採用せざるを得ないということです。

iPhoneが世界を席巻した結果、それを前提としたモデルづくりを行わなければならなくなったのと同じことです。

 

つまりそのような「規格」を実現した国が、その後の世界において圧倒的に有利になるということです。単に自動車という商品がどのような規格になるかという話だけであれば、事はそれほど大きな話ではないかもしれません。

しかし、先程も書いたように既に自動車産業は環境問題、エネルギー問題、そして情報通信技術などあらゆる産業と密接に関わった産業に成長してしまっています。特に情報通信技術とのかかわり合いは今後の自動車産業とは切っても切り離せません。

 

それは情報通信技術から見た時も同じであり、自動車産業の規格策定で主導権を握れるかどうかは、情報通信技術での覇権を握れるかどうかにも関わってきます。それは世界の覇権を誰が握るのかと言う問題に直結しており、「自動車メーカー」に担えるような次元の話ではなくなって来ています。

 

現代は情報通信技術の発展により、良い意味でも悪い意味でも多くの産業がつながってしまっている状況です。産業が非常に複雑化しているのです。

そのような状況ではたった一箇所で主導権を握られることが、すべての自国産業の首を締めることになりかねません。

グローバリゼーションが時代の必然だと言われた時代では、国家の役割を減らし、民間に自由に競争させることが正義だと信じられて来ました。ですが、そのような幻想の時代はもう終わりを迎えようとしています。

下手をしたら、一つの産業の成否が国民生活全体に影響を及ぼすような事態になりかねない。グローバルにつながったからこそ訪れた社会によって、新たな危機を引き起こしかねない状況を生み出したのです。

 

もちろん、国家がすべてを設計すれば上手くいくというほど単純な話ではないでしょう。ただ、民間に任せればすべて上手く行くというほど単純でもない。

民間の研究開発力や事業の展開能力は維持しながらも、今まで以上に国家が制度設計段階から関わっていかなくては、たった一度の負けですべてを他国に奪われてしまうような事態になりかねない。

そんな危険な状況にすでに世界は進んでいるのだということを知る上で、非常に示唆に富んだ本だと思います。

  

 

騙されて気分爽快!全国民が見るべき「映画コンフィデンスマンJP」

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かつては隆盛を誇りながら、すっかり勢いがなくなってしまった日本の映画産業。ここ数年話題になる物と言えばアニメ映画ばかりです。

しかし、状況でも数少ないながら名作というものは生まれています。

そのひとつが今回レビューをお届けするこちらの映画「コンフィデンスマンJP〜プリンセス編〜」。

出演者である三浦春馬の自殺など、色々な事情で内容以外のところで話題になっている今作ですが、内容は近年まれに見る良作です。

これを知らないなんて、確実に人生を損しますよ!(笑

※ネタバレを含む内容がありますので、閲覧注意でお願いします!

 

 

コンフィデンスマンJPとはどんなドラマ?

ご存知の方も多いと思いますが、コンフィデンスマンJPとはフジテレビ制作のテレビドラマです。2018年にテレビで放映されて、2019年に映画初作品「コンフィデンスマンJP〜ロマンス編〜」が上映されて大ヒット。今回はその映画二作目となります。

長澤まさみが演じる「ダー子」という天才詐欺師が、仲間詐欺師の「ボクちゃん (東出昌大)」「リチャード (小日向文世)」とチームを組んで、暴力団や美術品詐欺師、スポーツ興行詐欺師などとコンゲーム (騙し合い) を行い、悪者からお金を搾り取って懲らしめるドラマ。

 

最大の観物は悪役との間で繰り広げられる騙し合いバトルですが、実はそれを観ている内に視聴者も天才詐欺師ダー子に騙されてしまう“仕掛け”も観物。最後に「実は視聴者も最初からダー子に騙されていた」と判明する、緻密で大胆な騙し術が“騙されてもなお面白い”という爽快感を演出します。

 

テレビドラマでは国内での撮影でしたが、映画では舞台は日本を飛び出し海外へ。今回は南国マレーシアのランカウイ島。

北大路欣也が演じる大財閥の当主レイモンド・フウが亡くなり、莫大な遺産を巡る壮絶な争いが勃発。ダー子、ボクちゃん、リチャード、そして新しく仲間になった「コックリ」の4人が、その遺産を奪い取るためにランカウイ島に乗り込みます。

ところが、そこには今までダー子たちと騙し合いを演じた多くの一流詐欺師たちが集結。誰が敵で、誰が味方か分からない、命を賭けたかつてない規模の騙し合いバトルが勃発する!

