ヨーロッパの覇権を確立した3つの革命 玉木俊明 著 『16世紀「世界史」のはじまり』
「先進国と言えばどこの国か?」と聞いて思いつく国と言えばどこだろうか?
アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス・・・中国ももはや先進国の一つだろうか。
先進国にはいろいろな定義があるけれども、欧州、特に西ヨーロッパの国々といえばどこも先進国の一つだと言っても良いだろう。それほど欧州と言えば世界を牽引する先進国の集まりだというイメージが強い。
だが、その欧州が数百年前までは後進国であったと聞いたら信じられるだろうか?
実は16世紀なかばくらいまでは先進国と言えば、中国や中東であり欧州はむしろ後進国だったのだ。たとえば中国は、紙、火薬、羅針盤、陶磁器の世界最大の産出国だったし、イランやインドと言った中東地域も綿花、綿織物などの産地であり、欧州は輸入する側だった。シルクロード (絹の道) という言葉を聞いたことがある人も多いだろう。
このように、中国や中東が優れた工芸品や産出品を持っていたのに対し、欧州にはアジアに輸出できるような物はほとんどなく、文化的にも後進国だった。
その後進国の集まりであるヨーロッパが、なぜ現在のような”先進国”の立場として、権威を振るうようになったのか?
その原因をさかのぼり、欧州の力の源泉の秘密を探るのが今回ご紹介するこちらの本
玉木俊明著「16世紀『世界史』のはじまり」
だ。
欧州を変革した3つの革命
意外かもしれないが、現在の私たちが恩恵を預かっている近代科学は欧州で一から発展したわけではない。
たしかに近代科学の端緒となった科学は、アリストテレスに代表される古代ギリシャの哲学者から生まれている。しかし、それらは古代ギリシャの滅亡とともにイスラム社会に伝わり、そこで独自の発展を遂げた。数学、自然科学、天文学、地理学などのさまざまな分野において、科学的知見はイスラムで発展したものだ。
また、中国が果たした役割も忘れてはならない。製紙法、羅針盤、火器の発明など近代科学の元となった発明は中国に起源を持つものが多い。
では、なぜ欧州がそれらの地域に取って代わることができたのだろうか?
著者によれば、それは大きく次の3つの革命が影響している。
すなわち
・宗教革命
・軍事革命
・科学革命
だ。
欧州を変えた3つの革命
欧州を変えたこの3つの革命について簡単に見てみよう。
まず宗教革命。この名は、「ルター」や「プロテスタント」という言葉とともに広く知られている。
かつてはキリスト教と言えばカトリック教会のことだったが、どの組織にでもありがちな汚職や腐敗が進行したため、ルターやカルヴァンに代表される人物がカトリック系に「プロテスト (=抗議)」し、組織を改めようとしたのが始まりだ。
次に科学革命とは、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ、ニュートンらによって新しい物理学上の発見がなされ、科学研究の方法に大きな変革が生まれたこと。自然や宇宙を数学的に理解し、解明することができるようになったことで、人間の生活様式を大きく変えることになった。ここで生まれた科学的知見により、18世紀に欧州で産業革命が起こったことも重要だ。
そして、最後に軍事革命。それまで馬に乗って剣を交える騎馬戦が主流だった戦争に、火縄銃や大砲などが用いられるようになったことで、それを使用する歩兵が兵力の中心になったこと。そして、それを活用するために兵隊が大規模化し、大量の人的・物的資源が動員されるようになったことを言う。
著者によれば、これらの革命が16世紀に集中して発生したことが、後進国だった欧州が世界的な影響力を持つようになった原因だという。
では、これらの3つがどのように欧州の覇権獲得に影響を与えたのだろうか?
3つの革命をつないだ「航海技術」
欧州覇権への影響を紐解く鍵となるのが航海技術。欧州を覇権を作り出したのは他でもない、宗教革命、軍事革命、科学革命という3つの革命を航海によって繋ぎ合わせたことだった。
最初に述べた通り、16世紀までは欧州は中国や中東に比べて後進国であり、それらの地域に輸出できるような特産品は何もなかった。しかし、科学革命が生んだ自然に対する新たな知見や軍事革命による軍事技術を得たことで、それらを他国と交易するための輸出品として育てることができた。
とはいえ、輸出品があるだけでは遠い諸外国と交易をすることはできない。交易とは距離的に隔たりのある地域同士が、物やサービスを融通し合うことによって成り立つ。したがって、いくら科学的知見という優秀な特産品があったとしても、それを運ぶことができなくては交易は成り立たない。
この欧州による外国との交易を物理的に可能にしたのが、科学革命によって進歩した天文学、物理学をベースにした航海技術だった。1492年にコロンブスが新世界を「発見」し、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインド洋に到達したことによって、欧州の国々は世界中に交易ネットワークを広げることが可能になった。
そして、欧州の国々が交易に使用した知見や技術とは、基本的に人の頭の中に蓄えられている。つまり、科学的知見という特産品を持った”人”が世界中を航海することで、欧州の”輸出”は活発になったのだ。このことは宗教改革と密接な関係を持っている。
なぜなら、カトリック教会は知識や技術というソフトパワーを持った教徒を世界に派遣することによって、カトリックの布教活動とグローバルな交易の両立を実現することが可能だったからだ。
すなわち、”航海術による交易”という点によって、宗教改革、軍事革命、科学革命という3つの革命が欧州に巨大な繁栄をもたらしたのだ。ここにこそ、その後欧州の国々が世界の覇権を担っていく源泉がある。
まとめ
世界の覇権争いと言えば、一般的には「軍事力」による争いの結果であるように思われがちだ。
だが、本書で解説される欧州による覇権確立のあらましを知ると、実は軍事力が覇権のすべてではないことが分かる。欧州はたしかに強大な軍事力の下に世界を支配した。しかし、それと同時に科学的知識や交易システム、航海術といったソフトパワーの力によってその影響力を拡大していったと言える。
この視点は現在の覇権争いである米中戦争について考える上でも、私たち日本が世界での影響力を高めていく上でも非常に重要な示唆を与えてくれるのではないだろうか。
という訳で今回紹介したのはこちら。
玉木俊明 著 『16世紀「世界史」のはじまり』でした。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m
イノベーションとは合理性からの脱却である。安藤昭子著「才能をひらく編集工学」
「ここ数年の変化は歴史的に見ても、千年に一度起こるかどうかというほどの大変動ですよ。」
以前、阿川佐和子が司会を務める「サワコの朝」という番組で、歴史学者の磯田道史氏がゲストに招かれた際に発した言葉だ。
世の中の流れとは常に変化するものだが、ここ数年の変化の度合いは歴史上でもまれだろう。新型コロナの感染拡大だけの話ではない。その以前から、国際的な政治情勢、世界経済、テクノロジーといった様々な分野で非常に大きな地殻変動が続いている。
そのような先が見通せない不安定な社会で求められるのが、既存のシステムの壁を突破する探究力や、事態を急展開させるアイディア。いわゆる”イノベーション”を引き起こすクリエイティブな思考だ。
ただ、イノベーションやクリエイティビティというと、どこか”才能のある人が生まれつき持っている特殊能力”、あるいは”訓練で身につけた能力”のように思われがちだ。自分には関係ない話だと思う人が多いだろう。
ただ、もし「実はそうではない、そういった才能は誰にでも備わっているのだ」としたらどうだろうか?
今回紹介する本は、イノベーションに必要な"情報を読み解く力"を解明し、私たちの中に眠るクリエイティビティを揺り起こすための思考方法を説く力作。
安藤昭子 著「才能をひらく編集工学 世界の見方を変える10の思考法」だ。
今回はこの本が説く編集工学の一端を紹介するとともに、クリエイティビティの覚醒を実は近代合理主義が阻害しているという少し哲学的な話もしてみたい。
- 編集工学とは何か
- 編集工学の肝「3A」
- 編集工学とは関係性を見出すための技術
- イノベーションとは"編集"のこと
- イノベーションに必要な”ヴィジョン”
- イノベーションは近代合理主義の否定から始まる
- ヴィジョンを磨くための編集工学
編集工学とは何か
編集工学・・・耳慣れない言葉だが、これは松岡正剛 (まつおか せいごう)という著述家が生み出した情報編集技術のことだ。
松岡自身の言葉を借りれば「情報を工学的な組み立てを借りながら編集すること、それが編集工学だ。」ということになる。
注意が必要なのはこの場合の「情報」や「編集」の言葉の広さだ。これらの言葉の意味を理解することは、本書を読み進める上でとても重要なため、以下でザッと紹介しておきたい。
<編集工学が扱う情報の範囲>
まず、編集工学における「情報」とはニュースで取り上げられるような新しい出来事や、物事に関する知識だけにとどまらない。私たちを取り巻く環境のすべて、スマホや車のような生産物だけでなく、石ころや草花のような自然もまた何かしらの意味を持っている。編集工学が対象とする情報とは、私たちを取り囲む森羅万象すべてのことだ。
<編集工学における編集の意味>
また、編集という言葉も、一般的に考えられている、雑誌やWebサイトを作るような狭義の編集に留まらない。
先ほどの私たちの周りにある森羅万象すべての「情報」のそれぞれをつなぐ”関係性”を見出すこと。そして、それらの情報の組み合わせを変えることで新しい価値を生み出すこと。これが本書における「編集」だ。
<工学とは何か?>
そしてもう一つの「工学」。これは本書の中では明確に定義づけされていない。したがって、本書全体からの推測になるが、情報を読みといて編集を行う際に、分析対象を細かく切り分け、構造を明らかにするための手法のことを意味しているようだ。
たとえば「テレワークとは何か?」という設問で考えてみよう。
恐らく「在宅勤務」「リモートワーク」といった言葉が思い浮かぶと思うが、このテレワークという言葉を「tele =離れて」「work=働く」と考えてみる。そうすると「職人の分業体制」もテレワーク (離れて働くこと)であるし、役者やスポーツ選手の「自主練習」もテレワークだと言える。つまり、テレワークという言葉を「tele」「work」という2つの語からなっている構造だと理解すれば、様々な解釈が生まれることになるのだ。