 

こんな感じのストーリーになっております。

 

なぜコンフィデンスマンJPを好きになったの?

私がこの映画を観たのはテレビドラマ時代からのファンだったからですが、そもそもなぜファンになったのか?

理由はいろいろありますが、最大の理由は物語の最後の種明かしの時にわかる

 

「そこから騙されていたのか〜!」

 

という“騙された爽快感”です。

人間って不思議なもので、みんな心のどこかで「騙されたい」という気持ちがあると思います。

もちろん、詐欺とか実生活に被害が及ぶようなものは駄目に決まっています。

しかし、たとえば手品なんかも騙されるのが嫌な人ばかりなら、エンターテインメントとして成立しません。しかし、騙される分かっていながらも観てみたいと思うから、昔からエンターテインメントとして続いている訳です。

 

人間はちょこっと騙されるとイラッとしますが、根本から、壮絶に騙されると、逆にスカッとするんですよね。その壮絶な騙しが非常に面白い。

 

こんな人にオススメ

すでにファンの人にオススメなのは当たり前ですが、コンフィデンスマンJPのことを知らない人でも、こんな人にはオススメです。

 

  • 推理モノ好き
  • 人間成長ドラマ好き
  • オーシャンズ11とか、007シリーズとか、ちょっと大人向けのエンターテインメント好き

 

今作品で響いた言葉

  • 人はなりたいと思ったものには何にでもなれる
  • 私達は所詮偽物だから
  • 他人より優れていることが高貴なのではない。本当の高貴とは過去の自分自身より優れていることにある

※映画の中でのセリフなのでうろ覚えのため詳細は違うかも(笑)

 

プリンセス編は過去作よりドラマ性が高い

今回のプリンセス編を観て感じたのは、過去作に比べて人間ドラマ的な要素が強くなっていることです。

 

このドラマの紹介でも書いたように、コンフィデンスマンJPという作品は「人を騙す」というある意味ダークサイドの人間を主人公にしています。基本はエンターテインメント作品ではありますが、その主人公の特殊性によって人間の持つ闇の部分と光の部分というものをより深くあぶり出しているのが特徴です。

それによって単純な「悪者からお金を絞りとる」という勧善懲悪なドラマにならず、かといって「どんな悪者にも良い部分がある」みたいなエセ人情ドラマにもならない、深さがあります。

 

もともとそういうドラマ的な要素はありましたが、今回はとある理由で主人公と同じダークサイドに堕ちたひとりの少女を育て上げ、ダークサイドから表の世界へ送り出すというストーリになっており、よりドラマ的な要素が強くなっています。

ところどころで、主人公ダー子が今まで見せなかった人情味あふれるセリフを言ったり、ひとりの少女が少しずつ自分の努力で強く成長していくシーンがあったりして、思わず涙をそそるところがあります。

 

今回のプリンセス編はそういうドラマ性も含めて大変面白かったのですが、このドラマ性の高さが「良かった点」と「(敢えて…)イマイチだった点」につながっているのが複雑なところです。

次はその点について解説してみます。

 

プリンセス編の良かった点

ではまずドラマ性の高さ故の良かったです。

実は今までの作品では、出演者…特に主人公である天才詐欺師ダー子の心情を表現するようなシーンはあまりありませんでした。

それはこの作品の根幹であるエンターテインメント性を高めるために必要だったものだと思います。あまり人間性を出しすぎると“爽快に騙されて、笑える”という良さが失われてしまうため。

 

ところが今回はとある事情でダー子が拾った「コックリ」という女の子を育て上げる“母親役”をダー子が担ったせいもあり、親が子にかけるような愛情の片鱗が見えます。

ダー子が劇中で発した

 

「本物も偽物もない。あなたが信じればそれが真実よ。」

「あなたのいるべき所はここじゃない。あなたにしかできないことがあるのよ。」

 「私たち(詐欺師)は何にでもなれる。でも所詮偽物でしかない。」

 

といった言葉の数々には、

「人を騙すためにシチュエーションに応じて何者にでもなれる。でも、所詮自分たちは偽物でしかない。しかし、だからこそ“自分が信じたものこそ真実なんだ”と信じたいんだ。」

そんな一流の詐欺師(コンフィデンスマン)だからこそ感じる、哀しさや諦観が感じられました。

 