このように分析対象の構造を分解することによって、新しい解釈を生み出そうとする行為。これを工学的アプローチだと本書では捉えている (ようだ)。この利点は、ある対象を分析するときに、「空気を読む」「風を読む」のような動物的感覚によらずに、誰にでも情報の関係性を把握できる技術体系として多くの人が共有できる点にあると思う。
以上を踏まえて、編集工学が何であるかを改めて説明すると次のようになるだろう。
すなわち、編集工学とは私たちを取り巻く全ての事象を誰にでも分析できるような分かりやすい構造に解きほぐすこと。そして、それらを組み合わせることで新しい価値を生み出せるようにするための技術ということだ。
編集工学の肝「3A」
本書を理解する上で中心となる概念に「3A」というものがある。3Aとは、3つのAのことで、
・アナロジー (analogy)
・アブダクション (abduction)
・アフォーダンス (affordance)
という3つの言葉の頭文字を取ったものだ。以下、簡単にこれらを説明しよう。
<アナロジーとは>
まず、アナロジーとは「類推すること」。「似ている(類似)」ものを「推し量る (推論)」ことだ。一言で言えば、何か新しい概念や出来事に出くわしたときに「何かに別のことにたとえて考えること」と言っても良いだろう。誰かに説明を求められた時に「まぁ、これはつまりXXXXみたいなもんですよ」と説明するようなものだ。この「XXXみたいなもの」という”たとえ”を連想していき、
<アブダクションとは>
次にアブダクションとは「ある問題に対して、仮説を立て、それを元に推論すること」。かのアインシュタインは「経験をいくら集めても理論は生まれない」と言ったそうだが、目に見えるもの、経験したものを追いかけているだけでは何も引き出すことができない。
自分が遭遇したものに対して、当てずっぽうでも良いから想像力を働かせて仮説を立てる。それによって新しい発見を生み出す。それがアブダクションだ。
<アフォーダンスとは>
そして、最後のアフォーダンス。これは英語の「afford (与える)」という言葉を名詞化したものだ。これは適切な日本語が見当たらないので理解するのが難しい概念だが、「環境が物事に与え、提供している意味や価値」のこと。本書に書かれている例がわかりやすいので、少し長いが引用しよう。
たとえば、ある3人家族が山登りに行ったとする。
しばらく歩いていると道端に人の腰の高さくらいの岩があるのを見つける。
父親はそこに「一休みしよう」と腰をかけ、母親は岩の平らなところに弁当を広げ、子供は岩によじ登ったりして遊び始める。
この場合、たった一つの岩が多くの意味を持っていることが分かる。父親にとっては椅子であり、母親にとってはテーブルであり、子供にとっては遊び道具だ。
つまり一つの物事でもそれが置かれている環境や、それに接する人の解釈によって、無限の意味を持ちうる (=意味をアフォードしている)ということだ。
これら「アナロジー」「アブダクション」そして「アフォーダンス」という3つの概念が編集工学において非常に重要だ。
なぜなら、世界のあらゆる物事が持つ意味(アフォーダンス)を環境や状況といった関係性から解釈し、それをアナロジーやアブダクション(推論)を使って他の物事が持つ意味や関係性を捉え直すこと。これこそが「編集」だからだ。
本書の後半では「具体的にどのように情報を編集するのか。」「新しい価値を生み出すための思考法とはどんなものか?」が数多く紹介されている。そのすべてがこの3つの概念をベースとして展開されている。拙い説明で恐縮だったが、上記の3Aに関して少しでも興味を持たれたならば、ぜひ本書を手にとって頂きたい。今までとは全く違う世界の見方を知ることができるはずだ。
編集工学とは関係性を見出すための技術
このように編集工学の特徴とは、あらゆる情報を分析する際に、物事それ自体ではなく、それが置かれた環境や他の物事との関係性に目を向けるところだ。
私たちは特定の物事を考える時には、その物自体を中心に考える癖がある。しかし、その物事自体は実に多様な意味(アフォーダンス)を含んでいるため、結局物事分析とはその環境と関係性を見つめることに他ならないのだ。
ただ、このような関係性に着目して分析するという手法編集工学の特権ではない。たとえば20世紀の経済学者にジョセフ・アロイス・シュンペーターがいる。イノベーションという概念の重要性を説いた人物であり、本書でも彼が提唱したイノベーションの重要性が紹介されているのだが、彼もまた物事の関係性という観点を重視した。
イノベーションにおける物事の関係性の役割を考えるために、この点を少し掘り下げたい。
イノベーションとは"編集"のこと
シュンペーターの提唱したイノベーションという言葉は、日本語で技術革新と訳されることが多い。しかし、彼が使っている意味は少し異なる。
シュンペーターは『経済発展の理論』の中で「新結合」という言葉を使って、この概念の重要性を説いた。その中で彼は企業が生産を拡大するために、生産方法や組織といった生産要素の組合せを組み替えたり、新たな生産要素を導入することで生産力を拡大することをイノベーションと呼んでいる。
すなわちイノベーションとは、一般に思われているような革新的なアイデアをゼロから生み出すようなものではなく、既存の要素を組み合わせを変化させることで新しい価値を生み出すことなのだ。そう、今回紹介している本書の中でいわれている、”既存の情報を編集する(組み合わせる)こと”がイノベーションだとシュンペーターは言っているのだ。
そして、イノベーションのためにシュンペーターが重視したのが「ヴィジョン」であった。
イノベーションに必要な”ヴィジョン”
ヴィジョンという言葉は、世界の全体像や未来など、本来見えるはずのないものを見通す力のことであり、あえて言うならば洞察力、直感力、想像力といった言葉が当てはまるだろう。一見すると科学的な根拠のない、非合理的な、神がかった力のように思える物だが、シュンペーターは”科学”こそがこのヴィジョンの力に支えられていると考えていた。
たとえば何かの科学的な研究を行うとしよう。
この世界には無数の事柄が存在し、それらをすべて網羅的に分析することなどは人間にはできない。そこで科学者は無数の事柄の中から分析対象を選び出し、それに焦点を絞って研究を始めることになる。
すなわち、直感力などとは何も関係ないような科学的研究においても、まず最初に分析対象を選ぶ時点では、非科学的な直感にしたがって決定を行うのである。この直感に対してシュンペーターはヴィジョンという名を与え、その重要性に焦点を当てた。
つまり、科学という非常に合理的な学術体系においてさえ、実はその出発点にはヴィジョンという非科学的なものを宿しているのだ。
イノベーションは近代合理主義の否定から始まる
さて、ここまで見たように、シュンペーターの議論にならえば、科学さえもその出発点にはヴィジョンという非科学的なものを宿していることになる。
そして、現代の私たちの生活のほとんどはこの”科学的なるもの”に支えられている。
ここから分かるのは、科学によって進歩してきたと思われる私たちの生活は、実は非科学的なによってもたらされているということだ。これはある意味近代以来の合理主義が必ずしもこの世界のすべてを説明しうるものではない、ということを意味する。
実際、本書においても編集工学という考え方がいわゆる「近代合理主義」への批判、あるいは距離を置こうとする思想が見え隠れしている。
たとえば第二章「世界と自分を結び直すアプローチ」において、つぎのような記述がある。
近代以降の伝統的な知覚モデルでは、「意味」というものは人間の頭の中で完全に処理されているとされてきました。視覚、聴覚、触覚等の感覚器からの入力情報を脳が処理して「意味」にすると考えられてきたのです。
その見方のルーツは17世紀の哲学者ルネ・デカルトにあります。「我思う故に我あり」で知られるデカルトは、精神と身体を異なる実体として捉える「心身二元論」を説きました。客観的な「事実」の世界と人間が生きる「価値」の世界を明確に分離したのです。現代の医学やテクノロジーは、このデカルト以降の二元論を基軸にした西洋的世界観を規範としています。知性を身体や環境から切り離し、知識や論理の力で自然を含む世界を認識しコントロールしようという見方です。
と述べている。
また、シュンペーターもヴィジョンに関する議論において、カール・マンハイムという社会学者の研究を参照しているのだが、マンハイムの社会学は次のような哲学を基礎としていた。
それは
・人間とは集団生活の営みの中で生きるものであるという存在論
・人間はその集団生活を通じてのみ世界を知ることができるという認識論
だ。これはまさに主観世界と客観世界を分離し、個人が抽象的な思索を通じて客観世界を認識するというデカルト以来の近代合理主義を否定するものだ。
ヴィジョンを磨くための編集工学
社会が安定的に成長してきたこれまでの世界においては、たしかに近代合理主義的な判断や思考方法が機能してきたのは間違いない。ファクトやエビデンスに基づく論理的な思考こそが重要であると言われてきた。
しかし、これからの社会ではそれが逆転するのかもしれない。
むしろ、ここ数年のように社会が不安定化し、先行きが不透明な時代においては、必ずしも近代合理主義的な方法では物事を解決するイノベーションを見出すことができないという可能性がある。
これからの不透明な時代を生き抜くためには、合理的で科学的なロジカル思考ではなく、先を見通すヴィジョンを持つことが私たち一人ひとりに求められるのかもしれない。そのヴィジョンを身につけるために、この編集工学というアプローチは非常に強力な武器になるのは間違いないだろう。
という訳で今回ご紹介した本はこちら
安藤昭子著「才能をひらく編集工学 世界の見方を変える10の思考法」
でした。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m
高橋真矢 著「資本主義から脱却せよ」。未来のために私たちが取り戻すべきものとは何か。
早速ですが今回ご紹介する本はこちら。
高橋真矢・井上智洋・松尾匡の3名による共著「資本主義から脱却せよ」。
最近、資本主義批判の本がよく出版されており、若干”流行り”のような感じがある。この本もてっきりその流れの本かと思ったものの、著者に私が好きな井上智洋という経済学者が名前を連ねていたため手に取った次第。
さて、肝心の中身はどうだったのか?
正直、初見の印象はかなり悪い
内容の紹介の前に言いたいことが一つ。
それは「編集力の無さによって、ここまで駄作になる本も珍しい」ということだ。
誤解がないように言っておきたいのだが、内容はかなり面白い。
貨幣という一つのテーマを切り口に、芋づる的にさまざまな問題を論評していくさま様は、自分が物事を考える上でも非常に示唆に富んでいる。
また、三名の独自の視点で語ることで、よりテーマを多角的に掘り下げようとする試みも面白い。
だが、いかんせん一つの本としての構成が悪すぎて、内容が非常に理解しづらい。
それぞれの論説はわかりやすく丁寧なのだが、構成が悪いために話があちこちに飛びすぎており、論旨が定まっていない(ように読める)のだ。
本当に「編集者出てこい!!」と怒鳴りつけたいほどだ。
この点についてはまた後で述べたいと思うが、著者三名の論説も紹介しつつ、この本が読みやすくなる読み方を提案したいと思う。
本書のテーマ
この本を読みやすくするために、本書のテーマとは何かを確認しておきたい。
一般的には書籍のタイトルなのだが、残念ながらそれも違う。率直に言ってタイトルの「資本主義から脱却せよ」は本書のテーマとはかなり食い違っていると思う。
実は本書においては副題の方が圧倒的にテーマにかなっているのだ。その副題とは「貨幣を人々の手に取り戻せ」である。
これは完全に邪推だが、編集者はこのタイトルでは売れないと思ったのではないだろうか?実際よほど経済と社会の問題に関心がある人でなければ、「貨幣を取り戻せ」などと言われても、全くピンと来ないだろう。
一方、昨今はなにかと資本主義批判が流行だ。
斉藤幸平の「人新世の資本論」にせよ、渋沢栄一の「論語と算盤」にせよ、現代の資本主義のあり方は間違っており、新しい資本主義のあり方を模索すべきだという論調がさまざまな雑誌やビジネス記事で見受けられる。
その流行に乗っかる形で「資本主義からの脱却」などという眉唾もののタイトルを選んだのではないだろうか。
そう思わざるを得ないほど、この本は”資本主義からの脱却”というタイトルではかなり語弊があると言って良い。
この辺りのセンスのなさが、本書の内容の分かりづらさにもつながっていると思われる。中身自体はとても良いのに、非常にもったいない・・・。
本書の概略
構成が非常に分かりづらいものの、実は一旦中身さえ理解してしまえば、この本の内容は非常にシンプルだ。すなわち
「”失われた30年”の間、多くの国民はとても勤勉に働いてきたのに、まったく生活は豊かにならない。その理由はよく言われるような”日本人の生産性が低いから”ではない。お金つまり貨幣を国内で循環させるシステムに問題があるからだ。
このシステムの問題を改善することで、私たちは”一所懸命に働けば豊かになれる”という当たり前のストーリーを取り戻すことができるのだ。」
というものだ。
そして、この「貨幣を国内で循環させるシステムの問題点」を明らかにするために
1)貨幣が発行され、流通するシステムを解説
↓
2)その問題点を提起
↓
3)問題点を解決するための方策を提示
という形で議論が展開されていく。
上記1~3に関して、3名の著者がそれぞれの専門分野において解説を行うのだが、内容にはレベルの差があることは注意していただきたい。
メインの著者というか、今回の著作の呼びかけ人である高橋真矢氏は学者ではなく、不安定ワーカー (執筆段階では失業者)という立場もあり、生活に苦しむ一般人の視点から解説を行う。
井上智洋氏は経済学者の立場から、少し技術的な貨幣システムの在り方を理論的に紹介しつつ、今後期待される貨幣システムの在り方を提案する。
そして、松尾匡氏は経済学者の立場でありながらも、どちらかというと貨幣と国民の関係性を思想的な面から解説する。
という内容になっている。
この次元の違う3名の論説がバラバラと展開されているため、一章から順番に読んでいくとかなり混乱する。したがって、お勧めな読み方としては、自分の興味や経済学への知識に合わせて、3名それぞれの論説だけ読んでいくのが良いかと思う。
たとえば、経済学に関してある程度知識がある方なら、井上氏や松尾氏のセクションをいきなり読んでも楽しめるかもしれない。
逆に経済学には馴染みがなく、「経済ってお金儲けのことでしょ?」くらいの感覚の方であれば、高橋氏の”生活になじんだ”議論から読み進めた方が楽しめるだろう。
特に高橋氏が解説する貨幣発行システムの説明に関しては、恐らく国民の99%が知らないような内容であるため、目から鱗が落ちるような感覚を味わえるはずだ。
お金を生み出す万年筆の話
本書を紹介されている中でもっとも重要な概念が「信用創造」という貨幣発行システムだ。これさえ分かれば本書の内容の80%は理解できるし、現在の日本の経済問題はほとんど理解できてしまう。
信用創造とは誤解を恐れずに言えば「お金が生まれて、国内に循環するプロセス」を描いた概念だ。本書に詳しく解説がなされているが、私のブログでも以前紹介したことがある。
多くの人は「お金は政府が造幣局で作っているものだ」と思っている。
だが、それは半分正解で半分間違いだ。
確かに貨幣を発行する権限は政府あるいは中央銀行にのみ与えられている。しかし、貨幣にはいわゆる現金通貨の他に、銀行預金も含まれており、国内で出回っている貨幣のほとんどはこの銀行預金なのだ。
また、この銀行預金とは通常「国民が稼いだお金を銀行に預けている」と思われがちだが、これも半分正解で半分間違いだ。
確かに私たちの”貯金”も銀行預金に含まれるのだが、実はほとんどが「銀行がどこかの事業主に貸しつける時」、つまりその事業主を”信用”して融資を行う時に「事業主の口座に”融資額〇〇万円”」と書き込まれるのである。
お金はどこかから融通して貸し付けるのではない。
むしろ事実は逆で「銀行が誰かにお金を貸しつける時に、銀行口座にポンっと生まれるもの」なのだ。
これは普通の感覚では信じがたいことだが、日々現実に行われていることであり経済学的には当たり前のことなのである。
これは実は日本政府がお金を発行する時も同じことが起きている。
日本銀行が日本政府に対してお金を貸しつける時に、日本政府の口座にお金がポンっと生まれる。当然日本政府はこのお金を返済しなければならないが、日本政府には通貨を発行する権限があるため、いくらでも返済することができる。
したがって、この信用創造という概念を理解しておくと、日本政府が財政破綻するなどと言うことは、どう考えてもあり得ないことが分かる。逆に言えば、信用創造を理解していないから、”日本が財政破綻するという嘘”にいつまでも騙され続けるのである。
本書を読み、信用創造のプロセスを理解した時、私たちの生活がなぜいつまでも豊かにならないのか、その理由がきっと分かる。そして、今私たちが何を議論すべきかもわかるだろう。
貨幣という物の本来の役割を改めて認識することで、私たちの生活を豊かにする貨幣とはどうあるべきかについて、より深い知見を手にすることができると思う。
内容構成が稚拙なため分かりづらい部分が多々あるものの、内容としては非常に含蓄が深い。ぜひ一人でも多くの人に、本書を手に取って欲しいと願う。
という訳で今回ご紹介したのはこちらの本
でした。
今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m
映画「るろうに剣心 The Final」。ファン歴30年が語る感想と次作への期待。
さて、ついに映画「るろうに剣心 The Final」を観てきました。
るろうに剣心シリーズの最後を締めくくり、シリーズ最大の謎に迫る今作。
ファン歴25年以上を誇る”るろ剣フリーク”の私の目にどのように映ったのか?
ちなみに、下記投稿で「るろうに剣心の魅力」を映画鑑賞前に語りました。よろしければこちらも。
- 率直な意見
- 注意点: 漫画の再現性ついて
- アクション映画としては120点
- ストーリー性の評価
- るろうに剣心のテーマとは何だろうか?
- るろうに剣心という物語における今作の位置づけ
- 今作は剣心に「人生を超克」させることができたか?
- The Begginingへの期待。物語のテーマを左右する”あの人物”は登場するのか?
率直な意見
注意点: 漫画の再現性ついて
アクション映画としては120点
ストーリー性の評価
るろうに剣心のテーマとは何だろうか?
緋村剣心の抱える闇。それとの向き合い方の変化
るろうに剣心という物語における今作の位置づけ
↓
今作は剣心に「人生を超克」させることができたか?
The Begginingへの期待。物語のテーマを左右する”あの人物”は登場するのか?
それでも「The Beggining」に期待する
るろうに剣心に興味がある人なら、映画鑑賞前に「るろうに剣心への熱い思い」を語った投稿もぜひ見てください!(笑)
映画「るろうに剣心」に寄せて。”るろ剣”の真のテーマと長年愛される理由。
いよいよ、ついに、この時がやってきました・・・
るろうに剣心最終章「The Final」が4月23日に公開されました!!!
私にとって「るろうに剣心」は、”人生を変えた”と言っても過言ではない作品。
私の人生は「るろ剣」なしには語ることができません (「たかが漫画で大げさな」とか言わないでくださいね・・・)。
何といっても私は、るろうに剣心の作者である和月伸宏のデビュー作からのファン。
さらに言えば、和月氏がデビュー前にアシスタントを務めていた小畑健の作品『魔神冒険譚ランプ・ランプ』の頃から、和月氏に注目していましたから!
さらにさらに、るろうに剣心の前哨戦ともいえる作品 「戦国の三日月」をリアルタイムで読んでいた男ですから!
筋金入りです!
今回の投稿では、そんな私の超個人的な「漫画版 るろうに剣心」への思いに加え、
・漫画「るろうに剣心」の概要
・映画「るろうに剣心」の概要
・「るろうに剣心」がなぜ時代に残る名作になったのか
・”売れる作品”と”名作”の違い
について考察。
その上で、今だからこそ言いたい私の自説
「漫画るろうに剣心は”本当は和月氏はこう終わるだったはず!”」という連載当時から確信していた”真のるろうに剣心エンディング”
も披露しようと思います (「妄想」とも言う(笑))。
こうあるべきだった
・「映画版 るろうに剣心」への期待
について書いてみます。
これを読めば、あなたも「るろうに剣心」を観たくなるはず!多分!
- 漫画「るろうに剣心」の概要
- 映画「るろうに剣心」の概要
- 映画版「るろうに剣心」。前作までの感想
- るろうに剣心はなぜ面白かったのか?
- 今回の映画はめちゃくちゃ暗い話になる??
- 本当はこうだったはず?漫画版「るろうに剣心」のラスト
- 私がるろうに剣心を愛する理由
- 最終巻の作者コメントへの思い
漫画「るろうに剣心」の概要
”るろ剣”という愛称で親しまれる「るろうに剣心ー明治剣客浪漫譚ー」。
1994年から1999年にかけて週刊少年ジャンプに連載された漫画で、明治十年という少年誌にしては一風変わった時代を舞台にした作品です。
主人公の名は「緋村剣心 (ひむら けんしん)」。
見た目は身長が低く、優男風。爽やかな笑顔でとても人当たりの良い人物。
しかし、実は彼は江戸末期の京都にて政府要人を暗殺する人斬りとして、恐れられた最強の剣客だった。あまりに多くの人を斬ったため、ついたあだ名は”人斬り抜刀斎”。
そんな男が明治になってからは、人を斬ることを一切封じ、世間で苦しむ市井の人々を陰ながら助ける流浪の旅を行っていた。
その緋村剣心はひょんなことから、神谷薫という女性と出会い、彼女が道場主を務める剣術道場に居候することになる。
その緋村剣心の前に、”人斬り抜刀斎”としての力をもってしか太刀打ちできない強大な敵が次々と現れる。
はたして剣心は、その強大な敵をしりぞけつつ、神谷薫や仲間たちとのつつましい生活をも守り続けることができるのかー。そんなストーリーです。
映画「るろうに剣心」の概要
この漫画るろうに剣心を原作として、大友啓史(おおとも けいし)監督の下、実写映画化されたのが「実写版るろうに剣心」です。
主人公の緋村剣心には、その身体能力の高さと"優男"風というイメージにピッタリな佐藤健がキャスティングされ、ファンの間でもかなり期待値が高まりました。
現在までに
2012年「るろうに剣心」
2014年「るろうに剣心 京都大火編」「るろうに剣心 伝説の最後編」
が公開された。
そして今年原作の最終章である「人誅編」を描いた「最終章 (前編) The Final」が公開。その後6月4日に「最終章 (後編) The Beggining」が公開予定です。
映画版「るろうに剣心」。前作までの感想
実際のところ、るろうに剣心の映画化と聞いたときは微妙でした(笑)。「どうせ原作レイプだろ」という感じです。るろうに剣心の世界観を実写で表現できるわけがないと確信していましたので。
ただ、その一作目の映画は予想に反して、かなり見応えがありました。とくにアクションに関してはかなりの高レベル。
ストーリーは原作ファンとしては違和感がかなりありましたが、恐らく製作陣も「二作目がやれる」とは思っていなかったのではないでしょうか。かなり"詰め込んだ感"があったのは事実です。
それでも「ちゃんと描ける時間があれば、もっと面白かったのかもしれない。それだけに残念。」と思わせるクオリティではあったと思います。
果たして、続編の京都大火編と伝説の最後編は、ストーリー的にもかなり練られており、「アクションだけじゃないんだ」とファンを唸らせる展開でした。まぁ、それでも詰め込み感はあり、「あと3時間あればなぁ…」とは思いましたが(笑)。
そして、ついに今年最終章となる、剣心の十字傷の秘密を知る男「雪代縁(ゆきしろ えにし)」との戦いを描く「The Final」、剣心が人斬り抜刀斎として生きた幕末を描いた「The Beggining」の二部作が公開となります。
少年漫画の主人公しては異例な"闇"を心に抱える剣心が、自分が犯した罪とどのように向かい合うのか?
宿敵との戦いの果てに、自分の過去を乗り越える答えを見つけることができるのか?
この難しいテーマが果たしてどのように描かれるのか注目です。
るろうに剣心はなぜ面白かったのか?