その寂しさを埋めるために何億、何十億というお金を稼ぐ。でも、結局お金ではその心の穴を埋めることはできない。

でも、それでも自分たちにはそれしかできることがない。

だったら、それで精一杯生きるしかないんだ。

そんな悲壮な決意が垣間見えるような気が・・・。

 

普通の人はそんな騙し合いのような人生を歩むことはありません。でも、ダー子がこの時思ったような悲壮な決意をしなければならない局面は、誰の人生にもあります。

自分だって望んだわけじゃない。けれど、これしか道がなかったんだ。だったら、徹底的に、そして楽しく歩んでやろうじゃないか!

そんな儚くもたくましい心の叫びに共感できる人は多いのではないでしょうか。

 

プリンセス編のイマイチだった点

では、次にプリンセス編のイマイチだった所について。

基本的にすごく面白かったのですが、敢えて言えば・・・というレベルです。

 

それはドラマ的要素が強くなった分、

 

少し表現がストレートになっていて、流れが先読みできるシーンがちょっと多かった

 

という点です。

例えば・・・・著しくネタバレなので文字色反転させますね。

<ここから>

コックリという新キャラが周りが敵だらけという状況の中で、少しずつ成長していく過程が描かれていくのですが、そのコックリの優しさに敵だった人達が徐々にほだされていきます。そして、その優しさの深さと強さに惹かれて、結局ひとりの人間として認めざるを得なくなるという流れなのですが、「ダー子のことだから何か裏があるに違いない」と思っていたら、実は何も裏がなかったという・・・。

もう一捻りあっても良かったんじゃないかと思いますが、あまり複雑にしすぎると“騙し合いバトル”という本筋に影響があったせいなのか、ちょっと単純な流れだったなという気がします。

<ここまで>

その分「騙された〜〜!」という爽快感は若干前回に及ばなかったかなぁと。

まぁ、それでも十分騙されたんですけどね(笑)。

実は最初から最後まで”とある人物”による壮絶な騙しだったのですが、それは映画を最後まで観た人だけが分かるお楽しみということで。

「そういうこと???そこまでは読めんかったわww」と思うこと請け合いです!(笑)

まとめ

という訳で、映画コンフィデンスマンJP〜プリンセス編〜をご紹介してきました。

イマイチだった点も書きましたが、元々がかなり面白い上で“敢えて苦言を述べるなら・・・”程度の話ですので、面白いのは間違いないです。映画館で観ても絶対損はないです。本当にオススメ。多分ね!

 

それと最後に一つだけ。

蛇足かもしれませんが、これだけは書いておかないといけないことが。

それはこの映画に出演した三浦春馬君が上映直前に自殺を遂げたことについてです。

私はブラディマンディーというドラマで初めて彼の演技を観たのですが、その時は正直言って「何だこいつは。なんでこんなやつにやらせるんだ。」と思いました (漫画の原作が大好きだったのでギャップが・・・)。

でも、その後、「陽はまた昇る」という別のドラマを観た時の上達ぶりに驚いたものです。その後もいわゆる代表作みたいなものはないものの、数々のドラマで演技を見るにつけ、彼の魅力に引き込まれていきました。

 

そんな三浦春馬君がコンフィデンスマンJPの世界にやってきたのは前作のロマンス編。

どんな女でも口説き落とすという恋愛詐欺師「ジェシー」という役でした。

イケメンだけど、頭が良く、上品な立ち振舞いはもうまさに「三浦春馬のための役」と言っても過言ではないほど、はまり役だったと思います。今回もジェシーが出るのをとても楽しみにしていました。

その三浦春馬君がまさかこのタイミングで命を落とすことになるとは夢にも思いませんでした。

若く、イケメンで、演技が上手で、歌も上手い。

何も不自由のない華やかな人物のように見えますが、心の中にとても大きな悩みがあったのでしょう。

間違いなくこれからもっと伸びる人物だっただけに、もうただただ残念です。映画の中で彼が出てくるたびに涙が出そうになりました。

今回は前作と違いメインキャストではありませんが、それでも彼の魅力が十分伝わる演技だったのは間違いないと思います。もし、このレビューを読んでこの映画を見る人がいてくださるなら、彼が演じた「ジェシー」の笑顔を記憶に焼き付けて頂きたいです。

三浦春馬君のご冥福を心からお祈りします。

 

 

という訳で、最後がしんみりしてしまいましたが、今回ご紹介した映画はこちら「コンフィデンスマンJP〜プリンセス編〜」でした!