正直に言って、るろうに剣心という漫画は爆発的ヒット作と言えるほどの作品ではないと思います。
週刊少年ジャンプで連載されていた頃、同誌では
・幽遊白書
など、まさに爆発的ヒットと言える名作がひしめき合っていました。
それらの作品と比べると、るろうに剣心はいささか"小物感"があるのは否めません。アニメ化もされたし、ゲームにもなった。小説にもなりました。
ですが、社会現象といえるほどの影響力があったかといえば、残念ながら力不足だったと言わざるを得ないでしょう。
では、原作終了から20年あまりが経過しても、なぜるろうに剣心は多くのファンから愛され続けるのでしょうか?
さまざまな理由があると思いますが、やはり私は主人公である緋村剣心に与えられた"主人公らしからぬ設定"にあるのではないかと思います。
王道と真逆の主人公
るろうに剣心の主人公・緋村剣心は、幕末に維新志士側の暗殺者として活躍し、“人斬り抜刀斎”と恐れられた男。数多くの暗殺者がうごめく京都において「最強」の人斬りだった。
そもそもこの設定自体が当時の常識から考えて異常 (現在だとサイコパス系の主人公も散見されますが、当時としてはかなり異例)。王道としては「人斬りに親兄弟を殺された主人公」という設定のはず。
ところがこのるろうに剣心は「殺しまくった人間」が主役です。王道から外れまくっています。
それに加え、緋村剣心は”最初から"最強だという点も異例です。
少年漫画としては「弱い主人公が友情と努力で強くなる」のが王道ですが、第一話目から最強の剣客というのは、かなり変わった設定だったと言えるでしょう。
正直これでは少年漫画の主人公としては微妙です。
少年漫画の主人公にとって重要なのは「読者が共感を覚えるかどうか」です。その意味では「最初は弱い主人公が努力して強くなっていく」という物語は、読者が共感しやすい設定です (今大流行している鬼滅の刃も「家族を大事にする」というところが、今の時代に共感を得やすい設定だと言われています)。
では、緋村剣心は一体どういう点で読者の共感を得ることができたのか?
最強にして最弱。それが緋村剣心の魅力
王道とは真逆の設定でありながら、緋村剣心が主人公としての魅力を勝ち取ることができた理由。それは「剣術の腕は最強だが、心は最弱」という点にあります。
剣心は新しい時代を切り開くという崇高な理想を持っていたものの、数え切れない人たちを斬ったという重い過去を背負っている。自分には人並みの幸せを得る権利はないと思っているからこそ、明治維新後も誰とも深い付き合いはせず、10年もの間孤独な放浪旅を送っていた。
心が最弱というと語弊があるかもしれませんが、どこか自分の命を軽く見ているし、思い過去を乗り越えて幸せに生きようと言えるほどの心の強さを持つことができないでいる。
そういう心の闇を抱えたところが、「誰も本当の自分の気持ちをわかってくれない」とどこか”精神的な放浪生活”を送っているような悩み多き10代の少年たちの心に響いたのではないでしょうか。
それまでの漫画の王道だった「あこがれ」「爽快感」「(肉体的に)強くなって困難を乗り越える」というのとは違った形で、読者の心を掴んだのが緋村剣心という主人公だったと思うのです。
精神の成長という新しい物語展開を実践したるろうに剣心
るろうに剣心以前の漫画では、ほとんどの場合が肉体的に強くなり、敵を打ち倒すことで物語が展開されていました。もちろん肉体と精神は強く結びついていますので、どちらか一方だけで成立するわけではありません。あくまでバランスの問題ではありますが、やはり肉体的な強さの方が”少年誌的なわかりやすさ”という面で有利ですので、どうしても肉体的な強さでストーリー展開が進むことが多かった。
その点るろうに剣心はより深く精神的な強さの方に踏み込んだ作品だったと言えます。
特に師匠から最強の奥義を会得する際に、それがドラマチックに描かれます。
剣の技術では剣心よりも強い師匠が繰り出す技に打ち勝つには、技術だけでは足りない。
生死を分けるコンマ数秒の戦いの中で、「自分は罪深い人間だからいつ死んでもいい」という後ろ向きな生き方を乗り越えること。そして自分のためではなく、「自分の愛する人や大切な仲間のために、俺は死ぬわけにはいかないんだ」という”生きようとする意思”を強く持つこと。
これこそが奥義会得のためにもっとも大切な要素だった。
それに気づいた剣心はようやく自分自身の命と正面から向かい合う心の強さを得ることができたのでした。
こういった、より精神面での成長をドラマとして描く作品はかなり少なかったように思いますし、この点こそ今でもなお読者の心を引きつけ続ける「るろうに剣心」の魅力なのではないでしょうか。
今回の映画はめちゃくちゃ暗い話になる??
さて、そんなこんなで(笑)、ようやくまっとうな幸せを手に入れようと歩みだした緋村剣心。
そんな彼の前に、ついに自分の心のもっとも奥深くに刻み込まれた過去の苦い記憶と、自分の犯した最大の罪と向き合わなければならない敵が現れます。
それが今回の映画「The Final」と「The Beggining」の敵である、雪代縁です。
映画版がどのように描かれるのかまだ分かりませんが、少なくとも漫画版ではこの章はかなりシリアスで暗い話になっています。少年誌的にはNGじゃなんじゃないかというくらい暗い。
前章である「京都編」がかなり大人気だったお陰で何とか連載を続けられましたが、それがなかったら途中で打ち切りになっていてもおかしくないくらい暗いです。
その最大の原因は「ヒロインである神谷薫が死ぬ」というまさかの展開があるからです。
いや、たしかに精神性を強く打ち出した作品だとは分かっていましたが、まさか少年誌でヒロインが主人公の目の前で殺されるとかあります??
ただ、 実際にはこれは「神谷薫そっくりの人形」であり、神谷薫は死んでいなかったという展開だったので、一安心だったのですが。
それでも週刊連載中の半年くらいは「神谷薫は死んだ」ということで話が進んでいきましたので、相当インパクトがあったのは間違いありません。
この点が今回の映画でどのように描かれるのかも、かなり興味が惹かれるところです。
本当はこうだったはず?漫画版「るろうに剣心」のラスト
さて、先程最終章の「ヒロインである神谷薫が死んだ・・・と思っていたら生きていた」という話題を述べました。
実は私この部分のストーリー展開こそ「るろうに剣心」最大の山場であり、ここにこそ最大の魅力があると思っていますので、ちょっと詳しく紹介したいと思います。
以下、激しくネタバレになりますので要注意でお願いします!!
前述の通り、この最終章において一旦神谷薫は殺されます。
殺すのは今回の映画版の敵役である雪代縁。雪代縁は雪代巴 (ゆきしろ ともえ)という女性の弟であり、この巴は幕末当時緋村剣心の妻でした。
そう。「妻だった」のであり、明治にはすでに故人となっています。
そして、この巴を殺したのが、他でもない夫である緋村剣心だったのです。これは悲劇的な不慮の事故であり、剣心は何も悪くないのですが、その惨殺の現場だけを見た縁は「剣心が姉を殺した」として復讐を企みます。
その復讐の手段として「緋村剣心がいま愛している女、神谷薫を剣心の目の前で殺す」という方法をとるのです。
・・・が、諸事情のための縁には神谷薫をことはできず、その代わりに精巧に作られた神谷薫の人形を死体に見立て、剣心に「お前のせいで、この女は死んだんだ」と思い込ませることにしたわけです。
結論を言ってしまえば、この計画は明るみになり、神谷薫は無事に剣心の下に戻り、物語はハッピーエンドを迎えます。
しかし。
私は、もし作者がこの「るろうに剣心」という作品の”作品性”を重視し、自分の伝えたいテーマを描くことを貫くのであれば、神谷薫は本当に殺すべきだった、と思っています。
作者が剣心の人生を通して伝えたかったのは、神谷薫を殺され、失意のどん底で自暴自棄になって仲間をも見捨てようとした剣心に、とある人物が諭した次の言葉だったはずです。
「大事なものを失って、身も心も疲れ果て、けれどそれでも決して捨てることができない想いがあるならば、誰が何と言おうとそれこそが君だけの唯一の真実だ。」
人生には死ぬほど辛いことがたくさんある。本当に死にたくなるようなときもあるし、何もかもがどうでも良くなるような時だってある。
でも、そういう時においてさえ、人には「決してこれだけ譲れない」という何かがあるはず。それがどんなに下らないことでも、甘っちょろい戯言でもいい。
自分が本当に正しいと思うなら、それに従って生きろ。誰の真実でもない。それこそが自分自身にとっての真実なのだから。
これが作者が伝えたかったメッセージだったと思います。
だとするなら、文字通り剣心には「すべてを失わせなければならなかったはず」です。
一応、剣心は神谷薫が実は生きていたということを知る前に、自力で立ち上がることに成功しますが、それでも物語の厚みという意味では神谷薫が生きていたことで説得力が薄くなった感は否めません。
最愛の人を守れず、目の前で惨殺されたとしても、それでも”目の前の人々の幸せを守る”という信念に従って最後まで生きていく・・・それがこの作品のテーマをもっとも強く打ち出せるエンディングだったと思います。
恐らくそれは作者は百も承知だったはず。
けれども、その手法は取らなかった。
なぜでしょうか?