 

読書スピードが遅いあなたへ。堂々とゆっくり読んだ方が良いという話

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本の読む人には2つのタイプがいる。それは

「速く読むやつか、ゆっくり読むやつか」だ!

 

・・・と偉そうに始めましたが(笑)、私はがっつり「読むのが遅い人」です。

しかしながら、ご存知の通り現代は「速読こそ絶対正義!」的な風潮。

実際、書店やAmazonを覗けば「速読法」を紹介した本がわんさかあります。逆に「本をゆっくり読む方法」について書かれた本はほとんどありません。それこそ「本を読むのが遅いやつに人権なんかない!」とばかりに。

でも、皆さんの周りはどうですか? そんなに本を読むのが速い人っていますか?

実際は本を読むのが遅い人がほとんどなのではないでしょうか? いや、ほとんどのはず(希望的観測!)

 

しかし、現実には速読は良いこと、遅読は悪いことという風潮がかなり強く、遅読の人は肩身が狭い思いをしている人がほとんど。それどころか、読むのが遅い人は遅読であることに少なからずコンプレックスを抱いているケースがほとんどではないでしょうか。

 

そこで今回は私のような本を読むのが遅い人に堂々と、ゆっくりと本を読むことを推奨する、「スローリーディング」について書かれた本を紹介します。

それがこちらです。

平野啓一郎著「本の読み方」

本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP文庫)
 

 

  

著者紹介

今回ご紹介する「本の読み方」の著者 平野啓一郎氏は、福山雅治石田ゆり子が主演を務めた映画「マチネの終わりに」の原作小説を書いた作家。

私はこの作品はそれしか知りませんでしたが、実は大学在学中に書いた小説「日蝕」で芥川賞を受賞しており、随分長いこと活躍しているようです。海外向けにも翻訳されて、広く海外でもその作品が紹介されている模様。

また、小説以外にもさまざまなエッセイを執筆するなど、作家業を中心に幅広く活躍していらっしゃいます。

 

こんな人にオススメ

・本を読むのが遅い人

・速読法にチャレンジしたことがある人

・本を読むのが速い人

 

響いた言葉

あくまで主観ですが、この本の中で私に響いた言葉を抜粋してみました。

・速読は明日のための読書。遅読は5年後、10年後のための読書。

・主体的に考える力を伸ばすこと。これこそが、読書の本来の目的である。

 

本書の構成

まず、この本では現代の絶対正義とも言える「 速読」の悪い点を挙げます。

次に、本を遅くよむ「スローリーディング」の良い点を挙げます。

ただ、スローリーディングとは言っても、単純にゆっくり読めば良いという訳ではありません。ゆっくり読みながら、ちゃんと中身を理解する方法が紹介されています。

そして、最後にカフカの「変身」、夏目漱石の「こころ」など、世界的な名著を練習問題にしながら実践的な本の読み方を解説する。

こんな構成になっています。

 

 

なぜスローリーディングを推奨するのか。 

平野氏が推奨するのがスローリーディングこと、「ゆっくり読む本の読み方」です。

速読全盛の現代でわざわざスローリーディングを提唱するのは、「一年間に何冊読んだ、といった類の大食い競争のような読書量の誇示にも辟易して」いたこと。また、それによって読書本来の目的である「主体的に考える力を伸ばす」ことが軽視されていることに警鐘を鳴らすためです。

したがって、本書では特に前半は「アンチ速読」的な表現が目立ちます。例えば

「速読で得た知識は脂肪みたいなものだ」

 

「(文章を読むのではなくページを写真のように読み取るという速読法に対して)こういう突拍子もない話は、一般人の心理学や脳科学に対する無知につけこんだ怪しげな理論」

 

「私達の中には、速い仕事にはどこか信用できないという思いが強く存在している。(中略)つまり、速読の技術をいくらみにつけてみたところで、重要な書類は怖くて任せられないかあ、結局、速読で処理すればいい程度の書類ばかりが回ってくるというハメになるのである。」

 

など。

著者と同じく「速読絶対正義」という風潮に嫌気がさしている人にとっては、溜飲が下がる思いではないでしょうか。

 

「速読 vs 遅読」の対立を煽ってもしょうがない。

この本では特に序盤で、速読と遅読どちらが役に立つかどうかという軸で話を展開しています。極端に言えば、速読で得られる知識は浅薄だが、遅読の方は深く知識を得られるから、遅読の方が役に立つんだという感じです。