私がるろうに剣心を愛する理由
神谷薫が死ななかった理由。
もちろん「少年誌的にそれは・・・」という大人の立場もあったと思います。
実際、神谷薫が死んだ(ということになった)後、るろうに剣心の少年ジャンプでの掲載順は見る見る後ろへ下がっていきました。ジャンプは人気投票で掲載順が決まるので、ヒロインが死ぬという衝撃的な展開がファン離れを引き起こしたのは間違いありません (それはコミックスで作者も言及している)。
ただ、そういった「少年誌的な配慮」という以上に、作者が”エンターテインメント”という物にこだわったからというのが最大の理由だったと思います。
作者である和月氏はコミックスの中で、物語展開の裏話とかキャラ設定が反省点とかを載せているのですが、その中で何度も「エンターテインメントはハッピーエンドであるべき」という持論を掲げています。
それはやはり「自分もそうやって漫画というエンターテインメントから夢や希望を受け取ってきた。自分もその一端にいる以上、読者に夢を届ける作品を書くべきだ」という自負があるのだと思います。
確かに神谷薫を殺した方が作品性はより高まるのは間違いない。
これは連載中にも思っていたし、今でもそう思っています。
しかし、問題はそれでは絶対ハッピーエンドにはならないということ。
どちらを取るべきかの激しい葛藤の結果、作品性よりもエンターテインメントであることを選び取ったのではないか・・・・私はそのように思っています。
実はこれこそが私がるろうに剣心を愛してやまない理由です。
るろうに剣心という作品自体もそうですが、この作品を通じて作者の苦悩が染み出しているー。それが私がるろうに剣心に惹きつけられる理由です。
ジョジョの奇妙な冒険のように、練りに練られたストーリー展開とキャラ設定で、息をつかせぬ展開で読者を引きつけるというのも、非常に面白いと思いますし、それこそが名作であるとも思います。
そういう意味では「るろうに剣心」は残念ながら名作とは言えないかもしれない。
ただ、物語の流れを丁寧におっていくことで、作者の苦悩や成長が見えてきます。
その作者成長の物語に自分自身の苦悩や楽しみを投影し、作者と一緒に成長しているような不思議な感覚を味わえる作品だと言えるのではないかと思うのです。
最終巻の作者コメントへの思い
繰り返しになりますが、このるろうに剣心が世間一般で言われる”名作”かどうかは分かりません。
ただ私にとってるろうに剣心はとても特別な作品なのは間違いありません。
この作品をきっかけにして、私はそれまで知らなかった新しい世界にたくさん触れることができました。
幕末という時代に興味を持ったことで、日本のみならず世界の歴史や経済、そして政治制度などの様々な問題について知見を広げることになりました。いささか大げさに言えば「自分が生きる理由」を考えるきっかけになったとさえ言えます。
先程も書いたように、この「るろうに剣心」のコミックには、作者によるこの作品へのさまざまなコメントが載せられています。
その最終巻の巻末に掲載してあるコメントが、この方の漫画家としての矜持がとてもよく現れています。文章としては拙いと思いますが、「るろうに剣心」という作品の締めとしてとても良い文章だと思いますので、転載させていただきます。
「プロの漫画は作品であると同時に商品です。商品である以上、買った人がそれでどのように楽しもうとそれはその人の自由です。
通勤通学にヒマ潰しで読むも良し、読み飽きたら捨てるも良し、古本屋に売るも良し、本当に自由です。
けど、それでも和月はこの「るろうに剣心ー明治剣客浪漫譚ー」が皆さんの本棚の片隅に長く残ってくれる様、作者の勝手なエゴだとわかっていても、願って止みません。
和月の本棚の片隅に今もならんでいる、子供の頃に買った幾つかの漫画と同じ様にこの漫画がなれたら、これ以上嬉しいコトはありません。
1999年10月某日 和月伸宏 」
これから何百冊、何千冊と本を買い求め、その中にはいろいろな事情で手放さざるを得ない作品もあると思います。
しかし、この「るろうに剣心」だけは恐らく私が死ぬまで、私の書棚で生き続けることは間違いなさそうです。
今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m
よい人生を送るために必要なたった一つの”輪”。ロルフ・ドベリ著「Think Clearly」。
「よい人生を送るにはどうすれば良いのか?」
「どうすればより幸せになれるのか?」
大昔からあらゆる人間が抱いてきたであろうこの疑問。
これに真っ向から、そしてわかりやすく答える世界的ベストセラーを今回はご紹介。
それがこのロルフ・ドベリ著「Think Clearly」だ。
ビジネス書のベストセラーというだけで”胡散臭さ”を感じる人もいるかもしれないが、この本は違う。
文章はシンプル、論旨は明確。非常に読みやすい。
だが、先を見通しづらい複雑なこの世界を生き抜くために重要な、そしてクリアーな方針を指し示してくれる書籍だ。
著者紹介
著者であるロルフ・ドベリは作家であり、実業家。1966年、スイス生まれ。
スイス航空の子会社数社でCEO、CFOを歴任。
科学、芸術、経済における指導的立場にある人々のためのコミュニティー「WORLD.MINDS (ワールド・マインズ)」を創設し、理事を務める。
35歳から執筆活動をはじめ、世界の多数の国での雑誌や新聞に寄稿。著書は40以上の言語に翻訳出版され、累計発行部数は300万部を超えるベストセラー作家。
著書に
「Think Smart 間違った思い込みを避けて、賢く生き抜くための思考法」
「New Diet 情報があふれる世界でよりよく生きる方法」
などがある。
作家であり、実業家でもあるという風変わりな肩書を持つ著者だが、彼の著作の面白い点は人生という困難な道をよりよく生きるための処方箋を、とても簡潔な言葉でわかりやすく表現してくれるところだ。
しかも、そこには恩着せがましい押し付けや高圧的な態度は微塵もない。
微笑みながら対話してくれているかのような”優しさ”を感じる独特の文体が魅力だ。
※ロルフ・ドベリの「New Diet ー情報があふれる世界でよりよく生きる方法ー」については、別記事で取り上げました。これもかなり面白いのでよろしければ、こちらもどうぞ!
この本の最大のコンセプトとは
この本の目次を見てまず思うのは、その章立ての多さだ。なんと全部で52章にも及ぶ。
しかし、安心して欲しい。この数は内容の複雑さを示すものではない。
52章のそれぞれが人生をよりよくするための思考方法をひとつずつ紹介する形になっており、ひとつひとつの内容はとてもシンプル。一章あたり7〜8ページであり、寝る前にでもサラッと読めてしまうものだ。
とは言え、この52の方法をひとつずつ紹介していたら、軽く1万文字は超えてしまうだろう。
そこでここでは、この52の方法すべてに宿るひとつのコンセプトを紹介したい。
そのコンセプトとは
「よい人生を送るためには”判断の基準”を明確にせよ」
ということだ。
人が不安やストレスを感じる状況とは?
人が不安やストレスを感じるのは
「物事をどう判断したら良いか分からないとき」
あるいは
「自分以外の他者に判断が握られているとき」
だ。
逆に言えば、不安やストレスを感じない生き方をするためには
・物事を判断する時の基準を自分の中で明確にしておくこと
・判断の主導権を自分が握る環境を作ること
が大切になるということだ。
したがって、よりよい人生を送るためには自分の判断基準を明確にしておくことが重要となる (これには「私にはこれは判断できない。だから別の誰かに判断させる」という判断も含まれる)。
能力の輪を明確にする
では、そのような判断基準をどうすれば明確にできるのだろうか。
そのために重要なキーワードは「能力の輪」だ。
能力の輪とは「”この内側はできる。この外側はできない。”という自分の能力の限界ライン」のことだ。
これはウォーレン・バフェットという世界的に有名な投資家が使った言葉で、彼は人生のモットーとして
「自分の”能力の輪”を知り、その中にとどまること。輪の大きさはさほど大事じゃない。大事なのは、輪の境界がどこにあるかをしっかり見極めることだ。」
と述べている。
著者は次のように言う。
人間は、自分の「能力の輪」の内側にあるものはとてもよく理解できる。だが「輪の外側」にあるものは理解できない。あるいは理解できたとしてもほんの一部だ。
(中略)
「能力の輪」の境界がわかっていれば、仕事上で何かを承諾したり断ったりしなければならないときでも、そのつど判断しなくてもすむ。
(中略)
自分の「能力の輪」をけっして超えないようにすることが重要だと言える。
(本書P137)
「能力の輪」から出てはならない
これは今年の大河ドラマ”晴天をつけ”の主人公である渋沢栄一が言う「蟹穴主義」に通ずるものがある。
わたしたちがよく知る蟹は、海や川に穴を掘ってその中に棲みつくが、その穴は自分の甲羅の大きさと同じ大きさなのだそうだ。決してそれ以上の大きな穴は掘らない。
渋沢栄一は「論語と算盤」の中で、自分はこの蟹穴主義に基づいて生きてきたという。つまり、自分の能力の輪以上の大きさの物事には関わらないようにしてきたということだ。
人はついつい自分の「能力の輪」を超えた物事に関わりたくなるときがある。自分の能力の輪を広げたいという誘惑だ。
だが、この「能力の輪」をむやみに広げようとする誘惑が、のちに自分に大きな不安やストレスを引き起こす。どれほど人の能力が高かろうとも、それはあくまで特定の分野の話。
人間の能力は、ひとつの領域から次の領域へと「転用」がきくわけではない。このことを肝に命じておく必要がある。
ただ注意が必要なのは、若い時にはその領域を知ることは難しいということだ。
「これが自分の能力の輪だ」と思って行動しても、実際にはまったくうまくいかない時もあれば、逆に自分の予想をしないところで「能力の輪」を発見することもあるかもしれない。だからこそ若い時には、さまざまな分野の勉強をし、チャレンジをするべきだろう。
しかし、ある程度の年齢になれば自分の能力の輪を認識することができるようになる。「自分がやりたいこと」と「自分にできること」の違いが明確になる時期が訪れるはずである。
その時にようやく「能力の輪」をちゃんと守ることが肝要だということがわかるだろう。
まとめ
今回の投稿では、本書の中でも最重要と思われる「能力の輪」という点にしぼってレビューをお届けした。この「能力の輪」という概念を頭に入れて読み進めるだけでも、かなりわかりやすく読み解くことができるかと思う。
もちろん、本書ではこれ以外にも非常に面白く、かつ具体的な”よい人生を送るための秘訣”が数多く紹介されている。
たとえば
・分からないことは「分からない」と答えてよい。自分が考えるべきテーマを見定めよ。意見がないのは知能の低さの現れではなく、知性の現れである。
・信念をつらぬくこと。妥協できない自分の主義を選び出すことは重要だ。だが、それはときに他人を失望させたり、落胆させたりするかもしれない。その覚悟を持つべし。
・達成困難な目標を立てている人は人生に不満を感じるものだ。
・大事なのは、少しでも早くどこかにたどり着くことではない。自分がどこに向かっているかをきちんと把握しておくことだ。
などなど・・・。
シンプルながらも、非常に含蓄のある言葉が並んでいる。
私たちが生きる世界は不透明で、なおかつ不確実であり、まさに一寸先は闇である。
この複雑な世界を自分の直感だけに頼って生きることができる人はほとんどいない。しかし、たとえば本書のような先人の知恵を取り入れていくことで、私たちは時代の英知を自分の人生に取り入れながら生きることができる。
それは直感に任せた生き方よりも、はるかに”よりよい人生”を生きる可能性を高めることができるだろう。
というわけで今回ご紹介した本はこちら。
ロルフ・ドベリ著「Think Clearly」でした。
今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m
※ロルフ・ドベリの最新作「New Diet ー情報があふれる世界でよりよく生きる方法ー」については、別記事で取り上げました。これもかなり面白いのでよろしければ、こちらもどうぞ!
人は誰でも悪魔になる。藤井聡著「”凡庸”という悪魔」。
「全体主義」
この言葉にどのようなイメージを持つだろうか?
「全体主義最高!」「全体主義って恰好良いよね!」・・・こんなイメージを持つ人はほぼいないだろう。
逆にほとんどの人が「なんか恐い・・・」「野蛮」そんなイメージを持っているのではないだろうか。
実際歴史を振り返ると全体主義にはそのような悲劇が伴っている。たとえばユダヤ人の民族浄化を行おうとしたナチス・ドイツ。あるいは、旧ソ連のスターリンによる粛清や、中国の文化大革命を思い起こす人もいるかもしれない。
誰もが何かしら悪いイメージを持っている全体主義。その一方で、誰もがこうも思っているはずだ。
「昔のことでしょ? 私たちには関係ないでしょ。」
と。
しかし、本当にそうだろうか?
実は今ほど全体主義に染まる危機が高まっている時代はないと言って良い。
後述するように、全体主義とは何か特別な思想を持つものではない。全体主義とは言わば
"とにかく全体の空気に従えば間違いない"
と、全体の流れに盲目的に従う現象を指す。
したがって、現在ような先を見通しづらい時代や、複雑性の時代にこそ全体主義は力を持ちやすくなる。なぜなら、自分で考え抜き、答えを出していくことが困難なため「皆んなの動きに合わせておけば、とりあえず大丈夫だろう」という安易な選択を行いやすいからだ。
これからますます混迷を極める社会の中で、”全体主義の誘惑”に駆られないためにも、今こそ全体主義への理解が必要になる。
全体主義への理解を深めると言えば、20世紀の哲学者ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」は避けることのできない名著だ。ただ、この本は難解でボリューム感もかなり大きい。
そこで今回はアーレントの著書を元に、全体主義の特徴や原因、そして全体主義が今の私たちの生活に与えている影響をわかりやすく解説した、こちらの本を紹介したい。
藤井聡 著「凡庸という悪魔」 だ。
全体主義の恐ろしさ「エルサレムのアイヒマン」
「全体主義=ナチス・ドイツ」というようなイメージが定着しているせいで、多くの人はとんでもない悪魔のような人間が人々を騙して、あのような非道なことをやってのけたと思っているのではないだろうか。
しかし、実はそうではない。
むしろ著者や(この本の底本となっている)ハンナ・アーレントは「凡庸な人間こそが悪魔になりうるのだ」と述べている。
ハンナ・アーレントは「エルサレムのアイヒマン」という著書で一つ例を紹介している。
かつてナチスドイツがユダヤ人の虐殺を実行した時に、強制収容所でのユダヤ人の管理を取り仕切っていたアドルフ・アイヒマンという人物がいた。
ナチスが滅びた時に辛くも逃げ延びたが、その後逮捕され国際軍事法廷で裁かれた。
それだけ聞くと恐らく「よほど凶悪な人間だったのだろう」と思うだろう。しかし、傍聴者の記録によれば、彼はどこにでもいそうな、冴えない、凡庸な人物だった。ただ、組織に入ることを好むタイプであり、出世欲はかなり強かった。
その彼が裁判の際に、つぎのようなことを述べている。
「自分は義務を行った。命令に従っただけでなく、法にも従った。」
「私はユダヤ人であれ、非ユダヤ人であれ、一人も殺していない。」
「ただユダヤ人の絶滅に協力し幇助しただけだ。」
と。
そして、法律には例外があってはならないという”順法精神”に基づいて、彼はユダヤ人虐殺を遂行したのであり、何も”間違ったこと”はしていないと主張したのだ。
つまりアイヒマンは「法に従う」という法治国家として当然のことをしただけであって、自分が悪を行ったとはこれっぽっちも思っていなかったのだ。
悪を悪だと思って行動しているのではない。自分は組織に命じられ、世間でもそれが正しいと信じられている。その”全体としての空気”に従って行動しただけなのだ。
ただ真面目で、組織にしたがって行動した結果、悪魔のような所業を平気で行う。なぜなら「それがみんなが (全体が) 望んだことだから」だ。
全体主義の恐ろしさとはここにある。
何か恐ろしい思想を持った悪魔のような人物が社会を悪い方向に導くのではない。全体の空気を読んで行動することに慣れてしまった人間、自分で考えることを放棄した人間が多数者になった時、その社会の構成員がすべて悪魔に変貌するのである。
凡庸な人こそ悪魔になる
では、なぜアイヒマンのような人間が生まれるのか。その原因について著者は次のように述べる。
「”思考停止”が”凡庸”な人々を生み出し、巨大な悪魔”全体主義”を生む。」
と。
「凡庸」と言うと「平凡」と混同する人もいるだろう。たしかに字面はよく似ているが意味合いは違う。
たとえば「平凡な暮らし」と言えば、穏やかなで平穏な暮らしが思い浮かべられる。しかし、「凡庸な暮らし」と言えば陳腐で何も良いことのない暮らしといった意味合いになる。
著者がタイトルに込めた「凡庸」とは、自ら考えることを止めた”思考停止状態”の陳腐な人間性のことだ。
したがって、先程の「”思考停止”が”凡庸”な人々を生み出し、巨大な悪魔”全体主義”を生む。」という言葉の意味をより詳しく言うと、
「自分で考えることを放棄した凡庸な人々が、”これが正しい”という世論にしたがって行動した結果、巨大な悪行を平気で行うようになる。」
ということだ。
だが、これだけではなぜ凡庸な人間が全体主義を生むのか?というメカニズムはわかりにくいと思う。
この場で「全体主義の全容」を語ることは紙幅の都合でできないので、興味がある人はぜひ本書を手にとって欲しい。
ただ、それを理解する上でひとつ参考になる考え方が、アーレントのいう「全体主義とは運動である」ということだ。
全体主義とは台風である
「全体主義とは運動である。」
一見わかりづらい表現だが、「台風」のようなものを考えるとわかりやすい。
台風とはそれ自体が何か目的を持って動いているわけではない。周りの気圧や地形の状況という物理的な条件に合わせて動いているだけだ。そしてその中心 (台風の目) には何も存在しない。ただ、極端に気圧が落ちた空間があり、その周りに雲が集まっているだけである。
実は全体主義もこれと同じ構造なのだ。
全体主義に関しても、ナチスドイツにおける「ヒトラー内閣」のような中心部を確認することができる。しかし、そこには何か特別な思想があるわけではない。ただ、権力欲という強力な欲望が渦巻いている。
この欲望は中枢の外部に存在する”大衆”が持つ、経済的不安、将来への不安、格差への怒りといった膨大なエネルギーを吸収し、より大きく、より強大に成長する。
そして、大衆の持つエネルギーを吸収するためには、中心部は活発な運動を展開しなければならない。何も活動していない組織には誰も興味を示さないからだ。
だが、一旦エネルギーの吸収を始めれば、その運動を止めることは難しくなる。台風が雲を取り込んだ分だけ大きくなるように、大衆エネルギーを吸収すれば、それを維持するためにより大きな組織が必要となる。
そして大きな組織はさらに大きなエネルギーを必要とするのだ。
権力を欲した中枢が悪いのか。
強力な中枢を欲した大衆が悪いのか。
どちらが先かは分からない。
しかし、ただひとつ言えるのは、台風は強くなればなるほど莫大なエネルギーを必要とし、また吸収される方も台風の強さを求めてエネルギーを提供するのだから、台風の活動が止まってしまったら組織も大衆もどちらもが崩壊してしまうということ。
つまり、全体主義は一度動きだしてしまえば止めることは不可能なのだ。仮に何かの間違いが見つかったとしても、それで動きを止めることはできない。運動をやめることは自己の崩壊に直結する。
これこそが全体主義の恐ろしさである。
一旦動き出したら最後。誰にも止めることはできないのだ。
全体主義の台頭を防ぐために
では、このような恐ろしい全体主義運動を防ぐためにはどうすれば良いのか。
その答えは「全体主義とは運動である」というアーレントの分析にヒントがある。
運動は一旦発生すれば止めることが難しい。だから一番大事なのは「運動を発生させない」ことである。
どうすれば運動の発生自体を止められるか?
アーレントが重要視したのが「複数性」である。
これはアーレントの言葉だが、「自分とは異なる、さまざまな立場や考え方を持つ他者との関係性を大切にすることで、初めて人は人間らしさを持つ。それは個々人を結びつける絆でもあり、それぞれの適切な距離を保つための知恵でもある」という意味だ。
このような複数性を排除し、一つの単純化された価値観以外の思考をやめること、これこそが陳腐な人間 (藤井氏の言う”凡庸な人間”)を生む。そして、陳腐な人間こそが容易に全体主義へと収斂されていくのである。
逆に言えば、私たち一人ひとりが他者の視点を意識しながら、物事をしっかり考え判断することを怠らなければ、全体主義という運動を未然に防ぐことができるということだ。
まとめ
冒頭にも書いたように現在ほど全体主義の危険が高まっている時代は少ないと思う。
なぜなら世界のあらゆる所で政治的な不安定性が増し、経済格差の拡大による社会不安がかつてないほど高まっているからだ。今回のコロナ禍でそれがさらに加速してしまった感が強い。
このような時代では、「他者の視点を考慮しながら、熟慮を重ね、慎重な判断をする」ということが困難になる。
そもそも異なる意見を聞き入れるというのは非常に難しい。インターネットでさまざまな意見を「見る」ことはできるが、実際に聞き入れ、それを自分の考えにも反映させるというのは並大抵の努力ではできない。
ほとんど人が「周りの意見を聞いている」つもりでも、実際には自分と同じような意見、あるいは深く考えなくてもわかったような気になれるわかりやすい意見に飛びつきやすくなってしまう。つまり全体主義に陥る下地は十分出来上がってしまっているのが現状だ。
ネットやスマホの普及で「効率」「時間」「スピード」がことさらに重視されるこの時代。
多くの人の立場や視点を考慮し、辛抱強く考え抜き、少しずつ歩んでいくという時代に逆行するアプローチをどれだけの人が可能なのか。
全体主義による悲劇を繰り返さないために、私たちに課された課題はあまりにも大きい。
という訳で、今回ご紹介したのはこちら
藤井聡著「凡庸という悪魔」でした。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m
人生を長く生きる”良い生き方”。セネカ著「生の短さについて」
人生は短い。
しかし、人が生きた時間的な長さが必ずしも人生の価値を決めるわけではない。もし「人生の長さ=人生の価値」ならば、平均寿命が80歳を超える現代人の人生は過去のどんな優れた人間の人生よりも価値があるものとなる。
人生の価値が時間の長さで決まるものではないことは誰もが分かっていることだ。たとえ短くとも、太く、充実した人生を送ることはできる。
では、どう生きれば価値のある人生が送れるのだろうか。
誰もが抱くこの問いに答えてくれる名著こそが、今回ご紹介するこちらの本
セネカ著「生の短さについて」
だ。
人生は短いとはよく言われることだが、セネカによれば“我々が所有する時間が短いのではなく、実はその多くを浪費しているのだ”。
人生は十分に長く、それが有効に使われるのであれば、もっとも偉大なことをなすことが十分可能だ。しかし、それを浪費してしまえば、人生の最期にあたり「今まで消え去っているとは思わなかった人生が、もはや既に過ぎ去ってしまっている」ことに否応なしに気付かされる。気づいた時にはもう遅い。
“我々は授かっている人生が短いのではない。我々がそれを短くしている”のだ。
現代人は多忙だというが本当にそうだろうか?
“忙しい”、“時間がない”のは確かにその通りだろう。だがそれが本当に自分が望んだ時間の使い方なのだろうか。
「誰かに言われたから仕方なく。」
「立場上断れない。」
「周りの人たちについていくために必要だから。」
そんな理由で自分の時間を他人に吸い取られている人がいかに多いことか。
セネカはそのような多忙な人は惨めであるという。
“誰彼問わず、およそ多忙の人の状態は惨めであるが、なかんずく最も惨めな者といえば、自分自身の幼児でもないことに苦労したり、他人の眠りに合わせて眠ったり、他人の歩調に合わせて歩き回ったり、何よりも一番自由であるべき愛と憎しみとを命令されて行う者たちである。彼らが自分自身の人生のいかに短いかを知ろうと思うならば、自分だけの生活がいかに小さな部分でしかないかを考えさせるが良い。”
自分が多忙だと思っている人は、「自分の意思で、自分のために使っている時間がどれだけあるのか」について思いを馳せてみよう。
家庭を持っている社会人であれば、1日1時間確保できれば幸せな方ではないだろうか。
そう考えれば、自分に残されている時間があまりにも短いことを誰もが思い至るのではないか。
もちろん「人生が短いことが分かっているから、できるだけ多くのことを吸収できるように、自己研鑽に励んでいる」という人も多いだろう。
寸暇を惜しまず勉強したり、セミナーに通ったり、あるいはちょっとした空き時間にYoutubeで検索している人もいる。そのような人たちは自らを“時間を有意義に使っている者であり、浪費などしていない”と信じているに違いない。
だが、セネカによれば、それすらも時間の浪費に過ぎない。
セネカは言う。
「ところがその間に、諸君が誰かに、もしくは何かに与えている一日は、諸君の最期の日になるかもしれないのだ。諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。では、お尋ねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画通りにことが運ぶのを一体誰が許してくれるのか。
(中略)
誓って言うが、諸君の人生は、たとえ千年以上続いたとしても、極めて短いものに縮められるであろう。」
将来という不確定な時間のために、今まさに手元にある時間という財産を使う。それこそが浪費である。
たとえば昨今は子供の教育にプログラミングが必要だと言われている。
だが、はっきり言って今頃プログラミングを学んでももう遅い。
プログラミング教育が必要だった時期があるとすれば、いま20代か30代の人間だろう。今の子供が10年後、20年後の社会に出る頃には、AIがプログラミングを行う時代になっている。
たしかに超最先端のプログラミングに関わる人物はいるだろう。しかし、それは世界でもごくごく一部の超エリートだけであり、一般人にプログラミングが必要な時代はとっくに終わっているだろう。
そんな不確実な将来のために、かけがえのない幼少期の時間を無駄に費やそうとしているのがいまの日本という国だ。
では、いかにすれば人は実り豊かな人生を送ることができるのだろうか?