著者は頻繁に「遅読の方が役に立つ」という言い方をします。

しかし、実は「役に立つか、役に立たないか」という価値判定の軸がすでに主観ではないでしょうか。

例えばビジネスマンが業務に役立つ知識を得たいのであれば、速く、大量に読める方が役に立つことになり、遅読は役に立たないことになる。だから著者の「遅読の方が役に立つ」という話の展開は、速読派と水掛け論になるだけなので、あまり有意義な議論ではないのではないだろうかと思うのです。

 

この本の価値は「速読 vs 遅読」を超えたところにある

 

この本が速読へのアンチテーゼとして推奨するスローリーディングという方法は、「読書スピード自体を目的化しない」という意味ではたしかに「遅読のススメ」ではあります。何度も書いているように、著者は「速読なんか駄目。スローリーディングの方が優れている!」と主張しています。

しかし、よくよく読み込むと実は著者が推奨しているのは、「速読 vs 遅読」のようなスピード対決ではなく、もっと深い本の読み方であることが分かります。

 

著者は遅読を推奨していますが、「ただゆっくり読めば良いというわけじゃない」とも言っています。ゆっくり読めば何でも良いというわけではなく、

 

・著者の主張を受動的に受け入れるだけでなく、常に「なぜ?」という疑問を持ちながら読む。

・著者の意図を理解する

・何度も読み返す

・全体の構造を理解しながら読む

 

という取り組み方が重要だ、と説いています。

 

ところが、これって実は多くの速読術でも似たようなことを説明しているんですよね。

 

確かに速読術にもいろんなやり方があるので一概には言えません。

中には「文字を読むんじゃなくて、写真を脳に焼き付けるようにしてイメージで叩き込む」みたいな方法もあります。

一昔前は速読と言えばそういう特殊な方法でしたが、昨今はどちらからと言えばそういうアプローチは”キワモノ”です。最近の主流な速読術は「ポイントを押さえて、ちゃんと内容を理解して読む」というアプローチです。

 

スポーツでも何でも同じだと思いますが、やり方は同じでも人によって進行のスピードは違ってきます。いわゆる昨今の主流な「速読法」と平野氏の「スローリーディング」は”その程度の違い”しかないように思います。

だから、むしろ速く読みたいと思っている人にこそ、この”あえて遅く、じっくりと読み込む”というアプローチを知って欲しい。

速読か?

遅読か?

という二者択一ではなく、本を読むという行為をさまざまな方向から見つめることで、「読書の目的を改めて確認する」ことができるのではないかと思うのです。

 

本の読み方を考えることで新しい世界を発見できる

元々「本をどのように読むか」は自由です。

「読みたいように読めば良い」が正しいと思います。

たとえば幕末の志士の坂本龍馬は少年時代に塾に通っていた際、教科書を逆さまに持って読んでいたが内容をしっかり理解しており、先生を驚かせたという話があります。

それが嘘か本当かは分かりません。

ただ、極端な話、そのような読み方でも、ちゃんと本の内容を理解して、それを現実世界に応用できるのであれば、何も問題ないと思います。

 

しかし、本をあまり読まない人はもちろん、本を読むのが日課だという人でも、さまざまな本の読み方を知るということはとても有意義なことではないでしょうか。

「その程度のことか。つまらないな。」と思うかもしれませんが、もしかしたら「そんな読み方があるのだったら、もっと早く知っておきたかった!」という発見もあるかもしれません。

どちらにしても自分の読み方という世界から一歩踏み出してこそ、考えもしなかった新たな発見があるかもしれないのです。

 

この本は新書タイプで、表現もとても簡単で非常に読みやすい内容になっています。

本を読むのが遅いというコンプレックスを持っている人には、そのコンプレックスの解消に。

逆に、本は速く読んでなんぼ!という人には、今一度自分の読書法を別の視点から考えてみるのにとても良い機会になるのではないかと思います。

・・・・つまり、本を読むのが速かろうが遅かろうが、本を読むのが好きなら一読の価値あり!ってことです(笑)。

 

という訳で、今回ご紹介したのはこちらの本でした。

本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP文庫)
 

 

ちなみに、以前のこちらの投稿では速く読むための技術について書かれた本をご紹介しました。

よろしければこちらもご一読ください。

 

 

 
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