セネカの答えはシンプルだ。
「古典を読むこと」。
古典に触れ、古代の哲人たちと語り合うこと。
これだけだ。
セネカの意図を理解するためにはセネカが「時」をどのように考えていたのかを整理する必要がある。
セネカは時を次の3つに分けている。現在、過去、未来だ。
このうち現在は今まさに目の前を通り過ぎており、つかむことが決してできない。
未来は不確実であり、これもつかむことができない。
よって唯一われわれが確実につかむことができるのは過去のみだ。
この世のあらゆる時の中で過去のみが唯一確実なものなのである。
古典とはこの過去の結晶なのだ。
もちろん時代的に古いものがすべて「古典」というわけではない。
長い歴史の中で読みつがれ、評価され、今もなおその価値を失わないもの。
時代を超えて私たちの価値観に影響を与え続けるちからを備えたもの、それが古典だ。
時の流れとともに時代は変わりゆく。しかし、人間の本質や、人間が直面する問題は変わらない。古典とは、過去の天才たちがそれらの問題に徹底的に向き合い、戦ってきた記録なのだ。
実際、歴史に名を残すような人物は、ほぼ間違いなく古典に精通している。2021年の大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公、渋沢栄一も論語に精通し「人が生きるために必要なものはすべて論語に収められている」と言っている。
人生に悩む人達に向けた自己啓発セミナーは昔からあるが、昨今はネットの発達により、雨後の竹の子のように「自己啓発コンテンツ」が配信されている。
高いお金を払って有料コンテンツを観ても
「今日の講師は悪かった」
「期待していた内容と違った」
「これだったら○○さんの無料動画の方がマシ」
などと言った不満が募ることが非常に多い。
セネカの言葉を借りれば、そんなあやふやな物に費やす時間は無駄である。その時間があるのなら古典を読めば良い。古典の中に答えはあるのだ。
ページ数が40ページと文量自体は少ない。特に速読などを会得していない人でも、集中して読めば30分程度で読めてしまう。
だが、その内容は深い。
何度読んでも、その度に新しい発見がある。これぞ古典の魅力だろう。
セネカは短い人生を実りあるものにしたいのならば、古典を読み、古代の英知と語らうことを強く推奨しているが、まさにこの本こそがそのような”古典”のひとつだと言える。
という訳で今回ご紹介したのはこちら。
セネカ著「生の短さについて」でした。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m
天才ドラマー"村上ポンタ秀一"死す。天才が生きられる社会の条件とは?
今週、音楽業界を揺るがす報せが飛び込んで来た。
日本の音楽シーンの立役者の一人と言っても過言ではないドラマー、村上ポンタ秀一氏が逝去された。
私は音楽業界に身を置く立場だが、基本的にこのブログでは音楽業界のことは書かないことにしている。理由は身バレするのが恐いからだ(笑)。
下手に口が滑って身バレすると仕事ができなくなる可能性がある。
だが、今回は特別だ。
なぜか?
村上ポンタ秀一の訃報に接し、その非凡な存在について考えたことで、「このような”天才”は日本では二度と生まれないのではないか」という危惧を感じたから。
今回は村上氏が人となりを紹介しつつ、「天才」が生きていく社会的条件について考えてみたい。
ドラマー村上ポンタ秀一
村上ポンタ秀一。通称ポンタ。
尊敬の念を込めてあえて言おう。
ふざけた名前である(笑)。
恐らく音楽に特に詳しくない一般の方は、村上氏のことなどほとんど知らないだろう。
しかし、日本に住んでいて彼のドラムを聴いたことがない人は恐らく一人もいないはずだ。
彼が演奏した曲が、一日のうちに必ず一曲は日本のどこかでかかっていると言っても良いほどとてつもない曲に参加しているからだ。
有名どころだけ挙げても、キャンディーズ、山下達郎、坂本龍一、福山雅治、ゴールデンボンバー、あるいは宇宙戦艦ヤマト(宇宙戦艦ヤマトのテーマ)……無理だ。とても書ききれない・・・。
彼は昭和〜平成を代表する数多くのアーティストのバックで演奏を務め、その参加曲は1万4千曲を超える。これも数えることができる範囲であるため、恐らく実際には2万を優に超えるだろう。当然音楽業界でもその影響力は絶大だ。
音楽業界で彼のことを知らない人は一人もいないし、特にドラム業界においては神格化された存在だと言っていい。
ドラム界の神。
生きる伝説。
それが村上ポンタ秀一である。
人柄はめちゃくちゃ。音楽は神。
私は一度村上氏に会ったことがある。
20年ほど前の学生時代だ。
とある地方のドラムクリニック (今で言うセミナーみたいなもの) に講師として参加されていたのだが、開口一番
「そもそもこんなクリニックに来てる奴は駄目なんだよ」
という身も蓋もない言葉を言い放ったのが衝撃だった。
今だったら大炎上、クレームの嵐。業界から叩き出されるだろう。
正直なところ、人格としては相当無茶苦茶な人物だったことは間違いない。
現在だったら間違いなく業界から追放されていたであろう数々の破天荒な逸話を残している。興味がある人はググって欲しい。いくらでも出てくるだろう。
それらがどこまで本当かは分からないが、見た瞬間に「この人ならやりそうだ・・・」と思わせる凄みがあった。
「確実にカタギの人間じゃない」。
直感的にそう思わせる鋭さがあった。
ただ、もっと凄かったのはそのプレイだ。
上手い!のではない。”凄い”のだ。
いや、もっと言えば”凄まじい”プレイだった。
昨今は日本人でも本当に上手いドラマーは数多くいる。しかし、彼のような凄まじいプレイをする人間を私は他に知らない。
テクニックではなく魂でプレイしているような。そして、その魂で聴く人の魂をぶん殴るような圧倒的な存在感があった。
その上、音がとんでもなく美しい。
なぜあんなメチャクチャな人物からこんなに綺麗な、透き通った音が生まれるのか全く理解できないほど、一度聴いたら忘れることができない美しい音を紡ぎ出す人だった。
当時、若かった私は
「素晴らしい音楽を作れる人は人格的にも素晴らしい人に違いない」
と無邪気に信じていた。
だから、こんなメチャクチャな人間からなぜこんな素晴らしい音楽が生まれてくるのか全く理解できなかった。
今なら少しだけその理由が分かる。
人格が素晴らしいから素晴らしい音楽を作れるのではない。
音楽以外のすべてを切り捨て、すべてを捧げられるほど音楽を愛しているからこそ素晴らしい音楽が生み出せるのである。
そこに人格などというちっぽけな器は全く関係ないのだ。
それは過去の優れた芸術家が体現している。
これは音楽だけではなく、あらゆる芸術に当てはまる。
作品と人間性は正比例しない。むしろほとんどの場合が反比例するのではないか。
そして、これこそが私が「これからの日本に、このような天才は二度と現れないのではないか」と危惧している理由だ。
いわゆる”多様性”への疑問
昨今は「個性が大事だ」「多様性が重要」「ダイバーシティが・・・」などというのが当たり前になっている。少なくとも”それが正しい”ことだと言われている。
しかし、正直に言えば私はかなり胡散臭いものを感じている。
なぜならそういうことを言う人間に限って「多様性なんか認めない。多様性なんかクソ喰らえ!」という多様性は認めないからである。
多様な価値観や生き方を受け入れることは大事だ。そんなことは当たり前である。
しかし、それを「多様性を受け入れることは、人類普遍の真理なのだから従え。従わないやつは人間のクズだ。」と押し付けるのは間違っていると思う。
本当に多様性を認めるならば、「多様性を認めない」という考え方にさえも正面から向き合い、議論を重ねなければいけないはずだ。
翻って現在の日本はどうだろうか。
表では誰もが多様性が大事だと言う。個性が大事だ、自由が大事だ、と。
しかし、その一方で現下のコロナ禍では”マスクをしない自由”は認められない。
それどころか
”マスクが本当に効果があるのか?”
”緊急事態宣言は本当に効果があるのか?”
と言った疑問を呈することすら憚られる空気が確実に存在するではないか。
もし、今の日本に村上ポンタ秀一が生まれ落ちたらどうなるだろう。
マスクをして、社会的距離を保って、ルールを守る。それができなければ業界から爪弾きにされる。
そんな息の詰まる環境から"あの美しいポンタのサウンド"が果たして生まれるだろうか?
天才は迷惑だ
昨今は天才のことを有り難がる風潮が強い。
赤ん坊は生まれた時から誰もが天才、などという輩がいる始末だ。
しかし、実際には天才ほどはた迷惑な存在はいない。
普通私たちが天才というとき、それは芸術や技術の分野で優れた才能を発揮する人のことを指す。
しかし、真の天才とは私たちが生きる社会のパラダイムを根底から揺るがすような、地殻変動を起こすほどの独創性を持つ才能のことだ。
たとえば日本が産んだ天才芸術家である岡本太郎。
彼もその功績が世界で認められたからこそ後年社会で受け入れられた。
しかし、あの人が自分の身内だったらこれ以上迷惑なことはないだろう。
だがその岡本太郎にしか表現できない何かがあり、それが世界を変えた。そして彼の作品や言葉は今でも多くの影響を与え続けている。
これが天才がなのだ。「天が与えた才能=天才」なのである。
凡人にとって天才ほど迷惑な存在はいない。
だが、そのような天才がいるからこそ、世界は実り豊かなものになり美しく輝くのだ。
J.S.ミルの「天才を生む社会条件」
19世紀イギリスで活躍したジョン・スチュアート・ミルという哲学者、経済学者がいる。
「最大多数の最大幸福」という言葉で知られる功利主義者として記憶にある人もいるだろう。
かれがその著書「自由論」の中で”天才”について語っている箇所がある。
「天才はごく少数しかおらず、そして、常に少数のままだろう。しかし、天才が現れるためには、天才が育つ土壌を保持しておかなければならない。天才は、自由という雰囲気の中でしか自由に呼吸できないのだ。」
天才は天才として生まれる。
しかし、天才が天才として生きていくらためには、それを受け入れる懐の深い社会が必要だ。
どれだけ巨大な才能が生まれたとしても、社会がそれを受け入れることができなければまともに生きていくことはできない。
現代の日本は果たしてその懐の深さを持っているだろうか・・・。
私は村上ポンタ秀一氏自体は、はっきり言って嫌いだった。インタビューなどを見ても気に食わない発言ばかりだ。
だがその音楽は本当に素晴らしかった。
彼がいたからこそ生まれた音楽や感動が数多くあるのは間違いない。
彼の偉大な功績を偲ぶとともに安らかな眠りを祈りたい。
今回も最後まで長文をお読み頂きありがとうございます😊
"人は成長する"という物語を捨て去ることができますか?斎藤幸平著「人新生の資本論」
私は基本的に流行り物に飛びつかないようにしています。本でも同じです。
流行っている物がすなわち良い物とは限らないと思いますし、「流行ってるから読んでみようって恥ずかしくない?」という、ある意味”中二病”的な心理も働いていることは否定できません(笑)。
そんな私が流行りに乗っかって読んだ本がこちらです。
斎藤幸平 著「人新生の資本論」。
・・・遅っっっ!
遅いよ!
今頃読んでるの??
という鋭いツッコミが聞こえてきそうです。
書店でもベストセラーとして並べられ、メディアでもかなり取り上げられており、ご存知の方は多い本書。そのせいかネット上でも多くの書評が展開されているのが散見されます。
ただ、率直に言ってどれも似たような書評ばかりで、本書の最大の魅力に迫っているものがほとんどないと感じています。
私はこの本は本当に面白いし、読む価値が高いと思います。だからこそ、よくある要約文を一読して分かった気になっているのは非常にもったいない。
本書がこれから先も社会において重要な位置を占めるであろう魅力をご紹介したいと思います。
- この本の”表のテーマ”と”裏のテーマ”
- 気候変動の原因は資本主義にある
- ”いわゆるマルクス思想”の限界
- 晩年のマルクスが志向した”協同体社会”という思想
- 脱成長という新たなパラダイムに向けた課題
- 本書が投げかける重要な問題
この本の”表のテーマ”と”裏のテーマ”
この本のテーマは二つある。
ひとつは「気候変動が激しさを増す中、私たち人類はどのような社会を目指すべきか」。
そしてもう一つは「悪名高いマルクス主義に新たな意義を与えること」。
この2点だ。
この本の書評を見ると、ほとんどが一つめの気候変動への対策に関してについてのみ語られている。
しかし、私は実は二つめのマルクス主義の問い直しこそが著者がもっとも表現したかったことではないかと思う。
気候変動の原因は資本主義にある
ではまずは、”表のテーマ”である気候変動と私たちの社会に関する部分から見ていこう。
この点に関する本書の論旨は明快だ。
それは「現在の資本主義システムのもとでは、どのような努力をしようとも気候変動を食い止めることはできない。気候変動から私たちの未来を守るためには、”成長”を基盤とした資本主義を乗り越え、脱成長型の新しい社会モデルを作り上げなければならない」というものだ。
たとえば昨今話題となっている
「SDGs(持続可能な開発目標)」
「グリーン・ニューディール(技術革新による環境保護と経済成長の両立)」
という言葉を聞いたことがある人も多いだろう。
だが、そのどれもが経済成長を前提とした資本主義的発想に基づくものである。
資本主義とは、あらゆる物を商品として取り込み、利益を最大化する活動のことだ。そこでは、人が生産したモノだけではなく、社会インフラ、水や食料、さらに生活の安全を守る活動まで、すべてが「商品」となる。
だからこそ、資本主義は歴史的に自然の略奪、人間の搾取、巨大な不平等と欠乏を生み出してきた。
だからこそ地球温暖化という未曽有の気候変動から生き残るためには、その資本主義を乗り越えなければ根本的解決にならない。
では、どのように資本主義を乗り越えるのか?
その先にあるパラダイムとは何か?
そのヒントとなるのが資本論の著者として有名なカール・マルクスの思想にあるという。
そして、ここからマルクスの研究者として名を馳せる著者の本領が発揮される。
”いわゆるマルクス思想”の限界
マルクスといえば、一般的に共産主義という思想を編み出した思想家として知られる。
共産主義をものすごくザックリ説明すると、次のようになる。
すなわち、資本主義社会では一部の金持ちが富を独占する。そこでは労働者は虐げられ、経済的、社会的にあらゆる格差が拡大する。
それを打破するためには、労働者が団結し、資本家に対して革命を起こさなければならない。
それによって労働者自身が治める平等な社会を作り上げられる。
このように社会が進歩していくのが歴史の必然であるのだ!
という思想だ。
これが20世紀に世界中で支持され、資本主義を打ち倒す共産主義革命を引き起こした。
しかし、このようなマルクス思想は現在多くの研究者によって否定されつつあるという。
著者によれば、確かにマルクスは若い頃この”いわゆるマルクス思想”に深く傾倒していた。しかし、主著「資本論」以降、このような「労働者革命による平等社会の構築」という物語に限界を感じていた。
仮に一時的に労働者が資本家を打倒し、社会の資産を平等に分け合ったとしよう。
だが、「投資によって物の生産と利潤の拡大を行う」という現在の経済モデルのままでは、結局労働者が新たな資本家になるだけで世界は変わらない。
つまり、今の支配者が新しい支配者に変わるだけだというのだ。
その問題の本質を晩年のマルクスははっきりと認識していた。
晩年のマルクスが志向した”協同体社会”という思想
では、晩年のマルクスはどのような社会構想を描いていたのか?
それが自然環境やエネルギー、食糧など生活に不可欠な資産を市民が自分たちで共同管理する”協同体社会”だ。
もともと資本主義社会が利潤を生み出すことができるのは、自然環境やエネルギーなどの人類共通の資産を資本家が独占し、希少価値を高めることに由来している。
たとえば「水」という商品を考えてみよう。
水が商品として成立するには、その水が希少価値を持っていなければならない。
誰もが自由に、好きな時に、きれいな水を飲むことができるのであれば商売は成り立たない。
逆に言えば、「水にアクセスできる権利」が制限され、一部の人間が独占できるからこそ、その水に商品価値が生まれるのである。
そして、商品価値が生まれれば、必ずその価値を高めようとする活動が生じる。それが資本主義だ。
そうであれば資本主義を乗り越えるには、この水へのアクセス権を広くみんなで共有すれば良い。共有資産である水を市民で管理・運営し、誰でも使用できるようにする。これがマルクスが志向した「協同体社会」である。
”独占による利益の発生”を防ぐことで、資本主義による社会の不平等を乗り越えることができる。
脱成長という新たなパラダイムに向けた課題
ただ、一つ問題がある。
それはこの協同体社会では基本的に”経済成長が見込めない”という点だ。
経済が成長するためには投資が必要である。投資によって生産効率を上げることで利潤を増やすのだから当然だ。
しかし、共同管理によって利潤の増加を求めないのであれば、利潤を増やすための投資は極めて小規模になるだろう。
社会インフラや自然環境の整備など、必要最低限の投資に留まることになる。
そうすれば”経済成長がゼロ”とまではいかないまでも、現在のような経済成長は見込めなくなってしまう
しかし、この事実を受け入れなければ、この協同体社会による資本主義の超克は不可能だ。
著者はこの問題点を指摘した上で、「だが、やらなければならない」と言う。そうでなければ気候変動によって人類が滅びてしまうからだ。
これは経済成長を否定しようというのではない。
経済成長を追い求めるという現在の枠組みを超えて、”脱成長”という次の新しいパラダイムを構築しなければ人類に未来はない。
これが著者の結論である。
本書が投げかける重要な問題
我々は確かに資本主義的経済モデルのもたらす大きな問題に直面している。
この本のテーマでもある地球温暖化問題もその一つだろう。
それを脱成長コミュニズムという新しいモデルによって乗り越えようとする著者の提案は興味深い。
しかし、残念ながら私はここに大きな違和感を感じている。
それは「脱成長によって資本主義を乗り越える」という考え方自体がすでに資本主義と同じ価値観に基づいているという点だ。
資本主義といえばお金儲けのことだと思っている人も多いかもしれない。
そうではない。
資本主義とは「資本(お金や労力や技術)を投資して、より大きな利潤を生み出そうとする活動」のことだ。
その根幹には「人は成長していく」という進歩主義的価値観がある。
これは当然だ。どれだけ投資しても生産効率が上がらないのであれば、投資の意味がない。
それは経済活動に限った話ではない。私たち自身もまた成長できると信じているから、自己投資を行うのである。
つまり、現代社会はすべて”人は困難を乗り越え、成長し、進歩する”という進歩主義を前提としているということだ。
さらに皮肉なことに、困難は乗り越えることができるのならば、”より早く”、”より効率的に”困難を乗り越える道を探すのが人間の性だ。
「この困難な状況をもっと深く、ゆっくり味わいたい。もっとつらい思いをしたい。」という人はまれだろう。
資本主義がここまで発展してきた原因もここにある。
その根幹にある「コストを最小化し、効率的に、早く、利益を最大化する」という考え方は、私たち自身の進歩主義的信念に合致しているのだ。
これこそが資本主義の超克を阻む最大の壁である。
この点を著者は見落としているのではないか。
著者が言うように、資本主義は”成長”を前提とした社会パラダイムである。
そうであるなら、我々が真に資本主義を超克するためには「困難は乗り越えることができない。」「人は成長しない。」という事実を受け入れる強さを持つしかないのではないか。
それは生き方や哲学としては非常に潔く、美しい。東洋的な悟りの境地とも言える。
果たしてそのような生き方や社会を現代人が受け入れることができるだろうか。
私は本書はある意味で非常に大きなテーマを投げかけていると思う。
それは「"人は成長するという物語"から逃れられるのか」というテーマだ。
これは私たちの生き方や世界の捉え方すら揺るがしかねない、とてつもなく大きな問題である。
人が成長するという物語が成立するためには、未来という概念が存在しなければならない。
未来がなければ成長などないのだから当然だ。
しかし、実は歴史上の大部分で人類は現在のような「未来」という概念を持っていなかった。近代社会以前は時代の流れが非常に緩やかだったため、"未だ来ない時間"を思う必要などなかったのだ。
現代人は、過去の近代以前の人々が考えもしなかった、過去から現在へ流れ、未来へ繋がっていくという時間の流れを前提とした世界に生きている。
現在は未来へつながっていく一本の道でつながっているという神話の中で私達は生きている。
その神話を信じているからこそ、現代の私たちは今直面している苦しみを耐えることができるのである。
著者の言うような脱成長型社会とは、そのような神話を根本から揺るがそうという試みに他ならないのだが、著者はそこまで理解した上で主張しているのだろうか?
これが現実的に可能なことかどうかは、ここで述べるつもりはない。あまりにも巨大過ぎるテーマであり、結論が出せるような人間は誰一人いないだろう。
しかし、これこそ我々が正面から向き合うべき課題ではないかと思う。
現代人は”日々成長しなければならない”という無言の圧力に苦しめられている。
その原因のひとつが我々を支配する成長神話だ。
この成長神話が本当に私たちを幸せにする神話なのか。
それとも資本主義が私達から利潤を搾り取ろうとするために作られた都合のよい物語なのか。
それを考える上でも非常に参考になる書籍であるのは間違いないだろう。
というわけで今回はこちらの本のご紹介でした。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m